Tweet 今週は7月2日から5日の聖書日課に与えられている詩編123編を読もう。とても短い詩編だが、120編から134編は、すべて最初に「都に上る歌」との説明書きがあるので、120編から134編が一つの大きなグループの詩編で、その一部が123編ともいえる。 いつものように気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編123編 1:【都に上る歌。】目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます/天にいます方よ。 2:御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ/はしためが女主人の手に目を注ぐように/わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ/憐れみを待ちます。 3:わたしたちを憐れんでください。主よ、わたしたちを憐れんでください。わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。 4:平然と生きる者らの嘲笑に/傲然と生きる者らの侮りに/わたしたちの魂はあ まりにも飽かされています。 気になる言葉としては、「飽かされています」という、あまりピントこない言葉。 前後関係から理解して、また辞書でも調べてみたが、「満ちている。」とか「十分にある」という意味なのかと思う。 さて、詩編作者の気持ちを想像しながら、短い詩編をじっくり振り返りたい。 冒頭にも書いたように、詩編120編から、都に上る歌がはじまっている。 エルサレムから遠く離れた所から、三日位かかって、エルサレムに上ってきたような感じがする。 毎日一編づつ、詩編を詠いながら。 そして、エルサレムの神殿をまん前にして、この詩編123編を詠っているような、信仰深い詩編作者とその一族の様子が思い浮かぶ。 目をあげて、わたしは(一族の長)が主を仰ぎみます、天におられる主よ、と呼びかける(1 節)。 僕(しもべ)が主人の手を見守るように、また女奴隷が、その女主人の手を見守るように、私たちは、今、主なる神を見守り、憐れみを待ちます(2節)。1 節が家長の個人的な神への呼びかけ、2節は家族・共同体としての神への呼びかけが大きなテーマで、神の憐れみを願う。3-4節では、2節に引き続き、憐れみの祈願が繰り返され、そして、なぜそんなに憐れみを願うのかを説明すべく、共同体が背負っている心の重荷の告白になってくる。 どうか私たちを憐れんでください、主よ、憐れんでください、わたしたちの心はあまりに、恥に満ちています(3節)。 私たちの魂は、世の中を、ただ思いわずらいもなく生きている者たちからの嘲りに、また私たちを見下して生きる者たちからの侮辱に、あふれています(4節)。 そこには絶対的な神に頼って信仰をもって生活する詩編作者やその家族が、周辺の人々からは、ばかにされ侮られてきた様子が思い浮かぶ。 そして、耐え切れずに、エルサレムに上ってきて、神殿で、主に憐れみを請う姿が現れている。 詩編123編を通して、神は何を現代の私たちに語ろうしているのか? 詩編が記された紀元前数百年前から現代の話に飛んでしまう前に、イエスキリストの時代のことを思い返したい。 7月5日の聖日に与えられている福音書は、マルコ6章1-13節になるが、その前半部分では、イエスが生まれ故郷のナザレでは、ほとんど相手にされないというか敬われない様子が描かれていた。 そして、現代の教会の指導者たちも、自分の生まれ故郷では、周囲の人々から侮られてしまうということは起こっているのではないかと思う。 また、指導者ばかりではなく、現代においてキリスト信仰に生きる者は、社会からは嘲笑、侮辱の対象になってしまうことも否定できない面がある。そこには、信仰者が一人で社会に存在しているだけでは、とてもやりきれなくなってしまう面があるのではないだろうか。 だからこそ、詩編作者とその群れが、エルサレムの神殿に向かったように、現代の信仰者も、週一回は、謙って主を賛美しつつ、礼拝堂に集い、自分たちの重荷を告白して主の憐れみを請い、恵みの御言葉を聞き、新たに主に頼る信仰を強め、恵みに応答して捧げ、聖餐に授かって、また世の中に派遣されていく、そのような生活に導かれているように思う。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は6月29日から7月1日の聖書日課に与えられている詩編88編を読もう。はっきり言って、暗い詩編だ。ここまで暗い詩編はほかにないのではないかと思う。 しかし、神の御心があって、この詩編は加えられているのだと思う。詩編作者の立場にたって、また、21世紀に生きる私たちにとって、その御心はなんなのか、考えたい。いつものように気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編88編 1:【歌。賛歌。コラの子の詩。指揮者によって。マハラトに合わせて。レアノト。マスキール。エズラ人ヘマンの詩。】 2:主よ、わたしを救ってくださる神よ/昼は、助けを求めて叫び/夜も、御前におります。 3:わたしの祈りが御もとに届きますように。わたしの声に耳を傾けてください。 4:わたしの魂は苦難を味わい尽くし/命は陰府にのぞんでいます。 5:穴に下る者のうちに数えられ/力を失った者とされ 6:汚れた者と見なされ/死人のうちに放たれて/墓に横たわる者となりました。あなたはこのような者に心を留められません。彼らは御手から切り離されています。 7:あなたは地の底の穴にわたしを置かれます/影に閉ざされた所、暗闇の地に。 8:あなたの憤りがわたしを押さえつけ/あなたの起こす波がわたしを苦しめます。〔セラ 9:あなたはわたしから/親しい者を遠ざけられました。彼らにとってわたしは忌むべき者となりました。わたしは閉じ込められて、出られません。 10:苦悩に目は衰え/来る日も来る日も、主よ、あなたを呼び/あなたに向かって手を広げています。 11:あなたが死者に対して驚くべき御業をなさったり/死霊が起き上がって/あなたに/感謝したりすることがあるでしょうか。〔セラ 12:墓の中であなたの慈しみが/滅びの国であなたのまことが/語られたりするでしょうか。 13:闇の中で驚くべき御業が/忘却の地で恵みの御業が/告げ知らされたりするでしょうか。 14:主よ、わたしはあなたに叫びます。朝ごとに祈りは御前に向かいます。 15:主よ、なぜわたしの魂を突き放し/なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか。 16:わたしは若い時から苦しんで来ました。今は、死を待ちます。あなたの怒りを身に負い、絶えようとしています。 17:あなたの憤りがわたしを圧倒し/あなたを恐れてわたしは滅びます。 18:それは大水のように/絶え間なくわたしの周りに渦巻き/いっせいに襲いかかります。 19:愛する者も友も/あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです。 気になる言葉としては、11節から13節に書かれた質問。しいて一つあげるとすれば、「滅びの国であなたのまことが語られたりするのでしょうか。」 詩編作者の気持ちになって、この詩編箇所を振り返りたいが、長いので、三つの箇所にわけて、要点だけ。 1節の詳細説明は避けるが、楽団を形成して、この詩編が歌われる様子が思い浮かぶ。2-10節の内容は、社会から疎外されてしまった詩編作者自身と、ほかにも、疎外されてしまった人々がいて、みな、閉ざされた墓、暗闇の地にいると詠う。しかし、2節の最初は「主よ、私を救ってくださる神よ」との神への問いかけではじまり、10節は「あなたに向かって手を広げている。」との言葉があることから、詩編作者が神に祈り続けており、神への希望を捨てていない状況がわかる。11-13節は、決定的ともいえる質問をしていると思う。死者に神の御業が起こるのか、滅びの国にあなたのまことが語られるのか、等々。これらの質問に対して、答えが明確に書かれているわけではないが、真っ暗闇にいる詩編作者は、「いやそんなことはありえない。」という考えに陥っているのだと思う。14節から19節は、さらに真っ暗闇に入っていく様相で、神からも突き放されてしまうと詠う。そして、「私に親しいのは暗闇だけだ。」という言葉で終わっている。しかし、それでも、詩編作者は、その心境を神に向かって、詠っていることに注意したい。 詩編88編を通して、神は何を現代の私たちに語ろうしているのか? 社会からも疎外され、神からも見放され、墓にいるしかないような自分、あるいは滅びの民のようではあるが、それでも主なる神に語り祈り続けようとする信仰に、とてつもないパワーを感じる。21世紀、教会ですら悲しい銃撃事件がおき、本当に暗い世の中だと感じている人々が多いのが現実なのかと思う。実は、墓にいる死者をも蘇させることができる神に徹底的に祈る信仰が求められている。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
June 18th, 2015
2015年6月18日 詩編を読もう:導く主 (詩編107編 1-3, 23-32節)
No Comments, Uncategorized, 詩編を読もう, by admin1.Tweet 今週は6月18日から21日の聖書日課に与えられている詩編107編1-3節および23-32節を読もう。いつものように気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編 107編 1:「恵み深い主に感謝せよ/慈しみはとこしえに」と 2:主に贖われた人々は唱えよ。主は苦しめる者の手から彼らを贖い 3:国々の中から集めてくださった/東から西から、北から南から。 23:彼らは、海に船を出し/大海を渡って商う者となった。 24:彼らは深い淵で主の御業を/驚くべき御業を見た。 25:主は仰せによって嵐を起こし/波を高くされたので 26:彼らは天に上り、深淵に下り/苦難に魂は溶け 27:酔った人のようによろめき、揺らぎ/どのような知恵も呑み込まれてしまった。 28:苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らを苦しみから導き出された。 29:主は嵐に働きかけて沈黙させられたので/波はおさまった。 30:彼らは波が静まったので喜び祝い/望みの港に導かれて行った。 31:主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。 32:民の集会で主をあがめよ。長老の集いで主を賛美せよ。 気になる言葉としては、私にとっては25節の「主は仰せによって嵐を起こし、波を高くされた」という箇所。 読む人によっては、「神様のいじわる」と言いたくなってしまうかもしれない。 しかし、聖書全体から教えられるメッセージは、決して、神様がいじわるな方だというわけではない。 さて詩編作者の気持ちになって、この詩編箇所を今一度味わいたい。 「恵み深い主の感謝しよう、慈しみは永遠にあるのだから」という言葉をもって、主に感謝しよう。主が贖ってくださった人々は唱えよう、主は人々を苦しめる者から贖って、東西南北、あらゆる方角の国々から、集めてくださった(1-3節)。 人々は、海に船を出し、大海を渡って商売人となり(多少高慢な人間になったような面もあったのだろう)彼らは深い淵で主の御業・驚くべき御業を見ることになる(23- 24節)。 主は言葉を発することで、嵐を起こし、波を高くした(25節)。 よって、人々は天に昇ったり深淵に落ちるような気分になってしまい、苦難の魂が溶けてしまうかのよう(26節)。 また酔ってしまった人のようによろめいてしまい、知恵も働かず、なにもできなくなってしまう(27節)。 なにもできずにいる彼らは、大声で主に助けを求めてみる、すると、主は彼らを導きだした(28節)。主は嵐を静められ、波はおさまった(29節)。彼らは波が静まったのを喜び、目的地の港に導かれていった(30節)。だから主に感謝せよ、主の慈しみは深く、人々に驚くべきみ業を成し遂げる(31節)。民を集めて主を崇めよ、長老が集まった集いで主を賛美せよ(32節)。 21世紀の現代に生かされている私たちに、主なる神はこの詩編をもって何を語っておられるのか考えたい。紀元前に地中海を我が物顔に航海していた商人に突然、悪天候がおとずれたように、現代においても、順調にものごとが運んでいても、突然の逆風に遭遇し、なにもできなくなってしまうようなことがある。もう少し言うなら、「私の人生、とくに困っておらず、宗教にお世話になるつもりはありません。」と言う方とか「もうちょっと年を経て、キリスト教が必要になったら教会の門をたたきます。」といってくださる方もいたりする。 しかし、人生はいつ暗雲がたちこめ、真っ暗闇になってしまうか、何事もうまく行かずに意気消沈してしまうことにもなりかねない。 しかし、紀元後になって、主イエスが顕われてくださってから明確になったことだが、主イエスの信仰によってどんなことがおころうが人生は終わらない。 たとえこの世の命が終わったあとでも、主の慈しみは永久に続き、主が共に歩んでくださる。 どのようなことがおころうが、主が共にいてくださって、導いてくださっていることを覚えよう。 今週与えられた詩編箇所を読む中で、人生、順風の中にいる時から、主を畏れる信仰をもって生きるように導かれているように思う。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は6月11日から14日の聖書日課に与えられている詩編92編を読もう。新共同訳聖書では最初の5節までと、最後の13節から16節までの短い箇所に集中して読む。いつものように気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編92編を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編92編 1: 【賛歌。歌。安息日に。】 2:いかに楽しいことでしょう/主に感謝をささげることは/いと高き神よ、御名をほめ歌い 3:朝ごとに、あなたの慈しみを/夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは 4:十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ/琴の調べに合わせて。 5:主よ、あなたは/御業を喜び祝わせてくださいます。わたしは御手の業を喜び歌います。 13:神に従う人はなつめやしのように茂り/レバノンの杉のようにそびえます。 14:主の家に植えられ/わたしたちの神の庭に茂ります。 15:白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし 16:述べ伝えるでしょう/わたしの岩と頼む主は正しい方/御もとには不正がない、と。 インパクトのある言葉や節として、私は15節の「白髪になってもなお実を結び/命にあふれ、いきいきとし」という箇所を挙げたい。ほとんど白髪となってしまった私には、元気づけられる言葉である。 箴言の16章31節には、「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる」とある。また中国の諺には、「なにかわからないことがあったら白髪の人に聞くように」という言葉があるそうだが、そのような言葉も思い出す。 詩編作者の気持ちになって、与えられた詩編を振り返ろう。1節の説明からして、ユダヤ教の土曜日(安息日)の礼拝で歌われていた讃美歌なのだと思う。きっと弦楽器もたくさん使われて讃美歌を歌ったのかと思う。 主に感謝し、讃美歌を詠うことはどんなにか楽しいことか(2節)。毎朝、あなたが夜の間、ずっと私たちを愛し、まもってくださったことを、そして毎晩、あなたの正しさを述べ伝えることは楽しい(3節)。さまざまな種類の弦楽器の調べにあわせて賛美することは楽しい(4節)。主よ、あなたを賛美する理由は、あなたの御業が私を喜ばせ、祝福してくださるから、私はその喜びを歌います(5節)。 神に従って歩む人は、なつめやしのように茂り続け、レバノン杉のようにどんどんそびえていく(13節)。主の家に植えられており、神の庭に茂る(14節)。年老いて、白髪になろうが、なおも他の人々を主へと導き、いきいきとしている(15節)。そして、私が岩として信頼する主は正しい方で、そこには不正がない、と述べ伝える(16節)。 主イエスがこの世に降誕された後の紀元後、とくに21世紀、現代に生かされている私たちに、主なる神はこの詩編92編をもって何を語っておられるのか考えたい。 1-5節に詠われていることは、現代の私たちにも、全く共通することで、主なる神を賛美し、楽器に合わせて讃美歌を歌うことは、いかに楽しことであるか。ただ、その理由として、主の御業を思うとき、紀元前であれば、イスラエルの民が、エジプトの奴隷時代から解放されたことが一つの大きな、主の御業になるのかと思う。しかし、現代の私たちにとっては、イスラエルを越えて、どこの人種であろうが、主イエスが、全人類のために、十字架に架かり、死にて葬られても、復活し全人類の罪を赦し、「あなた方に平和があるように」といって新たなる永遠の命を与えてくださったことが、最大の御業なのかと思う。 その御業を讃え、毎週、主の復活された日曜日に、礼拝があり、賛美している。13節以降に描かれた、いきいき茂るなつめやしや、そびえたつレバノン杉にたとえられた、神に従って歩む人とは、信仰深い方々を指しているのだろう。しかし、その中に、主なるイエスも、信仰者たちの間に混じって存在しているのだと思う。 そして、主なるイエスが永遠に生きておられるように、信仰者たちも、肉体的にはたとえ白髪となり老人になろうが、霊的には、常に実を結び、いきいきとしている。だから、絶対に正しい、主なる神、イエスキリスト、そして聖霊として、21世紀にも存在してくださっている御方を信頼して生きて行くように。そして、そのことを人々に伝道して、主なるイエスの体である教会が、ますます命あふれて成長しますように。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は、詩編120編を読もう。まず、いつものように気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。そして、7日の聖日にあたえられている福音書はマルコ3章20-35節。詩編の言葉とイエスの気持ちを重ね合わせるようにして読むのも良いと思う。 詩編120編 1:【都に上る歌。】苦難の中から主を呼ぶと/主はわたしに答えてくださった。 2:「主よ、わたしの魂を助け出してください/偽って語る唇から、欺いて語る舌から。」 3:主はお前に何を与え/お前に何を加えられるであろうか/欺いて語る舌よ 4:勇士の放つ鋭い矢よ/えにしだの炭火を付けた矢よ。 5:わたしは不幸なことだ/メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは 6:平和を憎む者と共に/わたしの魂が久しくそこに住むとは。 7:平和をこそ、わたしは語るのに/彼らはただ、戦いを語る。 マルコによる福音書3章 20:イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 21:身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。 22:エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。 23:そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 24:国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 25:家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 26:同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。 27:また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。 28:はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。 29:しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 30:イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。 31:イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 32:大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、 33:イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、 34:周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 35:神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」 本日は牧師のコメントは休暇中のためお休み。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は、三位一体主日の翌日6月1日から3日の聖書日課に与えられている詩編20編を読もう。いつものように気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編20編を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編20編 1:【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】 2:苦難の日に主があなたに答え/ヤコブの神の御名があなたを高く上げ 3:聖所から助けを遣わし/シオンからあなたを支えてくださるように。 4:あなたの供え物をことごとく心に留め/あなたのいけにえを快く受け入れ〔セラ 5:あなたの心の願いをかなえ/あなたの計らいを実現させてくださるように。 6:我らがあなたの勝利に喜びの声をあげ/我らの神の御名によって/旗を掲げることができるように。主が、あなたの求めるところを/すべて実現させてくださるように。 7:今、わたしは知った/主は油注がれた方に勝利を授け/聖なる天から彼に答えて/右の御手による救いの力を示されることを。 8:戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが/我らは、我らの神、主の御名を唱える。 9:彼らは力を失って倒れるが/我らは力に満ちて立ち上がる。 10:主よ、王に勝利を与え/呼び求める我らに答えてください。 インパクトのある言葉として、7節の「今、わたしは知った。」 詩編作者の気持ちになって、与えられた詩編を振り返ろう。1節にはダビデの詩となっているが、おそらくダビデ王にしたがっていたイスラエルの民のための礼拝で詠う賛歌なのだと思う。2節以降で「あなた」となっているところは「ダビデ」におきかえても良いのだろう。2-4節では、苦難を経験しているダビデとその民だが、ダビデが支えられ、ダビデの神への供え物が受け入れられますようにと祈る。セラとなっているので、休止符か間奏が入る。そして5節にはいっても、祈りは6節まで続く。ダビデの願い、計画が実現するように。ダビデの勝利によって私たちは喜びの声をあげ、神の御名によって、勝利の旗を掲げることができるように。主がダビデの求めることをすべて実現してください。7節で「今、私は知った」と詠いはじめ、曲想はガラッと変わるようだ。主は油注がれたダビデに勝利を与え、救いの力を示される。戦力を誇るものがあるが、ダビデの民である我らは、主の御名を誇りたたえる。戦力を誇るものは倒れ、我らは主の力に満ちて、立ち上がることができる。10節では、再び、祈りの詩に戻り、ダビデに勝利を与え、呼び求めている我らに答えてください。 21世紀の現代にある私たちが、この詩編20編を読むとき、「あなた」はイエスに置き換えて、イエスに従うキリスト者たちの賛歌にもなるのだと思う。紀元前の世界と紀元後の世界で、人類が体験する苦難は同じように訪れる。しかし、「あなたの供え物・いけにえ」である十字架に供えられたイエス自身により、神が救いの力をさずけてくださっている救い主イエスが、イスラエルの民ばかりでなく、全世界の民に与えられている。イスラエルからしてみれば異邦人である私たちにも、勝利・救いがある。たとえ、イスラエルから東方の地の果てのような日本の民にも、また西方の地の果てのようなカリフォルニアにおいても、同じ救いがある。神とイエスが一体でさらに、神とイエスと一体である聖霊が、神の息が、世界中に吹き込まれている。私たちは、どんな苦難や困難や失敗を体験することがあっても、イエスの信仰を通して与えられる聖霊の力によって立ち上がる。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今年は5月24日が聖霊降臨祭。ペンテコステとも言われる。クリスマスやイースターのように、非宗教的な世界でもお祝いするような面があるお祭りと異なり、聖霊降臨祭はキリスト教会独自のお祝いなのかと思う。といっても、ペンテコステという言葉自体は、50日目という意味で、ユダヤ教ではイスラエルの民が奴隷としてエジプトで仕えてきた時代が終わるきっかけとなる過越祭から数えて50日目にエジプトからイスラエルに旅をするリーダだったモーセにシナイ山で律法が与えられるという記念の日でもある。さてそのようなことも覚えながら、与えられた詩編104編後半を読んでいきたい。 いつものように気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの復活節にあって現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編104編 24:主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。 25:同じように、海も大きく豊かで/その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。 26:舟がそこを行き交い/お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。 27:彼らはすべて、あなたに望みをおき/ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。 28:あなたがお与えになるものを彼らは集め/御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。 29:御顔を隠されれば彼らは恐れ/息吹を取り上げられれば彼らは息絶え/元の塵に返る。 30:あなたは御自分の息を送って彼らを創造し/地の面を新たにされる。 31:どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主が御自分の業を喜び祝われるように。 32:主が地を見渡されれば地は震え/山に触れられれば山は煙を上げる。 33:命ある限り、わたしは主に向かって歌い/長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。 34:どうか、わたしの歌が御心にかなうように。わたしは主によって喜び祝う。 35b:わたしの魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ。 気になる言葉としては、24節にすべての創造が「知恵によって成し遂げられた。」と書いてある。神のお考えの中で、すべての創造が続いていることを覚える。 詩編作者の気持ちになって、与えられた詩編箇所を振り返りたい。 24節から26節では、いかに主の御業がすばらしいことか、地も海も、地上に住むものも、海の中に住むものも、すべて主の知恵、つまり神の考えによって創造された。27節から30節では、すべての生物の創造は今も続いており、創造されたものは主に望みを置き、主から与えられるもので満たされる。主が見渡してくださらなかったら恐れが生じ、生物の存続は、主なる神の息を注いでくださるかどうか次第である。 30節から最後までは、その息によって、地は新たにされる。主が見渡せば、地は震え、主が地を触れると噴煙もあがる。主の栄光が続くように、主のお考えが喜び祝われるように。だから私も生きる限り、主を賛美しよう。 以上振り返る中で、与えられた詩編箇所での詩編作者の大きなポイントは、神の知恵があって、地も海もそこに住むものも創造された。その知恵は現代の言葉でいえば、エコシステムとも言うべきものなのかもしれない。またユダヤ教のペンテコステを思う時、そのエコシステムには、イスラエルの民に与えられた戒め(律法)も含まれているように思う。 さらに、与えられた詩編箇所が21世紀に生きるわたしたちに何を語っているのか思いをめぐらせたい。 現代の言葉でいうエコシステムが神の知恵であることを書いた。そして来る日曜日には、キリスト教会では聖霊降臨日を控えている時に、そのエコシステムの中に、絶対に欠かすことができない、神の息、聖霊の存在を覚える。この詩編は紀元前数百年前に詠われはじめたものだが、ユダヤ教の伝統、そしてそれを引き継ぎキリスト教の伝統の中で、現代の21世紀にも詠われる。主なる神の息の大切さを思い出させてくれる。 私たちの目にははっきりとは見えるものではないが、主なる神の知恵、考えが秘められている、聖霊の働きについて、聖霊降臨日に向けてさらに思いを巡らせていきたい。 この時期、復活ルーテル教会の信仰者たち、またその家族や友人でも、病の中にある者が多い。ICUに入っている者も私の知るだけで二人いる。 聖霊の働き、癒し、励ましが注がれるように祈りつつ。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet アメリカ福音ルーテル教会のパシフィカ教区内では10以上の原語で伝道が行なわれている。アメリカ合衆国には、いわゆる出稼ぎに来た、そしてそのままいることになった方々、普段の経済的生活は苦しいという方々にとって、英語ではない自国の原語で伝道が行なわれていることは、ニーズも高く人々が集まる。しかし、何世代か前からアメリカ合衆国に移民してきた家系あるいは移民一世でも、経済的には困ることはないと思われている方々には、はっきりいってキリスト教は必要ではないと思う方々が多くなってくる。そんなことを思いつつ、今日読む詩編は115編。詩編を読もうでは初めてとりあげる。気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの復活節にあって現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編115編 1:わたしたちではなく、主よ/わたしたちではなく/あなたの御名こそ、栄え輝きますように/あなたの慈しみとまことによって。 2:なぜ国々は言うのか/「彼らの神はどこにいる」と。 3:わたしたちの神は天にいまし/御旨のままにすべてを行われる。 4:国々の偶像は金銀にすぎず/人間の手が造ったもの。 5:口があっても話せず/目があっても見えない。 6:耳があっても聞こえず/鼻があってもかぐことができない。 7:手があってもつかめず/足があっても歩けず/喉があっても声を出せない。 8:偶像を造り、それに依り頼む者は/皆、偶像と同じようになる。 9:イスラエルよ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。 10:アロンの家よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。 11:主を畏れる人よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。 12:主よ、わたしたちを御心に留め/祝福してください。イスラエルの家を祝福し/アロンの家を祝福してください。 13:主を畏れる人を祝福し/大きな人も小さな人も祝福してください。 14:主があなたたちの数を増してくださるように/あなたたちの数を、そして子らの数を。 15:天地の造り主、主が/あなたたちを祝福してくださるように。 16:天は主のもの、地は人への賜物。 17:主を賛美するのは死者ではない/沈黙の国へ去った人々ではない。 18:わたしたちこそ、主をたたえよう/今も、そしてとこしえに。ハレルヤ。 気になる言葉、2節にある「彼らの神はどこにいる。」という人々の言葉。 詩編作者の立場を想像しながら、115編を振り返りたい。全部で18節と長いので、4つの部分に分けてまとめてみる。1-2節は、わたしたちの栄光ではなく天にいる主の栄えが輝くようにという祈りではじまり、諸国の民はわたしたちの主の存在が見えないから「彼らの神はどこにいるのか」と非難する。3—8節では、わたしたちの神は天におられ、主の思いのまま、すべてが行なわれている。諸国の民が崇拝している偶像は、なにもすることができない。 9-16節では、ユダヤの民の中でも、偶像に頼ってしまったもの、主に頼ることができない者もいたが、助け、岩となってくださる主を皆が頼るように。頼れずにいるユダヤの民を祝福してください。天地の創り主で、天におられる主によって、地上にいるすべての民を増やし、祝福してください。天は主の領域で地は民に与えられた賜物。17-18節で、主を賛美することは決して虚しいものではない。わたしたちこそ主を永遠に賛美しよう。18節の「わたしたちこそ」と書いた「わたしたち」には、ユダヤの中で主を崇拝してきた者だけではなく、ユダヤの中で偶像礼拝をしてしまっている者、あるいは諸国の民で偶像礼拝している者にも、主の御心により、皆が心をあわせて主を賛美するようにという思いがあるようだ。 主なる神が、詩編115編を通して21世紀に生きるわたしたちに語りかけてくることは何なのか、思いを巡らせたい。 現代、発展途上国においてキリスト教もたいへんな勢いで伸びているし、また、イスラム教はもっとその勢いは強いのかもしれない。経済的な困窮におかれている者の方が絶対なる神、宗教へのニーズが高まってしまうという現象はおこるのだろう。しかし、その逆は、経済的に豊かな状態になると、概ね、宗教へのニーズは下がってくるというのが社会現象なのかと思う。 この詩編115編の、偶像に頼る諸国の民、あるいはユダヤの民の中でも主に頼れなかった者も含め、彼等は、現代でいう裕福な人々でその中でも「わたしには宗教はいりません。」あるいは「これまでとくに困ったことはないので、救い主は必要としていません。」といっておられる方々に思えてくる。 実は、主なる神は、そのような方々に語りかけているような気がしてならない。偶像というのは、現代でいえば、お金やその数字が示している大きさに頼ってしまっていることではないだろうか。いくら順調な生活を送っていても、実は主なるお方がいなければ、その主なるお方が私たちの自分勝手な思いを赦してくださっていなければ、私たち(信仰者もそうでない方々も)の命はありえない。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 南カリフォルニアは、先週は暑いと思っていたが、今週は肌寒い日が続いている。青空となる時間も少ない。いろいろ地球の温暖化とか原子力の問題も考え、また電力会社や工事会社の勧めもあった。州や国からの資金援助もあった。創造主から与えられた恵みをいかに大切にする執事として生きるかということに関係してくるのだが、私の家は去年、いろいろな工事をした。贅沢なことはいっさいしておらず、外観はほとんど変わらないが、明らかに変わったのは屋根には小さいがソーラーパネルがついている。そして、毎日、何キロワットの電力が作られたかパソコンでわかるようになっている。 先週は毎日6キロワット台だったが今週は一日も6キロワットには到達せず、おとといは2キロワット台、昨日は3キロワット台となった。 4月5月の南カリフォルニアにしてはめずらしく曇り空が続くなかで今日与えられている詩編は98編。以前にも「詩編を読もう」でとりあげているが、今日また読み、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの復活節にあってひとりひとりに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編98編 1:【賛歌。】新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた。 2:主は救いを示し/恵みの御業を諸国の民の目に現し 3:イスラエルの家に対する/慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人は/わたしたちの神の救いの御業を見た。 4:全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。 5:琴に合わせてほめ歌え/琴に合わせ、楽の音に合わせて。 6:ラッパを吹き、角笛を響かせて/王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。 7:とどろけ、海とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものよ。 8:潮よ、手を打ち鳴らし/山々よ、共に喜び歌え 9:主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き/諸国の民を公平に裁かれる。 98編を読み返して、気になる言葉やインパクトのあった節はどこだろう? 私の場合は、一節の言葉。 紀元前数百年前のユダヤ教の詩編作者の気持ちになって、この詩編を読み返し、どういうことを歌っているのか、考えてみたい。 新しい歌を主に向かって歌おう、主は驚くべきことをなされた、聖なる御腕によって救いの業を果たされた(1節)。 主は救い・恵みをユダヤの民ばかりではなく諸国の民に示した(2節)。 イスラエルへの慈しみとまことを御心にとめ、地の果てまで、すべての民が主の救いの業を見た(3節)。だから全地よ、喜びの声を上げて、ほめ歌え(4節)。弦楽器に合わせて(5節)。管楽器も響かせて、主の前で喜びの叫びをあげよ(6節)。鳴り響かせよ、海にいるもの、世界に居るものよ(7節)。海の満ち干も、手をうちならせ、山々も共に歌え(8節)。世界を裁くために、民を公平に裁くために、主は来られる(9節)。 紀元前に生きた詩編作者にとって、エジプトに居たイスラエルの民が、エジプトを出国し、イスラエルの地に戻ってこれた話がユダヤ教の中ではとても大切で、それを救いの御業としているのかと私は考えて、この詩編を読み始めた。 しかし、もっともっと、大きなできごとを、詩編作者は神から預かり、この詩編を著したように感じる。 それは、イエスの死と復活を預言していたような詩編にも思われる。 そして、さらに、イエスの再臨をも預言しているような。 さて、この詩編98編は、21世紀にあって、私たちに何を語っているのだろうか? 98編は、「あたらしい歌を歌い主を賛美するように。」ということが結論なのだろうが、なぜ、主を賛美するかということがとても大きなスケールで描かれ、それを現代の私たちに伝えているように感じる。 驚くべき御業というのは、イエスが降誕したこと、そして再臨することも含めて、すべて、創造主なる御方が、してくださってきた恵みをすべて包括して、私たちに気がつくように、そして人類ではなにもコントロールできないような、さまざまな自然現象について、創造主なる御方を覚えて、賛美するようにと導かれているように感じる。 冒頭に、ソーラーパネルのことを書いたが、化石燃料にしても、なんのエネルギーにしろ、すべては神からいただいたもの。 ただ、ソーラーパネルからくる毎日の電力量を知らされることで、そのありがたみが増すような面もある。 今は、旱魃で水不足が深刻化しているが、やはり創造主からの雨の恵みの大切さに気づかされる。 日本では、今は火山の噴火も各地で心配されているが、創造主からの恩恵を受けてきているかを覚える。 だから、主に向かって喜びの声を上げ、賛美礼拝しよう。日曜日には、多くの民が、礼拝の場に集うように祈りつつ。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は聖書日課に従って、詩編22編25節から22編の最後までを読む。「えっ、また22編?」と思われる方もいるかもしれない。というのは、「詩編を読もう」では、今年の四旬節の間に、2回も22編をとりあげたから。しかし、復活節にあって新たな気持ちで、この詩編箇所を読んでいきたい。来る日曜日は復活後第五主日となる。福音書は、イエスが「わたしはまことのぶどうの木」といわれ、ご自分を「真理なるぶどうの木」にたとえ、また弟子たちを「ぶどうの枝」にたとえられた話を読む。そのたとえ話を思い浮かべつつ、この詩編箇所を新たな気持ちで読むのも良い。そして、いつものように気になる言葉や節はなにか? 次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。最後に神はこの詩編22編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編 22編 25:主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。 26:それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。 27:貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。 28:地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。 29:王権は主にあり、主は国々を治められます。 30:命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得 31‐32:子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、26節にある大いなる礼拝のなかで「神を畏れる」人々が集まっている様子。 さて、過去に読んだ22編のことにとらわれず、新たに詩編作者の立場を思って詩編22編を読む。主は貧しい人の状況を見下してしまうようなことはなさらず、また助けを求める叫びを聞けば、聞こえぬふりなどなさらず真剣に御顔を向けて聞いてくださる(25節)。だから、神を畏れる人々が集まる大きな集会にて、私は主を賛美して、満願の捧げ物を捧げる(26節)。飢えていたものは食べて満ちたり、主を求めた者が賛美し、主の御心がわたしたちの中に永遠にやどるように祈る(27節)。地のはてまで、この地に存在するすべての人が主を覚え、主に向き直り、国々に行き渡る主の民が、主にひれ伏すように(28節)。御国は主が権利を持っており、すべての国々は主が治めている(29節)。この地で満ち足りたものも皆、主を拝み、また塵となってしまった者も主の御前でひれ伏し、自分の命ではなく主の命、蘇りの命が与えられる(30節)。来る世代の人々も主に仕えて、その次の世代に主のことを語り伝え、代々、主が成し遂げた恵みの御業が継承されていく(31-32節)。 この詩編22編のこの聖書箇所を通して、主なる神は何を現代の私たちに語りかけておられるのだろうか? 復活節とは言うものの、世間を見回すと、ネパールでは大地震が起き数千人の方が亡くなっている。ボルチモアでは、またもや人種差別と思われる行動がひきがねとなっているようだが、暴動が起きている。安部首相が今週前半はボストン、ワシントンを訪問し、見事な議会演説をされたようだが、かたや中国や韓国から安部首相への歴史認識に関する激しい非難が寄せられており不気味にさえ思える。一市民にはとてもコントロールできかねるような問題が、またかまたかと繰り返し起こっているような気もしないでもない。このような状況の中で、復活された神がおられるなら、なんでこんな悲しい事件や悲惨な歴史は繰り返し起こるのかと、神様に文句を言いたくなるような気持ちが起こっても仕方がないような気がする。しかし、詩編22編の言葉の中で、主なる神が、わたしたち被造物である人類、つまり神によって創られた一人一人が、どう対応したらよいかという鍵が含まれているように思う。26節にある主を畏れる民として集まり、主を賛美して、満願の捧げ物を捧げる状態を、主が望んでおられることを覚えたい。キリスト教徒は20億人とも25億人とも言われるが、まだまだ復活の主の働きを認めず、そっぽを向いて我が物顔にこの地を歩む者がいて、大きな失敗を経験する。あるいはキリスト教徒といえども、迷える羊となり、主から離れて行動してしまう。 だから毎週毎週、復活の日曜には主のもとに立ち返り讃美歌を歌い、反省する。こんどの日曜であれば「私は真理なるぶどうの木であり、人間はその枝でる。」という本来ならきってもきれない関係にあるという主のみ言葉が与えられる。十分の一の捧げ物をし、主なる神からあらたなる祝福をうけて世に送り出される。そのような生活を全人類が歩めますように!アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace