2014年5月25日LCR日本語部週報通算第1308号
May 25, 2014 LCR Japanese Bulletin: Sixth Sunday of Easter
2014年5月25日LCR日本語部週報通算第1308号
May 25, 2014 LCR Japanese Bulletin: Sixth Sunday of Easter
今週は66編の8-20節を読む。いつものように気になる言葉や節はなにか? 詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編66編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。
詩編66編
8: 諸国の民よ、我らの神を祝し/賛美の歌声を響かせよ。
9:神は我らの魂に命を得させてくださる。我らの足がよろめくのを許されない。
10:神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。
11:あなたは我らを網に追い込み/我らの腰に枷をはめ
12:人が我らを駆り立てることを許された。我らは火の中、水の中を通ったが/あなたは我らを導き出して/豊かな所に置かれた。
13:わたしは献げ物を携えて神殿に入り/満願の献げ物をささげます。
14:わたしが苦難の中で唇を開き/この口をもって誓ったように
15:肥えた獣をささげ、香りと共に雄羊を/雄山羊と共に雄牛を焼き尽くしてささげます。〔セラ
16:神を畏れる人は皆、聞くがよい/わたしに成し遂げてくださったことを物語ろう。
17:神に向かってわたしの口は声をあげ/わたしは舌をもってあがめます。
18:わたしが心に悪事を見ているなら/主は聞いてくださらないでしょう。
19:しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け/聞き入れてくださいました。
20:神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく/慈しみを拒まれませんでした。
気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、16 節の言葉が一番気になっている。特に詩編作者が「わたしに成し遂げてくださったことを物語ろう」と詠っていること。
詩編作者の立場を思って詩編66編の8節よりよく読んでいきたい。 「賛美の歌を響かせよ」と書いてあるところから、この詩編は、神を讃える賛美の歌。それは自分だけが賛美するのではなく、諸国の民に、神を賛美するように、呼びかける賛美歌。 9節では、詩編によく出てきているが、神を讃える理由を詠う。その理由とは、「神は私たちに魂を得させ、またよろめかないようにしてくださっている。」 10節から12節のはじめは、厳しいことが詠われている。詩編作者自身もそして人類全体でみても、銀を火でねるようなすさまじい体験や、がんじがらめにされてしまうような、あるいはある国の人々が、私たちを完全に弾圧してしまうような経験もした。しかし、神が私たちを豊かな所に置いてくださっている。 13節から15節は、その神の恵みの豊かさに応じて、最高の捧げ者を神殿に奉ずる。それは困難の中にあった時に、肥えた動物や雄山羊や雄羊を捧げますから助けてくださいと神に約束したこともあったのだろう。その約束通りに、捧げますと詠う。16節は、さまざまな困難な体験をする中で、神を畏れるものは、神が私にしてくださって来たことが何だったのかをよく聴くようにと詠う。17-18節は、私は真剣に神に向かって、私の口と舌を使って、神を賛美します。心が別のところにあって真剣さに欠ける賛美では、神は聞いてくださらないだろうから。 19-20節は、神は私の祈る声に耳を傾け聴いてくださった。 だから神を賛美しよう。神は私たちの祈りをけっして退けることなく、徹底的に神の愛を与え続けてくださっていると詠ってこの詩編は終わる。
この詩編を通して、主なる神は、私たちに何を語りかけておられるのだろうか? 詩編66編8節から20節は、来る日曜日の福音書個所、ヨハネ14章15節から21節とともに与えられている詩編箇所。 ヨハネ福音書で、明日イエスは十字架に架けられてしまうという状況の中で、「わたしは、あなたがたを見放さない。」と、また、「あなたがたが私のうちにおり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」と語っておられた。 詩編66編の10節から11節に表現されていたような、ひどい体験、困難、苦しみをあじわってしまうような人生があろうが、決して私たちを見放さない主なる神、主イエスキリストがおられるということを、ぜひ覚えておきたい。 困難や苦しみのなかにあっても、実は、その真っ只中に、聖霊なる主が存在してくださっている。
話はちょっと飛躍するが、昨晩は、女性宇宙飛行士である山崎直子さんのご主人、山崎大地さんに会って話をする機会に恵まれた。いろいろな話をされていたが、「ここだって宇宙なんですよ。」という言葉を改めて聴いた。(改めてというのは、私の長男も数年前は宇宙工学を専攻し、同じことを話していた。) この言葉、今、いろいろなごたごたが起こってしまうこの地球上はすばらしい宇宙空間の一部であり、この詩編66編で詠われているような、さまざまな困難の中でも神がわたしたちを豊かな慈しみの中に置いてくださるという事と同じ事に思えてくる。 さまざまな問題を抱える人類だが、徹底的にその人類を愛してくださっている神の中に置かれている。この事を人々に物語ろう。アーメン
安達均
ヨハネ 14:1-14
永遠の命の道である主イエスが、この礼拝において、この上のない恵みと平安を与えてくださるように!
カリフォルニアに住んでいると、車での移動が不可欠。今日の礼拝に車に乗る事無しにに来られた方はいるだろうか? また近年は車を運転してあちこち移動する者にとってナビゲーションシステム(ナビ)は不可欠になりつつあるように感じている。
ナビとは、目的地の名前かアドレスさえ正しく入力すれば、目的地までの道案内をしてくれるとても便利な代物だ。こんな技術が開発されるとは、若いころは全然思っていなかったが、今はいろいろな教会に行くことが多いという仕事をしていて、ナビなしには、仕事ができないと感じている。
人生でわたしたちは、さまざまな道を歩むが、人生の終着地点は永遠の命をいただいて天国で過ごしたいと願うのが世の常ではないだろうか。しかし、ナビに天国と入力するとどうなるのだろうか?ちなみに、ナビに天国とかHeaven入れてみたが、クマモト県にある、「天国」という名前の郷土料理屋だったり、ローランドハイツにあるQueen of Heavenというお墓が出てきたりした。それは私の期待していた目的地ではもちろんない。
ナビで目的地を入れてもだめな場合はアドレスを入れるが、私たちは、天国のアドレスを知らない。ナビに頼って天国に行けるわけでもない。では、どのような道を通って、永遠の命を得て、天国に行くことができるのだろうか?
今日与えられている福音書、とても有名なところ。とくに最初の6節は、お葬式の時などにも本当によく読まれる。お葬式以外でも、普段から何度読んでもよい箇所だと思う。
少々13章の終わりの状況を説明した方が良いと思う。 13章36節には、「わたしの行くところにあなたは今ついて来ることはできない」というイエスの言葉があり、それを聞き動揺してしまった弟子たちに対して、「心を騒がせるな。」といって語りだしているのが、今日の聖書箇所のはじまり。
イエスは「私の父の家には住むところがたくさんある。。。。」と語り、「わたしがどこに行くのか、あなたがたはその道を知っている。」と続いて話す。しかし、弟子の一人のトマスは、「イエスが何というところに行くのか、アドレスも知りませんから、どうやってその道を知るのか」と反論する。
するとイエスは、「私は道である。」と語る。 それは、トマスがどうやって、イエスの行く所への道を知ることができるかと質問したことに対して、勘違いに気付くように言われているように思う。
イエスは、どこどこに道があるから、その道を通っていけば、私の行くところつまり天国に行けるという話ではない。むしろ、イエス自身が、私たちの歩む道だと話してくださっている。
いろいろな宗教の立場のことを思って、互いに尊敬しあうがため、天国におられる神のところに、どんな宗教を信じていても、だいじょうぶ、天国の神に会える。と話されることがある。 つまり、神にいたる道はいろいろあっても、行く先は同じであると。 本当にそうなのだろうか? そこに真理はあるのだろうか?
イエスは、私は道でありと言ったあとは、イエスは私は真理であるとも言われる。道であり真理であるイエスは、さらに、「命である。」というイエスの言葉がつながっている。それは永遠の命である。
この聖書箇所は私たちに何を語りかけているのだろうか?イエスキリストが教えてくださっていることは、父なる神が天国にずっといて、待っていてくださるようね受身の神だということではない。
先週は羊飼いが羊になった話しをしたが、むしろ、主なる神ご自身がイエスという人となって、私たちの中に降りてくださって居る。ヨハネ福音書の中で13章から17章は、イエスが十字架に架かる前日にイエスが遺言のような長い説教をしたことが書かれている。 その要点は、イエスがもう見える形ではなくなってしまうが、それでも、何かが代々にわたって残る約束をされたといえる。
その約束は、遠い将来に起こる約束というより、その時すでに実現している約束。そして、21世紀に生きている私たちにも、その約束が実現している。つまり、イエスのことを私たちは人間の姿としてみていなくても、道であり、真理であり、命であるイエスが、確かに私たちの間で生きていてくださっている。
イエスと一体なる父なる神は、今日も聖霊をこの世に送ってくださっている。その三位一体の神、イエス、聖霊を信じて生きていく人生自体が、それはイエスの道、真理、そして永遠の命である。 イエスを信じて生きる信仰の歩みは、過去にどの道を歩もうかと迷ったかもしれないが、すでに天国に直結した歩みとなっている。ナビやGPSを使わなくても、すでにイエスの命を与って生きている。
イエスを信じて先週も礼拝に出ていたが、過ぎた1週間に何か予期せぬことがあり、迷いが生じて、生きたここちもしなかったような経験もあったしれないが、また礼拝によりあらたに永遠の命を確信することができる。なぜなら、毎週礼拝を守るキリスト教会自体が主イエスキリストの体、主イエス自身であり、道であり、真理であり、永遠の命であるから。 今日から始まった一週間を、私たちはすでに永遠の命の中におかれていることを確信して、喜びつつ、この新たな一週間を歩んで参りたい。 アーメン
安達 均
“GPS and Jesus”
John 14:1-14
Pr. Hitoshi Adachi
May the Lord, the way to eternal life, give us grace and peace during this worship service!
Living in California, owning a car is a necessity. Most people attending this morning’s worship service drove or were driven in a car. Like cars, GPS devices are also becoming a necessity. GPS helps you arrive at a location you’ve never visited before; it is much more convenient than map books.
GPS is a wonderful tool that helps reach a destination by inputting its name or its address. Quite honestly, I do not think I could do my current job without a GPS device.
We travel along various roads while living in this world, but after the end of our earthly life, I believe it is a common hope that we’ll reach heaven and enjoy eternal life. However, we cannot know the way to heaven by simply inputting “heaven” into a GPS device. Actually if I input “Tengoku(天国)” [while in Japan] into my GPS, it shows directions to Japanese restaurant called “Tengoku” in Kumamoto prefecture. Also, if I input “heaven” [in the US] it shows directions to a cemetery called “Queen of Heaven” in Roland Heights.
When we cannot find directions by inputting the place name, what do we do? Do we turn off our GPS? We usually input the address and try again. Heaven is different though; it doesn’t have a physical address. So, how do we know the way to go to heaven?
Today’s gospel is John 14 verses 1 through 14. At the end of chapter 13, Jesus said, “Where I am going, you cannot follow me now.” Listening to Jesus’ words, his disciples were so concerned. Therefore, Jesus continued the sermon saying to his disciples who were upset. “Do not let your hearts be troubled.”
He continues, “In my father’s house, there are many dwelling places…” And you know the way to the place where I am going.” However, Thomas said to him, “Lord, we do not know the name and address of where you are going. How can we know the way?”
Then, Jesus answered at first “I am the way” in other words, Jesus is trying to let Thomas realize his own mistake.
Earlier in John 14, Jesus did not say “since there is a way and you can find it and go that way, so you will see me in the heaven.” Rather, Jesus himself is “the way, the truth and the life. No one comes to the Father (and by extension heaven) except through [Jesus].”
Since there are so many religions in this world and ideally we respect each other, so we often say, there is one God in heaven. But based on whatever religion you believe, there are many different ways to reach heaven and meet God. Despite the different paths, to arrive there, the final destination is the same. Do you think that is true?
After Jesus said “I am the way,” he said, “and I am the truth.” Jesus Christ, who is the way and the truth, and he said “I am the life.” Jesus is the key to eternal life.
What does it mean? What is Jesus talking about? What Jesus is teaching here is that God is not passive just waiting in heaven for new souls to arrive.
Rather God himself became a man, Jesus Christ, and He himself came down to the earth and lived among us. If you look at chapters 13 through 17, Jesus delivered a long sermon one day before he was crucified. In that sermon, the point is that he promises that even if you don’t see Jesus, His presence is among you.
That promise is not only for the future, but that promise is already currently implemented and will be done so eternally. Even in the 21st century, that promise is still being implemented. Therefore, even though we don’t see Jesus, Jesus most assuredly lives among us.
Father, God, His son, Jesus Christ, sends the Holy Spirit into this world even today. The faith of believing the Trinitarian God, Jesus Christ, is the way, the truth, and the life. We, as Christians, are on a journey. We often wonder about the purpose of the journey and we take wrong turns in our lives, but we can find comfort in Jesus Christ because he is the way to heaven.
Even if we attend worship every Sunday, we still make mistakes. Sometimes the pressures of these mistakes can drain us emotionally and spiritually. However, if we actively remind ourselves that Jesus Christ is the way, the truth, and the life – there is no reason not to live each week joyfully praising Him. We may be a broken people, but we are “put back together” by the cross and God’s grace. If we try our best to live God-centered lives every day, we’ll always be going in the right direction. Amen.
Pr. H. Adachi
2014年5月18日LCR日本語部週報通算第1307号
May 18, 2014 LCR Japanese Ministry Bulletin
今週は102編の18節までを読む。いつものように気になる言葉や節はなにか? 詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編102編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。
詩編102編
1:【祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩。】
2:主よ、わたしの祈りを聞いてください。この叫びがあなたに届きますように。
3:苦難がわたしを襲う日に/御顔を隠すことなく、御耳を向け/あなたを呼ぶとき、急いで答えてください。
4:わたしの生涯は煙となって消え去る。骨は炉のように焼ける。
5:打ちひしがれた心は、草のように乾く。わたしはパンを食べることすら忘れた。
6:わたしは呻き/骨は肉にすがりつき
7:荒れ野のみみずく/廃虚のふくろうのようになった。
8:屋根の上にひとりいる鳥のように/わたしは目覚めている。
9:敵は絶えることなくわたしを辱め/嘲る者はわたしによって誓う。
10:わたしはパンに代えて灰を食べ/飲み物には涙を混ぜた。
11:あなたは怒り、憤り/わたしを持ち上げて投げ出された。
12:わたしの生涯は移ろう影/草のように枯れて行く。
13:主よ/あなたはとこしえの王座についておられます。御名は代々にわたって唱えられます。
14:どうか、立ち上がって/シオンを憐れんでください。恵みのとき、定められたときが来ました。
15:あなたの僕らは、シオンの石をどれほど望み/塵をすら、どれほど慕うことでしょう。
16:国々は主の御名を恐れ/地上の王は皆、その栄光におののくでしょう。
17:主はまことにシオンを再建し/栄光のうちに顕現されます。
18: 主はすべてを喪失した者の祈りを顧み/その祈りを侮られませんでした。
気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、あまりにも詩的というか(詩編なので当たり前なのかもしれないが)、趣のある表現が多いと感じ、挙げかねている。しかし、ひとつ挙げるとすると、18節の、「主はすべてを喪失した者の祈りを顧み/その祈りを侮られませんでした。」を挙げたい。結局、あまり趣のある表現ではないが、とても元気づけられる。
詩編作者の立場を思って詩編102編を読む時、まず1節にあるように、詩編作者自身が心くじけてしまった経験を持つ中で(あるいはそのような人の立場を思いつつ)、この詩を書いたように思う。 2-3節では、主なる神に、私の祈りが聞かれるようにと訴え、すぐに答えてくださいと叫んでいるような強い語気で詩編ははじまる。4-12節では、心くじけた者のどうしようもない状態をぐちをならべるような感覚で詠っている。しかし、それらのぐちが、上記にも書いたが、とても詩的で趣がある。「生涯は煙となって消え去る。」「骨は炉のように溶ける。」(4節)、「心は、草のように乾く。」(5節)、「骨は肉にすがりつき」(6節)、「廃墟のふくろう」(7節)、「屋根の上にいる鳥」(8節)、「パンに代えて灰を食べ、飲み物に涙を混ぜた。」(10節)、「生涯はうつろう影、草のように枯れて行く。」とづらづらと続く。 13 節以降は様相は一変し、主を賛美する言葉に変わっていく。これらの言葉は紀元前6世紀にエルサレムが破壊されてしまった後の時代に書かれたと思われるが、主なるあなたが、永遠に王座についており、代々にわたって、主の御名が唱えられる。(13節) とはじまり、破壊されてしまったシオン(エルサレム)を憐れんで、新たな恵みの時を宣言する。 主に従う民が、廃墟になったシオンでも、どれほどにシオンの石を、いや塵ですら慕っていることか。(15 節) 国々も王たちも、主の栄光をどれだけ畏れるか。(16節) 主がシオンを再建し、栄光の中で顕われる。(17節) そして、主はすべてを喪失した者の祈りを顧みて、決してその祈りを侮るようなことはない。(18節)
この詩編を通して、主なる神は、私たちに何を語りかけておられるのだろうか? 私の場合は、先週末に天に召された兄弟のこと、未亡人となられた姉妹。また昨年召された方とその未亡人。逆に昨年召された姉妹と寡夫(ヤモメ)となられた兄弟等のことを思っている。また数々の離婚された方々のこともいっしょに覚えている。この詩編では、住んでいた都が陥落してしまったときの人々と主なる神の関係を詠っていたのかと思うが、夫婦として築いてきた都というか二人の城、結婚関係は、たとえ離婚しなかった夫婦でもいつかはどちらかが天に召され、その都がばらばらと崩れていくような、そして、心くじける時がくるのが避けられない。 しかし、そこで、主に素直に語りかけて祈るとき、その祈りを決して侮ることなく、必ず顧みてくださる方がおられる。早くも4週間が過ぎようとしている復活節にあって、十字架の死によって死をも滅ぼされる主イエスに、祈ることの大切さ、そして祈りが強さに変わっていくことを確信する。アーメン
安達 均
ヨハネ10:1-10
主イエスキリストの恵みと平安が、主イエスの子供たちである会衆の上に豊かに注がれますように。
私たちの住む世の中には、毎週、主イエスの真の御声を聞かずに、他の何かに没頭してしまう対象がいろいろある。仕事だったり、お金だったり、車だったり、宝石だったり、あるいは異性のだれかだったり、人によっては同性のだれか。あるいは様々な宗教だったり。その対象は、本当に自分自身とどう関係しているのだろう。何かに没頭しながらも、毎週日曜は神の御言葉を聴くことはできるのではないだろうか?
今日の聖書箇所では、羊と羊飼いの関係をイエスは話している。羊は弱く、一匹だけで生きていくことはできない。自分の羊飼いの声を聞き分け、夜は囲いのあるようなところで過ごすが、明るくなると、やはり羊飼いの声に従って、群れを成し、そして牧草地にも行き、栄養を得られる。
しかし、羊というとその目的は羊毛だったり、羊肉として食べられてしまうわけだが、イエスのたとえでは、羊飼いが羊たちの羊毛を売ってしまったり、羊たちを食用に売ってしまうような羊飼いとはちょっと違う。 さきほど拝読した聖書箇所の次の節にはイエスは「私は良い羊飼である。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と自らを表現しているが、いったいどういう羊飼いなのだろうか?
聖書に描かれた壮大なストーリの中からわかることは、この良い羊飼いとは、羊飼いのままいるのではなく、徹底的に自分の羊たちを愛し救うために、羊飼い自らが羊にまでなってしまい他の羊たちの命の救いのため屠られてしまう。しかし、その良い羊飼いは屠られ死にて葬られても、永遠に生きており、羊たちとともに永遠に生きる。
今日はこどもの祝福式かつ、また母の日でもある。 母の日にちなんで、立教大学のチャプレンの方が紹介していた昔話を紹介したい。
ある所に、母親と一緒に暮らす若者がいた。彼は大変親孝行者だった。村人は皆、彼を誉めながら、彼のお母さんをうらやましがっていた。ある日、彼は隣村に買い物に行った。そこで、彼は思いがけず、大変美しい女性と出会い、すぐに彼女のことが好きになってしまった。
しばらくして、彼はその女性に、愛の告白をし、結婚を申し入れる。彼女はそれを受け入れた。その青年を大変気に入って、毎日のように仲良く付き合うようになった。さて、結婚直前に、彼女は突然、結婚のための一つの条件を持ち出した。ところが、その条件というのは、とても信じられないものだった。それは、「愛する人よ、私と結婚するためには、あなたのお母さんの心臓を、私のところに持ってきなさい。そうでなければ結婚はできません。」ということだった。
若者は耳を疑い、考え込んでしまった。「そんなはずはない。」ところが、彼女は、その条件を若者に要求しつづけた。若者は思い悩んだが、その美しい女性とどうしても結婚したいという気持ちを、抑えることができなかった。そして、ある日、涙を流しながら、寝ている母親の心臓を切り取って、自分の手に持ち、その娘のところに走って行った。
急いで向かう途中、小さな石につまづいて転んでしまった。もちろん、手に持っていた母親の心臓も落としてしまった。落ちた心臓を拾うとした時、地面に落ちた母親の心臓から、心配そうな母親の声が聞こえてきた。「我が子よ、大丈夫か、けがはしなかったか、気をつけておゆき。」その時、若者はようやく正気に返った。親孝行者と言われていた自分が、女性の美しさに目が眩んで、大切な親を手にかけてしまったことに気がついたのだ。
この昔話、息子と彼女は、私たち人間つまりイエスの言われる羊たち、そして母親はすべての人間を創造された神である主イエス、つまり羊たちのために命を捨てる良い羊飼いであることおわかりいただけただろうか? ここまで私たちを愛してくださる主なるイエスに気付き、毎週、その主イエスの御声を聞き、良い羊飼いに養われる羊たちの群れが成長していくようにと祈る。アーメン 安達均
The Good Shepherd is a Parent and his Sheep are His Children
John 10:1-10
May Grace and Peace of our Lord, Jesus Christ, be poured into your and your children’s hearts in this sanctuary! Amen.
In today’s world, we get distracted by so many different things that we forget to listen to God’s voice every Sunday. These distractions include, but are not limited to, work, cars, or jewelry. Your relationships (whether they’re heterosexual or same-sex) can also be a source of distraction. Of course religion could be a distraction as well, if we don’t focus on listening to God’s voice. If you have distractions, in your life, are you obsessed with them or can you still focus on what’s important?
In today’s Gospel, Jesus is talking about the relationship between a shepherd and sheep. Sheep are weak and they cannot live without guidance and protection. Sheep listen to their shepherd and instinctively know his voice. During the daytime they go out together, follow their shepherd’s voice, find pasture, and become nourished. At night, they enter into a sheepfold and are thankful for the shepherd’s protection.
However, Jesus does not talk about the shepherd who sells sheep’s wool or meat. Right after today’s text, Jesus says, “I am the good shepherd. The good shepherd lays down his life for the sheep.” What does it mean? How does this good shepherd relate to his sheep? What does he do for them?
According to the magnificent story in the Bible, the Good Shepherd is divine, but since he loves his sheep so dearly, He willingly chose to become like his sheep. Not only does he become a sheep but he was slaughtered to save the lives of his sheep. However, even though he was killed and buried, he is risen and lives among his sheep; he lives among humanity, us. We should still listen to his voice. Jesus treats us like beloved children.
Today, in this sanctuary, Jesus blesses children. Also, today we celebrate Mother’s Day. On this Mother’s Day, I would like to share an old South Indian folktale that I learned from a chaplain at St. Paul University.
There was a mother and her son who lived together very happily; he was a good son to his mother. Neighbors praised him as a good son and envied the mother. The mother loved her son whole-heartedly; he could do no wrong in her eyes. One day, he went to a neighboring village and met a beautiful girl. He, of course, fell in love with her.
After he became acquainted with the girl, he proposed to her and asked her to marry him. She accepted his proposal and they spent time together almost every day. Just a few days before their wedding, she suddenly made a stipulation to getting married. The stipulation was unbelievable. She said, “My dear fiancé, in order to marry me, please bring your mother’s heart to me. Unless you do that, I will not marry you.”
The young man doubted he heard his fiancé correctly and thought, “what I heard is wrong.” However, she insisted on the stipulation. Although he was troubled by the stipulation, his wish to marry her was so strong; he did not stop himself from committing the horrible act. Crying deeply, he cut out his mother’s heart while she slept soundly. Then he ran back to his fiancé, carrying his mother’s heart.
However, as he ran, he stumbled over a small stone and fell down. Of course, he dropped the heart and then he quickly picked it up. As he picked it up, a voice from within the heart said, “Oh my dear son, are you OK? Are you injured? Be careful and go with my blessing.” At that moment, he came to himself. He realized his fiancé’s jealously and his own stupidity. Despite being killed, the man’s mother still loved him and wanted him to be happy.
Don’t you think the man and his fiancé represent the people who killed Jesus on the cross? They represent us when we let our distractions (i.e. our sin) block out God’s voice. Don’t you think the mom represents Jesus, the Good Shepherd, who lays down his life for his sheep? He loves us even though our actions lead to his death. I hope and pray that all the people in this world realize Jesus’ tremendous love for each one of us. We are blessed by the Good Shepherd’s amazing love for his sheep. Despite humanity killing Jesus, God still loves us and wants us to be happy. As Christians, we should avoid distractions and listen to His voice every week and share Jesus’ grace with people. By actively listening to Jesus’ voice, the Christian community will grow and strengthen according to the Good Shepherd’s will. Amen.
Pr. Hitoshi Adachi
2014年5月11日LCR日本語部週報通算第1306号
May 11, 2014 LCR Japanese Ministry Bulletin
Forth Sunday of Easter, Special Service “Blessing of the Children”
5月の母の日に子供祝福式を行います。清々しい季節に是非教会にお出で下さい。
復活祭が終わって、第三週目に入っている。今週は23編を読む。いつものように気になる言葉や節はなにか? 次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編23編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 復活節の第四主日(今年は5月11日)には毎年、ヨハネ福音書10章からイエスが羊飼いと羊の関係について話している箇所が読まれる。詩編23編を読み、ヨハネ10章を読むのもとても良い。
詩編 23編
1:【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
2:主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
3:魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
4:死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
5:わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
6:命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。
気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、「主は羊飼い」という言葉。詩編23編はこれまでも何度も読む機会があったが、今日は、特に「主は羊飼い」という言葉が際立っており、そして、主イエスが「私は良い羊飼い」(ヨハネ10章11節)と語られていたことを思い出す。
詩編作者の立場を思って詩編23編を読む時、まず作者はだれなのだろうかと考える。「ダビデの詩」となっているので、ダビデが作者なのかとも思うが、後世の作詞者がダビデのことを思いつつ、この詩編を作ったようにも思える。いずれにしろ、詩編作者は、遊牧民のことを身近に見ていたのだろう。 そして、自分の置かれた状況を、羊にたとえ、この詩編23編を作ったのかと思う。 初めの一節は、いきなり、主なる神が羊飼いであり、その羊飼いのおかげで一切私には不足しているものは無いと詠う。 主は食べ物や飲み物のあるところに導いてくださり(2節)、たとえ疲労困憊のようなことになっていても、魂を生き返らせ、主と呼ばれる方の通り、主の正しい道を歩ませてくださる。(3節) 羊飼いが鞭や杖をもって導いてくださるおかげで羊たちが危険な道をも通っていける。それと同じように、主が共にいてくださるおかげで、私たちの歩む道が死に瀕するような危険を伴う道であろうが、私も力づけられ歩むことができる。(4節) 私を苦しめる状況があったとしても、食卓を整え、頭に香油を注ぎ、杯を満たしてくださる。(5節) この世の命のある限り、恵みと慈しみが伴ってくださり、さらにこの世の命が終わろうが主の家に戻り、永遠という単位で、私は主の恵みと慈しみの中にとどまることができる。(6節)
この詩編を通して、主なる神は何を語りかけておられるのだろうか? 長年、復活ルーテル教会に奉仕され、また時々、教区事務所の庭の手入れもしてくださっていた兄弟がいる。 10数年前にがんをわずらったが回復し、新たな10年ほどの期間が与えられていた。 一年少し前から異なるがんをわずらい、治療をされていた。 しかし、もうこれ以上の治療をできない状態となり、自宅で安静にされていることを思いつつ、この「詩編を読もう」を書いている。 主は自ら “良い羊飼い” と話し、普通の羊飼いとは異なる。死にて葬られても復活なさる主なる神イエスキリストは、私たちにも復活の命をくださっていて、永遠という単位で、その兄弟を恵みと慈しみの中においてくださる。良い羊飼いなる主イエスが永遠にあなたと共にいてくださる。アーメン
安達 均
5月11日は母の日です。この日に子供祝福式を行います。参加する子供達と一緒に、多くの方が「幼子のごとく」神の祝福に与りますように。