March 5th, 2017

3月1日の聖書観想

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主のみ心がおひとりおひとりにやどりますように。

2月26日(日) マタイ17:1-9
主の変容の様子をいまいちど読んでいかがだろうか? 最初に「六日の後」と書いてあるが、六日前になにがおこったのか? マタイ16章の最後を読んでいただくとわかるが、イエスがご自分の死と復活を予告された。 そして与えられた福音書箇所の最後でも「人の子が死者の中から復活するまで今見たことを話さないように」とイエスは言われている。 主の変容、光輝かしき姿の前後が、受難・死そして復活の予告でサンドイッチされていることを興味深く思うのは、私だけだろうか? とくにこの四旬節(受難節)のはじまりにこの箇所を読む意味は深いと感じる。

3月1日(水) マタイ6:1-6, 16-21
灰の水曜日の福音書箇所を読んでおきたい。先週の土曜の家庭集会では、第二次世界大戦中にユダヤ人に命のビザを発行した杉原千畝さんのことを学んだ。 杉原氏は生前には「自分のしたことは新聞などで報道されるようなことではない。」と言われていたようだ。 杉原氏が洗礼を受けた東京復活大聖堂(ニコライ堂)の司祭はマタイ6章3節の言葉を引用して、杉原氏の信仰者としての生き様を語っていた。 杉原氏の行動を、あえて報道するとしたら、次のように報道すれば、杉原氏にも喜んでいただけたのではないだろうか。 「洗礼を受けた杉原氏に、三位一体の神が宿り、その神がユダヤ人への命のビザを発行した。」そして、その報道を知った人々が杉原氏ではなく神を褒め称える。  

3月5日(日) マタイ4:1-11
四旬節の第一主日は、例年、イエスの荒れ野での出来事について読まれる。 「悪魔から誘惑を受けるために、”霊”に導かれて荒れ野に行かれた。」とあるが、少々というか、かなり理解に苦しむ表現かもしれない。 しかし、比喩であり、私たち、神の創造された存在としてこの四旬節をどう過ごすかの大きな指針が示唆されていると思う。「悪魔からの誘惑」というのは、自分を神の思いとは逆の方向に仕向けるようなこと。 「”霊”に導かれて荒れ野に行く」という行為は、洗礼を受けたキリスト者として、キリストの思いが自分の心に宿ってくださっていることを確信し、自分自身を誘惑の中においても、神の思いに従った行動・言動をとれるように訓練する。 

3月2日(木) ヨナ3:1-10 
ヨナが神の思いから離れて自分勝手な行動をとっていた人々の都、ニネベに遣わされ、「四十日で都が滅びる。」という預言を語る。 すると、ニネベの人々は、断食して、悔い改め、神との関係を回復する。 断食という行為は、イスラム教でも、ユダヤ教でも、あるいは「物忌み」という言葉が日本語ではあるが、宗教の種類を問わず、神との関係を回復するための一方法なのだと思う。 極端な断食をすることは勧めないが、なんらかの断食・我慢などをする中で、神との関係を深め、また周囲の人々とも、良き関係を築くことができますように

困難を覚えている方々に、主の癒し、励み、愛が届きますように。日曜の礼拝に集う機会が与えられますように。

March 1st, 2017

2月22日 聖書観想

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み言葉を読み観想するなかで主の豊かな愛が注がれ、皆様の心に宿りますように。

2月19日(日) マタイ5:38-48
「あなたがたも完全な者となりなさい。」とイエスは言われる。どういうことだろう。 アメリカは新大統領に反対する人々と、大統領支持者で人種差別主義者であることを公言するような人々まで出てきている。このような時代にあって、イエスの言葉は意味が深い。天の神は、どちらの考えの方々であろうが、太陽を昇らせ、雨を降らせてくださっている。イエスさまは、互いのために祈りあいなさいとおっっしゃっているように聞こえてくる。

2月20日(月) ローマ 12:9-21
この聖書箇所、19日の福音書箇所にこだまするような内容だと感じる。現在のような社会状況にあって「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」という言葉、この世の中に鳴り響きますように。

2月26日(日) マタイ17:1-9
今年は3月1日が灰の水曜日となる。その前の日曜日は「主の変容主日」とも言われる。福音書箇所は主の変容の箇所。 ここで、イエスは12弟子の中でも、なぜペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて山に登られたのだろう? 結局、この3人は怖い体験をすることになる。光輝く雲が顕われたということは、風も吹いたのだろう、そして「これに聞け」という天の声を聞いている。 この三人の弟子たちに、決して自分がうぬぼれることなく、主イエス、聖霊、天の神なる存在を畏れ、その三位一体なる神を輝かせるような弟子になるように、そんな神の思いがあるように感じる。

2月24日(金) 出エジプト 19:9-21
週後半の旧約聖書は、木曜、金曜は出エジプトから。また聖日の日課も出エジプトから。どれも神がモーセに語りかけている。とくに19章で神が語りかけている内容は、雲に覆われたような怖いなかで、神が煙につつまれた山に降りてこられる。 その光景は、イエスの変容の際に、イエスが弟子たちと山に登り、光輝く雲に覆われる様子にも、つながっているように思う。。。怖いというと、2年半前の夏、御岳さんの噴火で煙・灰につつまれて大勢の方々が亡くなった痛ましい災害を思い出す。どんなにか怖い思いをされたことだろうか。。でも主がそこにいてくださったのではないかとも思いたい。いまも悲しんでおられる遺族、友人の方々も覚え祈りつつ。

February 16th, 2017

2月15日 聖書観想

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今週も与えられた聖書箇所を読み、思いを巡らせる中で、主の御心、思いが、皆様方の心の中に染み渡りますように。 

2月12日(日) マタイ5:21-37
先週は、聖書を文字通り読む事の怖さを観想として書いた。文字通り読み実際にその通り生きていたら、手を切り取る人が、あるいは目をえぐり出す人がいくらでも出てしまうだろう。ではどう読んだらよいのだうか?大きな視点は聖書全体が神からのラブレターと言っても良いのだと思う。そして神が人間を愛してくださっているように人間が互いに許し合い、愛し合うという視点が聖書の根底にあることを覚えて読むことの大切さを感じる。そのように読めば、この箇所も文字通り読むこととは違った視点が見えてくるのではないだろうか。

2月13日(月) ヤコブ1:2-8
何かつらい事があっても、試練であり忍耐を増す機会なのだと理解すると、喜びがわいてこないだろうか。 3月1日からはレントとなる。今年のレント、控える物/事をしっかり決めて、試練の時、喜びの時となりますように。

2月19日(日) マタイ5:38-48
自分を迫害する者とか敵とはいったい誰のことを言っているのだろう。キリスト教会の歴史は大きな迫害に耐えてきた事実がある。現代の日本人の社会では当時のような迫害はないものの、しかしキリスト教会を毛嫌いする人々、心の底でキリスト教徒を憎む人々もいる。与えられている聖書箇所から、そういう方々にも、神の愛は注がれていることを覚えたい。

2月16日(木) 出エジプト 22:21-27
週の後半に与えられているどの旧約聖書箇所も、19日に与えられるマタイ福音書5章38節以下でイエスが述べることと関係してきていることを感じる。 とくに、ここに挙げる出エジプト22章の箇所の中で、26節の「わたしは憐れみ深いからである。」という言葉と、マタイ5章45節でイエスが「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」と言われたことが、共振して響いてくるように思う。 イエスが語られたことは、さまざまな旧約聖書の言葉を、より意味深いものにしてくださる面がある。 

2月19日は10時のバイリンガル礼拝と、ミニジャパンフェスティバルの予定です。主なる神の慈しみが、いたるところに示されますように!

恵みと平安
安達均

2017年2月12日顕現節第6主日礼拝説教日本語訳2-12-2017 説教「Trying to Get Our Attention」日本語訳 「私たちの注意を引くために」

 

February 9th, 2017

2月8日聖書観想

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2月5日(日) マタイ5: 13-20
5日の説教では、イエスの語る律法について少し語ったが、深く触れなかった。イエスは律法を決して軽視していない。 その重要性は多いにある。 ルーテル教会で、もの心がついたものが洗礼を受けるときには、マルチンルターの書いた小教理問答集を学ぶことを勧めている。 その問答集でいちばん最初に学ぶことは、十戒である。 十戒には、最初の三つの戒めに神との愛の関係が、後半七つの戒めは隣人との愛の関係が書いてあるともいえる。十戒無しには、キリスト教会もユダヤ教会も、また社会もなりたたないくらいに、重要なのだと思う。

2月6日(月) ローマ 11:2-10
ローマ書9章から11章はとくにユダヤ人について書かれている。とくにこの箇所は、律法が第一主義になってしまい、律法に基づいた行いこそが救いに結びつくかのごとくに考えてしまう、つまりつまづいてしまうユダヤ人を表しているように思える。

2月12日(日) マタイ5:21-37
この福音書箇所、「えっ、そんな、イエスさま厳しすぎます。とても、そんなこと守れません。」といいたくなってしまう。しかし、考えようによっては、イエス様が本当におっしゃりたいことは、文字通りに厳しいことをおっしゃりたいのではないのでは。。。聖書の言葉というのは文字通り読むことは危険ですらあるのだと思う。こういう話があった:救急車がかけつけたところ、ある人が腕を切り落とそうとしていた。そして、その横にはマタイ福音書の5章のこの箇所が開かれた聖書がおいてあったそうだ。

2月11日(土) 申命記 30:1-9
週の後半の旧約聖書は、創世記、レビ記、そしてここにあげる申命記からだが、どこも戒めを守ることの大切さが強調されているように思う。 しかし、本当に強調されていることは、子孫等へ「心をつくし、精神をつくし、あなたの神、主を愛させる」という戒めを守ることなのかと思う。 それは、「律法を守る行いに徹する」こととは異なる。 

February 5th, 2017

2月1日の聖書観想

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先週、インドネシアに出張しており掲載が遅れ申し訳ありません。

1月29日(日) マタイ5:1-12
イエスに従い始めた弟子たちはもちろん、当時のローマの圧力に生活苦を強いられ、その副作用ともいうべき病や怪我を負っていた人々にとっても、当時のさまざまな困難が天では報われるという言葉が、どんなにか希望につながった事だろうか。現代の私たちには想像しきれないほどの癒し、励ましがあったのかと思う。いま一度、この山上の垂訓を読み返す時、現代の私たちがおかれているさまざまな状況に対しても、どれだけ主が愛してくださり、たとえこの世の苦労が多くても、天では報われるという普遍的な喜び、希望を持てるように思う。

1月31日(日) ヤコブ5:1-5
山上の垂訓の言葉の裏を返せば、つまり富んでいるものたち、さらに言ってしまえば多くの困難を強いられている者たちのわずかな収入から高率の税金を取り上げて生きているような人々を思うと、彼らは天ではどれだけひどいことになることかをヤコブはつづっている。マルチンルターがヤコブ書をかなり非難していた。わたしは、ヤコブが他の箇所で「行動によって救われる」ような事を書いていたので非難しているのだとばかり思っていた。今日新たにこの箇所を読むとき、マルチンルターは、ヤコブ書のこのような箇所も好きにはなれなかったのかと思う。

2月5日(日) マタイ5:13-20
1月29日の山上の垂訓の続き。有名な、キリストの弟子たちが、地の塩と世の光にたとえられる話。 じっくり考えるとき、世の光の部分は、ともし火をそのスタンドの下におくものではなく上におくものというたとえは文字通りわかりやすいと思う。いっぽう地の塩に関するたとえは、奥が深い。

2月2日(木) 申命記4:1-14
イエスは山上の垂訓の続きの中で「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」と語られるが、申命記4章には、その根拠があるように思う。 もともとはモーセがシナイ山で神から聴いた言葉、十戒が二枚の石に記されたこと。その掟は、いつの世もどんな世界でも、決して消えないことを覚える。