ヨハネ 21: 15-19  

救い主イエスの恵みと平安がこの礼拝堂に集まった会衆の心の中にしみわたりますように!アーメン

もう30年近く前になってしまうが、日本で会社勤めをしていて、ペースメーカを入れた方が良いか、心臓手術をすべきか、他の内科的な手法で治療すればよいか等々を判断する心臓カテーテル検査に使われる機械の開発設計をしていた。 
海外から特別なドクターとか取引き先が来社して、海外事業の担当者からは、専門知識を必要とするから技術部門からも顧客対応をして欲しいと頼まれたりすることも多かった。 そのような時、資料を準備し、商品を見せて開発の背景、趣旨、用途を説明するのは、大喜びで対応した仕事のひとつだった。
会議の後に、顧客からも営業担当部署からも、感謝されたとき、「どういたしまして」 “You are welcome” というつきなみな挨拶をしていた。あるいは、つまらない言い方だが、謙虚なつもりだが、「私の仕事としてやるべきことをやっているだけです。」”It is my job… and I am doing what I supposed to do.” というような言葉しか、思い浮かばなかった。 
しかし、何年かするうちに、”It is my pleasure.” という言い方があることがわかり、まさに、これだ。私が言いたかった言葉は、と気づいた。 そして、だんだん、この言葉を自然に使えるようになっていった。 しかし、エンジニアとしてより、事業戦略とか子会社のマネージメントを担当する部署の仕事に変わっていったとき、それは昇進だったのに、心から”It is my pleasure.”という機会は少なくなってしまった。

本日の聖書箇所の少し前には、復活後のイエスが弟子たちに三度目に現れた時の様子がある。弟子たちは、三度目にもかかわらず、そこにいた人がイエスだとは気がつかないでいた。近くに神がいるのに、それに気づかない私たちの実体が書かれているのかと思う。
イエスはペトロとサシで話す。ペテロは一番弟子とは言うものの、イエスが十字架に架かりそうになると、三度もイエスを否定してしまった。しかも、その場からは逃げていってしまった。 それくらい、イエスとの関係を傷つけた弟子なのである。
復活後のイエスは、イエスと面と向かって話す。イエスが3度目にペテロにあらわれても、なかなか気づかなかった弟子に対して、3回、同じような質問をくりかえす。 「私を愛しているか」 という質問を。そして、ペテロは答える。3回「私があなたを愛しているのはあなたがよくご存知です。」 
ペテロはイエスが三回も同じ「私を愛しているのか」という質問したことに、悲しい気持ちになってしまった。しかし、「愛しているか」とイエスが聞き続けることを裏を返していうならば、イエスがペトロを疑っているとかではなく、神がどんなにか深くペトロのことも愛してくださっていて、それゆえに、「私を愛しているか」という質問を繰り返ししていることに後々気づいていったのではないだろうか? たとえば、もし配偶者なり恋人が、あなたに、「私のこと愛している。」と何回も聞くなら、その配偶者や恋人があなたを深く愛しているということだということではないだろうか? 
そのような会話のあと、イエスはとんでもないことを話しだした。あなたは若いときは、さっそうとして自分の好きなところに出かけていた。

しかし、ペトロ、あなたは、年をとると、自分で着飾るどころか、だれかに両手を広げられ、帯をしめられ、行きたくないところに連れていかれてしまう。 
この会話はイエスの復活後数日なので紀元後34年ごろに起こったと思われるが、それから約30年後、ペトロはローマにつれてこられ死亡したとされている。しかも、病死とかではなく、無残な死に方をしている。逆さ十字架の刑で殉教したといわれている。だから、ペトロは初代カトリック教会のビショップとされ、その墓の上に壮大な聖ペトロ大聖堂が建築され現在にいたっている。ペトロは若いころは、行きたいところに行き、平安のうちにこの世の人生を終われれば良いと思っていたと思う。キリスト教徒を激しく迫害し、権力者はキリスト教を認めていないローマに行って殺されたいなどとは思っていなかったと思う。 
しかし、ペトロの人生を考えると、主なる神、イエスからの徹底的な愛をいただいていることを確証できたゆえに、とんでもない拷問をうけようが、神の愛の中でどんなことにも絶えられるという気持ちが備わっていく。どんな人生を歩むことになったとしても、それが、この世では無残な死に方に終わっても、神の栄光を顕すことに寄与するならば、痛み苦しみが忍耐となり、それが希望、喜びに変わっていたのではないだろうか。ローマ5章には、「苦難が忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。希望は欺くことがない。聖霊によって神の愛が注がれているからです。」とある。  

ペテロのイエスとの関係、さらには、イエスの生涯、ペテロの生涯を通して、神は現代の私たちには何を教えてくださっているのだろうか? 御言葉を全身全霊をこめて読んでいく時、神は敬虔な信仰者だけではなく、いいかげんなキリスト教徒も、非宗教的な世の中で普段、神を忘れてしまって生きている人々も含めて神が人類を愛することを止めてしまうということなどなく、しつこいくらい愛し、恵みを注ぎつづけてくださっているということではないだろうか?
今日の聖書箇所には、その神の愛に生かされていることがわかる中で、私たちの歩むべき道を記されているように思う。それは、イエスがペトロに語ったように、私たちも若いころはよかった、自分でやりたいことができていた。車にのってしっかりシートベルトも自分で締めて行きたいところに行っていた。しかし、年をとるにつれ、若いころ楽しんでいた仕事でも趣味でも、それが変わっていき、望んではいなかったことをしなくてはならなくなってしまう現実もあるのだと思う。しかし、キリスト教徒として、その中に神の意志、栄光を実感できるのではないだろうか? 
そして、それがどんなに忍耐を要するような仕事や境遇であろうが、その神の栄光のために、私が遣わされているということに気づくとき、心から「はい、喜んで」と言って仕えることができるのではないだろうか。アーメン。
安達均

“It’s My Pleasure”
John 21:15-19

May Grace and Peace be with you in the name of Jesus Christ, our Lord and Savior! Amen.

About 30 years ago, I was one of the engineers who developed a cardiac catheterization system that helps doctors decide whether or not patients need pacemakers, any kind of cardiac surgery, or any type of internal medicine.
Sometimes our overseas department had guests from foreign countries, such as famous doctors or sales representatives. On those occasions, I often supported presentations by explaining the newly developed systems since it required special knowledge about cardiac catheterization. I truly liked that aspect of my job. I enjoyed describing the products and explaining the reasoning behind including certain special features.
After the meetings, customers and the international sales department were thankful for my insights; I just said “You are welcome.” or sometimes I humbly said, “It is my job… and I just did what I supposed to do.” At first, I did not know how to adequately express my humility and joy on these occasions.
Later on, I learned to say, “It is my pleasure.” I realized that this phrase was exactly what I was looking for. Then, I became accustomed to using this phrase. However, after 10 years of engineering work, I was assigned to the strategic corporate planning and the subsidiaries management teams. These positions offered more responsibilities, were prestigious and definitely a promotion, but quite honestly I used “It is my pleasure.” much less than when I worked as an engineer.

Today’s Gospel text is the scene when the resurrected Jesus was revealed among the disciples for a third time according to John. Even though it was the third occasion, at first, the disciples did not realize it was Jesus. It is very similar to our daily lives now; we forget Jesus is among us and within us. (As a result, humanity often does very stupid things while God is watching.)
Then Jesus met Peter face to face. Although Peter was considered the “first disciple,” when Jesus was crucified, he denied Jesus three times saying “I do not know him.” Then together with the other disciples, he ran away from Jesus and did nothing to stop his crucifixion. Through their actions, the disciples hurt the relationship between Jesus and themselves.
In today’s Gospel Jesus asked Peter the same thing three times, saying “Do you love me?” then Peter answered three times saying, “You know that I love you.”
Peter felt hurt since Jesus repeated, “do you love me?” three times. However, if Jesus continued asking “do you love me,” rather than doubting Peter, it shows that Jesus truly loves Peter. Suppose you were asked by someone “do you love me?” three times, what would you think? I think that person loves you. I believe Peter understood the depth of Jesus Christ’s love after these three experiences.

After the three repeated questions and answers, Jesus basically said the same thing three times again, “feed my sheep” (although phrased differently.) Then, Jesus abruptly said, “Although when you were younger, you used to fasten your own belt and go wherever you wished.”
“But when you grow old, you will stretch out your hands, and someone else will fasten a belt around you and take you where you do not wish to go.”
This conversation happened a few weeks after the resurrection probably around A.D. 34. 30 years later, it is said that Peter died in Rome. He was tortured upside down and martyred on the cross. I believe when he was young he thought he could go wherever he wanted and he would end his earthly life peacefully. I doubt that he wanted to go to Rome where people hated Christians and the Roman authority strongly disapproved of Christianity.
However, when we think about the life of Peter because of the fact God, his Lord and Savior, Jesus, loved him and abundantly poured mercy and grace onto Peter; he was ready to go somewhere he did not want to go and he could endure martyrdom. Even though the way he died was not the way he wanted his earthly life to end; he was convinced that his death was a way of revealing God’s glory. Therefore, I believe that his torture and suffering was transformed into endurance and joy.

When we think about the relationship between Jesus and Peter and when we think about the life of Peter, today, what are we learning? What is God telling us? I believe what is written in the Scripture was not only expressing Jesus’ love of Peter but also his love of all the disciples and the world’s Christians. Even though it is more and more secular today, than compared to the past, in both the United States and Japan; God has not stopped showing his boundless love and grace.
In the midst of His unconditional love, Jesus is showing us His way. As Jesus told Peter and to us today as well, when we were young, we could do what we wanted to do. When we get older, our attitudes tend to change. As we age, at least physically, we are unable to do certain things that we did when we were younger.
As we get older, even though we are placed where we did not want to go, or our job or job titles become very different from what we hoped, or our lifestyle becomes very different from what we hoped, as Christians, we should see God’s intentions and glory.
If we see God’s glory even at difficult times I believe they become moments of great joy and grace. Then we may truly say, “It is my pleasure” to live this life. Amen.
Pr. Adachi

7月のカレンダー・聖書日課です。 7月は夏休みも始まり、日本に行かれる方、ご旅行に出かける方も多い月です。楽しい教会の行事も盛りだくさんの月ですので、ご自分のカレンダーと照らし合わせて、教会の楽しいイベントにご出席下さいますよう  ご案内致します。

2014年7月カレンダー&聖書日課

来週は10時からの合同礼拝となり、日本語礼拝はありません。合同礼拝後は教会でBBQランチが行われます。どうぞご出席下さい。

2014年6月29日LCR日本語部週報通算第1313号

2014年6月29日の週報

June 29, 2014 LCR Japanese Ministry English Bulletin

Sunday English Bulletin 1313E

 

カール先生指導によるアーバイン家庭集会が、愛子Gordilloさん宅で、毎月第二と第四火曜日の10時半から一時間行われています。6月11日から始まった新しいシリーズは、毎回違う譬え話や奇跡の話を通して神様と私たちの関係を学んでいます。興味深い学びの時です。出席できる方は是非出席して下さい。出席できない方の為に、毎回の纏めを掲載致しますのでご覧下さい。

アーバイン家庭集会特集#1

カール先生指導によるアーバイン家庭集会#2

 

今週は詩編89編の1-5節と16-19節を読む。89編は53節もあり、とても長いが、上記の箇所を集中して読む。いつものように気になる言葉や節はなにか? 詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編89編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。
 
詩編 69編8-19節
1:【マスキール。エズラ人エタンの詩。】
2:主の慈しみをとこしえにわたしは歌います。わたしの口は代々に/あなたのまことを告げ知らせます。
3:わたしは申します。「天にはとこしえに慈しみが備えられ/あなたのまことがそこに立てられますように。」
4:「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び/わたしの僕ダビデに誓った
5:あなたの子孫をとこしえに立て/あなたの王座を代々に備える、と。」〔セラ

16:いかに幸いなことでしょう/勝利の叫びを知る民は。主よ、御顔の光の中を彼らは歩きます。
17:絶えず、御名によって喜び躍り/恵みの御業にあずかって奮い立ちます。
18:あなたは彼らの力の輝きです。御旨によって、我らの角を高く上げてください。
19:主は我らの盾/イスラエルの聖なる方は我らの王。

気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は17節の「絶えず、御名によって喜び躍り」。 

詩編作者の立場を思って詩編89編を読んでいきたい。150 編の詩編のなかで、12の詩編には、マスキールと書かれている。ヘブル語の元々の意味は「悟る」というような意味がある。転じて、「教訓的な詩編」という意味をもつ詩編なのだと思う。 そして、エズラ人エタンが作詞・作曲者ということになるのだろう。 いったい、エズラ人とは?またエタンとはどういう人だろうか? エズラといううとエズラ記が有名だが、エズラ人となるとエズラという一人の人ではなく、民をバビロン捕囚からイスラエル帰還に導いた指導者たちと想像する。とくにエタンという人がどういう人なのか、むずかしいが、歴代誌上15章16節と19節に出ている、演奏者、とくにシンバルを鳴らしていたパーカッショニストであり、かつ詩編作者だったのではないかと思う。 
さて、2節から5節は主への賛美。永遠の主の慈しみ(憐れみ)を覚え、私も代々にわたって子孫たちも、主をほめ讃えます、あたなの真理を告げます(2節)。 私は詠う、「天には永遠なる慈しみが用意されており、あなたの真理が天に立っている」(3節) 。4-5節では、主がダビデに約束した、「子孫を永遠に立て、王を代々備える」ということを詩編作者は人々に思いだすようにと喚起しているのかと思う。5節は「セラ」という休符の記号で閉じる。

16節から19節も、2節以降、連続的につながってきている賛美なのだと思う。 いかに幸いなことか、勝利することは、主の光の中を民が歩く(16節)。御名のゆえに絶えず、喜び踊り、恵みにあずかり、奮い立てる(17節)。 あなた自身が、わたしたちの力の輝きであり、あなたの御意志によって、私たちを強めてください(18節)。主が我等のたてとなってくださり、聖なる御方こそ、我等の王。 

この89編を通して、主なる神は現代の私たちに何を語られているのだろうか?冒頭にも書いたが、89編は50節以上もある長い詩編だ。 そして、その全体の内容は、かならずしも、神を賛美したいことばかりではなく、むしろ、神に嘆いている部分、とくに後半には嘆きの言葉がたくさん詠われている。 この詩編が書かれた時代は、民が律法をまもらず、他国の王によって、バビロンに捕囚されてしまったりということが起こり、悔い改めながらも、いったいバビロンからの解放はいつ訪れるのかと、暗い気持ちでいる状況もあったのだろう。 しかし、そのような暗雲立ち込めるような状況にあっても、主が民をあきらめずに約束を守ってくださる主の慈しみ、憐れみを、褒め称える大切さがあるのかと思う。 それは、現代にあっても、国家間のひずみや、市民団体間の異なる意見、たとえば原子力の問題等、あるいは家庭内でも、さまざまな争いが耐えないのが実情なのかと思う。 しかし、そのような困難の中にあっても、聖書全体に約束された、神の愛、キリストの愛、をいただいていることを確信し、主を賛美する歩みが大切なのかと思う。 そして神の愛に気づくとき、喜び踊るような気持ちにもなってくる。私が平日に働いている教区の事務所では、水曜の午前11時半から礼拝がある。昨日は、復活ルーテルで日本語部の仕事をしていて、礼拝に行くことはできなかったが、午後に教区事務所に出向くと、同僚が、これから毎週礼拝後には皆でダンスをすることにしたという。 来週が楽しみだ。 アーメン 
安達均 

マタイ10: 24-39

主イエスキリストの恵みと平安が集まった会衆の上に、そして、またこの礼拝を覚えながらも、ここに集えない人々の上にも、豊かに注がれますように!

一番恐いと思うことは何だろう? 死に至るような病気や事故になることへの恐れ?そのような恐れがあるために、食事に注意したり、運動をしたり、定期健診を受けたり、安全運転に心がけたりするということがある。恐れは一概に悪いこととは言いない。しかし、恐れてばかりで、何もできなくなってしまってはいけないので、恐れにも程がある。 
先週木曜日の夕方は、私はすばらしいCCNの講演会に出席できたと思い、感動している。 エベレスト北壁登頂を72歳という高齢で先月の5月25日に成功したビルバークさんという方がこの復活ルーテル教会に来てくださり、自ら撮影したビデオや、自分の使っていたさまざまな登山具を披露しながら、約1時間半の講演会をしてくれた。 
約5%は帰らぬ人になると言われるエベレスト登頂を6回試み、南から一回、北壁も一回、合計二回の成功を治めた。その要因には、普段のトレーニングもあるし、遺伝子によって高山病になりにくい体質に恵まれていること、良い器具やティームメンバーに恵まれること、メンタルトレーニング、そして信仰がある。
エベレスト頂上付近には、過去に挑戦したが帰らぬ人となった人々の遺体が、放置されたままになっている。遺体回収ができないほどの厳しい自然環境がある。その遺体を見ることも、自分も同じ運命になるのではという、死への恐怖との闘いなのだと思う。そのような面でもメンタルなトレーニングがとても重要なのだと思う。しかし、彼の話の中から、メンタルトレーニングともうひとつの最も大切な要素により、恐さを超えて、エベレスト北壁登頂に成功したんだな、と私は思った。もう一つの大切な要素とは何なのか。メッセージの後半で述べたい。

与えられた福音書、イエスが弟子たちを派遣するときに語った話の後半部分をマタイ福音書から読んだ。わかりにくい面もあるし、なんでこんなことが書いてあるのかと思う面もある。一つの大きなポイントは、弟子たちが派遣された先で、様々な不安、恐れを抱くことはわかっていて、その恐れへの心構えにあると思う。 
今日の箇所には、恐れという漢字が4回使われている。 26節にある、「恐れるな」、28節に、また、「恐れるな。」 そして、同じく28節には、こんどは「恐れなさい。」 そして、最後の四つ目は、31節にある「恐れることはない。」 
一つ目は、彼等を恐れることはない、といわれている。彼等とは、派遣された先で、イエスキリストが派遣した弟子たちが、神の国の福音を伝えに来たのに、その福音を全くわかろうともせず、弟子たちを受け入れないような人々と出会う。しかし、いずれは、神の福音はあきらかになるのだから、はじめて出会った人々でわからない人々がいるのはあたりまえで、恐れることはないということを、イエスは前もって忠告していたのかと思う。
次の二番目の恐れることはないという言葉は、体を殺しても魂を殺すことができない方を、恐れるなとイエスは言われる。宣教をする事で、言葉通り、弟子たちも肉体的な死さえ訪れるわけだが、恐れてはいけない。そして、三番目の、「肉体も魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」否定形ではなく、「恐れなさい。」という言葉に直接に関係している。

聖書全体でも、恐れるなという言葉はあちこちに出ているが、恐れよという言葉が出てくるのは、それは、本当に恐れなければならない。 その対象は、地獄において、地獄での肉体的、霊的な死を、滅ぼすことができる、つまり地獄という最悪の状況から脱することができる、全知全能の神を、もっとも、恐れるように。
その神をもっとも恐れ、神との関係を確立するとき、他の恐れはみな、神への恐れにはかなわなくなる。弟子たちは後にわかることだが、その神は、実はイエスキリストであり、主ご自身が肉体的な命を犠牲にしてまでも、弟子たちを愛して、守り、生かしてくださる、そのような主なる神。
すずめ一匹では、貨幣の最小単位である一アサリオンの価値もない。 だから二匹ペアにして、やっと一アサリオンで売られているようなすずめすら、神さまに守られている。あなたがたは、神の目からすずめよりもっと尊いものであり、神の加護がある、だから、その神を恐れ、あとは恐れるな。 これが、31節の「恐れることはない。」の意味だと思う。
今日の福音に書かれた、四つの「恐れ」という言葉から、神への恐れによって、他のものに対する様々な恐怖から解放されるようになるということを学んでいる。 このイエスの言葉は、現代を生きる私たちにも、多いに関係している。

さきほどエベレスト北壁登山を成功したビルバークさんの話をした。体質に恵まれ、良い器具やチームに恵まれ、普段から体のトレーニングもし、そしてもっと重要なメンタルなトレーニングが大切という話をした。 
メンタルなトレーニングの話がフィジカルなトレーニングよりも大切と語ったあと、一時間半の講演の中で、わずか1分半くらいだったと思うが、そのあと、さらに重要なことを話した。 それは、スピリチュアルなものが大切。彼自身は、クリスチャンであり、神に全幅の信頼を置いているということ。
メンタルな面で、これ以上歩けない、睡魔が襲ってどうしようもないという恐れから解放される、神への恐れ、イエスキリストの信仰があることを確信する。 私たちの人生の登山においても、さまざまな恐れ、それは健康的な恐れの範囲内なら良いが、それ以上の恐れを抱く必要はまったくない。この聖日の朝、恵み、憐れみ、慈しみ、に満ちた父、子、聖霊に畏れひれ伏すことで、さまざまな恐れから解放されて、今週も主イエスとともに信仰の旅路を歩もう。そこに大きな喜びがある。 アーメン
安達均

“Whom to Fear”
Matthew 10:24-39

May Grace and Peace of Jesus Christ pour into the hearts of the people here and those who are not able to join us, even though their thoughts and prayers are surely heard!

What do you fear most? Is it a disease or an accident that will cause your death? To be proactive you could eat healthily, drive safely, exercise regularly, get yearly physicals, and so on. Fear is not always a negative emotion. As long as fear doesn’t stop you from living a full, active life; it can teach you to respect your life.
Just this past Thursday night, at Resurrection, Bill Burke gave an impressive and wonderful lecture/presentation. Mr. Burke is the oldest climber, living in the United States, to ascend Everest’s summit (a record he still holds). He just returned from climbing Mt. Everest’s north face on May 25th of this year. He shared with us HD video, his climbing equipment (and gadgets), candid photographs. Most importantly he told wonderful stories about his climbing expeditions and his unwavering faith in Christ.
Bill Burke is now 72 years old, since 2003, he has climbed all 8 of the world’s tallest mountains. He has climbed Everest 6 times and summited twice. Statistics show, 5% of Everest’s climbers do not return, it is a risky and life threatening challenge. However, Mr. Burke summited Everest twice, once from south face and once from the more difficult north face. According to him, there are certain factors that increase chances for success: Daily physical training, excellent overall health (good genes help), good team members, well-made equipment, mental training, and faith in God.
When you summit Everest, dead bodies are left from past expeditions. Natural conditions, on Everest, make it extremely risky to recover remains. Therefore, not only do climbers face severe environmental conditions but seeing bodies adds to the mental challenges for climbers. During his message, I believe he touched on the most important factor, for success, even more important than mental training. I would like to mention it later in my message.

The Gospel text read today, is the last half of Jesus’ directions when he sent the disciples to other villages. Today’s text is a bit difficult to understand and we also could question why such a thing is written in the Bible. However, the most important point that Jesus referred to was to dealing with fear. The disciples were fearful of the unknown and anxious about meeting people from other villages.
In today’s text either the words “fear” or “afraid” are used four times. In the verse 26, “Have no fear”, in verse 28, “Do not fear” and then in the same verse, “Rather fear him”. And in verse 31, “do not be afraid.”
In the first one, Jesus said, “So have no fear of them…” They are the ones whom disciples would meet in the villages. Jesus warned that they would not understand the good news of the Kingdom of God, even though Jesus, the Lord of Kingdom, sent the disciples. Based on the context of what Jesus said, I believe, that even though they do not understand, the truth of the Kingdom would be revealed through the Holy Spirit. Therefore, Jesus told them not to fear the people who would not understand the disciples when they met them for the first time.
The second one is “ Do not fear those who kill the body but cannot kill the soul;” Jesus said, Literally, “do not fear the ones who kill only the body,” and this sentence is directly related to the next sentence, “rather fear him”.

I believe this is fundamentally important if the word of the Bible says “fear him”. The object of the fear is the Lord, God, Jesus, the Almighty, who can destroy both the body and soul in hell.
When we fear the Lord most and establish the relationship with God, other fears becomes less worrisome for the disciples. Although this will be more clearly understood later by the disciples, God is Love of the Lord, Jesus, who sacrifices his body to save his disciples.
One sparrow is not sold for one penny; therefore, two sparrows together are sold for one penny. However, they do not fall outside his care and God protects the sparrows. Since you disciples are much more important, God protects you, of course, so you do not need to fear. Which is the fourth instance regarding the word fear…literally, it is written, Don’t be afraid in the 31st verse.
We are learning that to fear the Lord most reduces other fears. What Jesus taught the disciples, about fear, is directly related to our modern lives. Jesus’ words are still relevant today.

A few minutes ago, I talked about Mr. Bill Burke who summited Everest in his 70s. He is blessed with good genes, has well-made equipment, good teammates, and an excellent physical and mental training routine.
Near the end of his presentation, he spoke of his mental training and how it was the foundation for all other preparations. He shared that he is a devout Christian and trusts God completely. That healthy level of fear allows him to respect his environment, not take safety precautions for granted and motivates him to return safely to his loving family.
There are occasions where fear causes mistakes that lead mountain climbers’ deaths but the fear of the Lord, our faith, reduces less important fears. In our daily lives, fearing the Lord releases us from excessive anxiety about uncertainty in our lives. Let’s fear the Lord most, Jesus Christ, who is filled with grace, mercy, steadfast love, and joy. Through Him we live abundant lives. Amen.

Pr Hitoshi Adachi

今週末、金曜日と土曜日の両日にわたり、修養会が行われます。サインアップされた皆様、聖書をご持参の上、時間に間違えのないようご出席下さい。

2014 年6月22日LCR日本語部週報通算第1312号

2014年6月22日の週報

June 22, 2014 LCR Japanese Ministry English Bulletin

Sunday English Bulletin 1312E-2

今週は詩編69編を読むが、8節から19節に集中して読む。いつものように気になる言葉や節はなにか? 詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編69編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。
 
詩編 69編8-19節
8:わたしはあなたゆえに嘲られ/顔は屈辱に覆われています。
9:兄弟はわたしを失われた者とし/同じ母の子らはわたしを異邦人とします。
10:あなたの神殿に対する熱情が/わたしを食い尽くしているので/あなたを嘲る者の嘲りが/わたしの上にふりかかっています。
11:わたしが断食して泣けば/そうするからといって嘲られ
12:粗布を衣とすれば/それもわたしへの嘲りの歌になります。
13:町の門に座る人々はわたしを非難し/強い酒に酔う者らはわたしのことを歌います。
14:あなたに向かってわたしは祈ります。主よ、御旨にかなうときに/神よ、豊かな慈しみのゆえに/わたしに答えて確かな救いをお与えください。
15:泥沼にはまり込んだままにならないように/わたしを助け出してください。わたしを憎む者から/大水の深い底から助け出してください
16:奔流がわたしを押し流すことのないように/深い沼がわたしをひと呑みにしないように/井戸がわたしの上に口を閉ざさないように。
17:恵みと慈しみの主よ、わたしに答えてください/憐れみ深い主よ、御顔をわたしに向けてください。
18:あなたの僕に御顔を隠すことなく/苦しむわたしに急いで答えてください。
19:わたしの魂に近づき、贖い/敵から解放してください。

気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は17節にある、「恵みと慈しみの主よわたしに答えてください/憐れみ深い主よ、御顔をわたしに向けてください。」 

詩編作者の立場を思って詩編69編を読んでいきたい。 1節には、例によって「ダビデの詩」とあるが、これはかならずしもダビデが詩編作者であると断定できるものではない。 原語のヘブル語では、「ダビデのための詩」と解釈することもできる。 ダビデ以降の時代の詩編作者がダビデが経験したのと同じような絶対絶命とも思われるような状況に遭遇して、ダビデのことを思い作詩したとも考えられる。 8節から10節は一見、主への文句とか愚痴ともとられてしまうような詩編作者のつぶやきを詠う。8節は、大胆な言葉だと思うが、あなた(主なる神)への(私の信仰)のために、私は嘲られ、侮辱されている。9節では、兄弟すらも私をだめ人間と見放し、外国人であるかのように扱う。10節では、主の神殿への思いが私の心を占めているがゆえに、主を嘲るものは、私も嘲る。 ちなみに10節前半の言葉は、ヨハネ2章で人々が神殿を商いの場所としてイエスが激怒した際、その17節でこの詩編箇所が引用されている。11-13 節も、いわば作者のおかれた悲惨な状況が続く。11節12節では信仰者のしきたりである、断食をしたり、粗布をまとうようなことをすると、ますます嘲りの対象となる。13節では、街頭でたむろし酒に酔っている者も、私を非難し、笑いものとしている。14節から18節までは、繰り返し嘆願の祈りに入っているが、まず、「御旨のかなうときに」という謙虚で、辛抱強い言葉を伴った上で、嘆願の連発となっていく。神は豊かな慈しみの方なのだから、私に答えてください。(14節後半) 泥沼にはまったままにしておかずに救い出してください 。(15節) まるで激しい水の流れが私を押し流したり、深い沼が私を飲み込んだりしないように、また深い水底にいるような私を助け出してください。(16節) あなたは恵みと慈しみに富む方ですから私に答えてください。憐れみ深い神様、私にその顔を向けてください。(17節)  その御顔を私から隠すことなく、苦しんでいる私に急いで返答してください。(18節) わたしの魂に近づいてきて、敵、嘲る者たちから解放してください。(19節)

この69編を通して、主なる神は現代の私たちに何を語られているのだろうか? この詩編作者の信仰から、大きな学びがあるように思う。キリスト教徒ではない友人が、25年くらい前になるが、私が家族で毎週教会に行っている事を知り、「自分の知るクリスチャンの人たちは、みな苦しい生活を強いられている。」と語った。彼はだから自分がクリスチャンにならないとかクリスチャンをばかにするという言動を私に語ったわけではないが、きっぱりと私との距離を置かれてしまった気がする。私のその時の気持ちは、詩編69編の作者が8-13節で詠っていることと、共通したような面があるように思う。キリスト信仰者であるがゆえに、孤立無援であるかのような状況に置かれたと思うことがある。しかし、恵みと慈しみに富み、そして憐れみ深い主なる神が、そのような状態を放置することはないという信仰を支えに祈り続けることは大切。主の思いにしたがって生かされ続けよう。上記に書いた友人からは数年後に、ある伝統的なキリスト教会での結婚式をするとのことで招待状が届き参列した。アーメン 
安達均 

マタイ28:16-20

この礼拝堂が父と子と聖霊なる空気に満たされ、一人一人に恵みと平安が与えられますように!

三位一体という言葉を聴き、どんな事を思い浮かべられるだろうか? ここにおられる多くは、キリスト教用語であることはわかっておられる方が多いと思う。でも、キリスト教になじみの無い多くの日本人にとってはどうだろうか? 
私が医療機器の会社に勤めていたとき、社長はよくこの言葉をつかっていた。開発、生産、販売が「三位一体」となって、会社の危機を乗り切ろう。。。 とか。 小泉元総理大臣もよく使っていた。 三位一体の改革とか。
修養会に講師として招いた、キムホンソン先生は、三味一体(味に注意)というコラムを日刊サンに毎月載せている。 日本、韓国、アメリカの味で一体になっているご家族であり、アメリカにいる日本人も韓国人も三位一体の神の中で、いろいろたいへんな面もあるが、なかよくやりましょうという思いがこめられており、神の思いがそこにあるように思う。 
私の会社の社長や、総理大臣が使う、三位一体は、同じ漢字を書くが、キリスト教とは関係が無いとされる。しかし、本当に関係が無いのだろうか?

三位一体主日に与えられている聖書箇所、大宣教命令と呼ばれている。 復活後のイエスがガリラヤ地方で、弟子たちにあって、大宣教命令を言い渡したときの様子が書かれている。 
イエスのこの大命令のなかには、日本語聖書だと、「行く」「弟子にする」「洗礼を授ける」「教える」という四つの動詞を含んでいる。 ギリシャ語聖書だと、はっきりとした命令形の動詞は、「弟子にする。」という言葉だけ。他の動詞は文法的には分詞。
すべての国の民を、イエスの弟子にするためには、キリストの使徒たちは、世界に向けて出かけていき、教会が世界の国々に建てられる必要があったのだろう。それから、洗礼を授けるという言葉と、教えるという言葉。それは、弟子となっていく過程において、洗礼を授けるということも、教えるということも成されるなかで、弟子になっていく。 ただ、洗礼を授けるという言葉の前に、「父と子と聖霊の名によって」という言葉がついている。 さてこれはいったいどういうことなのだろうか? 

私が按手を受けた牧師として、洗礼を授けるとき、「父と、子と、聖霊の御名によって」と言って、この教会では滴礼といって、水をかけることしかしていない。 しかし、もともとの洗礼の意味は、浸るとか沈むという意味がバップタイズの動詞の中にはある。 なので、健康な方は、プールで洗礼を受けるというのも良いことだし、プールまでは行かなくても、洗礼盤の水のなかに、じゃぼんと頭をつけるという洗礼のやり方も良いのだと思う。
しかし、浸すとか沈めるという洗礼の行為の前に書かれている、父と子と聖霊の名によってという部分をつけて、それを直訳するならば、「父と子と聖霊の名の中に沈める」となる。「名」とは単なる呼び名ではなく、実体を表す。洗礼とは「父と子と聖霊というすべてを創造されたる主なる神のいのちの中に入ること」と考えられるのだと思う。 
洗礼を受けるという事は、水の中に浸ったり、水をかけたりする中で罪深い古い自分が死んで新しく生き返るというちょっと恐いことは一回起こる。その時点で、父と子と聖霊という神の命の中に浸るようになるともいえる。 洗礼を受けた後は、自分が自覚する自覚しないに関係なく、父と子と聖霊という三位一体の主の満ちる中に、生きていくようになる。

さて、その三位一体の主の中に浸って生きるということが、私たちの実生活の中でどう関わってくるのだろうか? 私が生きていく上でという主語が「私が」ではなく、父と子と聖霊なる唯一の創造の神が、主語で、わたしたちに直接関わって、私たちを生かさせてくださっている事に気づかされるように思う。 

今日は父の日。母の日を世間は祝うようになったが、ソナラ・ドットさんという女性は、男兄弟5人、つまり自分を含め6人の子供たちを、母が亡くなったあと、父親がで育てたという家庭に育った。彼女は母の日だけではなく、父の日があった方が良いと思った。それが父の日の元祖らしい。ソナラさんのように、父親の愛をあきらかに認識できるような方もいるだろうが、得てして父親の存在は、わかりにくく、その父の良さとか暖かさが、何年もの時間を経てわかることもあるように思う。 
そして、実は、キリスト教でいう、父と子と聖霊という三位一体の神の存在も、多くの方々にとって、わかりにくのかもしれない。しかし、キリスト教の言葉ではありながら、日本では、キリスト教をほとんど意識していない会社の社長とか、あるいは総理大臣が使っている。そこには、父なる神の思いがあり、神ご自身が非宗教的な人間社会の中にも、関わり姿を現そうとされている思いを感じてくる。

実は、聖霊は、神・主イエスから出てくる息、聖なる空気がわたしたちが生きていくこと自体の根底を支えてくださっている。 また、2000年前に顕われてくださった、子なるキリストが私たちの歩む道となってくださって、わたしたちからは物理的には見えない中でもいつもいっしょに歩んでくださり、わたしたちも、その天の父に向かって、キリストの道を歩んでいる。
三位一体の命に浸るなかで、天の神に向かって歩む人生は、この世的には苦しい困難の多い経験をすることもある。 しかし、苦しいことを経験していても、三位一体という創造の神が元気づけ、励まし、必要なものを与えてくださる。その道は、喜ばしく、恵みに満ちた人生だ。洗礼を受けて、主のイエスの言葉を聴き学ぶ中で、キリストの弟子となり、三位一体という実体のなかで、ダイナミックな人生を歩もう。そして、まだ愛にあふれる創造主の存在に気がつかないで人生を歩む方にも、三位一体の暖かさや愛情を表現する弟子となり、他者をもイエスの弟子にする者として歩めるように。アーメン
安達均

Immersed in the Father, the Son, and the Holy Spirit
Matthew 28:16-20

May this sanctuary be filled with the breath of the Father, and of the Son, and of the Holy Spirit, and May the Trinitarian God pour grace and peace into the hearts of the people here and elsewhere in the world!
What do you think of when you hear the word “San Mi Ittai (Japanese word meaning the Holy Trinity)? Many people here know that the word is used in Christianity. However, how is this word understood by the many Japanese people who are not Christians?
When I was working for a medical devices manufacturer, the president often used this word. As in, “Let’s overcome our challenges using San (meaning three) -Mi-Ittai, (meaning collaboration) among Engineering, Production, and Sales.” Also, the Japanese Prime Minister, Shinzo Koizumi, named one of his reform plans “San-Mi-Ittai no Kaikaku (meaning Reform of the Trinity).
The second day’s lecturer of this year’s retreat, Pastor Hongson Kim, writes a column called “San-Mi-Ittai” every month in the Japanese Newspaper, Nikkan Sun. He is Korean, his wife is Japanese, and his children are US citizens. I think his family is an example of how Korean, Japanese, and US citizens commune well together. I, truly, believe God’s wisdom is part of the word “San-Mi-Ittai.”
Although “San-Mi-Ittai,” as used by the president of the medical devices manufacturer and the Prime Minister, doesn’t have a Christian connotation; can we say with certainty that “San-Mi-Ittai” is not a Christian word?

It is Holy Trinity (San-Mi-Ittai) Sunday. Today’s text is often called the “Great Commission.” The risen Jesus Christ met with the disciples in Galilee and spoke of the Great Commission.
In both Japanese and English translations, there are four verbs in the commissioning statement. “Go,” “make (disciples),” “baptize,” and “teach.” In the original Greek text, the only imperative word is “make” and the other verbs are particles.
In order to make disciples in all the nations, the disciples needed to go to other nations. Also to be disciples, they needed to be baptized and taught. The words after “baptizing them” is the phrase, “in the name of the Father, and of the Son, and of the Holy Spirit.” Although we often use and hear these words, during worship, what does this phrase mean?

As an ordained pastor, every time I baptize someone I say the phrase “in the name of the Father, and of the Son, and of the Holy Spirit” and I pour Holy Water from the Baptismal Font. I only pour the water, but the original meaning of baptism is “being soaked or immersed in.” Therefore, there are other churches and some Lutheran Churches as well that have Baptismal Fonts big enough for someone’s whole body to be immersed in water. I think this is a good practice. But, do I think that everyone must be immersed in water to be baptized properly? Of course, certain sick or disabled baptisands (those who’re about to be baptized) should not be immersed in water for safety reasons.
Not only that, if we translate baptism literally, it is “be immersed in the midst of the Father, and of the Son, and of the Holy Spirit.” The “Name” part of the phrase is not really the name of someone but has a meaning more like “substance.” Therefore, we may understand that baptism means “being immersed in the substance (i.e. life) of the Lord, the Creator of all creatures, who is the Father and the Son and the Holy Spirit.”
Being baptized means of course we are dead, our sins are dead, and we are cleansed and renewed by the Creator. At the same time we are immersed in the new life of the Creator, the Father, the Son, and the Holy Spirit. Whether we notice it or not, we start to live in the midst of the Lord, the Holy Trinity.

How does this new life immersed in the Holy Trinity relate to our daily lives? We often use the words, “we live” or “I live” but is the subject really “we” or “I”? I think being immersed in the Holy Spirit makes us realize that “we” or “I” is not the subject but someone else is the subject. In other words, we realize that the Trinitarian God is (and should be) the subject of our lives.

Today is Father’s Day. Father’s Day started with a request by Sonora Smart Dodd to honor fathers. Father’s Day was first observed in Washington State during the early 1900s. In 1972, it finally became a permanent national observance held on the 3rd Sunday of June each year. Sonora was born to a family of five brothers. Her mother died giving birth to Sonora’s youngest brother. Sonora helped her father (Civil War veteran William J. Smart) raise her infant and younger brothers. Sonora greatly respected her father and wanted to recognize fathers for being good providers. However I think, like the holiday itself, it takes a while (in some families) for the father’s presence and contribution to be acknowledged. It takes some children years to be thankful for what their fathers have done for them.
I think it is similar with the Trinitarian God, the Father, the Son, and the Holy Spirit for many of us. Currently, “Trinity (San-MI-Ittai)” is a very secular word in Japan. People, who do not know about Christianity, are using this word often. I believe, though, that behind these instances Christ’s will is at work. The Father, the Son, and the Holy Spirit is trying to reveal himself through the word “Trinity.”

Actually, we are living immersed in the breath of God/Christ and the Holy Spirit is supporting our lives at all times. Jesus Christ, who revealed himself two thousand years ago, is the reason we live and through him we are heading (or should I say are guided) to our Father.
In the midst of Trinity we live and learn through Christ’s teaching. It is the life of faith and it is wonderful even though we sometimes face difficult challenges. The Trinitarian God encourages us during difficulties, offers us what we truly need, and makes our lives joyful and filled with grace. Let’s continue living immersed in the substance of the Father, the Son, and the Holy Spirit. Let’s also show His Grace, with the help of the Holy Spirit, to people who have not yet heard about the Christian “San-Mi-Ittai.” Amen.
Pr. Hitoshi Adachi

均先生の鉄板焼きで父の日のお祝いを盛況に致しました!参加できなかった皆様の為にまた鉄板焼きをご披露されるそうです。ご期待下さい。

2014年6月15日LCR日本語週報通算第1311号

2014年6月15日の週報(三位一体主日)

June 15, 2014 “The Holy Trinity” LCR Japanese Ministry Bulletin

Sunday English Bulletin 1311E (The Holy Trinity)