3月26日(日) ヨハネ 9:1-41
イエスが、目の見えなかった者を見えるようにする。この盲人が見えるようになったことより、見えるつもりでいた周りの者が実は、神の業を見えていなかった事が話しの焦点なのだと思う。また御業がおこってもそれを見て見ぬふりをしたともいえる。 実は現代の私たちにも同じことがいえるのかと思う。昨年から教区長になったBishop Andyはよく、「あなたは神の働きをどこに見ますか?」という質問をしている。    

3月28日コロサイ1:9-14
14節、「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」という言葉にホットするのは、私だけだろうか。 世の中でのさまざまな自分のいたらなさを覚えるが、立ち直れる原動力を十字架に架かられた御子が与えてくださる。

3月29日(水) マタイ9:27-34
今週も水曜の福音書箇所をとりあげたい。 ポイントはイエスにより、二人の盲人が見えるようになったり、口が利けないものがしゃべれるようになるということにあるのだろうか?多分そういうことではないのだと感じる。 イエスは盲人だった二人に、「このことは、だれにも知らせないように。」と助言している。つまり見えるようになったイエスの御業をほかの人に知らせたところで、神の業だと受け取れる人々が少ないこと。 また、しゃべれるようになった人にしても、ファリサイ派の人はイエスの業をメシアのものとしては受け取れない。イエスを救い主とだれでも受け入れられない現実は2000年間でも変わっていない。もっとも受け入れる事が出来る人の割合はずっと上がり続けていると思っているが。

4 月2日 ヨハネ11:1-45
またまた長い聖書箇所。イエスはが死亡後4日も経っているラザロを復活させるというセンセーショナルな事件だ。しかし、この長い物語にはラザロを復活させるイエスの神的な力と同程度に大切なポイントがもう一つあるのかと思う。それは二度も憤られ、涙も流されるイエスの人間性とか弱さを感じ取ること。

説教タイトル “Missed Call” 「とりそこなった電話」 ここをクリック -> 2017 03 26 LCR Jpn Translation

March 22nd, 2017

2017年3月22日聖書観想

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3月19日(日) ヨハネ4:5-42
サマリア人とイエスの会話、この長い箇所を今一度読んでいかがだろうか。サマリア人社会はユダヤ人から差別を受けていた中で、しかも、その社会の中でも疎外されてしまっていた女性が、救い主イエスの強力な伝道者になっている。 

3月21日(火) 第一コリント 10:1-4
「偶像への礼拝に対する警告」と書かれた22節からなる箇所の最初の4節だけを読む。 「霊的な岩」こそキリストとのこと。 霊的な岩とはどういうことを言っているのだろうか? 旧約聖書で、ユダヤの民が出エジプトの際に体験した霊的な食べ物や水とも関連があるし、上述のヨハネ4章のなかでイエスがサマリア人へ語っていた、「父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。」と語られたあと、イエスが自分がメシアとの宣言もされている。 礼拝堂にマリア像があったり、極端な例は、十字架がかざってあったりしても、それらを偶像だという方がいて、ちょっとびっくりしたことがあった。 マリア像をおいているカトリック教会や、十字架をおいているほとんどすべてのキリスト教会は偶像礼拝をしているのだろうか? すべてか、どこにでもおられる父と子と聖霊なるお方を礼拝するのに、マリア像も十字架も大きな意味があるように思えるのだが。 

3月22日(水) ヨハネ7:14-31 37-39
今週は水曜のスープサパーの後の礼拝で読まれる水曜の聖書日課にある福音書を読んでおきたい。14-31節は、ユダヤ人たちとイエスのやりとり。 そこで、メシアがイエスかどうかが焦点になっている。 そして、37-39節では、「渇いている人はわたしのところに来て飲みなさい。」と日本語に訳されているが、イエスはこの時すでに、「わたしを飲みなさい」とさえ言っておられたと訳せると思う。 いつか私の友人の一人に、こんな方がいる。自分の子供たちがまだ幼いころ、家族の面前で自分の父親が自分の母親を銃でうち、しかも、父親自身も自殺したという方がいる。そんな状況から彼女がどう立ち直れたか、彼女は「私はイエスの血で救われた。」とはっきり言われる。人知を超えた、イエスというお方の恵みの業を覚える。

3月26日(日) ヨハネ 9:1-41
次週の日曜日も、福音書箇所が長い。 長いのには、それなりに理由があってそうなっているのだろう。 イエスが、目の見えなかった者を見えるようにする。 その出来事を通して、ユダヤ教社会で「イエスが神のもとから来た方かどうか」に関する分裂がおきてしまう。 何十年もまえのことだが、すべての宗教は、イエスを神(世の救い主)としているかどうかに分けられるのではないかと考えた。 いまそのことを思い起こして、黙想している。 この問題は長い時間が流れていくなかで、この世に生まれた人々が考え続けて、何世代、何十世代、何百世代もたって、社会が落ち着くのかと思う。

2017年3月12日メッセージ 日本語訳 ここをクリックー> 2017 03 12 Message

March 18th, 2017

3月15日聖書観想

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3月12日(日) ヨハネ3:1-17
ニコデモの質問に「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と答えられたイエス。ニコデモという教師が単刀直入に質問をしていてくれたことに感謝したい。 また、イエスのこの答えが聖書に描写された中に、とにかく洗礼を受けていただくことを勧めるしっかりした根拠を覚える。

3月14日(火) 第一コリント10:1-4
この短い箇所に、出エジプトに書かれていた、放浪していたともいえるイスラエルの民に、霊なる水や食べ物が与えられていた神の愛の導きが凝縮して表現されているように思う。 この世がどんなところかわからずにオギャーと生まれてきた者に、自分で先がわからなくなってしまっても、しっかり頼れるものがある。洗礼であり、御言葉を聴くこと、そして聖餐に預かること。世に言う幸福とはことなるのかと思うが、喜びに満ちた人生の旅路につくことができる。 

3月19日(日) ヨハネ4章5-42
一日にちょこっと読む聖書箇所にしては、長い。しかし一連の出来事、物語といっても良いかと思うが、生きた水を注いでくださるのは神の子イエスであることが描写されている。その霊的な水は、さまざまな人生の壁(人種の壁、男女の壁、村民社会にある壁)をかかえていたサマリア人女性に注がれ、彼女の周りの壁が壊されてゆく様子を伺える。 

3月16日(木) 出エジプト16:1-8
エジプトを出て、イスラエルに戻るたびについたユダヤ人の集団は、その旅の苦しさ、食事の無い苦しさに文句を述べる箇所が描かれている。 週の後半は、出エジプト16章の残りの箇所が読まれ、神は辛抱づよく、天から食べ物をふらせ、人々を満腹させる。そこに神の愛を覚える。 現代において、さまざまな人生の体験から、神に不満をはっきり言う者、あるいは、なんらかの理由から教会をきらいだという者もいる。 しかし、神の愛は、そのような方々にも注がれていることを覚えたい。

March 10th, 2017

3月8日聖書観想

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聖書日課の拝読のちょっとした手助けになればと思い掲載しています。

週の半ばに、聖書日課の中から(1)週の初めに与えられた福音書箇所、(2)週前半の一つの新約箇所、(3)次週聖日の福音書箇所、(4)週後半の旧約箇所から一箇所について、牧師が思い巡らせたことを載せています。 

3月5日(日) マタイ4:1-11
イエスが誘惑を受けた40日間の聖書箇所、今一度読み、なにか迫ってくるものがあるのではないだろうか? 私にはイエスが「神の口から出るひとつひとつの言葉で生きる」と語られたことがせまってきている。 然りと感じ、聖書に記述された神の口から出た言葉のパワーを感じる。 ところで三つの誘惑に対してイエスが答えている権威ある言葉は、すべて、申命記からの引用だ。 「なんだ、イエスはよく旧約聖書を勉強して、適宜、引用しているだけだ」と思うこともできてしまう。 しかし、イエスはもともと、創世記の前からおられた父なる神と一体の御方であり、申命記の中につづられた、神の口からモーセに語られ、伝承・記述された言葉は、もともとイエスが語っておられたと、三位一体を信じるキリスト者は考えられる。 

3月7日(火) ヘブラ4:14-5:10
「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから」という言葉には、共感するものがありまた励まされる。 この地球上に生まれてこられたイエスという一人の人間だが、その御方は「天を通過された」と語られているのは、上述したように、もともと天の父なる神と一体であった方。 そして、そのお方は、聖霊としていまもわたしたちの近くに、またわたしたちの中にまで宿っている。 その方とともに人生の旅路を歩めることの喜び、はげみが湧いてくる。

3月12日(日) ヨハネ3:1-17
アメリカではヨハネ3:16が一番愛されている聖句だとよく言われる。しかし、イエスがどういう話の脈略のなかで、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を受けるためである。」という言葉を語られたかを知る人がどれだけいるのだろうか。 1-15節の中で、ニコデモがしつこいくらいに質問し、イエスが答えている内容は、キリスト教信仰の核と関連していると思う。洗礼のときになにが起こっているか。 

3月10日(金) ミカ7:18-20
「これほどまでに咎を除き罪を赦される神がほかにあろうか、」と神の言葉を預かったミカは訴える。「主は再びわれらを憐れむ、」とミカが伝える神はどういう方なのだろうか。 四旬節にあって、十字架にまで架かって民の罪を赦される、繰り返し憐れんでくださる主なる方を覚える。私の卒業した浅野学園という中学高校は、校訓に二つの言葉があり、ひとつは「愛」、もうひとつが「九転十起」。 「愛」はキリストの教えから来ていると思っていたが、九回転ぼうが十回起き上がれるという九転十起の源には、神の憐れみ、赦しがあって、そんなことがおこるということに気づかされた。映画「沈黙」をご覧になった方には、キチジロウの生き様に、九転十起を可能にする主の憐れみを見ることができるように思う。

水曜の夜の礼拝においても、主の愛、憐れみが豊かに顕れますように!

主イエスの恵みと平安が集まった会衆の心に豊かに染み渡りますように!

日本語では、臥薪嘗胆という言葉がある。臥薪とは薪を枕にして寝る、嘗胆とは苦い肝を嘗めるという意味。 この四文字熟語が意味することは、苦労や忍耐を積み重ねて、目的を達成する。もう少し話すと、起源は中国でこの言葉が使われたはじめたが、その目的は、一度戦いに負けた相手に、仇を討つという目的だった。  

さて水曜日からレント、四旬節に入った。レントというと断食をしたりして苦労・忍耐をする期間でもあり、臥薪嘗胆と関連がある。 しかし、レントで苦労・忍耐する目的となると、臥薪嘗胆の敵を討つこととはだいぶ異なる。 じゃ、レントの苦労・忍耐の目的とはどういうことなのだろうか?

福音書の内容に触れていきたい。 イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて、荒れ野に入っていき、40日間も断食したとある。 悪魔からの誘惑を受けるために、霊に導かれて荒れ野に入って行くって、いったいどういうことなのだろうか?

一つめの誘惑として、空腹を覚えているイエスに、「石をパンに変えたらどうか」と悪魔が話しかけている。 これは、この世の物質的なものに満足してしまい、神の霊的な恵みを忘れてしまう誘惑といえないだろうか。この誘惑に対して、イエスは「人はパンだけで生きるのでなく、神の言葉で生きる」と返答される。

次の「神殿の屋根から飛び降りてみろ」という誘惑は、自分だけの命を優先してしまうような技術とか神秘性に期待して生きる誘惑といえないだろうか。この誘惑に対して「主を試してはならない。」つまり、神を自分勝手な都合のよい神様にしてはならない。といわれているように思う。 

三番目の誘惑は「高い山に連れて行き、国と繁栄をあなたに与える。」というものだが、世の権力や富を独占しようとする誘惑といえないだろうか。もっとも敬うべき方、拝むべき御方を、権力や富におきかえてしまう誘惑だ。 イエスは、「あなたの神である主を拝み、主に仕えよ」と語られる。

さて、三つの誘惑とイエスの対応が出てきたが、これらに共通していることがあるのだと思う。 「神との関係をおびやかす、さらには自分よがりになってしまう」誘惑なのだと思う。

それらの誘惑に負けないように、しっかり神との関係を保つ、主の意思に反することをしないように、また隣人との関係において、自分だけが目立ちたいとか隣人より自分が偉いのだとか、そういう欲を持たないように、イエスは導いておられる。

皆さんはこのレントをどういう気持ちで迎えたかわからないが、私は例年と違う感覚を持っている。 なぜ違うのだろうかということを考えると、いままでとはまわりの環境が大きく異なっているからだと思う。

復活ルーテル教会ではパートナーの牧師の交代時期にあり、今年のレントは、毎週水曜日の礼拝が、この復活ルーテル教会である。私も二回の水曜の夜の礼拝のメッセージの奉仕がある。

このレント中の教区の負荷に加えて、ルーテル教会での奉仕をたいへんだと思うより、レント中の厳しい状況に耐えるということに、なにか良いことが控えているという期待、希望を持っている。

ほかにも また社会を見るにつけ、世界中で、自分の国本意の、あるいは自分だけの地域がよければ良い、あるいは自分たちの人種よがりの考え方が、台頭してきている。 

それは、ある意味、誘惑であり、人間社会が神の思いと反転するような方向にうごき、また人類がみな、尊敬し愛し合うべき隣人との関係をくずしていく勢力が伸びてきている現れだと危惧している。

だからこそ、今のレント、とても大切なのだと思う。この礼拝が終わったときには、みなさんは、誘惑だらけの荒れ野に出ていかれる。 マーケットやデパートで買い物にするにしろ、家でニュースを見たり、インタネットで何かの情報を得たいと探したりするにしろ、そこは神の関係を遠ざけようとする誘惑だらけなのだ。 

この期間、みなさん一人一人、主のみ心とともに、それぞれの荒れ野に入って行こう。そこでどうかさまざまな誘惑を認識し、しかし誘惑に負けないように、神の意思とは反対方向のことをしないようにしよう。 なぜならレントで苦行、忍耐を経験する目的は、神との正しき関係を保ち、友人と知人の良き関係を持つことなのだから。

このレントの期間が終わるころには、世界の人々が神との関係を回復し、また隣人との関係を回復できると期待する。苦難や忍耐を伴う40日間の旅路は、み心に従って人々が隣人とともに神の働きのために立ち上がることを祈る。 

 

南カリフォルニアには珍しく雨の多い2月が終わり、3月に入りましたが、まだ気候のはっきりしない毎日が続いています。皆さま、いかがおすごしでしょうか?

今年は、3月2日に灰の水曜日を迎え、この日から「四旬節、受難節、レント」 と呼ばれる、主イエス・キリストの受難を覚える期間に入りました。

この特別な期間に、皆様と共に主の十字架を覚えてイースターの礼拝を迎える事ができますよう祈りつつ、ご案内申し上げます。

2017 Easter Invitation