Archive for the ‘牧師説教’ Category

Tweet ルカ12: 49-56 集まりました会衆の上に聖霊が注がれ、豊かな恵みと平安が与えられますように! アーメン 先週、アメリカ福音ルーテル教会全体総会が行われていた。 「Always Being Made New」というテーマが掲げられたすばらしい総会だった。 テーマの言葉は、第二コリントの5章、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ること、」という言葉から来ている。 総会では、Presiding Bishopの選挙があり、12年務められたマーク・ハンソン ビショップに代わって、「Always Being Made New」という言葉にふさわしく、アメリカ福音ルーテル教会では初めて女性のPresiding Bishopが誕生した。現在オハイオ北東教区のビショップを務められているエリザベス・イートン牧師が、Presiding Bishop になられた。 選挙中の候補者のスピーチや質疑応答の場面をインターネットを介して見ていたが、刺激を受け、またいくつかの言葉に感銘を受けた。 質疑応答を聞いて、神によっていつも新しくされるということは、ある意味、人間同士で分裂や葛藤が起きるのはしょうがないという気持ちにもなっていた。    さて、本日の福音書の内容に触れていきたい。皆さん、聖書を読んで、どうしてこんな事が書いてあるか疑問を持ったことがあるだろうか。今日の福音書箇所を読んでどんな思いを持たれているだろうか? イエスご自身が、「私が来たのは、火を投じるため」とか「平和では、なくて、分裂だ」とか。イエスは何をおっしゃりたいのだろうか。このルカ福音書のこの箇所は、聖書日課に沿って3年おきに、第二次世界大戦の終戦記念日の前後に読まれることが多く、考えさせられる。  原爆を持って第二次世界大戦が終ったが、イエスを火と投じるためといっていたのは、イエスが原爆を投じるということだったのかと思われる方もいるかもしれないが、イエス様がおっしゃる火はそういうことではない。じゃ、「火を投じる」っていったい何だろう?    聖書の読み方として、ある箇所だけに集中して読む時もあるが、聖書のストーリの流れの中で読むこと。また、新約聖書のイエスの言葉は、旧約聖書や、新約聖書の福音書以外の手紙も鑑みながら読むことが重要な要素である。 第一日課の、エレミアが言葉が火であると伝えていることは多いに今日の聖書箇所と関係がある。またヘブライ人への手紙の中で、信仰が、さまざまな困難を克服するということが書かれていることも多いに考える必要があることなのだろう。 聖書のストーリの流れという点では、イエス・キリストがこの世に登場したことで、困難や分裂が起こった。事実として、救い主であるイエスの存在自体によって、ユダヤ教指導者たちとの間に分裂が起こり、よってローマ軍の指導者たちも巻き込んで、イエスを十字架に架けたという面は否めない。 そればかりではなく、イエスの十字架の死と復活、そして聖霊降臨の後には、キリスト教信仰者たちの迫害も起こっている。しかし、そのようなこの世の分裂の中でも、キリスト教会は、聖霊降臨後ずっと続いている。聖霊降臨が大きなきっかけとなって、キリスト教会は誕生した。 聖霊降臨の時、何が起こったのだろうか。 使徒言行録の2章に描かれているが、聖霊が炎のような舌となり別れ別れになって、人々の口のなかにとどまって、言葉を語らせるような状況になる。 聖霊降臨のできごとで、聖書が伝えているとても大切なイメージは、聖霊が炎のような存在。 燃え上がっている火の存在である。 そこで、本日与えられている聖書の最初の節、火とかかれている言葉は、聖霊という言葉で置き換えて読んだら、どうなるだろうか。  「わたしが来たのは、聖霊を投ずるためである。その聖霊がすでに燃えていたらどんなに良いことかと。 しかし、私には十字架の死と復活が先に起こらなければならない。 私がきたのは平和のためだと思うか。そうではない、むしろ分裂だ。」 この21世紀にあって、イエスがおっしゃりたいことを、じっくりと考えたい。 Always Being Made New とあるように、イエスと結ばれる者が毎日現れ続け、その結果、教会、社会もいつも新しくされている。  そのような新しい状態へ、神が創造してくださっている中で、新しい組織なり人物なりに、反対する勢力も出てきてしまう。 つまり、イエスが救い主として現れたこと事態が、当時の宗教指導者たちにとってみれば、「そんな馬鹿な?」という話で対立が起こったのと、ある意味、似ていて、女性の牧師すら認めない教会がある世の中で、女性のPresiding Bishopとはとんでもないという教会の考えをしている教団がまだ世の中にはある。  そのような対立や分裂のまっただなかで、神なるイエスが投じてくださった火のような聖霊が働いてくださっている。 人間の目から見れば、起こってしまった分裂は、なかなか解決しないように見えるが、その分裂の中に聖霊が存在してくださっていて、必ず、落ち着くところに落ち着くようにしてくださる。  聖霊は、火の玉のようであり、どのような困難や分裂がある中でも、突き抜けていく。分裂がはげしいものでも、突き抜けていく聖霊によって、新しい道が与えられる。アメリカ福音ルーテル教会全体でも、この復活ルーテル教会の中でおこるさまざまな問題に対しても、また、ここに集まっている一人一人の実生活の中で起こる困難や分裂に対しても、豊かに働いてくださっている火のような聖霊の働きを信じ、新しくされて、主に遣わされて生きて行こう。 アーメン “Fire and the Holy Spirit” 2013 8 18 Luke 12: 49-56 Pr. Hitoshi Adachi May the Holy Spirit bless each individual here in this Sanctuary! Amen. During last week, the ELCA Churchwide Assembly was held in Pittsburg, Pennsylvania. The theme of the assembly was “Always Being Made New,” and it was a wonderful assembly. The theme came from the second Corinthian 5:17-18: “So if anyone is in Christ, there is a new creation: everything old has passed away; see, everything has become new! All this is from God.” During the assembly, there was a Presiding Bishop election. The current Presiding Bishop Mark Hanson was not reelected, but as “always being made new,” a female Presiding Bishop was elected for the first time in ELCA history. The Presiding Bishop-elect is Pastor Elizabeth Eaton, she is currently serving as Bishop of Northeastern Ohio. Although I could not watch everything that happened during the assembly, while I was watching the assembly via internet, on Wednesday, I was impressed and moved by the four candidates’ speeches. When I was listening to the questions and answers between the chair and candidates, I happened to think that since God is always making people new in Christ, conflicts and divisions are eventually settled. Not always according to human timelines, but God does deal with them according to His plan. Now I…

Tweet 「真の平和への備え」ルカ12:32-40 牧師 安達 均 集まりました会衆の上に、イエス・キリストの恵みと平安が豊かに注がれますように!  8月の第二あるいは第三日曜は、第二次世界大戦の終了が8月15日だったことから、日本のキリスト教会の多くは平和主日としている。  1912年から1953年まで、アメリカから宣教師として派遣されていたローラ・モークという方がいた。 第二次世界大戦が始まる中、在留していた多くのアメリカ人は帰国せざるを得なくなった。 しかし、彼女は「私は福音のため帰国しません。」と断った。結果、戦争中、日本の強制収容所に入れられた。 ある日、収容所では防空壕をほっていた。すると、彼女は「だれのためにほっているのか。」と質問した。「あなたがたのためだ。」との答えが返ってくると、ローラ宣教師は、「私のためなら防空壕は要りませんよ。私は毎晩、雨のように降ってくる爆弾を見て命が縮まる思いがします。あれは、日本人逹の上に落ち、あの下で皆さんが苦しみ、ことに幼い子供たちも死ぬかと思うと、どうか、あの爆弾が私の上に落ちてくるようにと祈らずにはいられないのです。」と言われた。 普通だったら、爆弾が自分に落ちないようにと祈るのに、自分に落ちるようにと祈る、その言葉に収容所の所長は感銘していた。 戦後、収容所の所長は家族で教会に行くようになり、洗礼を受けた。  さて、第二次世界大戦中のエピソードを紹介したが、さらに1900年さかのぼって、新約聖書が書かれた時代がどういう時代だったか考えてみたい。 ある意味、その時代のキリスト教信者たちは、第二次世界大戦中に日本に住んでいた者(日本人アメリカ人を問わず)の体験と似ているような面がある。イエスが十字架に架かるだけではなく、ユダとヨハネ以外の弟子は、殉教した。殉教とは、キリスト信仰を持つがゆえに殺された。キリストを信じるようになった者たちは、迫害される時代になっていった。そのような時代になることを、神なるイエスは、わかっておられたと思う。 イエスは、本日の聖書箇所の少し後、ルカ12章後半で、「私が来たのは平和をもたらすためではなく、火を投じるため、むしろ分裂だ。」と言われていた。 迫害の時代がやってくる中で、イエスは弟子たちに、どう生きていくようにと言われていたのだろうか。そのひとつが、今日の聖書箇所に書いてある。 それは主人が家を留守にしていても、主人がいつ帰ってきて扉をたたいても、すぐにその扉を開けられるように、目を覚まして待っているように。そのイメージは、家の中の扉の近くでじっと寝ないで待っているようにと思われるかもしれない。しかし、これは比喩であって、自分の住む物理的な家ということではなく、弟子たちがどのように考えて、行動するかを示唆していた。つまり、私たちの心を、世の中の流れにまどわされてしまわないようにして、キリストが語られたような生き方をする。それはマタイ5章のイエスの山上の垂訓にあったように、「平和を実現する人々」とか、「自分を迫害する者のために祈る。」という言葉に表れている生き方をし、イエスが再臨してくださるのを待つことを示唆していたと思う。   さて、現在2013年を生きる私たちにとって、どういう生活をしなさいということなのだろうか? 現代の歴史家や社会学者たちの多くは、しばらく厳しい時代がやって来ると予測している。 それは、歴史を振り返ると、80年から85年おきに、アメリカ合衆国では厳しい時代がやってきている。 アメリカは1940年ごろの第二次世界大戦を経験する80年前の1860年代、60万人の戦死者を出した南北戦争を経験している。 さらに80年さかのぼると、独立戦争の時代である。 ちなみに、日本では第二次世界大戦から80年さかのぼった1860年代は、江戸時代つまり徳川の時代が終わって、さまざまな戦いを経て明治時代になっている。 そのような80年周期で戦争のような時代が起こるのは、リーダになる世代の性格やパターンから80年ごとに大きな試練を体験することになっていると予測されていて、2020年代は、とても厳しい時代を迎えるのではないかと考えられている。 具体的にどのような厳しさなのかはよくわからないが、とにかくそのような時代が来るかもしれないという中で、イエスが2000年前に述べておられたことと、現代の私たちに語られていることは、変わっていないように思う。 それは、聖書の中で、イエスが私たちに命令していることは、洗礼に授かり、パンを裂き聖餐にあずかる生活をしながら、自分を迫害する者のために祈り、平和を実現する者となっていくようにと。 日本のことわざで「負けるが勝ち」という言葉もあるが、争わずに負けることが実は勝利というのは、十字架にかかられたキリストの実践されたこととも言える。 つまり、洗礼と聖餐を与り、み言葉を聴くということをしてゆくことが、平和を実現する者とされていくことになる。 つまり、礼拝に集う生活の中で、み言葉を聴き、洗礼と聖餐にある主の働きに与り、そして礼拝から押し出されて、世の中で行動して行くことがとても重要な生き様ということになる。どうか、みなさん、日曜の礼拝に継続的に参加し、どんな厳しい時代が来ようが、キリストの体であるパンを分かち合い、キリストの言葉によって、確かに平和を実現していく者となり、真の平和の訪れに向かって行動しよう。アーメン。 Preparation for the True Peace Aug. 11, 2013 Luke 12:32-40 Pr. Hitoshi Adachi May the Lord bring grace and peace over the people gathered in this sanctuary! Amen. August 15 is the anniversary of the end of the World War II for Japanese People, and many Japanese Christian Churches celebrate the second or third Sunday of August as “Peace Lord’s Day”. My parents and my mother in law were 20, 16, and 13 years old when World War II ended, so they still remember their experiences of the war, although there were some differences in their individual experiences. My mother was living in Japan during the World War II, but my father and my mother in law were in Manshu (Japanese-controlled area within China) when the war ended. Wherever they were, they understood how painful the war was and felt great hope and peace when the war was over. Therefore, they have a very strong feeling that we should never enter into war again. So far, I’ve talked about the World War II era, now let’s go back further another 1900 years. That was the age when disciples experienced severe persecutions in the late first century which was similar to hardships that many Japanese youth endured in the middle of 20th century. After Jesus was crucified and resurrected and then the Holy Spirit came upon the disciples, Christ’s followers experienced an even harder time. Not only was Jesus crucified, but many other disciples became martyrs. Most probably,…

Tweet 「誰もがすること」 E. Carl Zimmermann 牧師 最近のブランデイス(Brandeis)大学での調査によると、90%の人が、それぞれ何らかの形でお祈りをしているそうです。多くの人が、とにかくその日が無事に過ぎるようにと、祈りによって神様からの導きを得る事が必要だと告白しているとの事です。祈りの75%は家族、友人の事だそうです、又アンケートによると、例えば買い物に行く時に、お店により近い良い駐車の場所があるようにと願う小さい祈りもあれば、健康や仕事についての大きな祈りもあるようです。 「祈りの力」と言えば、宗教を持って毎週祈る人の寿命は3年延びる、と2006年のピッツバーグ大学医学部の調査の結果に出ています。 数年前のニュースウィーク(News Week) の調査報告によると、80%の人が「祈りには癒しの力がある」と信じ、また75%の人が「祈りは困難な時に良い結果をもたらす」と信じているそうです。もうひとつ面白い事は:多くの『無信仰者』も災害にあった時や病気の時にはお祈りをすると言う事実です。 皆さんはきっと牧師達こそしっかりとお祈りをするに違いないと思っている事でしょうが、作家でもあり、牧師でにあるバーバラ・テイラー・ブラウンさんはこう執筆しています。 「私は祈りが下手なのです。きちんと祈れないし、必要な程頻繁には祈っていないのです。私が祈る時の言葉は、どうも言いたい事とは違うようなのです。」 彼女が書いている事は、私の祈る態度にもかなり当てはまっているかのように思います。私には決められた祈りの時間はなく、祈りの日記帳も付けていないし、特別な祈りの会にも属していません。祈る時はもぞもぞ言ったり,的確な言葉を探しているうちにどもったりします。印象に残る祈りのできない自分ですから、時々作家のアン・ラモント(Ann Lamont) の助言に従います:「私たちに必要な二つの祈りは:『神様助けてください。:神に感謝します。』です。」 ここまでの話を前置きとして、ご一緒に祈りましょう: 「生きている神様、私達が信じる時も疑う時も、どうか助けて下さい。心を開いて、あなたの存在を受け入れ、それによって私達の人生が聖霊によって満たされ、聖霊によって導かれますように。あなたに感謝します。アーメン」 では、よく知られているみ言葉の箇所を見てみましょう。「ある日、ある場所でイエスが祈っていました。祈りが終ると『先生、ヨハネが弟子達に教えたように、私たちにも祈る事を教えて下さい。』と一人の弟子が言いました。」「教えて下さい」とは「なんと言えばいいのでしょうか」という事でしょう。 それは私達が神を讃美する言葉を口から語る事です。 私たちは言葉が好きです。書く言葉、話す言葉そして歌う言葉。言葉によってコミュニケーションを取ります。ところで、皆さんご存知でしょうか、女性は1日に単語を2万使い、男性は1万3千使うそうです。 そして私達は「言葉」の偉力を知っています。言葉は人を傷つける反面また癒すことが出来ます。眠っている時以外に2-3時間、言葉を聞かずに、また文字を見ずに過ごす事ができると思いますか? 日曜の礼拝で、安達牧師又は私が説教するのではなく、15分間無言で座っているならどんなに快適でしょう! 誤解しないで下さい。私は「言葉」が大好きです。特に心に沁みる印象深い言葉が好きです。私は時々歴史的に有名な発言やスピーチを集めた本を読みます。すぐれた演説家は、今も昔も、彼らの語る言葉で、私たちを感動させ、勇気と力を与えてくれます。ジョン・ケネデイやマーテイン・ルーサー・キングの言葉は今でも私たちの心に触れ感動させます。 イエスは「言葉」を巧みに使う名人であり「言葉」によって天国を約束し、貧しい人を慰め、偽善者を戒め、疲れた者を労わり、冷酷な人々に立ち向かいました。そして勿論「言葉」で祈りました。 聖書のみ言葉に、イエスは「夜明け前に起きて、家を出て、静かな所に行き祈りました。」と書かれています。聖書には「祈り」という言葉が34回出て来ます。そのうち12回はイエスが天の父と過ごす為に一人で祈った時の事です。イエスは一人で静かな所で祈る事を好まれました。そして大袈裟に回りの注目を自分に集めるような祈りをする者達に警告しました。路上でもったいぶって祈りを捧げて見せる人達に、イエスはきっと憤ったに違いありません。 イエスが祈る時に、実際何を祈られたか私たちには解りませんが、行き着く所は他でもない、「お父様お助けください、どうか助けて下さい、お願いです、助けて下さい」だったのではないかと思うのです。綺麗ごとを並べて言うのではなく、ただ神様に導きと、知恵と、勇気と信仰を願ったのです。多分私たちがここから学べることは、全てを言い尽くしてしまった時に必要なことは、困難な人生を乗り越えて行けるように「助けて下さい」と願うという事でしょう。 ついこの前私はアフガニスタンで地雷を踏んだ為に手足をなくした兵隊の話を読んでいました。第1週間目に兵隊は「死」を祈りました。手足なしで生きて行く事は考えられなかったのです。でも時間が経つとともに「新しい境遇に立ち向かう勇気と力を与えて下さい」と祈るようになりました。辛い、厳しい日々にも関わらず、祈る事により、毎日を希望と喜びをもって過ごす事ができるようになったのです。 ここにいる私たちは、腕や足を無くした者は誰もいませんが、皆人生に何か欠けているものがあるのではないでしょうか?心に隙間を感じていたり、もしかしたら夫婦の間、又は友人との親近感を求めていたり、何かを達成したいという欲求が満たされないでいるのではないでしょうか?皆、何か欠けているものがあると思います。 イエスは私達に言われます。どんな状況にあろうとも、どんな難題に直面しようとも、どんな困難な時も、もし私達がただひたすら「お父様私を助けて下さい、助けて下さい、助けて下さい」と祈れば、神様は必ず側に来られ、私達が必要とする勇気と信仰を与えてくださいます! アーメン。 要約:民 Day Message: “Almost All Of Us Do It!” A recent survey by Brandeis University indicated that 90% of Americans, in one form or another, pray each and every day. A large percentage confessed that they needed some direction and guidance from God “just to get through.” 75% of the prayers were for family and friends and while the survey showed that people pray for some major things like health and their jobs, many also pray for “little things” like finding a good parking spot close to a store entrance. As to the power of prayer, a 2006 study from the University of Pittsburgh Medical Center, found that those who both worshipped and prayed on a weekly basis added three years to their lives! Some years ago, Newsweek Magazine reported that 80% of people believe in the healing power of prayer while 75% think that prayer can make a positive difference during difficult times. One more interesting finding: A high percentage who claim to have “no faith” pray during times of illness or national crisis. Many, I suppose, would expect pastors to have a solid prayer life, but listen to what author and pastor Barbara Brown Taylor wrote: “I am not very good at prayer. I don’t do it enough or well enough. The words I speak in prayer never seem to come out right.”…

Tweet 聖霊はもっと良いもの  ルカ 11:1-13 安達 均 主イエス・キリストの恵みと平安が集まりました会衆の上に豊かに注がれますように!アーメン 皆さんお祈りしてるだろうか。私が日本語部の牧師となったのが2月。最初の5回の説教では、1)神のラブレター・聖書を読もう、2)神とお話するつまりお祈りしよう、3)神の礼拝を休んでしまうのはもったいないので休まないようにしよう、4)神がすべての人を誘っているのだから友人を教会に誘おう、そして、5)神からいただいている恵みへの応答として喜んで奉仕し献金しよう、と話した。  あれから6ヶ月、また、今日は祈ることに関してお話ししたい。いろいろな願い事をされているのではないかと思う。 もちろん、週報に載っている方々のことを覚え祈っておれられることはすばらしいこと。  兄弟姉妹だけではなく、個人的にもいろいろ神様にお願いしていることはあって当然。 そのようなことを、本当に祈っておられることが大切だと思う。 でも、お祈りしろって言われたって、また教会に長年来ていても、どうもお祈りは苦手という方もいると思う。 しかし、口に出して祈らないまでも、頭のなかで、「神様、何々云々こういうふうにしてください。」と真剣に祈られたことがあると思う。 しかし、結果がその通りにはならなかった。 そういう経験はおありだろうか? そのようなことに対して、私たちクリスチャンは、どのように考えたらいいのだろうか?  聖書には祈りに触れている箇所がたくさんあり、イエスもたくさん祈っているが、イエスが祈りを具体的に教えた主の祈りは、今日の聖書箇所ルカ11章と、もうひとつはマタイ6章だけに記載されている。  どちらの箇所においても、最初の2-3項目の祈りは、個人的な祈願ではなく、神が求めておられること。主の祈りで教えられている最初の祈りは、「み名があがめられますように、み国がきますように、み心が天になるように、地でも実現しますように。」と祈る。 イエス・キリストは、わたしたちの希望とか意志について祈るより、神の意思が実現するように教えておられる。しかし、もちろん、自分の希望や意志が実現するように祈ってはいけないということでもない。 主の祈りの後半は、「今日の糧を与えてください、罪を赦してください、試練にあわないで、悪から救い出してください。」と祈るように勧めてくださっている。   今日の聖書箇所では、主の祈りだけで終っておらず、「求めれば与えられ、捜せば見つかり、ドアをノックすれば開かれる。」ということまで書いてある。 こられの言葉は、私たち人間がこうなって欲しいと思うことを神に祈って願いごとをする際、元気付けられる箇所だ。 しかし、私たち人間は、この聖書から、私たちが、サンタクロースに願いごとのリストを渡して、サンタクロースがそのリストに書かれたものを全部持ってきてくださるように、神に願い事をすれば、それらがすべてかなえられるように理解されてしまうかもしれない。神は、理想的なサンタクロースなのだろか? イエスは、あなたが望むものは、すべてそのまま与えられるということを私たちに教えているのだろうか? 本日の福音書箇所の最後の二節に書かれていたことを要約して、いっしょに考えてみたい。 魚やゆで卵を欲している子供に、父親が蛇やさそりを上げたりしないように、天の父なる神は、あなたが必要としていないものを上げるようなことはしない。 しかし、父はもっと良いものをくださる。。 聖霊をくださる。言葉を変えていうなら、天の父なる神は、私たちが欲するそのままのものは下さらないかもしれないが、もっともっと良いもの、もっともっと断然良いもの、聖霊をくださる。  皆様がたの中にも、最初に述べたように、真剣に祈ったのに、その通りにならなかったという経験をお持ちの方、必ずいるはず。 今日の質問は、そのような事態に対して、私たちはどう理解したらよいか? ということだった。  自分の願いどおりには祈りが叶えられなかったという経験をお持ちの方々の中に、それでも、その経験を通して自分は良い方向に変えられたと思われている方々が必ずいる。  ある意味、自分の思い通りに事が運ばなかったから、自分はもっと神に近づくことができたと思っている方がいる。私は、そのような方が、神により聖霊が与えられていたことに気がついておられるように祈る。   本日のメッセージをしめくくるにあたり、イエスが十字架に架かる前のゲッセマネでの祈りの言葉を読みたい。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 最初に願ったことは、できることなら十字架の死を防いで欲しいという願いだったが、次にイエスは変更している。 彼の願いを祈るのではなく、神の御心が実現されるように祈っている。 イエスは、「わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 イエスは死にて葬られたが、三日目の日曜に復活された。 そして、我々が気づいているか気づいていないかに関わらず、実は、すべての人々に聖霊の愛、神の愛が与えられている。 神のひとり子イエスの十字架の死、三日後の復活、五十日後の聖霊降臨の出来事は、ひとり子の十字架の死が事前に回避されるより、良い結果となった。  私たち、もっともっと、神の意思が実現するように祈ろう。その祈りによって、聖霊がますます我々の間に働き、もっと多くの人々の命が変えられるように。洗礼を受け、命のパンとぶどう酒をいっしょに食し、永遠の命へと導かれるように、多いに祈りたい。 そのような多くの人々の命の変化は、わたしたちの思いというより、神の思いだ。 アーメン。 The Holy Spirit, Better By Far。 Luke 11:1-13 Grace and Peace to you in the name of Jesus Christ, our Lord and Savior! Do you pray regularly? Earlier this year, I preached the first five messages according to five practices of Christian life. 1) Reading the Bible, is reading a love letter from God. 2) Pray regularly, it is the best way to communicate with God, as Jesus himself prayed regularly. 3) Come to worship every week, it is a kind of waste if you miss services. 4) Bring your friends to church and help them connect to God, it is serving. 5) Contribute your time, talent, and treasure as a response to God’s grace and gifts to you. Six months have passed; I would like to focus on prayer again. I believe each one of you pray for many different things. Of course it is good to pray for the people listed in the prayer chain in our weekly bulletin. Not only praying for others, but I also believe that each one of you has specific prayers for yourself…. I think it is natural. I understand that there are people who feel that “I am not a good prayer person.” That is OK…. Even if you feel that you are not good at praying by speaking words aloud, you probably pray in your mind, seriously asking God for such and such things to happen….

Tweet となりの芝生 ルカ10:38-42   イエスキリストの恵みと平安が集まりました会衆の上に豊かに注がれますように! アーメン 私の家はRed Hill Avenueに面している。通りとの間には、歩道があり、また緑地帯もあるが、その緑地帯は芝生が植わっているだけで、うるさいと思うことがある。 その点、南隣の家は、その緑地帯には、高さ5メールくらいの木や竹が植わっている。 車の音が緩和されるだろうし、「おとなりはいいな。」とついついうらやましく思ってしまう。 「となりの芝生は青い。」という言葉がある。英語では、”The grass is always greener on the other side of the fence.” 文字通りこの言葉を解釈して、「おとなりさんは良くて、自分の家はだめだ。」ということになってしまう。しかし、それは本当のこの言葉の解釈ではない。  本日与えられた聖書箇所、マルタとマリアの話。この話を題材に、いろいろな解釈ができる。 ただ一度読んだだけだと、ついつい、マルタ型つまりよく気がついて働きまわるのはだめで、マリア型の、じっくりイエスの話に聞き入るタイプの人間の方が良いという解釈をしてしまいがちだ。  そもそも、イエスだって、マルタの作った食事を食べたことだろうし、食事をする前には、最後の晩餐のときのように、感謝して食べたことだろう。 よく働いていたマルタには、「ありがとう。」とか「おいしかった。」という言葉が、帰りがけには、あったのではないかと思う。 しかし、ルカの伝えたマルタとマリアの話は、実に5節だけの短い部分。 イエスの意図していたことは、本当に、マルタ型ではなくマリア型の人間になりなさいということなのだろうか? もし、そのように解釈してしまうと、それは、「The Grass is always greener on the other side of the fence.」を文字通り「となりの芝生は青い」と訳してしまっているのと同じで、私は神のみ心を学びとっていないように思う。聖書に書かれた状況から推察して、マルタは一度にたくさんのお客さんに対応できる、てきぱきしたすばらしい方だ。 しかし、マルタには、どうしてもがまんできないことがあった。 それは、自分とマリアを比べていて、マルタにしてみれば、自分は本当にてきぱき働いているのに、マリアがぼけっと、イエスの話を聞いているだけ。 マリアだって、自分と同じように働きながら、話が聞けるはず。 そこには、マルタの優越感があったように思う。 ところが、マリアはイエスの近くにすわり込んで、イエスと弟子たちの仲間に入り込み、しかも、イエスと弟子たちからは、女性だからちやほやされていたような面もあったのではないかと思う。 そこには、本来、マルタの方が仕事ができる人間なのに、イエスや弟子たちからはマリアの方が上に見られているようで、劣等感を感じていたのではないだろうか?そして、マルタはイエスに文句を言う。マリアにもっと働いてくれるように言ってください。イエスは、「マルタ、マルタ。」と二度も名前を呼び、それは愛情あふれる呼びかけであり、そして、「あなたは多くのことに悩み、心を乱している。」と言われる。  マルタの願っていた通りの言動を、イエスはしてくださらなかった。少々、耳が痛くなるようなものでもあった。しかし、その言葉は、マルタがマリアと比較して思い悩んでいることを、ずばり言い当てていた。  このイエスの言葉は、悩まなくよいことまで気になってしまっていたマルタに対し、必要のないことまで悩まなくていいんだよという解放のメッセージを、イエスは与えてくださったように思う。  イエスがマルタに語ってくださった「あなたは多くのことに悩み、心を乱している。」と言われた言葉は、今、私たちも聞いている。 ついつい、他者と比較してしまい、優越感あるいは劣等感で思い悩んでしまう私たちを解き放ってくださる、イエスの愛情あふれる言葉だと思う。  先日、私の南隣の家の主人と話をしたら、「お宅はいいですね。緑地帯は芝生だけで。うちの木は全部切ってもらおうと思っているんです。」と話してくれた。私は先方の家の植木をうらやましいと思っていたのに、先方は私の家の芝生がうらやましいと思っていた。 実にとなりの芝生はよく見えてしまうということなのだろう。  ついつい、だれかと比べて、うらやましくなってしまい、自分に劣等感を覚えたり、逆に優越感を覚えたり、結果、どうでもよいことにまどわされてしまう私たち。 主イエスが、そのような私たちを憐れんでくださって、私たちに語ってくださっていることを覚えたい。 イエスは、私たちの必要のない悩みから解き放ってくださる。 アーメン。  “Neighbor’s Lawn” – Worried and Distracted by Many Things – July 21, 2013 Luke 10: 38-42 Pastor Hitoshi Adachi Grace and Peace to you in the name of our Lord, Jesus Christ! My house is directly facing Red Hill Avenue. Although we are closer to the north end in Tustin and the traffic is not very busy, sometimes the traffic is noisy. There is a sidewalk between our house and the street and then there is a narrow green belt. On that belt, we only have a lawn. Our south side neighbor, also facing to Red Hill, has trees on that green belt. The trees are 10 to 15 feet high and I am sure that the trees mitigate the noise from the street to the house. Therefore, we often envy our neighbor. There is a saying “The grass is always greener on the other side of the fence.” If you literally interpret this sentence it is, “Our neighbor’s grass is better than ours.” But that is not the correct understanding of the saying. The text today may be understood many ways…if you read this text only once and literally, you might have an impression that Martha works very hard but is distracted by unnecessary details and Mary listens to Jesus and realizes what is truly important. However, Luke’s…

Tweet 気づかないうちに善いサマリア人に Luke 10: 25-37     集まった会衆の上に、主の恵みと平安が豊かに与えられますように。  本日の聖書箇所、イエスの語った良きサマリア人の話。 盗賊に半殺しにされてしまったユダヤ人に対して、そのそばを通る3人の人々の対応。 一人は祭司、よけて通り過ぎる。 次はレビ人、やはり、祭司と同じようによけて通る。 最後は、サマリア人。 このサマリア人は、半殺しにされてしまったユダヤ人にしてみれば、大嫌いな人。 また、サマリア人は、このユダヤ人から自分は嫌われていることは十分わかっていた。 しかし、このサマリア人は、このユダヤ人を憐れに思い、介抱する。 先週、聖書は鏡にたとえられ、聖書の中に描かれた状況の中に自分自身を見出すことになる話をした。 さて、今週のイエスの譬え話で、みなさん、お一人お一人、どこにおられるだろう? 祭司やレビ人のような存在だろうか? 或いは、サマリア人だろうか? 私は神学教育を受けていたとき、ある授業でこの聖書の箇所がとりあげられた。 そして、6人一組になって、この場面の劇をするという課題が与えられた。6人というのは、祭司役、レビ人役、サマリア人役、以外に、この場面では、エルサレムからエリコという町に向かって旅をしている途中に半殺しにされてしまうユダヤ人役、半殺しにする強盗役、そして、宿屋の主人が必要になる。 はじめてグループで集まった時、「均、何の役をやるか?」と始まった。 私は消去法で考えて、祭司役、レビ人役はやりたくなかったし、かといって、サマリア人も不相応、強盗役や宿屋役も性にあわない。 結局、旅をしていたユダヤ人をかって出た。 劇を進めるなかで、半殺しにされる場面では悲鳴を上げ、やられっぱなしになり、倒れ込み、すべてを盗まれてしまう場面を演じた。 さらに、祭司役やレビ人が通りすぎて行く時には、譬え話には出てこないが、「彼らは忙しい人々なのだから、彼らを恨まず、赦そう。」という独り言をつぶやいた覚えがある。 その後、善きサマリア人役に助けられ、担がれ、宿屋に連れていかれる。 宿屋では、サマリア人役が宿屋に何泊もできるような金額を宿の主人に託してくれた。 そのサマリア人の恵みの大きさを実感した。 善きサマリア人の話を初めて聞いた時は、私たちは、3人の中では祭司かレビ人のように言われているのかと思う方も多いのではないだろうか。 しかし、神は、私たちを祭司やレビ人のようだといって非難していない。  実は、現実社会のなかで、強盗に半殺しにまでされないまでも、社会を生き抜いていく中で、心を傷つけあい、ぼろぼろになって、生きている私たちの姿があるのではないだろうか。自分が気にしていることに関して、ひどい事を言われて傷つけられる場合もあるし、また気がつかないうちにある方を傷つけていて、それにも拘わらず、大変な恵みをくださる。 生きるのに必要な、家、着物、食べ物という物理的なものだけではなく、もっとも大切な心の糧を与えてくださる方がいる。 このサマリア人の中に、神なるイエス・キリストの姿を見る思いがある。  譬え話の後は、イエスと律法学者の会話になるが、イエスは律法学者に向かって、このサマリア人のようになりなさいといわれる。 それは、イエスが普段からサマリア人のようなことをなさっておられたから、この律法学者にも、「そのような人であるように。」と指示できるのだと思う。  私たち、一人一人は、よく心がぼろぼろになってしまうが、イエスの恵みにより、生き返る。 そして、生き返った私たちは、今度は逆に、キリストの共同体の一部となり、全体でキリストの体を形成し、サマリア人のような働きをしている。 心を傷つけあい、半分死んでしまったような人間が、キリストの愛に生かされ、こんどは逆にキリストの体の一部となり、世に遣えていくことは実際に起こっている。 私たちの現実では、それはどういうことなのだろうか? アメリカ福音ルーテル教会全体そしては、善きサマリア人として活動をしている。 ELCAの教会の中でも、Good Samaritan Lutheran Churchという教会はいくつかある。しかし、名前の問題ではなく、ELCAは世界の飢餓と貧困のために真剣に闘ってきており、善きサマリア人となって活動している。 その活動の一環として、毎月一回だが、通常献金とは別枠で、献金をお願いしている。 そして、全米の一万の教会のなかで、トップクラスの金額をLCRから貢献している。 つまり、復活ルーテル教会の活動に参加していることで、復活ルーテル教会がELCAの一部として世界飢餓、貧困撲滅に向け働いて、善きサマリア人としての活動をしていることも覚えておこう。アーメン。 “Being a Good Samaritan without Realizing It” Luke 10: 26-37 May the Lord make the words that I speak acceptable to you and shower us with tremendous grace here in this sanctuary, we pray, in the name of our risen Lord our savior, Jesus Christ! Today’s text is the parable of the Good Samaritan. There was a Jew who was traveling from Jerusalem to Jericho, he was beaten, robbed of all his possessions and he was left half dead on a road. There were three people who encountered the Jew one by one. The first two, a Jewish priest and a Levite avoided the half dead man. The third person, a Samaritan, tended the man’s wounds, took him to an inn, looked after him, paid for the man’s continued care, and said he would return to check on the injured man. Last week, I talked about two metaphors of the Bible. One of them was a mirror, which means that you see yourself in a situation that was described in the Bible. I would like to ask each one of you to think about the following question: if you see this text as a mirror, where do you see yourself in the scene of this story? Are you one of the three, the priest, the Levite, or the Samaritan? Or are you someone else? When I was a seminary student, one of projects we did was a play…

Tweet 喜び溢れる帰還  ルカ10: 1-11, 16-20 主イエス・キリストの恵みと平安が集まった会衆の上に豊かにありますように! 神学校で学んでいた時、聖書について二つの譬えを学んだ。 ひとつは聖書を窓としてみること。 もうひとつは聖書を鏡としてみること。 何人かの人にはもうお話したことがあるが、この譬えはとても意味がある譬なので、今日もこの譬を簡単に説明したい。窓を見る、たいていその外で何が起こっているかを見ている。 しかし、その窓が、突如として、自分自身を写している鏡になることがある。それと同じように、聖書を読んでいると、例えば新約聖書なら2000年前の様子を見ているような気分になる。 或いは、旧約聖書のサムエル記であれば、3000年前の様子とみている。  しかし、その聖書が突如として鏡のようになってくることがある。 それは、その聖書の中に描かれた様子のなかに、実は、自分も描かれているように思えてくる。 つまり、何千年も前に起こったことが、自分の人生の現実になってくるようなところがある。  本日与えられた福音書の箇所は、イエスが72人を派遣するところ。ここで、みなさんに質問をしたい。 先程ルカ福音書の内容を聞かれていたとき、聖書を窓として聞かれていたでしょうか、あるいは、鏡として聞かれていたでしょうか。 もちろん、正解はなく、みなさんのなかには、両方と思うかたもいると思う。  本日のメッセージでは、まず、窓として、2000年前の様子を振り返ってみたい。 とくに、イエスが弟子たちに教えた教訓をもとに、弟子たちがさまざまな家に入って話した言葉に集中したい。  弟子たちが知らない人の家に入って、最初にしゃべった言葉は、「シャローム」という言葉をだ。 この言葉、ユダヤの人々の間ではとても一般的な挨拶だったと思う。 そして、彼等がそれなりの歓待を受けたところで、さらに「神の王国が近づいた。」と宣言した。この言葉には、多いに希望があった。  なぜなら、その時のイスラエル情勢は不安定で、人々にストレスもたまっていた。 しかし、神がイスラエルの王となって支配するという話に、勇気付けられた。そして派遣は大成功で72人は喜びに溢れてイエスの所に戻ってきた。    この72人が派遣される前に、もし歓待されない場合は、「足についた埃さえも払い落として、あなたがたに返す。」と言ってくるように言われたが、敢えて、このような言葉は語らないで済んだ。というのは、72人は帰ってきたとき、「イエスのお名前を使うと悪霊さえも私たちに屈服した。」とあるから。  ここまで、今日の聖書を「窓」として、話してきたが、次に聖書を 「鏡」として、話していきたい。 2000年前に起こったことが、21世紀の時代背景の中でも、現実となって行く。  例えて言うと、私たちは72人の一人となって、さまざまな困難に出会う時代であっても、この礼拝堂から送り出され、イエスの王国を言い広めるように導かれている。 真理を宣べ伝えるならば、否定されない。信仰者の一人として、いままで知らなかったところへ派遣される。派遣されるにあたり一人であっても、すくなくとももう一人、イエス・キリストという方、聖霊なるお方が横にいることを覚えて。 最初に語る言葉は、聖霊に導かれて挨拶の言葉を語る。それは「ニーハオ」かもしれないし、「おはようございます。」かもしれない。 そして、「神の国がここある。」と話す。 なぜなら、主がわたしたちの間に、そして、私たちの中に、おられるから。 たとえ、いろいろな国や地域が存在し、異なる文化がまじりあって生きていても、この全宇宙、そして、この地球もも勿論、主の支配の中にある。  そして、喜びに溢れて、また礼拝堂に戻ってきて、「私たち全員、私たちが知らなかった人々から歓待をうけ、人々は、神こそすべての宇宙を支配されている王であることに気づき、主を受け入れた。」と語る。  本日の聖書の箇所、ただ、「窓」として過去を見るのではなく、鏡として読み、その中で私たちもイエスの信仰を分かちあっている自分たちを新たに発見することになるように祈る。  “JOYFUL RETURN” July 7, 2013 at LCR Luke 10: 1-11, 16-20 Hitoshi Adachi Grace and Peace to you in the name of our Lord and our Savior, Jesus Christ! While I was a seminary student, I learned two metaphors about the Bible. Number One: “the Bible is a window”; Number Two: “the Bible is a mirror.” Let me briefly explain what they are. If you look at window we usually look at what’s out there…however, that window may become a mirror and you may see yourself. Likewise, if you are reading the Bible, you may look at what happened 2000 years when you read New Testament or depending on which book you read, you might look at what occurred 3000 years ago if you are reading “Samuel.” In this way, you read the Bible as window. However, the Bible may become a mirror…which means, you see yourself in a situation that is described in the Bible. In other words, what happened two or three thousand years ago may become a reality in your own life. Today’s Gospel that was just read, is a famous story that Jesus sent seventy two others. I would like to ask each one of you to think about the following question: when you were listening to this story, was the Bible “a window” or “a mirror”? Of course there is no right or wrong answer…it could be both. Here in today’s message…

Tweet 神の国はどこにあるの?  ルカ 9:52-61 主イエス・キリストの恵みと平安が集まりました会衆の上に豊かに注がれますように! クリスチャンなので、私はほかの宗教のお葬式には出ません。という方おられると思う。皆さんはどうだろうか。 どなたかそのような方をご存知だろうか?  しかし、私の叔母は、本当に熱心なカトリック教徒で、結婚相手の叔父は、熱心な仏教徒だった。宗教の違いにもかかわらず、お互い、尊敬し合い、とてもうまくいっていた夫婦だった。 叔父が先に亡くなったが、叔母はもちろん叔父の信仰していた仏教のしきたりに従ったお葬式をし、叔母が亡くなったときは、叔父はもういなかったが、子供達がカトリック教会でのお葬式をした。  与えられている福音書、イエスの弟子になるなら、あたかも親の葬式もせず、また、家族への挨拶もせずに、イエスに従ってこなければならないようにとられてしまうことがある。  この聖書箇所は、多くの日本人クリスチャンに、日本神道や仏教で行われる両親の葬式には出てはいけないということを言っているのか? そんなことは無いと思う。 与えられた福音書の中に描かれたストーリの背景を理解する必要がある。 イエスと弟子たちが、エルサレムへの道を急いでいる最中だった。 聖書には、イエスの十字架の死と復活まで何日あったのか明確には書かれていないが、おそらく数週間しかなかったのだろう。     イエスは、その短い期間にひとりでも、イエスの弟子を増やし、神の国の福音を語る弟子が一人でも増えて、十字架の死と復活を証する集団になって欲しいと願っていたことと思う。時間はあまりなかった。だが緊急性があった。 神はキリストの弟子の家族にはやさしくないという事ではなく、弟子たちが真にキリストの弟子になるのには、厳しいものがあるということを教えている。決してイエスは、家族としてなされなければならないことが重要ではないということを言っているのではない。      今日の箇所のポイントは「神の国」という言葉に表されていて、家族の葬式にあるわけではない。ルカ福音書だけで、「神の国」という言葉は35回も使われているが、葬という文字はわずか数回出てくるだけ。イエスの弟子になるということは、家族に挨拶もせず両親の葬式もせずにイエスに従うということがポイントではなく、事実として、イエスが人々を神の国に招いていること、そして弟子になろうとする本人が、イエスの神の国への招きを真剣に受け取り、その神の国を述べ伝えることが最大のポイント。しかし、神の国への招きを受け取り、その神の国を述べ伝えるという事は、どういうことなのだろうか? 「神の国」とは、たとえばエルサレムのような、どこかの場所を指しているのだろうか? あるいは、なにかの状態を言っているのだろうか?  「神の国」という言葉、もう少し掘り下げて、考えてみたい。日本語聖書では、「神の国」と訳されているが、英語聖書は”Kingdom of God”と訳されている。”Country of God” ではない。 ギリシャ語の意味からしても、”Kingdom of God”が正しい訳といえる。それで、「神の王国」という言葉で考えて欲しい。国と王国の違いは、国といういうと、政治形態にかかわらず、広い意味をもってきて、お国柄なんていう言葉の通り、文化、領土、言語なども意味してくる。 しかし、王国という言葉を使うと、王が支配する国となる。 そして、「神の王国」と言うならば、神が王となって支配する国という意味になってくる。それは、領土や文化の範囲を意味するのではなく、神が支配するという状況を指している。  2000年前イスラエルの人々は、ユダヤ教のリーダが引き続きイスラエルを支配するのか、あるいはローマ帝国がイスラエルを支配することになるのかわからないでいた。 そのような中で、イエスは人々を神が王となって支配する国、「神の王国」に招いた。「神が支配する国」という言葉には、人々が従っていける希望があった。さて、みなさん、何を思われているだろうか? みなさんの中には、「神の王国」は天にあって、召されたときに、行くところという思っておられるだろうか。 先週、佳代子さんのメモリアルサービスをした。佳代子さんは、「神の王国」に行かれた。 それはそれで事実だ。  今一度、言うが、「神の国」というのは、「神の王国」。神が支配している状態をいっている。ある時点から神の王国でそれまでは神の王国ではないというものでもない。  全宇宙、この地球上のすべての場所を含めて、実は私たちは、神が支配されている状態の中で生きている。 したがって、神の王国への招待を受け入れたからといって、必ずどこどこに出かけるというものでもなければ、他の宗教を嫌うというものでもなく、神が支配していることを認めるということ。 神はもっとも優先されるべきもので、わたしたちは自分の命が神の支配にあることを受け止め、喜びあふれて神の王国を述べ伝える。   今週、アメリカ合衆国は独立記念日を迎え、好き嫌いにかかわらず、勇気を象徴する赤と真理を象徴する白と正義を象徴する青のアメリカ国旗を目撃することになる。このアメリカという国を象徴する、赤と白と青の国旗は、18世紀後半に生きた、クウェーカ教徒で、フィラデルフィアに住んでいた、ベッティ ロスという女性が刺繍して作ったのがはじめとされる。クウェーカ教徒たちは、ピューリタンとして最初にアメリカにやってきて、彼等のもつ才能と強い信仰により、アメリカ合衆国設立に多大な影響を及ぼしている。  そのような多くのクウェーカ教徒たちの協力で作ったアメリカ国旗であるので、その赤には神を信じることにより与えられる勇気、白は神ご自身が真実、そして、青には神の信仰による正義が、織り込まれているように思う。今年の独立記念日、イギリス支配下から解放されたアメリカの政治的な独立を記念するばかりではなく、国旗の中にさえも含まれている神の王国、神の支配される状態に、ぜひ、思いをめぐらせよう。 そして、この一週間が、みなさまがまた新たに、すでに神の支配の中にいることを覚え、他の方々にも「神の王国」を宣べ伝える機会となりますように。 “Where is the Kingdom of God?” Luke 9:52-61 May the Lord shower us with Grace and Peace in the name of our savior Jesus Christ! There are Christians who do not attend funerals of other faith traditions. Are you one of them? Or do you know anyone who behaves this way? One of my aunts was a faithful Catholic Christian and her husband was a faithful Buddhist. Despite different faiths, they respected each other’s beliefs and got along very well. When the husband died first, she had a funeral for him at a Buddhist temple, and when the aunt died, her children held the funeral at a Catholic congregation. The Gospel today, seems to say that when a person becomes a Christian disciple, he or she needs to follow Jesus without doing his/her parent’s funeral and even without saying farewell to the family. Does this text suggest for many Japanese Christians should not attend even their parents’ funerals with other faith traditions? I do not think so. I believe we need to understand the background of the story. Jesus and his disciples are on the journey to Jerusalem. Although it is not written down, I believe, the number of days until Jesus’ death and resurrection, in Jerusalem, was only several weeks away. In that short period of time, Jesus wanted more disciples to follow Him and proclaim the “Kingdom of God”…

Tweet “いったい誰に負債が無いの” ルカ 7:36-8:3 主イエスの恵みと福音が豊かにありますように! 今から私がする質問に手を挙げていただく必要はない。負債が無いという方おられるだろうか? 借金が無いという方いらっしゃると思う。  少々言葉を変えて質問したい。十戒、さらには、イエスが語ったもっとも重要な掟、「神を愛し隣人を愛しなさい」と言われたことと照らし合わせ、考えてみて欲しい。 これらの戒め、掟を守るかどうかが、罪をおかすかどうか。それで質問は、私たちの中で、罪を犯さない方がいるだろうか?  二つの質問をしたが、「だれが負債をおっていないか?」と「だれが罪を犯さないか?」という質問は同じ質問。  本日与えられた福音書の内容を見ていきたい。ファリサイ人の一人、シモンがイエスを食事に招いた。ここでファリサイとは、ヘブル語の「分離する」とか「区別する」という意味の言葉が語源。 それで、ファリサイ人たちは、自分たちは罪人とは異なるとして区別していた人々といえる。  シモンがイエスを食事に招いた理由は、イエスは神が送った預言者かどうかを区別するためだった。 食事の時がきたら、なぜか罪深い女が現れた。彼女はイエスの後ろから、イエスの足に接吻し、泣きながら涙でイエスの足をぬらし、そして、髪の毛で拭い、そして香油を塗った。  シモンは罪深い女がするままにするイエスをみて、とても、神が送った預言者などではないと判断した。  するとイエスはたとえ話をシモンに話しはじめる。 「一人の金貸しから二人の人が金を借りていた。一人は500万円借りていた。 もう一人は50万円借りていた。 しかし、どちらも借金を返すことができないため、金貸しはどちらも借金を帳消しにする。」 ここで金貸しとは、父なる神で、二人の借金をした人は、一人は罪深い女であり、もう一人は、シモンをあらわしている。 ここで、罪という言葉と負債という言葉に触れてみたい。 マタイ6章でイエスは主の祈りを私たちに教えてくださっているが、そのなかで、「私たちに罪をおかす者を私たちが赦すように、私たちの罪をも赦してください。」と普段私たちは祈っている。ここで罪という言葉になっている言葉は、ギリシャ語では、オフェイレマダという言葉が使われていて、それは、そもそも、負債のこと。   今週の福音書箇所に出ているたとえ話では、イエスは、財務上の負債を問題にしているのではなく、罪を問題にしている。 罪とは、十戒やイエスのもっとも大切な掟に表された指針から、外れたことを考えたり、行ったりしてしまうわれわれの現実を問題にしている。  イエスの足元に来た女は、彼女の負債、罪に対してどうすることもできなかった。彼女はその負債をとても返すことができなかった。神は、彼女を拒否することなく、受け入れ、愛され、赦され、そして生きる希望を与えてくださる。この話は、父なる神と子なるイエスキリストからの、赦しのストーリであり、これは現実の話。 神は、ご自分の創造されたこの世の人類が、自分たちではどうすることもできない罪を告白し、赦され、神との関係を回復し、強いては、兄弟姉妹との関係も回復することを望んでいる。ファリサイ人のように、自分たちは罪人ではないと区別するのではなく、自分たちも同じ罪人であることに気づいて同じ神の子供達、兄弟姉妹の関係を回復を願っている。 私たちは、神に対して大変な負債を負っている。 しかし、そのひとり子、イエス・キリストの十字架の死により、私たちの負債は免除され、私たちは買い戻されている。 最高のニュースは、われわれの負債は、今日また新たに、赦されたこと。  そして、イエスキリストが復活して、私たちの間に生きてくださることにより、私たちも希望と喜びを持って生きることができる。   今日は父の日。 日本語では、雷親父という言葉がある。 雷は恐怖を思い起こさせる。つまり、雷親父とは、「恐怖の父親。」 しかし、「かみなり」は同じ発音で、「神なり」とも書ける。 つまり「かみ(神)なりおやじ」という言葉の意味にとれないわけではない。   本日のメッセージの中心は、我々の罪を赦される父なる神が中心。どうかこの世の父親たちに告げたい。恐怖の男でいたいか、赦す男でいたいか。鍵となる質問は、「いったいだに負債が無いの?」「いったい誰が罪を犯さないの?」 みなさん、幸せな良き父の日を過ごされるように。 “Who Does Not Have Any Debt?” Luke 7:36-8:3 at LCR Grace and Peace to you in the name of Jesus Christ! You do not need to raise your hands to the questions I am going to ask now… Who, among us, does not have debt? I believe there are people who do not have any financial debt. Let me ask the question this way… Reflect on the Ten Commandments. Or just think about the two most important commands Jesus gave us, “Love God and Love Your Neighbors” Whether or not you keep these commands clarifies whether or not you sin. Who, among us, does not commit sin? Two questions: “Who does not have debt?” and “Who does not sin?” these are the same question. Let us look at the Gospel Text. Simon, a Pharisee invited Jesus to dinner. The word “Pharisee” comes from the word in Hebrew “perusium” which means to separate. So, the Pharisees, separated themselves from sinners. The reason why Simon invited Jesus was to see if Jesus is a real prophet that God had sent into this world.   When dinner time came, a sinful women appeared. She knelt behind Jesus at his feet, weeping. Her tears fell on his feet, and she wiped them off with her hair. Then she kept kissing his feet and putting perfume on them. When Simon saw what was happening and who the…

Tweet 「医療の進歩にも神への感謝を」 ルカ7:11-17 牧師 安達均 江戸時代の平均寿命は何歳位だったかご存知だろうか??? 20歳代だった。25歳くらいとも言われている。 5歳までに亡くなる乳幼児死亡率が高く、40%とか50%とも言われており、その結果、現代に比べ平均寿命は極端に短かった。  江戸時代の終わりから明治時代にかけて、1850年から1900年の間、いわゆる西洋医療の導入に伴い、乳幼児死亡率は激減していった。 40%位だったものが10%程度にまでなってきた。 従って1880年代には、平均寿命は30歳代を超え、1990年には40代を超えるということが起こっていった。 つまり明治時代において、大変な医療の進歩が起こりはじめた。  みなさんの中に、5歳未満で大病したことのある方、或いは大病になるところだったという方が沢山いると思う。 といっても良い治療を受けるなり、予防接種などで、大病にならないで、済んだ方が殆どだと思う。私の場合は、祖父が結核で1960年に亡くなって、私は2歳で結核になっていたようだが、良い医療のおかげで、大事にはいたらなかった。  さて今日の聖書箇所、イエスが弟子たちと多くの群集とともに、ナインという町に入って行こうとした。 すると、ある未亡人が一人息子を失い、そのお棺が担ぎ出されるところで、大勢の人がそこに付き添っていた。  聖書によれば、その未亡人は信仰深い人だったとは書いていないが、イエスはその未亡人を見て、「憐れに思った、」と書いてある。 この憐れという言葉にちょっと注目してみたいと思う。 「憐れに思う」ってどういうことだろう?  日本語で簡単に言うなら、「かわいそうに思う。」ということかもしれない。 しかし、かわいそうに思うと言ってしまうと、「頭の中だけでそう思う。」という感覚に近いのではないだろうか? 憐れむという言葉は、ギリシャ語では、「スプランクニゾマイ」という言葉が使われている。 スプランクというのは、内臓のこと。 ニゾマイという言葉がついて動詞になり、不憫に思って内臓がちくちく痛んでくるということ。 イエスはその一人息子を亡くした未亡人を見て、憐れんだということは、内臓がちくちく痛むくらいかわいそうに思うという状況になり、イエスは心の底から、その未亡人のことをなんとかしてあげたいという気持ちになったということ。  そこで、そのまますれ違わずに、イエスはお棺に触って、「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」と言われ、その通り、若者は起き上がって、さらに話し始めた。  イエスが起こした奇跡のひとつが今日の聖書箇所に記述されている。 イエスはこのような奇跡をほかの場面でも起こしているが、実は、弟子たちも、後に、イエスと同じようなことを出来るようになる。 イエスの死と復活後、聖霊降臨後に、弟子たちが、起こした奇跡は、聖書に記述されている。   聖書に書かれたこのような話は、現代の私たちに何を語っているのだろうか? 私は、日本において、赤ちゃんが生まれても、5歳までの間に40%も亡くなってしまう状況は、イエスは不憫に思われていたのではないかと思う。そして、イエス・キリストの体を成すクリスチャンが、日本にも奇跡を持たらしたように思う。 明治時代に、多くの人々が医者になり、また、クリスチャンになっていった。 10年前に大正生まれの医師と話していたら、彼は明治時代の医者のことをよく知っており、彼が若かったころ、明治時代に医者になった人々を知る限り、半分くらいはクリスチャンでもあったと言っていた。  そのような医者たちの努力、祈り、神の憐れみによって、乳幼児死亡率は40%から10%にまで激減した。 さらに乳幼児死亡率は減って、今では0.5%にまで下がってきている。 このようなことも私は奇跡なのだと思う。  冒頭で述べたように、私は2歳で結核になっているが、今では、なにもなかったように、元気に生活して、神の御言葉をこのように伝えることができる。 このようなことができる裏には、神が私の母を憐れんで、58歳だった父を亡くすだけではなく、この幼子まで命を落とすのは余りにもかわいそうだと、憐れんでくださり、結核から解放してくださったように思う。  一人一人、神の祝福をいただき、私たちは生きることができ、そして、今日もこのように礼拝に参加している。 すべての神の配慮、祝福を認識できるかどうかにかかわらず、神は私たちを憐れんでくださっている。  私たちの存在があるのは、神の憐れみが私たち一人一人に働いているからであることを覚えよう。 私たちに、精神的にも肉体にもさまざまな困難や痛みがあるとき、イエス・キリストも実はその困難や痛みを共有してくださり、解放のため、もっとも良き道へ導いてくださっている。 その困難や痛みからの解放のため、キリストの体である多くのクリスチャンがかかわってきた、生物学や医学、さらに医療の進歩という神からの恵みにも感謝を捧げ、神を賛美しよう。  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace