Archive for the ‘牧師説教’ Category

Tweet 「どうして聖霊の働きだってわかるの?」ヨハネ16章12-15節 父なる神、子なるイエスキリスト、そして聖霊による恵みと平安が集まりました皆様の上に、そしてすべての公同の教会に連なる人々の上に顕れますように! 「聖霊が働いてそのようなことが起こりました。」とだれかが言われたのを聞いたことがあるだろうか? 聞いたばかりではなく、何かが起こって「その時、聖霊が働いた。」と、ご自身で語ったことがあるかもしれない。 しかし、いったいどうして、何かが起こったことが聖霊の働きだと言えるのだろうか? 例えば、宝くじにあたったとして、それが聖霊の働きだと言えるのか? 或いは、交通事故がおきても助かったら、それが聖霊の働きだと言えるのだろうか? 先週はワシントン州で橋が崩落する事故が起こったが、亡くなった方はいなかった、聖霊の働きと言えると思うが、仮にどなたかが亡くなったら、もう聖霊の働きとは言わないのか? 人々が聖霊の働きだというかどうかは、ケースバイケースだと思う。  今日は三位一体主日であり、神学的な観点から、その聖霊の働きが、神とキリストの思いと一致しているような場合は、それは聖霊の働きだと言えるのかもしれない。 しかし、三位一体論から、そのような結論を述べたところで、難しい話になってしまいそうだ。 何年も前の話だが、40年以上、牧師をしてきた方が、それほどの経験のある方でも、三位一体を説明するのはとても難しいと言われたのを聞いたことがあり、今日のメッセージでは敢えて、三位一体という言葉を使わないようにしたい。  願わくは、今日与えられた福音書箇所、ヨハネ福音書から、「聖霊の働き」と言える場合はどういう場合なのか、導き出せればと思う。  ヨハネ福音書といえば、14章から16章は、イエスの最後の講話と呼ばれる。 翌日には十字架に架かるイエスが、使徒たちに、いろいろな話をしたところ。 この三章だけで、イエスは、将来の聖霊降臨の約束を4回語っている。  その4回の約束のうち、3回は、イエスは聖霊という言葉ではなく、真理の霊という言葉を使っている。 今日与えられた16章も聖霊が弟子たちに来ることを約束していると思う。 しかし、ここでも、イエスは聖霊という言葉ではなく、「真理の霊が弟子たちにことごとく、真理を悟らせる。」という言い方をしている。  ここで、真理の霊という言葉のなかの「真理」という言葉について掘り下げたい。日本語では真理は文字通り、「真」という文字と理論の「理」という文字からなっている。 ギリシャ語では、真理は「アレッセイア」という言葉が使われるが、そのもともとの意味は、「隠すところがない。」つまり「本物」とか「出現、顕れる」という意味を持っている。 また、ヘブル語なら、「アメト」という言葉でアルファベット表記をするなら「amt」、それはもともと「amen: アーメン」と同じで、「確かに」とか「完全に信頼できる」という意味を持っている。 そこで、真理の霊とイエス・キリストが述べているのは、「信頼できる確かに顕れる霊」という意味合いを含んでくる。 さて、イエス・キリストは、その真理の霊がどのように働くと言っているのだろうか? 12節から15節の中の、とくに13節から、「この全面的に信頼できる真理の霊が現れて、その霊の働きは、私たちに、真理を悟らせる」ということ。 二つ目の「真理」という言葉は、イエス・キリストそのものであるともいえる。 ヨハネの14章前半では、イエスご自身が、「私は道であり、真理であり、命である。」と語っておられた。 真に顕れる、100パーセント信頼できる霊が、私たちを真理そのものであるイエス・キリストに近づける、あるいは結びつける働きをするということ。 さて、本日の質問である。聖霊の働きかどうかを知りたい場合は、「その働きが、だれかをイエスに近づくような働きをしているかどうか」という質問をしてみるのが良いと思う。 宝くじがあたった場合は、それが聖霊の働きと言えるかどうか?という話をしたが、もっと大切な質問は、その宝くじがあたったことが、その方をよりイエスに近づけるように働いたかどうかをチェックする必要がありそうだ。  或いは、例え大きな事故があっても、命が助かった場合、聖霊が働いたいえることはあると思う。 しかし、たとえ些細な事故で、だれかが亡くなった場合でも、聖霊が働いていたということはあると思う。 これは1947年に長崎県の時津町というところで本当に起きた事だが、ほとんど満員の小さなバスが、急な上り坂の途中でエンジンが止まってしまった。 運転手はブレーキをかけるが、運悪くブレーキも故障。 バスは後方に動き出してしまった。 車掌の鬼塚道男さんはバスを降りて、石を置くが、その石をバスは乗り越えてしまった。  バスの後には、30フィート以上のがけが控えていた。 鬼塚さんは、バスの下に飛び込み、自らが車止めになる。彼のバスに乗っていた人々を助けようとする情熱的で私心の無い行為が、バスを止めた。 バスに乗っていた30人あまりの乗客は全員無事。 鬼塚さんはその後、病院に運ばれたが亡くなった。 21歳だった。  私は、鬼塚さんの信仰心があったのかどうか知らないが、確かな聖霊が鬼塚さんに働いていたと思う。たとえ鬼塚さんがこの世の命を亡くすことになろうが、鬼塚青年の死は、ほかの何人もの死を防ぐことになった。明日はメモリアルデーで亡くなった方々を覚える週末。 家族や知人の中に、似たような死を遂げた方を覚える方もおられるのかと思う。 たとえ、似たような例が無いと思われた方がいたとしても、少なくとも、一人、2000年前のお方を思い出されますように。  聖霊、本当に顕れて完全に信頼できる霊はいつもあなたをキリストに近づけ、さらに、キリストに結びつけるように働いている。 その霊に気がつくとき、復活の主にある慰め、癒し、希望、喜びを覚え、そして、あなたの人生にどのような事態が発生したとしても、神の御名を賛美されますように。   アーメン “How Do You Know When It’s the Holy Spirit” Jon 16: 12-15 May the Grace and Peace of our Father, Son, and the Holy Spirit be revealed to you and all members of Pacifica Synod! Have you ever heard someone say, “Due to the work of the Holy Spirit, this thing happened.” Not only have you heard it but you, also, might have said it. However, how do you know that was the Holy Spirit? For example, if you win the lottery, would you say it’s the work of the Holy Spirit? If there is an accident and nobody’s injured, would you say it’s the work of the Holy Spirit and if someone died, would not mention the Holy Spirit? I think whether people refer to the Holy Spirit is on a case by case basis. This coming Sunday, we celebrate the Holy Trinity. However, today I will try not to use the words Holy Trinity for the rest of my message, because many years ago, a pastor who was an experienced parish pastor, for more than 40 years, said that even after all the time he spent preaching, it was difficult to know the meaning of the Holy Trinity. So I hope that we can answer the question, “How Do You Know When It’s the Holy Spirit?” by reading through the Gospel given today: The Gospel of John. The chapters 14 through 16 of John’s…

Tweet もっと大きな業 ヨハネ 14: 8-17 集まりました会衆の上に父なる神と子なるキリストそして聖霊による恵みと平安が豊かに注がれますように! 聖霊降臨祭をもって復活節が終わる。 50日間にわたる、復活節、皆様方、それぞれに有意義に過ごされたことを信じる。 あっという間に50日過ぎて、「あら、私何もしてなかったわ」と、思われている方もいるかもしれない。 例えそうであったとしても、それは神の名において意義のある50日間だったと思う。  3月31日の主の復活日からはじまって、毎週日曜日、一度も休まずに来られた方、何回か休んでしまった方、あるいは、イースターと今日だけたまたま来たという方もいるかもしれない。 どのような50日間を過ごされたとしても、今日、この場に来られたのは、或いは、今ウェブに掲載されたこの原稿を読んでおられるのは、本当に意味のある事と信じる。   さて、三者択一の問題を出したい。 主の復活からペンテコステまでの50日間、イエス・キリストの使徒たちは、いったい何をしていたのだろうか? 1)すぐに伝道活動を開始した。2)すぐに社会奉仕活動を開始した。 3)何もしていなかった。何番だと思われるだろうか? 答えは、3)が一番近いと思う。  本日与えられた福音書は、イエスが十字架に架かる前日の晩に使徒たちに話していたこと。色々な話の中で、イエスはこんなことを語っておられた。:「わたしを信じる者は、私の行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。 わたしが父のもとへ行くからである。」 さて、イエスの使徒たちは、イエスの十字架の死と復活が起こった後、すぐに、イエスの行っていた業を行っていたのだろうか? たとえ彼等はイエスから直接学んできてはいたが、イエスの死と復活が起こった後、彼等は何もできなかった。 この復活節の説教で何度か触れてきたが、使徒たちは、最初はイエスの復活なんて全然信じられず、ばかげた話とまで言っていた。復活したイエスに会ったところで、使徒たちは、次に何をして良いのかわからず、ぶらぶらしていた。何人かは、昔とった杵柄(きねづか)で、漁師に戻ろうとも思った。 しかし、何度か復活したイエスに会うことで、だんだんと変えられていったのは事実。 変えられていったとは言え、イエスの語られていた「もっと大きな業」を行うようになるには、ペンテコステまで待たなければならなかった。  そして、ペンテコステ当日、いったい何が起こったのだろうか? 今日、読まれた使徒言行録2章には、まさに、ペンテコステ当日の様子が描かれていた。「炎のような舌がわかれわかれに現れ、一人ひとりの上にどどまった。 そして一同は聖霊に満たされて、さまざまな言語を話す人々が、互いにわかりあえるということが起こった。」 ペンテコステに起こった出来事は子供や大人さえも怖がらせてしまうような話ですらある。 しかしもっとも重要なことは、このペンテコステ当日に起こったことをきっかけとして、全能なる神から、イエスの使徒たちに、炎のような聖霊が宿ったこと。聖霊が確かに一人一人に下り、逃げ腰だった使徒たちが、イエスの述べていた、「もっと大きな業」つまりイエスの使命を、実行できるようになったこと。使徒たちは、エルサレムからはじまって、病の人々を癒したり、また、ユダヤ人か異邦人かを問わず、どんどん人々をイエス・キリストを信じる者に変えることができた。使徒たちは、いろいろなところに遣わされていく。 ペテロはローマまで行くことになり、ローマカトリック教会の初代教皇とされている。 アンデレという使徒は恐らくギリシャに来て、ギリシャ正教会の主教に。 マタイはエチオピア、熱心党のシモンはエジプトへ行き最初のコプティック教会の主教に。また、マタイはインドまで伝道に行ったともされる。 新約聖書が記された時代、飛行機も車も無い、しかもキリスト教が迫害される時代、ただ聖霊によって炎のような力が与えられ、イエスの名において奇跡的な癒しを行い、つまり社会奉仕活動であり、また驚くべき宣教活動を行うことができた。 聖霊が使徒たちを燃え上がらせ、イエスの言われていた「もっと大きな業」が行われた。    実は、エルサレムと地中海周辺で起こった聖霊降臨後の300年余りの出来事は、1500年間キリスト教に殆ど縁がなかった日本においても起こり、現代でも起こり続けていると思う。聖霊が多くの方々に働き、教会・社会に仕え、宣教活動が行われていくということが起こっている。フランシスコ・ザビエルは、聖霊により炎のような力が与えられ、日本に来て、伝道活動を行った。現代のようなポルトガル語と日本語の辞書もないのに、彼は日本人と会話し、毎日何百人もの人がイエスを礼拝しにきた。政治的な圧力からキリスト教は禁止され250年あまりの鎖国があった。1850年に日本のドアは再び開いたとはいえ、キリスト教禁止は続いていたので、英語教師や医師としてキリスト者たちが日本に入り、そして遂に、1870年代には、日本人もキリスト者になれることになった。以後140年のキリスト教伝道の時代が続いている。 といっても、16世紀の伝道時代とあわせても、日本のキリスト教伝道の歴史は200年と少しの年数しかたっていない。ローマだって、キリスト教を本当の意味で受け入れるのに300年かかっており、日本においてもっと多くの方々がキリストを受け入れるのには、まだまだ時間がかかるのかもしいれない。でも、カリフォルニアに住んでいる我々はどうなのでしょうか? なぜ私たちは、カリフォルニアでクリスチャンとして生活しているのでしょうか? 統計によれば、日本に住んでいる人々より、海外にいる日本人・日系人の方が洗礼を受ける人数が多くなっている。 しかも、この南カリフォルニアにいる日本人・日系人は、海外の中ではとても多い。 確かに、聖霊の炎は働いており、この地で日本語を話して生活をしている方々が洗礼を受けるようにいろいろな方々が遣わされている。 そして、みなさんも、その一部。 洗礼は、ある牧師とある受洗者だけの関係ではなく、聖霊に導かれた人々がいろいろな形で働いて、洗礼ということがおこる。 この復活ルーテルでも、これからもさらに洗礼者が出続けるように、皆様がさらなる聖霊の働きを受け周りの方々が洗礼を受けられるように働かれるように祈る。 それは、イエスのおっしゃっておられた、「もっと大きな業」の一部を成すことで、大きな喜び。 Greater Works Than These John 14: 8-17 Grace and Peace to you in the name of the Father, the Son, and the Holy Spirit! Pentecost is the last day of the Easter Season. During the last 50 days, I believe you all had a meaningful season. Some people might say, “I did not do anything during Easter.” Even doing nothing is OK. I still believe that your 50-day period was meaningful in the name of our Father, God. From March 31, there are people who worship every Sunday and there are people who can’t make it every Sunday. Or there may be people who come only at Easter and Pentecost. Whichever category you belong to, I believe it is so meaningful that each one of you are worshiping the Lord, Jesus Christ, on this Pentecost Sunday. Let me ask you a simple multiple choice question. What were the apostles doing for the first 50 days between the resurrection of Jesus and Pentecost? 1) They were evangelizing people, 2) They started social ministries, and 3) They did not do anything missional at all. What do you think the answer is? The answer is 3…. The Gospel read today is what Jesus was saying on the night before he was crucified. Among the many words he spoke, there was one sentence: “Very truly, I tell you, the one who believes in me will also do the works that I do and, in fact,…

Tweet Mother’s Day- Heinz Guderian said: “There are no desperate situations; only desperate people.”There are people so overwhelmed with the detours and disappointments of life that they do things beyond our comprehension. Justino Diaz was not emotionally equipped to handle the difficulties and setbacks that confronted him….So, one day, when his family of 13 gathered around the dining room table, he doused them with gasoline and set them on fire with a blow torch.We can hardly imagine anyone doing something so horrific and yet we hear about such things daily…. Recently a mother in Washington state stood outside a Taco Bell trying to sell her two day old infant for $5000. She settled for $500 before being arrested.The same week, a Chicago policeman, stole $50,000 from an elderly woman on his beat to pay off his gambling debts. Desperate people do desperate things. In out Gospel we meet a mother who was desperate but instead of doing something immoral-unethical or illegal….She did something irrational….She went to Jesus expecting that he would heal her sick daughter. Well, what’s so irrational or odd about that? Remember, she was a woman – strike one! She was Gentile- a non-Jew- strike two! She was a Canaanite – strike three! To put it simply, Jews and Canaanites did not get along very well together so this woman would have been considered something of an outsider or outcast. Nevertheless, her daughter was sick and like all good mothers she was willing to go the extra mile for her…..Before coming to Jesus…

Tweet 神の国は誰のもの? ルカ18:15-17 主のイエス・キリストの恵みと平安が集まりました会衆の上に豊かに注がれますように。 脳波検査を受けたことがある方どのくらいおられるだろうか? 睡眠障害になったり、あるいは、交通事故等により強い衝撃を頭に受けたりすると脳波を測定する。 あとは、エピレプシー、発作を起こしてしまう患者さんにもよく脳波測定が行われる。 脳神経を専門とするあるドクターが教えてくれた。脳波は、大人の場合は、比較的安定していて、通常の脳波と異常な脳波を判定することは比較的容易だが、子供の脳波は、もともとだれも不規則で、子供の脳波測定をしたところで、その子供の脳波が異常なのかどうかわかりにくい、と語っていた。  子供のときは、ひきつけ(てんかん発作)を起こしてしまう確率が大人に比べとても高い。 みなさんの中にも、小さい時、私はひきつけを起こしたという方もいると思う。 しかし、かなりの確率で高校生ぐらいまでの間に、発作は起きなくなる。 要は、子供の体が成長過程にあるように、脳だって発達過程にあり、子供が何人かいたら、その子供達全員に、大人と同じような振る舞いを期待したって無理である。 ひきつけを起こさないまでも、騒いでしまったり、落ち着きがない子もいるだろうし、いろいろなことが起こる。  さて今日与えられている聖書の話をしたい。こどもの日にちなんで選ばれた聖書の箇所だが、今日の箇所の少し前で、イエスはどのような話しをしていたかをちょっと述べておきたい。 ルカ18章前半で、イエスは二つのたとえ話をしている。 最初は、まず、裁判官はなかなか取り合ってくれないような人だったが、しつこく裁判官のところにやってくる未亡人がいて、その裁判官がその未亡人の訴えを聞くという話し。当時の社会状況からして、未亡人の主張はなかなか認められないような状況があったのだろう。しかし、その裁判官が未亡人の訴えを聞いた理由は何であれ、神は、正しいことを義とされる。 いわばソーシャルジャスティスについてイエスは弟子たちに教えていた。   二つ目のたとえ話は、ファリサイ派の人と徴税人の二人が祈る話。ファリサイ派の人は、自分は神の善しとすることをしており、自分は正しい人間だと思い祈っていた。しかし、徴税人は、言ってみれば意地の悪いような人であり、自らも自分の罪を認め神の赦しを求めた。 すると、その徴税人こそ、神の目には義とされる人となることが話されている。 弟子とイエスたちは、社会正義の問題や、信仰生活における罪の告白といった、真剣な問題について語り合っていた。 そこに、イエスの評判を聞いて、子供たちが、ちょっとでもイエスに触ってもらえたらと思い、子供たちを連れて来た人々がいた。 弟子たちは、大切な話をしている最中だし、騒いだり、落ち着きのない子供たちが来るところではないと判断して、連れて来た人々を叱りはじめた。 ところが、イエスは、子供達を連れて来た人々を呼び集めるため、「子供達を私のところに連れて来なさい。」と言われ、また弟子たちに向かっても、「妨げてはならない。」と言われた。 弟子達は、子供たちを連れてきた人々を、追い返すことこそ、主イエスの考えておられたことだと思って、叱ったところなのに、主のお考えは全然違っていた。 さらに驚いたことに、イエスは次のようなことを述べられる。 「神の国は、このような子供たちのものである。子供たちのように神の国を受け入れる人でなければ、決して神の国に入ることはできない。」  弟子たちは、自分たちこそ、神の国を引き継ぐ者という気持ちでいただろう。しかし、イエスからは、神の国はこのような子供達のものであると言われてしまった。しかし、この話、いったい私たちにどういうことを語りかけているのだろうか? それは、決して、弟子たちが神の国を引き継げないということではない。復活節にあって、弟子たちは、なかなか復活したイエスの存在を信じられなかった話をしてきた。 しかし、なかなか信じられなかった弟子たちも、結局はイエスの伝道活動をするようになり、現代では70億人の世界人口のなかで約20億人がキリストを信じる者になってきているようだ。  イエスが死んで葬られて復活して弟子たちの前に現れることまでしても、イエスの赦しと愛をなかなか信じられなかった弟子たちに対して、子供達はどうなのだろうか。 子供たちは、大人の目からは、落ち着かず、わあわあ騒いでしまう存在に思われてしまうが、主が考えられていることは、主イエスの赦しと愛は、子供たちに簡単に伝わり、彼らこそ主を受けいれ、すぐに神の国を引き継いでいける存在になる。   「神の国は、このような子供たちのもの。」と主イエスが2000年前に言われ、この言葉は聖書に記述され、代々伝えられ強調されてきたことは、とても大きな意味がある。 この世において主イエスの体の構築は現代も続いており、その過程において、子供のたちは、とても大切な存在である。   イエス・キリストの体、教会、そして神の国の建設は、子供達のように素直に神の愛が永遠に続くということを信じられる、そのような信仰者たちに引き継がれていく。子供の日を祝うとともに、私たち大人も子供達のような気持ちで、主イエスに従う群れになってまいりましょう。復活の主、イエス・キリストの平安が、皆様方そして子供達、さらには子孫の上にも、豊かにありますように、復活の主イエスキリストの御名によって祈ります To Whom Does the Kingdom of God Belong? Luke 18:15-17 How many of you have experienced EEG (Electroencephalogram) test? When you have a sleep disorder, a serious car accident, a seizure or anytime there is head trauma, doctors order an EEG. One doctor shared with me that it is relatively easy to diagnose adults’ EEGs, however, it is generally very difficult to diagnose children’s EEGs. Children’s EEG patterns are so different from adults’ EEG patterns. It is difficult to define what is baseline abnormal for children. Did you know that a high percentage of children experience seizures? You may have experienced one or two seizures yourself when you were younger…or you may know parents whose child had a seizure. However, about 70% of children stop having seizures as they grow older. My point is that even if children never have a seizure, their brain activity is very different from adults’ brain activity. Children’s brains are still developing, so it’s unfair to expect them to have an adult’s patience & attention span. If children have Attention Deficit Disorder (ADD), it’s even harder for them to sit still and pay attention. Let’s talk about the text chosen on this Children’s Day. I would like to explain a little bit about the context of what Jesus and his disciples were talking about regarding today’s text (which I read a few minutes ago). Luke chapter 18 starts with two of Jesus’ parables. The first one was…

Tweet “ A New Commandment” 「新しい掟」 ヨハネ福音書13:31-35 Rev. E. Carl Zimmermann 皆さんが使われている聖書ですが、それぞれの聖書によって、訳し方が様々異なっています。しかし平均すると、聖書は774,746の単語から書かれています。そして私が驚いたのは、「愛」という単語が646回しか出ていない事です。「愛」はキリスト教の信仰の心髄であるべきですから、私はもっとこの言葉が頻繁に使われていると思っていました。聖書のみ言葉には、沢山の異なった愛の形が述べられています。友達の間の愛(友情)とか、ロマンティクな愛、等があります。そして最大の愛とは、キリストが私達に下さった愛だと思います。その愛とは、他人を赦し、哀れみ深く、無条件の愛のことで、私たち人間の理解と思いを遥かに越えたものです。 この「愛」をテーマとしているのが今日の福音書の箇所です。イエスはこのように語られています:「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。」さて、誰もこの言葉に反対する人はいないと思います。私たちの殆どは、誠の愛がどのように私達の毎日の生活を左右し、人間関係に良い影響を及ぼすか良く理解しているからです。 では、このイエスの掟をさらに深く考えて見たいと思います。その前に、最初にこの時の様子を舞台にしてみましょう。イエスがこの「互いに愛し合いなさい」という掟を与える直前の状況がどうであったか覚えていますか?イエスはこのように言われています。 「子たちよ、いましばらく、私はあなたがたと共にいる」。この言葉は、聖書の中で最も悲しい言葉だと私は思います。もうすぐ、弟子達は自分たちのリーダーであり、良き指導者であり、また友であるイエスを失ってしまうのです。多くの人の心を動かし、多くの人の人生を変えたこの方が、ただの遠い思い出の中の人物となってしまうのです。全てがめちゃくちゃで、何も機能していないかのようです。舞台の幕は、この三年間の偉大なる冒険を閉じようとしているかのようです。そして聖ヨハネは、何もかもめちゃくちゃになっていると報告しているのです。それは主が亡くなる前夜、イエスが部屋で仲間達と集り、過ぎ越しの祝いをしている時の様子です。皆は食事を終え満腹な状態でした。そしてイエスに洗ってもらった弟子達の足はまだ濡れていた事でしょう。イエスに耳元で何か囁かれたユダは、ぶつぶつとつぶやきながら部屋を出て行きます。そしてその後の何時間の間に、イエスへの裏切りと否定が起こるのです。午前中にはでっち上げられた裁判が有り、午後には木の十字架が待っていました。さあ、舞台は整えられました。もう戻る事はできません。台本を書き換える事もできません。幕閉めは間近です。 「友よ」とイエスは語りかけられます、「私がもうすぐ去って行く、そして私が行く所にあなたたちは来る事ができない。」私たちも、このような胸の張り裂けるような悲しみを知っていると思います。「もう行かなくちゃならないんだよ、一緒に来る事はできないんだ」と、4歳の娘に言ったのは、アフガニスタンへ向う飛行機に乗る兵士。「私の逝く時間が来たわ」と、悲しむ夫に言ったのは不治の病で死んで行く妻。 「暫くいなくなります」と、上司に言ったのは、6ヶ月の間リハビリに行くアルコール中毒者。 イエスは今弟子達から去ろうとしています、そして彼らはどうして良いのかわからないのです。質問などする時間もない。イエスの知恵や全ての知識を吸い込む時間もない。全てがバラバラになっているような状態の中、イエスは別れの言葉を語り始めるのです。弟子達と同じように、私達もめちゃくちゃな状態の世の中に住んでいると思います。最近起こったボストンでの爆破事件、学校で起こる射撃事件、人間売買、経済の低下、解雇、直ぐに激怒する人達、冷めた結婚生活、そしてなんでも他人のせいにしてしまう私達。しかし、このように全てがコントロールを失ってしまいめちゃくちゃになりそうな時に、イエス様は入って来られ、「愛」を主張されるのです。「愛」だけが、人類を結ぶ絆なのです。 次に書かれている4章で、イエスは弟子達がこれから必要な全てを語っています。しかし、一番大切な事は最初に示されています。「わたしはあなたがたに新しい掟を与える」、とイエスは言いました。「互いに愛し合いなさい。」 2010年の1月、ルーテル神学校から何人かの学生がハイチに伝道の旅に行っていました。貧しい生活にも関わらず、人々が互いに大切にし合っている姿に、学生達は驚きました。彼らの報告によると、ハイチの人々が運転して出かける時に、知り合いの誰かが反対車線を運転してくるのに出会ったりすると、車を止めて、降りて来てお互いに抱き合いの挨拶を交わすのはよくあることだそうです。どうりで、半マイル行くのに一時間かかる訳です。そして1月12日に震度7の大地震が起こり、その後52もの大きな余震が続きました。地震は殆どの建物を破壊しましたが、それ以上に悲惨だったのは300万もの人達がこの地震の被害にあい、約22万もの人が命を失った事実です。 ルーテル神学校の学生達は勿論文字通り震え上がりました。しかし彼らがそこで見た事は、ハイチの人達が、「愛」という絆によって、この悲惨な状態がこれ以上大混乱に陥る事がないようにとお互いに支えあいながら守った有様でした。近辺にいた生徒は、そこに集った人達が賛美している声を聞いたそうです。その人達は、自分たちが助かった事を神様に感謝し讃美していたのです。ルーテル神学校の学生達はきっと怖くてこれからどうなるのか解らなかった事でしょう、でも土地の人達が彼らにこう言ったのです:「あなた達は私達の家族ですよ。私達がお世話します、お互いに助け合って行きましょう。」 これも言い方こそ違いますが「互いに愛し合いなさい」という事なのです。 もし私達がこれから何かを達成したいと願うなら、皆で一緒にやらなくてはできないのです。私達はお互いに大切にし合いどうすれば互いに愛し合えるかを学ばなくてはなりません。そして、この事を私達は真剣に考えなくてはならないのです。なぜなら、これはただの提案ではなく、「掟」だからです!                               芙美 Liang要約 “A New Commandment” -Sermon for April 28, 2013 John 13: 31-35 It varies with what translation you use, of course, but on average the Bible is made up of 774,746 words and to my surprise the word “LOVE” appears only 646 times. “LOVE” is so much at the center of our Christian faith, I thought the word would be used more often. There are many different kinds of love referred to in the scriptures. There’s the love that friends have for one another and then there is romantic love. The ultimate kind of love is the love that Christ has for us. It’s a forgiving, compassionate and unconditional love that exceeds both our expectations and understanding. This theme of LOVE is at the foundation of today’s Gospel. Jesus said: “I give you a new commandment-That you love one another.” Now, I don’t think anyone would argue with that! Most of us understand how true love can affect our day-to-day lives and have a positive impact on our relationships with others.So let’s take a closer look at this command from Jesus, but first we must set the stage. Do you remember what Jesus said immediately before giving this commandment to love one another? He said: “Little children, I am with you only a little longer. ”I think tat’s one of the saddest verses in the entire Bible. Soon, the disciples will lose their guide,…

Tweet 十字架の死と復活による完成      ヨハネ10:22-30 主イエスキリストの恵みと平安が皆様方と共に豊かにありますように! どういう復活節の季節を送っておられるだろうか? ここに集まっている皆さんの多くは、イースターの朝、羊の肉を食べた。 おいしかっただろうか? それが今年はじめて、何かの意味があっただろうか?  先週はどんな週だっただろうか? ボストンやテキサスで相次ぐ爆発が起こった。 私たちにも、なにか似たような状況に陥る可能性だってあり恐れを覚えた方もいるだろう。   今年のイースターの季節、第四日曜日を迎えた。 3月31日が復活節第一日曜。 三回のメッセージとも、なかなかイエスの復活を信じられない弟子たちの話をしてきた。 とくに先週は、3度目にイエスに出会っても、よくわからなかったペトロの話もした。 いったいイエスという方はどういう方なのか。 クリストロジーという言葉がある。 これはキリスト学、キリストはどういう存在かということを学ぶ学問。 神学校で学ぶことの大半はこの学問。 私が学んだルーテル神学大学には、そういう科目があったわけではないが、実は、歴史、神学、旧約学、さらに新約学とか、すべてが、クリストロジに直結している。 このクリストロジーを私の場合は6年もかかって学び、神の赦しと慈しみにより、牧師にさせていただいた。  しかし、いまだに、牧師になって3年たったが、いろいろな教会で説教をしているが、同じ質問を繰り返している。 というか、20年30年も牧師経験のあるビショップとの研修のときだって、いったいキリストってどういう方なのという質問を繰り返す。 日々の生活の中で、神の働きに新たに驚かされることがしょっちゅうだからだ。 そして、神の新しい創造に気づかされ、そして、新たにされて、最近はほぼ毎週日曜、あるいは指名を受けた場所と時に、神のみ言葉を述べ伝えるメッセージに取り組んでいる。   さて、今週与えられている福音書、復活後の話ではない。 十字架に架けられてしまう数週間前。ユダヤ教の指導者たちも、いったい、イエスという男は何者なのか? という問いに悩まされていた。 ナザレで育ち、ガリラヤで数々の奇跡を起こし、ユダヤ人であろうが異邦人であろうが、病にある人々を次々に癒した。 ユダヤ教を信仰する人々は、救い主がこの世に来るということは預言されていたので、この人が救い主なのかと。 しかし、ユダヤの法律では、もし人間で自分が救い主であるという人が出ることは、それは石投げの刑で殺されてもよいことになっていた。  民衆の中には、イエスが救い主だと思う人々がたくさん現れていた。そして、ユダヤ教の指導者たちは、じれったくなってきた。 このような人間は、イスラエルのユダヤ社会にあって邪魔者で、殺してしまった方がユダヤ社会のために良い。 それには、イエス自身が、自分が救い主だ、つまり神だという発言をしてくれれば殺せるという話になってきた。 そこで、「自分が救い主ならはっきりそう言ったらどうか。」という質問を、ユダヤ教の指導者がイエスに投げかける。 イエスを死刑に導こうとして、このような事を質問されている事は、イエスは十分わかっていた。  そして、イエスは、救い主を羊飼い、人間を羊にたとえて、「たとえ私があなたがたの羊飼いだと言ったところで、あなたがたが、私を羊飼いだと思っていない人々には、何の意味も無い。しかし、私を羊飼いとして従ってきている羊たちには、わたしは永遠の命を与え、決して滅びることはなく、その羊たちを、羊飼いであるわたしから、奪うことはできない。 なぜなら、私と神はいったいだからである。」 ユダヤ人たちは、石投げの刑で、イエスを殺そうとしはじめるが、すぐにはイエスは石投げの刑では殺されることなくその場を逃れる。 結局は、その数週間後、ローマの政治家たちも参加して、十字架刑にされ、そして三日後に復活する。   今日の言葉の福音書の中で、イエス自身が、羊飼いであることが述べられ、さらに、「イエス自身が父なる神と一体。」という話がされた。 それは、すべての羊たちを導くことのできる完璧な羊飼いであることを示唆していた。永遠の命を与えることができる羊飼いであると。 たとえ、ユダヤ教の指導者やローマの政治家から殺されてしまう羊飼いであっても、それは完全なる神、完璧なる神と一体である羊飼いイエスは、羊たちとわかれてしまうことがない、羊たちを見捨ててしまうことのない羊飼いであると。 さて今日の最大のポイントは、イエスが語らてていたことからすると、十字架の死と復活は、私たちが死と復活を信じるとか、信じない問題ではなく、むしろ、イエス・キリストの死と復活は、必ず起こるということ、つまり必然だった。 イエスの語っていたことを完成させるために、さらに、旧約聖書の中にちりばめられていた数々の預言からして、イエスの十字架による死と復活は、必ず起こることだったということ。 それが、私たちの現代の生活でどういう意味を持ってくるのだろうか。三つのことをお話して、今日は終わりにしたい。   まず、一つ目、イエスキリストという方と天の父なる神との関係の完成。イエスは十字架に架かっても復活なさる方。 全く何も無いところから命を発生させることができる神は、たとえ、死に遭遇しても、その死をほろぼし、復活できる、父なる神と同等な方である。 つまりイエスキリストと神が一体であるというイエスの説明を完成させてくださった。   二つ目は、イエスと私たちの関係の完成。 私たちが羊で、イエスが羊飼いというたとえ話をしておられたが、実際、羊飼いが羊になってくださるような羊飼い。 神からついつい背き、行動すべき行動をしない私たちの現実がある。本来、殺されて、毛をむしられ、食べられてしまわなければならないような、羊の存在であるにもかかわらず、むしろ、羊飼いの方が羊になってしまわれ、私たちに永遠の命を保ってくださるため、また復活して羊飼いとなる。十字架と死と復活は、とんでもなく、羊を愛してくださっている羊飼いと羊の関係の説明をも完成させてくださった。 そして三つ目は、私たちとイエス・キリスト、さらには、神との関係が完成している中で、毎日を歩む私たちには、なんら恐れが無い。 災難や災いがおこらないということではない。 いや、むしろ、えっ、まさかというびっくりするようなことがある。 しかし、そこに、どんな状況からも復活できる、永遠の命をさずけてくださる、神と一体なるイエス・キリストという方が、私たちと共にいてくださる。先週末の詩編を読もうは23編だったが、今一度読み、ぜひ、復活のイエス、羊飼いがいっしょにいてくださる喜びを実感しよう。 Completion through the Death and Resurrection Psalm 23 John 10:22-30 May Grace and Peace be with you in the name of our Risen Lord, Jesus Christ! How is your Easter season so far? Most of you ate Lamb on Easter morning. Did it taste good? Was it somewhat meaningful to you? Three weeks have passed since then. How was last week for you? Terrible news from Boston…were you afraid, that a similar incident would happen locally? Today is the fourth Sunday of this Easter season. We discussed the empty tomb on Easter Sunday. The second and third Sundays, we read in the Bible how difficult it was for disciples and Jewish leaders alike to comprehend the resurrection of Jesus Christ. Understanding Christ is not an easy thing to do. Have you ever heard the term “Christology”? This is the study about who Christ is. Everything we learn in Christian seminaries is about Christology. Although the seminary I attended did not have a subject called “Christology”, whatever the subject is, like History, Theology, Old Testament, or New Testament, all subjects relate to Christology. In my case, I spent almost 6 years studying Christology during my candidacy process leading up to my ordination. However, even though I was ordained three years ago, I still ask the same question again and again, “Who is Christ?” In my daily life, I am still surprised by God, Jesus Christ, and continue…

Tweet 使徒言行録:9:1-6 ヨハネ21:1-19 主イエス・キリストの恵みと平安が皆様方と共に豊かにありますように! 皆さんの中には、教会に通う信仰生活が長くなるにつれ、この礼拝堂の中でイエス・キリストに毎週出会っているし、普段の生活の中でも神の存在をひしひし感じているという方がいる。或は、最近キリスト教会、特にこの復活ルーテル教会の存在を知ったという方もいて、神様のことも、イエスさまのことも、聖霊のことも、いろいろな言葉で言われるけど、どうもよくわからないまま教会生活を送り始めたという方もいる。   与えられている福音書、復活のイエスがペテロたちに3回目に現れているところ。 一回目は、復活の日の夕方、なぜか鍵のかかっている部屋に登場。 そして、二回目は、その一週間後、一回目はその場にいなかったトマスもいる11人の弟子全員の前に現れる。三回目はというと、、、一回目に、弟子たちに罪を赦す権限を与えられながら、弟子たちはいったいなにをしていたのか。 弟子たちの伝道活動はまだはじまっていない。 ガリラヤ湖に戻って、また漁師をはじめていた。本当は、人間を獲る漁師になるのではなかったのか? 一番弟子だったペトロが言いだして、他に6人の弟子たちが魚獲りに追従した。やはり昔の職業に戻ったほうがよいだろうと思った。でも魚は獲れたのだろうか? 最初の晩は、ぼうず。。これは聖書の表現ではないが、日本人でつりをしたことがある人はよく使う表現。 とくに、百人一首でぼうずめくりをして遊んだことのある人々にはピンとくると思う。 要は、魚が一匹もとれないこと。。 しかし、そこにイエスが顕れる。でも、弟子たちは、またまたそれが誰だかわからない。 イエスは、言われた「船の右側に網を打てば獲れる。」するとどうだろう。 たくさん魚が獲れるではないか。。。 そして弟子の一人が、「あっ、主イエス様だ。。。」と叫ぶ。弟子の筆頭者、ペトロは、「またやっちゃった。」 イエス様がそこにいてくださるのに、イエス様のことを忘れて、自分勝手な行動をしちゃった。 そして、まずは、イエス様から隠れる。 その後、イエス様とじっくり話す機会があることが書かれている。  十二弟子の核である、ペトロという人は、いうなれば、おっちょこちょい、はやとちり、よく考えない、めだちたがりや、そういう面がたくさん聖書には書かれている。 しかし、イエスは、神は、ペトロを使って、教会、キリストの体を創られ始めた。 カトリック教会では、ペトロを初代教皇としている。 一方、キリスト教会にとって、偉大な初代異邦人伝道、世界宣教者パウロの話もしたい。 新約聖書は27の書から成っているが、その約半分は14の手紙がパウロによって書かれたとされている。 それくらい、大きな影響がある。 しかも、イエスの伝記のような書かれ方をしている新約聖書の最初の四つの福音書、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが書かれた時代より、早く書かれたといわれている。  このパウロという人は、そもそもイエスの十二使徒の中には、含まれていない。 それもそのはず、パウロはユダヤ人だったが、エルサレムとかガリラヤ湖周辺、あるいはナザレなど、イスラエルで育ったわけではない。  今のトルコの中南部の町に生まれ育った。 ユダヤ人であり、もともとユダヤ教の信奉者。ユダヤ教のなかでも最大のグループ、ファリサイ派に所属し、それはそれは、ユダヤ教本流の信者。なので、キリスト教を迫害していた。 使徒言行録などに書かれている内容からして、キリスト信奉者を石投げの刑で殺すようなこともしていたと思われる。 しかし、そのパウロが、(若いころはサウルと呼ばれていた)さらなるキリスト者迫害のため、ダマスコという町に向かう途中、復活の主に、遭遇する。 遭遇するといっても、イエス・キリストの姿にあったわけではなく、強い光を受ける。そして、天の声を聞く。 それは、あきらかに、弟子たちがイエスの姿を見て、手のひらの傷や、わき腹の傷を確認したのとは異なる出会いがパウロには訪れた。その時、パウロは目が見えなくなってしまう経験をする。 その体験をするまでのパウロという人を記述するなら、ユダヤ、ファリサイ派の考え方を正義としてそれに従わない考えを真っ向から否定する強い考え方、暴力的、危険人物というような言葉が浮かんでくる。しかし、そのような者をイエス・キリストは用いて、偉大な伝道者とされた。 それまでの考え方を180度、方向転換して、キリストに従う者、使徒の一人として、世界伝道、といっても地中海北東沿岸伝道へと派遣し、新約聖書の半分ほどもギリシャ語で記述する者とされた。  おっちょこちょいペトロと、危険人物パウロの両者がイエス・キリストに出会い、キリスト教会の礎になったという話をしてきたが、いったい私たちに何を物語っているのだろう。 現代においても、子供のころからキリスト教の環境に育った人々、おっちょこちょいではないにしても、どちらかというとペトロ的な人もいれば、全くキリスト教のことは知らないで家は仏教だったとか日本神道だったとかその関係の諸派に育ち、危険人物とまでは言わなくても、パウロ的な環境に近かったという方々もいる。  そのような方々の中に、復活の主イエス・キリストは間違いなく働いておられ、いつか私たち自身が、主イエス・キリストの存在に気がつく。 私の個人的な体験からすれば、やはり、キリスト教会において、聖餐式をしている時というのは、今まで何度も経験しているが、聖霊の働きのなかで涙が出てきてしまう。 或は、私は、ある方が亡くなる姿のなかに、あるいは、長崎で原爆で崩された浦上天主堂のマリア像の写真だったが、それを見たときに、キリストを見る思いがある。  皆さんお一人お一人、イエス・キリストがそれぞれ異なる接し方をしている。 どのような接し方であろうが、それがペトロ型であろうがパウロ型であろうが、イエス・キリストの御言葉に耳を傾け、受け入れ、キリストを信頼し、そして、イエスキリストから遣わせられる人生を歩まれますように。アーメン。  Peter and Paul April 14, 2013 Acts 9:1-6 John 21:1-19 May Grace and Peace be with you in the name of our risen Lord, Jesus Christ! Now, in this sanctuary, there are people who were baptized many years ago and have been regularly keeping the Christian Faith. There are also people baptized many years ago but they do not attend church every week. Or, there are people who have recently come to know the Christian Faith, specifically attending Resurrection Lutheran Church, but still do not know God, Jesus, and the Holy Spirit well. However, they have started being together with brothers and sisters of Jesus Christ and fellowshipping. Welcome and wherever you are on your journey, I can say that you came to the right place. The Gospel Text today, is the scene when Jesus appeared in front of Peter and the other disciples for the third time. The first one was on the day of resurrection, in the late afternoon, to 10 disciples, since Thomas was not there, in the locked room. And the second one was, a week later, when Thomas was present. The exact timing of Jesus’ third appearance is uncertain, but it is most likely a few weeks after the resurrection. Although the disciples were given authority to forgive sins, they had not started Jesus’ mission… they still did not know what to do. Some of them went back to Lake Galilee and resumed…

Tweet ヨハネ20:19-31 復活の主、イエス・キリストの御名において、あなた方に平安がありますように! 何かが神との間に立ちふさがり、神との関係が邪魔されてしまったと思うことがあっただろうか?  祈ろうとしても祈ることができないような。自分はクリスチャンであると思いながらも、実は疑っていて、結局は心を閉ざして、教会にも行けなくなってしまうような。自分は忙しいと思い、教会への出席を犠牲にしてしまうようなことがあっただろうか? 或いは、今、あなた方は、神との関係にあって、大きな障害をかかえているという方があるだろうか? 全能の神に疑問を抱き、その障害は、あなたに聖霊の息吹が入ってくることを妨害していると思われているようなことはないだろうか?  本日の福音書の前半部分、まだイエスが復活した当日の日曜の夕方の光景。 ヨハネ福音書によれば、その日の朝、ペトロともう一人の弟子は、墓からイエスの遺体が取り去られているのを目撃したものの、弟子たちは、全く、主が復活したなどということは理解できないでいた。  先週の説教でも話したように、復活の三日前の金曜は、イエスが十字架に架けられるとわかって、弟子たちは現場からは逃げてしまった。 また弟子の筆頭であるペトロは、三度も、イエスなんか知らないと言ってしまった。弟子たちは皆、自分たちも逮捕され死刑になるのではないかと恐れていた。イエスの弟子のつもりでいたが、まったくイエスの十字架刑を阻止できなかった。 恐ろしさとともに、自分たちを責め、恥さえ感じていた。 そして、イエスが墓に葬られた後は、安息日を良き理由に、部屋に閉じこもりつづけた。  日曜になっても、ちょっとペトロともう一人の弟子が墓を見に行ったが、イエスの遺体をだれかがまた裸にして、持っていってしまったと思いすぐにまた部屋に戻り、弟子たちで部屋のドアに鍵をかけ、日曜の夕方になっても閉じこもっていた。しかし、ドアに鍵がかけられていたにもかかわらず、イエスは部屋の真ん中に現れた。 逃げていってしまった弟子たちを決して責めるようなことを言われない。 三度、イエスを否定した、ペトロにもイエスは安らかな顔を向けられる。  そして、当時としては最悪の暴力をただ呆然と見て、キリストの十字架刑をまったく防ぎもしなかった弟子たちに、「恥を知れ。」なととは言わない。その代わりに、「あなたがたに平和があるように。」と言われる。そして、両手の釘の後、わき腹の傷を見せる。 その目的は、決して弟子たちを責めるわけではなく、弟子たちはその傷痕を見ることで、実に復活したイエスであると確認できた。 そして、イエスは今一度、「あなた方に平安があるように。」と言い、さらに「私の父である神が私を遣わしたように、私もあなた方を遣わす。」と言って、聖霊の息を吹きかけられ、弟子たちに罪を赦す権能を与えられる。  さて、本日与えられている聖書箇所を通して、神はこの礼拝堂に集まった私たちに何を語っているのだろうか?  神なるイエス、葬られていたイエスは、生き返り、墓石を転がし、墓から出て来られた。さらに、おびえて閉じこもっていることしかできなかった弟子たちの部屋の真ん中に現れる。 そして、「あなたがたに平和があるように。」と言われる。 それと同じことが実は、今、集まっているこの礼拝堂の中で起こっている。イエスが実に復活したといっても、それが、いったいどういうことなのか、よくわからないでいる私たち。そして、キリストの体である教会を、疑い、私は、キリストはわかるけど教会はよくわからないといったりしてしまう私たち。そのような私たちに、イエスキリストの方が、私たちと教会、つまりはキリストの体、との間に存在する障害を取り除いてくださる。 そして、イエス・キリストが、私たちが閉じていると思っている心を開き、私たちの心の中に入ってきてくださる。そして、神なるイエス・キリストはご自分の傷を見せられる。 その傷とはなんだろう。 アメリカ合衆国のキリスト教会群を見るとき、昨年あたりは毎週50教会が閉じているという話だった。しかし、先週読んだ記事では、いまや、毎週70教会が閉じているという話もあり、今年中に、その数は150にも上るのではないかとも言われている。その中には、近年はじまったばかりの多くの単立教会もあれば、歴史のあるプロテスタント教会も、またカトリック教会もある。 私たちが生きている世代は、そのようなキリスト教の衰えを引き起こした世代。ここにいるすべての会衆は、キリストの体である教会に傷をつけてしまった世代に属する。 しかし、神なるイエスは、私たちを一切、非難するようなことも言わず、また、「恥を知れ。」などとも言われない。傷を負いながらも、キリストの御顔は恵みと慈しみに満ち、私たちに微笑み、「あなた方に平安があるように。父が私を遣わしたように、私もあなた方を遣わす。」と話され、聖霊の息吹を私たちに吹きかけられる。  「平安」とは漢字では、「たいら」に「安かれ」と書く。日本に育った関係上、「平安」という言葉は、この二文字が表すように、静かなイメージを持っている。 しかし、英語の辞書で、「Peace」を調べると、煩雑からの解放のような意味が出てくる。 さらに、ヘブル語で「シャローム」という言葉は、もともとの意味は、「完璧」という意味になってくる。  私たちは、さまざまな困難や煩雑さを人生のなかで味わい、私たちひとりひとり、本当に不完全であることを認めざるを得ない。 たまに、「自分は完璧だ。」なんていう人がいるが、それは、不完全の現われ。 しかし、そのような不完全な中に、神なるイエスは、不完全さからの解放を与えてくださる。 神は、平安を与えてくださる、それは私たちの不完全さ、悲しみ、疑い、恥にもかかわらず、神がイエス・キリストによる完璧さを、もたらしてくださる。  そして、平安をもたらすだけではなく、イエスは、聖霊をふきかけて、私たちを世に送り出す。今この礼拝堂において、私たちは、キリストからの聖霊を吹きかけられ、「神の平安があなたがたとともにあるように。そして、あなたがたを世に遣わす。」という言葉を聴いている。 今や、私たちは、神との関係を邪魔してしまうもの、悲しみ、疑い、恥から解放され。 そして、喜びを持って、復活の主、イエス・キリストの最高の知らせを伝える者として、世に送られる。 その復活の主は、すべての人々がかかえる不完全さから解放してくださり、すべての人々に平安を賜る。 アーメン Peace Be With You May the Peace of the Lord be with You in the name of the Risen One, Jesus Christ! Have you ever had, in the past, any stumbling blocks that came between you and God? Even though you still considered yourself a Christian, you doubted Jesus, and the Body of Christ, the Church. You could not even pray to Him and closed your mind to God…Have you ever had such an experience? Or do you have stumbling blocks now? Do you have doubts? Are those stumbling blocks causing you to shut the door of your heart and not allowing the Holy Spirit to enter? In the Gospel today, it is still Sunday. During that morning, Peter and one more disciple found the empty tomb, however, the disciples could not fully comprehend the Resurrection. Three days prior, they ran away from their Lord, since they realized that Jesus would be arrested and crucified. The head disciple, Peter, even denied Jesus three times. All the disciples were so fearful because they thought that they would also be arrested and sentenced to death as well; even though Jesus was their Lord, they did not do anything to prevent the Crucifixion. They were fearful and felt shame. They kept the door closed and stayed in the room. On Saturday, there was the convenient excuse not to leave the room because it was the Sabbath. Except for the period of…

Tweet 「ヨハネ20:1-19 イースターおめでとうございます!  無残な殺された方の現場にいた経験のある方はいるだろうか?  30年以上前、殺人事件の現場に居合わせてしまった友人がいる。私たちは電気工学を専攻する大学4年生の時だった。彼は夜中に実験がほぼかたづき、仮眠する前に、大学を出て数分のところにある自動販売機までビールを買いに出かけた。大学の門から数百メートル行ったところの自動販売機に近づいた時、そこにタクシーが止まっていた。すると運転席のドアが開き、血だらけの運転手が地面に倒れて動かない。さらに、後部座席からは、客だった人が出てきて、私の友人と顔を見合わせた。彼は殺人犯を見つめてしまった事に気づき、今度は自分が殺されてはたまらないと思い現場から必死に走って大学の門の方に逃げた。幸運なことに、殺人犯は、私の友人が逃げた方向と反対方向に向かって逃げていったそうだ。彼は、110番通報するため、大学入り口まで無我夢中で走った。 靴は脱げてしまい、また、そこは上り坂だったため、最後は、走れなくなって、地面をはっていた。 そして、守衛さんに110番通報をお願いした。 何時、犯人にまた会うかもしれず、彼は、それから本当に心配な日々が続いた。 しかし、彼の証言が犯人探しの重要な手がかりとなり、数週間後には、犯人逮捕となった。犯人は捕まったとはいえ、彼の体験した恐怖は、並たいていなものではなく、私は何年たっても、彼がそのときの話をすることで、気が楽になるならと思い、彼の話を何度も聞いた。 さて本日は、イエスが十字架に架かって、無残な殺され方をして、三日目です。勿論、歴史的な変遷を経て、21世紀の今日ではキリストの復活、イースターのお祝いだが、2000年前に戻って、弟子たちの気持ちがどのようなものだったかを考えたい。 イエスが十字架に架かったのは、金曜日。幸か不幸か、金曜日の日暮れから、当時のユダヤのしきたりで、外には出てはいけない日だった。 弟子たちは、自分たちが従ってきたイエスが十字架刑になり、また、自分たちも同じ刑にあったら大変と思い、イエスを見捨てた。 云ってみれば怖くて怖くてしょうがなかった。 だから、私は、すくなくとも、金曜夕方から日曜明け方まで、家の中に閉じこもっていなければならなかったのは、むしろ良かったことなのではないかと思う。 しかし、日曜の朝になった。 弟子たちは、次に何をして良いか全然、わからない。弟子たちの中には、もう、田舎の実家に戻るしかない。そして、ひっそり暮らせばよいと思った者もいた。しかし、勇気ある女性がいた。ヨハネ福音書によれば、マグダラ出身のマリヤは、お墓を見に行った。すると、どうだろう、お墓の入り口の大きな石が横にとりのけられている。そして中にあるべきイエスの遺体が、お墓からなくなっている。そしてマリアは、弟子たちのところに行き、遺体がなくなっていることを告げる。しかし、弟子たちは怖くて、すぐに墓に行って確かめようとする気にはならない。そこで、一番弟子のペテロともう一人の弟子が二人で、ユダヤの兵士たちに捕まることがないように、大急ぎでお墓に走っていく。すると、確かにイエスの遺体がなくなっている。ただなくなったわけではなく、体中に巻きつけてあった亜麻布がお墓の中にあり、さらに、別の場所に、頭を覆いかぶせてあった布も置かれていた。そして確かにそうだと信じた。あくまで二人の弟子が「信じた」というのは、マリアが報告した遺体がなくなっているという事実を信じたにすぎなかった。そこには、イエスが復活したなどという考えは全くなく、誰かが、イエスの遺体を、また裸にして持っていってしまったと思った。弟子たちは、ますます、気味が悪く、怖くなったのではないだろうか。そして、自分たちの身に、何かあってはならないと思い、一目散に必死に走って家に戻っていった。そして、マリアだけが墓の前に残って、イエスが亡くなった悲しみの上に、さらに、だれかがイエスの遺体を持っていってしまったむなしさを感じつつ泣いていた。 そこに、二人の天使が現われ、さらに、イエスが現れる。 最初はイエスだとわからず、お墓の手入れをする人だと思った。 しかし、イエスが「マリア」と呼びかけた声で、イエスだと気づく。  さて、今日復活主日に与えられた聖書の箇所はいったい何を私たちに教えているのだろうか? 人の死というのは、とても悲しく、また怖いもの。12年前、一人の友人を40代で亡くしたが、奥様が本当に寂しさを感じられた事と同時に、特に夜、怖くて怖くてしょうがなくなると話しておられたのを思い出す。しかし、聖書の言葉や詩編の言葉がいかに、癒してくれるかも話してくれた。病気で身内を失っても、怖さを覚えるのに、ましてや、イエスのように十字架刑という残忍な殺され方、しかも、いばらの冠をつけられ、兵士からののしられ、つばをかけられ、裸にされ、殺されてしまった場合、そのイエスをリーダとしていた弟子たちにとって、それが、どれほどの衝撃となり、怖くなったか、想像がつく。しかし、イエスは、怖くて震え上がっている弟子たちを放置されない。 また、イエスを失って、悲しくてしょうがないマリア、また、そのほかの女性たちを放っておかれない。それは、2000年たった今も、イエスの復活は、活き続けており、現代、配偶者を失って悲しくてしょうがない、親を失って悲しくてしょうがない。 あるいは、病の中にあり、自分の死への恐怖を覚えておられる方をも放っておかれない。  復活の主は、かならず、そこにおられる。 聖書の言葉、聖霊の働き、教会の兄弟姉妹のはげましの中に、復活の主の働きが、私たちの間にあり、たとえ困難に直面していても、喜びを私たちにもたらす。 たとえイエスが予言していたとはいえ、弟子たちにとって復活ということは、簡単に理解できて信じることができなかったように、現代の私たちも簡単には理解できないし、本当に心から復活を信じられるような人間にはなりにくい。 しかし、私たち人間が信じていようが信じていまいが、復活の主の方から、私たち人間に働きかけておられ、私たちを新しいものに変えてくださっている。 私たちの生活において、心の痛み、悲しみ、恐れが、平安、幸福、そして、喜びへと変わっていくには、時間がかかる。 復活節は、まだ7週間続く。聖霊降臨日まで、49日ある。49日というと、仏教で、ある方が亡くなってから毎週、毎週、初七日、二-七日(ふたなぬか)- – -、とお祈りする。 私はそれもとても良いことだと思う。 今日、キリストの復活日をお祝いしてから、これから聖霊降臨日までの49日間、毎週毎週、ぜひ、礼拝に参加され、復活の主がわたしたちの心への中にさらに入ってこられ、今年また新たに、おひとりおひとりが復活の主が与えてくださる、さらなる恵み、喜びを実感できますように。 ”Was Jesus Really Resurrected? ” John 20:1-18 Pastor Hitoshi Adachi Grace and Peace to you in the name of our Lord, Jesus Christ! Have you ever witnessed a brutal death? More than 30 years ago, my friend witnessed a murder. We were Seniors, majoring in Electrical Engineering at a Japanese university. On that day, my friend worked very late and finished an experiment. He decided to stay overnight sleeping on a couch in the Lab. Before he rested on the couch, he went outside to get a beer. When he approached a vending machine (in Japan it is legal to sell beer through vending machines) a few blocks from the campus, there was a cab. Then he saw that the driver’s door was opened but the cab driver had fallen down onto the street. Then from the back seat, a passenger exited from the cab. My friend saw this guy face to face… He realized he was staring at a killer. To avoid being killed, he ran away as fast as possible to get back to the university’s front gate where a guard always stayed. Luckily the killer did not follow him, but instead he also ran away in the opposite direction. My friend ran his head off. When he almost reached the guard’s hut, he realized that he was not wearing his shoes. Also since the road was uphill, he was out of breath. So he could not run anymore and he…

Tweet ヨハネによる福音書第12章1-8節 John 12:1-8 救い主イエス・キリストの恵みと平安が、この会衆一同の上に豊かに注がれますように! 聖壇にきれいな花を時々飾る。。それは、本当にお花を生けたくてしょうがないというお気持ちの方々がいて、通常献金している上に、さらにお花代を捧げている。例えば2週間後のイースターでは聖壇の上は、ゆりの花でいっぱいになる。   なんで、そんなにこの聖壇にお花を捧げたいという気持ちになるのだろう? ただ、礼拝を美しくしたいから、、、? でもこの聖壇はいったい何なんだろう? 私たちが聖餐式のなかで、主イエス・キリストの体と血をいただく場所を聖壇と呼んでいる。そして、この聖壇の真ん中に、コミュニオンテーブル(聖体拝領台)と呼ばれるものがある。 一部の建築家たちは、テーブルをイエス・キリストの棺の形に似せて設計する。  少しお分かりいただけただろうか。 なぜ高級な御花をこの聖壇に生けたいと思うか。 葬儀において、棺の周りにきれいな花を生けたいと思うのは、とても自然な思い。 特に日本の文化ではそういうことはある。しかし、この世の通常の葬儀であれば、御花は亡くなった方を思い、悲しい思いの中で捧げる。 しかし、イエスに捧げるのは、少々違っていて、死から復活するイエスなので喜びをもって捧げている。 今日与えられた福音書の内容を見ていこう。 イエスが十字架に架かる数日前、ベタニアという町のマルタの家に人々が集まっている。イエス、ラザロ、マルタ、マリア、それに弟子たちもいた。 ラザロというのは誰だったか覚えているだろうか? 死んで4日も経ち、お墓に入っていたのにイエスが蘇らせた人。そして、マルタとマリアはその姉さんたち。 だから、3人の姉妹と弟にとって、イエスはまさに救い主であり、イエスにとても感謝していた。 そして、マルタは例によってすばらしい食事を用意した。またマリアは、一年分の給与(一日一万円の日当として300万円?)もするような高価な香油をイエスの足に塗り、部屋中がとても良い香りになった。 マリアも救い主イエスにこの上なく感謝していた。 この香油は、マルタ、マリア、ラザロにとって家宝のようなものだったのではないかと思う。 しかし、マリアがそのようなことをしても、マルタもラザロも全然文句を言うことなく、それを見守った。 ただ、ユダは、そんなことをしてもったいないとは言ったが。 ユダの話は今日は、フォーカスではないので、またいつかお話することにしたい。 この礼拝堂において、この話を聞いている我々にとって、今日の福音書箇所はいったいどういう意味を持っているのだろうか? この礼拝堂にも、イエス、ラザロ、マルタ、そしてマリアがいるのではないだろうか? わたしは、いると思う。 今日の話と似たようなことが礼拝堂でおこっている。 ラザロという名前の意味は、「神が助ける。」 ここに集まっている私たち一人一人、実は、ラザロだと思う。 どうか一人一人のこれまでの人生を振り返って欲しい。勿論、 いろいろな人生の過程は異なっているが、みんな、洗礼を受けるまでの過程にしたって、洗礼を受けてからもそうだと思うが、どれだけ神が助けていることだろうか。どれだけ、神なるイエスの聖霊が働いて、豊かな祝福をいただいたことだろう。大変な苦労をしたときも、近くで歩いていてくださり、わたしたちの我儘かって、あるいは、失敗をしたときも赦してくださり、今日このように、神の慈しみをもって、この礼拝堂に招いてくださっている。 また、いまも、この場にイエス・キリストの聖霊が存在してくださっている。 一人一人が、それに気づいていても、気づいていなくても、また好むと好まざるにかかわらず、それを信じようが信じまいが、父なる神、子なるキリスト、そして聖霊と一体なる三位一体のお方が、おひとりおひとりの人生を、特に洗礼を受けてから、大きく変革している。 わたしたちは、イエス・キリストから、たいへんな恵みを受けている。 その恵みに応答して、神様からいただいている賜物の一部を喜んで、神、つまりイエスの体である教会に、捧げている。 教会が必要だから献金を捧げると言うより、まず、私たち自身に、神の恵みに応答して捧げる必要がある。  ところで、礼拝の中では、奉献は聖餐式の前に捧げている。 マリアが家族を代表して、高価な香油をイエスが十字架に架かる数日前、イエスに捧げたように、この礼拝堂のなかでも、最後の晩餐の前に、会堂に集まった人々の高価な献金を集めて捧げるという事が起こっている。 だから献金の奉仕をしてくださる方は、マリアではないだろうか。 また、聖餐式の準備をしてくださっている方は、マルタ役をしてくださっているように思う。 そして、みなさんご承知のように、イエスは最後の晩餐の翌日、十字架に架かるが、イエスの生涯は死では終わらない。 復活し、十字架の死をもって、死を滅ぼした。 イエスが復活するように、私たちも、イエスの体と血をいただくとき、そのイエスの恵みによって、私たちは新たに生かされ、そして、この礼拝堂から大きな喜びを持って、一週間の世の闘いに送り出される。 そしてまた一週間後の聖日に、礼拝に来て、過去の行いや言動について悔い改めの祈りをして、賛美し、神の言葉を聞き、わたしたちの賜物をささげ、そして、聖餐に授かるという行為は、いうなれば、信仰訓練。 その信仰訓練を繰り返す中に、神が私たちを世の中に奉仕させ、神様からの賜物の一部をまたお返しする、つまり大きな喜びを持って捧げる存在にしてくださる。  Joyful Giving John 12:1-8 Grace and Peace to you in the name of our Savior, Jesus Christ! We sometimes put beautiful flowers on the altar. There are some people who in addition to giving a gracious monetary offering, wish to give flowers as well. Why do these people want to place flowers on the altar? What do the flowers symbolize? Whether it’s monetary or floral; they seem compelled to give. Whether or not they recognize the meaning of their offering, I believe the offering of financial gifts and flowers are both a joyful response to God’s bountiful mercy and grace. As you well know, the place where we receive the sacrament is called the altar. In the center of the altar, there is a communion table. But did you know that some architects design this table in the shape of Jesus’ coffin? So when viewed in this context, we can begin to understand why people would want to place expensive flowers on the altar. During funerals, especially in Japanese culture, it is very common to decorate the coffin with very beautiful flowers. Normally because of someone’s death, we offer flowers to pay our respects and express grief. However, Jesus’ case is quite different because he is raised from the dead – a joyful occurrence. Let’s…