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Tweet  ルカ福音書 17:11-19 主イエスの恵みと平安が豊かに注がれるように! 「自然が神」とおっしゃる方がいる。私もすばらしい自然に触れて、グランドキャニオン、モニュメントバレー、いや近くのハンティントンビーチでも、すばらしい自然に触れ神の存在を感じることはある。でも神についての話は、「自然が神だ」だけでは終わらない。 地球上の自然ばかりではなく、真っ暗な山奥で、降ってくるような星の中に立ち、あふれんばかりの宇宙の偉大さ、神秘性を感じる。しかし、「全宇宙が神だ」という話で神の話しが完結するわけでもない。 全宇宙を越えた所はどうなっているのかと考える人は多い。私は空間や時間という概念を超えた存在である、神がおられると思っている。それは、宇宙の向こうでありながら、しかし、とてつもなく身近な存在、というかもっと人間的な神がおられると、私はひしひし感じる。 今週木曜は感謝祭である。今年で私が南カリフォルニアに来て18年目になる。復活ルーテル教会あるいはKing of Glory ルーテル教会で、感謝祭イブに感謝礼拝が行われなかった年があったかどうか覚えていない。はっきりしているのは、今年は、両教会とも、水曜の夜の礼拝はない。感謝祭当日も礼拝はない。実際問題として、昨年の感謝祭イブの礼拝は、礼拝出席者があまりにも少なかった。まるで、日本語礼拝の時の人数程度しか、礼拝堂には人が集まらなかった。にもかかわらず、私はその時のことを良い方向に向かっているのではないかと、ポジティブにとらえたい。なぜ良い方向なのか?ということは、このメッセージが終わるまでの間に、一人一人が気がつくと思う。 昔、私は感謝祭の話を聞いた。そもそも感謝祭は、17世紀のはじめ、アメリカ大陸に到着したばかりのピューリタンたちは、自分たちの収穫物は十分ではなかった。そこで、ネイティブアメリカンの人々から困っているピューリタンたちと分かち合い、収穫物をともに食べたということがあったらしい。そして1621年に最初の収穫感謝祭が行なわれたようだ。 ネイティブアメリカンとイギリスからやってきたピューリタン、ぜんぜん育った環境も違う、言葉も通じ合えない二つの異なる民族が、自然の恵みである食べ物を共有しあい感謝したということなのかもしれない。 しかし、自然の恵み、に感謝したということだけでは終わらなかったのだと思う。アメリカンインディアンも、清教徒たちも、自然の恵みを与えてくれた方、神に感謝したのだと思う。 今日の福音書の話に触れたい。イエスを出迎えつつも、距離を置いてイエスに憐れみを願った10人の思い皮膚びょうの人々、一人はサマリア人、他の9人はユダヤ人だったのだろう。 サマリア人とユダヤ人は、通常健康な人々の間柄であれば、話もしないような関係だった。でも、サマリア人とユダヤ人がともにいっしょにいて、同じ社会から孤立されていた孤独感の故、サマリア人とユダヤ人という違いを超えて、励ましあって生きていたような面があったのかもしれない。 今日の福音書の要点は、単に異なる人種がいっしょに励ましあったという話では終わらない。そこがポイントではなく、イエスがそのどうしようもなく社会から阻害されてしまう重い皮膚病に悩む10人をユダヤ人であろうが、サマリア人であろうが助けている事実をよく考える必要がある。 そして、その10人のうちの一人のサマリア人が感謝し、賛美のためにイエスのところにもどってきた。この話から、イエスは戻ってこなかった9人も、感謝と賛美の気持ちを持たなければならないとおっしゃっているのだと思う。そして、この話が聖書に書かれてそれを読んでいる私たちにも、神なるイエスに感謝と賛美の気持ちを持つように導いているのかと思う。 しかし、感謝と賛美の気持ちは、だれかから神に感謝し賛美しなければならないといわれて、感謝の念、賛美の気持ちが本当に湧いてくるのではないように思う。この一人のサマリア人は、なぜ、わざわざ戻ってきて、感謝と賛美をささげる気持ちになったのだろうか? この質問についてよく考える必要があるのだと思う。 それは、ただ単に皮膚病が治ったということで幸福感を味わったということだけでわなく、とてつもなく、感謝して、賛美したいという気持ちが湧いてきてしょうがなかったのだと思う。そこには、ユダヤ人ではなかった自分までも、イエス様が愛してくださっていることに気づいたからではないだろうか?自分に起こったことが神の御業、イエスの恵みだと認識できたから、イエスのところに戻ってきたのではないだろうか? 与えられて福音書の中で、あなたはどこにいるだろうか? 皮膚病は治ってうれしいけれど、わざわざ、イエスに挨拶に来なくてもよいと判断した9人のユダヤ人の一人か、あるいは、ユダヤ人に混じって、神の御業を実感してイエスに感謝したサマリア人だろうか? 私たちはこのサマリア人の立場になってみることが大切だと思う。事実、みなさんは感謝と賛美のために礼拝に来たサマリア人なのだと思う。もし、重い皮膚病のサマリア人の気持ちになることが難しければ、400年前にアメリカに渡ってきて、ネイティブアメリカンから神の恵みを分かち与えられたピューリタンの立場になることが大切だと思う。 私たち、サマリア人のような体験、あるいはピューリタンの体験と似たような体験を持っているのではないだろうか? 病が治ったとか、食べ物でおなかがいっぱいなる、なにかに成功した、あるいは失敗したけど慰められた。。。自分に起こったことが、神の御業、主イエスキリストの親密な愛情によるものだと気づかされた経験がおありなのだと思う。 あなたに与えられたイエスキリストの体と血ですと言うと、パンとぶどうジュースを受け取る際に、必ず「私のために」といって大喜びでパンとぶどうジュースを召し上がる方がいる。その方に起こっていることが、まさに神の働きだと実感して、感謝し賛美する気持ちであふれている方々がたくさんいる。 さて、今日私たちは、何を神から学んでいるのだろう。 冒頭に述べたように、今週木曜日は感謝祭だが、前の晩も、木曜日も感謝祭の礼拝はない。今週感謝祭が無いということより、もっと大切なことは、神の慈しみ深い愛は、一年に一回の感謝祭だから働いているというわけでなく、毎日、どのような時であろうが、私たちひとりひとりに豊かに働いている。どうか、この感謝祭の時、神の愛を、ご近所の9人の人々と分ち合ってほしい。というのは、カリフォルニアは毎週日曜日に教会に来る人は10%以下というデータがある。 だから、平均的には、一人の周りには、9人以上の礼拝に来られない方々がいることになる。 自分たちに起こっていることが、神の愛の御業であることを分かち合った後は、日曜日には、感謝と賛美のために礼拝に来るように祈ろう。どうかすばらしい感謝祭の期間を過ごされますように。そして毎週日曜には、全員もどってきて、感謝と賛美の礼拝で会おう。 アーメン 安達均 “Overwhelmed with Gratitude” Luke 17:11-19 May Grace and Peace come to you from our Lord and Savior Jesus Christ! There are people who believe that nature is God. I often feel God through experiencing nature. For example, when I experience the beauty and wonder of the Grand Canyon, Monument Valley, or even locally in Huntington Beach; I feel God’s presence. The notion that “Nature is God” is not the end of the story about God. There are also people who not only believe that nature is God but they further believe that the entire universe is God. When we visit open spaces at night, away from cities, we marvel at the sight of shooting stars or the moon. It is at times like these, we sense God’s greatness. The notion that “The Entire Universe is God” is not the end of the story about God. I believe many of us have thought about what is beyond our universe. I believe there is someone who is beyond the entire universe, beyond our concepts of space and time. Even though that existence is so different and difficult to fully comprehend, I still feel that the existence is so personal and close to me. This close, personal existence wants to reach out to everyone on Earth. This is the depth of God’s love and generosity, despite the vast distance between us, humanity, and God; He…

Tweet マタイ 25:1-13 私の口から出る言葉が、あなたの御心にかない、そして、集まった会衆の上に豊かな恵みと平安が与えられますように! イエスの再臨、についてどんな考えをお持ちだろうか? いろいろな教会の指導者がいて、とくにルーテル教会以外の教会の方々から、「イエスの再臨はもうじき来ますよ。」とか、「再臨とは、世の終わりであり、イエスの裁きなのです。」という話をするのを聞かれたことがあるのではないかと思う。 テレビ伝道者たちは、よくそのような話をされるように思う。じゃ私はどうなのかと言われると、「終末はすぐ来ますよ。」などとはほとんど言わない。簡単に言うなら私は次のように考えている。 再臨のことは、たしかに聖書に書かれており、再臨はあると信じている。しかし、イエスがいつ再臨されるか、終末の時、どうなってしまうのかということより、再臨に対して心構えをすることが一番重要だと思っている。しかしイエスの再臨に備えてどのような心構えをすればよいのだろか?  今日与えられている福音書はマタイ25章1-13節の十人のおとめのたとえ話だが、マタイ24 章、25章は、終末が大きなテーマになっている。イエスは弟子たちに対して、終末について教えている。その教えには、大きく分けて二つの要素が含まれているのかと思う。 一つは、最終的な全人類の救いが完結すること。もう一つは、終末に対する警告であり、人々を回心へと導いている面があると思う。 与えられた福音書の内容を確認すると、終末を結婚披露宴にたとえているわけで、そこには、大きな喜ばしいことが起こる希望が含まれている。 旧約聖書と新約聖書を通じて、神がいかに人類を愛しているかということを著すために、神と人類が終末において結婚する、つまり主イエスと全人類が結婚して結ばれるという比喩が使われている。その一例が今日の福音書箇所だともいえる。 今日の福音書箇所理解のためには、当時のユダヤのしきたりを知っておく必要があると思う。結婚披露宴当日は花婿は花嫁を迎える準備で忙しく、夜にならないと披露宴ははじまらない。花婿が花嫁を迎える準備はいったい何時になったら終わるのかわからず、夜遅くになってしまうことがあったようだ。なので、披露宴に出席するものは夜中になっても良いように、灯火と、その灯火を絶やさないように油を十分用意しなければならなかった。  たとえ話では10人のおとめがいて、5人のおとめたちはしっかり灯火と油も十分用意していた。しかし、他の5人のおとめたちは、灯火は用意したが、油を十分備えておらず、花婿が到着間際に、油を用意したおとめたちに分けてくださいと願うが、油は分けることはできなかった。 そして、油を店に買いに行くが、買いに行っている間に花婿は到着してしまい、結婚披露宴ははじまり入り口の戸は閉められ、披露宴会場には入れない。 いったい、イエスは油を十分用意した5人のおとめたちと、そうではなかった5人のおとめたちの話をすることによって、終末に対して、どういう準備をするように言われているのだろうか。 この話、人によっては、意地悪でけちな5人のおとめと、不幸な5人のおとめたち、というような解釈をしてしまう方もいるかもしれない。  しかし、もちろん、意地悪をしても良いなどということがテーマではない。イエスが、油を準備した5人のおとめたちを評価していることは確かだと思う。 油を用意したおとめたちは、分けることができなかったのだ。この分けることができない油が何を意味するのかよーく考える必要があると思う。 いったい何を意味するのだろうか。  日本語では「ゆだん」という言葉がある。 「油を断つ」という漢字を使う。 しかし、この言葉を使う時、文字通り、油を断ってしまうという意味で使うことはない。うっかりするとか、うかつなこと。 それはひとりひとりが自分で備えができていないようなとき、油断するといい、備えている場合は、油断しないという。 つまり油断という言葉は、心構えをしない時に使う言葉なのだと思う。そして、心構えというものは、私たちが互いに「油断しないようにしよう。」とか「油断大敵」と声をかけあうことができるが、最終的にはひとりひとりが、心で決断しなければならないもので、分け与えるものとは違う。  いかがだろうか? 主イエスは、今日のたとえ話を21世紀を生きている人類に語られるなかで、わたしたちに何を教えてくださっているのだろうか? 分け与えることができない油の意味することは、次のように考えることができるのではないだろうか? 私たちは、ひとりひとり洗礼を受け、信条にしたがって信仰告白もしている。イエスは私たちを愛してくださっており、私たちも主なる神イエスと、人々を愛して生きていくという、いわば婚約期間を過ごす決断をした。その婚約期間中に、神と人とを愛し続ける生活を送ることができると思いがちだ。  しかし、ついついうっかり、灯火は準備したが、油を十分用意できなかったおとめたちがいたように、決断の持続がむずかしくなるものも出てきてしまう。 この決断の持続は、だれかから分け与えられるものではない。だれかが忠告したりすることはできるが、毎日毎日、与えられる主イエスキリスト、神からの愛に対して、最終的には、わたしたち一人一人が応答するかどうか決断するしかない。  毎週毎週、主なる神が愛してくださるがゆえ、招待してくださっている礼拝、神とのデートに出向くかどうかは、究極的には、本人の自由意志である。その意志は、礼拝に出席しようとしたものが、ほかの人を誘うことはできても、最終的に礼拝に出ようという決断は、分けることではない。いつも神の愛に応答し、わたしたちも神を愛し、隣人を愛する決断を持続することが、分けられない油の意味ではないだろうか。イエスの再臨に備え、日々神と隣人を愛することを最優先にする信仰生活を歩めますように! アーメン 安達均 “OIL THAT CANNOT BE SHARED” Matthew 25:1-13 May the words spoken through my mouth be blessed according to your will and may the grace and peace of Jesus Christ be poured into the people’s hearts gathered in the sanctuary! What do you think about the second coming of Jesus Christ? There are some people who say, “The second coming is close!” For example, I’ve heard many TV evangelists say that “Jesus is coming soon….” And it may be interpreted as “The End of the World” and “Final Judgment by God” will occur in the near future. People may wonder what I think about the second coming. I hardly say “The second coming is near.” in everyday conversation. However, since the second coming (the end or the final judgment) is written in the Bible, I believe it will eventually happen. I do not think that it is more important “to forecast when it comes” or “how it will look” than “to prepare ourselves for it.” How can we, as Christians, prepare for the second coming? The Gospel text is Matthew 25:1-13 “The Parable of Ten Bridesmaids (“Virgins” in original Greek).” In both Matthew 24 and 25, Jesus talks about the End Times and Final Judgment a lot. Jesus teaches his disciples about it. In his teaching, there are two major aspects in the end or the final judgment. The first aspect is “The salvation of the…

Tweet 11月2日の宣教26周年記念礼拝で、LCR主任牧師のカール先生は私たちに最高のメッセージをくださいました。ぜひお読みください。 2014年11月2日宣教記念礼拝説教日本語訳 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet ヨハネ8:31-36 主イエスがわたしたちの中に宿ってくださり、安らぎが豊かに与えられますように! あなたの人生に自由はありますか。特に子育て中方々、あるいは息子さん娘さんが子育ての真っ最中の方、いろいろなことがあってたいへんなのだと思う。 育っていく子が、将来、ちゃんとした仕事につけるように、社会に迷惑をかけない大人になってくれるように、本当にいろいろなことに気を配っていると思う。 おけいこごと、サッカー、ピアノ、めまぐるしいいそがしさ。それにもちろん学校の勉強、さらに、日本語家庭では、こどもに日本語を覚えておくようにするため、日本語補修校への送り迎えをしている方々もいる。 子育ては一つの例であり、子供たちのことばかりではなく、自分の将来、あるいは自分の老後を心配していろいろ悩む現実があるのだと思う。「神様、いったい私の将来どうなっちゃうのでしょうか? 私の将来のために、何をすれば良いのでしょうか?」と悩む。 その悩みをやわらげるために、生命保険を検討したり、老後の健康保険はどのような選択肢があるのかとあれやこれやと悩む。ひとつひとつの選択肢を検討することは、たしかに重要な決断になってくることではある。 しかし、あれをしなけらばこれをしなければと考えを巡らしすぎ、疲れ果ててしまうようなことは、本当に将来を保証するのだろうか? 与えられている聖書は、イエスのことを本当は信じられずにいるユダヤ教のリーダたちと、イエスの会話。イエスは、「私の言葉にとどまるもの、真に私の弟子となり、その真理があなたたちを自由にする。」と語る。 ユダヤ教のリーダたちは、律法を守ることが義とされるとする考え方であったため、イエスが偏狭の中にある人々を奇跡的に癒し、救っていたため、困っていた。 イエスを殺そうとたくらむことすらしていた。そして、毛頭、イエスの言葉にとどまる余裕はない。そもそもイエスの言葉にとどまるという意味も、イエスの言う真理がなんなのかもわかりえない。 そして、的のはずれた質問をする。「私たちユダヤ人はもう自由のない奴隷なんかではない、アブラハムの子孫は1500年前はエジプトで奴隷となったが、もう解放されて、とっくに自由の身だ。なんで、「わたしたちを自由にする。」ということを言うのか?」  それに対するイエスの応答は、およそ以下のようなものだった。「たしかにあなたたちは、アブラハムの子孫で肉体的には自由で、いろいろ自由に考えることもできる。しかし、私の言葉を受け入れていないこと、それは、真理なる神の言われることを認めようとしないこと。それは罪である。罪というのは、神なる方に向いて人生を歩まず、自分の判断で方向を決め歩んでしまうこと。そして、それは、罪の奴隷となってしまっている。あなたがたは、さまざまな戒律に従うことこそ、信仰生活だと勘違いしている。真の神とそのひとり子がここに存在しているのに、その子の話す言葉を受け入れていない。その話す言葉こそ、つまり私自身こそ真理であり、その真理をあなたの中に受け入れることこそ、さまざまな束縛から解放され、真の自由が与えられる。」 このようなイエスとユダヤ教のリーダたちの会話が交わされている。今日、宗教改革記念日曜礼拝に与えられている言葉、宗教改革から500年後に生きている私たちに何を語っているのだろうか?今日ここに集まっている会衆は、すくなくとも、主の御言葉を聞きに来られたすばらしい方々。 しかし、世の中全体をみまわすと、本当にいそがしい方々がたくさんいてカリフォルニアの礼拝参加者はわずか7%ともいわれる。 教会に来たって、将来のためにならないと勘違いされてしまい、礼拝に出ることはせず生活している方々が多い。しかし、今一度、イエスの語った言葉を思い起こしたい。2000年前にこの世に生まれたイエスこそ、神の子。それは神の御言葉であり、真理。イエス自身が真理。 パウロはコロサイ3章3節で「あなたがたの命はキリストと共にいる神のうちに隠されている。」と書き、4節では、キリストがあなたがたの命である。とも言っている。つまりイエスが私たちの人生であるということ。1500年後には、ルターは人間の人生を馬車にたとえて、あなたがたは馬車を操るように、自分の人生を操って生きていると思っているかもしれない。しかし、本当に操っているのは、主なる神イエスであり、わたしたちはイエスが操る馬だというたとえをして説明している。私は、それこそ福音の再発見だと思っている。 主なる神であるキリストは、私たちの命であり、私たちの中にいてくださる方。みなさん、キリストはわたしたちを愛してくださっている。たしかにその通り。わたしちの罪をゆるすために十字架にて死に、葬られ、しかし、復活した。それもその通り。 ただ、今日新たにすごいことを学んでいる。主なる神、イエスが、真理そのものが、私たちの命で、私たちの中に生きてくださっている。私たち人間の命とは、主イエスの命である。この教え、2000年前の教えをあらたに思い起こそう。  今週、みなさんにぜひ実行していただきたいと思うことがある。 将来のために、あれもしなければ、これもしなければと思うのは、横におき、休息のときを持とう。 しっかり、神が自分の中にいることを実感するときを持とう。 そして神への語りかけは、「私の将来の命のためにどうしたらいいのすか?」ではなく、「私の中にいてくださるあなたの命のため、私はどうしたらいいのでしょうか?」という問いかけ、祈りの時間を持とう。主なるイエスが、真理が、私たちの人生にどんなにかすばらしい計画を持っておられ、歩むべき道へと導いてくださっているか、祈り、黙想しよう。 あれやこれやと悩み苦しむ人、神から背いてしまい日々を歩んでしまう私たちに、主イエスキリスト、真理が、ささまざまな悩みを解消してくださる。 アーメン 安達均 “The Truth Will Set You Free From Your Troubles” John 8:31-36 May Jesus Christ be present among us and within us, and May the Peace of our Lord be poured into our hearts! Amen. Do you feel a sense of freedom in your lives? Those of you who are raising children or helping your children to raise your grandchildren may love your family but do not necessarily feel free. For the future of the children or grandchildren, parents spend and time and money to try and ensure a better life for them, and many parents are tired. Taking children to soccer, piano lessons, art classes, and taking them to school (in addition, some parents take their children to Japanese school) is time consuming, as such, being a parent can be exhausting. Parents’ busyness because they’re thinking about their children’s/grandchildren’s future is just an example. People are not only concerned about their children’s future; they’re often concerned about their own futures. People wonder, “Oh God, what I should do for my future?” When people reflect on their lives, they consider life insurance and healthcare options, make dietary changes, and exercise more. Each one of these life decisions are important things to think about. However, does overthinking about these things help guarantee a better life? The Gospel text today is the conversation between Jewish religious leaders and Jesus. He mentioned to the leaders, “If you continue in my word,…

Tweet マタイ 22:15-22 御言葉を通して主イエスキリストの恵みと平安が、聴衆/読者の心の中に豊かに染み渡りますように! 神さまからいっぱいいただいている恵みに対して、どのように応答したらよいか? それはクリスチャンが少なくとも一回は考えることだと思う。サンデースクールで小さい子供とこんな会話があった。  ここに10個のりんごがある。「この10個のりんごは神様からくださったもの。」として子供に渡す。その時、「でも神様が0個になっちゃうから、いくつかは神様にお返ししましょう。」と言う。たいていの子供は、5個とか3個とか返そうとする。 でも聖書には、10個もらったら一個、神様にお返しするように、書いてあるという話をして、1個だけ残してあとは子供に返す。そうするとびっくりする。「えっ、神さまに返すのはたった一個だけでいいの? Pastor の言うことはなんか間違っているのじゃないの?」しかし、先生は9個はもってなさいという。  本日与えられている聖書に書かれている出来事、当時の政治情勢を説明する必要があると思う。イスラエルは、政治的にはローマ帝国に占領されてしまった状態だった。 さらに、イエスキリストという御方が現れ、革新的な教え、また偏狭の状態にある病人や悩める人を奇跡的に救われることがおこった。  さまざまな律法を守ることによって、人間は正しいとされるユダヤの指導者にとって、イエスの存在はじゃまものだった。そこで、ユダヤの指導者はなんとかイエスの言葉じりをとらえて、イエスを死刑に追い込みたかった。  そこで、「皇帝への税金」という問題を持ち込んで、ユダヤ教の指導者たちが、「ローマ皇帝に税金を払うことはユダヤの法律にかなっていて正しいことなのでしょうか?」という質問をしている。なんでこんな質問をしたのかというと、、、 イエスが「税金を皇帝に払うべきではない」と言ってくれれば、ローマ皇帝から白い目でみられて、ローマの軍隊がイエスを死刑にするのではないか。 また、逆に、皇帝への税金を払わないといけないというならば、それは神に背くものという理由で、イエスを追求していけると考えていたのだろう。  イエスは質問に答える前に、銀貨を見せるように言われ、「だれの肖像と銘が刻まれているか?」と話され、逆にイエスがファリサイ派指導者に質問をする。そこにはローマ皇帝の肖像と銀貨が皇帝発行のものであることが刻まれていたので、指導者は、「皇帝のものです。」と応える。 そして、イエスは「皇帝のものは皇帝に」という答えをまず出す。 それは皇帝に税金を払えばよいということはおっしゃる。 しかし、それだけでは終わらない。 さらに「神のものは神に返しなさい。」と言われる。  この質疑応答の中には、イエスの深い知恵が含まれていて、いろいろなことを教えられると思う。 ひとつは、ユダヤの指導者のたくらみを見事にかわしている。 ローマ皇帝へ税金を納めることの大切さだけを話したわけではなく、それとは別に、ユダヤ教における、献げる大切さを述べられ、ローマの政治をつかさどるものも、宗教リーダも、これではイエスを追求できない。 さらに、この聖書の言葉から、よく問題になる、政教分離の大切さを教えられているという解釈もできるのかもしれない。 しかし、私は、このイエスの最後に言われた、「神のものは神に返しなさい。」というこの一言には、人類の根源的かつ普遍的、また全宇宙をも包括してしまうような大きなメッセージが含まれていると思う。 「神のものは神に返しなさい。」と言われた人類は、「神のものって一体何なの?」という質問を自問自答する必要があるのだろう。 考えてみてほしい。 今日、日曜の朝がみなさんに来た。ここにいる全員にまちがいなくきた。 この朝はだれのものでしょう。 このすばらしい日ようの朝というものは、人間が努力して創りだすことができるものではない。あるいは時間というもの。 私たち人間は何をするにしても、時間の経過とともに、人生を歩んでいるが、この時間というものだって、人間が作りだしているものではない。 「時間をつくって宿題しなさい。」と子供にいうことがあったとしても、それは、与えられた時間の中で、人間は何々をしよう。といって行動しているわけだ。  では、自分の地位だとか、収入とか、友人や家族、安定した暮らしとかを考えたとき、その裏には、みなさんがそれぞれに努力した結果であるということはいえると思う。しかし、努力するにいたって、この世の生きるという時間、両親や先祖がこの世に命を与えられ、その中で自分が生きる時代、命が与えられ、それなりの健康が与えられた、守られている人生があったから、地位も収入も友人も家族もそれなりに安定した暮らしがあるのだと思う。 いっさいのことが、神との関係なしにはなりたたなかった。。。すべてのものが神に帰属している。イエスは今日新たに、私たちに「神のものは神にお返しするように。」教えられた。  最初の子供たちへの話に戻りたいと思う。 子供の考えは正しいのだと思います。 10個与えられたら、1個どころではなく、もっともっと神様にお返しする。 私たちのいだだく時間でも健康でも、家族のことでも、すべてが神様の思いに従うように、神様に祈り、神のために働き、神に返していくということがとても大切。アーメン 安達均    What Should We Give Back to God? Matt. 22: 15-22 May God let the words spoken in the sanctuary abide with your will, and through the Word may your grace and peace be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary! What should we give back to God to adequately thank him for abundant grace that he has provided us? This is an important question in our lives. I think teachers or parents should talk to children about this. The following is an example a pastor discussed with Sunday school children. The pastor placed 10 apples on the altar and gave one to each child. The children were very pleased, but the pastor asked, since there is nothing on the altar, should you give back some apples to God? The kids gave back 5 apples. Then pastor said, in the Bible, we are taught to tithe, which means to give back one out of ten. Then the pastor gives four apples back to a child and leaves one on the altar. The kid says with wonderful smile, “Are you sure, God wants only one and can I keep nine? Pastor, there’s something wrong. Are the nine apples really mine to keep?” Pastor says, it is OK keep the nine apples. When discussing the gospel text today, I believe some background information is necessary. In Israel, 2000 years ago, the region…

Tweet マタイ 22:1-14 主イエスの恵みと平安が集まりました会衆の心の中まで、豊かに染み渡りますように! 何年も前になるが、こんな証を聞いた。「私は人生の最高の決断、洗礼を受けるという決断をして本当によかったと思う。」彼女は、キリスト教の幼稚園に通ったが、「神はいつもいっしょにいます」という話を聞き、そんなのいやだと思ったそうだ。なぜかというと悪いことをしたらそれも全部見ているわけだからしかられる。ある日台所で隠れてみたが、神様が見ていると思うと恐怖心を覚えたらしい。  音大に入って、音楽の歴史を学ぶなかで、教会音楽の大切さを知ったのだろう。友人に誘われて、礼拝の音楽を聞きに行くことになった。礼拝に何度か出席するうちに、小さい時に抱いた恐怖の神のイメージは変わっていった。  神は、愛の神さまで、自分勝手な悪い行いや言動を赦してくださる神さまであることがわかった。その愛の神様が自分のなにもかもを見てくれていることに気づき、これはすごい方だとわかる。この方に頼って生きていけばよいのだと思うようになる。だから、この方を畏れ、敬まい、賛美して生きていく決断は最高の決断だ。そんな内容の証だった。   本日与えられた福音書、イエスの天の国のたとえ話。王様がその息子の婚宴があるからといって、多くの人々を招く。ところで、その息子がだれと結婚するか、花嫁のことはここでは触れていない。  家来たちを遣わし、婚宴の準備が整ったと、わざわざ誘いに行かせるが最初に誘った人たちには、無視されたり、用事があるからと来ない。ある町ではひどい人々がいて、家来たちを殺してしまう。王は逆に軍隊を送り家来を殺した人々を滅ぼす。  王様は家来たちに、「最初に誘った人々はふさわしく応じてくれなかった。善人悪人だれでもよいから手当たり次第、招いてきなさい。」といって、家来たちを町に送る。すると婚宴は、客でいっぱいになる。しかし、一人だけ婚礼の席にふさわしくない服装の人がいた。  王はなぜ礼服を着てこなかったのかと質問する。その者がなにも答えずにいると、王は側近たちに、「この男の手足を縛って暗闇にほうり出せ。泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」と言う。 そして、招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。 とイエスは言われる。  悲しい話で、恐い話にも感じる。しかし、これはあくまでたとえ話。それも天の国のたとえで、終末のイメージをイエスは語っている。婚宴のたとえ話には、王の息子とだれが結婚するかは書かれていないが、旧約聖書、新約聖書全体に描かれた終末の救いのイメージとして、神の子、イエス(花婿)と人類全体(花嫁)が一体となる、一つに結ばれるということがある。 そして、このたとえ話に語られていることは、その婚宴に、すべての人が招かれている。しかし、たとえ話の最後に出てきた礼服を着ていない人がほうり出される話は納得がいかない方も多いと思う。来なさい来なさいとさんざん誘ったあげく、礼服を着ていないから追い出されるというのはなんでだ?そりゃないでしょう。。。 と言いたくなる。  今日のたとえ話をもうちょっと現代風に言うならば、主イエスの父なる神が、全人類に対してプロポーズしているような面があるのだと思う。それは、とてつもないすごい価値のある招きなのだ。まず、その神の招きがどれだけ価値があるものかに気が付く必要がある。 神の招きとは、善人も悪人も導かれている。マタイ5章には、「神は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らせてくださる方。」とあり、罪人を赦し愛してくださる神。その御方がプロポーズをしてくださっている。この招きを真剣に受けとめて、どう応えるかが問われている。  礼服を着ているかどうかということがたとえ話で語られているが、それは、外見ではなく、中身のふさわしさが問題になってくる。罪人も愛してくださる神。それは自分という罪人を含めて、人類全体を愛してくださる神。その神の愛にふさわしく、自分も神と人を愛する人になっていく生き方、キリストの信仰を身につけて生きて行くことを問われている。 洗礼を受ける、それはプロポーズに応えて婚約すること。そして、神の愛に包まれながら、自分もその愛にふさわしく応答する、神と人を愛する信仰という衣を着て婚約期間を過ごすものでありたい。 そして婚約期間に入ったら、当然デートをするわけだが、週一回は必ず、神さまのほうから礼拝という場でのデートへの招きがある。そして、礼拝で互いの約束を確認するような面がある。 それはみなさんが男性か女性かに関係なく、またその年齢にも関係なく、生き生きとした神との婚約期間を生きて行こうという招きに、全世界の人々が応じるように、神はいつも招いてくださっている。ぜひ活き活きとした、神様との婚約期間を過ごしてまいりたいと思う。アーメン   安達均 To Accept or Ignore God’s Precious Invitation 2014 10 12 Matthew 22:1-14  May the Grace and Peace of Jesus Christ be poured into the hearts of people gathered in the sanctuary! Several years ago, I heard the following testimony. She said, “I made the best decision to be baptized and am so grateful for the baptism that I received.” Although she went to a Christian kindergarten, she did not like to hear the teacher saying “God is always watching you,” because if she does something wrong, she thought that God would punish her. She was scared and one day after she came back from kindergarten, she hid herself in a corner of kitchen and felt that God was still looking to punish her. When she attended a university majoring in music, she studied how important church music is and someone invited her to come to a church. She attended church services for the purpose of listening to church music, but she realized that her perception about God was incorrect. She realized that God is love and he forgives her selfishness and past bad behavior through Jesus Christ. The loving Lord is watching over her and it was OK just walking in her life trusting the Lord. Even when difficult situations happen, just trusting God is wonderful. And she made the best decision in her life. The Gospel today is again, Jesus’ parable about the kingdom…

Tweet マタイによる福音書 21:33-46 主イエスの恵みと平安が集まりました会衆の心の中まで、豊かに染み渡りますように! 日本の小学5年生の国語の教科書に、伊藤和明という方が書いた「一秒が一年をこわす」という論文が載っている。この論文に書かれたアイデアは、カールセーガンというアメリカの科学者が提唱しはじめたことと似ている。  簡単にその内容を説明すると、地球は生まれてから約46億年という考え方が一般的になった。この46億年に対して、人類の生きてきた時間は、わずか350万年ほどと言われている。仮に、地球の歴史46億年を一年にたとえて、地球が1月1日午前0時に生まれ、今が丸一年たった大みそかの夜中の12時だとしたら、人類が誕生したのはいつごろになるだろうか。 答は何と、12月31日の牛後5時ごろとなる。つまり、地球の歴史を一年にたとえるなら、人類は生まれてからわずか7時間ほどしかたっていないことになる。(その7時間の中で)人類がさかんな活動の結果として石炭や石油などの化石燃料を使うようになったのは、わずか200年ぐらいに過ぎない。350万年を7時間とするなら、200年はわずか一秒に過ぎない。 たった1秒間、はげしく人類が活動したために、この1秒が、神が一年かかって築き上げてきた環境を取り返しのつかないような状況までに壊してしまわないだろうかということが、一秒が一年を壊すという論文の趣旨。 本日与えられた福音書、イエスのたとえ話は、ある主人がいろいろな工夫をして立派なぶどう園を作った。 そして農場主は農夫たちに貸して旅に出かける。旅の間に農夫たちがぶどうを収穫する時期となった。農場主は当然そのぶどうの一部をもらえるものと思い、農場主の使用人何人かを農夫たちのところへ送った。 しかし、農夫たちは、この収穫物はすべて自分たちが使えるものとして、使用人に渡すどころか、送られてきた使用人を次から次へと袋だたきにして殺してしまう。そこで、農場主は、もし自分の息子を送ったらその息子を尊敬してもらえるのではないかと考え、息子まで送ることにする。  ところが、農夫たちは、息子はこの農場の跡取りだから、彼を殺せば、この農場は自分たちのものになると考え、息子までも殺してしまう。なんという悲しい話なのかと思う。 しかし、この話はただの「悲しいお話」どころではない。イエスが語っていたことは、実際に起こっていたこと、そしてその時代にもうすぐ起ころうとすることのたとえ話だった。農場の主は神、その使用人は預言者たち、農場主の息子とはイエスのこと、そして、農夫たちとは、イスラエル人たちだが、とりあえず、律法学者やユダヤ教の指導者と申し上げておきたい。 神はイスラエルの人々のために、たいへん恵まれた大地を用意した。アブラハムとセラそしてその子孫たちのために、特別に恵みあふれる土地を用意した。  しかし、子孫たちはその土地を得たことを当たり前のように思って行動するようになる。おまけに、その土地をくださった神の存在を忘れ、偽りの神々を崇拝したりもするようになる。神は、イスラエルの民の軌道修正を試みるため、預言者たちを送るが、民は預言者たちの言うことを聞かない。 豊かな土地の管理を任されたイスラエルの民は、神の思いから離れていき、自分勝手に振舞うようになる。 神はその御子、イエスも送ったが、そのイエスさえも十字架にかけて殺してしまう。本当にひどいできごとだが、神はイエスを復活させて、さらに、イエスは弟子たちや、多くの人々を赦す。彼等はイエスの十字架刑を止めることもできず、むしろ十字架刑に加担したにもかかわらず、赦す。  このたとえ話は、2000年前のユダヤのリーダたちに語られていたばかりではなく、現代を生きる私たちにも、真剣にせまってくるものがある。聖書に著された御言葉とともに、考古学や自然科学から導かれた知識が、神がどのようにわたしたちに関わってきてくださったかを、今一度考えてみるように導いている。私は、カールセーガンのような自然科学者は、環境問題の切羽詰った状況を、人類が気づくようになる考え方を提示してくれた天才だと思う。セーガンは宇宙学者だが、地球とその環境についても深い考慮をしていた。  神は宇宙を創造し、地球も創造、配備し、さらに人類が生まれ存続繁栄するようにとてつもない配慮をしてくださっていた。たいへんな恵みをいただいている。 神はとてつもない自然エネルギーを備えてくださった。 そして私たちは創世記に書かれている通り神からそれらを委託されている。 ここで、私は一秒が一年をこわす話にもどりたい。人類は警告に値するほどのスピードで資源を消費しはじめているのではないか?それはここ200年にわたっており、将来の世代に向けて、とりかえしのない破滅に導かれているように感じる。 私たち個人個人は 神に豊かに祝福され、とてつもない才能を託されている。言い換えるなら、一人一人が、何かを委託され、それらを運営するように任されている。今私たちは、ひとりひとり、振り返り、自分に委託されたことは何なのかということをよく思い起こしたい。電気、ガス、水道などの資源、お金、地位、知識や知恵、友人、家族、などなどは神からさずかったものの本の一部に過ぎない。  そして私たちは、それらを無責任に消費してしまっているのではないだろうか。神は、私たちひとりひとりが神に喜ばれるような消費の仕方をしているのか、自ら質問をしたい。そして、その質問に対して、だれひとり、「私は神の思い通りにしっかり正しく使っている。」と胸を張れるような人はいない。皆この200年の歴史の一部だから。  しかし、私たちは罪深い人間であるが、最高の知らせは、神はそのような私たちでも赦してくださっている。だからといって、わたしたちは、無駄な浪費を続けてよいわけではない。私たちは、一人一人、昨日までの行いとは違う行動をとるように、神に迫られている。どうか一人一人、神の御心がどのようなことなのか、しっかり祈り願い、そして神の望まれることを実行するように、謹んで申し上げたい。アーメン 安達均 Tenants Entrusted to Manage the Vineyard Matthew 21:33-46 May the Grace and Peace of Jesus Christ be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary! Amen. There is a famous article in Japan titled “Ichibyo Ga Ichinen wo Kowasu” which means “One Second Destroys One Year” written by Kazuaki Itoh. For the last two decades, this article has been included in a Japanese language textbook for fifth graders. I think a similar idea was originally discussed by scientist Carl Sagan in the late 20th century. Anyway, it is a common understanding that 4.6 billion years have passed since the earth was born. Out of which, human beings have lived only 3 to 4 million years. Let’s assume that 4.6 billion years equals one year. In other words, let’s assume that the earth was born January 1st at 0:00 a.m. And let’s assume that the current time is December 31st midnight of the same year. When is the time that human beings first appeared on the earth? The answer is about 5 p.m. on December 31st. So if we assume the history of earth is one year, the history of man is only 7 hours. Human beings became so active using fossil energy like coal then oil in the last 200 years. Which is only 1 second assuming that 3.5 million years equals 7 hours. This one second might be destroying nature…

Tweet マタイ 5:1-12 主イエスキリストが私たちの間にいっしょにいてくださいますように! アーメン わたしたちの友人で40代半ばにしてなくなった方がいる。彼女のご主人は、「結婚するということは、必ずいつかは辛い別れを経験するということだった。」としみじみ語ってくれた。  斉藤由紀のヒット曲、「悲しみよこんにちは」の歌詞の中では、「出会いと同じ数の別れがある」と歌っている。 出会いがあれば、いつかは必ず悲しい別れがある。確かにと感じる面はある。 しかし、本当に、出会いの数と別れの数は同じなのだろうか。  今日のイエスの言葉、「心の貧しい人が幸い。」 とか、「悲しむ人が幸い。」という言葉が出てきて、どうして?と言いたくなってしまう。イエスは、天の国は、心の貧しい人のものだからと言われる。 また、悲しむ人は、慰められると言われる。  そもそも、心の貧しいとはどういうことなのだろうか? わたしたちが経験したように、愛するものを亡くす体験、配偶者だったり、父親母親、あるいは子供、親しい友人を亡くすような体験も含まれるのだと思う。神の前で霊的に飢え乾いてしまっている場合を指すのだろう。また、悲しむ人とは、別れを体験して、悲しみの中にある状況をさしているともいえるのだろう。 そのような状況で、イエスの愛は迫ってくる。 そして、イエスはその生涯を通して、人間の死は、死で終わりではないという事を教えている。イエスは、天においてもいっしょにいてくださるということを約束してくださっている。 だから神の前で飢え渇いているものも、悲しみにあるものも、天に行けるし、主イエスの慰めに授かることができる。 現実問題、私の配偶者、家族、知人はクリスチャンになることはなかったけれどもと心配される方がいる。しかし、今日この場にいて、キリストの民の群れと一緒に、信仰を告白する中で、神は、「あなたの信仰が、彼を(あるいは彼女)を救ったという事もイエスは言われる方。おこがましい言い方かも知れないが、毎週の礼拝は、そこに集まる者だけではなく、集まっている者たちの家族や隣人のためにも守られている。  霊的な飢えは、かならず、神の恵みで満たされる。また、悲しみのどん底にあろうが、悲しみが悲しみのまま終わるということはない。かならず、夢と希望に満ちる扉が見えてくる。救い主イエスの信仰さえあれば。人生なにがあろうが、復活の主イエスといっしょである。この世を先に去った家族も、今はイエスといっしょにおられる。  ここで出会いの数と別れの数が同じなのかどうかの問題に戻りたい。別れが来ない出会いがひとつある。私は、イエスに会えば、出会いの数は、別れの数より一つ多いのだと思う。そしてイエスと出会っていれば、イエスを通して、先に天に召された家族、友人もいっしょに、今、イエスを礼拝している。 私たちは、イエスを通して、天に召された方々とも再会の機会が与えられる。 アーメン 安達均 Matthew 5: 1-12 May the Grace and Peace of our Lord Jesus Christ be among us and within us! Amen. My wife and I had a friend who passed away, 8 years ago, in her mid-40s. Her husband shared his thoughts with us saying, “To marry to someone means to experience a painful separation anyway.” There is a famous actress and singer in Japan named, Yuki Saito. One of her hit songs is called “Kanashimiyo Konnichiwa” meaning “Hello Sadness” in English and “Bonjour Tristesse” in French. She sings that “a number of encounters is the same as that of separations.” If you meet someone, you always say good bye. Do you think it’s true that when you meet someone and there will be always a time of separation? In the Gospel that I read a few minutes ago, Jesus said, “Blessed are the poor in spirit,” and “Blessed are those who mourn.” We may want to ask “Why?” Jesus says, “Blessed are the poor in spirit because theirs is the kingdom of heaven. Blessed are those who mourn, because they are comforted.” To begin with, What does “poor in spirit” mean? I believe this includes situations when we experience a painful separation from someone we love and we starve for peace of mind. “Those who mourn” are people who are in the depths of sadness. In those situations, the love of Jesus Christ, the savior of the world comes to you. Jesus…

Tweet マタイ18:21-35 主イエスの恵みと平安が一人一人の心の中に染み渡りますように。アーメン。 私はだれかに、「借金がある」「負債がある」あるいは「負い目がある」という言葉を使うとき、どういう意味で使っているだろうか?本当にお金を借りている時に使うだろうか?だれだれさんに本当に申し訳ないことをしてしまった。ということがあるのではないだろうか?それを罪を犯したという言葉があてはまる場合もある。しかし、罪を犯したというよりか、とんでもない恥ずかしい事をしたということもあるのではないだろうか。 四重衝突を体験したある友人がこんな話をしてくれた。彼の後方4台目の車が3台目に衝突、すごい衝撃音。そして、3台目の車が2台目に。2台目も自分の車に。ドーン、ドン、トンというか3回の衝突音を聞く。 幸い彼には怪我はなく、彼の車はたいした衝突でもない。彼はすぐに出ていって、自分の後方バンパーがどう壊れたかを見に行った。しかし、うしろの3台の車に乗っていた人たちは、うしろから2台目の車が前も後ろもぐしゃぐしゃで、中に乗っていた女性が、まだ車から出られない状況になっていたため、彼を除いた事故の当事者たち全員がその女性の救出にあたっていた。  自分の状況判断の甘さ、自分のことばかり考えていたこと、恥ずかしさが襲ってきた。ばかなことをした。さて、どうしたらよいのだろう。 彼は、そのことを私に打ち明けた。 私に話したところで、その恥ずかしいことをした事実は、もう永遠に消えることがない。 じゃ、どうしたらいいんだろう。  本日の福音書、また一番弟子のペトロが話し出す。 兄弟が罪を犯したら、何回許せばよいか?という質問をする。「7回ですか?」 聖書には、7回という数字がよく出てきており、7がひとつの完璧な数字と言われる。   イエスは7の70倍、つまり490回までも赦しなさいといわれる。訳によっては77回とも訳している場合もある。 それは、491回目は赦さないようにとか、78回目は赦さないようにという意味ではない。無限に赦しなさいといわれているようなもの。 そして、イエスは例によってたとえ話をはじめる。 このたとえ話は3部構成になっている。 第一部は王様の住む宮殿での出来事。その王様は、家来たちに貸した金の決済をしはじめた。 一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。一万タラントンというとおそらく現代の価値にして、何兆円とかの金額かと思う。  しかし、そんなお金はない。主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。そして、家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願う。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやる。なんと気前のよい王かと思う。 そして、話は第二部に入ってくる。街中で事件が起こる。 例の何兆円もの借金を帳消しにしてもらった家来が街に出て、彼に現代のお金にして百万円程度の借金をしている仲間に出会う。すると捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と言った。仲間はひれ伏して、「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼む。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。それを見ていた仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛める。 そして第三幕、仲間たちが王様の所に行き、事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつる。 そして「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」 そして、王様は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡す。 そして、イエスは、弟子たちに言う。 「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」 今日の話はたとえ話であり、王様は主なる神、奴隷たちは人類。借金を問題にしているようだが、実は人類の罪、神から背いてしまう行動を問題にしている。人類の罪は二度と消えることがない。  しかし、最高のグッドニュースが、神から人類に与えられた。 たとえ話の中で、王様が家来に対して借金を帳消しにしてくださったように、神は人類の罪、私たち一人一人の罪を赦してくださる。 どうしてそんなことを言えるのかというと、最高の出来事、神の子、イエスがこの世に来られて、十字架の死と復活を通して教えてくださったから。 赦しは、修行を積んだり、何かの行いによって罪が赦されるわけではなく、イエスを救い主と信じること。 イエスが語られた言葉が聖書に残されて、この御言葉を信じるときに実現する。神の贈り物である洗礼を受け、また、イエスの体と血、聖餐をいただくなかで、罪が赦されるということが実現する。主イエスの信仰によって、負い目は負い目でなくなり、希望と喜びをもって歩めるようになる。 この世の中で、さまざまな程度はあるが、馬鹿なことをした、恥ずかしいことをした、取り返しのつかないことをした。 いろいろある。 あきらかに自分の間違いだったのに、それを友人のせいにして、のうのうと生きようとしてしまうことがある。 そこには、当然、人々の目があり、非難の目を感じる。人々の責める言葉はなかったとしても、自らの心の中には、良心の呵責というか、自分自身で感じる、負い目がある。  取り返しがつかないという言葉を使ったが、肉親の病や事故に自分がかかわっていて、あのとき、あういう治療をすればよかったとか、あの時、あんなことをしなければよかったという思いがある。911で亡くなった方の中には、家族の用事のために、現場に行き亡くなった方もいて、その家族はたまらない。 自分も赦せないし、もちろん、アルカイダだって、テロ組織だって赦せない。だれによって、赦されるのだろうか?   その悶々とする人々を、憐れに思い、呵責から解放してくださる方がいる。   今週も、父、子、聖霊なる唯一の神を信じて赦されて、喜びの信仰生活を送ろう。 またその最高の知らせを知らない方々に、いや頭では知っていても体験していない方が、信仰生活に導かれ体験できるようになるという希望を抱いて、日々の生活を送ろう。 アーメン 安達均 Even in Our Indebtedness Matt: 18:21-35 May Grace and Peace of Jesus Christ be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary! What does it mean if you say, “I owe you” or “I am indebted to someone”? Is it always about owing money? Similarly, there are times that “I did something wrong to you” or “I did something stupid and someone is emotionally hurt and I am emotionally hurt, too.” At those times, you could say “I sinned” but you may not have literally sinned and it’s more like a “Shame on me, I should’ve known better.” situation. One of my friends told me about his experience. He was involved in a car accident, a four-car pileup. He was driving his nice car and stopped at a traffic light. The third car back from his car hit the second car. The second car hit another car behind him. And lastly, that car hit the bumper of his car. He heard distinct collision sounds three times. Even though his car’s bumper was slightly hit, he was in no danger and was not injured. Right after the set of collisions, he got out of his car and carefully examined the bumper damage. While he was inspecting his car, he realized the two collisions behind him were much more serious ones. The second from the last one, the lady’s car was…

Tweet マタイ 18:15-20 救い主イエスの恵み福音が会衆の上に与えられるように! だれかから、忠告を受けた体験を持っているだろうか? どんな感じがしただろう? 30年近く前になるが、私は今でもはっきり覚えている厳しい忠告のことを思い出す。技術屋時代で、一台の商品の仕様作成から設計まで担当することになった。  どんどんペースメーカが使われる時代になって行く時で、そのペースメーカを入れるかどうかを判断するのに、重要な検査に利用される心臓刺激装置というものだった。 仕事として、とてもやりがいがありそうだし、結婚して間もないころで燃えていた。  仕様のレビュー会議の時に、私の考えたものを発表した。当時にしてはコンセプトは斬新でやや自負しながら発表した。先輩のエンジニアは、大きな声で「それは違うと思うな。」と一言。会議に出ていた課長たちも部長も、ちょっとびっくりしてしまうような激しい口調だった。   よく考えると、そのスペックはあまりにも技術屋思考で、当時の医療現場で使うには、おそらく使いにくいもので、あのまま製品化していたら、全然使われないものになっていたと思う。 結局、その一言が効き、自分ひとりで仕様を考え出すのではなく、他のエンジニアや、医療現場の医師や技師ともっと時間をとって相談して、仕様作成に当たることができ、一年半後には良い製品として世に送り出すことができた。 今日の福音書、イエスは「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という言葉ではじまっているが、これはいったいどういう罪が問題になっているのか全然書いていない。 いろんな想像をしてしまいたくなるが、その話は置いておいて、先を読んでいきたい。 イエスの話はどんどん解決方法になっていく。 まず二人だけのところで忠告しなさい。 もし忠告を聞き入れてくれたら、兄弟になれたことになる。 聞き入れなければ、一人か二人を連れて行き、さらに話し合うように。 それでもだめなら、教会に行くように。。。。  忠告をするというのは、はっきり言って勇気のいること。 忠告された方は、いやーな気分になったり、そっぽを向いてしまい関係が傷つく可能性だってある。「聞き入れなければ」とイエスが言われているのは、じゅうぶん、関係悪化に結びついてしまう可能性をイエスは視野に入れて話しているのだろう。 それでも、イエスは、さらに二人三人であったり教会につれて行くようにという話をしているのは、一人では解決できないと思ってあきらめてしまわないように。つまり、影で文句を言って愚痴を言って終わりにしないようにと言われているように思う。 イエスの話は、弟子たちに対して、さらに続く。 与えられた福音書の後半には、「はっきり言っておく」という言葉が二回も出てきている。 この言葉が出てきた後に、イエスが話していることは重要。 福音書にはこの言葉が70回以上出てくる。  最初の「はっきり言っておく」の後は、地上でつなぐことは天でもつながれ、地上で解くことは、天でも解かれる。 それは、弟子たちが地上で自分勝手に話してよいということではない。 むしろ逆で、天の父なる神は、地をしっかり見ている。 あなた方が、話すことが天の思いにかなったものであるように。 そんなこと言われたって、天の思いを自分が話せるわけないじゃない。という弟子たちの声が聞こえてくるような気がする。 そして、イエスは、二回目の「はっきり言っておく」という言葉を語った後、もっと重要な事を話す。  それは、一人でも無理だし、人間的な思いだけで、だれかの罪を解決しようとしても難しいということをイエスは言われているのだと思う。どんな願い事でも、二人以上がこの地で心をひとつにして祈るなら、必ず適えられる。 二人以上で、イエスの名のもとに集まるところに、イエスがいっしょにいてくださるから。どんな願い事でもというのは、どんな自分勝手な願い事でもという意味ではなく、そこにいてくださる主によって、罪を犯す者が神の思いに適うものになっていくという面があるのだと思う。神が私たちとともにいてくださるという言葉は人類にどれだけ希望、信頼、喜びを与えているかはかりしれない。  さて、ざっと今日の福音書を振り返ったが、キーワードは、「忠告」と「祈り」という解決策なのかと思う。しかし今一つしっくり来ない点がある。最初の方にも述べたが、兄弟があなたに対して罪を犯した者がいたら、と書いてあったが、それは教会内の兄弟姉妹だけのことなのだろうか? 「罪を犯す」の罪は、神の思いに対し背を向けてしまうような行為。 いってみれば、毎週毎週礼拝もあり、週一回の安息日には、教会に集まり、悔い改めて御言葉を聴き恵みを受けるという神の思いに従っていない方々がたくさんいる。 その方たちを影で非難するだけでそのままにしておかないようにということがあるのではないだろうか。 この世に生を持って生まれたもの、すべて神の被造物であり、神がとてつもなく愛しておられる。しかし、その神の愛に背いて歩んでいる人々に対して、忠告すること、そして、共同体で祈ることが大切なように思う。  教育者、新島襄の言葉で、「少々角ありも可、良心溢るる若者」になるように教育するという言葉がある。 この地球に信者も信者じゃない方もいる中で、信者が信者ではない方に忠告することは角が立つかもしれない、しかし、イエスの愛をもって、忠告すること、そして良心あふれる教会の友たちで祈ることが大切なのだと思う。  最初に、私に忠告をした先輩の話をした。 ともにエンジニアとして同じ職場で働く中で、個人的な話になると、私たち夫婦は毎週、日曜日は教会に行く生活をしていることを話すことが多かった。それが逆に私から彼への忠告になっていたような気もしている。 実際問題、社会人生活をするなかで、宗教の話をすることがタブーのような面があるのは事実で、私は若干敬遠されるような感じが出てきていたような面がある。   私は10年技術職を体験したのち、技術の部門から離れたこともあり、話をすることが途絶えた。 しかし、私が会社をやめるころに、また彼に話す機会が与えられた。 私は牧師を目指すために、会社を辞めるので、私はもっと教会やイエスの話をだれとでもするようになってきた。それと同時に礼拝でも祈ることが続けられてきている。 この世にあって、教会から離れている方々のことを思って祈ることが続けられている。 数年後、突然連絡があり、彼の息子がキリスト教の中学高校に入り、おかげで毎週、息子につきあって、父親である彼が教会にいっしょに行く生活をしているとの連絡があった。  教会を離れてあるいは知らずに生活している人々に、忠告し、そして彼等が教会に集い、悔い改めて、神の恵みを受けられるように祈り続けよう。 アーメン 安達均 When We Pray Together Matt. 18:15-20 May the Grace and Peace of our Lord, Jesus Christ, be poured into the hearts of the people in this sanctuary! Has someone ever pointed out your faults? I’m not talking about your parents or siblings, but has a friend, coworker, or an acquaintance pulled you aside to talk with you? If so, how did you feel about it? In the mid-80s, when I was an engineer (and also a newlywed), I was given a project. I wrote a set of specifications and designed a medical electronic device called the Cardiac Stimulator (CS). That was the time when pacemakers were becoming increasingly popular and the CS was an important tool to diagnose if a patient needed pacemaker or not. I was very glad that I was given the project and was enthusiastic about my work. When it was time for the first review meeting for me to discuss my proposal for the equipment, I was a bit proud of myself and eager to show the new concept. However there was an engineer in the meeting, a year older than me, and he strongly objected to my concept. I was a bit surprised how strongly he disliked my proposal and even the other managers and a senior manager became quiet since they did not quite know how to respond to his criticism. When I reflected upon my…