5月はM兄のメモリアルサービスとなったため予定した家庭集会は延期。 6月14日、M兄はもう出席されないが、それでも10名が集まり、M兄は天からイエス様とともに見守っていてくださった。

O兄はここ数ヶ月は車無しの生活をしているため、なんと行きも帰りも4時間づつ費やしてトーランスからバスで参加。それほどにタスティンの家庭集会には出席の価値がある?!

学んだ内容は、新渡戸稲造のビデオを見て、マルコ15章、ヨハネ15、16章を読む。 

聖書を読んだサムライたち:新渡戸稲造のところのビデオの一部

聖書を読んだサムライたち:新渡戸稲造のところのビデオの一場面

興味ある方は添付資料をご参考まで。 タスティン家庭集会資料 2014 06 14 新渡戸稲造 負けるが勝ち

楽しいですよ。よかったらぜひ次回からご参加ください。 7月12日を予定。。。。 

今週は詩編8編を読む。この詩編は15日の日曜が三位一体主日であり、三位一体にちなんで与えられている詩編。じゃ、三位一体とは、「父」と「子」と「聖霊」が「一体(すべての創造主なる神)」という教えだが、父と子と聖霊が一体であることを知的に理解することは難しいように思う。それよりか、三位一体という言葉(英語ではトリニティという言葉)により、いかに創造主なる神が私たちの実生活に関わっておられるかを感じることが大切なことだと思う。そして、詩編8編が、それを感じるための助けになるように思う。 

いつものように気になる言葉や節はなにか? 詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編8編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。
 
詩編 8編
1: 【指揮者によって。ギティトに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
2:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます
3:幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。
4:あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
5:そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。
6:神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ
7:御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。
8:羊も牛も、野の獣も
9:空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
10:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。 

気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は1節と10節に二回登場している。「あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。」

詩編作者の立場を思って詩編8編を読んでいきたい。 1節は合唱・演奏するにあたっての説明が書いてあるが、ギディトというのは、あるきまったメロディの名前だろう。2節の言葉、まず主への呼びかけがあり、全能の主が全宇宙にもこの地球上にも君臨してくださっている、と詠う。上記に書いたように、同じ言葉は最後の10節にも出てきて、この言葉により詩編8編をサンドイッチ構造にしている。サンドイッチの中身は2節の後半の「あなたの威光をたたえます。」という言葉から始まっている。3節にいきなり、幼子、乳飲み子たちの口(声)によって、神に刃向かう者から守る。と書かれている。この地球もさらに宇宙も、次世代、将来にわたって、健全であるように、神が働かれている。4節の言葉、詩編作者は夜空の星を眺め、神と全宇宙の関係について、さまざまな思いを巡らせたことだろう。5節は、とてつもない広い天、全宇宙にあって、この地に人間を創って、主が人間に心を留めてくださっている驚き。 いったい人間とは何者? 6-9節には、この地において、神が人類を信頼して任せていること。 それは、創世記1章26節にも書かれていたこと。そして10節、全能の主が全宇宙にもこの地球上にも君臨してくださっている、という意味の言葉を再び詠い、詩を閉じる。 

この8編を通して、主なる神は私たちに何を語られているのだろうか? 私には、すべてを創造された御方が、人類登場の時から、時代を超えて、人類に深く関わってくださっていることを覚える。 そして、創造主が人類にこの地の生態系を治めるように任せておられる。 しかし、所詮人類も創造主が造られた存在で、人類は創造主の管理下にある。管理下という言葉を使ったが、創造主が人間たちを細かく、「あれをせよ、これをせよ。」と指図しているわけではない。その管理は、人類を信頼して、任せきっているような面がある。

創造主なる存在は、一見、子供たちをほったらかして自由奔放に育てるような父親のような面がある。しかし、本当にほったらかしているのではなく、父の愛を示すために真理なる子、救い主イエス、をこの地球に2000年前に人として登場させた。 さらに創造主の息・風・聖霊をずっと送り続けてくださって、激しく私たちの実生活の中に存在してくださっている。 その人類とダイナミックに関わる創造主の存在が、三位一体(トリニティ)という言葉から伝わってきて、喜んでいるのは私だけだろうか?  
アーメン
安達均

使徒言行録2:1-21
ヨハネ 20: 19-23
牧師 安達均

誕生日を迎えるとどんな気持ちだろうか? 「最後から二番目の恋」というドラマがある。2年前の人気ドラマでアメリカでも今年のはじめだったか放送されていた。 あまりの人気のため、日本では、「続:最後から二番目の恋」 が放送されているらしい。
その一部を紹介したい。 中井貴一が演じる長倉和平。妻を病気で失い、一人娘と妹たちと鎌倉に住む。 小泉今日子が演じる吉野千明は独身、キャリア。長倉和平の家の隣に住む。この二人が主役のドラマだ。吉野千明の46 歳の誕生日に長倉和平はアットホームな誕生会を開催する。 
しかし、千明は、24歳位の誕生日ならまだしも、なんで46歳の誕生日を祝うのか、と文句を言う。 長倉和平は、妻を亡くしているだけに、そういうことには敏感な男性。きっぱりと言う。「命を与えられたということに感謝しないといけない。そして、46歳という年にも感謝、24歳よりももっと価値があるんだ。」
ドラマを見ながら、誕生日の意味に考えさせられた時だった。 吉野千明とはちがって私は男性だが、それでも、年はとりたくないとついつい言ったてしまう自分に、反省を迫られた気がした。

さて、今日は聖霊降臨祭、ペンテコステである。 ペンテコステは、よく教会の誕生日とも言われる。教会活動らしいことが、市民の間に広まっていったのが、このペンテコステがきっかけになっていることで誕生日とされている。 しかし、今、教会活動らしい活動というのはどういうことなのだろうか。与えられている聖書から三つのことを話してみたい。

ひとつめは、今日の第一日課に描かれている様子から話したい。 ユダヤ教の過ぎ越しの日から50日(ペンテコステ)も伝統的なお祭りのひとつ、それはすなわち、主イエスの復活から50日と同じ時期だったが、人々が集まっていると、とにかく激しい風が吹いてくる。 そして、炎のような舌が別れ別れになって一人一人の上にとどまる。
集まっていた人々というのは、いろいろな地方出身の者たちが集まっており、第一言語も異なりいろいろな風習や理解も異なる考え方をする人々たちだった。 しかし聖霊という神の力が働いて相互理解できるということが起こったことを使徒言行録は伝えている。言うなれば人間と人間の間の関係回復が今日話したいことの第一番目のポイント。

二番目、与えられた福音書では、主の復活日の夕方のことが描かれている。 その中で、イエスは息をかけて言われる。 「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
イエスが息を吹きかける前に起こっていたことは、十字架に架かるイエスを見捨ててしまった弟子たちだったにもかかわらず、復活して姿を顕す神なるイエスは弟子たちを憐れみ、赦して、「あなたがたに平和があるように。」と話された。
そこには、どんな失敗をした弟子たちであろうが、神が弟子たちを憐れみ、愛し、赦す関係があるということ。 神なるイエスと弟子たち、神と人間との関係回復が可能であることを聖書は伝えている。聖霊という神の力の中で、神と人間の関係回復が第二のポイント。

三番目になるが、主の復活日に、イエスの息を受けていた弟子たちが、さらにペンテコステですさまじい聖霊の力を受けた後、どういうことが起こったかのポイントを話したい。 それは、さきほど読んだ使徒言行録2章の後半にあったように、ペトロは聖霊に力づけられて、最高の知らせを述べて、宣教するようになる。
過去にどんなにかひどい行いがあり、自分と神との関係を断絶したかと思えるようなことがあろうが、あるいは考え方の違いやら、間違いから人間関係が悪くなってしまったようなことがあっても、聖霊の力によって関係回復は可能。そのすばらしい知らせを伝えて、人々が洗礼にさずかり、聖餐にも与れるようになるように、弟子たちは行動しはじめる。つまり、教会活動をするようになっていく。 聖霊の働きにより、神を信じるものが、周りの人々が、洗礼をさずかり、聖餐を受けるように、働きかけるようになるということが、第三番目のポイント。 

さて、主の年、主の降誕から2014年、聖霊降臨日からは数えると、教会誕生1984年くらいになるわけだが、その約1984歳の教会誕生日にあって、多いに祝いたい。それは、復活ルーテル教会においても、その1984 年存在してきているキリスト教会の一部として、人々が招かれ、その招きに応じた人々が、神との関係を回復し、また、異なる文化や考え方で育った者同士でも、聖霊の働きの中で、ひとつになって、聖餐に授かるということが起こっている。 
その招きは、父なる神と子なるキリストである聖霊の働き、導きの中で起こっている。ひとりひとり、どうして、この教会に来るようになったかを振り返るとおわかりになると思う。 
もちろん「だれかが誘いました。」ということはある。 しかし、そのだれかの誘いの背後には、聖霊が働いていた。 先週から来られた方は、事情があって次にどこかの教会に行くかを模索中だった。 そこに、LCRの英語部の方が現れ、そして、聖霊の導きの中で、この日本語のミニストリーに誘ってくれた。 

実は、私たちは、1984年の年齢を刻んでいる教会、イエスキリストの大切な体の一部を担っている。 それぞれ、聖霊の働きがあって、であった方に、ちょっとでも教会の話をするとか、あるいは、教会の礼拝で奉仕するとか、あるいは、教会活動の一環で社会奉仕をするとか、活けるキリストの体の一部の細胞を成している。神が聖霊の働きの中で、教会をこの世に生んでくださったこと、そして、聖霊の働きが存続し続けている1984年に感謝し、また新たにイエスの息吹によって、わたしたち一人一人が教会活動のために遣わされますように。アーメン  

What Does the Church’s Birthday Mean?
Acts 2:1-21
John 20: 19-23
Pr. H. Adachi

What do you think of your birthday? Do you feel happy about your birthday? There is a very popular Japanese drama series that was broadcast two years ago in Japan and in the Southern California last year. Since the first series was so popular, a second series is currently being broadcast in Japan.
In a part of that drama, Wahei Nagakura (portrayed by Kiichi Nakai), a widower, lives in Kamakura city with his middle school-aged daughter and his sisters. Chiaki Yoshino (portrayed by Kyoko Koizumi), a single, career-oriented woman, lives in a house next to Wahei. Wahei plans a 46th birthday party for Chiaki.
On her birthday, Chiaki complains “Why do you want to celebrate my 46th birthday? If I was 24 years old it would be a different story …” Wahei is sensitive about birthdays because he lost his wife. He tells Chiaki matter-of-factly, “You should be thankful for your birthday because you were born healthy and for the fact you have lived 46 years. This is great. This is more meaningful than a 24th birthday party.”
It made me think about my birthdays, too. Even though I am a man, unlike Chiaki, I often say that I do not want to grow older. I feel sorry for those occasions that I felt that I did not want to grow older.
Today is “Pentecost.” It is also called the birthday of the Christian Church. What happened on Pentecost triggered the Christian Church’s activities. What are the Church’s activities? Let me tell you three things:

The first thing is from the day of Pentecost that is written in the first text read today. Pentecost is a traditional Jewish festival celebrated the fiftieth day after Passover. During the festival of Passover in that year, Jesus was crucified and resurrected. In other words, on the fiftieth day after his resurrection, people gathered in Jerusalem to celebrate Pentecost, but suddenly from heaven there came a sound like the rush of a violent wind. Divided tongues, as of fire, appeared among them, and a tongue rested on each of them. What is going on in this scene?
People gathered in Jerusalem were from different nations, different cultures and spoke different languages. Many different native languages were spoken. Miraculously though, they were talking about the same things: the strong wind, the Holy Spirit, God’s tremendous power. They could understand each other because of the Holy Spirit. The first thing I want emphasize is that the Holy Spirit enables people, who understand things differently, to renew and strengthen their relationships, to understand each other, and to be one under God’s power.

The second matter is what’s written in the Gospel. We should remember the day Jesus was resurrected. On that day, Jesus breathed on the disciples and said to them, “Receive the Holy Spirit. If you forgive the sins of any, they are forgiven them; if you retain the sins of any, they are retained.”
Just before he breathed on them, he appeared, poured his mercy, and forgave the disciples by saying “Peace be with you” twice. His mercy is boundless, even though the disciples did nothing to prevent the crucifixion and ran away from him; Jesus still forgives them.
In that story, we learn that, even the disciples made terrible mistakes. However, there is an unconditional relationship between Jesus and Jesus loves his disciples despite their flaws. From here, Jesus, the Holy Spirit, His breath, enables the renewal and strengthening of the relationship between God, the disciples, and the people.

Thirdly, I would like to talk about what happened after the very strong Holy Spirit was breathed on them on the day of Pentecost. A prime example was written in the latter part of Acts that we read today. Although Peter was still questioning and was weak until Pentecost, with the help of the Holy Spirit, he became a brave proclaimer of the good news.

Even people who had harmed Jesus, harbored ill will toward their friends or previously were non-believers reconciled with God and the people by the power of God, by the power of the Holy Spirit. This is wonderful news, the Gospel. By the help of the Holy Spirit, people may become proclaimers of the good news to other people. Proclaiming cannot be effectively done by just one person. The church itself becomes the proclaimer and hopes to share the good news with everyone.
This year is Anno Domini 2014, the Lord’s Year 2014. If we count from the year of the first Pentecost, this is about the 1984th year. On this birthday of the Christian Church, we celebrate with many blessings from the Lord. Even in this Resurrection Lutheran Church (started 50 years ago here in Huntington Beach), people are invited by the Holy Spirit and they gather to worship and work in Jesus’ name. People reconcile with God every week and people reconcile with each other every week through the Word of God and Holy Communion. Then, people are sent by the power of the Holy Spirit to proclaim the Gospel to the world.
The invitation to come to church is happening by the power of the Holy Spirit. I believe you can understand this when you think, to yourself, about how you came to the Resurrection for the first time.
Of course, you may say someone invited you to this church. However, behind that invitation, there was the work of the Holy Spirit, the work of God, Jesus Christ. For example, one lady just came to this church for the first time last week. She was invited by an English speaking member of this congregation to come here while she was at work and at a time she was wondering about what church to attend. Behind this invitations, there is the work of the Holy Spirit.

Actually, each one of us is a part of the Church, the very important body of Christ. The Church is 1980 years old. All of us were guided to come to the Resurrection here today by the work of the Holy Spirit. And the same Holy Spirit enables us to work for God. Such as just inviting someone to come to church or supporting the church like serving as a communion helper, a liturgist, a receptionist, being a council member and so on are ways to do God’s work. Or you might do something for the community as a Christian. Why not celebrate and be thankful for the life of the church that was born into this world 1984 years ago? We should also be grateful for the 1980 years of continuous work on God’s behalf. Let us be renewed by the Holy Spirit, and sent out into the world, bravely and joyfully proclaiming the good news. Amen.

教会のお誕生日をお祝いしました。来週は父の日、均牧師が鉄板焼きをご披露します。是非お出で下さい。

2014年6月8日LCR日本語部週報通算第1310号

2014年6月8日の週報(ペンテコステ)

June 8, 2014 Day of Pentecost LCR Japanese Ministry Bulletin

Sunday English Bulletin 1310E (Day of Pentecost)

今週は詩編33の1-11節を読もう。聖書日課によると5日から7日までは、12-22節を読むことになっているが、その箇所は昨年8月にも読んで、「詩編を読もう」に書いたので、敢えて詩編33編の前半を取り上げる。
今年の6月8日の日曜は、主の復活日4月20日を第一日目とすれば7週間後、50日目となり、聖霊降臨祭(ペンテコステ)となる。その10日前、つまり復活日から数えて40日目には、復活した主が天に昇って行かれた。主の昇天日から聖霊降臨日までの間は、弟子たちはどのような気持ちだったのだろうか?そんなことも考えながら、詩編33編に取り組まれたらどうだろうか? 
いつものように気になる言葉や節はなにか? 詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編33編1-11 節を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。
 
詩編33編
1: 主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。
2:琴を奏でて主に感謝をささげ/十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。
3:新しい歌を主に向かってうたい/美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。
4:主の御言葉は正しく/御業はすべて真実。
5:主は恵みの業と裁きを愛し/地は主の慈しみに満ちている。
6:御言葉によって天は造られ/主の口の息吹によって天の万象は造られた。
7:主は大海の水をせき止め/深淵の水を倉に納められた。
8:全地は主を畏れ/世界に住むものは皆、主におののく。
9:主が仰せになると、そのように成り/主が命じられると、そのように立つ。
10:主は国々の計らいを砕き/諸国の民の企てを挫かれる。
11:主の企てはとこしえに立ち/御心の計らいは代々に続く。

気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は11節の「御心の計らいは代々に続く。」  

詩編作者の立場を思って詩編33編を読んでいきたい。 1節では、要は「喜んで主を賛美する讃美歌を詠おうよ」と礼拝に集まる人々に向かって呼びかけているようだ。 2節では琴に合わせて、つまり楽器にあわせて讃美の歌を歌おうと、さらなる呼びかけ。いわば詩編の讃美歌のお決まりのパターンではじまっている。そして、このお決まりのパターンではじまる詩編は、その後で、賛美する理由が詠われる。しかし、3節に入っても、まだ賛美する理由は詠われず、「新しい歌を」とか「美しい調べと共に」という言葉も出てきて、いつものお決まりのパターンではなく、新しく喜び叫ぶようにと呼びかける。そして、4節から11節は、すべて、主を賛美する理由が詠われていると言ってよいと思う。 敢えて一節一節は書き出さないが、7節に「大海の水をせきとめ」とあるように、特定の歴史的事件を詠う部分もあるが、4節「御業はすべて真実」とか、11節の「御心の計らいは代々続く。」と詠っているように、主の一環した正しさ、力強さを詠っている。

この33編1-11節を通して、主なる神は私たちに何を語られているのだろうか? 「新しい歌を」との呼びかけに応えて、私たちの礼拝でも新しい讃美歌を詠うことの大切さを感じる。 讃美歌21はそのような呼びかけの中で、編集されていった讃美歌集だと思う。 復活ルーテル教会でも、讃美歌21から、近年たくさん詠うようにしている。最初はちょっと歌いづらいと思うことはあっても、讃美歌21の歌詞は過去の讃美歌の言葉に比べて分かり易く、讃美歌21も美しい調べに満ちている。 また、私たち自身の体験、証を、詠うような賛美の詩を作って、それに美しい旋律をつけて歌うように、とも主なる神は呼びかけてくださっているように思う。 私たちが普段生活している中でも、たとえキリストの姿は見えなくても、実は神の働き、キリスト神の愛、聖霊の導きは時代を超えて存在している。そして、一環した主の計らいに気づかされて、感謝したい、賛美したい、喜びの叫びをあげたい、そういう気持ちを讃美歌にして歌うように呼びかけられているようだ。 アーメン
安達均

ヨハネ17:1-11

主イエスの恵みと平安が、集まりました会衆の上に豊かに注がれますように!

「永遠の命」について、どういう理解をしているだろうか?インタネットで検索してみると、日本語のサイトでは、肉体的な永遠の命、不死不老についての話が結構でてきた。もちろん日本語でも聖書から永遠の命について語っているものも多く出ていた。聖書には44回出てきているのでいろいろな考え方も出てくると思う。 英語のサイトでは、不死不老のことより、聖書に基づいた永遠の命についてさまざまな見解が見つかる。 
ただ、英語のサイト、さらにそれを日本語に訳したサイトも見つかったが、「人類の見果てぬ夢「不老不死」が死よりも恐ろしい5つの理由」という見解があった。 

もちろん、今日のメッセージでは不老不死を話すのではなく、与えられた福音書のイエスの言葉を中心に「永遠の命」について考えてみたい。
ヨハネ福音書13章から17章は、イエスが明日十字架に架けられる前の晩のことが描かれており、イエスは弟子たちに、長い説教をしている。
そして、17章は、「イエスの祈り」と言われたり、「大祭司の祈り」と言われたりする。 大祭司と呼ばれるのは、さきほど読まれた言葉の中には、2節には、「子(イエス自身)にすべての人を支配する権能を与えてくださった。」などという祈りの言葉があるが、それは、私達人間が祈れるような言葉としては考えにくい。 
別の言い方をするなら、父なる神と主イエスは同格の存在にある事を話しており、だから、イエスは大祭司として、この世に送られて、人間の間に存在しつつも、私たち人間とは違う次元にも立たれている。
そして、3節の中では、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」と話される。ここに、「永遠の命とは」と定義のようなことが書かれており、これはとてもありがたい。 この言葉に従えば、私も永遠の命が得られると思ってしまう。
しかし、17章の3節の言葉は、簡単だろうか? 「永遠の命とは神とイエスを知ること。」ということになるが、神とイエスを「知る」というのはどういうことなのだろうか?

とかく「知る」という言葉は、一生懸命勉強することによって、知的に理解するという意味に囚われてしまうかもしれない。 つまり、神とイエスについて、聖書や歴史書などを一生懸命読んで、神とイエスについての知識を増せばよいのかと思われるかもしれない。
ここでイエスの言う「知る」とは知識というより、関係、交わりと考えた方が良い。 イエスはヨハネ10章では、イエスと弟子たちの関係を、羊飼いと羊の関係で話していた。 それは、羊飼いも羊たちを知っており、羊も羊飼いの声を聞きわけて知ることができるという話をしていた。
一方的に弟子がイエスをわかっているわけではなく、イエスも弟子のことをよくわかっているという関係、交わりがそこにはあるのだと思う。 だから、永遠の命とは、図書館などに行って神とイエスを研究して理解するのではなく、神とイエスとの関係を保つなかで、永遠の命が与えられていることになる。

じゃ、この世にあって、どうやって神とイエスとの関係を保つのだろうか? ちなみに、昨日は22年間LCRの日本語部のメンバーだった、松井兄のメモリアルサービスがあったが、彼はこの世の肉体的な命を終え、彼自身は、神とイエスとの関係、交わりを天国で満喫しているのだと確信する。
そして、この世に残された私たちも、実は、松井兄が生前から、神とイエスとの交わりを持ち続けていたように、私たちも神とイエスと交わることができる。 松井兄は、礼拝に来ることができなかった時以外は、礼拝を休むということが一切無かった。 
つまり、私がここで申し上げたいことは、洗礼を受けたものが、毎週毎週の礼拝で祈り、御言葉を聴き、そして聖餐式に与る中で、イエスが私たちひとりひとりを知ってくださっていたことがわかるようになり、互いに交わる関係が保たれるのだと思う。

さて本日はCare Connections Networkの2歳の誕生日。CCNは人生の終盤を迎える年齢になっていくときに、社会の最新情報を提供したり、パーティ等をしてまじわりの機会を持ったり、また人生終盤を迎えた年代にさまざまなサービスを提供する会社をよく調査して信頼できる会社を推薦したりする。そこには、キリストが弟子たちを愛して聖餐の交わりをしたように、CCNも愛をもって人々に接し、交わりの機会を持つようにしている。 それは、LCRという神の体の一部である教会を親として、子CCNが生まれたという関係から実現しているからだと思う。私は、CCNという高齢者向けのケアを提供する存在が、今後新しい非営利団体として社会的に認められ、LCRからは独立するようなことがあったとしてもCCNの母親はLCRで一切変わらないということを申し上げたい。そして、最初の不老不死の話に戻るが、私としては次ぎのように言いたい。「神の愛を知らないまま肉体的な不老不死が続くのだとすれば、それこそ、死より恐ろしい。」ということなのではないか。 

聖書の中に書かれたイエスの言葉には、イエスが弟子たちに洗礼を授けるように、また聖餐式を行なうようにということが明確に著されている。その言葉に従う中で、父なる神、その子イエスとの深い交わりの中に置かれ、神とイエスを知ることになるのだと思う。 みなさん、イエスの招きに応じて、本当によく今日は礼拝に来てくださった。この後、信仰告白、献金の後に、聖餐式に授かりが、イエスとの関係を満喫されるように祈る。 アーメン
安達均

“What Does Eternal Life Mean?”
John 17:1-11

May God’s Grace and Peace pour into the hearts of people gathered in this sanctuary!

How do you understand and think of the concept of ”Eternal Life?” I just Googled this phrase in both English and Japanese and on many Japanese websites, it’s translated as immortality, but of course there are also many websites talk about biblical eternal life. On English websites, I found many different discussions of this phrase from a Biblical perspective.
However, even on an English website and a Japanese website, too, I found an article that expressed an interesting view regarding immortality, it was titled, “5 Reasons Immortality Would Be Worse than Death.” It made me think of a way to apply the gist of the article through a Christian perspective, and as a pastor, using it to think about the aging population (I include myself in that group).

Of course in today’s message, I won’t talk about immortality, but I would like to focus on “eternal life” based on what Jesus said in the scripture discussed today. I will bring up “a reason immortality would be worse than death” regarding CCN which cerebrates its second year anniversary today.
John’s Gospel talks about one day before Jesus’s crucifixion from Chapters 13 through 17. Five chapters out of twenty-one chapters of John are just about what happened on Maundy Thursday. There is Jesus’ long sermon and Chapter 17 also contains his long prayer.
The prayer is commonly called “Jesus’ Prayer” but sometimes it’s called “Jesus’ High Priestly Prayer.” We find the sentence “since you have given him (the Son, Jesus Christ himself) authority over all people” in Chapter 17; it is a daunting one. This prayer is almost impossible for human beings to pray using such a sentence.
In other words, his existence is among us, but at the same time apart from humanity because Jesus is God’s highest priest. It is a position no ordinary human being can attain, but at the same time we, humanity, can have a close, loving relationship with God through acknowledging Jesus as our Lord and Savior.
Jesus continues with the following words, “And this is eternal life, that they may know you, the only true God, and Jesus Christ whom you have sent.” I think Jesus talks about a definition of the “eternal life.” So we might be thankful because at a basic level eternal life is truly knowing God and Jesus Christ. However, getting to know the only true God and Jesus is deceptively simple. What does the word “know” mean?

In daily conversation, when people say they want to “know something”, it often means intellectually understanding something by studying diligently. Therefore, you might think that “eternal life” means studying and increasing the knowledge of God and Jesus by learning from the Bible and various history books.
What Jesus meant when he said to “know” is not really knowledge (in the traditional sense) but more of a “relationship” or even “fellowship” between people. In John chapter 10, Jesus was talking about the relationship between the shepherd and his sheep as an analogy of Jesus and His disciples. In that story, a Shepherd knows his sheep and sheep know their Shepherd by listening to His voice.
In that analogy, not only do his disciples know Jesus, but Jesus also knows his disciples. That is the essence of the close relationship between Jesus and his disciples. Therefore, eternal life is not achieved by going to library and studying the Word of God and Jesus Christ. However, eternal life is achieved by maintaining and nurturing a close relationship with God and Jesus.

Why should we maintain and nurture a relationship with God and Jesus, his Son? Let me give you an example: just yesterday, Japanese Ministry celebrated the life of our brother, Seishi Matsui. His earthly life ended, but I am sure that he is enjoying eternal life or, stated another way, he’s enjoying a close relationship with Jesus in the heaven.
I believe we may enjoy fellowship with Jesus Christ currently, like Seishi Matsui is enjoying. He never skipped Sunday worship until he became physically disabled. We could all learn something from his dependable, humble and faithful life.
What I would like to emphasize here is that once you are baptized and every Sunday you worship by listening to the Word and commune, as one body of Jesus Christ, we and Jesus get to know each better and we deepen our vital relationship.
Earlier in my sermon, I mentioned an article that explains why immortality would be worse than death. I’ll use CCN and its work with the elderly and our community to illustrate my point. CCN provides enrichment opportunities, social interaction, and support information for elderly persons, their families and the community. CCN is celebrating its second anniversary and its continued success, because CCN has a close and nurturing relationship with Jesus. CCN is successful because CCN was born from God’s church, LCR.

My father and my brother often joke about their relationship with my mother. There is a poetic song that says “You are not my ideal spouse, I am sorry but I will change my spouse.” Then my oldest brother followed, “Dad, you might be able to change your spouse but I am not able to change my biological mother.” My point is that CCN is a child of LCR, a part of Christ’s Body, and CCN cannot change its mother church even though it will grow and become a legally different entity from LCR.
CCN shows God’s love by helping the elderly age comfortably and with dignity. Eternal life is not immortality; it is a close, nurturing relationship with God and Jesus Christ. Being immortal and not personally knowing God’s love would indeed be worse than death.

In Jesus’ words as written in the Bible, it is clear that Jesus commanded his disciples to baptize people and share the sacrament of Holy Communion. Through baptism and Holy Communion, we have a deeper relationship with Jesus and we are connected to eternal life even in this world. I am so glad that each one of you attended worship today. Following this message, we’ll confess our faith, offer our gifts, pray, and commune with Jesus and with one another. I pray that today’s Holy Communion (and those in the future) will be a meaningful time to truly understand eternal life with God and Jesus Christ. May God’s Grace and Peace be with us all. Amen.
Pr. Hitoshi Adachi

来週はペンテコステです。ぜひ赤を着て礼拝に出席しましょう。

2014年6月1日LCR日本語部週報通算第1309号

2014年6月1日の週報

June 1, 2014 LCR Japanese Ministry Bulletin

Sunday English Bulletin 1309E

 

今年の5月29日は「主の昇天日」に当たる。主の復活日4月20日を第一日目とし、7週間後、50日目の日曜、6月8日には、聖霊降臨祭(ペンテコステ)を祝う。その10日前、つまり復活日から数えて40日目、今年は5月29日になるが、主の昇天日とされる。復活のイエスが天に昇られた日とされている。 その時の様子は使徒言行録の1章1節から11節に記述されている。 毎年、主の昇天日に与えられる詩編は47編で、旧約時代に詠われ始めた詩編なのに、主の昇天があたかも預言されたような描写もある。 興味ある方は、詩編47編も読まれるのも良い。また47編については、昨年の主の昇天日であった5月9日に読み、記述してあるので、「詩編を読もう」を毎週集めてくださっている方は、去年の5月9日に遡って読んでいただくのも良いと思う。(ウェブサイトでも、過去の「詩編を読もう」を読むことができる。)
さて、今週は、聖書日課では主の昇天日の翌日と翌々日に与えられている詩編箇所93編を読む。 いつものように気になる言葉や節はなにか? 詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編93編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。
 
詩編93編
1:主こそ王。威厳を衣とし/力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。
2:御座はいにしえより固く据えられ/あなたはとこしえの昔からいます。
3:主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる。
4:大水のとどろく声よりも力強く/海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。
5:主よ、あなたの定めは確かであり/あなたの神殿に尊厳はふさわしい。日の続く限り。

気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は1節に描写された「世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。」  

詩編作者の立場を思って詩編93編のことを考え、解説も加えたいみたい。 詩編93編は、全部で150編ある詩編の中で、7編存在する(47 編、93編、95編から99編) 「即位の詩編」と呼ばれる。 即位の詩編とは、詩編が作られた時代のユダヤ教国家は君主制。代々君主が即位し、宗教的にも政治的にも国家を統治しようとした。 しかし、実際問題は、さまざまな問題に遭遇する。 そのような、荒波の中でも、新たに王が即位し、その戴冠式のような事が行なわれる時に、即位の詩編が詠われる必要があったのかと想像する。戴冠式に合わせて詩編作者も93編を作詞したのかと思う。 93編に詠われている内容は、国王の座に着くものが、主なる神を顕す存在。1節では、人間的な要素ではなく、絶対的な主なる神の力、威厳を持つ者と詠う。また統治される世界も固く据えられ、揺らがない。2節には、主なる神が時を越えて昔から存在していたのだと。3節―4節では様々な荒波も起こるが、それらの荒波よりさらに強く、また高い主の存在。5節では主なる神が定め、即位する王が、確かな存在であり、日の続く限り(王が生きている限りという意味かと思う)この神殿にふさわしく即位が続く。

21世紀に生きる私たちに、絶対的な創造主である方は、聖書に記述された詩編93編を通して何を語ろうとされているのだろうか? 日本やアメリカに生活している市民にとって、共和制(人民が統治上の最高権威を持つ政治体制)であるため、君主制のことはあまりピンとこないかもしれない。しかし、この21世紀にあっても、先進国、発展途上国を問わず、多くの君主制をとっている国が存在することを忘れるべきではないと思う。思いつく国をいくつか挙げるとすれば、スウェーデン、ノルウェー、タイ、モロッコ。。。。 

そして、この93編をよく読むとき、君主制とか共和制とかの政治体制を超えた、絶対的な創造の神の力強さを私は感じる。 「世界は固く据えられ、揺らぐことがない。」と詠われた言葉には、「えっと」少々疑問を持つ方も多いかもしれない。日本は憲法改正の問題、アメリカは先週また起きた射殺事件、などぐらぐら揺れている。地球という単位で、気候は不安定であり、しょっちゅう地震は起こる。宇宙から見れば、地球はものすごいスピードで太陽の周りを回っているし、太陽系自体も動いており、宇宙自体は膨張しているらしい。 しかし、世界は固く据えられ、揺らぐことがない、という言葉には、説得力を感じる。 昇天されたイエス、主なる神は、私たちの考えたり見たりすることができる次元を超えた、揺らぐことのない確固たる愛を基盤にされていることが、詩編93編の言葉と、イエスの生涯から伝わってくる。 アーメン  安達均

後述:上記に触れた、先週土曜の夜、サンタバーバラ大学での連続射殺事件の犠牲者たち、家族、友人等を思い、創造主なる神の癒しと慰めを祈る。 銃規制の話題もまた再燃するかと思うが、その本質的な問題は、今の日本国憲法改正問題とも共通した要素があるように感じる。 主なる神、イエスも、私たちの間に立って、これらの問題に遭遇されていることを覚え、主の導きを祈る。 

ヨハネ14:15-21 安達均

主なる神が、ここに集まった一人一人の上に豊かな恵みを注ぎ、心に平安を与えてくださるように。アーメン

信仰とは、個人の問題であり、自分が中心で、神はその対象なのでしょうか? 信仰心とは、自分で抱くかどうかの問題であり、自分で無宗教と決めて、それで、神との関係も教会との関係も、もう無くなったといえるのでしょうか? 
先週、友人に招かれその友人宅の集会に行った。ある方と初めて会い、私はいっさい自分が牧師であるという話はせずに、いろいろな世間話をしていた。その方はリタイヤした方でハワイに4週間奥様と滞在されていたとのことで悠々自適という感じがした。ハワイの話が出たので、私も4月最後から5月のはじめまで4日間だけ滞在したという話をした。 
そして、ハワイには、昔ながら地元の宗教があり、それはすべてを創造された神がおられ、ユダヤ教やキリスト教とも十分通じているような信仰だという話をした。そして、あるキリスト教会グループは、自分たちが、自然を破壊してきてしまった問題のいったんを担っており、また地元の宗教をも否定してきたような事を認め、悔い改めているという話をした。
すると、その方は私は小さい時に洗礼は受けたが、もう宗教的では無くなった。さらに現在の教会を非難されるような事を述べて、水を飲みたいからといって、私から離れて行ってしまった。私は、信仰の話をしたことがよくなかったと少し悔いた。

さて、今日の聖書箇所は、先週に引き続き、イエスキリストが十字架刑に架かる前日のイエスの講和の中の言葉。 イエスは、最後の晩餐後は、弟子の一人から裏切られ、ユダヤ教の指導者、ローマの権力者たちにより、翌日には十字架刑に処せられることはわかっていた。
また、十字架刑に処せられるにあたって、他の弟子たちからも見放されてしまうこともわかっていた。弟子たちは、十字架刑にかかる自分を防ぐ行動に出ないこともよくわかっておられた。 
しかし、自分が死んだあと、弟子たちがどんなに心細くなってしまうか、また、悔いる気持ちになるかもよくわかっていた。 弟子たちは、10代後半から20代だったのではないかと思うが、それでも、孤児のような気持ちになってしまうことも、イエスは察知していたのだろう。 

そのような状況に置かれる弟子たちに対し、イエスは語る。 父にお願いして、弁護者を使わす。 その方が真理の霊である。 つまり聖霊が送られると。 そして、イエスは、「私はあなた方を孤児にはしておかない。」と語る。 それは、聖霊が送られることによって、孤児のような状況にはしておかない約束だった。 
次にイエスは、「これからは世はイエスを見ることができないが、信じる者たちはイエスを見ることができる。」と語る。これはイエスの存在を私たちはいつも信仰の目を通して確信することができるという意味。
そしてその根拠となるような言葉が次に語られる。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」この言葉が興味深いのは、「わたしが生きている」つまり、現在形で表記され、その上で「あなたがたも生きることになる」と未来形で表記される。私たちの生の根拠はイエスが生きておられるという事実の上にある。

私たちは信仰・教会生活で大きな勘違いをすることがある。信仰生活において主人公が私であり、その対象が神であると考えてしまうことがある。 私たちの心が変化して、信仰が無くなってしまったとか、宗教心がなくなったとか、あるいは、キリストの体である教会とは、もう自分は縁が無いかのように感じると、私とはもう関係が無いとまで思ってしまうことすらある。 
しかし、事実はそうではない。 信仰・教会生活の主人公は主なる神、イエスだ。そして、神が中心で、その対象が私たちだ。 主なるイエスは私たちをみなしごにはしておられない。 神の方から信仰・イエスの体である教会を与えてくださるからこそ、私たちは神を信ずることができる。 つまり、イエスが生きておられるからこそ、私たちは信仰者として生きることができる。

言うなれば、ハワイの地元の伝統的な宗教、それでもそこにすべてを作られた創造神を信じる信仰がユダヤ教やキリスト教とも近い面がある話をしたが、そのような宗教を信じている方々もいる。
また、友人宅の集まりで会ったような、もう宗教心は無いという方もいたりする。ちなみに、その方とは、どういう風の吹き回しか、会の後半で、また話すことになった。 いっさい宗教の話をすることなく、また自分が牧師であることも語らないまま、その方が話したい話に相槌をうち、近くに居た。
どのような信仰者、あるいは信仰をも持たないという方をも含めて、神の愛は無条件に注がれており、主イエスはそのような方々の近くで、聖霊として生きておられる。
主イエスの十字架刑を一切防げない、あるいはイエスを知らないと言ってしまう者へも、あなた方を私は孤児にはしないと約束されていた主イエスがいる。今もその約束を守り続けてくださっていることに感謝し、そのような主イエスが中心に生きておられること覚えたい。そして、私たちは、そのイエスキリストの体のいったんを担って生きていることを覚え、新しい1週間を歩みだそう。 アーメン
安達均

“He Will Not Leave You Orphaned”
John 14:15-21

May the Lord pour his abundant grace and the Holy Spirit into the hearts of the people in every corner of this sanctuary! Amen.

Is faith only a personal matter? Is the person (of faith) the subject and God the object? Is faith really a personal choice? If you say you are not religious, do you have absolutely no relationship with God and the Church?
Last week, there was a gathering at my friend’s house and about 20 people got together. I met a person whom I have never talked to before. I introduced myself only by name and did not mention that I was a pastor. He enjoyed talking and we chatted for quite a while. He told me that he vacationed in Hawaii for about 4 weeks. He mentioned he is retired and was living comfortably, free from worldly cares. Since he spoke of Hawaii, I also mentioned that I was in Honolulu regrettably only for four days though.
Then, I mentioned that there is a traditional Hawaiian religion that believes there is a creator god who made everything. In a sense, that belief is somewhat similar to Judaism and Christianity. A Christian group in Hawaii has been expressing their confessions and apologies since historically America was an active part of the overthrow of the legitimate Hawaiian monarchy and the disruption of Hawaiian culture and religion.
Then, the person I was talking to suddenly said that he was baptized when he was born but he is not religious any more. He said he was going to get another drink and walked away from me complaining about religion. I regretted, a bit, how our conversation ended since I brought up religious matters.

The Gospel text today is still the words of Jesus one day before he was crucified, which follows last week’s text. He knew that he would be betrayed by a disciple after the last supper and the next day he would be crucified by Jewish leaders and Roman politicians. He also knew that the disciples would leave him. He well understood that they would not protect or save him.
Jesus knew that they would feel abandoned and repent after Jesus was crucified. I believe their ages were probably early 20s or late teens, they had already matured, but Jesus knew that they would feel like orphans.

In that environment, Jesus talked to his disciples: He would ask his Father to send an advocate. And that is the true spirit… the Holy Spirit. He said, “I will not leave you orphaned; I am coming to you.” That was the promise, by sending the Holy Spirit, the disciples would not be orphaned. Then he told that the world would not see me but you would see me because I live, you will live.
This is interesting, the statement “I live” is present tense, but the statement “you will live” is future tense. The fact we live is based on the fact that Jesus is living.

Sometimes we make mistakes about faith. We sometimes think that the subject of our faithful life is ourselves and the object (of worship) is God. Some people think that since their heart is not passionate about God, they declare themselves not religious anymore and seemingly have no relationship with either God or the Church.
However, that is not true. The subject is the Lord, our God, and Jesus. And we are the object. God gave us faith; that is why we may believe in God. Jesus lives among us, so we can live our faith daily.

At the beginning of my message, I mentioned that there is a belief in Hawaii that is somewhat similar to Judaism and Christianity. There are people who still believe that religion; it is the traditional faith of Hawaii.
Also I mentioned that there was a man who does not believe in God at all. During the last half of the gathering, I happened to talk to him again. This time, I never talked about religious matters and only focused on topics he preferred to discuss.
Regardless of the fact that some people are atheist or do not take faith seriously; God unconditionally loves and cares about all people. The depth of God’s love is so great that He even loves those who don’t love Him yet. The Holy Spirit is also living among those people.
Let us remember that Jesus forgave the disciple who said that I do not know him and fled from him. As we start a new week, let us be thankful for the Lord who keeps his promise! Let us acknowledge that the Holy Spirit lives among us and we are part of the body of Christ. We are truly blessed by God’s abundant grace and the power of the Holy Spirit. Amen.
Pr. H. Adachi

6月の27日と28日の両日は日本語部の修養会がPacifica Synod のオフィスで行われます。是非ご参加下さい。詳細は教会オフィス:714.964.1912までお気軽にお電話ください。

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