May 27th, 2017

今週の聖書観想

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5月21日 (日)ヨハネ 14:15-21
神と人間との深い関係について今一度読んでいかがだろうか? 神が人間の中に入って来られるほどに人間を愛しておられる。イエスという人間の肉体をもって人間の間に住まわれたほどに神が愛しておられる。人間の応答としては、そのイエスの愛を受け入れるだけで良い。日々その愛を受け入れる習慣を身に着けてすごしたい。毎朝、深呼吸してイエスの霊に入ってきていただくだけで、その日の考え方や行動が変わってくる。

5月27日 (月) 使徒27:39-44
使徒言行録の終盤、パウロたちがローマに到達するまでの間に地中海のマルタ島付近で難破する話。キリスト教徒たちが殺される「運命」かとも思われる。しかし、全員が助かる。 いろいろな災難が、天災にしろ人災にしろ、人間の人生にはおこってしまう。 そのとき、そこに働かれる父なる神、子イエス、聖霊、つまり三位一体の存在の働きがかならずある。その「三位一体の存在」はわかりにくいが、多くの人々には人知を超えた存在、「運命」を感じている方がほとんどなのだと思う。 

5月25日(木) 使徒言行録1:1-11
復活日から数えて40日目が復活節6週目の木曜になる。毎年、主の昇天日として、使徒言行録のこの箇所が聖書日課で与えられる。 この箇所、じっと見ている使徒たちの様子が目に浮かんでくる。 しかし、10日後の聖霊降臨日以降に、炎のような聖霊に動かされて、使徒たちが、伝道へと活発な行動を開始する。 復活ルーテル教会には、聖壇の向こう側にイエスの昇天のありさまの彫刻がある。礼拝中は、じっとこのイエスに向かっている信徒たちであるが、礼拝の後は、見事に聖霊に動かされて、いろいろ試してみる、行動に動く復活ルーテルの信徒たちの姿があるように思う。 

5月28日(日) ヨハネ17:1-11
聖霊降臨日前の最後の日曜日に与えられている福音書箇所は、ますます深い神と人間との関係に迫ってくるように思う。 福音書箇所の後半では、イエスと父なる神が一体であること。そしてさらに、イエスは、使徒たち(当時の使徒たちだけではなく、後にイエスを信じるものも含めてー20節を参照)と神が一体であるようにと祈っている。 キリスト教信仰は「受肉」の信仰という言葉をもって説明できる。意味していることは、イエスの存在は、神が人間の肉体を受けているということから「受肉」という漢字二文字が与えられるようになったと思う。イエスにとどまらず、使徒たちの中にも、やどってくださる神の存在が、イエスの祈りによって実現していることを感じる。 

May 19th, 2017

今週の聖書観想

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主の恵みと平安!

5月14日(日) ヨハネ14:1-14
12節にある「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」そんなことが人間に可能なのかと思われてしまうかもしれない。 しかし、実際問題、人間の業ですごいことが起こっている。そして、そのかげには、信仰者の働きが大きいことは欠かせない事実だと思っている。さらになんでそんなことができるかということを考えると21日の福音書が大きな意味を持ってくると思う。

05月16日(火) 使徒言行録 7:40-56
先週後半、木曜からの聖書日課での新約聖書箇所は、7章のステファノの説教。ステファノの御業には、よくもここまで話すべきことをきっぱり話せるのだろうかと思われるかもしれない。ここでステファノの説教に感激するというより、ステファノの中に働かれる主の働きを見ることが大切なのかと思う。

05月21日(日) ヨハネ14:15-21
イエスが十字架にかかる前日に、聖霊を送る約束をしてくださっていた聖書箇所。 この聖霊とはいったい何者なのか? 人間が瞑想することが、健康の面でも、なにか仕事をする面でも、いろいろと良いということはわかってきている。 仏教では自分を無にすることの大切さがよくいわれる。 キリストの教えもそうなのだと思う。 そして、無になるとき、そこに父なる神が、聖霊が、救い主がやどってくださる。 その宿ってくださるイエスによって自分が動くときに、大きな御業やステファノの行為のようなことが起こる。

05月20日(土) 創世記8:13-19
今週の後半から来週月曜までの旧約聖書は創世記のノアの箱舟のストーリ。聖書日課には入っていないが、8章21節の言葉「人に対し大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」と言われる主がおられる。東日本大震災の起こった後に、自称キリスト教の牧師とかリーダという立場の方々に、「東北地方の方々が偶像礼拝をしているから神がこんな震災を引きおこした」という意味合いの発言をした方々がいた。その時は非難生活をしており、今日も自分の家にはもどれない方がいるという状況のなかで、そのような言葉は被災者にとって励みにならないのではないかと思う。また、彼らはこのような21節のような言葉をどう読んでいるのだろうか? 大震災のようなことがおこるなかで、その真っ只中で、寄り添う主がおられ、また、主の共同体が生きている。 21日の日曜の午後3時は、東日本大震災、熊本震災の被災者を覚え、チャリティーコンサートがある。人々の思い、行為が、被災者に寄り添えますように。 

21日は良き祝福された聖日になりますように! 

5月7日(日) ヨハネ10:1-10
新共同訳聖書の小見出しを見ていて、「羊の囲い」のたとえと、「良い羊飼い」のたとえの二つに分けて考えさせられた。 「囲い」については羊(人間)にはイエスの信仰による「守り」があること。 また「羊飼い」からイエスをリーダとする「導き」が羊たちに与えられており、その導きには、歩んでいくためのエネルギー、生きる本質を感じる。

5月9日(火) ヘブライ人への手紙 13:20-21
御心という言葉がきわだってくる。 私心ではなく、御心をおこなうために、すべての良いものが復活の主イエスキリストに従う者に備えられている。 

5月14日(日) ヨハネ14:1-14
6節の言葉、「わたしを通らなければ、だれも父のところに行くことができない。」という箇所は、よく排他的に解釈され、他の宗教を否定する材料にされてしまうことがある。「わたしは道であり」と言われるイエス自身が道であり、そのイエスが愛・慈しみの固まりのような方なのだ。この箇所から、人々が信じているいろいろな宗教を一概に否定する気にはなれない。

5月11日(木) 創世記12章1-3節
アブラハムの召命の箇所。とくに3節の「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」と書かれた言葉に大きな意味を感じる。仮に氏族を祖先をアブラハムとすると解釈したとしても、イスラム教の祖先はイシュマエルであり、彼はアブラハムの子息だ。だとするとイスラム教だって、アブラハムを通して祝福に入っている。 「地上の氏族はすべて、」という言葉から、すべての民が祝福に入れることを覚えておきたい。キリスト教は、神が地上のすべてのファミリーを愛しているという最高のお知らせ。  

5月に入りました。 日本ではゴールデンウィークの真っ最中なのでしょう。 祝福を祈りつつ。

4月30日(日) ルカ 24: 13-35
二人がエマオに向かう途上でイエスに会うストーリを今一度読んでいかがだろうか? この箇所を大好きだとおっしゃる方は多い。このストーリと重なる体験が、私たちの人生の旅路においてよく起こっているのだと思う。

5月1日(月) 第一ペトロ 1:23-25
復活節の新約聖書箇所は、ペトロの手紙を多く読んできている。12弟子の中では、いわば一番弟子(ほとんど自称に近い感じだが)だったペトロも、イエスの愛が宿って、すばらしい言葉を残している。「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から。。。」 御言葉は種にたとえられるが、比喩が百パーセント、表したい状況を説明することはできないのだと思う。 そこで、その違いを説明することで、御言葉の大きな力が顕れてくる。

5月7日(日) ヨハネ 10:1-10
復活節の4回目の日曜日(復活後第三日曜)は、よく「Good Shepherd Sunday:良き羊飼いの日曜」とも呼ばれる。 読まれる聖書箇所が、復活節の最初の3回の日曜はイエスとの出会いに焦点があったが、復活節後半は、イエスと民との関係の深さに焦点が移ってくるような面がある。 そのイエスの愛の深さを、味わいたい。

5月4日(木) 出エジプト 2:15-25
エジプトを脱出する前に、モーセが一時的にミディアンという土地に避難する。その際、モーセが羊たちの面倒を見る箇所が描かれている。 モーセの物語の中にも、このような箇所が書かれていたことも興味深い。 イエスが、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれている」と話されていたこととも結びついてくる。

週の後半、豊かに祝福がありますように!

4月23日(日) ヨハネ20:19-23
毎年、イースター当日の一週間後に読まれる福音書箇所はこの箇所。有名なトマスのところ。礼拝に来られる方々の人数は、クリスマス後の日曜と並んで年間で最低を競う日曜日なのだが、大勢の方がこの箇所を読む礼拝に来られないのは少々残念。今年は私は、トマスはなぜ最初にイエスが現れたときに他の弟子たちといっしょにいなかったのか気になっている。 イエスが十字架に架かって死に葬られ、弟子たちはすべてが終わったと思い、だんだんばらばらになって行く傾向があったのだろう。 たとえ日曜の朝にマグダラのマリアが復活したイエスに会ったと言っても、そんなことは男の弟子たちは信じられずにいた。 実は教会でもイースターを祝って人々は集まるが、翌週激減するのと関係があるように思う。イースターの16日当日の礼拝300名以上来られた。23日は120名程度。また教会に集う方々は女性が多いという現実。

4月25日(火) 第1コリント15:19-28
パウロが書いた手紙の一つ、第一コリントの15章の前半が、先週の金曜、今週月曜・火曜と与えらている。パウロはもともとは熱心なユダヤ教徒であり、イエスの復活した当時は、なんらそんなことは信じない生活をしていた。それどころかキリスト教徒を迫害する日々を送るようになる。あるとき、突然イエスに会う。まさに目からうろこ(使徒言行録9章18節)の体験。そのパウロがイエスの復活からおそらく25年以上たった時点で、今日の聖書箇所でコリントの教会の人々に、復活を力説している。それはイエスの復活を信じることは、どうしようもなくキリスト教を迫害したしていたパウロ自身の復活でもあり、私たちの復活でもある。どんな馬鹿なこと、はずかしいことをしていたとしても、主イエスの復活信仰により、死んでいた者の復活がある。アダムやイブも復活すれば、トランプだって、そして私も。

4月30日(日) ルカ24:13-35
イースターから二週間後に読む聖書箇所は、また復活日当日の明るいうちの出来事にさかのぼる。また場所はエルサレムからエマオに向かう道。 クレオパともう一人の弟子。 日本語で読んでいると、二人とも男の弟子のような感じがしてしまうが、二人の弟子というのはクレオパとその妻という解釈もできるのかもしれない。 いずれにしろ、二人の弟子は、イエスの死と葬りのあとは、他の弟子たちから離れていったのだろう。たとえ婦人たちが墓を見に行き遺体がなくなっていたという話を聴いてもまさか復活とは考えもしなかったのだろう。そしてエマオへと向かった。しかし、そこにいっしょに歩かれる復活のイエスがいた。ところが、復活したイエスだとは気がつかない。 しかし二人の弟子とイエスがいっしょに食事をするときに弟子たちの目が開き、ハットする瞬間が訪れる。 これも目からうろこともいってよいのかと思う。 

4月27日(木) イザヤ25:1-5
週後半の旧約聖書はイザヤ書から25章と26章のごく短い箇所が与えられている。これらの言葉をじっくり読んでいかがだろうが。 とくに25章の1-5節だけでも良い。 とくにイエスが復活を知る時代に生きる民が、このような言葉がイエスの誕生の数百年前に与えられていたことを覚えたい。 イエスがエマオに向かっていた二人の弟子に、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれている」と説明したことをよく考えて、このイザヤ書を読むと目からうろこなのではないだろうか。

皆様方によき週末が与えられますように! 日本の皆様はゴールデンウィーク、主の存在に気づかれるということがおきますように!

恵みと平安
安達均