Archive for the ‘牧師説教’ Category

Tweet 使徒言行録2:1-21 ヨハネ 20: 19-23 牧師 安達均 誕生日を迎えるとどんな気持ちだろうか? 「最後から二番目の恋」というドラマがある。2年前の人気ドラマでアメリカでも今年のはじめだったか放送されていた。 あまりの人気のため、日本では、「続:最後から二番目の恋」 が放送されているらしい。 その一部を紹介したい。 中井貴一が演じる長倉和平。妻を病気で失い、一人娘と妹たちと鎌倉に住む。 小泉今日子が演じる吉野千明は独身、キャリア。長倉和平の家の隣に住む。この二人が主役のドラマだ。吉野千明の46 歳の誕生日に長倉和平はアットホームな誕生会を開催する。  しかし、千明は、24歳位の誕生日ならまだしも、なんで46歳の誕生日を祝うのか、と文句を言う。 長倉和平は、妻を亡くしているだけに、そういうことには敏感な男性。きっぱりと言う。「命を与えられたということに感謝しないといけない。そして、46歳という年にも感謝、24歳よりももっと価値があるんだ。」 ドラマを見ながら、誕生日の意味に考えさせられた時だった。 吉野千明とはちがって私は男性だが、それでも、年はとりたくないとついつい言ったてしまう自分に、反省を迫られた気がした。 さて、今日は聖霊降臨祭、ペンテコステである。 ペンテコステは、よく教会の誕生日とも言われる。教会活動らしいことが、市民の間に広まっていったのが、このペンテコステがきっかけになっていることで誕生日とされている。 しかし、今、教会活動らしい活動というのはどういうことなのだろうか。与えられている聖書から三つのことを話してみたい。 ひとつめは、今日の第一日課に描かれている様子から話したい。 ユダヤ教の過ぎ越しの日から50日(ペンテコステ)も伝統的なお祭りのひとつ、それはすなわち、主イエスの復活から50日と同じ時期だったが、人々が集まっていると、とにかく激しい風が吹いてくる。 そして、炎のような舌が別れ別れになって一人一人の上にとどまる。 集まっていた人々というのは、いろいろな地方出身の者たちが集まっており、第一言語も異なりいろいろな風習や理解も異なる考え方をする人々たちだった。 しかし聖霊という神の力が働いて相互理解できるということが起こったことを使徒言行録は伝えている。言うなれば人間と人間の間の関係回復が今日話したいことの第一番目のポイント。 二番目、与えられた福音書では、主の復活日の夕方のことが描かれている。 その中で、イエスは息をかけて言われる。 「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 イエスが息を吹きかける前に起こっていたことは、十字架に架かるイエスを見捨ててしまった弟子たちだったにもかかわらず、復活して姿を顕す神なるイエスは弟子たちを憐れみ、赦して、「あなたがたに平和があるように。」と話された。 そこには、どんな失敗をした弟子たちであろうが、神が弟子たちを憐れみ、愛し、赦す関係があるということ。 神なるイエスと弟子たち、神と人間との関係回復が可能であることを聖書は伝えている。聖霊という神の力の中で、神と人間の関係回復が第二のポイント。 三番目になるが、主の復活日に、イエスの息を受けていた弟子たちが、さらにペンテコステですさまじい聖霊の力を受けた後、どういうことが起こったかのポイントを話したい。 それは、さきほど読んだ使徒言行録2章の後半にあったように、ペトロは聖霊に力づけられて、最高の知らせを述べて、宣教するようになる。 過去にどんなにかひどい行いがあり、自分と神との関係を断絶したかと思えるようなことがあろうが、あるいは考え方の違いやら、間違いから人間関係が悪くなってしまったようなことがあっても、聖霊の力によって関係回復は可能。そのすばらしい知らせを伝えて、人々が洗礼にさずかり、聖餐にも与れるようになるように、弟子たちは行動しはじめる。つまり、教会活動をするようになっていく。 聖霊の働きにより、神を信じるものが、周りの人々が、洗礼をさずかり、聖餐を受けるように、働きかけるようになるということが、第三番目のポイント。  さて、主の年、主の降誕から2014年、聖霊降臨日からは数えると、教会誕生1984年くらいになるわけだが、その約1984歳の教会誕生日にあって、多いに祝いたい。それは、復活ルーテル教会においても、その1984 年存在してきているキリスト教会の一部として、人々が招かれ、その招きに応じた人々が、神との関係を回復し、また、異なる文化や考え方で育った者同士でも、聖霊の働きの中で、ひとつになって、聖餐に授かるということが起こっている。  その招きは、父なる神と子なるキリストである聖霊の働き、導きの中で起こっている。ひとりひとり、どうして、この教会に来るようになったかを振り返るとおわかりになると思う。  もちろん「だれかが誘いました。」ということはある。 しかし、そのだれかの誘いの背後には、聖霊が働いていた。 先週から来られた方は、事情があって次にどこかの教会に行くかを模索中だった。 そこに、LCRの英語部の方が現れ、そして、聖霊の導きの中で、この日本語のミニストリーに誘ってくれた。  実は、私たちは、1984年の年齢を刻んでいる教会、イエスキリストの大切な体の一部を担っている。 それぞれ、聖霊の働きがあって、であった方に、ちょっとでも教会の話をするとか、あるいは、教会の礼拝で奉仕するとか、あるいは、教会活動の一環で社会奉仕をするとか、活けるキリストの体の一部の細胞を成している。神が聖霊の働きの中で、教会をこの世に生んでくださったこと、そして、聖霊の働きが存続し続けている1984年に感謝し、また新たにイエスの息吹によって、わたしたち一人一人が教会活動のために遣わされますように。アーメン   What Does the Church’s Birthday Mean? Acts 2:1-21 John 20: 19-23 Pr. H. Adachi What do you think of your birthday? Do you feel happy about your birthday? There is a very popular Japanese drama series that was broadcast two years ago in Japan and in the Southern California last year. Since the first series was so popular, a second series is currently being broadcast in Japan. In a part of that drama, Wahei Nagakura (portrayed by Kiichi Nakai), a widower, lives in Kamakura city with his middle school-aged daughter and his sisters. Chiaki Yoshino (portrayed by Kyoko Koizumi), a single, career-oriented woman, lives in a house next to Wahei. Wahei plans a 46th birthday party for Chiaki. On her birthday, Chiaki complains “Why do you want to celebrate my 46th birthday? If I was 24 years old it would be a different story …” Wahei is sensitive about birthdays because he lost his wife. He tells Chiaki matter-of-factly, “You should be thankful for your birthday because you were born healthy and for the fact you have lived 46 years. This is great. This is more meaningful than a 24th birthday party.” It made me think about my birthdays, too. Even though I am a man, unlike Chiaki, I often say that I do not want to grow older. I feel sorry for those occasions that I felt that I did…

Tweet ヨハネ17:1-11 主イエスの恵みと平安が、集まりました会衆の上に豊かに注がれますように! 「永遠の命」について、どういう理解をしているだろうか?インタネットで検索してみると、日本語のサイトでは、肉体的な永遠の命、不死不老についての話が結構でてきた。もちろん日本語でも聖書から永遠の命について語っているものも多く出ていた。聖書には44回出てきているのでいろいろな考え方も出てくると思う。 英語のサイトでは、不死不老のことより、聖書に基づいた永遠の命についてさまざまな見解が見つかる。  ただ、英語のサイト、さらにそれを日本語に訳したサイトも見つかったが、「人類の見果てぬ夢「不老不死」が死よりも恐ろしい5つの理由」という見解があった。  もちろん、今日のメッセージでは不老不死を話すのではなく、与えられた福音書のイエスの言葉を中心に「永遠の命」について考えてみたい。 ヨハネ福音書13章から17章は、イエスが明日十字架に架けられる前の晩のことが描かれており、イエスは弟子たちに、長い説教をしている。 そして、17章は、「イエスの祈り」と言われたり、「大祭司の祈り」と言われたりする。 大祭司と呼ばれるのは、さきほど読まれた言葉の中には、2節には、「子(イエス自身)にすべての人を支配する権能を与えてくださった。」などという祈りの言葉があるが、それは、私達人間が祈れるような言葉としては考えにくい。  別の言い方をするなら、父なる神と主イエスは同格の存在にある事を話しており、だから、イエスは大祭司として、この世に送られて、人間の間に存在しつつも、私たち人間とは違う次元にも立たれている。 そして、3節の中では、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」と話される。ここに、「永遠の命とは」と定義のようなことが書かれており、これはとてもありがたい。 この言葉に従えば、私も永遠の命が得られると思ってしまう。 しかし、17章の3節の言葉は、簡単だろうか? 「永遠の命とは神とイエスを知ること。」ということになるが、神とイエスを「知る」というのはどういうことなのだろうか? とかく「知る」という言葉は、一生懸命勉強することによって、知的に理解するという意味に囚われてしまうかもしれない。 つまり、神とイエスについて、聖書や歴史書などを一生懸命読んで、神とイエスについての知識を増せばよいのかと思われるかもしれない。 ここでイエスの言う「知る」とは知識というより、関係、交わりと考えた方が良い。 イエスはヨハネ10章では、イエスと弟子たちの関係を、羊飼いと羊の関係で話していた。 それは、羊飼いも羊たちを知っており、羊も羊飼いの声を聞きわけて知ることができるという話をしていた。 一方的に弟子がイエスをわかっているわけではなく、イエスも弟子のことをよくわかっているという関係、交わりがそこにはあるのだと思う。 だから、永遠の命とは、図書館などに行って神とイエスを研究して理解するのではなく、神とイエスとの関係を保つなかで、永遠の命が与えられていることになる。 じゃ、この世にあって、どうやって神とイエスとの関係を保つのだろうか? ちなみに、昨日は22年間LCRの日本語部のメンバーだった、松井兄のメモリアルサービスがあったが、彼はこの世の肉体的な命を終え、彼自身は、神とイエスとの関係、交わりを天国で満喫しているのだと確信する。 そして、この世に残された私たちも、実は、松井兄が生前から、神とイエスとの交わりを持ち続けていたように、私たちも神とイエスと交わることができる。 松井兄は、礼拝に来ることができなかった時以外は、礼拝を休むということが一切無かった。  つまり、私がここで申し上げたいことは、洗礼を受けたものが、毎週毎週の礼拝で祈り、御言葉を聴き、そして聖餐式に与る中で、イエスが私たちひとりひとりを知ってくださっていたことがわかるようになり、互いに交わる関係が保たれるのだと思う。 さて本日はCare Connections Networkの2歳の誕生日。CCNは人生の終盤を迎える年齢になっていくときに、社会の最新情報を提供したり、パーティ等をしてまじわりの機会を持ったり、また人生終盤を迎えた年代にさまざまなサービスを提供する会社をよく調査して信頼できる会社を推薦したりする。そこには、キリストが弟子たちを愛して聖餐の交わりをしたように、CCNも愛をもって人々に接し、交わりの機会を持つようにしている。 それは、LCRという神の体の一部である教会を親として、子CCNが生まれたという関係から実現しているからだと思う。私は、CCNという高齢者向けのケアを提供する存在が、今後新しい非営利団体として社会的に認められ、LCRからは独立するようなことがあったとしてもCCNの母親はLCRで一切変わらないということを申し上げたい。そして、最初の不老不死の話に戻るが、私としては次ぎのように言いたい。「神の愛を知らないまま肉体的な不老不死が続くのだとすれば、それこそ、死より恐ろしい。」ということなのではないか。  聖書の中に書かれたイエスの言葉には、イエスが弟子たちに洗礼を授けるように、また聖餐式を行なうようにということが明確に著されている。その言葉に従う中で、父なる神、その子イエスとの深い交わりの中に置かれ、神とイエスを知ることになるのだと思う。 みなさん、イエスの招きに応じて、本当によく今日は礼拝に来てくださった。この後、信仰告白、献金の後に、聖餐式に授かりが、イエスとの関係を満喫されるように祈る。 アーメン 安達均 “What Does Eternal Life Mean?” John 17:1-11 May God’s Grace and Peace pour into the hearts of people gathered in this sanctuary! How do you understand and think of the concept of ”Eternal Life?” I just Googled this phrase in both English and Japanese and on many Japanese websites, it’s translated as immortality, but of course there are also many websites talk about biblical eternal life. On English websites, I found many different discussions of this phrase from a Biblical perspective. However, even on an English website and a Japanese website, too, I found an article that expressed an interesting view regarding immortality, it was titled, “5 Reasons Immortality Would Be Worse than Death.” It made me think of a way to apply the gist of the article through a Christian perspective, and as a pastor, using it to think about the aging population (I include myself in that group). Of course in today’s message, I won’t talk about immortality, but I would like to focus on “eternal life” based on what Jesus said in the scripture discussed today. I will bring up “a reason immortality would be worse than death” regarding CCN which cerebrates its second year anniversary today. John’s Gospel talks about one day before Jesus’s crucifixion from Chapters 13 through 17. Five chapters out of twenty-one chapters of John are just about what happened on Maundy Thursday. There is Jesus’…

Tweet ヨハネ14:15-21 安達均 主なる神が、ここに集まった一人一人の上に豊かな恵みを注ぎ、心に平安を与えてくださるように。アーメン 信仰とは、個人の問題であり、自分が中心で、神はその対象なのでしょうか? 信仰心とは、自分で抱くかどうかの問題であり、自分で無宗教と決めて、それで、神との関係も教会との関係も、もう無くなったといえるのでしょうか?  先週、友人に招かれその友人宅の集会に行った。ある方と初めて会い、私はいっさい自分が牧師であるという話はせずに、いろいろな世間話をしていた。その方はリタイヤした方でハワイに4週間奥様と滞在されていたとのことで悠々自適という感じがした。ハワイの話が出たので、私も4月最後から5月のはじめまで4日間だけ滞在したという話をした。  そして、ハワイには、昔ながら地元の宗教があり、それはすべてを創造された神がおられ、ユダヤ教やキリスト教とも十分通じているような信仰だという話をした。そして、あるキリスト教会グループは、自分たちが、自然を破壊してきてしまった問題のいったんを担っており、また地元の宗教をも否定してきたような事を認め、悔い改めているという話をした。 すると、その方は私は小さい時に洗礼は受けたが、もう宗教的では無くなった。さらに現在の教会を非難されるような事を述べて、水を飲みたいからといって、私から離れて行ってしまった。私は、信仰の話をしたことがよくなかったと少し悔いた。 さて、今日の聖書箇所は、先週に引き続き、イエスキリストが十字架刑に架かる前日のイエスの講和の中の言葉。 イエスは、最後の晩餐後は、弟子の一人から裏切られ、ユダヤ教の指導者、ローマの権力者たちにより、翌日には十字架刑に処せられることはわかっていた。 また、十字架刑に処せられるにあたって、他の弟子たちからも見放されてしまうこともわかっていた。弟子たちは、十字架刑にかかる自分を防ぐ行動に出ないこともよくわかっておられた。  しかし、自分が死んだあと、弟子たちがどんなに心細くなってしまうか、また、悔いる気持ちになるかもよくわかっていた。 弟子たちは、10代後半から20代だったのではないかと思うが、それでも、孤児のような気持ちになってしまうことも、イエスは察知していたのだろう。  そのような状況に置かれる弟子たちに対し、イエスは語る。 父にお願いして、弁護者を使わす。 その方が真理の霊である。 つまり聖霊が送られると。 そして、イエスは、「私はあなた方を孤児にはしておかない。」と語る。 それは、聖霊が送られることによって、孤児のような状況にはしておかない約束だった。  次にイエスは、「これからは世はイエスを見ることができないが、信じる者たちはイエスを見ることができる。」と語る。これはイエスの存在を私たちはいつも信仰の目を通して確信することができるという意味。 そしてその根拠となるような言葉が次に語られる。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」この言葉が興味深いのは、「わたしが生きている」つまり、現在形で表記され、その上で「あなたがたも生きることになる」と未来形で表記される。私たちの生の根拠はイエスが生きておられるという事実の上にある。 私たちは信仰・教会生活で大きな勘違いをすることがある。信仰生活において主人公が私であり、その対象が神であると考えてしまうことがある。 私たちの心が変化して、信仰が無くなってしまったとか、宗教心がなくなったとか、あるいは、キリストの体である教会とは、もう自分は縁が無いかのように感じると、私とはもう関係が無いとまで思ってしまうことすらある。  しかし、事実はそうではない。 信仰・教会生活の主人公は主なる神、イエスだ。そして、神が中心で、その対象が私たちだ。 主なるイエスは私たちをみなしごにはしておられない。 神の方から信仰・イエスの体である教会を与えてくださるからこそ、私たちは神を信ずることができる。 つまり、イエスが生きておられるからこそ、私たちは信仰者として生きることができる。 言うなれば、ハワイの地元の伝統的な宗教、それでもそこにすべてを作られた創造神を信じる信仰がユダヤ教やキリスト教とも近い面がある話をしたが、そのような宗教を信じている方々もいる。 また、友人宅の集まりで会ったような、もう宗教心は無いという方もいたりする。ちなみに、その方とは、どういう風の吹き回しか、会の後半で、また話すことになった。 いっさい宗教の話をすることなく、また自分が牧師であることも語らないまま、その方が話したい話に相槌をうち、近くに居た。 どのような信仰者、あるいは信仰をも持たないという方をも含めて、神の愛は無条件に注がれており、主イエスはそのような方々の近くで、聖霊として生きておられる。 主イエスの十字架刑を一切防げない、あるいはイエスを知らないと言ってしまう者へも、あなた方を私は孤児にはしないと約束されていた主イエスがいる。今もその約束を守り続けてくださっていることに感謝し、そのような主イエスが中心に生きておられること覚えたい。そして、私たちは、そのイエスキリストの体のいったんを担って生きていることを覚え、新しい1週間を歩みだそう。 アーメン 安達均 “He Will Not Leave You Orphaned” John 14:15-21 May the Lord pour his abundant grace and the Holy Spirit into the hearts of the people in every corner of this sanctuary! Amen. Is faith only a personal matter? Is the person (of faith) the subject and God the object? Is faith really a personal choice? If you say you are not religious, do you have absolutely no relationship with God and the Church? Last week, there was a gathering at my friend’s house and about 20 people got together. I met a person whom I have never talked to before. I introduced myself only by name and did not mention that I was a pastor. He enjoyed talking and we chatted for quite a while. He told me that he vacationed in Hawaii for about 4 weeks. He mentioned he is retired and was living comfortably, free from worldly cares. Since he spoke of Hawaii, I also mentioned that I was in Honolulu regrettably only for four days though. Then, I mentioned that there is a traditional Hawaiian religion that believes there is a creator god who made everything. In a sense, that belief is somewhat similar to Judaism and Christianity. A Christian group in Hawaii has been expressing their confessions and apologies since historically America was an active part of the overthrow of the legitimate Hawaiian monarchy and the disruption of Hawaiian culture…

Tweet ヨハネ 14:1-14 永遠の命の道である主イエスが、この礼拝において、この上のない恵みと平安を与えてくださるように! カリフォルニアに住んでいると、車での移動が不可欠。今日の礼拝に車に乗る事無しにに来られた方はいるだろうか? また近年は車を運転してあちこち移動する者にとってナビゲーションシステム(ナビ)は不可欠になりつつあるように感じている。   ナビとは、目的地の名前かアドレスさえ正しく入力すれば、目的地までの道案内をしてくれるとても便利な代物だ。こんな技術が開発されるとは、若いころは全然思っていなかったが、今はいろいろな教会に行くことが多いという仕事をしていて、ナビなしには、仕事ができないと感じている。 人生でわたしたちは、さまざまな道を歩むが、人生の終着地点は永遠の命をいただいて天国で過ごしたいと願うのが世の常ではないだろうか。しかし、ナビに天国と入力するとどうなるのだろうか?ちなみに、ナビに天国とかHeaven入れてみたが、クマモト県にある、「天国」という名前の郷土料理屋だったり、ローランドハイツにあるQueen of Heavenというお墓が出てきたりした。それは私の期待していた目的地ではもちろんない。 ナビで目的地を入れてもだめな場合はアドレスを入れるが、私たちは、天国のアドレスを知らない。ナビに頼って天国に行けるわけでもない。では、どのような道を通って、永遠の命を得て、天国に行くことができるのだろうか?  今日与えられている福音書、とても有名なところ。とくに最初の6節は、お葬式の時などにも本当によく読まれる。お葬式以外でも、普段から何度読んでもよい箇所だと思う。  少々13章の終わりの状況を説明した方が良いと思う。 13章36節には、「わたしの行くところにあなたは今ついて来ることはできない」というイエスの言葉があり、それを聞き動揺してしまった弟子たちに対して、「心を騒がせるな。」といって語りだしているのが、今日の聖書箇所のはじまり。 イエスは「私の父の家には住むところがたくさんある。。。。」と語り、「わたしがどこに行くのか、あなたがたはその道を知っている。」と続いて話す。しかし、弟子の一人のトマスは、「イエスが何というところに行くのか、アドレスも知りませんから、どうやってその道を知るのか」と反論する。 するとイエスは、「私は道である。」と語る。 それは、トマスがどうやって、イエスの行く所への道を知ることができるかと質問したことに対して、勘違いに気付くように言われているように思う。 イエスは、どこどこに道があるから、その道を通っていけば、私の行くところつまり天国に行けるという話ではない。むしろ、イエス自身が、私たちの歩む道だと話してくださっている。 いろいろな宗教の立場のことを思って、互いに尊敬しあうがため、天国におられる神のところに、どんな宗教を信じていても、だいじょうぶ、天国の神に会える。と話されることがある。 つまり、神にいたる道はいろいろあっても、行く先は同じであると。 本当にそうなのだろうか? そこに真理はあるのだろうか? イエスは、私は道でありと言ったあとは、イエスは私は真理であるとも言われる。道であり真理であるイエスは、さらに、「命である。」というイエスの言葉がつながっている。それは永遠の命である。  この聖書箇所は私たちに何を語りかけているのだろうか?イエスキリストが教えてくださっていることは、父なる神が天国にずっといて、待っていてくださるようね受身の神だということではない。 先週は羊飼いが羊になった話しをしたが、むしろ、主なる神ご自身がイエスという人となって、私たちの中に降りてくださって居る。ヨハネ福音書の中で13章から17章は、イエスが十字架に架かる前日にイエスが遺言のような長い説教をしたことが書かれている。 その要点は、イエスがもう見える形ではなくなってしまうが、それでも、何かが代々にわたって残る約束をされたといえる。  その約束は、遠い将来に起こる約束というより、その時すでに実現している約束。そして、21世紀に生きている私たちにも、その約束が実現している。つまり、イエスのことを私たちは人間の姿としてみていなくても、道であり、真理であり、命であるイエスが、確かに私たちの間で生きていてくださっている。 イエスと一体なる父なる神は、今日も聖霊をこの世に送ってくださっている。その三位一体の神、イエス、聖霊を信じて生きていく人生自体が、それはイエスの道、真理、そして永遠の命である。 イエスを信じて生きる信仰の歩みは、過去にどの道を歩もうかと迷ったかもしれないが、すでに天国に直結した歩みとなっている。ナビやGPSを使わなくても、すでにイエスの命を与って生きている。  イエスを信じて先週も礼拝に出ていたが、過ぎた1週間に何か予期せぬことがあり、迷いが生じて、生きたここちもしなかったような経験もあったしれないが、また礼拝によりあらたに永遠の命を確信することができる。なぜなら、毎週礼拝を守るキリスト教会自体が主イエスキリストの体、主イエス自身であり、道であり、真理であり、永遠の命であるから。 今日から始まった一週間を、私たちはすでに永遠の命の中におかれていることを確信して、喜びつつ、この新たな一週間を歩んで参りたい。 アーメン 安達 均 “GPS and Jesus” John 14:1-14 Pr. Hitoshi Adachi May the Lord, the way to eternal life, give us grace and peace during this worship service! Living in California, owning a car is a necessity. Most people attending this morning’s worship service drove or were driven in a car. Like cars, GPS devices are also becoming a necessity. GPS helps you arrive at a location you’ve never visited before; it is much more convenient than map books. GPS is a wonderful tool that helps reach a destination by inputting its name or its address. Quite honestly, I do not think I could do my current job without a GPS device. We travel along various roads while living in this world, but after the end of our earthly life, I believe it is a common hope that we’ll reach heaven and enjoy eternal life. However, we cannot know the way to heaven by simply inputting “heaven” into a GPS device. Actually if I input “Tengoku(天国)” [while in Japan] into my GPS, it shows directions to Japanese restaurant called “Tengoku” in Kumamoto prefecture. Also, if I input “heaven” [in the US] it shows directions to a cemetery called “Queen of Heaven” in Roland Heights. When we cannot find directions by inputting the place name, what do we do? Do we turn off our GPS? We usually input the address and try again. Heaven is different…

Tweet ヨハネ10:1-10 主イエスキリストの恵みと平安が、主イエスの子供たちである会衆の上に豊かに注がれますように。 私たちの住む世の中には、毎週、主イエスの真の御声を聞かずに、他の何かに没頭してしまう対象がいろいろある。仕事だったり、お金だったり、車だったり、宝石だったり、あるいは異性のだれかだったり、人によっては同性のだれか。あるいは様々な宗教だったり。その対象は、本当に自分自身とどう関係しているのだろう。何かに没頭しながらも、毎週日曜は神の御言葉を聴くことはできるのではないだろうか?  今日の聖書箇所では、羊と羊飼いの関係をイエスは話している。羊は弱く、一匹だけで生きていくことはできない。自分の羊飼いの声を聞き分け、夜は囲いのあるようなところで過ごすが、明るくなると、やはり羊飼いの声に従って、群れを成し、そして牧草地にも行き、栄養を得られる。 しかし、羊というとその目的は羊毛だったり、羊肉として食べられてしまうわけだが、イエスのたとえでは、羊飼いが羊たちの羊毛を売ってしまったり、羊たちを食用に売ってしまうような羊飼いとはちょっと違う。 さきほど拝読した聖書箇所の次の節にはイエスは「私は良い羊飼である。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と自らを表現しているが、いったいどういう羊飼いなのだろうか?  聖書に描かれた壮大なストーリの中からわかることは、この良い羊飼いとは、羊飼いのままいるのではなく、徹底的に自分の羊たちを愛し救うために、羊飼い自らが羊にまでなってしまい他の羊たちの命の救いのため屠られてしまう。しかし、その良い羊飼いは屠られ死にて葬られても、永遠に生きており、羊たちとともに永遠に生きる。  今日はこどもの祝福式かつ、また母の日でもある。 母の日にちなんで、立教大学のチャプレンの方が紹介していた昔話を紹介したい。 ある所に、母親と一緒に暮らす若者がいた。彼は大変親孝行者だった。村人は皆、彼を誉めながら、彼のお母さんをうらやましがっていた。ある日、彼は隣村に買い物に行った。そこで、彼は思いがけず、大変美しい女性と出会い、すぐに彼女のことが好きになってしまった。 しばらくして、彼はその女性に、愛の告白をし、結婚を申し入れる。彼女はそれを受け入れた。その青年を大変気に入って、毎日のように仲良く付き合うようになった。さて、結婚直前に、彼女は突然、結婚のための一つの条件を持ち出した。ところが、その条件というのは、とても信じられないものだった。それは、「愛する人よ、私と結婚するためには、あなたのお母さんの心臓を、私のところに持ってきなさい。そうでなければ結婚はできません。」ということだった。 若者は耳を疑い、考え込んでしまった。「そんなはずはない。」ところが、彼女は、その条件を若者に要求しつづけた。若者は思い悩んだが、その美しい女性とどうしても結婚したいという気持ちを、抑えることができなかった。そして、ある日、涙を流しながら、寝ている母親の心臓を切り取って、自分の手に持ち、その娘のところに走って行った。 急いで向かう途中、小さな石につまづいて転んでしまった。もちろん、手に持っていた母親の心臓も落としてしまった。落ちた心臓を拾うとした時、地面に落ちた母親の心臓から、心配そうな母親の声が聞こえてきた。「我が子よ、大丈夫か、けがはしなかったか、気をつけておゆき。」その時、若者はようやく正気に返った。親孝行者と言われていた自分が、女性の美しさに目が眩んで、大切な親を手にかけてしまったことに気がついたのだ。 この昔話、息子と彼女は、私たち人間つまりイエスの言われる羊たち、そして母親はすべての人間を創造された神である主イエス、つまり羊たちのために命を捨てる良い羊飼いであることおわかりいただけただろうか? ここまで私たちを愛してくださる主なるイエスに気付き、毎週、その主イエスの御声を聞き、良い羊飼いに養われる羊たちの群れが成長していくようにと祈る。アーメン 安達均 The Good Shepherd is a Parent and his Sheep are His Children John 10:1-10 May Grace and Peace of our Lord, Jesus Christ, be poured into your and your children’s hearts in this sanctuary! Amen. In today’s world, we get distracted by so many different things that we forget to listen to God’s voice every Sunday. These distractions include, but are not limited to, work, cars, or jewelry. Your relationships (whether they’re heterosexual or same-sex) can also be a source of distraction. Of course religion could be a distraction as well, if we don’t focus on listening to God’s voice. If you have distractions, in your life, are you obsessed with them or can you still focus on what’s important? In today’s Gospel, Jesus is talking about the relationship between a shepherd and sheep. Sheep are weak and they cannot live without guidance and protection. Sheep listen to their shepherd and instinctively know his voice. During the daytime they go out together, follow their shepherd’s voice, find pasture, and become nourished. At night, they enter into a sheepfold and are thankful for the shepherd’s protection. However, Jesus does not talk about the shepherd who sells sheep’s wool or meat. Right after today’s text, Jesus says, “I am the good shepherd. The good shepherd lays down his life for the sheep.” What does it mean? How does this good shepherd relate to his sheep? What does he do for them? According to the…

May 4th, 2014

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Tweet 「神が現れる時」 ルカによる福音書24章13節−35節 説教者:インターン Becca  Ajer 5月4日の説教日本語訳 ”When God Shows Up”  sermon by LCR intern, Becca Ajer Sermon by Becca 5:4:14 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet ヨハネ20:19-31 牧師 安達均 傷ついたまま復活した主イエスの恵みと赦しが集まった会衆の心の中に豊かに染み渡りますように。 みなさん、なんらかの怪我をして、体に傷を負った経験はあるのではないだろうか? また、体の傷ではなく、心の傷を負うという経験もされた方は多いと思う。 あるいは、逆にだれかに怪我をさせてしまったとか、あるいは、心の傷を負わせてしまったという経験もみなさんあるのではないだろうか? アメージンググレースは多くの方が大好きという讃美歌だが、その歌詞に自分の心が痛むという方もいる。その方は目が見えない方だが、英語の歌詞に「わたしはかって盲人だったが今は見える。」というくだりがある。それは比喩だが、本当に目の見えない方にとって、そのような比喩が使われることに、心の傷が癒されずにいるようだ。今日のメッセージ、傷について、さらに考え、傷を受けることがどういう意味をもってくるか考えてみたい。 今日の聖書箇所、主イエスが復活された当日の夕方、部屋に閉じこもっていた弟子たちに、イエスが顕われる。 弟子たちは、恐くてしょうがなかった。イエスの弟子という理由で自分たちも十字架刑に会うのではないかという不安もあったし、痛々しいイエスの十字架刑を一切阻止できなかったという面では、弟子たちも心に深い傷を負っていた。 それゆえ、死んで葬られたイエスに謝まりたいという気持ちもあったと思う。そこにイエス当人が現れ、真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように。」と言われ、両手のひらとわき腹の傷を見せる。  傷は、弟子たちを非難するのではなく、傷が残っていることを見せて、イエスだとわかる証明であると同時に、復活したイエスから弟子たちへの赦しの表現だった。 しかし、弟子の一人トマスはその場にはいなかった。 そして、弟子たちが、イエスが現れた話をしても、イエスが復活したことは信じられないと言い出す。両手の傷やわき腹の傷の、釘の穴に自分の指を入れないかぎり、信じられないとまでいう。  1週間後、今度はトマスもいる時に、イエスはまた弟子たちに顕われてくださる。 そして、1週間前と同じように、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われる。 イエスは痛々しい傷を見せたことだろう。そしてそれに反応して、トマスは、イエスが主なる神であることを信じる。イエスはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」という言葉を残される。 与えられた福音書の最後に書いてあるように、このストーリは後世の人類が、たとえイエスの傷を見なくても、イエスが神の子であり救い主であることを信じるようになるためである。 もちろん、神の子であり救い主であるイエスを信じることは重要だ。しかし、今日の話の中で、イエスが私たちの日常生活に関係することで、とても重要なことを教えてくださっているように思う。 イエスが傷を負われた、肉体的な傷はもちろんだが、宣教の間もユダヤの指導者たちから非難され、心の傷も負っていたのかと思う。そして、傷を負うことは、決して悪いことではないんですよ、と言われているように思う。 パウロはコリント人への第二の手紙の中で、「わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 」と書いている。 パウロが「とげ」と表現すると、パウロの言葉は結構きつく、パウロと関係した人々がパウロの言葉に傷を受けたことがあったとも考えられる。 しかし、ここでは、パウロ自身には、さまざまな攻撃もあり牢獄にも入り、それは心も体も多くの傷を負ったことが想像される。 つまり、とげは外側にも内側にも向いていたのだと思う。 このことに関して、カトリックのシスターで、ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんは、今月号の婦人の友に記事を載せていたが、「傷つけられることによって、自分の弱さに気づき、他人を傷つけていたかも知れない自分を反省する良い機会を得られることもあるのです。」と言われる。 皆様方も、毎日の生活の中で、家庭内での口論にしろ、友人関係にしろ、思わぬ傷を負うことがあると思う。 その傷には、自分をなにか良きに働くこともあることを認識したい。 傷跡を残したまま復活されたイエスを信じることは、「傷だらけの十字架の死さえ、イエスと神の関係が終わらなかったように、わたしたちの人生においても、どんな失敗をするなりして傷を負っていようが、イエスとの関係が終わることがない。」と確信することだと思う。そして、私たちも傷跡を残しながらも、傷を残したまま復活された主イエスを心に覚え、喜んで日々の生活を送りたい。 アーメン  “Rejoice…in spite of His Scars!” John 20:19-31 Pr. H. Adachi May the Grace and forgiveness of our Lord be poured into your hearts in the name of Jesus Christ! Do you have scars? You may not have physical scars but you might have emotional scars that are not visible to other people. Or you might have accidently, figuratively scarred someone else through your actions. As for physical scars, when I was in third grade, I accidently hit my friend’s head while I was playing ping pong and hurt him. Physical scars are usually obvious but emotional scars are not readily visible. Sometimes, we don’t realize how hurtful our words can be. Hurtful words often cut deeper than a knife. Many of you know and like “Amazing Grace,” correct? There is the lyric “was blind, but now I see.” Although it is a metaphor and I do not think my opinion is applicable to all visually-impaired people, for some totally blind people, this phrase is hurtful and may leave emotional scars. In today’s message, let’s think about our scars and what they mean in our lives. Today’s Gospel text still begins with the scene on the day Jesus resurrected. The disciples were together, in a home, with the door locked because they feared being discovered by the Jewish leaders. Despite their secrecy and the locked door, Jesus appeared among His disciples. The disciples were fearful, because the…

Tweet マタイ28:1-10 牧師 安達均 主の恵みと平安が豊かに与えられるように! 何か今の人生、恐いと思っておられることがあるのでは?自分の仕事の問題。自分あるいは家族の病。 あるいは子供の教育問題やら、子供の仕事の問題。 自分自身の老後。人間関係? 韓国の沈没船。 そのような問題から離れ、ここで礼拝の機会が与えられていること、恵みで感謝である。 この礼拝は、日頃の問題から離れ、神の言葉を聴き、神に祈り、そして神と会う時。 最高の恵み。 20年以上前だが、あるキリスト者の友人は、礼拝は最高の時。しかし、その友人の考え方は、礼拝が終わるとまた、神のことを忘れ、現実問題と戦うことになり、月曜から苦しい、また不安の人生。そして、日曜にはまた、救いの時だと言う。  彼がシェアしてくれた事は、日曜は平日とか土曜から独立した存在だということだった。私は特にそのことについて議論もせず彼の意見を聞いていたが、なぜかその言葉が忘れられない。今年の復活礼拝で与えられている御言葉が、ぜひ、月曜以降の普段の生活の中に、たとえそれが苦しいと思う生活であっても、そこに豊かな喜びを与えてくれるように祈る。 イースターの朝与えられた福音書箇所、マタイ28章1-10節。 イエス復活の日曜の朝の墓の前での光景。 登場人物は、二人のマリア、番兵たち、天使、イエスキリスト。 登場はしてこないが他の女性たち、弟子たちの話題も、以下の話しに加えたいと思う。 二人のマリアや、他の女性たち、弟子たちの気持ちを想像するに、恐くて恐くてしょうがない。 金曜には、いままで3年間、この方こそ主であると思って従ってきた、イエスが十字架にかけられ、死にて葬られてしまった。 弟子たちは、イエスキリストが十字架に架けられることを全然阻止できなかった。阻止できないどころか、ペテロは、こんな人は知らないといい、弟子たちもみな、逃げていってしまった。 マリアたちは、イエスが殴られ、侮辱されたあげくに、十字架にて死ぬという恐ろしい光景を見ていることしかできなかった。そして土曜は、リーダを失った悲しみとか、失望感だけでなく、なにもできなかった恥を感じ、さらに、キリストの弟子や協力者だった自分たちも、ユダヤのリーダから、抹殺されるのではないかという恐れも多いにあった。 そのような状況であっても、マリアたちは、とにかく墓に来てみた。マタイはその理由を明確に書いていないが、金曜の夜はイエスにちゃんとしたお別れもできていなかったので、恐いながらも、イエスの遺体に会い、ユダヤのしきたりだった死者に香油をぬるということをしたいと思ったのではないだろうか。というのは、金曜のイエスの死後、日没までには十分な時間がなかったから。 二人のマリアが墓に到着した時、天使が顕われる。マタイは奇跡的な状況を描写している。地震が起こるなかで、天使が顕われ、墓をふさいでいた石をどける。 番兵たちは恐くて、気を失う。天使は、マリアたちも恐がっていることをよく察知していて、「恐がることを止めるように。」と言う。そして、十字架で死んだイエスを探しているのだろうが、イエスが以前言われていた通り、復活された、と言われる。彼女たちは、墓にもう遺体が無いことを知り、そして、天使は、ガリラヤに行くように恐がっている弟子たちに告げなさい、と言う。 しかし、恐がるなと言われても、恐さは消えなかったのだろう。 こんどは、イエスが登場してくださる。 そして、イエスの言葉は「おはよう。」 日本語には「おはよう」と訳されたこの言葉、マタイはギリシャ語で、「喜べ。」という言葉を使ってイエスの挨拶を表している。 そして、マリアたちは、恐くて、興奮状態であったために、天使に言われたことがちゃんとわかったいたのかどうかもわからない。 イエスは、天使が語ったことと同じ言葉を繰り返す。「恐がることはやめるように。 イエスの兄弟たち(弟子たち)にガリラヤに行くように。そこで再会しよう。」 今年の復活祭に与えられた、御言葉から、なにを思われているだろうか。 とかく、「恐がることを止めなさい。」そして、「喜べ」という言葉が際立って聞こえてくる。 「恐がることはない。」と聖書に書かれているが、恐がることを止めるということ。それは、恐がる原因となっていることを、忘れたり、取り除くようにとういうことではない。 ただ、現実を直視するなかでも、恐がることは止めるようにと言われているように思われる。 なぜ、そんなことができるのか。病が治ったわけでも、経済的な問題が解決するわけでも、あるいは、子供の教育問題が一切無くなったというわけでもない。しかし、その現実を見るなかに、そこに、私たちのためにご自身をも捧げてくださるイエスが、私たちの中に、霊的に存在してくださるという確信の中で、喜ぶことが大切なのだと思う。 イエスは、死をもって、死を滅ぼされる主なる王。そのような、復活のイエスがあなたの人生をいっしょに歩いてくださる。 この世だけではなく、この世の死後の世界をも、主なるイエスとともに歩める確信。 この礼拝は、あと20分後には終わる。しかし、礼拝が終わり、日曜が終わり、明日からの月曜日、どんな苦労が待ち構えていようが、そこに主がいっしょにいてくださる確信を得て、新しい復活節のとき、恐がることなく、現実問題を直視し、そこに主がいっしょにいてくださることを確信し喜んで生きていこう。 アーメン “Do Not Be Afraid! Rejoice!” Matthew 28:1-10 Pr. H. Adachi During this Holy Easter Service, may God’s grace and peace be with everybody in this sanctuary and with all His creations throughout this world! Do you have any uncertainty/anxiety about your life’s journey? Are they fears about your job, about your family member’s illness, your children’s education, your own retirement, or relationships with friends and loved ones? Whatever your fears or current situations are, in this sanctuary, you may get away from your problems and focus on your relationship with our Lord, Jesus Christ. This is the time to listen to, talk with, and pray to our Lord and Savior. This is the time we receive great mercy, peace, and time away from our human issues. Although it was over 20 years ago, I still recall one of my Christian friend’s thoughts about Sunday worship: Worship time is great but once worship is over and once Sunday ends, he would contend with all the human issues in his life and struggle with many challenges during the week. What he shared with me was that Sundays are independent from other weekdays and Saturdays. I did not argue with him and I just listened to his thoughts at that time. However, for some reason, I have not forgotten what he said and I pray today that the words you hear on this Easter Sunday you will listen to…

Tweet マタイ27:11-54 安達均 主イエスキリストより、主の恵みが一人一人に与えられ、そして、あなたに造られているわたしたち人間に平安がもたらされますように! 十字架はキリスト教の象徴と言って良い。私たちは、この十字架上で死に三日後に復活したイエスを信じている。それにしても、なぜ、主なる神は、十字架で死んでしまうのだろうか?  神なのだから、十字架にかけられても、たくさんのハトを天から舞い降りて来させ、釘を全部とりさって、自らは十字架から逃れることはできなかったのだろうか?  もし、そのようなことがおきても、人はイエスが神だと信じて、宗教としてのキリスト教が起こったのではないだろうか? また十字架から逃れたイエスということで、十字架がキリスト教の象徴になったのではないだろうか? なぜ、キリストは十字架上で死に墓に葬られるまで及ばなければならなかったのだろうか? もちろん、その後に復活があるからという話もあると思うが、もう少し、十字架に架かった時の状況をよく今日の聖書箇所から考えてみたい。 イエスは他の二人の罪人とともに、三つの十字架が立つなかの、真ん中の十字架に架かっている。 そして、実は、私が質問した事は、今日の聖書箇所にも書かれている。 それも二回も。  一つ目は、そこを通りかかった人々が、40節で、「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 十字架から降りて来い。  また、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒になって、イエスを侮辱して、42節「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」 その場面で、イエスは神であるから、言われた通りに、奇跡を起こして十字架から降りて来ることはできただろう。 しかし、なぜ、そうしなかったのだろうか?  結論を先に言ってしまうと、そこには、自分だけを救うという誘惑に陥ることになるのだと思う。いや、となりの罪人たちも含めて、奇跡を起こせば、自分だけではなくなるじゃないかと言われるかもしれないが、3人だけ救えばよいということでもない。 イエスの宣教開始前に、イエスが悪魔からの40日間の誘惑を受けていたときのことを覚えておられるだろうか? その時、イエスは神殿の屋根の端につれて行かれて、「神の子だったら、飛び降りたらどうか。天使たちがあなたを支えるだろう。」と悪魔に言われる。 そこには、自分の身を守るということは、決して悪いことではないが、イエスの置かれた状況のなかに悪魔の誘惑があって、神の意思から離れたことに従ってしまうことになってしまう。 神の意思から離れてしまうということが、とても問題なのだ。  結局、イエスは十字架上で死んでしまう。しかし、51節後半-53節には、「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」という描写がある。  これは、マタイ福音書だけにある記述で、聖書にこんなことが書いてあったのかと思う方もいるかもしれない。 このマタイの記事は、イエスの救いは決して、イエス自身の救いではなく、すでに死んでいた者たちも含めて、すべての人間に与えられている救い。 今日のマタイが伝えた箇所から私たちは何を学んでいるのだろうか。イエスを信じるということは、イエスだけが復活するということではない。あるいは、イエスを信じている自分だけが復活の人生を歩めるというわけではない。 イエスのことを何も知らずに、墓に葬られた人々にも永遠の命を与えなおしてくださるような面がある。とくに、先祖はキリスト教ではなかったけど、自分が初代のクリスチャンという方にも、たいへんな福音だと思う。また、イエスは、キリストの体である教会を侮辱してののしっていたような人の救いをも覚えて、イエスは十字架に架かられ死なれた。それは決して、イエスを信じずに、また教会を侮辱して生きていけばよいのだということではない。 むしろ、その十字架の事実を認識した時に、私たち人間はどのように生きていくかの問題。  キリスト者の信仰、それは神が与えてくださる信仰で、次のように言うこともできる。イエスキリストとつながる信仰は、神の創造されたすべての人々とも、時代を超えてつながることになる。イエスキリストを信じ、自分のできる範囲で主に仕えるだけで、あとは、主なるキリストがすべての人々へ仕えてくださっているともいえる。キリスト者となることのすばらしさを覚えると同時に、ぜひ、この良き知らせはさらに多くの人々と分ち合おう。アーメン “Love God and Love Your Neighbors” Matthew 27:11-54 Pr. Hitoshi Adachi Lord, may Jesus Christ’s Grace pour into our hearts and bring peace amongst all your people! The Cross is a widely-known symbol of Christianity. We believe Jesus Christ died on the Cross and that on the third day He was resurrected. But, why did Jesus die on the Cross? Since he is God, even if he was crucified, he could’ve asked many doves to come and take the nails out…and thousands of doves could’ve carried him safely down to the ground, correct? It is may seem farfetched to modern ears, but He could have saved himself if he so chose. If that did happen, would the Cross still be the symbol of Christianity? Would Christianity exist as major religion? Why did he need to die and be buried in the tomb? Of course he was resurrected on the third day, but today, let’s read closely about what people said when he was crucified and let’s think about the situation when he was on the Cross. Jesus was crucified together with two other criminals. There were three crosses. Jesus was crucified in the center between the two other criminals. What I’ve wondered aloud a short time ago is written in the Scriptures, not only once but twice. The first one instance was: Those who passed by said in verse 40, “You who would destroy the temple…

Tweet ヨハネ11:1-44 安達均 主イエスキリストの恵みと平安が豊かに与えられますように。 私が会社勤めをしていた時、同僚が亡くなった。 ここにおられる何人かの方はご存知だが、彼はすい臓がんを患らい、医者からは、数ヶ月の命とも言われた。 しかし、夫婦でキリストを信じ、洗礼を受けたあと、この世からは去られた。信仰を告白し、洗礼を受けた時から永遠の命が与えられており、奥様にとって、夫の死を体験しながらも、そこに復活の命を確信でき、大きな慰めがあった。 彼が亡くなる数週間前に、日本の本社からは会社の最高責任者が出張で来られ、死期の近づいていた彼の家を尋ね、お見舞いに行った。 彼は本当に痩せほどっていた。 しかし、私は彼の中に、なにか力強いものを実感することができた。やせ細った彼を見舞ったあと、私と何人かの現地社員も誘っていっしょに食事をした。そのとき、社長は「人間死んだらそれで終わりだよね。」ということを語った。 私はその言葉にどうしようもない憤りを覚え、それから、数ヶ月後に社長に向かって私は、説教をしてしまった。 「この世の命が終わっても、復活の命があります。」と強い口調で話した。私は、その説教がいずれは会社を辞め、最高の知らせを世に宣教する者になる決定打になったような気がしている。 さて今日与えられた福音書、マルタとマリアの最愛の弟、ラザロが病になるというシーンからはじまる。病名は書いていないが、深刻で治療を一刻も争う、急性肺炎とかあるいは、心臓発作とかだったかもしれない。 当時、電話もなければ救命救急のためのサービスもない時代、マルタとマリアにとって頼りになるのは、イエスだった。人を遣いに出し、イエスに「あなたの大切なラザロが病で死にそうです。」ということを伝えさせた。それでも、イエスは、すぐにベタニアに向かおうとせず、二日間も同じところにいた。そして、イエスはユダヤ地方に向かうものの、イエスの到着3日前には、ラザロは死んでしまった。 マルタはイエスが来たと聞いて、迎えに出るが、挨拶もせず「主よ、あなたがここにいてくださったらラザロは死ななかったのでしょうに。」と言う。イエスへの文句のような言葉で始る。聖書の中でマルタが出てくるもう一つの話、イエスと弟子たちを家に迎えたとき、マルタばかりが給仕をしていて、マリアはただイエスの話を聞いていたのを不満に思い、「マリアに手伝うように言ってください。」とイエスにマルタが言ったのを覚えている方もいるのではないだろうか。 マルタはそういう女性のようだ。それでも、イエスはマルタを大好き。 一方マリアは、今回は、マリアも、マルタと同じように「主よ、あなたがここにいらしてくださったら、ラザロは死ななかったでしょうに。」と言う。やはりイエスへの不満のような言葉とともに、マリアは泣き崩れる。またいっしょにいたユダヤ人たちも泣いていた。 そのような状況に対して、イエスは憤りを覚えられた。 イエスの憤りは、決して、マルタが、そしてあの従順なマリアまでも、遅く到着したイエスに不満を述べたからというのでは全くない。 それは、イエスはラザロを蘇らせる目的で、ここに来ているのに、人々はそんなことはつゆもしらず、あきらめていたことにあると思われる。 また、「イエスは盲人の視力を回復することはできたが、ラザロを復活させることはできない。」と決め付けているような捨て台詞を話すようなユダヤ人もいて、何もわかっていない人々に、イエスは再び、心を痛め、憤りを覚える。 そして、イエスはここから必死になる。墓の前に置いてある石をどけるように指図する。 マルタは「四日も経っているから、もう臭います。」と言うが、「信じるなら神の栄光が見られると言っていたではないか。」と強い口調で応答する。何人かの人々はイエスの言う通りに、石をどける。 そして、イエスは「いつも祈りを聞いてくださる父なる神に感謝し、ここにいる人々が、私があなたから遣わされたことを信じるために。」と祈られたあと、「ラザロ出て来なさい!」と叫ぶ。 そして、布に包まれたラザロが墓から出てきて蘇る。 この話を、レントに読んでいるが、いったいどういう意味があるのだろうか。イースターとどういう関係があるのか、あるいはラザロの復活とイエスの復活はどう違うのか? イエスは、肉体的に死んだ人でも、イエスの祈りによって生き返らせることができるという話はすごい。しかし、注意したいことは、ラザロのこの話は、たとえ、ラザロは肉体的な蘇りが起こっても、ラザロはいずれは肉体的には亡くなったのだと思う。  そのことを考えるとき、イエスの復活はラザロの蘇りとは種類の違う復活であることを覚えておきたいと思う。これから2週間、さらに復活節の7週間の間にもっともっと大きなキリストの復活について触れていきたいと思う。  今日のメッセージのポイントの一つは、マルタやマリアまでもいっしょにイエスに文句を言い、イエスは二度も憤られた様子を話した。 そこには、イエスはマルタやマリアが文句と言ったから心を憤ったのはなく、「死んだらそれでおしまい。」と思った、マルタやマリア、そして、周りのユダヤ人たちへの憤りだったのだと思う。   人の死は神の目にあってそれは滅びではない。ラザロの復活の出来事は、ユダヤの指導者たちがイエスの抹殺をたくらむ決定的な要因になった。 そして、イエスはユダヤの指導者、ローマの政治家たち、そしてすべての民衆、弟子たちをも巻き込み、十字架の死へと追い込む。にもかかわらず、神の子イエスは復活し、すべての人々への赦しと永遠の命を示されることになる。今日のラザロの復活の出来事は、十字架の死によって、死を滅ぼす、歴史上、最大の出来事につながる、決定打のようなもの。肉体的な死は、決して滅びではない。 アーメン “The Call to the Cross” John 11:1-44 Pr. H. Adachi May the Grace and Peace of our Lord and Savior, Jesus Christ be upon you in this sanctuary. When I was working for a Southern California company, one of my colleagues died. As some of you know, he was diagnosed with pancreatic cancer and was told that he had only several months to live. However, he believed in Jesus Christ, was baptized, and then he left this earthly life. At the same time his wife was baptized and several months later his daughter was baptized, as well. Therefore, they believed in his eternal life and were comforted by Jesus’ peace. I have never told this story to anyone before, so please listen carefully. As a matter of fact, a few weeks before he died, the president of the company visited California. I took him to Mr. K’s home visit him. Mr. Kyu was very thin but he could still talk with us and I felt his strength in the Holy Spirit, even though he was physically very weak. The president and I, along with several managers of our US subsidiary had dinner after our visit to Mr. Kyu. At the table, the president said, “Once you die, it is the end, isn’t it?” I was greatly disturbed by what he said….then several months later, when I had a chance to speak with the president more privately, I preached to him saying, “Although…