詩編を読もう:主は偉大ですばらしい (詩編113)

今週読む詩編は113編。ユダヤ教の伝統では、過越しの祭りの際にうたわれる詩編のひとつ。 短い詩編なので、いつものように3回読まれることをお勧めしたい。  

1:ハレルヤ。主の僕らよ、主を賛美せよ/主の御名を賛美せよ。
2:今よりとこしえに/主の御名がたたえられるように。
3:日の昇るところから日の沈むところまで/主の御名が賛美されるように。
4:主はすべての国を超えて高くいまし/主の栄光は天を超えて輝く。
5:わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き
6:なお、低く下って天と地を御覧になる。
7:弱い者を塵の中から起こし/乏しい者を芥(あくた)の中から高く上げ
8:自由な人々の列に/民の自由な人々の列に返してくださる。
9:子のない女を家に返し/子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ。

ハレルヤで始まり、ハレルヤに終わるこの詩編、どのようなことに思いをもたれただろうか? 

さっと読んだだけで内容があまりよく把握できなかったとしても、なんとなく、気持ちが晴れ晴れしくなるような詩編だと思う。 このハレルヤの意味は、「主を賛美せよ」という意味だが、日本語に訳された詩編なのに「主を賛美せよ」とは訳さずに、ヘブライ語の言葉をそのまま用いて、その響きが、うれしくて喜ばしい感じがしてとても良いと思う。 以下、二つのハレルヤにはさまれた中身について、1-3節、4-6節、7-9節に分けて書き留めたい。 

1-3節:時と場所を超えて主を賛美せよ
最初のハレルヤに続いて、1節の残りの部分から3節までは、主に仕える者たちよ、とにかく主を賛美せよ、という呼びかけの言葉。どのように賛美するかというと、「今よりとこしえに」(2節)、つまり時間を越えて永遠に。また、「日が昇るところから日の沈むところまで」(3節)、つまり、すべての場所。  

4節-6節:主は偉大
1-3節で、時や空間という次元を超えて、主の御名を賛美するように。と詠う以上、その続きには、なぜ主を賛美するかの理由が歌われる。 なぜなら、主はすべての国を超え、つまりさまざまな国の事情を超越した天の高いところに居られ、主の栄光は天をも越えて輝いており(4節)、その方こそが私たちの神であり、そこに並ぶものはいないし、とても高い所に主の座を置いておられ(5節)、かといって、地上のできごとに無関心というわけではなく、へりくだって、地上に起こる、さまざまな出来事もご覧になる(6節)ような偉大な方だから。 

7節-9節: 主はすばらしい
主を賛美する理由はさらに続く。 主は天からただご覧になっているだけではなく、世の弱者や貧困の中にある者を立ち上がらせてくださり(7節)、束縛された民を自由な民に戻してくださり(8節)、子の生まれない人に、子供を持つ親の喜びを与えてくださるような方だから。 

この詩編113編の後半に、過越しの祭り(エジプトで奴隷だったイスラエルの民が解放されたという事実を覚え続けるお祭り)で歌われる要素が含まれている。 かと思うと、この113編はクリスマスにも実は関係が深いと思う。たまたま、15日に行なった信徒会で、クリスマスに日本語部では何を歌うかが話し合われ、讃美歌21の178、「あがめます主を」というマリアの賛歌が候補に挙がっていた。その歌詞1節と2節を以下に記すので、詩編113編の内容と重なってくる部分があるのをおわかりいただけるかと思う。

1. あがめます主を、わが魂。 たたえます主を、わが心は。
名も知れぬ娘を 主はあえて選び、み子の母として 用いられた。
2. 求めます主は、弱い友を。 訪ねます主は、貧しい人を。
つきぬ愛そそぎ 痛みをとりさり、低きを高める ちからの主は。

今、日本語部の中には、多くの方々が病の中にある。またクリスマスまでの間に洗礼を受けようとされている方々もおられる。 ひとりひとりに主の愛が豊かに訪れ続けるように祈り、またクリスマスを迎える準備が、たとえどのような体調であったとしても、わくわくする喜びを覚えながら、少しづつ準備が進みますように。 主を崇め、賛美しつつ。 

“百人に一人か100%か?” 
ルカ 15: 1-10

主イエス・キリストの恵みと平安が皆様方に豊かにあるように!
「罪人」という言葉を聴いた時、この言葉をどのように捉えているだろうか? 
キリスト教ではよく使われる言葉だが、その意味は、よく理解されておらず、日常の会話であまり使われる言葉でもない。 キリスト教で使われている「罪人」という言葉の背景をよく理解していない方々と話した時に、「犯罪人」の意味で理解されていることがある。 したがって、「私は罪人ではありません。」と言われたりする方々に出会う。そのような時、「犯罪者ではないことはわかりますが、何か知らないうちにある方のことを傷つけた経験はないだろうか?」あるいは「何か自分がしていることは神を喜ばすものではないと思われたことはないだろうか?」と質問する。するとたいてい「罪人」という言葉の意味についての会話は先に進まない。
本日の福音書は「見失った羊」と「無くした銀貨」のたとえ話。イエスは神を羊飼いにたとえてよく話されたし、また、旧約聖書にも神を羊飼いにたとえている箇所は出てくる。 したがって、そのたとえはわかるが、それにしても、この世で百匹の羊を持っている人が、一匹いなくなったところで、その一匹を必死になって探して、見つかったら友人や近所の人々に言いふらして大喜びするだろうか? 
二番目のたとえ話では、イエスは、神をコインを必死になって探している女性にたとえているが、それにしても、たとえば1000ドル持っていた人が、100ドル札を無くして、その100ドル札が見つかった時、近所の人々や友人たちに話すほどに喜ぶだろうか? 
今日の福音書箇所ではないが、イエスはこれらのたとえ話の後、有名な放蕩息子のたとえ話をしている。イエスは神を、二人の息子のうち一人が放蕩の限りを尽くしてしまう父親にたとえている。それにしても、放蕩息子が帰って来たからといって、息子のために最高の羊を屠って、近所の人々や友人たちを呼んで大パーティをするだろうか? むしろ、現代の父親であれば、放蕩の限りを尽くした息子が帰ったとしても、静かに自分の家だけで喜ぶか、あるいは場合によっては、喜ぶどころか、その逆の場合もあるのではないかと思う。 つまり、これらの三つの話が、この世の話だとすれば、羊飼いも、銀貨を探す女も、放蕩息子の父親も、異なる反応を示すのでないだろうか。 
この三つのたとえ話、99人は特に悔い改める必要が無いとイエスは話したが、次の無くした銀貨のたとえでは、残りの9人について悔い改め云々の話はしていない。 そして、放蕩息子の話では、父の喜びのパーティに賛成できなかった兄をたしなめており、兄の方だって、悔い改めるべきことがある。 
さてこのような話の中に、あなた自身が登場するとすると、だれに当たるだろうか。 すくなくとも今日教会にこられている方々は、迷った羊でも、無くなった銀貨でも、放蕩息子ではなく、正しい方々のように思う。 しかし、本当にそうだろうか? たとえ、正しいとされる方々でも、実は、人生で大きな迷いに遭遇することもあるのだ思う。 
ここで、イエスはこれらのたとえ話をいったいだれに話しているか、振り返ってみたい。 ファリサイ人や律法学者たちの会食に招かれたイエスは、罪人とされる徴税人などと食事を共にしはじめ、宗教指導者たちは、怒りをあらわにして、イエスに文句を言い始める。つまり、イエスの意見とは異なるファリサイ派や律法学者たちは、なぜイエスは罪人と食事をするのか困惑した。 そしてイエスは、自分たちは罪人ではないと思っているファリサイ人や律法学者たちに向かって話し始めている。
こられの三つのたとえ話では、迷う人の確率は、最初は1%だか、二つめの話では、10%、そして放蕩息子の話では、弟も兄も悔い改めが必要だったわけで、迷い子は、100パーセントともいえる。 だから、イエスは、あたかも正しいと思っていたファリサイ人や律法学者たちも、迷子になっている事に気がつくように導いておられるように思う。 
さて、もう一度、皆さん今日の福音書の中で、いったいだれに相当するか考えて欲しい。 いつも教会に来ていて、信仰深く、義しい人であっても、同時に日ごろの生活を振り返ると迷いの中にあるということが多々あるのだと思う。 
たとえば、お子さんのためにできる限りの教育を受けさせたが、親が期待していた状況とはまったく異なる状態にあるお子さんをお持ちの方々もいるだろう。 あるいは、ご自身が何らかの社会組織でキャリアを積まれたが、自分の目指していた事とはまったく違う仕事をしているという方もいると思う。 あるいは、とても熱心なクリスチャンだが、自分の友人や家族に信仰について分かち合っても、自分がクリスチャンになってもらいたいと思っている方は一向にクリスチャンになる気配が無いという方々もいると思う。教会は、自分の行動や話した事が、いったい神を喜ばせるものだったかどうかわからず、迷いの中にある方々でいっぱいなのが現実だと思う。 
そのような私たちの中で、神は一生懸命、私たちを探している。今日の福音書は、私たちは罪人かそうでないかという事がポイントではない。実は私たち全員が何かと迷ってしまう。私たち全員が罪人だ。その私たちを、神は捜し求めてくださっている。 
人類全員の捜索をいったいだれができるだろうか。人間にはだれもできないが、神はそれをなさる。神の慈しみと恵みと愛を持って、発見するまで探し続けてくださっている。
礼拝のはじめに、この礼拝堂で、罪の告白をした皆様方のことを、神はたいへんな喜び、恵みを持って赦してくださり、自分で気がつく気がつかないにかかわらず、私たちを新しく創り変えてくださっている。 そして神の祝福が新たに与えられたことを覚え、新しい一週間を送られますように。 アーメン

“One Out of One Hundred or 100%?” Luke 15: 1-10

May the Grace and Peace of Jesus Christ be with you all!

What perceptions do you have when you hear the word “sinner?” The word, “sinner,” often used in Christianity, is not well understood and not really used in everyday conversation. Especially, when I talk with Japanese people who do not have any Christian background, the word “sinner” is often understood as “a criminal.” Therefore, I often hear from them “I am not a sinner.”
Then I answer to him or her, “OK, I understand that you are not a criminal, but have you ever done or said something that hurt someone, even without knowing at the time that your actions hurt them?” Or “Have you ever thought that what you were thinking or doing does not please God?” Then, the conversation about sinners usually does not go any further.
The Gospel scripture today are the parables of the “Lost Sheep” and “Lost Coin.” Jesus uses the shepherd representing God in the first parable. The image of the shepherd is often used in the Old Testament as well as in the New Testament. However, in this world, if you find one lost sheep out of the hundred you have, do you really share this news with your friends and neighbors?
In the second parable, Jesus uses the woman who looks for the lost coin representing God. However, if someone finds your lost 100 dollar bill out of 1000 dollars you have, do you really share this with your neighbors?
Although this is not a part of today’s Gospel, Jesus talks about the famous parable of the “Prodigal Son” right after the Lost Coin story. Jesus metaphorically talks about the father as God who has two sons and the younger one was the prodigal son. However, do you think that if you are that father and your prodigal son comes back to your home, do you really have a party with your friends and neighbors. Rather, I feel that it is normal that the father would just be quietly happy. In other words, these three stories would have different reactions in today’s world.
In the first parable, Jesus said 99 sheep/people are the ones that do not have to repent. In the second parable, Jesus does not talk about whether 9 coins/people need to repent. In the third parable, Jesus indicates that the father reproaches the older son who does not agree with the father’s joy.  
If you are in the scene of these three parables, who do you think you represent? Are you the lost sheep, the lost coin, or the lost prodigal son? Or are you one of 99 sheep, one of 10 coins, or the elder brother? Since you are in this sanctuary and listening to the Word of God, I believe you are not one of lost ones but one of the righteous ones…Really though, are you not a lost one? I ponder, may a truly righteous one become a lost one, as well?
Let’s reflect upon whom Jesus was telling these parables to. In the beginning of the text, Jesus was about to eat dinner with sinners and tax collectors. However, the seemingly righteous ones, the Pharisees and scholars of law complained about Jesus eating together with sinners. Therefore, Jesus started to talk to Pharisees and teachers of the law who did not think that they were sinners or lost ones.
In these three parables, the percentage of the lost one is only one percent in the first parable, but in the second parable the percentage becomes 10%. And the third one, in the Prodigal Son, it was one out of two, 50%, and I would say that the elder brother, too, was a lost one, since he did not agree with the father. So the percentage of the lost in the Prodigal Son is 100%.
Therefore, I think that Jesus was inviting Pharisees and teachers of the law to recognize that they are also lost ones since they did not agree with Jesus’ beliefs and they do not joyfully eat with sinners.
So where are you folks? Even those who come to church every Sunday, I think you are faithful and righteous, but at the same time when you reflect upon your daily lives, you might be lost ones also.
For example, you might think that you have done the best for your child to receive a higher education, but your child did not grow up as you expected. Your child may be in a very different place from where you thought they would be. Or you were going up the corporate ladder, but you did not go as far as you expected. Or you might be an enthusiastic Christian, but what you have said and done has not encouraged your best friend or spouse to become a Christian thus far. In reality, church is a place that is full of people wondering if what they have said or done pleases God.
Among us, God is actively looking for you. The point of parables is not really about the sinners, the lost ones, or the righteous. All may become lost ones. And God is anxious to find those who feel lost; he wants to find us.
Who would go to such lengths to search and find someone or something and then welcome them back and celebrate? None of us would. But God would. In fact, God does, even now, seek us out, lighting a lamp and sweeping until we are all caught up in God’s mercy, grace, and love. He is not obsessed with our sin but is more concerned with a change of mindset and purpose. God transforms us for the better.
I am sure that people who confessed their sins, in this sanctuary, at the beginning of the service are grateful that God has forgiven us and transformed us as human beings. We are truly blessed that God actively searches for us. Thanks be to God. Amen.

週報通算#1273号 (日本語)
2013年9月15日の週報

週報通算#1273E号 (英語)
Sunday English Bulletin 1273E

来週は召天者記念礼拝です。 是非ご出席下さい。

詩編を読もう:的外れなこと (詩編51:1-12)
今週読む詩編は51編の1-12節。1節と2節にこの詩編の背景が書かれている。ダビデとバト・シェバのことはサムエル記下11章に記録されていて、また預言者ナタンがダビデのものに来たときの事はサムエル記下12章に記録されているので、時間の許す方は、それらを読んで、詩編51編を読まれると良い。 しかし、その背景がわからなくても、この詩編51編 読むことは、とても意味があるので、いずれにしろ3節から12節までを、何回か読むことはお勧めしたい。 

詩編 / 51編
1: 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
2:ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】
3:神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。
4:わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。
5:あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
6:あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。
7:わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。
8:あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。
9:ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。
10:喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。
11:わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。
12:神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。

ダビデとバト・シェバの話は興味深い話だが、ダビデは王であり、またその行為は王という権力があるから実行できたことであり、この詩編51編を読むことは、「自分はダビデのような罪を犯せる立場にもないわけで、自分にとって関係の無い話」として読んでしまうかもしれない。しかし、私はこの詩編は「他山の石」、つまり、自分の反省や修養に役立つ面は多いにあると思う。

与えられている詩編箇所は、過ちを犯し、自分の罪をみとめ、自分のやましさや恥ずかしさに悩む時、神に罪の赦しを請い、新たな希望が与えられることを願って読む箇所として、すばらしい箇所だと思う。と言っても、罪という言葉、あるいは「罪人(つみびと)」という言葉が日本語でイメージした時、とかく、「犯罪」とか「犯罪人」というようなイメージで解釈されてしまい、自分は警察に捕まったことはなく、「自分は罪人ではない」として、詩編の51編も、そのほか聖書でいろいろなところで語られる「罪人」の話も自分には関係が無いと思われてしまうかもしれない。 

そこで、聖書に書かれている「罪」という言葉について、詩編51編の3節と4節に書かれた言葉を掘り下げて、考えてみたい。 日本語では、「背きの罪」「咎」そして単に「罪」という三種類の言葉が使われているが、それぞれの原語の意味を以下に書く。 

最初の「背きの罪」という言葉は、ヘブル語の原語では、子供たちが親に向かって反抗するような時に使われる言葉。 それは、親がどんなに子供を愛していても、それに甘え、また親の苦労も理解せずに、親に背を向け反抗するような態度を思っていただければ良いかと思う。次の「咎」と訳された言葉には、曲がった状態とか、いらいらしている状態を現る言葉が使われている。 そこには、おろかな行いをしてしまい、腰を曲げ、身を屈めて、深くうなだれているような状況が思い浮かぶ。 そして、最後のただ「罪」と訳されている言葉は、詩編51編の中だけでも、4節以外に、5節、6節、7節、10節、15節にも出てきているが、ヘブル語の本来の意味は、「的を外している」という意味がある。 

これらの言葉から「罪」あるいは「罪人」について考えると、刑法に違反したかしないか、あるいは警察に捕まるか捕まらないか等には関係無く、私たち人間を創造された神の思いとは違った行為や、神の目から見て的外れなことをしてしまい、身を屈めてうなだれているような状態を思い浮かべる。 

聖書で語られている罪は、実はこの世に生まれたすべての人間に当てはまっているのだと思う。12節の言葉にあるように、神が私たちに清い心を創造してくださるように祈りつつ。 アーメン 

2013年9月5日 詩編を読もう:主の教えを口ずさむ人々の幸せ (詩編1) 牧師:安達均

今週読む詩編は1編。 150編ある詩編の一番最初に書かれている詩編。短くまた美しい詩編なので、3回は読まれたらよいかと思う。そしていつものように一回目は気になる言葉は何だったか? 二回目は自分に何を語りかけられたか? また三回目はコミュニティに何を語りかけられているか? 思いを巡らせてみてはどうだろうか。

詩編 1編
1:いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
2:主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
3:その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
4:神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
5:神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
6:神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

詩編1編は、過去に何度も読んだが、新たに読むとき、新しいことに気づかされる。今日、新たに思い巡らしたことを書いておきたい。

気になる言葉: 口ずさむ人
詩編は「いかに幸いなことか」という言葉から始まっているので、その後に書かれていることは、「幸せとは何か」について書かれていると思われ、大きな興味が沸いてくるような面がある。先週の詩編112編にも、同じような展開があって、「幸せな人とは主を畏れる人」というのが結論だったのかと思う。 詩編1編でも、その線に近いことが書いてある。 ただ、表現方法として、「いかに幸いなことか」という最初のフレーズではじまった1節は、2節の最後の「口ずさむ人。」という言葉で終わっている。 この「口ずさむ人」という表現は、とても情緒的で、この詩に美しい花を添えているような表現に思える。 ただ、この「口ずさむ」という表現は英語でも同じような情緒的な表現があるのかと思い調べると、”meditate” (New Revised Standard Version)という言葉が使われていて、「瞑想する」とか「黙想する」というような意味になっており、イメージが少々異なっている。さらに、元々のヘブル語ではなんと言う言葉だったかを調べると、”hagah”という言葉が使われていて、これは「うなる」というおもしろい意味がある。 

自分に何を語りかけているか: 日本語に訳された聖書を読む楽しみ
私は、「口ずさむ」と書かれた日本語聖書の表現はとても楽しい感じがして、心がウキウキするような面もあり、ありがたい。 ちなみに、新改訳聖書でも同じ、「口ずさむ」という表現が使われていたが、口語訳聖書では、ただ「思う」というどちらかというと英語の”meditate”に近い表現かと思う。いずれにしろ、私たちが普段読む聖書は、訳されたものを読んでいるのであり、そこには訳者たちの解釈が入っている。 また、この詩編1編の最初の節の言葉は、ヘブル語のアルファベットのAにあたる文字で始まっていて、最後の節の最初の言葉はヘブル語のアルファベットの最後の文字で始まる言葉が使われていたり、ヘブル語独特の詩の楽しみがあるが、訳されているものだけを読んでいると、その辺の楽しみは訳しようがない。訳されたものを読むなかで、本来の言語の楽しみとは、違った楽しみが表現されるように思う。しかし、やはり、訳されたものを読んでいるということは、大きく意味が変わってくることもありうるので、注意が必要だ。

コミュニティに何を語りかけているか: 神に従う者たちのうなり
コミュニティということを考えると、2節は「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」と日本語では単数形のようだが、「口ずさむ人々」という複数形で捉えても良い。少なくとも英語では複数形で表現されている。複数で考えると、いろいろなイメージがわいてくる。たとえば、今という瞬間でも、世界中のどこかで、聖書研究会なりをしていて聖書の言葉を読んでいる人々がいる。また朝起きて聖書を読んでいる人もいれば、就寝前に聖書を読んでいる人々もいる。世界中のどこかでは平日にも礼拝をしているところもあり、その中で、皆で聖書を読んでいる所もあるだろう。それらのすべての声が聞こえてきたらどういう風に聞こえるだろうか。一台の車が通る音を聞くのと、交通量の激しいフリーウェーの近くで聞こえる音の違いを考えてみるとわかりやすいかと思う。一人一人が、いくら楽しい声で口ずさんでいたとしても、それが何万人もの方が口ずさんでいたとしたら、それは、「うなる人々」の声になってくるような気もする。 たとえ、それが全体では「うなる」ような感じかもしれないが、主なる神は、多くの人々が主の教えを口ずさむのを喜ばれていて、口ずさんでいる一人一人に幸せ、喜びがある。今日健康を与えられている人、病の中にある方、あるいは、悲しみの中にある方も、何かの主の教え、ただ単に「神を愛し、隣人を愛せよ。」だけでも良いので、口ずさんで心の幸せが与えられますように。 アーメン  

主が喜ばれるパーティ ルカ14:1, 7-14

主の恵みと福音が集まりました会衆の上に豊かにありますように!

さて、今日はイエスの語られたパーティの話。何かのパーティに招かれたとして、どこに座りたいか? あなたが、食事会を催すことにしたとして、だれを招きたいか? 
私は、実は、苦いしかも恥ずかしい経験がある。しかし、そのぶざまな体験を通して、神は私に語りかけていたと思う。 神学校のある教授の引退披露パーティがモントレーパークであった。 私は、当時インターンだったが、その披露宴に出席することになった。中華料理屋で行なわれたが、私は会場に入ってすぐドア近くのテーブルに座った。すると数分後、引退する教授が来られ、私の座っていたテーブルのすぐ隣のテーブルに座られた。そして、他の教授と思われる方々やシカゴから来られた方々がその教授のテーブルと私のテーブルに座り始めた。 入り口に近い席が、通常末席というのが日本の常識だが、そんなことは通用しない。 そして、まだ教授をよく知る方々でスピーチ予定の方々が私の座ったテーブルに座るとのことで、主催者の方から他のテーブルに行って欲しいと言われ、奥の方のテーブルに移動した。まさにイエスの語られていた恥ずかしい経験をすることになった。しかし、私に言わせれば上座なる奥の方の席について、となりに座った方は、シカゴから来られた牧師で、しかも、足も胴体も不自由な方。 私は始めてその方とお会いしたが、とても不思議な経験だった。彼の育った教会が、今は周辺にアフリカから移民してきた貧困層の方々が住むようになり、アフリカからの移民の方々を招いている教会になっているという話しを聞きとても有意義な会話となった。 引退披露バーティでの一連の出来事は、このルカ福音書の14章に書かれていることと、何かダブルで共通していると思った。  
本日の福音書では、イエスは結婚披露宴に招かれたら末席に座るように、昼食会や夕食会を開く場合は、兄弟や、親戚、あるいは近所の金持ちを呼ぶのではなく、貧しい方や体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招くようにと言われる。なぜなら、彼等からはお返しを受けないので幸せであり、義なる者が復活するときその報いを受けるから。 それにしても、このたとえ話、イエスは当時の人々、さらに、現代を生きる私たちに何を語っているのだろうか?この数ヶ月間読んできているルカ福音書には、ひとつの一貫したテーマがある。それはイエスが神の国はどういうところかを教えてくださっている。今日の福音書では、神の国の状況を宴会や食事会にたとえて話しておられる。あなたは神の国の宴会に招かれているのであり、また同じような宴会を主催して、その神の国の良き知らせをシェアするように教えられているように思う。神の国にあっては、全員が徹底的にへりくだっており、謙虚であり、どんな体の不自由さも差別されることなく、金持ちも貧乏もなく、人種差別もなく、主のもとに全員が同じ扱いを受ける。神の国では、貧しい方や体の不自由な方々がじゃま者扱いされることはなく、むしろ、彼らが正しいとされる。 そして、イエスはそのような神の国がこの世においても実現するようにと教えておられる。そして、私たちが真に楽しい宴会、そこにイエスもいっしょに座ってくださる喜び溢れる宴会を催す、つまり社会作りをするように導いておられる。
この世において、日本人は日本人だけの社会とか、あるいは、裕福な人々は裕福な人々だけでコミュニティを形成しようとする傾向がある。そのような社会的な風潮があっても、イエスは、私たちに、だれかがだれかよりも価値が高いなどということが無いような社会になるように、徹底的に謙虚に生きるように導いておられる。 先週ある記事を読んでいて、たいへんに残念に思ったことがある。最近日本では、考え方が同じではない外国人は出ていってくれ、と考える方々が多くなっているという話を聞いた。日本は古い歴史にさかのぼると、そもそも、他民族国家なのだと思う。 しかし、鎖国などの時代を経て、いつのまにか単一民族のような印象を受け、そして、また自然と他民族であることに気づく時代が近づいており、いってみれば神が喜ばれる社会になっていくのではないかと私が期待していたが、どうもそれを歓迎していない動き、風潮があるようだ。そのような風潮は究極的に喜ばしい社会形成になるのだろうか。ぎすぎすした社会、国際関係になってしまうのではないだろうか。 そもそも、そのような風潮を見て、イエスはどう思われるだろうか。 
神の国においてだけではなく、この世においても、へりくだって生きること、そして、文化の異なる人々も、貧しい人々も、あるいは体の不自由な方々も、神が創造してくださった同じ人間として、いっしょに生活する。そのような行動こそが、最もいつくしみあふれるイエスが主催してくださる宴会の席に着くことであり、そこに真の主イエスの喜びがあり、私たちも大きな喜びが与えられることになる。アーメン 

Party that the Lord Enjoys Luke 14:1,7-14

May the Grace and Peace of Christ be with you all!

The theme of today’s message is the party that Jesus discussed. When you are invited to a party, where are you going to sit? When you host a party, whom are you going to invite?
I had a bit of a bitter and shameful experience at a party…however, from that awkward experience; I felt that God was speaking to me. Five or six years ago, a theology professor’s retirement party was held in Monterrey Park and I happened to be there. During this time I was just an intern.
It was held at a Chinese restaurant, in their banquet hall, I entered the venue and sat at a table near the entrance. Then the professor came a few minutes later and sat next to the table where I was seated. Then several other VIPs arrived and started sitting at either his table or my table. Although, I thought that the table I was sitting at would be far from the main guest table, this was not the case.
Later on, a few more people arrived (i.e. guest speakers) and I was asked to change my seat by a pastor who coordinated the party…it was a shameful social experience as Jesus discussed in his parable. I moved to a different table and the person seated next to me was a pastor who came from Chicago. He is a physically disabled individual. It was interesting how I came to be seated next to him. I remember the scene that was described in today’s text. I felt very happy that I sat next to a disabled pastor and I had a wonderful conversation with him.
In the Gospel text today, Jesus talked about a parable that you should sit at the lowest place when you are invited to a wedding party. Also when you have a luncheon or dinner party, you should invite the poor, the crippled, the lame, and the blind. Since you are not directly repaid by them, you are repaid and blessed when the righteous are resurrected.
What does this parable mean? What does Jesus teach his disciples at the time and us in modern times? In the chapters of Luke (that we’ve been reading for months), there is a consistent theme, which is the Kingdom of God. Jesus has been teaching what the Kingdom of God looks like, metaphorically talking about joyful parties. You are invited to the party and you’re expected to invite others by sharing the Good News. He is teaching us how we should live in this world.
Based on what Jesus said, in the Kingdom of God, all people are consistently humble and there is no difference between rich or poor, disabled or able-bodied, white people or people of different ethnicities. All people are the same under God.
In the Kingdom of God, no one is considered uninvited to or unwanted at the party. Rather those poor and disabled people are considered righteous in the Kingdom of God. And Jesus is teaching that the Kingdom of God can be realized even in this world, so that we can have a joyful party where God sits together with us.
A recent sociological study suggests that most people tend to have friends who’re ethnically similar to themselves and, by extension, associate with people of similar ethnic and economic backgrounds. Whether they’re rich or middle-class, people tend to overlook the socially marginalized such as the poor or disabled. Some people invite the marginalized to events or parties so they can be praised as good hosts but Jesus wants us, as Christians, to realize that despite possible better social standing, no person is more worthy than another and we should try to live our lives with humility.
Just this past week, I learned that there is a growing atmosphere in Japan that is trying to discourage foreigners from living in Japan. Do you think this kind of atmosphere contributes to a truly healthy, joyful country? I’m rather concerned about Japan’s relationships with foreign countries. My question is what would Jesus say about this kind of xenophobic atmosphere?
Not only in the Kingdom of God, but also in this world, Jesus wants us all to be humble, respect others (not just our peers but the poor and disabled as well) and live together, remembering that we’re all created by God. By living with humility and treating others equally, regardless of their social standing, we can rightfully claim a seat at the joyful party where Jesus is our most gracious host. Amen.
 

8月29日 詩編を読もう:幸せ (詩編112) 牧師:安達均

今週読む詩編は112編。 いつものように、3回読んで、それぞれ、気になる言葉は何だったか? 自分に何を語りかけられたか? またコミュニティに何を語りかけられているか? 思いを巡らせてみてはどうだろうか。

詩編 / 112編
1ハレルヤ。いかに幸いなことか/主を畏れる人/主の戒めを深く愛する人は。
2:彼の子孫はこの地で勇士となり/祝福されたまっすぐな人々の世代となる。
3:彼の家には多くの富があり/彼の善い業は永遠に堪える。
4:まっすぐな人には闇の中にも光が昇る/憐れみに富み、情け深く、正しい光が。
5:憐れみ深く、貸し与える人は良い人。裁きのとき、彼の言葉は支えられる。
6:主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。彼はとこしえに記憶される。
7:彼は悪評を立てられても恐れない。その心は、固く主に信頼している。
8:彼の心は堅固で恐れることなく/ついに彼は敵を支配する。
9:貧しい人々にはふるまい与え/その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。
10:神に逆らう者はそれを見て憤り/歯ぎしりし、力を失う。神に逆らう者の野望は滅びる。

どんなことに思いを巡らせておられるだろうか。今週は、いつもの三つの質問に対して、私が思いを巡らせたことを書いておきたい。

気になる言葉は何だったか? 「いかに幸いなことか」
詩編の最初の「ハレルヤ」という「主を賛美せよ」という意味の言葉のあと、「いかに幸いなことか」という言葉が出てきている。 詩編の中には、この言葉がしばしば使われている。(興味がある方は、時間のゆるすときに1、41、65、89、119、128編を読まれても良い。) 「いかに幸いなことか」という言葉は、人間が生きて行く上で、「幸せって何なんだろう?」と考える事はよくある。その質問の答えを詩編作者が提供してくれるわけで、「いかに幸いなことか」という言葉には、次に何が書かれているか、強い興味が沸いてくる。実は、イエスキリストもこの言葉を使って、山上の垂訓を語っている。(マタイ5章)

自分に何を語りかけられたか? 「幸せとは主を畏れること」
「いかに幸いなことか」という興味ある言葉の次には、まず「主を畏れる人」という言葉が出てきた。これは基本中の基本で、「主を畏れる」ということは、聖書の中で繰り返し出てくる。 箴言の1章7節には「主を畏れることが知恵の初め」という言葉がある。 3週間前の8月8日に読んだ33編でも、この言葉が出てきて、「主を畏れる人」というタイトルで、「詩編を読もう」を書かせていただいた。 今週読んでいる詩編112編では、「主を畏れる人が幸せ」ということが詠われているわけであり、私は、「ごもっとも」と思う。 

コミュニティに何を語りかけているか?  幸せな信仰者の人。そして、詩編113編の中で、主を畏れる幸せな人は、「このような人生を歩んでいますよ」ということを、コミュニティに語りかけている。 イエス・キリストがこの世に登場された時代は、安息日には、会堂(シナゴーグ)と呼ばれるところに人々は集まり、詩編を詠って賛美し、またユダヤ教の指導者が説教のようなことをしていた。 つまり、詩編の言葉が、コミュニティに広まるメカニズムがあったのかと思う。 現代でも、キリスト教会は日曜日にコミュニティの人々が集まり、讃美歌を歌って、メッセージを聴くという伝統を引き継いでいる。 しかし、まだまだ、同じこのオレンジカウンティという場所、あるいはアメリカ合衆国にというコミュニティに住んでいる方々で、「主を畏れることが知恵の初めであり、また、主を畏れる信仰が幸せなんだ。」ということまで意識される方々は少ないように思う。 

最後にもう少し、112編全体に触れておきたい。2節3節では、主を畏れる人には良い事ばかりが起こるような印象が書かれているが、4節以降は、この世の現実が書かれはじめる。 4節には「闇の中に光が昇る」とあり、主を畏れる人も、闇を経験する。 また裁判沙汰のような事(5節)も起こるかもしれないし、7節には、「悪評をたてられても」という言葉も書かれており、悪い噂がたってしまうことがある現実が書かれている。 イエス・キリストの歩まれた生涯を思い浮かべるのも良い。

私たち、毎週日曜日に、主を畏れ、主を賛美する者の群れも、さまざまな悩みやあるいは病の中にあって闇を経験している者も多いのが現実だ。にもかかわらず、主を畏れる者は、主にあって強められ、主の祝福によって守られ、恵みが与えられ、主が微笑んでくださり、さまざまなごたごたの中にも、心の平安が与えられ幸せである。 

神の行い:束縛から解放 ルカ 13:10-17

キリストの恵みと平安が豊かにありますように。

自分はなにかに束縛されてしまっていると思うことあるだろうか? 歴史的な事実として、イスラエルの民はエジプトで奴隷となっていたが、それがひとつの大きな聖書に書かれた束縛のイメージだ。 
こんな母親がいた。子供にむかって、「私はあんたたちの奴隷じゃないんだから、少なくともパンツくらい自分で洗いなさい。」と言い、子供は自分でパンツを風呂に入ったときに必ず洗うようにさせていた。かと思うと、子供の奴隷になってしまうお母様方が多いと聞く。自分の理想とする子供になって欲しいがため、とにかく勉強して、良い大学に入り、良いところに就職できるようにと、何から何までやってしまう。結果、母親は奴隷のように子供に束縛されてしまう。
あるいは、何かが欲しくてしょうがなくなり、高級ブランド品とか、高級車とかに束縛されてしまう。こういう話がある。猿を捕まえるための道具で、箱がある。箱には穴が開いていて、中には、さるの欲しそうな食べ物がひもでぶら下がっている。猿がその箱のところに来て、これはしめたと思い、中の食べ物をつかむ。 ところが、それを取り出そうにも、しっかりひもにくくりつけられてぶら下がっているから、簡単には取り出せない。離してしまえば良いのに、欲しくてしょうがないので、つかんだままその場にいる。そうしている間に、猿は箱の近くで捕らえられてしまう。 

いくつかの束縛のタイプを話したが、今日の福音書に入っていきたい。この話、束縛されてしまっているのは、だれだろうか。もちろん、18年間、病の霊に苦しみ、腰の曲がってしまっていた女性。しかし、その女性だけではないと思う。 だれが、束縛されているだろう。 イエスの行いを見て憤慨して横柄なことを言い出した会堂長はどうだろうか? 会堂長はユダヤ教の規定に、がんじがらめになっていた。 当時ユダヤ教のしきたりでは、安息日には会堂に集まって詩編を歌い、リーダの話しを聞いた。また第二(月)日と第五(木)日では、聖書(トーラ)を読み、律法について学ぶ日として、人々は集まっていた。 聖書には、実に多くの安息日の規定がある。ユダヤ教のしきたりでは、安息日には基本的に何もせずに、シナゴーグ(会堂)に出向くだけ。現代でも、オーソドックスなユダヤ教の方々は、土曜日に車に乗らずに、シナゴーグには歩いていく。また歩くにしても、歩いてよい距離の上限は決まっていたりする。  会堂長は、18年も腰がまがったままでいた女性が癒されたのに、イエスが安息日に癒したため、自分の理解していた安息日の規定と彼の知識に従って、人々に向かって「安息日は癒してもらう日ではない。他の6日の間に来るように。」と述べる。

自分の理解した律法に束縛されていた会堂長に対して、イエスは18年も束縛されていた女性だったのだから、たとえ安息日であっても解放するのが筋だと説明する。福音書には、反対者たちが皆恥じ入ったとあるが、実は、その女性が癒されたあと、イエスの会堂長に話したことは、彼らにとっても大きな解放の言葉だったのはないかと思う。ある意味、さきほど、猿が必死に、その箱の中の食べ物を離すことができずにいる所に、ぱっと、別にその餌を食べることが一番大切なことではないんだよと気づかせ、ぱっと手をそこから離すことができるようにしてあげるようなイエスの行いと言葉がある。 

この21世紀を生きる現代にあって、いろいろなことに縛られてしまっている私たち、その結果一番大切なことを忘れてしまい、私たちを創造してくださった神との関係をおろそかにして生活している現代人に、聖書に描かれたイエスの行為と言葉は大きな意味を持っている。 様々なことに縛られてしまう私たちは、規定でがんじがらめになってしまっていた会堂長に、はっと、本当の神の愛を見せた上、会堂長の行き過ぎた安息日の解釈にイエスの投げかけた言葉には、私たちも多いに学ぶ面がある。
私たちの生活で、イエスというお方である神以外に、さまざまな神々を自分で作ってしまうところがある。 お客様は神様ですと南春夫さんは言われた。芸人にとっても、どんなビジネスをするにも、もちろん、お客様は大切だ。しかし、本当の神ではない。家族はもちろん大切で、子供に自分の最高の愛を示そうとすることはすばらしいことだが、子供を神としてしまい、自分を創造された神様とすり代えてはならない。私は聖書を読むことが大切だとよく話すが、それは聖書が神様で、聖書を読むことが一番大切ということではなく、聖書の中に書かれた、イエス・キリストの行為、話された言葉を読み、イエス・キリストという方を知りそのお方と関係を持つことが一番大切であり、そしてイエスの生き様を振り返り、できる限りイエスの教えに従った生き方をすることが私たちの使命。 
いろいろ間違った考えや行動、つまり神ではないものを神のように思ってしまう現代人であるにも関わらず、十字架に架かって殺されてまでも、復活して徹底的な愛をもって、人間を赦される神。イエスは、色々な事に束縛されてしまっている現代人を解放するために、聖書に書かれたストーリーやイエスの言葉が働いて、現在も多くの方々を解放している。 そのような主なる神、イエス・キリストをますます讃え、イエスの愛に満ちた新たな一週間を送ろう。アーメン。

”God’s Action: From Captivity to Release” 2013 8 25
Luke 13:10-17 Pr. Hitoshi Adachi
Grace and Peace to you in the name of our Jesus Christ!
Have you ever felt that you were captive to something? As a historical fact, Israelites were slaves in Egypt, which is a biblical image of captivity.
While we were raising our children, my wife often said, “I am not a slave of yours. I cannot do all of your laundry. Why do not you wash your underwear at least?” Shin, the honest first born son, followed what she said.  Sometimes I hear stories that there are mothers who are captives of their children. They want their children to be an ideal adult, meaning going to a prestigious college and earning a good income, so some mothers do everything in order for them to focus on their studies, like they are slaves to their children.
Or there are people who would like to own something, i.e. brand-name goods, such as expensive jewelry or an expensive car. There are people who are captives to luxury brand items.  I am sorry to use this analogy, but I will use it since humans are close monkeys. There is a trap to catch a monkey, a sturdy box that has a hole that a monkey can put his hand into the box. In that box, there is an apple hanging firmly tied to the top of the box by a string. When a monkey approaches the box, he finds the apple and puts his hand into the box and grabs the apple. He wants to take it out to eat it, but he cannot since it is firmly tied to the string. Since he really wants it, he is not able to release it. Then the monkey is easily captured.

I’ve spoken about several types of captives…now, let’s talk about today’s Gospel text. Who is a captive? Or who are captives in the story? Of course, the woman crippled for eighteen years is an obvious example. Is there someone else? How about the leader of the synagogue, who was insolent to Jesus because he cured the person on Sabbath? I believe that leader was a captive because he was a slave to his understanding of the law. In Jewish custom of that age, they gathered together every Sabbath (Seventh Day) to worship and listen to the stories from leaders. Also they gathered, not only on the Sabbath but, every second day and fifth day to read the Torah (Law of Moses) as well. There are many verses regarding the Sabbath. Some of you might be reading those verses since the lectionary from this past Thursday focuses on the Sabbath. On the Sabbath you are not allowed to go outside unless you walk only certain steps. So on Sabbath, in his understanding and knowledge, it is not allowed for a person to be cured, so he said, “Do not come on Sabbath but come during the other six days.”
In response, Jesus said to the leader, “Does not each of you on the Sabbath untie his ox or his donkey from the manger, and lead it away to give it water? And ought not this woman, a daughter of Abraham whom Satan bound for eighteen long years, be set free from this bondage on the Sabbath day?” In the Bible, even though it was described that the leader was put to shame, I believe that Jesus’ actions and his words were a true release from captivity for that woman and also for that leader. In a sense, even though the monkey thought that the apple was the most important, Jesus is taking action and speaking in a way to show that the apple was not the most important and to release it.

In the 21st century, we are captive to many things. Or we are caught by many things, cell phones, TV programs, jewelry, cars, friends etc. As a result, there are people who are losing the most important relationship with the Lord, who is God and created us all. What is written in the story about Jesus’ actions and his insightful words releases us from those many different forms of captivity.
In our lives, sometimes human beings elevate something worldly to godhood but that worldly thing should not replace God. We make gods internally. The famous singer, Haruo Minami stated, “Customers are gods.” Of course for him and every business person, customers are important but not truly God. Of course children are important, and you should show them your love, but you also should not substitute your children or other family member for God. I often say that reading the Bible is important, but it does not mean that the Bible is God. We should not substitute the Bible for God like the synagogue leader should not substitute religious laws for God. The most important matter is to read about the life of Jesus Christ, reflect on what He does and says; and live our lives according to Jesus’ teachings as best we can.
In spite of our human beings who often fail and substitute something else for God, our Lord, Jesus Christ forgives us with His great love, even as he was hanged on the cross. Jesus wants people to be released from captivity to false gods. Let us be refreshed by Jesus’ actions and words; why not praise the Lord even more than we already do, and let us live with Joy according to His enduring love. Amen