Archive for the ‘牧師説教’ Category

Tweet ルカによる福音書3章1-6節 「律法の宗教 対 恵みの宗教」 私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように。アーメン。 宗教には2つの形があります。その一つは律法、あるいは戒律による宗教で、もう一つは、恩恵による宗教です。これについてお話ししたいのですが、まず最初に2つの私の描いた絵を見ていただきたいのです。最初の絵は猿のお母さんとその赤ちゃんです。それも母猿が赤ちゃん猿をどこかに行くために運んでいる姿です。私たち人間は赤ちゃんを連れて外に出る時、肩におんぶするか、胸に抱いて、抱っこします。お猿さんのお母さんも赤ちゃん猿を胸に抱くことはありますが、どこかに連れていく時にはこの絵の中に書かれているように、赤ちゃんを抱くというより、赤ちゃん猿がお母さん猿にしっかり捕まっているのです。 森林、または、ジャングルに住むお猿さんは一本の木の枝からもう一つの木の枝に飛ぶように動き回るのですが、そんな時、赤ちゃん猿は必死の思いでお母さん猿にしがみついているのです。そうでもないと、動き回る猿のお母さんから落ちてしまうからです。律法の宗教はこの赤ちゃん猿の姿です。母猿にしっかり捕まっていないとおっこってしまう、または迷子になってしまうのです。 さてもう一つの絵をお見せしましょう。これはお母さん猫が子猫を連れてどこかに移動するときに見られる姿です。親猫は猿のように小猿を抱くことはできません。親猫が子猫を連れて移動するには、子猫の首のところを口にくわえた姿を皆さんは見たことがあると思います。子猫は、まだ小さいので、くわえられているといっても別に痛いわけではありませんが、自分では何もできずに、親猫の言いなりになっているだけです。しかしながら猫のお母さんは猿のお母さんと同じく一生懸命自分のかわいい子猫に時間をかけてやるのです。 何も難しいことを話しているわけではありませんが、子猿の絵を見ると、そこに子猿が一生懸命お母さんにつかまって、落ちまいとふるえているような姿を想像するのです。それは遊園地でジェットコースターにのり一番高いところから急激に降りていくその時、両手でジェットコースターのハンドルにしがみついている私たちの姿と同じでしょう。 何か心の中に問題がある時、悩みがある時私たちは、悲しくなります、気が沈み見ます。なぜか涙がぽろぽろ出てくることもあります。孤独感を感じます。しかし、神様は私たちをいつも見守ってくださっているのです。 洗礼者ヨハネはお父さんが神殿につかえていた祭司です。ですから小さい時から聖書、それは今の旧約聖書をよく読んでいたはずです。彼はイスラエルの地に救い主がおいでになることを信じていました。それとともに彼の役目は神様の信仰から離れていた、あるいは神様を信じるといいながら、神様の御心にかなうような生活をしていない人たちを非難してきたのです。それは、洗礼者ヨハネはこのように神様への信仰を形だけで行っているユダヤ人に神様のみ旨に戻れと声を張り上げて、民衆に語っていたのです。 皆さんがご存知のように、洗礼者ヨハネのお母さんエリザベトとイエス様のお母さんは従姉妹同士です。ですから、お互いに行き来がありました。イエス様の小さい時、お母さんに連れられて従妹のところに尋ねたこともあったと思います。時が来て、このヨハネはヨルダン川で、ユダヤの群集に、悔い改めの洗礼を授け、神の国の到来、それは、救い主の到来を力強く語ったのです。 誰でも神様に愛され、また神様によって救われたいのは最もです。しかし、救いにあずかるには何か良いことをしなければならない、神殿で献金をする。生贄の捧げものをする、それによって神様から喜ばれると多くの人たちは思っていたのですが、洗礼者ヨハネはそれ以上に自分の罪を祈りの中で、神様に語りなさい。と勧めたのです。心が神様に向いていないなら、どうして神様の祝福を受け入れることができるでしょうか。 律法は私たちがそれを完全に守ることが出来ないことを教えます。しかしそれが完全に出来ない私たち、つまり、罪を繰り返して行ってきた私たちを神様は私を信じ、私に従ってきなさいというイエス様への信仰を心に持つことにより神様の平安、恵みを受け取ることができると教えたのです。 これを英語ではこのように言い表します。Law convicts us to sin, but grace forgives us. 律法は私たちに律法を守ることができないことを指摘し、その反対に恵みは私たちをその罪から解き放ってくれるのです。 最後に二つの話を聞いてください。これは私の友達の先生から送られた短い話ですが、今日の説教のないようにとてもちかい話です。英語のものですが約するとより英語で聞いてください。 Now I want to share with you with a story of the husband and wife who didn’t really love each other. The man was very demanding, so much so that he prepared a list of rules and regulations for his wife to follow. He insisted that she read them over every day and obey them to the letter. Among other things, his “do’s and don’ts” indicated such details as what time she had to get up in the morning, when his breakfast should be served, and how the housework should be done. After several long years, the husband died. As time passed, the woman fell in love with another man, one who dearly loved her. Soon they were married. This husband did everything he could to make his new wife happy, continually showering her with tokens of his appreciation. One day as he was cleaning house, she found tucked away in a drawer the list of commands her first husband had drawn up for her. As she looked it over, it dawned on her that even though her present husband hadn’t given her any kind of list, she was doing everything her first husband’s list required anyway. She realized she was so devoted to this man that her deepest desire was to please him out of love, not obligation. This is the way we relate with our Lord Jesus.  No by the…

Tweet ルカによる福音書 21章25-36節 「あなたが用意できていようといまいと、わたしはあなたの所に来る」 私たちの父なる神と、主イエス・キリストより恵みと平安が、あなた方の上にあるように。 アーメン。 教会の暦によると、今日からアドベントのシーズンに入ります。これはクリスマスの前の3週間で、日本語では待降節、つまりイエス様の到来を待ち望む期間です。一般にはこの期間をクリスマスまでの準備の日と考えられていますが、アドベントという言葉の中には、待つとか準備をするという意味はありません。辞書でこの言葉を引いてみると、「重要な人物やイベントの到着、または到来と説明されています。 キリスト教ではこのアドベントは二つの意味があり、第一はイエス・キリストの降誕、第二はイエス・キリストの再臨、つまり蘇られたイエス様自身が、私たちのところに再び戻ってくる時を指します。ですから、イエス様が私たちの元に戻ってくる日があるというのです。 イエス様が十字架にかかり死んだその裏に、イエス様が私たちの罪を背負って死んでくださった、それは本当は私たちが受けるべきであった罪をご自身が受け入れて陰府に下ったということです。 毎日曜、教会の礼拝の中で、使徒信条の言葉を語る時、私たちはイエス様がこの世にまたやってこられる、その約束を待ち望むのです。しかし、イエス様は目に見える形で私たちのところに戻ってくるというより、私たちの心の中に来られるという言い方のほうが正しいのです。それは「私に従いなさい」という私たちへの心の中に語られる言葉で表されているのです。ですから、本当にイエス様は見られる形で来られるのですかという質問に勿論ですとは言い難いのです。しかし、アドベントとはどういうものであるかを今日の説教の中で1つの話をもって語ってみましょう。 一人のお爺さんが、スーパー・マーケットで買い物をした後、帰り道の途中にある公園のベンチに腰掛けました。木枯らしの吹き始めた寒い時でしたが、もう2時間も買い物をしていたためか、足に痛みを感じ始めたのです。彼は彼の大きな両手で膝と太ももをマッサージし始めたのですが、心の中に何か空しい思いが湧いてきたのです。というのは、彼は奥さんに先立たれて今は一人暮らし、子供に恵まれなかったので、毎日の生活も一人ぼっちの孤独さをいやというほど感じて毎日を過ごして来たのです。 ところが、目をつむって、足のマッサージをしていたそのおじいさんの膝になにかあったかい、そして柔らかい感触を感じたのです。びっくりして目を開けると、おじいさんの真ん前にやっと歩くことができるようになった男の子がやってきてこの子もおじいさんの膝に手を置いて立っていたのです。 近くのベンチにこの赤ちゃんのお母さんが座っていました。お母さんはお爺さんに「すみません、うちの子が、何か迷惑な事でもしたようで」と話しかけると、お爺さんは、「いいですよ。私はこの子が私のところに来てくれたことだけで、今まで、思い詰めていたわびしさが飛んでいきましたから」。と言って赤ちゃんをお母さんの元に連れていったのです。 お母さんは言いました。「この子はつい2,3日前に一人で歩き始めたばかりで、とっとこ、とっとこ自分の世界が広がったように、それも人前まで行って自分でできることを自慢したいように思っているようですが、ごめんなさいね」。 お爺さん、もう一度この男の子を抱き上げ、お母ちゃんに言いました。「私は家内に先立たれて以来何時もわびしさを感じていましたが、今日、お宅の坊やが私を訪ねた時、何か心の中に暖かいものを感じました。こちらこそ、ありがとうと言うのです。」私たちが心の中に何か温かいものを感じる時、何か希望を抱く思いになった時、何か心の中に希望を抱くことができるようになった時、それは、そこに、神様が、私たちを見守ってくださっている、私たちに希望を与えてくださっている、神様が、今ここにいらして私たちを支えてくださっていることを知るのです。 アドベントは神様がいま私たちと共にいることを、そして神様がこれからも私たちの命が、この地上で続くかぎり私たちを見離すことはないことを死に打ち勝った、イエス様がいつも私たちと共にいて力と慰めを与えてくださっていることを知る時です。 イエス様は私たちから離れることはありません。悲しい時、わびしい思いに駆られる時、もの悲しい思いが私たちを暗闇の中に閉じ込めてしまうような思いになる時にも、光を持って、希望を持って、イエス様は、常に私たちと共にいるんだよと聖霊の力を与えてくださるのです。 またこのアドベントの時は和解の時でもあります.私たちは神様の姿に似て作られたと聖書から語られていますが、完全でない者です。思いも行いも、イエス様を見習って生きてゆこうと思いつつ、その反対のことをしてしまう私たちです。罪を20も30も重ねて生きている私たち、愛していただく資格もない私たちをあなたの御心にとめていただいていることに感謝します。どうか、このアドベント、あなたが再び私たちの間に来てくださる約束の中に、あなたの思いを悟らせてください。 最後に、イエス様は「あなたが用意ができていよう、いまいと、私はあなたの所に来る」とおっしゃっているのです。ですから今こそ、イエス様のこの言葉を心に止めてください。それは私自身が心に留めなければならないことです。神様から罪の許しをいただいて、お互いを大事にする心が私たちの心の中の育つよう祈りましょう。アーメン。  “I will come to you whether you are ready or not” May God the Father and The Lord Jesus Christ give you grace and peace.  Amen.   When Jesus was risen from the dead and then return to heaven, he has promised that he will come back or return to us.  That is called the Second coming of Jesus.  I don’t know about you, but there’s a certain comfort in imagining what it might be like to see the Second Coming of Christ.  After all that is what Jesus has promised to us.   But at the same time we think the second of coming of Jesus is the time of Armageddon. That is, the time of the rapture, the time of judgment of the people.  Those who has been faithful to Christ and his teaching and those who don’t have faith. You probably know some of the Christians who come to your home and tells you that you have to accept Christ or else. They are the one who also tell you the time Jesus is imminent that we need to prepare for him.   The famous radio talk show host Garrison Keillor who is the most famous Lutheran often talks about Church matter on his radio show “A Prairie Home Companion”.  He talked the conversation about the Advent with his parents were never a time of hope and expectation connected to the cradle and the manger; but a chance…

Tweet 「イエスの声を聞く」ー神様の時計に動かされてー 互いに「となりびと」でありたい。 —神様の時計に動かされて— 互いに「となりびと」でありたい。 ヨハネによる福音書 18:33-37  今日の福音であるヨハネ18:37後半に「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声に聞く。」とあります。 あるクリスチャンスクールで、ひとりの生徒が休み時間に教師に質問しました。「先生はよく 『ほんとうの』 というけれども、『ほんとう』 とは何なの」と。その教師は動揺して、その時のことを今でもはっきり覚えているそうです。 私たちが普通に「真理」といえば、「思いや言葉が事実と合致していること」とか、「実験をしたりして真実性が検証されたこと」というように、こちら側の認識に重点が置かれます。しかし聖書が語る「真理」はものの側の、というか、あちら側の「堅固さ、確かさ」を指しているようです。ですから、「真理の言葉」とは、「事実と合致した言葉」というよりは、「その言葉のもつ確かさ、信頼性」に注目した表現のようです。このように知ると、私たちは、イエスの声に心の耳を澄ませて、全身全霊をもって傾聴して、イエスの声の「まこと」「確かさ、信頼性」を自分のものとすることが大切であることに気づかされます。  「祈る」とは、願いをすることよりも、「神さまのお声に心の耳を澄ませる」ことのようです。東日本大震災を通して私が知らされたことはまさにこのことでありました。 神さまの時計は実に正確です。そのことを通して、神さまが私たちの在り様を驚くほどよくご存じであることを知らされます。時を告げることを通して、神さまは私たちに決然と指示を出されます。とても逆らえるものではありません。従うしかありません。でも、それは喜びが、楽しさが溢れてくることに繋がっています。 “Listen to the Voice of Jesus” LCR Japanese Ministry 24th Anniversary    2012.11.25 Inspired by God’s Clock      Called to be a “Neighbor” Rev. Fumio Itoh                                John 18:37 “…I came into the world, to testify to the truth. Everyone on the side of the truth listen to me.”  At one Christian school, a student asked the teacher “You frequently say ‘the Truth’. What is the truth?”The teacher was dumb struck. He still remembers that moment very clearly.  When we say “the truth”, it means that our thoughts and words match reality, or its credibility was proven by the experiment. These justifications of the truth emphasize our values.However, “the truth” in the Bible is based on its divine value of solid and precise. So the truth in the gospel means firm, trustworthy words rather than facts or statements that match action or result. Once we understand this, we realize how extremely important it is for us to listen to the voice of Jesus with our hearts and soul.  By doing that, we are able to make His words of truth, precise, and trustworthy on our own.  Prayers are not just asking God what we want; our prayer should be that we listen to the voice of God. I have certainly learned this after the Great Eastern Japan Earthquake, as I have been serving the people who were affected by the disaster.  God’s clock is precise. Through that fact, we understand how God knows everything about…

Tweet マルコによる福音書12章38-44節    「最も小さいものは最も大きなもの」 私たちの父なる神と主イエス・キリストより祝福と平安があなた方の上に有るように。アーメン。 聖書を読んでみると、そこに沢山のパラドックス、逆説的な言い方が見つかります。たとえば、最初の者は終わりになり、終わりの者は最初の者になるという言い方です。弱い者は強いものであり、今日の福音書によると、最も小さなギフトは最も大きなギフトだというのです。 今日の福音書を読んで見ますと、一人の貧しい寡婦が、一番低い価値の銅貨二枚を賽銭箱に入れたと書いてあります。この女性は夫が先に亡くなり、今でいうSocial Security も、Pension も、この時代には、生命保険も無かったので、主人那が死んでしまった後には、息子がいないならば、仕事も出来ず見つけることも出来ず、物乞いをして暮らすことしかできなかった訳です。しかしながら、この老いた女性はたった2枚の一番価値の低いお金、それも彼女の持っていた最後の銅貨2枚を神殿の賽銭箱に収めたのです。 イエス様は財産のある人が納める献金をどうのこうの言っているのではありません。しかし、財産を持たない人が、献金をする姿を讃えいるのです。勿論銅貨2枚といっても2セントのような微々たる献金でしたが、彼女にとってそれが全財産だったのです。イエス様はそれを知っていたのです。さて、この女性の行いから3つのことを学ぶことができます。第一に、この寡婦が貧乏であるにもかかわらず、献金を捧げたことです。第二はこの寡婦はこの献金を心のこもった思いで捧げたことです。そして第三は、この寡婦の献金が神様によって祝福されたことです。 この寡婦が与えた献金が、それは全財産であったことも大切なことですが、それ以上に自分には今何もない状態の中で神様に感謝したことです。彼女は献金をした時、どれだけしたらよいかと考えるより、神様に献金を捧げることができることに感謝したのではないでしょうか。思い出すに、神様は何もしない野ばらにもその素晴らしい姿、香を与えてくれると聖書に書いてあります。私たちの神様に差し出す献金は心のこもった神様への捧げものであるならば、それが幾らであろうと神様に喜ばれるものであると思います。 これは私がもと牧師として働いた、テキサス州ダラスの教会の会員ですが、その人はまだ、いろいろな所で開拓されていない何千エーカーもある土地を買い、その土地に電気、水、下水、また将来の住宅、shopping center, 学校の土地を確保していく仕事をしていたland developer と言われたやり手でした。みなさんの中で1980年代にポピュラーだった “Dallas”という テレビの番組を見たことのある方いると思います。この人は、このようなplan  developmentの 土地の一つ一つに、教会が必要と、5エーカー 程の土地を無償で、多くの教会に与えたのです。ダラスでこの人がお金持ちであることは誰でも知っていました。しかしそれ以上に、彼は熱心なクリスチャンとして知られていました。彼はイエス様の福音を多くの人に知って欲しいという熱情を持っていたのです。ですから一概に、裕福の人が神様の国に入るのは難しいとは言えないでしょう。 これは誰でも経験したことがあると思いますが、クリスマスになる前に、子供たちの欲しがっているプレゼントを買って、クリスマスイブに子供たちがベットに入ったのち,一つ一つのプレゼントを包んで、クリスマス・ツリーの下に置いたのを覚えているでしょう。日本から、またPennsylvania のおじいちゃん、おばあちゃんから送られたクリスマスのプレゼントもクリスマス・ツリーの下におかれたのです。朝早く起きてきて興奮している子供たちの顔を思いだして下さい。大人になって、また親になると、私たちは、人に何かを差し上げたい、分かち合いたいという気持ちが大きくなって来たのに気が付きました。何かを受ける、頂くことも感謝ですが、それ以上に何かを与えたいという気持ちです。それは、金銭的なことだけでなく、心の中で生まれた人々への思いやりと、その感謝の思いが私たちの心の中であるはずです。来週に感謝祭を守りますが、私たちは、誰でもこの感謝の心を大事にしたいたいと思っているはずです。感謝のない心はかたくなな心、そしてこのかたくなな心は喜びを求めません。喜びのないところにどの様に人々が集まることができるでしょう。 さて、皆さんは、「鶴の恩返し」という話を知っているはずです。これは私の一番好きな日本の民話です。それを聞いてみてください。 昔々、貧しいけれど、心の優しいおじいさんとおばあさんがいました。ある寒い冬の日、おじいさんは町へ薪を売りに出かけました。すると途中の田んぼの中で、一羽のツルがワナにかかってもがいていたのです。 「おお、おお、可愛そうに」  おじいさんは可愛そうに思って、ツルを逃がしてやりました。  するとツルは、おじいさんの頭の上を三ベん回って、 「カウ、カウ、カウ」と、さもうれしそうに鳴いて、飛んで行きました。その夜、日暮れ頃から降り始めた雪が、コンコンと積もって大雪になりました。おじいさんがおばあさんにツルを助けた話をしていると、表の戸を、トントン、トントンと、叩く音がします。「ごめんください。開けてくださいまし」若い女の人の声です。おばあさんが戸を開けると、頭から雪をかぶった娘が立っていました。おばあさんは驚いて、「まあ、まあ、寒かったでしょう。さあ、早くお入り」と、娘を家に入れてやりました。 「わたしは、この辺りに人を訪ねて来ましたが、どこを探しても見当たらず、雪は降るし、日は暮れるし、やっとの事でここまでまいりました。ご迷惑でしょうが、どうか一晩泊めてくださいまし」娘は丁寧(ていねい)に、手をついて頼みました。「それはそれは、さぞ、お困りじゃろう。こんなところでよかったら、どうぞ、お泊まりなさい」「ありがとうございます」娘は喜んで、その晩は食事の手伝いなどをして働いて休みました。 あくる朝、おばあさんが目を覚ますと、娘はもう起きて働いていました。いろりには火が燃え、鍋からは湯気があがっています。そればかりか、家中がきれいに掃除されているのです。「まあ、まあ、ご飯ばかりか、お掃除までしてくれたのかね。ありがとう」 次の日も、その次の日も大雪で、戸を開ける事も出来ません。娘は、おじいさんの肩をもんでくれました。「おお、おお、何て良く働く娘さんじゃ。何て良く気のつく優しい娘さんじゃ。こんな娘が家にいてくれたら、どんなにうれしいじゃろう」 おじいさんとおばあさんは、顔を見合わせました。すると娘が、手をついて頼みました。「身寄りのない娘です。どうぞ、この家においてくださいませ」「おお、おお」、「まあ、まあ」おじいさんとおばあさんは喜んで、それから三人貧しいけれど、楽しい毎日を過ごしました。 さて、ある日の事。 娘が機(はた)をおりたいから、糸を買ってくださいと頼みました。おじいさんが糸を買ってくると、娘は機(はた)の回りにびょうぶを立てて、 「機をおりあげるまで、決してのぞかないでください」と、言って、機をおり始めました。キコバタトン、キコバタトン。娘が機をおって、三日がたちました。ようやく機をおり終えた娘は、 「おじいさま、おばあさま、この綾錦(あやにしき→美しい布の事)を町へ売りに行って、帰りにはまた、糸を買って来て下さい」と、娘は空の雲の様に軽い、美しいおり物を二人に見せました。「これは、素晴らしい」 おじいさんが町へ売りに行くと、それを殿さまが高い値段で買ってくれました。おじいさんは喜んで、糸を買って帰りました。すると娘はまた、機(はた)をおり始めました。 「ねえ、おじいさん。あの娘はいったいどうして、あんな見事な布をおるのでしょうね。・・・ほんの少し、のぞいてみましょう」  おばあさんがびょうぶのすきまからのぞいてみると、そこに娘はいなくて、やせこけた一羽のツルが長いくちばしで自分の羽毛(うもう)を引き抜いては、糸にはさんで機をおっていたのです。                            「おじいさん、おじいさんや」おどろいたおばあさんは、おじいさんにこの事を話しました。  キコバタトン、キコバタトン・・・。  機の音が止んで、前よりもやせ細った娘が布をかかえて出てきました。 「おじいさま、おばあさま。もう、隠していても仕方ありませんね。  わたしは、いつか助けられたツルでございます。  ご恩をお返ししたいと思って娘になってまいりました。  けれど、もうお別れでございます。  どうぞ、いつまでもおたっしゃでいてくださいませ」  そう言ったかと思うと、おじいさんとおばあさんが止めるのも聞かず、たちまち一羽のツルになって空へ舞い上がりました。  そして家の上を、三ベん回って、 「カウ、カウ、カウ」 と、鳴きながら、山の向こうへ飛んで行ってしまいました。 「ツルや。いや、娘や。どうかお前も、たっしゃでいておくれ。・・・今まで、ありがとう」  おじいさんとおばあさんは、いつまでもいつまでもツルを見送りました。 さて、みなさんから「この話は今日の説教とどう関係するのでしょうと質問されるかもしれません。これはこじつけのように思われるかもしれませんが、日本の民話の終わり、最後の締めくくりが、いつも何となく、喜びと悲しさが入り混じった感じであるということです。 しかし、これらの民話が教えてくれることは、お互いにお互いを大切にしなさい。困っている人を助けなさい、親切にもてなしなさい。お互いに泣きなさい、お互いに喜びなさいということではないでしょうか。 何か今日の説教が本意からそれてしまっていると指摘されても当然ですが、私の思いは来週迎える感謝祭の思いが、福音書の最後の2枚の小銭、それも、自分のすべて持っていたものを神様にささげた婦人の話と鶴の恩返しという話で私の心を捉えたからです。 祈りましょう。 父なる神様、どうか私たち一人一人の上に、あなたの哀れみと祝福を与えてください。私たちにとって一番大切なことは、あなたについてゆき、あなたから祝福されることです。しかし、同じように私たちが、お互いを助け合うことが大切な役目であること、それをすることによって神様を賛美できるような純情な心を私たちの中で育ててください。この祈りを主イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。         Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet ローマの信徒への手紙3章19-28節 「信仰による義」   “Justification by Faith” 私たちの父なる神と主イエス・キリストから祝福と平安があなた方の上にあるように。アーメン。 今日は宗教改革記念日です。と言ってもそれは何でしょうかと思われる方がいると思います。私は両親に連れられて小さい時からルーテル教会に行きましたが、ルーテルと言う意味が何であるかがはじめて分かったのは高校生になってからのことです。ルーテルとはマルチン・ルターと言う16世紀のドイツに生まれたカトリック教会の司祭であり、英語ではLutherです。日本人の多くの人は、マルチン・ルターは、アメリカ公民権の指導者として活動し、1964年にノーベル平和賞を受けた黒人の牧師さんではないかと思われますが、それはマルチン・ルター・キングです。 今日お話しするマルチン・ルターは聖書学の教授でもありました。この人がヨーロッパの教会を支配していたカトリック教会、それもカトリック教会の法王と教会の救いの定義を否定したことにより、カトリック教会から破門されたのです。 しかしルターは彼をサポートしたPrince Fredrick と言うルターの住んでいた所の王様に守られてキリスト教、特にカトリックの教えに反対する運動を起こしたのです。私たち日本人は教会、特にキリスト教会の教えとは何であるかという問いについてあまり、つきつめて考えることがありません。聖書はよく読む人も、聖書に書かれている物語は遠い外国の昔起こった話、そこで起こった事件、物語は、東洋人の私たちにどのように関係するのだろうと思ったことがあったはずです。 それはクリスチャンの人口が日本ではまだ1%もいない数で、聖書を読んだこともない人が多い、また、キリスト教は西洋人の宗教だと考える人がまだ多くいるからです。 私は日本人の宗教観、特に仏教、神道を否定しません。日本の文化が仏教と神道との関係を持って築かれたことを知っています。私の父母も20歳のころから聖書を読み始め、教会の礼拝に通うようになりました。お互いが違う教会に行っていたのですが、婚約後、父の家の近くで、アメリカ人、それもアメリカのルーテル教会から宣教師として派遣された、オラフ・ハンセン牧師と、戦争中、投獄されていたルーテル教会の川島先生がいっしょに始めた、東京JRの巣鴨駅に近い小石川・ルーテル教会に通いだしたのです。 私は両親がすでにクリスチャンであったことで、生まれて3ヵ月後に小児洗礼を受けました。その式のことは何も知らないままで洗礼を受けたのですが、頭に洗礼の水を注がれた時、眠っていたのでしょう、きっと冷たい水?で起こされ泣き始めたと両親から聞いていました。洗礼がイエス様に従って生きてゆく、またイエス様を神様と信じての生活を送るイエス様の弟子になると云うことはもちろん赤ちゃんの時に分かっていた訳ではありません。しかし幼な心の中に、イエス様は私の神様と言う簡単な信仰告白を自然と教会生活の中で持つようになったのです。 私は高校から大学まで、アメリカの聖公会(Episcopal) と呼ばれる教会で始まった立教学院の中で教育されたこと、それも両親から行きたい学校に行くことは大切と言われたことに今でも感謝しています。大学生2年生の時、すでにアメリカのルーテル教会と関係する神学校に入れる許可をいただきました。牧師になりたいと思った一番の理由は、神様は私たちを愛される方、それも一般に言われる良い人、心の暖かい人、思いやりのある、親切な人を教会の中で、見てきたからでしょう。イエス様の愛を分け合いたいとの思いが聖霊を通して私の心を掴んだからです。 さて皆さんから、岸野先生の今日の説教は宗教改革記念日とどういう関係があるんでしょうと思われている方もあると思います。 それは私が、マルチン・ルターが掲げた言葉、「信仰によって義とされる」と言う言葉が、キリスト教の教えの中で一番大切な言葉であると確信を持っているからです。私たちは、だれでも、自分が、神様に正しい人、親切な人、思いやりのある人と呼ばれたいはずです。それも、自分を正当化する訳でなく、自分が、神様に仕える者となることは他の人間に対して正しい生き方をすることができるような人生を送りたいと言う思いがあるからです。もちろん誰でも、自分と言う人間を「あの人はいい人だ、心の広い人だ、寛大な人だ、慈しみに富んだ人だ、親切な人だ」と呼ばれたいのです、思われたいのです。私は皆に嫌われて人生をすごしたいと思う人は独りもいないはずです。どの宗教も、「私たちはどのように生きてゆくべきか、私たちの他人に対しての関係はどういうものであるべきか」と言う問いを私たちに投げかけています。そしてそれに対しての生き方、または道を示しているのです。 儒教は日本人にとって人生の道徳を教えています。両親を敬え、年寄りに親切にしなさい、先生に感謝しなさい。これはどの宗教でも言われることですが、私たちが、私たちの行動、それも良き行いを行うことで、私たちの人生の点を稼ぐと言う言い方もあります。稼いだ点が多ければ大きいほど、この世を去った後、天国に入れる確立が多いと言うのです。天国は神様のいらっしゃる所ですから、誰でもそこに行きたいのです。天国に入ると言うことは永遠の救いを受けるとどの宗教も教えていたのではないでしょうか。 中世のカトリック教会は、私たちの良き行いにより、私たちの死んだ後、天国に行かれる可能性が高くなるとい説を打ち出してきたのです。そこで、ヨーロッパの中世期にカトリック教会は「善行による救い」と言う教えを、カトリッツク教会の世界で一般に信じられるようになったのです。クリスチャンとして人々に良い行いをする。奉仕をする、物を分かち合う、これら自身は大切なことですが、これらをポイントとして加算することにより、その点が多ければ多いほど、その人の天国に入れる確率が多くなると考えられるようになったのです。 最もこれはどの宗教に対しても言えることではないでしょうか。仏教はヒンズー教を母体に生まれてきましたが、どちらの宗教にも、私たちの生きてきた生活によって、私たちはまた再び命をいただいて送り出される時、あるいはまた人間として、或いは、動物、猿、犬、猪、あるいは、虫などのかたちで戻ってくると言うのです。ですから、自分の人生を正しい仕方で全(まっとう)しなさいと言うのです。日本人なら誰でもそのような命の繰り返しを恐れていたはずです。 中世のカトリック教会も沢山のこのような迷信を生み出し、神様の救いを受けるためには、一人ひとりがこの世にいる間に、よき行いをし、点数を稼ぐことにより永遠の命を約束されたのです。もちろんその約束は教会の上の位にある聖職者によって与えられていたのです。多くの献金をすることも点数を稼ぐ機会であり、敢えて言うなら、献金をすればするほど、天国に行ける可能性が高くなるという証明書をいただいていたのです。これを聞いて、「ええ、そうだったんですか、そんなに教会も堕落していたんですか」と思われても仕方がありません。 16世紀の初めにカトリック教会のレオ10世は、バチカンのSt. Peter 大聖堂の建築のため、資金稼ぎに、免罪符と言う罪の許しの御札をヨーロッパのカトリックの地域で売り始めたのです。カトリック教会はその教えの中に天国と地獄と言う私たち日本人でも考えられる人が死んだ後行き着く世界を描き、その中間には煉獄と言う世界があり、そこは救いのない場所。しかしそこは天国と地獄の間にあるところで、多くの人達がそこで宙ぶらりんになって苦しんでいると人々に言い聞かせたのです。その苦しんでいる人達は、私たちの先に亡くなった親、兄弟、姉妹であり、その人達が煉獄から天国に移るためには、免罪符と言うローマ法王の元で売り始められた罪の許しの書かれた紙切れを買うことによって救われると教えたのです。勿論このような紙切れに書かれた免罪符というものが人の罪を取り除くことは出ません。マルチン・ルターはこの免罪符を売り始めた法王を批判したことによって、ローマ法王とカトリック教会から破門されたのです。破門されるということは、もはや教会の祭司としての仕事ができなくなるばかりか、ルター自身の命もねらわれたのです。ルターは彼の住んでいた土地の王様から守られ、3年にわたって人目に付かないお城の屋根裏に隠されたのです。人々はルターがローマ法王から送られたものにより誘拐され、また殺害されたと言う噂が立ったのです。しかしこの3年間はルターにとっては大切な時でした。当時、聖書はラテン語で書かれていましたし、教会の礼拝もラテン語で行われたのですから、教会のミサに出席するものたちは、何が話せされているかもわからなかったのです。3年隠されて生活していたルターの一番の貢献は、聖書を当時のドイツ人の使っていた多くの方言をまとめて、ドイツ語を一つの言語にまとめたことです。聖書が、一般の人にも読めるようになったのは、イエス様の教えが、正しく教えられるようになったと言うことです。ルターは後にキリスト教の教えを小教理問答という本で紹介し、キリスト教の正しい教えを、一般の人も分かるように書かれたのです。人が神様から赦されるのは、免罪符のような物を買うことによってではなく、ただイエス様が私たちの罪のためにご自身を十字架の死において取り去ってくださったことを信じなさいと教えたのです。 キリスト教会の大切な救いの教義は、人が自分の力で、自分の能力で救いを得ることはできません。私たちの救いは、神様であるイエス様が私たちを愛するがゆえに、自分の命さえも惜しまず、私たちの罪を背負って、私たちの代わりとなって死んでくださったことです。しかし、イエス様は父なる神様の愛と力によって甦がえらされたのです。この独りのカトリックの祭司、マルチン・ルターによってのローマ法王に対しての抵抗運動はヨーロッパ中に広がり、それが、プロテスタント教会を生み始めたのです。 プロテススタント教会は、ドイツにおいてマルチン・ルターの名前を取り、ルーテル教会、そして、長老派教会、バプテスト教会、メソジスト教会、改革派教会、英国国教会(Anglican Church, 聖公会)聖霊派(ペンテコスタル)教会と広がっていったのです。 この宗教改革は今までの教会の中で使われていた言葉であるラテン語から、自分たちの国語での礼拝の仕方に代わって行ったのです。マルチン・ルターは16世紀にドイツの地域で使われていた方言をまとめドイツ語の統一に尽くしたことでも知られています。 またルターはカトリック教会で禁止されていた祭司、修道女の結婚を認めたのです。ルターは修道院に入っていたキャサリナさんと結婚して聖職の人も家族を持つように薦めたのです。16世紀にこの宗教改革が起こった、またそのニュースがヨーロッパ中に広がって行った一つの大きな理由はグーテンブルグと言う人の発明した印刷機が、時のニュースを活字で打ち込んだものを大量に印刷し、それを多くの地方に送ることができたからです。これはわたしたちが今e-mail でインスタントに手紙やニュースをたくさんの人達に送ることができるのとよく似ています。 最後にもう一度はっきり私たちが知らなければならないことは、私たちの救いは私たちの良き行いをしたことで、いただけるものではなく、私たちの罪を背負って十字架に架かって死んでくれたイエス様の受難と復活により、それが成し遂げられたこと、また、今生きておられるイエス様を信じ、信頼する中で、私たちは神様の愛を受けていることを、感謝することです。 このただ一回の説教で、すべての宗教改革のもたらした結果のすべてを言い述べることはできませんが、イエス様は聖書の中で書かれている言葉として、また私たちの祈りを聞いてくださる方で、私たちを永久の愛をもって見守っていらっしゃることを覚えてください。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マルコによる福音書10章35-45節 「イエス様の右と左に座りたい弟子たち」     “The disciples who want to sit both side of Jesus” 私たちの父なる神と主イエス・キリストからの平和と祝福があなた方の上にありますように。アーメン。 皆さん「ギネス世界記録」と言う本を読んだことありますか?これは毎年新しい世界中でできた、起こった記録の一番、 “Number One” を紹介している本で、とても面白いものです。今日の説教の初めに世界の中で起こった、これはナンバー・ワンだと言う幾つかのことを紹介しましょう。そこで世界中の中でつい最近テレビで見られた出来事とそれを見た人の数の一番多かった出来事とは何だったでしょうか? それはイギリスのロンドンで今年の9月に行われたオリンピックのオープニング・セレモニーです。4年前の中国でのオリンピックのオープニング・セレモニーは、3.5 billion の人達が、しかし今年のオリンピックのオープニング・セレモニーは4 billion の人達によってテレビで見られたそうです。オリンピックで一番の多くのメダルをとっつた人とその数は? アメリカ人で Michael Phelps と言う皆さんも御存知の人で、彼は過去4回にわたるOlympicで22 のメダルを獲得しました。その中身はが18が金メダルです。 Boxingで一番有名な人は? Mohammed Ali ですね。Golfで世界1番と知られる人は? それはいまのところJack Nicholas と言う人で、彼は過去18のMajor タイトルを取った人ですが、Tiger Wood がそのつぎで、14のMajor タイトルをもっています。 20世紀に、一番有名な学者と言うと? それはAlbert Einsteinです。世界で一番多くのレコードを売った人は? これは独りではなく、4人のグループでその名はBeatlesです。アメリカ人の中で誰が一番素晴らしかった大統領は? 今日の調査によるとそれはAbraham Lincoln です。 さて、誰がどの部門での世界一と言うことを聞く、知る、そのこと事態に問題はありませんが、私が世界の中で一番力を持つものになりたいと、そのような野望を持った、持っている人を皆さんどうお思いですか? ヒットラーのように世界を征し、独裁者として権力を持つ者になりたい、またそのようになった男は恐ろしい人です。 今日の福音書の中で出てくるゼベダイの子、ヤコブとヨハネは彼らの父と共にガリラヤ湖で漁師をしていた男でしたが、イエス様についてきなさいと言われて、漁師を仕事をやめてイエス様に従ってきたのです。勿論ほかの弟子たちもイエス様から、「私についてきなさい」と言われたはずです。しかし12人の弟子の中には私はイエス様に一番近い弟子、一番信頼される弟子、つまりイエス様の一番の側近になりたいと思っていた弟子もいたと思います。ですから最初にイエス様から選ばれたヤコブとヨハネは私たちこそイエス様の右大臣、イエス様の左大臣となりたいと思うようになったのではないでしょうか?しかしながら、イエス様の弟子と選ばれた者はヤコブ、ヨハネに限らず、3年間イエス様に従ってきた、イエス様のなされた奇蹟を目撃してきた、同じ釜の飯を食べてきた、ただの普通の人以上にイエス様から信頼されているんだと思い込んでいたのではないでしょうか?ですから、昔風に言うなら、殿様の右大臣と左大臣に選ばれるなら、それほど大きな光栄はないと思い出したのだと思います。 皆さんは福音書の中に書かれている、イエス様の姿が変わるという記事を覚えている方がいらっしゃると思います。それはイエス様がペテロ、ヤコブとヨハネを連れて高い山に登られ、そこでイエス様の姿が真っ白に輝き、昔、天に生きたままで連れて行かれた預言者エリヤがモーセと共に現れ、イエス様と語り合ったと言う話です。それを見たペテロはこれは素晴らしいことで、仮小屋を3つ建てましょうと言ったのです。12弟子の中で、ペテロとこの兄弟であるヤコブとヨハネがそこにいることを栄光と考え、私たち3人は他の9人の弟子にまさる弟子との思いが出てきたのではないでしょうか。また他の9人の弟子たちが、精神病の男の子供を癒そうとしたのにそれができなかったと言う事件に対して、ヤコブとヨハネは、他の弟子たちより私たちのほうが、イエス様に近い、側近の弟子と思うようになったのだと思います。イエス様はそのことを聞いて、憤慨し、「あなた方の間で偉くなりたいと思うものは、使える人となり、頭になりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない」と言ったのです。そしてイエス様は、また、一人の子供を彼の腕で高く上げ、「自分の高ぶった思いから出られないものは天の国に入ることができない」とおっしゃったのです。ヤコブとヨハネは自分たちの栄光を望んでいたのです。私たちは他の弟子たちよりイエス様に愛されていると自慢したかったのです。しかし、そのように自慢をすること自身が彼らの信仰がまだ未熟であることを暴露したのです。私たちが、幾らこのヤコブとヨハネから離れようとしてもそれができないのは私たちの信仰が自己中心であるからです。信仰の一番大切なことは、イエス様が一番と言うことです。イエス様、言い換えれば、神様に私たちは生かされているのです。神様が私たちの人生を導いてきてくれている、神様によって本当の人生の喜びを持つことができることを知ることです。私たちは、心を開き、イエス様、神様に「どうかこのとるに足らない私を愛してください。あなたなしにしては、私は生きていけません」と心を低くして祈る中で、神様、イエス様に本当に私は愛されていることを知るのです。 さて、最後に今日の福音書に平行した話を紹介しましょう。それはMarion Mill という人の人生についての話です。この人は20世紀の初めにHungary の王様の娘として生まれてきた人です。素晴らしい教育を受け、若い医学校の学生であるOtto さんと言う人と結婚し、アメリカにわたり,Hollywood で生活をするようになりました。Marion はそこで俳優になることを夢見たのです。ご主人のOttoさんも映画の世界に興味を持ち始め、ついには、医者から映画のDirectorとなったのです。しかしshow businessの派手な生活、特にアルコールと麻薬に取り付かれた生活から抜け出そうと、自殺を3回も試み、命は取り留めたもの、憂鬱症にかかった彼女は Ottoと離婚をしHungaryのViennaに戻ったのです。ある時、Marion は、あるParty で有名な医学博士に出会ったのです。彼はAlbert Schweitzer と言うアフリカで原住民を対象に病気の治療をしてきた人です。Marionさんは、このDr. Schweitzerの活動に心を引かれ、自分もこの病気の人たちに対しての治療の世話をしたい、どうか私を連れて行ってくださいと頼んだのです。そして、Dr. Schweitzer  はMarionの願いを聞き入れたのです。ヨーロッパでPrincess として生まれたMarion さんは、病気の人、それも死にかかった人の世話を彼女の生涯の仕事として働いたのです。 Marion さんは後に自分の自伝を “ALL  I want is everything” と言うタイトルで出版しました。Marion さんが亡くなった後、新聞はDr. Schweitzerの言葉をかりてこのようにMarionさんに対しての記事を載せたのです。 “Dr. Schweitzer  says there are two kinds of people.  There are the helpers, and the non-helpers.  I thank God the He allowed me to  become a helper, and in helping, I found everything”. これは何年か前の “Phycology Today”と言Publicationの中でか書かれていた記事の内容と一致しています。それを英語で書かれたままで紹介しましょう。記事のタイトルは、”The powerful impact that serving has on our mental emotional health” です。続けて内容を英語で書かれたままで読んでみましょう。    “Those who helped, volunteering in nursing homes, in poor areas of the city, or in churches, were found to be happier and healthier in emotional and physical way than those who did not.  God created you in such way that you need to serve people in order to really experience happiness.” さて日本語の訳ではこのようです。 「貧苦な町の老人ホーム、または教会でVolunteer として働いている人は裕福な町の同じような所で働いている人よりも精神的にも、感情的にもハッピーですと。神様はあなた方がこのような経験により本当の幸福を見つけ出すことができるように、この世に送り出したのですよ。」  イエス様の弟子は、何が彼らの役目が分からなかったことが多くありました。しかしイエス様が、私たちの為に死んくださったことを信じることができた時、本当の信仰を持つことができ、またその信仰を多くの人に知ってもらいたいと伝道に励んだのです。 アーメン Mark 10:35-45 “The disciples who want to sit both side of Jesus” The political heat is getting more intense.  There are only 15 days left until the election and the two presidential candidates are running neck-and-neck.  It is interesting to watch the political maneuvering on the road to the White house. I don’t know about you but I have already a dozen telephone calls asking to vote President Obama or Governor Romney. One wonders which of the candidates ‘political buddies will end up…

Tweet マルコによる福音書10章17-31節 「富める青年」 “Young rich man” 私たちの父なる神と主イエス・キリストより恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。 皆さんは時々外食することがありますか? 私は朝家を出て、夜に会議のある日にはある決まったレストランにお昼と夜の食事をこめての食事をします。それも何時も行く所はそんなに遠くないところにあるステーキのお店です。3時ごろに行くとほとんど人がいませんが、あちらこちらに何人かの一人で食事をしている人を見かけます。 先生はそんな所でステーキを食べるなんて豪勢な生活をしていますねと言われてしますかもしれませんが、実際にはそこでステーキというよりも、 buffet style のサラダ・バーを食べに行くのです。しかしそこにはChicken wingもあるし、クラム・チャウダーのスープもあります。そして果物も、ソフト・クリームもデザートであります。はっきり言って、もうこのレストランで食べる物の味が食べ初める前に分かっているので、あまりexcite しませんが、それでもそこで時にはゆっくり食事をし、次の週の説教の下書きを始めることもあります。よく見渡すと、一人で食べている人があちこちにいるのです。 宣伝ではありませんが、それがSizzler と言うレストランではないだろうかと思っていた人もいるでしょう。そのとおりです。庶民的なお店です。 ところで最近このレストランで、 “No sharing” と言うサインが会計の所においてあるのを見ました。と言うことは、二人で来た時に独りがハンバーガーを、そして二人目の人がall you can eat のサラダ・バーをオーダーして、サラダ・バーはall you can eat ですが、それを一緒に食べるのはお断りということです。時には、お父さんと思いますが、小さな子供と共に食事をしている人達を何回か見かけたこともあります。お皿に山盛りのチキン・ウイング、クラム・チャウダー、フルーツの山盛りをテーブルで、食べているのです。別にこの人達と話したわけではありませんが、どうもホーム・レスの人達ではないかと感じたこともあります。時には私も、「あの人はここでよく見かける人でいつも独りきりだ。もしかしたらあの人もホーム・レスの人か」と思われているかもしれません。“No sharing” と言う言葉を、このようなレストランで掲げてられているのは分かります。しかし私たちクリスチャンにとっては、イエス様は私たちの救い主でるイエス様の愛を皆さんに知っていただきたい訳ですから、Sharing  Good News of Jesus はとても大切なことです。 長い前置きになりましたが、今日の福音書の中で、一人の男がイエス様の所にきてこう言いました。「よき師よ、永遠の命を受けるために何をしたら良いでしょうか」。この青年はモーセの10戒を守ってきました。皆からもいい人と呼ばれていたでしょう。しかしイエス様は彼に言いました。「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものを皆売り払って、貧しい人達に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして私に従ってきなさい」。すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去ったのです。と言うのは彼は沢山の資産を持っていたからです。 人々に私たちの持っているもの、それは物質にしろ、お金にしろ、私たちの祈り、思いやりにしろ、それらを分け与えることはキリスト者として、イエス様から言い渡されているのです。しかしクリスチャンだからではなく、私たちの多くは、小さい時から親にそう言われてきたはずです。ある兄弟の男の子が雪の日にお母さんからこう言われました。「あなたたち、そりで遊ぶのはいいけれど、一つしかないそりを交代で使いなさいね」と。お兄さんがそれに答えて、「そのとおりにしてますよ。僕はそりを山の上からすべる時に使い、その後、弟に渡して、山の上まで持たせてあげてます」と。勿論これは冗談ですが、分け与えるとは私たち人間としての義務ではないでしょうか? 初期のキリスト教が広まって行った一つの大きな理由は、お互いがお互いに物を共有して、お互いをかばいながら生きていく生活をしてきたからです。人生の中で私たち一人ひとりが大切なのですが、お互いに、物質的にも、精神的にも、共に他の人達と交わって生きていくことはとても大切なことです。 もと牧師として働いた教会で、お年寄りの方が病気になった時、又は、転んで動くことが不自由になった会員さんに、婦人会の人達が良く食べものを作ってくださり、それを配達したことがあります。心のこもったデザートのパイもありました。それを受け取った人は、ただ感謝して受け取るだけでいいのですが、時にはアルミのパイのお皿に今度は食事をいただいた婦人が自分の得意なパイを作り、それを入れて返してくれたこともありました。そこには感謝の念がこもっていたのです。 お互いがお互いを助け合うと言うことは、私たちが自分の神様からいただいた能力を生かしてそれに励むと言うことではないでしょうか。このことを英語ではSpiritual gift と言います。ある人はひとりで5つも6つものSpiritual Gift を持っている人もいますが、だれでもひとつあるいは2つの Spiritual Gift を持っているはずです。それは何ですかと言えば、音楽の才能、コンピューターに詳しいこと、俳句、短歌、詩吟、お茶、踊り、カラオケ、ダンス、料理、裁縫、スポーツ、病気の人への訪問、庭の手入れと永遠に続くのですが、ここにいる皆さんもそのように自分の持っているギフトを使って分かち合って生きていくことは大切です。 それらの才能は神様からいただいたもので、神様はその才能を皆さんに使って貰いたいのです。それを一つ例を持って皆さんに聞いて欲しいのは、Aiko Gordillo さんの所で月に2回行われる、12人ほどの人の集まる家庭集会です。その場所を提供してくれることがすでにSpiritual Gift であり、皆さんが持ち寄りのご馳走もそのとおりです。そこで賛美歌を歌ってくださる皆さん、音楽の指導をしてくださるさと子さん、色々な花や料理に使える野菜を持ってきてくださる民さん、そして聖書を読んで、皆さんと色々な意見、体験談を話すことにできる、聞くこともできる私たちは幸福です。このように私たち一人ひとり神様から何かのSpiritual gift をいただいているので、それを人との交わりの中で使うのが私たちの義務でもあるのです。 コリント人への第1の手紙12章4節から6節にかけてこう書いてあります。 「賜物はいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務には色々ありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合に全てのことをなさるのは同じ神様です。一人一人に、“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」 ところで、皆さんが、教会の誰かのお葬式に行ってそこで故人の賛美を聞いたことがありますか。そこで、牧師さんが聖書のこのような言葉を語ったのを覚えているでしょう。それは福音書に書かれている「良い忠実な僕よ、よくやった」。という言葉です。英語で    “Well done, faithful servant” です。それはどんな場面の時だったでしょうか? それは良きサマリや人が負傷している男を助けた時です。それは棕櫚の日曜日にイエス様にロバを提供した男の事です。そして5千人が山の上でのイエス様の説教を聴きに来た時、イエス様はどうにかして、5つのパンと2匹の魚をもって5千人以上の人達に食べさせてくれることができるでしょうと信じた少年に対してです。 私たちが神様から愛されていることを知り、その愛を他人へのサービスとして使う時に神様は私たちの全てに神様の愛を深く感じさせてくださるのではないでしょうか。 祈りましょう。私たち人間として一番大切なことは共に心を開いて語り合える友達がいる、悩みの時に、私たちを支えてくれる仲間がいることです。どうかイエス様、私たちの心の友を大切にして、お互いに助け合って人生を暮らせるように導いてください。この祈りを、私たちの神であり、また、私たちの友達であるイエス様の名前によって祈ります。アーメン。   Gospel according to St. Mark 10:17-31 “Young Rich man” May God our Father and the Lord Jesus Christ give you grace and peace.  Amen. Do you eat out during the week days?  I do.  When I have a night meeting, I usually do not eat the lunch and wait till around 4:00 PM and I eat early dinner.  I usually go to the same restaurant called Sizzler because they have a buffet and you can choose from many things. I eat extremely slowly so that I can eat and read.  Sizzler is supposed to know as a steak house, but I like the salad bar and clam chowder, and fresh fruits.  Usually there are handful people in the restaurant when I get there, but the other day I found the sign that states, “No sharing”.I guess there are people who come as twosome and one orders a small burger and the second person orders the salad bar that is all you can eat.  Evidently two people are sharing one salad bar and that is no no. As much as the restaurant is known as a steak house, I have enough to choose…

Tweet 「結婚について聖書からの言葉」”The Bible and Marriage” 私たちの主イエス・キリストから恵みと平安があなた方のうえにありますよう。アーメン。 さて今日の説教の前に1970年代にテレビによくでてきたCaptain and Tennille と言うカップルのThe Wedding Song と言う歌を聴いてください。歌詞は今日の週報の中に折り込まれています。       The Wedding Song He is now to be among you at the calling of your hearts Rest assured this troubadour is acting on His part. The union of your spirits, here, has caused Him to remain For whenever two or more of you are gathered in His name There is Love, there is Love. Well a man shall leave his mother and a woman leave her home They shall travel on to where the two shall be as one. As it was in the beginning is now and til the end Woman draws her life from man and gives it back again. And there is Love, there is Love. Well then what’s to be the reason for becoming man and wife? Is it love that brings you here or love that brings you life? For if loving is the answer, then who’s the giving for? Do you believe in something that you’ve never seen before? Oh there is Love, there is Love. Oh the marriage of your spirits here has caused Him to remain For whenever two or more of you are gathered in His name There is Love, there is Love. 私は1975年に立教大学を卒業したすぐ後、アメリカ、ペンシルベニア州のGettysburgと言う所にあるルーテル神学校に行きました。神学校を出るには4年かかります。3年目はインターン・シップの時で、私は、その一年をLebanon という町の教会で過ごすしました。そこはPennsylvania Dutch、Amish とかMennonite という 200年も自分たちの文化を電気も、自動車も使わない農作をしている人達の多いところでした。 どうしてそこにインターン・シップに行ったのかは自分では今でも分からないのですが、そこの牧師さんから私に是非来てほしいとの誘いがあったからです。教会の仕事の内容は日本とあまり変わりません。しかしこの教会は町の中で一番大きな教会で、1,200人もの会員さんがいました。主任牧師は私の主な仕事は、教会に来られない会員、そして病気の人を訪ねることであると言ったのです。 ある日、ある会員である女性のおばさんで、老人ホームで、リクリレーション・セラピーをしている人から、 “Yutaka, I want you to visit me at my work place”と言われ、そこにおばさんを訪ねると、  “I want you to meet with someone” と言われ、このsomeoneとは誰だろうと思っている間にある若い女性を連れてきたのです。 2週間前に説教の中でFiddler on the Roofの話をしましたが、その中にいたMatch makerがいました。まさに、このおばさんが、その役をはたしたのです。若い女性とは当時22歳の Occupational Therapy の勉強をしていた、家内のナンシーです。二年間の付き合いの後、結婚式を挙げました。私の両親、また幼稚園から中学まで一緒に育った親友がthe  best  man として来てくれました。 今年で結婚生活33年目です。初めの教会はPhiladelphia でそこに副牧師として4年間、その後、テキサスのダラスで3年、またGrand Prairie というダラスの南に新しい新興住宅が建てられた時、Pastor Developer として新しく建てられた家を一軒、 一軒尋ねました。もうそのころは4才になる娘のKatie と生まれたばかりのAndrew の面倒を見るお母さんの仕事をしながら、交代に子供の面倒を見ました。また、家内は、昼間病院でOccupational Therapist として働いていたので、小さい子供を抱えて働く生活にはチャレンジが沢山ありました。しかし夜中に哺乳瓶でミルクを飲ませるのは私の責任でした。早く飲み終えて欲しいのに、少し飲んでは寝て、また起きて飲んでと、私のほうが疲れてしまいましたが、今から考えるとそのように子供たちと過ごすことができたことに感謝しています。 また、金曜日は私のday off…

Tweet マルコによる福音書9章38-50節  “GODISNOWHERE”   私たちの父なる神と主なるイエス・キリストから恵みと平安があなた方の上にありますように。アーメン。 皆さんに今私の持っている紙に何が書かれているか読んでください。「ここで履物を脱いでください」。私がまだ小さい時、家にはお風呂がなく、毎晩床に入る前にお風呂屋さんに行きました。そこで下駄を脱いで、下駄箱に入れ、札をポケットに入れたのです。私の国語の先生は「ここでは、着物を脱いでください」と読んだ人は何人いますかと聞きました。なるほど、点をつける所を変えたら意味がずいぶん変わってしまいます。まさかお風呂屋さんの下駄箱の前ですっぽんぽんになった人はいませんよね。 では同じように GODISNOWHEREを皆さんはどう読みますか? ある人は, “God is nowhere”と 読むでしょうが、反対に “God is now here”と読んだ人もいるはずです。意味としてはまったく反対のことになりますね。   さて今日の福音書によると、イエス様の弟子でない人達が、イエス様の名によって悪霊を追い出していたとあります。それに対してのイエス様の弟子たちの答えは,「その男はそんなことをしてはいけない」と言うのです。「彼は私たちの仲間でない、だから、そんなひとたちに悪霊を追い出す事を、やめさせなさい」と言うのです。イエス様の弟子たちは自分たちの仲間でない人達がイエス様に託された仕事をしていることが気に食わなかったのです。しかしこの人達がイエス様の名によって奇蹟をおこなっているとはおもしろくなかったのです。イエス様はこの男がイエス様の弟子たちの仲間でないことはわかっていましたが、彼はイエス様に反対するものではないと言われたのです。私たち人間はどうもPositive な事より、Negativeなことに気を取られるのではないでしょうか?   これは私の経験ですが、病院で教会の会員さんを訪ね、病室でしばらく会話の後お祈りをします。その後、隣のベットにいた患者さんが、「お願いです、私にもお祈りの言葉をください」と頼まれたことが何回もあります。「どちらの教会の方ですか」との私の質問に、「私は別にどこの教会にも属していませんけれど、神様に癒しのお祈りをしていただきたいのです」と。その患者さんが,洗礼を受けていない、主の祈りも知らない、聖書も読んだことがない、つまり、宗教との付き合いは今までなかった。しかし、病気になって心の安らぎを神様からいただきたいと思うようになったと言うのです。ある時、やはり病院に入院中のユダヤ人のおばあちゃんから、私がキリスト教の牧師であるのを知りながら、詩篇23章を読んでくれと頼まれ、それを読んでいた時、涙を流して祈っている姿に心を打たれました。宗教の違いがあっても、お互いに祈れる時があるとは神様からの恵みではないでしょうか? 皆さんの中にはDr. Robert Schuler を覚えていますか? 彼は、1970年代2000年代の初めにかけて、クリスタル・カテドラルで毎週何千人もの礼拝者を集めて礼拝をしていました。Drive-in Theater から伝道を始めて、彼の伝道のcatch phraseは “Positive thinking” でした。彼はイエス様の伝道、祈り、すべてがPositive thinkingから来る、それが神様からの福音だとも解釈していたようです。それについて多くのクルスチャンはPositive thinking は必ずしも福音ではないと言っていたわけですが、Dr. Shuler の言葉でイエス様を受け入れた、救いを受けたという多くの人がいるのを批判してはいけないのです。私たちは一人ひとり神様に出会う時と場所は違います。赤ちゃんが生まれたその喜びにイエス様を神様として受け入れた人もあれば、監獄の中で神様を信じ、洗礼を受けた人もいます。 イエス様はまた、今日の福音書の終わりに塩について語っています。塩は私たちの生活の中でなくてはならない必需品です。しかし多くの人は塩と聞くと、あまり塩分を取ってはいけない、なぜなら、体の中に塩分が入りすぎると、色々な病気が出てくると答えます。それはそうと知っていますが、塩気のないおにぎり、味噌汁、焼き魚、漬物は食べてもおいしくないし甘いおしるこも、ちょっとだけでも塩を入れることによってもっと甘みが出るのを皆さんご存知のはずです。塩をかける、また塩の中に肉や野菜を漬けるとそれらのものが腐りにくくなり、長時間持ち続けるのです。塩は石鹸、洗剤の中になくてはならない物で、またSodium, 塩は私たちが毎日使う薬品のほとんどの中に入っています。イエス様は、塩をそういう意味で大切なもの、なくてはならないものと教えているのです。ですから聖霊の火と共に私たちに、地の塩になりなさいと教えてくださっているのです。 今日の旧約聖書の日課の中で、40年間、 砂漠をさまよったユダヤ人は肉が食べたいとべそをかいていた時、神様は彼らを哀れんでマナと言う食べ物を空から送ってくださり、マナを食べて満足したユダヤ人は、今度は、魚も食べたい、たまねぎ、なす、人参も食べたい。もしエジプトから、逃げださなかったら、まだおいしい物が食べられたのにとモーセに駄々をこね始めたたのです。そんな時に、”God is nowhere” と言ったでしょう。モーセは、このようなぶつぶつ言う自分の仲間をリードして40年、荒野をめぐりまわり、最後に、シナイ山で神様からの10戒をいただき、この戒律を守ることで、神様からの恵みをいただくことを教えたのです。神様の恵みをいただく私たちはそこで、”God is nowhere” ではなく、”God is now here” と言えるようになるのではないでしょうか。 もう何年も前のことですが、”Reader’s Digest” と言う雑誌の中で次の短い話を読みました。これはある家庭の子供が、近くの農場で働いていたおじさんにアヒルの卵をもらってきた話です。家に帰ってきて、お父さんとお母さんに興奮して言いました。「おじさんが僕にアヒルの卵をくれたの。アヒルのお母さんは卵を産んだのに、それをあっためないんだって。だから僕にくれて、あったかい所においてしばらくするとアヒルの赤ちゃんとなって殻をわって出てくるよと、お父さんとお母さんは言いました。 お母さんは言いました。「いいわよ、でもあなたが毎日面倒見るのよ。卵はね、あったかい所においておかないとだめよ。でも熱い所はだめ」と台所のガス・オーブンのpilot lightの着いている近くの、いつも暖かい所に卵の寝床を作ってあげたのです。一週間、2週間経ち卵は触ってみると暖かい。でもアヒルの赤ちゃんちゃんと育っているのかしらと家族の皆が心配になったのです。もしかしたらもう死んでしまっているかも。お姉さんに、なんか腐った臭いがしているみたいと脅かされて、この男の子、神様に祈ったのです。「神様お願いです。アヒルの赤ちゃんがまだ生きていますように」と。それはまさに半信半疑の思いで言った、 “GODISNOWHERE” の思いでしたが、2,3日たって殻を割って出てきたアヒルの赤ちゃんを見っけて、初めて、神様が今ここにアヒルの赤ちゃんを無事に産んでくれたんだとの “GOD IS NOW HERE” の思いに駆られたのです。 神様が、いつ私と共にいてくれてるんだろうか?神様に私は見放されたんじゃないだろうか、と私たちは良く考えます、また悩みます。しかしそんな時こそ、”God is now here” の信仰の心を抱いてください。神様であるイエス様はいつも、いつも、たとえ、私たちがイエス様を身近に覚えない、感じない時にも私たちを見放すことはなさいません。アーメン。 Mark 9:38-50  “GODISNOWHERE” May God our Father and the Lord Jesus Christ give you grace and peace.  Amen. My elementary school teacher taught us many interesting things in our Japanese class lessons.  One thing he taught us that I still remember was how to punctuate a sentence.  He said if you don’t know what you want to say you may be misunderstood completely. And he wrote this on the paper. ここではきものをぬいでください。Then he showed us a picture of a bath house.  Some of you read 「ここで、履物を脱いでください」そして下駄箱に入れてくださいと言うわけです。But some of you read this as, 「ここで履物を脱いでください」下駄箱の前で着物を脱ぐとは変なこではありませんか」。 Now I would like to hold up a sign and have you look at it.  Take a moment to read what it says: Hold up a sign that reads GODISNOWHERE) What is it that you see?  I would guess that the majority of you see a sign that reads: GOD IS NOWHERE. When given the choice, it is the human tendency to more see this in a more negative way.That’s the case today…, just as it was in Mark’s day.  In today’s gospel lesson from Mark, the subject is a man who was not a part of “their” group.  And although he…

Tweet 「どうか、私を思い出して下さい」 “Please  Remember Me“   私たちの父なる神と主なるイエス・キリストから恵みと祝福があなた方の上にあるように。アーメン。 私たちは毎年この時期に召天者記念礼拝を守ってきています。私たちの親、配偶者、兄弟、姉妹、子供、友達、恩師と私たちの人生の中で多くの人を天国に送り出してきました。日本人は世界の中で一番長生きする人間と呼ばれ、また100歳を超える方がたくさんいると聞いています。  朝日新聞のよると、こう書いてあります。「今年の9月15日の「老人の日」に100歳以上になる高齢者が、去年より3620人多い5万1376人と、初めて5万人を超える見通しになった。87%を女性が占める。厚生労働省が14日発表した。統計を取り始めた1963年は153人だったが、平均寿命の伸びとともに年々増加し、98年に1万人を突破、2009年に4万人を超えた。過去最多を更新するのは42年連続。日本の人口は若い人が少ない逆ピラミッドの形で、誰がこの老人達の面倒を見てゆくのかが課題となっています。 しかし私の同級生、それは還暦を迎えた60歳のほとんどは今片親、または両親をなくした人です。私は父を2年前、家内も父を去年亡くし、寂しいと感じることがよくあります。私たちこの教会に集う者の中にも、何人か両親、家族、また友達をなくされた方々がいます。その方々が、必ずしもクリスチャンではありません。しかし宗教の違いを超えて故人を偲ぶことは今生きている私たちにとって大切なことであり、必要なことなのです。 今日の説教を書き始めようと準備を始めたとき、私の目に止まったものは、今日聖書の日課として読んでいただいた旧約聖書の詩篇133章1節です。それをもう一度読んで見ます。「見よ、兄弟たちが共に座っている。なんという恵み、なんと言う喜び。」兄弟、姉妹が共に座っている。それは素晴らしいことで、もうそれだけで喜びだと言うのです。しかし、今、私たちの共に座ってくれるはずの兄弟姉妹がいない。両親が一緒に座っていない。それはなんという寂しさ、悲しさという思いに駆られている方々もあると思います。ですから年に一度、私たちは召天者記念礼拝を守り、すでにこの世を去った、そして今天国にいらっしゃる故人を偲んでこの礼拝の時を持っているのです。故人を思い出すことは大切なことです。子供に、孫に、おばあちゃん、おじちゃんはどういう人だったのよと写真を見ながら語ることは、人生の中で大切なことです。私たち一人ひとりに先祖代々多くの人達がいますが、そこまで知ることができなくても、私たちの命は何千年、何万年、いやそれ以上に続いているのです。 私の家族は二世代家族で、祖父、祖母は熱心な仏教徒でした。毎日お線香をあげ、お祈りをしお墓参りにも良く連れて行かれ、そこでご先祖様の墓石をきれいに洗ったことを覚えています。私の父方も母方も仏教徒の家で育ちましたから、大人になってクリスチャンとなった後も、故人を偲ぶ、あるいは故人がなくなった後の何回忌と言うイベントにも、またお墓参りにも行きました。ですから今キリスト教の牧師ではありますが、私はクリスチャンですからほかの宗教の行事には遠慮しますと言うこともないし、仏教にも、神道、ユダヤ教、イスラム教の中にもそれなりに神様と言われる方に行き着くところがあるのだと心の中で感じます。 宗教は心の慰め、お互いを助け、愛し合うことを前提とした人間に必要な精神的な力をいただくところです。押し付けの宗教は困り物ですが、お互いの宗教、心の持ち方を尊重して共存しなくてはいけないのです。 しかし、その中でお互いが自分の信条を持つことは大切であり、信じるものがそこにあるからこそ、お互いの宗教感も認め合わなければいけないのです。人間としての兄弟姉妹が一緒に集まっている、一緒にお祝いする、一緒に祈りあう、それは宗教の違いを超えて人間としての喜びであると私は信じます。 私が顔を見たこともない、写真でしか見たことのない母のお母さん、私のおばあちゃんは母がまだ6歳の時ジフテリアで亡くなりました。その私のおばあちゃんに会った事がないのは寂しいことですが、母はよく自分のお母さんのことを私が小さい時から話してくれました。何回も何回も話してくれたのです。このおばあちゃんがなくなる前、10歳の母の姉、6歳の私の母、4歳の母の弟、2歳の母の妹をベットの前に呼び出しこう言いました。「お母さんはね、この病気が治らないの。もうすぐ神様の元に連れて行かれます。お別れするのは寂しいけれど、お空の彼方から何時もあなたたちを見つめるようになるでしょう。どうかお母さんのこと忘れないでね。お母さんがあなたたちの心の中でずっと一緒に生きていきますから」と。 私たちが家族で集まる時はとても大切な時です。特に、結婚した兄弟姉妹が、お父さん、お母さんの誕生日に家族を連れてきてくれる。おじいちゃん、おばあちゃんと本を読んでくれる子供たち、孫たちもいる。一緒に食事をする、おじいちゃん,おばあちゃんの肩をたたいてあげる、その反対におじいちゃんが肩車してくれる。おばあちゃんのひざに座って大好きな本を読んでもらう。それは素晴らしい時であり、私たちの宝の思い出です。でも、そのおじいちゃん、おばあちゃんも今もういない、あの世に行ってしまった。それは悲しい事です。 しかし愛する人への思い出は消えません。その思い出は私たちの宝物なのです。 反対に、すでに、この世を去った私たちの愛する人達にとって、誰かが私をまだ覚えてくれていると言うことはもう神様、仏様の元にいかれた人達にとってもとても大切なことなのです。私の娘、息子はもう二十代の大人ですが、よく昔の写真、ビデオを見ています。私に父、家内のお父さんも亡くなって1年、2年になりますが、私、私の家族にとっては、毎年太平洋を越えて、またはカルフォルニアからペンシルベニアに飛行機で年に2回帰省するのです。私たちがそれを毎年繰り返しているのは、子どもたちに家族でいる時の大切さを忘れてほしくないからです。 ところで、今日のルカによる福音書 23章の話の中で、十字架にかけられたイエス様の両脇に二人の犯罪者が同じく十字架につけられたのです。そのところをもう一度読んでみます。「他にも。、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も一人は右に、一人は左に、十字架に付けた」。釘で打たれたのです。十字架にかかって死ぬと言う両手も足も十字架に大きな釘で打たれ、自分の体重がその釘につるされるという、とてつもない苦痛の中で、最後には、気を失って死んでゆくことでした。同じように十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエス様をののしって「お前は、メシアではないか、自分自身と我々を救ってみろ」と叫んだのです。すると、もう一人の方がたしなめて言ったのです。『お前は神を恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。 しかしこの方は何も悪いことをしていない。』 そこで、「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいる」と言われたのです。多分この二人目の犯罪者も始めの犯罪者と同様に悪いことをしてきたのです。強盗、詐欺、人殺しをしたかもしれない。イエス様に、天国につれていってくださいなどおこがましいことを言えるはずもない。だから、せめて、イエス様、「あなたが天国にいらした時には、私のことを思い出してください」と言ったのではないでしょうか? 死んだ後、自分のことを思い出してくれる人がいないとはなんと寂しい、悲しいことか、しかし死んだ後も誰かに自分の事を思い出してくれる人がいると言うことはなんと言う慰めでしょう。世界にはいろいろな宗教、教え、道と言われる物がありますが、すべての道は私たちが、人間として生きる私たちのガイドであり、命の源なのです。もちろん多くの無神論者もいます。しかし私たちの亡くなられた家族の人達、友人、同僚とたとえ、人生の道しるべ、宗教が違っても、私たちの役目は同じ人間である私たちが、お互いを助け合う、それは物質だけでなく、お互いのために祈り、この世界の中でお互いを信頼する世界を作ることではないでしょうか。 私たちの心の安らぎを私たちの故人を思い出し、偲び、愛情と心の平安を伴ってこの礼拝を守るのです。アーメン。 Memorial Service              September 23, 2012  “Jesus Remember Me When You Come Into Your Kingdom” Grace to you and Peace from God our Father and the Lord Jesus Christ.  Amen. The Japanese Ministry of Lutheran Church of Resurrection has been observing this memorial service for many years.  It is our joy that we have a number of English speaking members as well as many Japanese friends join us for this service today.  I have intentionally invited many non-Christian friends to this service today because we all want to respect and remember those friends and loved ones who have gone to heaven before us regardless of our differences of religion or faith. According to a recent Japanese newspaper article, the Japanese people’s life expectancy is the longest in the world.  Japanese celebrate the day of elders on September 15th every year.  And this year the Japanese government announced that there are 3620 more people who have reached 100 years of age compared to last year at this time.  The actual number of people today who are over 100 years of age are 51,376 people of which 87% are women. The government of Japan started taking these statistics of the number of centurions living in Japan in the year 1963.  There were only 153 persons who were over 100 years old in that year.  By 1998 that number grew to over 10,000 people and in 2009 it grew to…