May 4th, 2014

No Comments, 牧師説教, by admin2.

「神が現れる時」 ルカによる福音書24章13節−35節

説教者:インターン Becca  Ajer

5月4日の説教日本語訳

”When God Shows Up”  sermon by LCR intern, Becca Ajer

Sermon by Becca 5:4:14

2014年5月4日LCR日本語週報通算第1305号

2014年5月4日の週報

May 4, 2014 Third Sunday of Easter, LCR Japanese Ministry English Bulletin

Sunday English Bulletin 1305E

復活祭が終わって、第二週目に入っている。今週は134編を読む。3節しかないので、すぐ読めてしまう。 何度も読んで、いつものように気になる言葉や節はなにか? 詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編134編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 

詩編/ 134編
1:【都に上る歌。】主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。夜ごと、主の家にとどまる人々よ
2:聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ。
3:天地を造られた主が/シオンからあなたを祝福してくださるように。

気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、「聖所に向かって手を上げ」という言葉。イスラム教の方々が、一日5回お祈りをして、そのたびごとに、メッカに向かって手を上げ、ひれ伏し祈る様子を思い浮かべている。 

詩編作者の立場を思い、この詩編を読む時、134編は120編からずっと続いていた「都に上る歌」の詩編集の最後になっていることに気づかされた。エルサレム(シオン)に向かう巡礼の旅を続ける人々に、1節で、夜ごとにも集まって、主をたたえるようにと呼びかける。 2節では、言葉通り、聖なる所に向かって、手を上げて、主をたたえるように。3節では天地を創造された主は、(遠く離れたシオンから、また、旅の途中でどこにいても、祈りに答えて)祝福してくださるように、という祈りの言葉で、詩編134編が、また「都に上る歌」の詩編集が終わる。 

この詩編を通して、天地を創造された主が、私たちに何を語りかけておられるのだろうか? 私は今週火曜から4日の日曜まで、パシフィカ教区の総会があって、ハワイのホノルルに来ている。パシフィカ教区はオレンジ郡からメキシコとの国境までと、ハワイ州が教区に含まれる。総会は一年に一回行われるが、7年に一回は、ハワイで総会が行われることが決まっている。2014年は、たまたまその年にあたり、牧師たちと各教会の信徒の代表者たちが集まって、礼拝の時、バイブルスタディの時、財務報告や来年度予算の承認などもある。ハワイ滞在中に「都に上る歌」の詩編集の最後を読んでいることで、いろいろなことを考えさせられる。以下に記しておきたい。
普段生活をしている場所から遠く離れて、特に太平洋の真ん中のようなところにいようが、聖所に向かって真剣に祈るようにと呼びかけられているように思う。聖所とは、決して地理的にどこどこに向かうということではなく、心を、すべてを造られた、つまりこの地球も、太平洋も、ハワイの島々をも創造された主に向けること。 そして、全知全能の主をたたえることの大切さを、主ご自身がよびかけてくださっているように感じる。

わたしは、たしかに自宅を離れて旅行中だが、考えてみると、この地球という場所に、すべての人々が生まれ、旅をしており、この地球に生まれた全員が、いつかはその旅を終えて、天の家に戻るという時がくるということも、主が語られているように思う。 復活ルーテル教会では、英語部の方で先週金曜に天に召された方がおり、10日にメモリアルサービスが予定されている。そして、日本語部の皆さんの中にも、体がとても弱ってきておられる方々が何人かいる。しかし、体が弱っていようが、すべてを造られた主なる神が、祝福を下さり、この地球上での旅をおえようが、復活節にあって、永遠という単位で、復活の主、救い主イエスとの関係が続くことを覚える。アーメン

安達 均 

2014年4月27日LCR日本語部週報通算第1304号

2014年4月27日の週報

April 27, 2014 LCR Japanese Ministry Bulletin, Second Sunday of Easter

Sunday English Bulletin 1304E

ヨハネ20:19-31
牧師 安達均

傷ついたまま復活した主イエスの恵みと赦しが集まった会衆の心の中に豊かに染み渡りますように。

みなさん、なんらかの怪我をして、体に傷を負った経験はあるのではないだろうか? また、体の傷ではなく、心の傷を負うという経験もされた方は多いと思う。 あるいは、逆にだれかに怪我をさせてしまったとか、あるいは、心の傷を負わせてしまったという経験もみなさんあるのではないだろうか?
アメージンググレースは多くの方が大好きという讃美歌だが、その歌詞に自分の心が痛むという方もいる。その方は目が見えない方だが、英語の歌詞に「わたしはかって盲人だったが今は見える。」というくだりがある。それは比喩だが、本当に目の見えない方にとって、そのような比喩が使われることに、心の傷が癒されずにいるようだ。今日のメッセージ、傷について、さらに考え、傷を受けることがどういう意味をもってくるか考えてみたい。

今日の聖書箇所、主イエスが復活された当日の夕方、部屋に閉じこもっていた弟子たちに、イエスが顕われる。 弟子たちは、恐くてしょうがなかった。イエスの弟子という理由で自分たちも十字架刑に会うのではないかという不安もあったし、痛々しいイエスの十字架刑を一切阻止できなかったという面では、弟子たちも心に深い傷を負っていた。
それゆえ、死んで葬られたイエスに謝まりたいという気持ちもあったと思う。そこにイエス当人が現れ、真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように。」と言われ、両手のひらとわき腹の傷を見せる。 
傷は、弟子たちを非難するのではなく、傷が残っていることを見せて、イエスだとわかる証明であると同時に、復活したイエスから弟子たちへの赦しの表現だった。
しかし、弟子の一人トマスはその場にはいなかった。 そして、弟子たちが、イエスが現れた話をしても、イエスが復活したことは信じられないと言い出す。両手の傷やわき腹の傷の、釘の穴に自分の指を入れないかぎり、信じられないとまでいう。 

1週間後、今度はトマスもいる時に、イエスはまた弟子たちに顕われてくださる。 そして、1週間前と同じように、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われる。
イエスは痛々しい傷を見せたことだろう。そしてそれに反応して、トマスは、イエスが主なる神であることを信じる。イエスはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」という言葉を残される。
与えられた福音書の最後に書いてあるように、このストーリは後世の人類が、たとえイエスの傷を見なくても、イエスが神の子であり救い主であることを信じるようになるためである。

もちろん、神の子であり救い主であるイエスを信じることは重要だ。しかし、今日の話の中で、イエスが私たちの日常生活に関係することで、とても重要なことを教えてくださっているように思う。 イエスが傷を負われた、肉体的な傷はもちろんだが、宣教の間もユダヤの指導者たちから非難され、心の傷も負っていたのかと思う。そして、傷を負うことは、決して悪いことではないんですよ、と言われているように思う。
パウロはコリント人への第二の手紙の中で、「わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 」と書いている。 パウロが「とげ」と表現すると、パウロの言葉は結構きつく、パウロと関係した人々がパウロの言葉に傷を受けたことがあったとも考えられる。
しかし、ここでは、パウロ自身には、さまざまな攻撃もあり牢獄にも入り、それは心も体も多くの傷を負ったことが想像される。 つまり、とげは外側にも内側にも向いていたのだと思う。 このことに関して、カトリックのシスターで、ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんは、今月号の婦人の友に記事を載せていたが、「傷つけられることによって、自分の弱さに気づき、他人を傷つけていたかも知れない自分を反省する良い機会を得られることもあるのです。」と言われる。
皆様方も、毎日の生活の中で、家庭内での口論にしろ、友人関係にしろ、思わぬ傷を負うことがあると思う。 その傷には、自分をなにか良きに働くこともあることを認識したい。 傷跡を残したまま復活されたイエスを信じることは、「傷だらけの十字架の死さえ、イエスと神の関係が終わらなかったように、わたしたちの人生においても、どんな失敗をするなりして傷を負っていようが、イエスとの関係が終わることがない。」と確信することだと思う。そして、私たちも傷跡を残しながらも、傷を残したまま復活された主イエスを心に覚え、喜んで日々の生活を送りたい。 アーメン 

“Rejoice…in spite of His Scars!”
John 20:19-31
Pr. H. Adachi

May the Grace and forgiveness of our Lord be poured into your hearts in the name of Jesus Christ!

Do you have scars? You may not have physical scars but you might have emotional scars that are not visible to other people. Or you might have accidently, figuratively scarred someone else through your actions.
As for physical scars, when I was in third grade, I accidently hit my friend’s head while I was playing ping pong and hurt him. Physical scars are usually obvious but emotional scars are not readily visible. Sometimes, we don’t realize how hurtful our words can be. Hurtful words often cut deeper than a knife.
Many of you know and like “Amazing Grace,” correct? There is the lyric “was blind, but now I see.” Although it is a metaphor and I do not think my opinion is applicable to all visually-impaired people, for some totally blind people, this phrase is hurtful and may leave emotional scars. In today’s message, let’s think about our scars and what they mean in our lives.

Today’s Gospel text still begins with the scene on the day Jesus resurrected. The disciples were together, in a home, with the door locked because they feared being discovered by the Jewish leaders. Despite their secrecy and the locked door, Jesus appeared among His disciples.
The disciples were fearful, because the Jewish leaders might arrest the disciples since they were Jesus’ known associates. Not only were they fearful but they also must have felt ashamed since they could do nothing to prevent the crucifixion. Therefore, the disciples were emotionally scarred by the harrowing experience of Jesus’ death.
Jesus stood among them and said, “Peace be with you.” Then he showed them his hands and his side as proof of his identity. It was his way to help the disciples realize He was in their presence and proof of God’s forgiveness for their sins. Then, the disciples rejoiced when they saw the Lord.
Jesus said to them again, “Peace be with you. As the Father has sent me, so I send you.” When he said this, he breathed on them and said, “Receive the Holy Spirit. If you forgive the sins of any, they are forgiven them; if you retain the sins of any, they are retained.” But Thomas, one of the twelve, was not with them when Jesus first appeared among the disciples. So the other disciples told him, “We have seen the Lord.” But he said to them, “Unless I see the nail marks in his hands, and put my finger in the nail marks and my hand in his side, I will not believe.”

A week later, Jesus again revealed himself to the disciples. Again, he said, “Peace be with you.” He said to Thomas, “Put your finger here and see my hands. Reach out your hand and put it in my side. Do not doubt but believe.”
Jesus showed him his deeply hurtful scars. Then Thomas believed Jesus saying, “My Lord and my God!” In response, Jesus said to him, “Have you believed because you have seen me? Blessed are those who have not seen and yet have come to believe.”
As it is written in the last part of today’s Gospel, these poignant words are written so that you may come to believe that Jesus is the Messiah, the Son of God, and that through believing in him you may have eternal life in His name.

Of course, it is truly important for humans to believe in Jesus by reading the gospel of John, but I think there is a different important matter we learn from the scripture as well. Jesus suffered not only physically but also mentally because he was accused by Jewish leaders, of criminal behavior, while he was proclaiming the Good News. Today I, also, think the resurrection story teaches us that being hurt and forgiving those who hurt us are a part of life.
St. Paul writes in Second Corinthians, “So to keep me from becoming proud, I was given a thorn in my flesh, a messenger from Satan to torment me and keep me from becoming proud.” When discussing Paul’s thorn metaphor, we can easily say emotional wounds are “thorns” that people must deal with as part of life.
However, I think his insightful words teach us that Paul himself was hurt due to criticisms and harsh treatment by both the Jewish leaders and the Romans. For example, he was actually put into prison. Therefore, he had both physical and emotional scars; his thorns were external and internal. With regard to scars, the chairperson of the governing board of a Catholic School called Seishin Gakuen wrote an article and, according to her, “By having scars on oneself; it is a physical representation that you may have hurt others in the past.”
Most likely many of you have suffered emotional wounds in the past due to strained family relationships or strained friendships or you may have been hurt by a stranger’s words. Despite the pain, those scars might be good for you to realize something important. For example, you might realize something that you said was hurtful to someone else. We must be careful with our words. I think that believing in the risen Jesus, including his scars, means believing in the never-ending relationship between us and Jesus. He loves us despite the fact that we may have done terrible things or we are greatly emotionally scarred. As Christians, we should rejoice and give praise to the Almighty that God’s and Jesus’ relationship survived despite his earthly death. Jesus’ scars prove he conquered death and that His love and forgiveness are real. Praise the Risen Lord! Amen.

復活祭は日曜に終わった。しかし、キリスト教の暦では、復活節は7週間続く。復活節の最初の週に、詩編114編を読む。とても短いので、最低三回は読んでみよう。そしていつものように、一回目は気になる言葉や節はなにか? 二回目は、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして三回目は、神はこの詩編114編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 

詩編 114編
1: イスラエルはエジプトを/ヤコブの家は異なる言葉の民のもとを去り
2:ユダは神の聖なるもの/イスラエルは神が治められるものとなった。
3:海は見て、逃げ去った。ヨルダンの流れは退いた。
4:山々は雄羊のように/丘は群れの羊のように踊った。
5:どうしたのか、海よ、逃げ去るとは/ヨルダンの流れよ、退くとは
6:山々よ、雄羊のように/丘よ、群れの羊のように踊るとは。
7:地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に/ヤコブの神の御前に
8:岩を水のみなぎるところとし/硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に。

気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、「イスラエルはエジプトを(出る)」という言葉がキーワードに思える。この詩編の中でも大きなきっかけが「出エジプト」という出来事だが、出エジプトは、すべてのイスラエルの民にとって、最大の出来事であり、またこの出来事は、人類全体にとっての最大の出来事、イエスキリストの復活と直接関係してきているようにも思える。この復活については、また後述したい。 

詩編作者の立場を思い、この詩編を読み返すとき、1節から4節は、歴史的事実を詠っている。 1節で、イスラエルの民が奴隷であったエジプトの地を離れるということは、ヤコブの子孫たち12部族が、ヘブル語ではない言語が標準語であるエジプトの民のもとを去ること。2節は「ユダは神の聖なるもの(となる)」と詠い、さらに「イスラエルは神が治められるものとなった。」と詠っているが、ユダとは十二部族のなかで、後にユダ国(南王国)となるユダ族とベニアミン族のことを指しているのではないだろうか。そして、2節で使ったイスラエルという言葉は、他の10部族で後にイスラエル国(北王国)となる、つまり、ルベン、シメオン、エフライム、マナセ、イッサカル、セブルン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル族のことを指しているように思える。ちなみに、このイスラエル国(北王国)はのちに、滅亡してしまうことになるが、その滅亡という言葉は使わずに、「神が治められるものとなる。」という言葉で詠っているように感じる。 そして、3節4節で、出エジプト後どのようなことが起こったかを振り返っている。「海は見て、逃げ去った。」は民が紅海を渡るときに、海の水がせきとめられて、海の底を歩いて渡ることができたこと。(出エジプト記14章)「ヨルダンの流れは退いた。」は出エジプト後、約40年の歳月を経たのち、カナンの地への定住前に、ヨルダン川を渡るときに、今度は川の水がせきとめられて、川の底を歩いて渡ることができたこと。(ヨシュア記3章)そして「山々は雄羊のように/丘は群れの羊のように踊った。」とは、モーセがシナイ山に入り、神の言葉を預かったのち、山を降りてきて、民に会う前、山全体が激しく震えた(出エジプト19章18節)の時のことを詠っているように思える。 そして5節6節では、それらの出来事を自問自答すると共に、礼拝などで、この詩編を詠うものたち自らが、このような質問を自分自身ですることで、神の偉大さに気づかされるようになるのかと思う。 7節8節では、その神の偉大さにお任せするしかない民の現実を詠っているような詩編なのだと思う。

この詩編を通して、神が私たちに何を語りかけておられるのだろうか? 特に日曜日に復活祭を祝ったのちに、この114編を読んでいることは神からの大きな語りかけがあるように感じる。 紀元前1200年ごろ、エジプトで奴隷であったイスラエルの民は、奴隷時代を終え、エジプトから脱出した。 出エジプトは確かに起こった。しかし、まちかまえていたのは、どうやって紅海やヨルダン川を渡るかにしろ、あるいは信仰心は薄れ、内部分裂のような問題が起こるにしろ、さまざまな困難が迫ってきていた。 私たちの現代の人生の歩み、あるいは、人類全体の歩みを見ても、イエスキリストの復活は2000年前に起こった、あるいは、イエスの復活祭を日曜に祝ったといっても、私たちは多くの困難をかかえながら個人個人が人生を歩み、人類全体もたいへんな困難を前にして生きている。たとえば、原子力の問題を取り上げてみても、ある意味、現代の人類が手に負えないような問題を抱え込んでいるように感じる。 だからこそ、その困難の中に、生きておられる主なるイエスへの祈り、賛美、そして、御言葉を聴く中で、新たな道が開かれることを確信して、歩む人類でありたい。 アーメン

安達 均 

マタイ28:1-10
牧師 安達均

主の恵みと平安が豊かに与えられるように!

何か今の人生、恐いと思っておられることがあるのでは?自分の仕事の問題。自分あるいは家族の病。 あるいは子供の教育問題やら、子供の仕事の問題。 自分自身の老後。人間関係? 韓国の沈没船。
そのような問題から離れ、ここで礼拝の機会が与えられていること、恵みで感謝である。 この礼拝は、日頃の問題から離れ、神の言葉を聴き、神に祈り、そして神と会う時。 最高の恵み。
20年以上前だが、あるキリスト者の友人は、礼拝は最高の時。しかし、その友人の考え方は、礼拝が終わるとまた、神のことを忘れ、現実問題と戦うことになり、月曜から苦しい、また不安の人生。そして、日曜にはまた、救いの時だと言う。 
彼がシェアしてくれた事は、日曜は平日とか土曜から独立した存在だということだった。私は特にそのことについて議論もせず彼の意見を聞いていたが、なぜかその言葉が忘れられない。今年の復活礼拝で与えられている御言葉が、ぜひ、月曜以降の普段の生活の中に、たとえそれが苦しいと思う生活であっても、そこに豊かな喜びを与えてくれるように祈る。

イースターの朝与えられた福音書箇所、マタイ28章1-10節。 イエス復活の日曜の朝の墓の前での光景。 登場人物は、二人のマリア、番兵たち、天使、イエスキリスト。 登場はしてこないが他の女性たち、弟子たちの話題も、以下の話しに加えたいと思う。
二人のマリアや、他の女性たち、弟子たちの気持ちを想像するに、恐くて恐くてしょうがない。 金曜には、いままで3年間、この方こそ主であると思って従ってきた、イエスが十字架にかけられ、死にて葬られてしまった。
弟子たちは、イエスキリストが十字架に架けられることを全然阻止できなかった。阻止できないどころか、ペテロは、こんな人は知らないといい、弟子たちもみな、逃げていってしまった。
マリアたちは、イエスが殴られ、侮辱されたあげくに、十字架にて死ぬという恐ろしい光景を見ていることしかできなかった。そして土曜は、リーダを失った悲しみとか、失望感だけでなく、なにもできなかった恥を感じ、さらに、キリストの弟子や協力者だった自分たちも、ユダヤのリーダから、抹殺されるのではないかという恐れも多いにあった。
そのような状況であっても、マリアたちは、とにかく墓に来てみた。マタイはその理由を明確に書いていないが、金曜の夜はイエスにちゃんとしたお別れもできていなかったので、恐いながらも、イエスの遺体に会い、ユダヤのしきたりだった死者に香油をぬるということをしたいと思ったのではないだろうか。というのは、金曜のイエスの死後、日没までには十分な時間がなかったから。

二人のマリアが墓に到着した時、天使が顕われる。マタイは奇跡的な状況を描写している。地震が起こるなかで、天使が顕われ、墓をふさいでいた石をどける。 番兵たちは恐くて、気を失う。天使は、マリアたちも恐がっていることをよく察知していて、「恐がることを止めるように。」と言う。そして、十字架で死んだイエスを探しているのだろうが、イエスが以前言われていた通り、復活された、と言われる。彼女たちは、墓にもう遺体が無いことを知り、そして、天使は、ガリラヤに行くように恐がっている弟子たちに告げなさい、と言う。
しかし、恐がるなと言われても、恐さは消えなかったのだろう。 こんどは、イエスが登場してくださる。 そして、イエスの言葉は「おはよう。」 日本語には「おはよう」と訳されたこの言葉、マタイはギリシャ語で、「喜べ。」という言葉を使ってイエスの挨拶を表している。 そして、マリアたちは、恐くて、興奮状態であったために、天使に言われたことがちゃんとわかったいたのかどうかもわからない。 イエスは、天使が語ったことと同じ言葉を繰り返す。「恐がることはやめるように。 イエスの兄弟たち(弟子たち)にガリラヤに行くように。そこで再会しよう。」

今年の復活祭に与えられた、御言葉から、なにを思われているだろうか。 とかく、「恐がることを止めなさい。」そして、「喜べ」という言葉が際立って聞こえてくる。
「恐がることはない。」と聖書に書かれているが、恐がることを止めるということ。それは、恐がる原因となっていることを、忘れたり、取り除くようにとういうことではない。 ただ、現実を直視するなかでも、恐がることは止めるようにと言われているように思われる。
なぜ、そんなことができるのか。病が治ったわけでも、経済的な問題が解決するわけでも、あるいは、子供の教育問題が一切無くなったというわけでもない。しかし、その現実を見るなかに、そこに、私たちのためにご自身をも捧げてくださるイエスが、私たちの中に、霊的に存在してくださるという確信の中で、喜ぶことが大切なのだと思う。
イエスは、死をもって、死を滅ぼされる主なる王。そのような、復活のイエスがあなたの人生をいっしょに歩いてくださる。 この世だけではなく、この世の死後の世界をも、主なるイエスとともに歩める確信。 この礼拝は、あと20分後には終わる。しかし、礼拝が終わり、日曜が終わり、明日からの月曜日、どんな苦労が待ち構えていようが、そこに主がいっしょにいてくださる確信を得て、新しい復活節のとき、恐がることなく、現実問題を直視し、そこに主がいっしょにいてくださることを確信し喜んで生きていこう。 アーメン

“Do Not Be Afraid! Rejoice!”
Matthew 28:1-10
Pr. H. Adachi

During this Holy Easter Service, may God’s grace and peace be with everybody in this sanctuary and with all His creations throughout this world!

Do you have any uncertainty/anxiety about your life’s journey? Are they fears about your job, about your family member’s illness, your children’s education, your own retirement, or relationships with friends and loved ones?
Whatever your fears or current situations are, in this sanctuary, you may get away from your problems and focus on your relationship with our Lord, Jesus Christ. This is the time to listen to, talk with, and pray to our Lord and Savior. This is the time we receive great mercy, peace, and time away from our human issues.
Although it was over 20 years ago, I still recall one of my Christian friend’s thoughts about Sunday worship: Worship time is great but once worship is over and once Sunday ends, he would contend with all the human issues in his life and struggle with many challenges during the week.
What he shared with me was that Sundays are independent from other weekdays and Saturdays. I did not argue with him and I just listened to his thoughts at that time. However, for some reason, I have not forgotten what he said and I pray today that the words you hear on this Easter Sunday you will listen to and that they will stay in your hearts Monday through Saturday and will give you God’s peace even though you experience many challenges in your life’s journey.

The text read today is a scene in front of the tomb in the morning when Jesus was risen. People in that scene are the two Marys, an angel, guards, and Jesus Christ. Even though his disciples do not appear in the scene, I would like to describe something about them also.
The two Marys, other women, and all the disciples were fearful anyway, since their Lord, Jesus, whom they faithfully followed for three years was crucified, died and sealed into the tomb on Friday.
They could do nothing to prevent the crucifixion, rather Peter denied him three times and all the disciples ran away from the place Jesus was crucified.
Women could only watch with horrified disbelief as Jesus was crucified. They felt not only sadness and disappointment due to the loss of their leader but they also experienced shame and fear because as followers and supporters of Jesus they could easily be executed as well. Jesus was brought up on false charges and crucified. What would stop his followers from sharing the same fate?
Even though they were so fearful, the two Marys visited the tomb. Although Matthew does not give the reason why they visited the tomb, they most likely wanted to anoint Jesus’ body with oil (in accordance with Jewish customs) since they did not have enough time to say their “proper” goodbyes to Jesus since it was close to sundown…

When they arrived at the tomb, an angel appeared to them. At that moment, an earthquake happened, and then the angel removed the stone that sealed the tomb. So, the guards were frozen with fear and they lost consciousness. The angel understood that the two women were fearful also, so he said to them, “Do not be afraid,” and said, “I know that you are looking for Jesus who was crucified. He is not here; for he has been raised.” As the angel said, they found that there was no body in the tomb then they were told tell the disciples to go to Galilee to see Jesus.
Even though they were told not to be afraid but they were still fearful; then they suddenly, unexpectedly met with Jesus. The two women were afraid yet joyful. He said to them, “Greetings.” Although this is the modern translation of the word, the original meaning of the Greek word is more like “Rejoice.” Then, Jesus repeated the angel’s words to them “Do not be afraid,” since they were still quite fearful. Basically Jesus repeated exactly what the angel said, “go and tell the disciples to go to Galilee to see me.”

This Easter morning, what are we hearing from God, Jesus Christ, our Savior? I think there are two key phrases. “Do not be afraid.” and the other one is “Rejoice.”
I do not think that “Do not be afraid” means “remove or forget something that makes you worrisome or fearful. I think, Jesus and the angel are saying stop being fearful about facing life’s difficult challenges because you are not alone; He is always with you.
How can you stop being fearful about health issues, economic challenges or other problems in your life? Even if we’re in the midst of these challenges, it is important to know that Jesus is living amongst us and within us and (as Christians) it is imperative we rejoice in the love of Jesus Christ, since he gave himself for our shame and sins. He reconciled us with God and He died on the cross so humanity doesn’t have to do so as well.
Jesus is the one who conquered the power of death by his death on the cross. Christ the King is walking with us in the midst of all our difficulties. Jesus will walk with us, not only during our time in this world but, also after our physical deaths. His Passion redeems us all. Today’s Easter worship service ends in 20 minutes or so but even after the worship service, and even still when it becomes Monday – remember Jesus spiritually walks with you because He is Risen indeed. May we rejoice and live vigorously without fear not only on Sundays but also during weekdays even though we are facing challenges in our lives. Praise the Lord, we are not alone! Amen.

2014年4月20日LCR日本語部週報通算第1303号

本日の礼拝で、3名の方が洗礼を受けられました。復活祭の礼拝でともに洗礼の恵みに与る事ができた幸いを感謝いたします。

2014年4月20日復活祭の週報

April 20, 2014 LCR Japanese Ministry English Bulletin

Easter Sunday English Bulletin 1303E

2014年4月20日LCR日本語部週報通算第1303号

本日の礼拝では3名の方が洗礼に与りました。復活祭の礼拝で、共に洗礼の喜びを祝う事ができた幸いを心から感謝いたします。

2014年4月20日復活祭の週報

聖週間、Holy Week、を迎えている。今年の4月17日は、聖木曜日、洗足の木曜日、Maundy Thursday等の呼び方があるが、復活祭前の特別な木曜日にあたる。キリスト教では、この聖木曜日からの三日間を特に尊重して、特別な典礼や礼拝が行なわれてきた。今週は詩編116編1-2節および12-19節を読むが、イエスが十字架に架かる前の日を覚えるにあたってふさわしい箇所だと思う。いつものように、なるべく3回は読んでみてはどうだろうか。そして一回目は気になる言葉や節はなにか? 二回目は、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして三回目は、神はこの詩編116編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 

詩編116編
1:わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き
2:わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。

12:主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。
13:救いの杯を上げて主の御名を呼び
14:満願の献げ物を主にささげよう/主の民すべての見守る前で。
15:主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。
16:どうか主よ、わたしの縄目を解いてください。わたしはあなたの僕。わたしはあなたの僕、母もあなたに仕える者。
17:あなたに感謝のいけにえをささげよう/主の御名を呼び
18:主に満願の献げ物をささげよう/主の民すべての見守る前で
19:主の家の庭で、エルサレムのただ中で。ハレルヤ。

気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、「生涯、わたしは主を呼ぼう。」 という言葉。 116編全体からわかることは、詩編作者はあきらかに晩年を迎えている。病なのか老衰なのか死を前にしていても、「生涯、わたしは主を呼ぼう。」と詠い、主の名呼んで、祈り、主との関係を続ける姿勢に、死を前にした詩編作者から見習うことは大きい。そして、どんな人生の途上にあろうが、主にある大きな希望を頂ける。 

詩編作者の立場を思い、この詩編を読み返すとき、死を直前にして、会衆に祈りの大切さを教え、また、最高の捧げ物を神殿に奉献しようとしている詩編作者の様子が浮かんでくる。 12節では、詩編作者の生きてきた道のりで、いかに主が報いてきてくださったか、そしてその報いにどう答えようかと詠う。日本語の「報い」という言葉は微妙だが、英語(New Revised Standard Version)の詩編では 報いのところは、“bounty”という言葉が使われていて、いかに主が、恵み、賜物を与えてくださってきたかという意味になっている。13-14節では、神殿に集まる多くの民の前で、主が救ってくださったことを覚え杯を上げ、賛美し、満願の捧げ物を奉献することにしようと詠う。15節では、主に祈って、主との関係を保ち、主の慈しみに生きる人生はどんなにすばらしいか、そして死は主の目にどんなに大切なことかと、教えるように詠っている。16節には、「縄目」という言葉が出てくるが、死に際して、なにかの痛みを感じていたのかとも思われる。要は、どんな人生においても、さまざまな束縛を経験するのが実際で、そのような縛りから解放されるように主に祈ろう。そして、詩編作者自身も、その母親も主に仕える信仰者であることを主に呼びかけて、束縛から解放されるように祈ろうと詠う。 17-18節は、ほとんど13-14節の繰り返しだが、17節では、「感謝の捧げ物をささげよう」という言葉が13節の「救いの杯を上げて」という言葉に代わって詠われている。詩の後半に来て、より「捧げる」という気持ちが強くなってきているように思う。 そして、19節では、「主の家の庭で、エルサレムのただ中で。ハレルヤ。」と詠うが、場所はエルサレムの神殿に多くの会衆が集まっているところを想像しつつ、詩編作者の思いを詠う詩が終わる。

この詩編を通して、神が私たちに何を語りかけておられるのだろうか? この詩編、聖金曜日にイエスキリストが十字架に架かるという時を思いながら読む時、「主の家の庭で、エルサレムのただ中で」という場所が、イエスが十字架に架かった、ゴルゴタの丘に一変してくるように感じる。 そして、最高の捧げ物は、イエスご自身に思えてくる。 私たちの罪、至らなさゆえに、主イエスキリストが自ら捧げ物になってくださっていた事実を新たに思い起こさせる詩編116編だと思う。そこまで私個人も、私たち人類全体を愛してくださっている、主なる神、イエスキリスト、十字架に架かられたイエスを見上げるとき、私たち人類はどうそれに応えるかを、神がわたしたちに問いかけておられるように思う。今年の聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日・復活祭が、お一人お一人にとって大きな意味を持って来ますように。アーメン

安達均