Tweet ヨハネ15:1-8 主イエスの恵みと平安が人々の心の中に浸みわたりますように! アーメン 先週は「私は良い羊飼いである。」と言われ、わたしたちは羊という、ちょっと羊にされてしまうのはなんだかぴんと来ないというか、羊の習性を考えると、履歴書には「私は羊のような人間です」などとはなかなか書けないような話だ。しかしイエスの言われる通りなのかと思う。 さて今日は、イエスが「わたしはまことのぶどうの木」であると話され、わたしたちイエスの弟子たちを、民をぶどうの枝にたとえられた。いったいこれはどういう意味なのだろうか? このぶどうの枝にたとえられる比喩は、とにかくぶどうの枝を通して栄養が与えられて果実が育つということが鍵だと思う。 イエスはぶどうの木とぶどうの枝のつながっていることの重要性、つまり、イエスとわたしたちの信仰により、つねにつながっている大切さを述べておられることはまちがいないと思う。 この1週間の間、今日の福音書箇所を読み返し、また、牧師仲間とも話し合いの機会を持つなかで、このぶどうにたとえた、イエスからの思いを模索するなかで、「あっ」と気付かされる事がでてきた。 それは、イエスが、自分は羊飼い、門、真理、命のパン、生きた水などと云われた中ではなかなか気がつきにくいことだと思う。 それは、ぶどうの木がぶどうの果実を生むには、ぶどうの枝が必ず必要だということ。 もしぶどうの枝がなかったなら、ぶどうの実はならない。 かといって、ぶどうの枝はぶどうの木につながっており、ぶどうの木の一部であるため、どうしてぶどうの実がなるのだろうかという詳しい仕組みを知る必要はない。 実際は、ぶどうの枝が伸びで花の芽が出て、小さな花のかたまりの房ができて、小さな花びらは落ち、その小さな花の根元だったところがぶどうの実になっていく。 しかし、そのような細かい機序は知らなくたって、ぶどうの木であるイエスからいただく恵みをひたすらぶどうの実に注ぎ続けるのが、ぶどうの枝の役割だ。 そして、ぶどうの木としてはぶどうの枝は絶対に必要なものだ。 このたとえを通して、イエスはいったい私たちに何を語ろうとしているのだろうか? ぶどう畑の農夫である父、ぶどうの木であるイエスにとって、木につながってぶどうの実がやどるところとなるぶどうの枝、つまり私たち、イエスの弟子は、とてつもなく大切なのだ。 もしイエスの弟子たちが存在していなければ、どうやって果実なるこどもたち、また新しい弟子たちは生まれてこない。 そして、弟子たちの成すことは、まことのぶどうの木なるイエスからいただく愛をぶどうの実となる新たな主イエスの子供たちに、ひたすら受け渡すこと。 このように考えると、イエスの愛をこどもたちに示すことはシンプルなことだ。 イエスから受けた恵みと愛をひたすら子供たちに継承すればよい。 イエスの弟子は、所詮、ぶどうの枝であり、あれやこれやとイエスの愛についてこねくりまわすことはない。ひたすら、イエスの愛を受け渡すのだ。 わたしたちは、今週もまだ復活節の中にある。 イエスキリストの復活から受けた、主からの赦しとあわれみを覚え、わたしたちの信仰を新たに生まれかわらせ、私たちの子供の世代へ、また来るべき孫、ひ孫の世代にも、イエスからの恵みを継承しよう。 そのようなイエスの弟子である私たちを、神は必要としておられる。 アーメン 安達均 Why Does It Grow? John 15:1-8 May the Grace and Peace be with you in the name of Jesus Christ! Last week, we heard Jesus say, “I am the Good Shepherd.” In the Gospel of John, there are many other metaphors where Jesus refers to himself as “I am something.” What else you remember besides the Good Shepherd? According to Jesus, he is the Good Shepherd, but we are just sheep. Considering sheep’s characteristics, we would not like to be compared to sheep. In today’s lesson, Jesus described himself, “I am the true vine. And he said [as his followers], “We are branches.” What does this mean? In this metaphor, the branches are the ones that bear fruit, the grapes. The reason why the grapevine may bear grapes is because branches carry nutritious ingredients to the vine flowers that become grapes. In this metaphor there is no doubt that Jesus wanted to teach us the importance of connectedness between the grapevine and its branches. Said another way, faith nourishes each branch. Without God’s miraculous nutrients to each branch, there wouldn’t be grapes on each branch. During this past week, I read the text again and again. I found that there is a very important aspect in the grapevine metaphor that is a bit different from other metaphors, such as the good shepherd, the bread of life, the gate, the resurrection, the way, the truth, and the life. In…
Tweet ヨハネ 10:11-18 主イエスの恵みと平安が人々の心の中に浸みわたりますように! アーメン 私たちの体験することとして、現代においてもキリスト教を信仰するという方々が二人組となって、玄関のドアをノックされる。キリスト教とはいわれるが、私たちが毎週礼拝で信仰を告白している使徒信条に従った信仰とは違うようだ。 キリスト教と言う言わないに関わらず、使徒信条を否定する宗教は、キリストの十字架の死と復活が起こった直後からいろいろな宗教団体の名前で存在してきている。ただ存在しているばかりではなく、三位一体を認めない一部の勢力は、キリスト教徒を激しく迫害してきているという現実がある。 一部の勢力という言い方をしているのは、かならずしも、キリスト教を信じない方々全員が、キリスト教と敵対する考えを持っているわけではないということを述べておきたい。 むしろ、日本などでは、従来の仏教のお墓があるからとか、迫害に会う可能性があるから等の事情でキリスト教を信仰するという事は隠して、キリスト教の考えを持って生きるという方々もいることにも言及しておきたい。 アメリカ合衆国が歩んできた240年あまりの歴史において、キリスト教が迫害されるという感覚は持ちにくいかもしれない。迫害されるかされないかに関わらず、キリスト教徒として、キリスト教の考えを認めない方々と、どのような対話をするかは、とても大切な課題なのだと思う。 今日は復活後第四主日である。毎年、復活節の第四主日は、イエスが民を羊にたとえ、ご自分のことを良い羊飼いにたとえて、話をされたところを読んでいる。 一人の羊飼いが自分で責任を持つ羊の一群を導いて、草原を歩んでいくところを想像する中で、牧師が教会に集まる方々を導く光景を想像する方もいると思う。 しかし、イエスは、いろいろな教会ができて、それぞれの教会の指導者が、別々に囲いをつくって、それぞれの教会に集まる人々が、別々に宣教・伝道・社会奉仕活動をすれば良いということを言われたかったのだろうか? 与えられた福音書の16節には、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」と言われている。 これはいったいどういう意味を持っているのだろうか? 当時の社会情勢からして、イスラエルにおいては、ユダヤ人か異邦人かの区別がとてもはっきりしていたのだと思う。だからイエスのこの言葉を聞いた弟子たちには、とまどいもあったのではないかと思う。 囲いの中にいる羊たちとは、自分たちユダヤ人のことで、ユダヤ人が、救い主イエスによって救われるのだろう。しかし、異邦人はどうでも良いという考えも持っていたのではないだろうか? イエスはそれをはっきり否定したのだと思う。ユダヤ人ばかりではなく、異邦人をイエスは導くということをここで宣言されていたともいえるのではないだろうか? 囲いの外の羊も、イエスの声を聞き分けるとなっており、異邦人もイエスに従って歩むということを、述べておられたように思う。 16節を今一度、全部読むが、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」という言葉を21世紀にあって、改めて聞くとき、現代の私たちに、さらに重要な意味を持ってくるように思う。 私たちは、教会教会といって、教会という囲いがあるのは現実だと思う。教会には来ない方々もたくさんいるし、教会の教えを理解しようともせず、避けてしまっている方々もたくさんいるのかと思う。 冒頭にも述べたように、キリスト教についてよく学んだ上で、教会の三位一体や、イエスが神だということは受け入れられないという方もいるのが現実である。 しかし、どのタイミングで起こるのか、私たちの知りようがないが、その囲いの外にいる羊が、主イエスの声を聞き分け、理解できるようになるということが起こる。キリスト教には無縁と思っていた方が、あるいはキリスト教を完全に否定していた方が、聖書の話を聞き入り、伝道活動をするようになる。 明治初期に日本人の最初の司祭となったといわれる、沢辺琢磨という方がいる。 彼はもともとは武士であり、当時函館にいたロシア正教会の宣教師ニコライを殺すつもりで、ニコライに会いに行ったという。 しかし、ニコライ宣教師から「キリスト教のことがわかっていないのに、なぜ、私を殺そうとするのですか?」と言われ、ニコライの話を聞き、すばらしい神の愛に気付き、キリスト教の洗礼を受けることになり、何年後かにはロシア正教会の司教がロシアから来て按手を受け司祭になってしまった。 いつかはわからないが、明日か、10年後か、もっと先か、キリスト教を迫害する者さえ、教会で語られるメッセージを聞き、教会との関係を持つときがくることを、しっかり念頭におき、いまは教会に来られていない方々とも、長いおつきあいをしていくように導かれているのではないだろうか。新しい1週間、新たな希望、喜びを抱いて歩めますように! アーメン 安達均 Other Sheep Not in the Fold John 10:11-18 May the Grace and Peace of Jesus Christ be poured into peoples’ hearts! Amen. May the Grace and Peace of Jesus Christ be poured into peoples’ hearts! Amen. We’ve had experiences with people standing outside of our front door wanting to share their faith. Even though they say that they are Christians and that they read the Bible (very similar to our Bible but a special translation) they do not accept the Apostles’ Creed according to which many Christians confess their faith. Regardless of whether they say they are Christians or not, there are people who deny the Trinity. Those religions have always existed even after Jesus was crucified and resurrected. Not only do they deny the Holy Trinity, some sects have actively persecuted Christians throughout history. The reason why I said “some sects” is that not all people who deny the Holy Trinity act against Christians at all. For instance in Japan, there are people who say they are not Christian due to their ancestor’s grave in a Buddhist temple, but some of them study Christianity and believe in Christ although they could never accept Christ publically. In the US, those that have lived in the later part of our nation’s 239 year history, find it difficult to imagine that Christians are persecuted. Regardless of whether or not we are persecuted, a very important issue…
Tweet ヨハネ20:19-31 主の恵みと平安が全人類の心の中に浸み込みますように! 「あなたは救われましたか?」 という質問をされる方々がいる。 私はルーテル教会では、そのような聞き方はまず聞いたことはない。 また、私が育った家庭は、正教会だが、やはりそのような質問は聞いたことがなかった。 結婚してからは、妻が洗礼を受けた日本キリスト教団の教会の群れに加わっていた時代があるが、そのなかでもそういう質問の仕方は知らなかった。 その後家族でカリフォルニアに来たわけだが、単立教会とか会員数は多いが少数の教会だけで成り立っていて、はじまってまだ数十年というような教会の方々で、英語では”Have you been saved?”とか日本語の「救われましたか」という言い方をする方々が多いことがわかった。また日本にある教会でもそういう質問をされる方々がいることもわかってきた。 その質問は、ただ「洗礼を受けましたか?」の代わりに使っているのだろうと思っていたが、どうも、ピンと来ないままである。 「私たちは救われたが、あなたは信仰告白をしていないから、あるいは洗礼を受けていないから救われていないのです。」という意味に聞こえてしょうがない。この質問は、残念ながら教会間でも分裂を招きそうな言葉であるとも思う。本当に、洗礼を受けてない方が聞きやすい言葉なのか? 本日は、復活節第二日曜日。カトリック教会とほとんどのプロテスタント教会では、イースターは先週の日曜、4月5日だった。 しかし、東方正教会は使っている暦が異なるため、今日が復活日となる。 イエスは木曜夜半には、ユダ以外の弟子たちからも見放され、金曜には十字架にて死に、墓に葬られた。しかし三日目の日曜夕方に、弟子たちの前に現れた。弟子たちは、復活の主にあったことを話し合っていた しかし、12弟子の一人で、トマスは他の弟子たちとは別行動をとっており、そこには居合わせなかった。弟子たちがイエスの復活に出会ったことを告げても、「イエスに会って、その傷を見ない限り、私は決して信じない。」と言い張った。一連のイエスの十字架の死と復活は、いわば弟子たちの間に一時的な分裂を引き起こしてしまったような面がある。 ルカ福音書には、復活した日曜の午後、二人の弟子たちが、他の弟子たちとは別行動をとってエマオに向かったいたことも書かれている。主イエスの死と復活の出来事により、ある意味、弟子たちの間で分裂が起こっていってしまったような面がある。しかし、それは神の意志だったのだろうか? この質問に答えようとするには、さらに聖書をしっかりと読む必要があるのだと思う。 弟子たちに裏切られたイエスだったが、復活したイエスは、まず、あなたがたに平和があるようにという言葉を2 回も語っている。 イエスは「派遣」について述べられ、息をふきかけて「聖霊を受けなさい」と話し、さらに私があなたを赦している現実を示しつつ、弟子たちもだれの罪でも赦すよう述べられた。この息を吹きかける行為は、もともと創世記2章で、神がアダムに息を吹きかけ命を与え、イブにも命が与えられたことと直接関係している。このイエスの行為は、新創世記ともいえる。 創世記3章では、 アダム、イブ、そして生まれてくる人間みなが、罪の世界に入ってしまう。そして、ユダヤ人も異邦人も共同して神の一人子を十字架にかけ殺す時代が来てしまった。 しかし、神はイエスを復活させ、復活したイエスが慈しみ深い愛をもって、全人類を赦し、そして、新しい復活の命をくださる。全人類は、罪と死の世界から、赦しと新しい命というまったく新しい時代に突入する。 説教の前半で述べたように、先週の日曜から西方教会やプロテスタント教会では復活節に入った。 わたしたちの兄弟姉妹である、東方正教会でも今日はイースターを祝い、全世界のキリスト教会は、全地域で復活節を祝うシーズンに入った。ここで正教会でよくみかけるイースターのイコンの話をしたい。 このイコンには復活の主が墓からよみがえったところが描かれている。 そして、手をさしのべて、イエスから引き上げられているのはアダムとイブ。 時代を超え、また人種や国境を越え、またキリスト教の宗派をも超えて、イースターの前は、罪と死の世界に立っていた私たち全人類が、主の復活の後は、赦しと命の中に立っている。 私たちは、まったく新しい世界にいる。イエスの復活ゆえに、人類は全く異なる時代に生きることができる。 キリストの復活は、ある特定の個人が新しく生きるようになるためでも、ある宗派のある単立の教会だけが救われるわけでもない。 主イエスの復活にあって、私たち全人類が復活し、共同の教会として、赦しと新しい命の中に生かされている。 教会の暦では、復活節は7週間あり、最初の1週間が過ぎた。 残りの6週間、ぜひ、主の復活にある共同の教会がどういうことなのか、おひとりおひとり観想されることを祈る。共同の教会ということを考える中で、ぜひ、神が復活ルーテル教会をよき方向へと導かれますように。 皆様が新しい命に生かされますように。 アーメン 安達均 We Are Church Together John 20:19-31 May the Grace and Peace of Jesus Christ be poured into the hearts of the people in this world! Some Christians ask “Have you been saved?” I do not think I have ever heard Lutherans ask someone this question. I believe many of you now know that I was baptized in the Orthodox Christian Church but again, I do not think I have ever heard Orthodox Christians ask, “Have you been saved?” After I married my wife, she was still attending one of the largest Protestant denomination churches, in Japan, called United Church of Christ. I attended that church too and, yet again, I never heard anyone ask, “Have you been saved?” Then, about 10 years after Satoko and I were married, we came to the United States. I found that there are many non-denominational churches in Southern California (worshipping in English and Japanese). It seems like in many of them, people often ask “Have you been saved?” I interpreted the meaning of the question as “Have you been baptized or confirmed your Christian faith?” But to me that question does not really make sense. I feel if you ask “Have you been saved?” the meaning behind it is “Although we are saved, if you have not confirmed your faith or are not baptized, you are not saved.” “Have you been saved?” is often used…
Tweet マルコ 16:1-8 主イエスの、恵みと赦しが集まった人々の心にしみわたり、復活の主イエスに全人類が気付く、イースターの季節となりますように! みなさん、「私は復活の主、イエスキリストに出会った」という方はおられるだろうか? どのようにイエスに会われたのだろうか? 私が小学校低学年、洗礼を受けてまだ一年ほどしか経っていない時、長野の叔母の家に夏休み中、遊びに行った。 その叔母は父より15歳以上年上で、6人の子供がおり、当時、長女と次女は、すでに家庭を持っていた。長女には3人の子供、次女にも一人の4歳の子がいた。次女は、今思うと、なにか問題を抱えていたらしいのだが、叔母の家にしょっちゅう来ており、本当に次女のいとこがよく私の相手をしてくれた。 彼女は7歳の私に向かって「均ちゃんは救い主イエスに会ったことはあるの?」という質問をしてきた。 叔母は本当に熱心なカトリック教徒で、イエス様の働きをいろいろなところで見て、それを話すのが大好きな叔母だった。 そのような叔母を母にもつ彼女自身は、自分はまだイエス様にあえていない、だから会いたいという話をしていた。主イエスを求めていたのだと思う。 さて今日は待ちに待ったイースター。主の復活のお祝いだ。 しかし、与えられた福音書、マルコ16章1-8節では、だれも復活の主イエスに会うところまではいっていない。いったいどういうことと思われている方もいるかもしれない。 ちなみに、マルコ福音書の原本はさきほど拝読した8節で終わっている。その後に書いてある9節以降の結び一と結び二があるが、それらはあくまで後の時代の人々が付け加えたようだ。 じゃあ、マルコは何で8節の言葉で福音書を終わらせてしまったのだろうか? 金曜日の夕方、イエスが十字架上で亡くなり、墓に葬られた。 遺体には油が塗られるはずが、その時間も無く、安息日と言われる金曜の日没になってしまった。 金曜日没から日曜の明け方まではなにもすることができず、日曜朝に、勇気ある女性たちはイエスに香油を塗りにでかけた。 その結末8節は、「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」 これじゃ、蒸し暑い夜に、あつくてしょうがないから、からだを冷やしてくれる怪談のような話に思われても仕方がないのではないか。 だれも復活の主イエスに会うことを書かないで、いったいマルコは何を考えていたのだろうか。 ブービー賞という言葉があるが、ブービーとはもともとまぬけとかいう意味で最後のこと。 しかし、ゴルフなどではブービー賞というと最後の人や最後から二番目に冗談で商品を上げたりするが、実は、競技というのは、最後の人がいるからその前の人がおり、ずっと遡ってきて、優勝する人も出るわけで、最後の方はとても大切。 なにをいいたいかと言うと、マルコ福音書の最後には大きな意味があると思う。なぜか墓の中に若い男性がいて、その彼も怪談的なものにしてしまっているが、彼のしゃべった言葉で、最後から二番目の7節に、イエスがガリラヤに先に行って、弟子たちはそこでイエスに会える、と語っていた。 ガリラヤとは、イエスの弟子たちの生活の場である。 その生活の場にイエスが現れる。 それは、弟子たちばかりでなく、すべての人々の生活の場にイエスが現れることを示唆しており、この福音書の読者たちにも、イエス自ら、現れてくださることを示唆していたのでないだろうか? マルコはイエスと人類が出会うことを書くのは、もう自分の仕事ではない。 福音書には書かなくても、聖霊として顕われる神なるイエス自らが、わたしたち人間の生活の場に現れてくださることを、いいたかったのではないだろうか? さあ、みなさんどうだろう? みなさんの生活の場に復活の主イエスは顕われてくださっているだろうか? 私は、みなさんが気付くかきずかないかにかかわらず、主イエスが私たちの生活の場に、大きな力を持って働いていてくださることを確信している。 数年前、まだ洗礼を受ける前の千鶴子ミラーさんが話してくださったことを、ご本人の許可をいただいた上で、みなさんとシェアしたい。 ミラーさんは、夜中に真っ暗な洗面所に立たれたとき、なにか光るものに気付いた。 そして、その時のことを、私は神様に会いましたと報告された。 それは、実は、金色のドアのノブが光っていたのだった。 しかし、なんだそれはただドアのノブが光っていただけだ、という話にはされなかった。 ノブが光るように見えるが、ノブだけに光を発行するメカニズムはない。 何かの光があって、それが反射して、ノブが光っていた。 つまり、光をこの世に送られた神の存在、光として顕われてくださったイエスの存在を見出された。 今日はまだイースターの初日。 イースターの季節は今日から7週間続く。この季節、人類が光なるイエスを殺してまでも、復活して人類を赦しつづけ、人類に命を与えてくださっている神なるイエスに、一人でも多くのみなさん気づかされるように祈る。イエスの遺体がお墓の中になかったということは、決して怪談の結末ではない。イエスがみなさんの元に顕われる復活と昇天への約束である。 アーメン。 安達均 “The End of A Ghost Story?” Mark 16:1-8 May the Grace and Forgiveness of Jesus Christ be poured into the hearts of the people gathered in the sanctuary and May the Holy Spirit let people realize that the risen Lord is among us! Have you ever seen the risen Jesus Christ? If so, how has Jesus appeared in your lives? When I was in second grade, for the whole summer, I went to Nagano prefecture (north of Tokyo). It’s about 4 hours by train and, at that time, it’s where my aunt lived with her family. During this time, in my life, it was 10 months after I was baptized. This aunt was about 15 years older than my father. She had 6 grown children and her two older daughters were already married and had their own families. During my visit, her second daughter had some issues with her husband and she was almost always at my aunt’s house. I remember she asked me a serious question even though I was only 7 years old, “Hitoshi-chan, have you ever seen Jesus in your life?” My aunt was a very faithful Catholic Christian, and she shared her story that she saw the work of Jesus in her life. The daughter, my cousin, often heard her mother’s story, but she said to me, “I wish I could see Jesus but, unlike my mother, I have never…
Tweet マルコ 15:1-39 十字架に架かられた主イエスの恵みと平安が、集まったた一人一人の心の中に、豊かに注がれますように! 喜びや希望にあふれていた状態から、深い悲しみあるいは苦しみに暗転した経験をお持ちだろうか?過去の心の傷がいまだに癒えていない方、あるいは、本当に今、悲しみのどん底にあるという方もおられると思う。 先週半ばには、フランスでジャーマンウィングスというドイツの航空会社の飛行機が墜落した。 ご遺族にはまさにそういう気持ちの方々がおられると思う。高校の旅行でスペインを何日か訪れた高校生16人が乗っていたという。 かわいい子には旅をさせろともいうが、その将来に希望あふれる高校生たちの喜びの旅が悲劇となってしまった。 もし自分がその親だったらと思うと、いたたまれない。心の傷が癒えるまでにいったいどれだけの日数を要することなのだろう? イエスが十字架に架かる聖金曜日の週の始り。 今週は日本語では受難週と呼ばれる。 この受難週のはじまり日曜日から受苦日と言われる金曜日まで、いったいどういうことが起こったのか、振り返ってみたい。 まず日曜日は、枝の主日とかPalm Sundayと呼ばれるが、 人々がホサナホサナと熱狂的とも言える歓喜の声の中で、人々の服や、その辺の枝だか葉を敷かれたところを、イエスがろばにのって通られる。 人々は賛美しますとさけびつつ、イエスをエルサレムへと迎え入れる。(マルコ福音書では11:1-11) しかし、ろばに乗って登場するイエスに違和感を感じ始めていたことだろう。 翌日の月曜は、イエスの気持ちは荒れているように見受けられる。 イチジクの木を呪うということをされ、さらに、神殿から商人を追い出すということをされる。 神殿を清められたということもできるのかと思う。(マルコ11:12-19) 火曜になると、呪われたイチジクが枯れているがそこには教訓がある。そして、ユダヤ教の指導者たちとイエスの間で、権威についての問答がある。さらに火曜の残された時間に、イエスがさまざまなことを教えられる。(マルコ11:12-13:36) 水曜になって、ユダヤの指導者たちは、イエスを殺す計画を立てる。かたやイエスはベタニヤの町で香油を注がれるということがおこっている。 十二弟子の一人イスカリオスのユダはイエスを裏切ることを決める。(マルコ14:1-11) 木曜は、過越しの食事、主の晩餐となり、イエスは弟子たちに聖餐式の設定の言葉を教えられる。 そして、イエスはペドロの離反の予告する。さらにゲッセマネへ行き祈られる。(マルコ14:12-42) そして夜中が過ぎ、受苦日である金曜明け方になってくるのだと思うが、イエスがユダに裏切られ逮捕され、弟子は逃げていってしまう。 イエスはユダヤの最高法院で死刑判決を受ける。 一番弟子のペトロは三回、イエスを知らないと言ってしまう。(マルコ14:43-72) その後イエスの死に至るまでの様子は、マルコ15章1-39節で、さきほど拝読の通りだが、ユダヤの指導者たちは、イエスをピラトに、つまりローマの指導者側に引き渡す。 その後、イエスが十字架に架けられ、苦難のどん底につきおとされ、十字架上で亡くなる。 マルコ15:1-39。 日曜日には、最高の歓迎を受けて、エルサレムに迎えられたイエスが、どんどん立場が悪くなり、弟子の一人には裏切られ、ほかの弟子たちにも見放され、しかも十字架刑に会うことになる話をざっと見てきた。 そして、福音書の拝読の中では、詳細にイエスが十字架に架けられる様子が読まれた。 イエスの精神的また肉体的な苦しまれた様子の中で、どういう箇所を聞いたとき、どういうことに一番イエスの痛みや苦しみを感じただろうか。 そして説教のはじめでは、ひとりひとりが、大きな喜びが暗転して、深い苦しみ、悲しみへと転換したみんさんの経験をふりかえっていただいた。あるいは、これから経験するかもしれない、苦しみや悲しみ、いたたまれない傷を想像した方もいるかもしれない。 そのお一人お一人が、体験したことに、あるいはこれから体験するかもしれない痛み、苦しみ、悲しみに対して、イエスの痛み、苦しみ、悲しみは、いったいどういう影響があるかぜひ、考えていただきたい。 受難週の日々を送る中で、主イエスによって、わたしたちの傷が、苦しみ、悲しみのどん底から、一人一人が癒され、励まされ、そして、次のステップに向かう力が与えられるように祈る。 父なる神は死にまで到ったイエスのどん底の状況、地獄とも言える中におられた中でも、イエスをあきらめてしまうことはなかった。 そして、私たちも、主なるイエスが、聖霊として存在されている主なる神が、私たちの痛み、苦しみの中に、共にいてくださって、励まし癒してくださっていることに気がつくことができますように。 アーメン 安達均 In the Depths of Suffering Mark 15:1-39 May the Grace and Peace from our crucified Jesus be poured into the hearts of the people in the sanctuary! Have you ever experienced unexpected sadness or suffering from what was initially a joyful situation? You still might not be fully healed from past trauma or you may be in the depths of suffering now. Last week, we heard the news about the German Wings that suddenly crashed into the Alps in France. There were high school students onboard and I believe their families are in the depths of sadness and suffering now. Their happiness about a study-abroad opportunity for their children has turned to horror. I do not know how long it will take until their wounded hearts are healed. Today is the beginning of Holy Week. This coming Friday is the day we remember our Lord who suffered and was crucified. Now, I would like to reflect on what happened between Sunday and Friday based on Scripture, especially focusing on the Gospel of Mark. This Sunday is called Palm Sunday, Jesus’ Triumphant Entry into Jerusalem. Many in the crowd spread their garments and leafy branches on the road ahead of Jesus. He was at the center of the procession and were people shouting, “Hosana in the Highest.” (Mark 11:1-11) Monday, it seems Jesus was very agitated. He curses the fig tree and then in…
Tweet ヨハネ12:20-33 主の恵みと平安がこのメッセージを聞く一人一人の心に豊かに与えられますように! えいこさんが天に召されてから明日で2週間を迎える。どうして、えいこという名前にされたのかを考えたが、ひょっとしてご両親は、キリストの栄光のえいこうから名前をとったのではないだろうか。えいこさんが九州出身者で比較的キリスト教徒の家庭は多い地域であり、そのような可能性もあるのではないだろうか? えいこさんのことを考えつつ、栄光の話を今日はするように、聖書の御言葉は導いているように思う。 先週の月曜から水曜は、200人くらいのアメリカ福音ルーテル教会のスタッフが集まって会議があった。 アメリカ福音ルーテル教会はいまだに白人主体の教会であり、95パーセントは白人といわれている。 しかし、シカゴ本部は、白人の比率は少なくなる。おそらく、4割は、白人以外で占める。会議は、そのような本部スタッフの約半分と、全米にちらばっている教区事務所に勤めるもの一人ないし二人が集まった。 そして、話した時間の中で、実は、人種差別や性差による差別の問題がかなりしめていた。なぜ人種差別の問題をいまだにしなければならないのかと思われるかもしれない。 もちろん、教会として人種差別などはしていないのだが、表には現われにくい人種者別意識が、心の奥底にあることを、抉り出されるような話がいっぱいあった。あるいは黒人の女性は大学出だが、知らない人と話していると、「えっ、あなたは大学に行ったのですか?」という質問をよくされると語っていた。 今日の聖書箇所、ヨハネ福音書ではキリストがいよいよ十字架に架けられる日が近づいているなかで、起こったできごとを書いている。それが出来事といえるほどのことなのか、ひょっとするとサーと見逃してしまうことに注意したい。何人かのギリシャ人がなんとかイエスに会いたいという人々が現われたようだ。二つの疑問点がうかぶ。 一つ目の疑問は、そもそもなぜ彼等はイエスに会いたくなったのだろうか? 二つ目の質問は、そのギリシャ人に対する対応は、弟子たちははっきりしない。まず、フィリポに申し込みがある。それをすぐに人を相容れるということはしない。フィリポは、アンデレに相談に行く。そして、二人の結論は二人でイエスに相談する。このまどろっこしい対応は何なのか? 最初の疑問については、イエスの救いの御業はイスラエルだけではなく、周辺地域にも広がっていたのだろう。そのようななかで、ギリシャ人は、イエスはユダヤ教の人間で、救い主とは、イスラエル人だけを救うのか、あるいは、ギリシャ人も対象になるのか、そういう質問を持っていたのではないだろうか?そしてそのことをイエスに聞きたかったような面があると思う。 ユダヤ人である、 フィリポもアンデレも、ギリシャ人がやってきて、どう話をしてよいのか、とまどっている。 そこには、フィリポにもアンデレにも、わたしたち、イエスの弟子たちは、まず、ユダヤ人であることが前提で、とてもとてもマルチカルチュラルという現代とは程遠い現実があったのだろう。こころの中で、あきらかに、人種差別をしてしまっているような面がある。さらに、フィリポもアンデレも、心の中では、ギリシャ人が聞きたかったことに対して、まだNOという意識を持っていたのではないかと思う。そして、正しい答えとして、イエスにNOといってもらおうとしているような背景があったのかと思う。 それに対して、イエスは、「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と語りだす。 そこには、イエスが十字架にかかって死ぬ時が栄光の時だということを語られていたのだと思う。 しかし、なぜ、死が栄光なのだろうか? そこには、イエスの十字架の死が、多くの実を結ぶことになるから。 それにしても、多くの実とははんなのか。本日の福音書の最後の言葉に注目したい。 「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」 このすべての人を引き寄せようという言葉によって、ギリシャ人の抱いた質問に対する答と、またフィリポやアンデレがどう対応したらよかったかの指針が含まれているように思う。 イエスは、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、肌の色が黄色だろうが、茶色だろうが、黒かろうが、白色であろうが、あるいは男性であろうが女性であろうが、国籍、人種、性別にこだわらず、すべての人々を主のもとに引き寄せてくださっている、そういう主なる神。死は死ではおわらず、死を滅ぼして復活し、その際に、すべての人々を引き上げることを言っておられ、それが栄光の時とされている。 先週、月曜から水曜日まで出席した会議のメインの司会者は、肌の色は黒いアフリカ系アメリカ人女性だった。腕には黒い十字架の刺青がされていたが、本当に見事な準備と司会をしてくれた。そして、人種や性別差別の問題で話し合いをリードしてくれたのは、やはりアフリカ系アメリカ人の差別問題を専門に学んだ女性が、講演をして、さらに、グループ別のディスカッションへの質問をしてくれた。 今日のメッセージを終わるにあたり、開会のDevotionをしてくれた、やはりアフリカ系アメリカンの若い牧師が、ズールー語の挨拶を教えてくれた。 ズールー語とは主に南アフリカ共和国の中でも東部で話されている言語。「今日は」に相当する言葉は「ザボナ、Sawubona」という。 このザボナには、もっと深い意味がある。それは「私の中にいる神があなたの中にいる神を見ます。」という意味。 それは、私の中にいるイエス様が、あなたの中にいるイエス様を見ます、と言い換えることもできるし、私の中にいる聖霊が、あなたの中にある聖霊を見ます、と言い換えても良いのだと思う。 そんなばかな話あるかと思われるかもしれない。そういう人間の気持ちがイエスを十字架の死に追いやってしまったともいえる。 しかし、その十字架の死から復活し、イエスはその罪深い全人類を赦される。 その十字架は、アダムとイブにはじまった罪深い人類、肌の色や国籍や性別に関係なく、すべての人類を救うという、輝ける栄光の十字架である。 いっさい人々を除外しないというイエスの信仰を思う時、わたしたちも人種差別のようなことがおこらないように働くことの重要性がある。 安達均 The Hour of Glory John 12:20-33 May God’s Grace and Peace be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary! It has been two weeks since Eiko almost passed away. I was just wondering about her name. She might be named from “Eikou 栄光” meaning “Glory” of Jesus Christ since she was born in Kyushu where Christianity is more popular than in other parts of Japan. I think our Lord is guiding me to talk about the Glory of Jesus. This past week I was attending a meeting near the churchwide office in Chicago. Almost 200 church staff got together. ELCA is a predominately white organization. Statistically, 95% of the church members are European American. However, if we look at ELCA staff, the percentage of European Americans is much lower. In the churchwide meeting, there were many African American, Latino, Asian, Native American, and Middle Eastern attendees. During the three day meeting, we spent a great deal of time talking about Racism and Sexism. You might wonder why we still need to talk about these issues. Even though structurally the ELCA does not discriminate people by gender or race, racism/sexism still exists interpersonally and societally. One African American woman shared that she is frequently asked “Did you go to college?” Most likely, if she were a white woman; she probably wouldn’t be asked that same question as often. The Gospel today, describes…
Tweet John 3:14-21 救い主イエスの恵みと平安が私たちの心に注がれますように! 私は牧師になる前は医療電子機器の会社に勤めていた。アメリカの市場で何千台もの機器を病院に納めさせていただいた機械に脳波形があった。 脳波計とは患者の脳波を測定し、記憶装置に治め、脳の解析の手助けをする。使用目的の一つに睡眠の解析がある。 睡眠解析をする件数は、90年代に飛躍的に増大した。というのは、アメリカ人の10人に一人は睡眠障害があるといわれだしたから。学会などにも参加して、医師と対話する機会もあった多かった。 学んだことのひとつに、睡眠障害の7割方は、呼吸系の問題。睡眠時無呼吸になってしまったときに、呼吸を助けるマスクをして対処している方が家族にいたり親戚にいる方もいると思う。 残りの3割は呼吸系の要因ではなく、じつにさまざまな要因で、脳神経に関する原因であるが、その機序は複雑とのことだった。 ある医者は、残りの3割の不眠症は、本当に、それを病として治療することが良いのかどうか疑問であり、かなりの場合は、自分は治療をしないということを述べていた。 神経が高ぶってしまう要因を、それは千差万別なのだ 眠れなくなってしまった時に、神経を他のことに向けるというこがよく行なわれる。数を数えたり、ゲームをしたり、LCRのサイトにアクセスして私の説教の録音を聞いてもらうのも良いかもしれない。 いったいどうしたらよいのだろうか? 正統的な手段としては、私は神に祈ることかと思う。しかし、祈ることとは、意識して祈るわけで、眠らないこと。今年の聖句としてあげているコロサイ人への手紙には「目を覚まして、感謝を込め、ひたすら祈りなさい。」と書かれている。なぜ祈ることが私たちの睡眠の手助けをするのだろうか? エピスコパル教会牧師、バーバラブラウンは眠れないという感情をそのまま信頼して、それから逃れようとするのではなく、さらにがけっぷちに近づくように、その眠れなくなっている要因をさらに深く考えようとしたらどうだろうかと書いている。心理学者のバイブルとまでいわれる診断と統計によれば、愛する人を亡くして悲嘆に暮れる日々は2ヶ月までとし、もしそれ以上に及ぶならうつ病と診断し処方薬を勧められてしまうそうだ。バーバラブラウンは、西洋の文化が暗い感情を恥として、ふたをしてしまう、拒絶してしまうようなところがあると指摘する。しかし、暗い感情をただおいやってしまってよいのだろうか? 心理療法士ミリアムグリーンスパン氏は暗い感情の治療なる本を書いている。彼女の母はホーローコーストから逃れた人で、彼女の母は戦後10年、率先して嘆き悲しんだという。あのような大量虐殺ということに対して、10年でも短いのかもしれない。グリーンスパン氏は、どうしようもない暗い感情なんというものは存在するのではなく、それはやりきれない感情にただ未熟な対応をしているだけに過ぎない。そもそも感情というものは、人間から何かをとりだす必要のある純粋なエネルギー、私たちを眠りから覚めさせて、私たちが何か知る必要があることを教え、私たちの心の周りに凝り固まってしまっているものを壊して、私たちが行動するように仕向けているものだと述べている。 暗い感情というものは、心の奥にある人々とは分ち合いたくない、あるいは、考えたくも無いことでも含まれているのだとおもう。それらは恐れや恥に起因している場合もある。これらの感情は人々を極端に内向的にさせ、人との対話が難しくなったり、自分に価値がないものだとしてしまったりする。また過去の失敗や事故などによって、とてつもない弱い立場においやってしまうことがある。 実にさまざまな問題から神経がやられてしまうことはある。不眠症になったから西洋医学によって治療しなければならないという気持ちになる人が多い。しかし、バーバラブラウンは、暗闇の感情に対して我慢ができていないのだと指摘する 脆弱、勇気、価値、恥といったような内容の研究をしているブルーネブラウン教授は傷つきやすい心とは、恥や畏れ、そして自分の価値について紋々とする時の核心的な問題だと指摘する。しかし、そのような時に、傷つきやすい心、社会への帰属意識や愛情を受け入れる心に生まれ変わる場合があるという。 今日一人の医師、牧師、心理療法士、大学教授の話をしたが、その間に忘れてはならない存在、お方がいらっしゃるのだと思う。 特にこの受難節という季節にあって。私たちはヨハネ3:16をよく読む。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」しかし、本当に神がどのように私たちに永遠の命を与えられているのかよく考える必要があるのだと思う。 神の子は一人の弟子に裏切られ、他の弟子たちからも置き去りにされ、兵士から鞭でうたれ裸にsれ、人々から十字架にかけろとののしられ、本当に十字架に架けられ殺された。 しかし、イエスの話はそれで終わらなかった。イエスは今でも聖霊として生きておられ、私たちと共にいてくださり、真っ暗闇でもいっしょに歩まれる。どんな暗闇にも夜明けがあり、希望がある。私たちの終わりには、あらたな命のはじまりがある。 残りの受難節、みなさんが良く眠れるようにとは祈る。しかし眠れない時があっても心配しないように。それを無視したりすることはかえってよくないのではないだろうか? 主に祈り、イエスに助けを求めよう。聖霊とともにおられるイエスが、常にいっしょにいてくださり、私たちを決して見捨てるようなことはなさらない。アーメン 安達均 Sleepless Nights John 3:14-21 Pr. Hitoshi Adachi May Grace and Peace come to you in the name of Jesus Christ, our Redeemer and Lord! Until I finished my first year of seminary education, I was still working for a medical device company. Their most popular product, in the US market, was the electroencephalograph. It’s a device that detects patients’ brainwaves, saves them to the memory, and allows a doctor to analyze them. One of the major purposes of the product was to analyze patients’ sleep patterns and help diagnose sleep disorders. The need to analyze human’s sleep patterns greatly increased in 90s, because research showed that more than 10 percent of the US population had sleep disorders. Since we were providing the sleep pattern analysis devices, I often attended conferences that sleep researchers and physicians attended. One thing I learned, in the late 90s, was that almost 70 percent of physicians thought that insomnia cases should be treated as a respiratory issue. Some of you are wearing or have worn breathing masks at night. However, 30 percent of insomnia cases cannot be cured by respiratory treatments. Physicians discussed the complicated mechanisms that make up a human’s neurological systems. I tried to follow the discussion, despite having only a basic knowledge of physiology. A Japanese physician, I talked with at that time, said he does not believe that 30 percent of insomnia can be…
Tweet 父なる神、私の口から出る言葉、メッセージがあなたの思いに適い、そして集まった会衆の一人一人が新しくあなたの思いを見出すことができますように! アーメン 道場という言葉を聞くとどういう印象を持ってもられるだろうか。 剣道、柔道、空手等々のはげしいスポーツをする所と思われている方。 私は高校の授業で剣道を一年間ずっと習った年があった。 高校の道場があり、そこで、週一時間だけだったが、稽古にはげんだ。 いまでも忘れられないことは、最初に道場に入るときは、必ず一礼して入ることが習慣となっていた。それは、私が小さいころから家族で行っていたロシア正教会の会堂に一礼して十字架をきって入っていくが、神聖な場所に入っていくのだという心構えと共通のものがあることを感じた。 あと、もうひとつ忘れられないのは、最初の授業。 50分の授業は、正座してただ、教師から剣道のオリエンテーションを受けたが、一切防具をつけたり、竹刀を持つことはなかった。 50分の授業でやったことは、「正面に礼」 「互いに礼」 という教師の掛け声に従って、お辞儀の練習をする。 そのおじきの練習だけで、一時間が終わった。 そこには、キリスト教で、「主なる神を愛することと、自分を愛するように隣人を愛すること」の大切さを教えられることと共通のものを感じた。 神とも仏とも呼んではいなかったがそこは神聖な場であり、道場の正面におられる大いなる存在に加護されることを願いおじきをし、となりにいる稽古をする相手(戦う相手)に尊敬の念を持っておじきをする。 道場そのもの、生徒たち、そして自分の体も尊敬するように指導された覚えがある。 私の神学校時代の新約聖書の教授、とても影響力のあったMary Hinkle Shore教授は、信仰の道を歩む上で「道場」という言葉を用いて、訓練の大切さを説いている。 あくまで比喩だが、道場に通って練習するように、信仰においても礼拝に通うという約束と礼拝堂を尊敬する大切さがあるのだと思う。 それにしても道場が、今日の聖書の箇所とどういう関係があるか、首をかしげているかもしれないが、説教の後半で気がついていただけると思う。 さきほど読んだ福音書の中で、イエス様はずいぶんと激しい行動をとられている。神殿の境内にいた、牛や羊を鞭でおいはらって、両替人のお金をまきちらして、さらに台をひっくり返されるという行動をとられた。 「こんなものは、ここから運び出せ。」っと大声も出されたのだろう。 ユダヤ人たちは、イエスに、「こんなことまでしてしまって、いったいどうしてくれるのか? どんなしるしをみせてくれるのか?」 ということをいっている。 「しるし」ということばはわかりにくいかもしれないが、おそらくイエスが見せてくれる、奇跡、つまり、今日の聖書箇所の前に出ているイエスが水をワインにするような。だから、境内がめちゃくちゃになっても元通りに直すような奇跡のことを意味したいたのではないかと思う。 それに対するイエスの返事は、「この神殿を壊せ。 三日で立て直してやる。」 とまでいわれる。 後にわかることだが、イエスは十字架に架かって死に葬られても、三日目に復活したわけで、三日で立て直す神殿とは、イエスの体のことを示唆されていた。 さて、ここで、質問したい。 イエスは、当時に立てられていた神殿そのものの存在を否定され、これまでの神殿ではもう礼拝する必要がないということを意味したのだろうか? その答えは、まず今日の福音書箇所をよく読む必要がある。イエスは「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」と言われている。 ここで、「父の家」とはルカの2章で、イエスがまだ少年時代に、父ヨセフと母マリアは過越祭の後に、エルサレムからナザレの帰り道にいたのに、イエスだけは神殿に残っていたことがあった。 ヨセフとマリアに再会したときに、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」ということを言っている。 また、マタイ、マルコ、ルカには、今日と同じ場面のところが描写されており、イエスの言葉のなかに、イザヤ56章7節の言葉を引用して、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。」ということ、つまり、父なる神の家ー神殿ーは祈りの家というイエスの一生を通じての考え方があるのだと思う。 なので、神殿自体を、イエスは否定しているわけではない。 その神殿で行なわれる行為が、商売の家となってしまい、父の家として、また、祈りの家ということを、どこかに置き去りにしてしまったことが問題だった。 しかし、さらにイエスが三日で神殿を建て直すということを言われたところに、イエスの全く新しい概念を提示されていることがある。 イエスの体が神殿、そこには、神殿の概念がぐっと広がってきている。 さあ、いったい今日の福音書から、わたしたちは、このハンティントンビーチにあるResurrection Church の礼拝堂で、毎週毎週、定期的に、神の御言葉を聴き、祈り、礼拝を捧げているが、そのこととどう関係あるのだろうか? イエスはこの礼拝堂で毎週毎週、父の家であり、祈りの家として、礼拝を捧げることを、とても良いこととし、主はわたしたを加護してくださっていると信じている。イエスの体が神殿だと教わっても、毎週日曜の神殿での礼拝は信仰の中心であることには、やはり変わりはないのだと思う。 しかし、わたしたは、同時に、イエスの体が神殿であるということから、普段の生活の中にいてくださる、イエスの存在、聖霊の存在によって、私たちの生活も、そこが神殿になっているということがいえるのだと思う。 コリント信徒への第一の手紙の 3 章 16-17 節には、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 (中略) あなたがたはその神殿なのです。」という言葉がある。 さて、私たちの信仰生活のうえで、とても大切なことが、教えられていると思う。 柔道、剣道、空手で、訓練をする道場があるように、わたしたちも、定期的に、つまり毎週日曜日に、聖なる空間、礼拝堂に入り、創造主なる神に出会い、主の御言葉を聞き、賛美する訓練の大切さがある。 それと同時に、わたしたちが世の中に生活するなかで、月曜から土曜も、そこに生きておられるイエスさま、聖霊がわたしたちに宿ってくださっていることを、意識して生活する。 それは、毎週毎週の礼拝堂での訓練によって培われ、わたしたちの体が、神殿となり、普段の生活でも実現するのではないだろうか?キリストに従う者として、神の聖なる場、礼拝堂を愛し敬い、兄弟姉妹を愛し敬う。この礼拝堂は、わたしたちの信仰の訓練をする最高の神の道場という表現もできるのではないだろうか。 主にあって、今週の生活も、ゆたかにみちびかれますように。 アーメン 安達均 Is this Sanctuary a Dojo? John 2:13-22 May the words from my lips and thoughts in this message be acceptable to you, Lord, and may your grace and peace be poured into each of us! What kind of impression do you have when hear the word “Dojo”? Do you have a perception that it is the place where people fight each other as a sport? As a high school student, I took Kendo lessons for one year. I practiced in a nearby dojo. I enjoyed practice every week, even though it was only one hour per week. There are two things that I cannot forget. The first thing is that we always enter the dojo only after bowing. For me this was similar to entering the Orthodox cathedral after I bowed and crossed on my chest. Both customs indicate that you’re entering a holy place. The other thing that I cannot forget is that during the first class, we listened to the teacher’s lecture for 50 minutes. We did not touch bamboo swords or protective gear…instead when, our teacher wasn’t lecturing, he had us practicing proper bowing technique towards the front of the dojo and bowing to each other. I thought this is somewhat similar to Christianity, because Jesus said, “Love your Lord and love your neighbors.” That is the most important command. And in…
Tweet マルコ 8:31-38 主の慈しみと平安がここにあつまった一人一人に注がれますように! ある方が亡くなったために、その方が加入していた日本の生命保険の会社に、死亡を通知して、手続きをはじめてもらうように依頼したことがあった。 すると、保険会社の担当者は「ああ、Mr. Cはクリスチャンだったのに、癌で命を落とされたのね。」と言われた。保険会社の方は、キリスト教に興味を持っておられたようだが、クリスチャンになっていれば、癌にかかったりしない、あるいは癌にかかっても死ぬことは無い、そのようなことを信じている宗教ではないかと思っておられたようだった。 みなさんはどう思っておられるだろうか。 クリスチャンであれば、癌にならないという考えは? 前に説教で話したことがあったと思うが、人生、上り坂あり、下り坂あり、さらにまさかという坂もある。クリスチャンであろうが、なかろうが、まさかもやってくる。 まさかには、いろいろある、がんでステージ4といわれるかもしれない。あるいは突然のストロークか心臓発作か、あるいは突然の交通事故かもしれない。 あるいは、アルツハイマーか、ALSかもしれない。 しかし、肝心なことは、どういう形のまさかが来るかわからないが、どう神と向き合うか、どう家族や友人たちと向き合えるかということではないだろうか? 今日与えられている福音書は、イエスが弟子たちに自分は十字架にかかって殺される。しかし、三日後には復活する話をはじめられたところ。 しかし、一番弟子のペテロは、そんなことがあってはなりませんと言って、イエスをいさめはじめる。 それに対してイエスは、ペテロを「サタンよ引き下がれ」といって叱責する。 サタンとは先週も話したように、人間を神の思いから逸脱させてようとする力。そしてそれにしたがって神の方から別の方向を向いてしまうことを罪と呼んでいる。ペテロは人間の思いとしては当然で、主と仰ぐイエスが十字架にかかって殺されるようなことがあってはならない、そんな「まさか」があってはならないと述べた。 しかし、神の御心はそうではなく、まっこうから、サタンだと否定されてしまった。 じゃ、神の思いはどういうことなのだろうか? イエスは、ペテロを非難した後、とても大切なことを述べていると思う。 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。いったいどういうことなのか?」 命という言葉だけで4回、さらに、命をさしている「それ」という代名詞も2回あり、合計、6回の命という言葉があるともいえる。 この命という言葉は、ギリシャ語では、プシュケーという言葉が使われていて、「息」とか文字通り「命」でこの世の命をさしている場合と、「魂」と訳したらよいかと思うが永遠の命をさしている場合がある。 そのどちらの命のことをいっているかを吟味しながら、もう一度読み直したい。「自分の命を救いたい者」の「命」とはどっちか? 「それを失う」の「それ」はどっちか。 「イエスのため、福音のために命を失う」の「命」はどっちか? それを救うの「それ」はどっちか? 答えは、イエスの歩まれた生涯からわかってくる。 イエスのこの世の命は、ユダヤ教の指導者たちばかりではなく、民衆もこぞって、十字架にかけて、この世の命を終わりにしてしまった。 イエスはいっさいそれらに抵抗することなく、従順に十字架を担ぎ、無抵抗のまま、十字架上で死に、葬られた。そして、地獄のようなところにまで行かれた。しかし、イエスは復活し、永遠の命を得る方となった。 イエスは永遠の命に生きておられる方であり、私たちクリスチャンは、イエスの聖霊によって洗礼にあずかった生きるものとなった。それはすなわち、イエスと同じようにわたしたちは、洗礼で罪とともに死に、永遠の命にあずかっている。たとえ、この世の命が終わっても、永遠の命に生き続ける。 問題は、この世の命の終わるときに、どうわたしたちは対応したらよいのだろうか? もちろん、どういう医療が受けられるのか、お葬式も心配、お墓も心配という気持ちもわかるが、もっともっと大切な永遠の命が重要ということをイエス様がおっしゃているのではないだろうか? この世の命にしがみつくのではなく、たとえ、地獄と思えるようなところを通るかもしれない。ひどい話だが、イエスと同じように、クリスチャンであるがゆえに十字架にかけられて殺される人もたくさんいるのがキリスト教の歴史だ。現代でいえば、イスラム国の兵士たちのテロにあって、命を失うことだってありうる。 しかし、イエスの信仰によって、イエスとともに永遠の命に生きるようにと言われているのではないか。 1ヶ月前は、私は長崎にいた。長崎には、有名な26聖人記念館がある。26聖人のひとりひとりのことは、かなりの記録がのこっておいて名前はもちろん、いろいろなことが紹介されている。 その中の一人、パウロ三木という人は、十字架上で押しかけた群集に向かって、「私はキリスト教を信じたというだけで殺されるのである。この理由のゆえに私は命をささげることをいとわない。私はキリストの教えに従い、自分の処刑を命じた人(豊臣秀吉)と処刑にかかわったすべての人を許したい」と叫んだという。 私は、パウロ三木氏は、たしかにこの世の命は失ったが、永遠の命の中で、イエスととも、今も生きている。 キリストを信じてここで礼拝する私たちも、永遠に命に生き続けていることを覚えて、新しい一週間を新たに歩んでまいりたい。 アーメン 安達均 Those Who Lose Their Lives for the Gospel Mark 8:31-38 May the Lord’s Grace and Peace be poured into the hearts of the people in this sanctuary! My friend passed away about 15 years ago. On behalf of his family, I contacted his life insurance company and asked the claims department for guidance because I was the family’s contact person. The representative said, “Oh I am sorry, even though Mr. C was a Christian, he died due to cancer.” Although the representative showed interest in Christianity, she thought that believing in Christ might prevent you from getting cancer or even if you have cancer, you’ll be Ok and not die due to cancer. What do you think about the relationship between being a Christian and the possibility of dying due to cancer or any other diseases? I’ve explained in the past, that even if we are Christians, we go through the ups and downs of life, including very difficult times; during which you may miserably suffer. There are many different types of life challenges. You might be diagnosed with Stage 4 cancer, you might suffer a sudden stroke or a heart attack, or you might be involved in a traffic accident. Also, you or a loved one might be diagnosed with Alzheimer’s disease, dementia, or ALS. When you are forced to deal with these life-changing situations, the issue becomes how do you…
Tweet マルコ 1:9-15 主イエスの恵みと平安が集まった会衆の上に豊かに注がれますように! 誘惑という言葉を聞くと、どんなことを想像されるだろうか? 誘惑という言葉、誘うという言葉と、惑わすという漢字からなるが、なにかの誘いにあって、心が惑わされること。 先月熊本の大江教会に行ってきたが、私は熊本に行くのは2回目だった。 1回目は25年近く前の話になるが、私には、子供が二人、しかし3人目があと数ヶ月で生まれるという妻子ある32歳の男性会社員。朝一番の羽田発の熊本行きANAに乗っていったが、機内である事件が起こった。 私は窓際から二番目の席に座っていたが、窓際には、私と同じかやや年上と思われる女性が座っていた。 熊本地方には、台風が近づきつつあって、着陸数分前に、飛行機がストンと何十メートルも落とされるような感じで、すごい揺れを感じた。 すると、となりに座っていた女性が突然、私の手をぎゅっと握ってこられた。私はあせってしまった。妻子ある男性にそんな。。。 しかし、それは、私の勘違いで、もちろんその女性は飛行機がゆれた恐怖心から、なんでもよいから近くにあった私の手をつかんだだけで、すぐに、「あっ、すみません」と言われ手を離された。 一瞬の出来事だったが、私は、自分勝手に神の思いと反対の方向のことを考えた、自分の中に誘惑があったことを思う。 さて福音書の内容に入っていきたい。 本当に短い7節だけの聖書箇所だが、大切なこと、大きくわけて三つのことが凝縮している。 一つは、イエスが洗礼を受けたこと。そのとき、聖霊が大きく働いて、天からの声が「イエスは私の愛する子で、私の思いに適うものだ。」との宣言が聞こえたこと。 次の箇所が、受難節に入った最初の日曜に読まれる箇所としてとても重要だが、聖霊の働きが顕われたイエスの洗礼の後、同じ聖霊が、今度はイエスを荒れ野へと送り出し、40日間荒れ野で誘惑を受けて、野獣もいたが、天使に守られる。 そして、40日間の誘惑、試練の後に、イエスの宣教が始まり話が書かれている。 しかし、イエスはどういう誘惑を受けられたのだろうか? マタイやルカには、もう少し詳しく書いてある。 簡単に現代風に言うならば、必要以上に裕福になりたいという誘惑、二番目は常識はずれな危険な行為をしても神が助けてくれるからといって、神を試そうする誘惑、そして三番目は、悪魔とか神でも無い物を崇拝して社会的地位や権威を得ようとする誘惑。 そもそも、これらの誘惑とは、の根源は、神の思いからイエスを離そうとする、サタンの力。イエスはいったいどうそのサタンに対抗されたのだろうか? サタンへの対抗方法に入る前に、事実として、三位一体という父と子と聖霊が一体であるキリストさえも、神とイエスを、すなわち父から子を引き離そうとする力が働いた事実を確認しておきたい。 そのようなサタンの力、誘惑に対して、マルコが伝えているのは、その誘惑の間、イエスは野獣といっしょにいたが、天使が仕えていたと表現している。 天使が仕えるというのはどういうことなのだろうか? 詩編91篇になるが、その11節に「 主はあなたのために、御(み)使い-天使のことと考えてよいと思うーに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。」 また14-15節になると、 神の言葉で、『彼はわたしを慕う者だから/彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。 彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え/苦難の襲うとき、彼と共にいて助け/彼に名誉を与えよう。』とある。 「彼はわたしを慕う」という表現は、父なる神を慕う信仰の大切さが表現されているのだろう。 そして、イエスは徹底的に父なる神に従順に従って十字架への道を歩み、死にて葬られながらも、復活するということが起こった。 イエスさえも誘惑を受けたように、私たちの現代の世の中においても、わたしたちは大きな誘惑を受けて生活しているのだと思う。 誘惑というのは、夫婦関係を危険に追い詰めるようなものとか、恋人同志の関係を危うくするようなものを、誘惑と、私たちは呼ぶかもしれない。 そのような誘惑も含めて、誘惑とは私たちを神の御心から離そうと力が働くこと。 つまり、御心ではない行動をしてしまうように誘われる、あるいは試されるということがある。 そのような時に、イエスがどう対応されたかということを考えると、父なる神に絶対の信頼をおき、神に徹底的に慕う。 この世の考え方からすれば、十字架に向かうなどというばかげた話だと思われるかもしれないが、神に慕うなかで、聖霊が働き、必ず守ってくださる。 イエスは宣教の始りに、「悔い改めの福音を信じなさい。」と言われている。悔い改めがなぜ一番最初で、とても大切だとされるのは、私たち自身の中にひそんでいる、神から自分が離れてしまおうとする罪の力があるからなのだと思う。 イエスは荒れ野で誘惑を受けられたが、自然環境としてはまったく異なる荒れ野ではない、都会でもサタンは多いに働く。 それはサタンは自分自身の中に潜んでいるから。 しかし、そのサタンに勝つために、悔い改めて、主なる神、十字架にかかっても復活される主イエスに絶対の信頼を置き、また新たな1週間を歩もう。 アーメン 安達均 Temptation in the Middle of the Wilderness Mark 1:9-15 May the Lord’s Grace and Peace be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary! What do you think of when you hear the word, “temptation?” In Chinese characters, in Kanji, the word is composed of two characters, “誘惑”. “誘” means “invite” and “惑” means “confuse” or “perplex”. Therefore, “temptation” may be translated as something that causes someone to believe a false idea. As you know, I went to Kumamoto last month. As a matter of fact, this was my second time visiting that city. The first time was 24 years ago when I was working for an electronics company. I was 32 years old, a husband and father of two children. At that time the third one was on the way. There was a situation on the plane heading into Kumamoto airport. I was sitting in the second seat from the window. Sitting in the window seat, there was a woman probably in her late 30s. At that time a typhoon was getting closer to the Kyushu area, as such, a few minutes before landing, we experienced a great amount of turbulence. The woman next to me suddenly held my left hand and gripped it very strongly. I was so confused and thought it improper since I had a family…then, I noticed that it was just because of…