Archive for the ‘牧師説教’ Category

Tweet  「福音の復興」  “Restoration of the Gospel” ローマの信徒への手紙 3章19-28節 私たちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように。アーメン。 一昔、それも20年ぐらい前のこと、何か知りたいものがあったとたら、それを皆さんはどこで見つけましたか? それはたぶん百科辞典だったと思います。ブルタニカという百科辞典は宿題の手助けに欠かせないものでした。それが今ではComputerで何でもすぐ見つかります。 そこで、「世界の歴史の中で、誰が一番貢献した人」とcomputer で捜索してみると、マルチン・ルターの名前が出てきます。皆さんの中にはマルチン・ルターと聞いて、あの黒人の人民の平等を唱え、ノーベル平和賞を受けた人と思いがちですが、このルターさんは15世紀にドイツで宗教改革を起こしたカトリックの司祭であり、聖書学の教授でした。ルターはカトリック教会のなかで、堕落していた教会の姿を悲しみ、また神学的にも、良いおこないをすることにより神様から愛されるというより、神様から愛されるべきでない罪人の私たちが、私たちの罪をイエス様自身が十字架にかかり、そこで私たちに永遠の命を与えるために自分が、人類に代わって罪を贖ったという信仰です。一般に世界の宗教は、一人ひとりがよき行いをすることで神様から愛される、救われると言いますが、キリスト教でいう救いは私たち一人ひとりが自分の努力で出来るものではありません。キリスト教の教えの中に、善行による救いという考え方はありません。神様、それはイエス様が、私たちに代わって私たちの罪を背負い、私たちの代わりに十字架に架かって死んでくださったのです。そのイエス様を信じることのみにより私たちは神様からの救いをギフトとして受け取ることができるのです。 今日私たちが聞いたローマ人への手紙3章19-28節は、ルターがカトリックの司祭のとき何回も何回も読んで疑問に思っていた聖書の箇所です。私たちが義とされるのは律法の行いによるのではなく、神様を信じる信仰によってのみです。実は、神様自身が、私たちの心の中に信仰を植えつけてくださったのです。神様に忠実に従う信仰も神様からいただいたギフト、賜物なのです。  さて、岸野先生は何か難しいことを言っていると思われている方がここにいると思います。そこでもう一度神様の愛を母親の赤ちゃんに対する愛と比較して考えて見ましょう。赤ちゃんは生まれてきた時、お母さんなしでは生きていけません。おなかがすいた赤ちゃんは、ギャーギャー泣き出してママ、おなかすいた、おっぱいのましてと泣くんです。お母さん、私今疲れているから、泣かしっぱなしで赤ちゃんをほ放打って置きおきたいと思うかもしれない。でも私なしに赤ちゃんは育てられない。私なしに赤ちゃんは泣き止まない。私なしに赤ちゃんは何の心配事なく、ぐっすり眠ることもできない。まったく、赤ちゃんという子供を良く考えてみると、その自分の子に与える母親の愛情は天の父なる神様がわたしたち一人ひとりに示してくださった愛情と同じではないでしょうか。ここでお母さんはイエス様であり、赤ん坊は私たち一人ひとりです。お母さんの腕中にしっかり抱きしめられて、私たちは不安もなく、幸福な時を過ごせるのです。そこで愛が感じられるからです。 聖書の中にいろいろな人たちが登場します。イエス様の12弟子、名前が出てこない、病気の者たち、歩くことができない、目の見えない、しゃべることができない,これらの人達はほかの誰かから親の罪の祟りで、こんな惨めな生活をしているものと言われていたかもしれない。我儘な赤ちゃんも、体の不自由な者も、律法学者といわれていたお偉方も、あなたも、私も、神様から見れば、同じ罪人です。駄々をこねる、言い訳の多い人間です。すべての人類はそれ故に、神様の救いが必要なのです。神様がその一人子であるイエス・キリストを私たちの中に送り込み、罪人である私たちを十字架にかかって死んでくださった、その愛により私たちのすべては贖われたのです。救われたのです。 皆さんがお馴染みの放蕩息子を思い出してください。お父さんの半分の財産を抱えて、遠くの地に行き、そこですべての財産を無駄使いしてしまったこの息子、どうしたことか、急にお父さんの元に帰りたくなった。お父さんのところへ帰ろう。しかしこの息子、お父さんがどのように彼を受け取ってくれるかわからなかった。ドアをたたいて、「私です。あなたに背いた私です、あなたから愛される資格もない私です。私がお父さんの家に入ることは赦されないと言われてもわかります。ただ私は、お父さんに自分の罪を告白したいのです。しかし彼がお父さんの家からまだ遠くに歩いてきたとき、お父さんはそこで彼を待っていたのです。毎日待っていたのでしょう。いつか息子が帰ってきてくれこことを信じて、その日を待ちどうしく首を長くして待っていたのです。毎日毎日彼の息子が帰って来るではないかと首を長くして待ち続けたのです。そしてある日、お父さん、まだ遠くの方にいた息子を見出した時、「ああ、私の息子だ、私の息子だ、帰ってきてくれたんだ。こんなに嬉しいことはないと泣きながら息子のの息子だ、私の息子だ、帰ってきてくれたんだ。こんなに嬉しいことはないと泣きながら息子のところまで走っていって、彼を抱きしめて言葉に出ない喜びを感じたはずです。もし皆さんが、このお父さんの立場にあったならきっと同じことをしたに違いありません。 旧約聖書の時代、ある人が神様と悪い関係を持ったとき、彼は生贄のささげ物を持って神様の元に来ることを命じられていました。その生贄により人は神様との元の関係に戻れたのですが、イエス様は、生贄とか、ささげ物を受け取りません。私たちの努力、力、行いによって神様から愛され、愛する関係に戻ることはできません。しかし唯一つの方法、それはイエス様が私たちの罪をしょって十字架にかかり死んで下さったことにより私たちの罪を取り除けて下さったことによるのみです。何か同じことを何回も何回もいっているような感じがしますが、はっきり言って十字架のイエス様以外に私たちを救ってくださった唯一の救い主はいません。それを信じる信仰も神様から私たちはギフトとして受け取っているのです。マルチン・ルターの伝統を持つ私たちの教会は、1517年10月31日にルター自身がイエス様の私たちを救う正しい信仰をすべたの人に宣べ伝えたことを覚える日です。しかし、ここでも主人公はマルチン・ルターでありません。私たちの信仰の主人公は、父と子と聖霊の3つの姿で現れる神様です。 今日の説教は難しいと思われた方もいるでしょう。牧師としての私の役目は第一にイエス様の愛を皆さんにわかっていただくよう勤めることです。どうか質問でも、お祈りでも、悩み事があるときには私に電話をください。誰かがイエス様のことを知りたい、そういう人がいますなら、私にその人を紹介してください。私の役目は皆さんが少しでも神様の愛を感じることができるようになる、その為に神様は私を牧師という働きに導いてくださったのです。一人でも多くの方が、神様の福音を聞き、心を開いて、イエス様を受け入れることができますよう私たちは共に祈るのです。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マタイによる福音書22章34節―40節 「人生で一番大切な戒律」“The Most Important Law in Our Life”  或るまだ神学校を出て間もない牧師は教会の皆さんたちから何時も「あの先生の説教は長すぎて眠くなってしまう」と言われていました。そこで教会の役員会で、「先生の説教はとてもいいのですが、少し長すぎるのでは」という発言が出たのです。それに対して新米の牧師さん、「いや、私は皆さんに神様の言葉、聖書で言う神様の言葉のミルクを沢山差し上げたいのです。」と答えました。一人の役員さんは牧師さんの言葉尻を取り、「それでは神様の言葉もコンデンス・ミルク」でお願いしますと。コンデンスとは短縮したという意味です。 これは牧師さんに限らず、私の大学で専攻した、キリスト教と哲学のクラスも、その先生の講義が長々と単調な声で、子守唄を歌われているような感じの時もありました。立教大学の中沢先生は旧約聖書のヨブ記の研究で有名な方ですが、先生は聖書をへブル語で読むのです。いくらへブル語の授業を受けたといっても、先生がどこで何を読んでいるのかもわからない、よくそんな経験をしたのです。言葉というものは面白いことに、長いセンテンスで話されるとはじめに何を言われていたか忘れてしまうのです。言葉も文章も短い方が頭、また,心の中に受け入れ易いのです。 カール・バルトという有名なドイツ人の神学者がアメリカを訪れていた時、ある神学生はバルト先生に、「先生、あなたが40年にわたって教壇から教えた神様の教えを一言で言うならばどうお答えしますか?」バルト先生は英語でこう答えたのです。 “Jesus loves me this I know, for the Bible tells me so, little one to him belong, we are weak but He is strong.”日本語では、「主我を愛す、主は強ければ、我弱くとも恐れはあらじ」です。これはイエス様に従う私たちの素晴らしい信仰告白です。 今日の福音書は、パリサイ派の人々、ユダヤ教の宗教団体のリーダーが、イエス様に、「一番大切な神様の戒めとはなんでしょうか?」という質問した話です。イエス様はそれに対してこのように答えました。 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように、重要である。隣人を自分のように愛しなさい。」英語では、“Love the Lord God all your passion and prayer and intelligence.” This is the most important;the first on any list, The second most important commandment is like it: Love your neighbor as you love yourself.”これは、神様、イエス様に対しての私たちの愛、そしてまた、隣人に対しての私たちの愛です。それがイエス様が私たちに命じられた掟なのです。 ところで ユダヤ人はモーセがシナイ山で十戎を神様からいただいたのを皆さんご存知と思います。。それは神様が私たちに下さった掟です。それは10の律法とも言われています。この律法はそれを守ることで、神様の祝福を受ける。しかし、破ることによって裁かれるというのです。ユダヤ人たちは、長い歴史の中で、神様からいただいた十戒の他に613の細かい掟を作りそれを人々に守るように強制したのです。それは248条の「あなたはこれをしなければならない」という律法、例えばそれらの律法のうちには、作物を集めるとき、全部ではなく少しは落穂ひろいのできるように貧しい者にそれを残しなさい。 そして365条に亘る「あなたはこれをしてはいけない」という律法とです。たとえば、鱗のない魚を食べてはいけない、安息日には医者は病気の者を癒してはならないなどの私たちから見れば、これが戒めなんですかと言うものが沢山あります。しかし戒めを完全に守ることによってユダヤ人は神様の救いを頂けると信じていたのです。そこで律法学者はイエス様に、613の律法のうち一番大切なものは何でしょうかと質問したのです。イエス様はそれに対して二つの律法、この二つの律法がすべての律法を要約した律法であると答えたのです。その一つは、申命記という旧約聖書の中にあるシェマー(Shema)という祈りの言葉です。それを読んで見ましょう。きっと皆さんもこれを何回も聴いたことがあると思います。「聞け、イスラエルよ.我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4-5)イエス様はこれが一番大切な戒めだと教えたのです。 そして2番目に大切な戒めは「前の一番の戒めと同じように、あなたは自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という戒めです。この二つの戒め以上に大切な戒めはないというのです。英語では心を尽くしては、with all your heart, 魂を尽くしては、with all your soul, 力を尽くしては、with all your mind です。私たちのすべてを用いて神様と、隣人を愛することが、私たちに義務であり、喜びに繋がれるのです。 つい最近ここの教会員の方と恵比寿マーケットの近くにあるエルビスというカラオケ店で、何人かの方々とカラオケの楽しい時を持ちました。誰かがそれをカラオケ伝道だなんて言いましたが、自分の好きな懐メロ、思い出の曲、それが讃美歌ではなくても心の中で感じられる思いをこめて歌うのは楽しいものです。わたしのすきな日本人の歌手は広田三枝子とクールファイブですが、英語で最高なのはフランク・シナトラです。彼の歌う“All the Way”という歌は私の大好きな歌です。家内ナンシーに聞いてください。私が幸福と感じるときは、自然とその時の心を表現する歌が、口から出るようになるのです。 “When somebody loves you, it’s no good unless he loves you, all the way.Through the good and lean years and through all the in between years—come what may.” ここで言いたいのは、 “All the way”100% の私たちが、神様を慕う、愛する思いです。神様より100%愛され、神様を100%愛することができるなら、それ以上に人生で幸福のことはありません。それは、親が自分の子供を100%愛し、子供が親を100%愛することと同じです。もちろん、何か悪いことをして両親から怒られた。そんな時愛されていると感じないかもしれません。同じように、神様に逆らって何か悪いことをした時、神様から愛されていないと思うかもしれません。しかし私たち人間は神様のイメージを持って生まれてきたと聖書は教えています。私たちはお互いに神様からいただいた美徳があるのです。その美しい徳が自分の中で感じられる時があるのです。この神様よりいただいた自分、自分のギフトを人と人との付き合いの中でいかに使っていくか、そして、それを認識することができる時も一人ひとりに与えられるのです。 話はすこし変わりますが、何ヶ月も前に、自分で自分の牧師としての仕事に今まであった活気が体から抜けていくような気持ちになったのです。何か気持ちがすっきりしない。体力もない。やる気がない。普段は陽気な性格の私が、心の中に何かもやもやとしたものを持っている自分に気がつきました。これが鬱病ではと自分で感じていたので、お医者さんにかかり、それが本当に鬱病の初期だとわかりました。家内もうすうすそのことに気ずいていましたから、お医者さんの診断を聞いて、びっくりというより、ああそうだったのか、でもそれがわかってよかったとい良い意味で受け取ってくれたのです。なぜならこれは治療の方法があるからです。しかし一般には鬱病、それは大変だ、と言われるようですが、次第にもとの自分に戻りつつあります。ここで皆さんに知って欲しいことは私の為に心配していた人たちが祈っていてくださっていたということです。神様はその方々の祈りも聞いてくださっていたのです。 聖書の中に「一人のものが苦しむ時、みんなが共にに苦しむ。一人の人が喜ぶ時、みんながともに喜ぶ」という言葉があります。本当にその通りです。それができるところ、それが教会です。お互いを助け合う、お互いのために祈る、そしてお互いを支えてゆくところに神様はいらっしゃるのです。ですから教会は私たちの家族です。そこにイエス様が何時もいらっしゃる所、愛と、癒しと、励ましと、祈りがある処です。 同じように、先週、松井誠史さんと昭子さんの金婚式を教会で祝うことができた私たちの群れは神様に恵まれた教会です。私たち一人ひとりの名前を口に出して、祈ってくださっている会員もこの教会にいるのです。 神様は私たちの心が神様の福音を心に留め、実際にそれを私たちの間で分ち合うところに恵みと平安を与えて下さいます。 アーメン。          Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet テサロニケの使徒への第1の手紙1章1-10節 「神様の恵みを振り返ってみると」“Looking back at the Grace of God” 皆さん、テサロニケという名前の都市を聞いたことがありますか?この都市は地中海のギリシャの北にある都市で有名な漁港のあるところです。イエス様の使徒として伝道に励んだパウロはこのアジアとヨーロッパの境にあるテサロニケを2回尋ねました。そこでパウロはイエス様の福音を群集に語ったのです。そして3週間ほど滞在して次の都市へと伝道に励んだのです。その後パウロは彼の弟子であるテモテをテサロニケに送り、このまだ若い教会でクリスチャンがどのように育っているかを調べたのです。 今日のテサロニケの信徒への手紙はパウロがユダヤの土地の外のクリスチャンとなったテサロニケの人々への初めての手紙、それ以上にパウロの一番古い書簡です。新約聖書の21の書簡の内の7つの書簡はパウロによって書かれたものですから、キリスト教がユダヤの地を出て、地中海をめぐる外国の地の中でどのようにキリストによる神の国の到来を宣べ伝えたか、またどのようにしてイエス様の福音がユダヤ人だけでなく全ての世界の人たちに広まって行ったかを知る大切な手紙の文章です。     牧師さんは誰でもその人が一番最初に招聘された教会のことを忘れません。それは私にとって1979年から1983年にかけて牧会に携わったフィラデルフィアの教会です。今でも毎年クリスマスにはまだ手紙のやり取りをする人たちがいます。パウロはテサロニケでイエス・キリストについて語りました。イエス・キリストの愛とイエス様を信じる信仰による救いです。 皆さんパウロのことを知っていると思いますが、この人はユダヤ人で、パリサイ派という宗教団体の熱心なリーダーでした。また彼はイエス様を神の御子であると信じたクリスチャンを虐待した男です。多くのクリスチャンがこのパウロによって殺害されたのです。しかしこのパウロが、ダマスカスという町でイエス様に出会ったのです。イエス様の弟子を見つけ出したら、男女かまわず、縛り上げ、エルサレムに連行するという恐ろしいとこを行っているとき、彼は天からの光に照らされ、目が見えなくなり、「イエス様の声、それは、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」でした。イエス様の敵であったサウロはイエス様に出会うことにより回心を経験し、180度変わって今度はイエス様とイエス様の愛を宣べ伝える宣教師として一生を捧げたのです。今の時代のように電話はありません、E-mail もありません。手紙といっても郵便局がある訳でもない。誰かに頼んで持っていってもらった手紙は何ヶ月もかかって到着したのです。手紙の内容は「主に従うものとは」、「テサロニケでのパウロの宣教」、「神に喜ばれる生活」、「主の再臨」そして結びの言葉は「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい」という励ましの言葉です。この書簡がパウロによって書かれた最初の物ということを念頭の置いて初めの一章の言葉を読んでみましょう。「私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように」。さてこの言葉どこかで聞いたことがあるのを思い出しましたか? これはパウロ独自の手紙のはじめに書く挨拶です。その言葉を借りて私も説教の前に皆さんに挨拶するのです。そして、兄弟たち、あなた方のことをいつも神に感謝せずにいられません。特にあなた方の信仰による働き、愛による行動、希望の確信です。 パウロはいつも教会のことを神様に感謝しています。私たちも祈りの中で、私たちの教会を祈ってくださっていますか?教会とは建物ではなくその中にいる私たちのことです。神様の言葉を聴き、神様に従い、神様の愛を私たちの行動、私たちの言葉の中で実行すること、また感謝することです。神様の想像されたこの素晴らしい世界に住むことができること、私たちが神様からいただいている自由の精神、家族と友達、特に教会では私たちはすべて神様の兄弟、姉妹です。特に私たち、故郷の国から離れて、両親、自分の肉親の兄弟、姉妹と共に生活できないものにとって、お互いを、輝子さん、愛子さん、し倭文子さん、広子さん、誠史さんと一人一人、愛情を込めて呼ぶことのできることは大切です。考えてみると、私たちの中にお互いを日本にいた時から知っていたという人いますか?私はこの国に来てもう36年になりますが、高塚先生が日本のルーテル教会よりこの復活ルーテル教会に宣教師として派遣されたその翌年の1989年に新しい伝道の主事として南カリフォルニアに来たとき今ここにいる何人かの教会員にあったはずです。 なぜ宣教師が日本からアメリカに送られてきたか、またなぜこの復活教会が日本人の伝道の場として選べられたのかというと今主任牧師として働いているZimmerman 先生の前任者Foster 先生が是非ここで日本人伝道をしてください、私たちはそのために場所と経費を提供しますからとの熱心なお願いがルーテル教会のNew York の本部に出たからです。この先生は日本人贔屓であったことは確かです。家族を連れてきた高塚先生も燃えていました。あそこに日本人がいるよといわれるとそこに飛んでいった。Irvine のConcordia 大学に、アナハイムの聖書学院(LBI)に日本人の留学生がいるよと聞くとそこに行って学生さんたちを連れてきた。企業の日本人も今より多くいた。そこで日本人の礼拝を今の保育園の一部屋から初めたのです。日本人がラスベガスにいると聞いて、そこまで行って聖書を学ぶ時を持知Stewart道子さんが授洗されたとも聞いています。また、ある時は、日本人伝道を復活教会からどこかに移そうという動きもありました。しかし、先生の奥さんが癌で苦しんでいた事もあり、それが先生の苦しみとなって現れた時もあります。高塚先生の任期が終わり、田中先生が奥さんと共に宣教師として送られたとき、日本人の伝道は英語の復活教会とどのような関係を持っているのかとの問いが出され、それまで日本人伝道として、特別伝道費という自分たちの比較的大きなアカウントを持っていたものが、英語、日本語の一つの教会として一つのアカウントにするべきだという声が英語と日本語の会員から出されたのです。 田中先生は「それは一つにするべき」とはっきり言われ、それ以後、復活教会は二つの言葉を話す礼拝のある教会、しかし教会としては一つ。私達の教会はこのEvengelical Lutheran Church in America という名前の私たちの伝統を宗教改革を1517年に始めたマルチン・ルターの系統を受け継ぐ「キリストのみ」「聖書のみ」「信仰のみ」の3つの信仰の基礎を土台とした福音派の教会です。ルーテル教会はプロテスタント教会で一番古い教会です。田中先生の次に宣教師としてここで働いた先生は、伊藤先生です。伊藤先生はロスアンジェルスに近いトーレンスというところでのルーテル教会で宣教師として働いていましたので、二つの教会の掛け持ちでしたが、エネルギッシュな方であった事は皆さん存知でしょう。伊藤先生はイースターの前の出来事であるPassover, それは過ぎ越しの祭りをこの教会で守ることを指導してくださったのです。ユダヤ人が、エジプトで奴隷として働かされていたときに出たモーセのリーダーシップによるエジプトからの脱出、そして遂にユダヤ人が自分たちの故郷、イスラエルの地に戻ったことについてのお祭りです。 それをイエス様は十字架にかかる前、12使徒ともに祝い、またこの儀式を今私たちの受け取るキリストの体とキリストの血による、私たちの贖いの儀式として下さったのです。 伊藤先生が2009年の11月に日本に帰ることになり、その時から宣教師が日本から送られるという形が終わりました。ここでの日本語での牧師はアメリカの中で育った日本語と英語のBilingual の牧師にやってもらうと言うことになり、そこで私が2010年の1月からここで牧会を始めるようになったのです。 はっきり言って私は日本語での伝道をしたことがなかった。30年に亘っての牧会は英語の教会でしたので、はじめは戸惑いました。私の家族は日本語が出来ません。私の日本語も、皆さんから「先生の日本語は時々おかしいですね」と、しかし頑張って行きましょうという皆さんの支えで、ここまで来たのです。 さて、教会の中でのトラブルがない教会はありません。それは教会も人によって運営されているOrganization  である限り、人と人の意見の違いによって分裂するときもあれば、その反対に、いろいろな意見のある中で、主イエス・キリストが本当に私たちの救い主であると言う私たちの信仰告白をお互いが認める時、そこに聖霊の働きが加わって今まで分裂していた教会が一つの教会の組織になることがあるのです。 教会が、イエス様の理想とする信仰の場であって欲しいと考えるのはクリスチャンであるなら皆さんはそれは当たり前と考えるでしょうが、教会も神様の聖霊に満たされていないと争いの場になるのです。 イエス様が十字架にかかり死んだ。葬られた。しかし生き返られた。これは2千年前も今も多くの人にとって、信じがたい、信じられない出来事です。しかしそれを信じられない私たちの上に聖霊が下され、その聖霊の力の働きで、私たちはイエス様を神を信じることができるのです。神様を信じることができる、出来るようになったとは不思議なことですが、それは神様が私たちの心の中に入ってきてくださったからです。 ある人は言います。私たちはいい子にならないと神様から愛されないと。では、きかんぼうの子供、又は,放蕩息子というような者は神様から愛されないのですか? そこで質問があります。皆さんは今まで自分をきかん坊で年をとっても駄々をこねる人間と思っていますか?  はっきり言って59歳の二人の成人の子供のいる、Looks like respectable person と皆さんから見られている岸野豊という、これは皆さんも今では馴染みのある牧師さんですが、その牧師さんともあろう人も、駄々をこねる、きかんぼうの子供になることが時々あるのです。(イヤ、時々じゃないよ、いつもだよ)と皆さんから言われてしまうかもしれません。牧師らしくしてくださいと言われても,でんでんむしが危険を感じると自分の殻の中に閉じこもってでて来ない時があるのです。最も皆さんはそんなことないでしょうが? しかし私たちすべては、所詮問題を持った人間です。そんな問題を持った人間同士の、人間ぐさい、罪をかぶった私、私たちの為にイエス様はこの世界に来てくださったのです。わたしたちの惨めさ、愛されるべきでない私、私たちの為に甦ったイエス様は、「心配しないでいいよ。私があなたの不完全なすべてを私の十字架の上で取り除いてあげたんだから、ほんとだよ,心配しないでいいよ。その代わりに、私の愛を皆さんにわけ与えてくださいね。それが、私の弟子としてのあなたの務めですよ」と言ってくださっているのです。  来月11月で、宣教23年目になります。私たちが一緒になって、心を一つにして神様に祈る時、そこに神様が、イエス様としていらっしゃるのです。本当です。それはが神様の私たちに下さった信仰のプレゼントです。神様が私と、私たちと共に何時もいるんです。アーメン。     Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マタイによる福音書22章1-14節 「招待と期待」“Invitation and Expectation”  私たちの父なる神と主イエス・キリスト、恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。 結婚してまだ時の浅いカップルの会話を紹介しましょう。彼らは週末に友達の7時に始まるParty に呼ばれていました。暫くしていなかった芝刈り、落ち葉の掃除をその前に済まそうとご主人は一生懸命働いていたのですが、急に奥さんの、「あなた、もうParty に出かける時間よ。準備できてるの? 」との声を聞いたのです。「あれもうそんな時間になっていたのかとご主人、急いで残りの仕事を済ませ、シャワーに飛び込んだのです。ひげをそり、髪をとかして、カジュアルな服を着て奥さんの前に出てきたのですが、奥さんの最初の言葉は、「あなた、フットボールの試合を見に行くじゃないの。招待状によるとHollywood の有名人が来るのよ。 少なくともネクタイとジャケットを着てください」。 今日の福音書はイエス様が私たちに、どんな服装が必要か、何を着たならいいのか、また着てはいけないものについて語っているのです。ある意味でこれはイエス様のたとえの中では厳しいものです。Happy End もありません。しかしその中で、大切なことを語っているのです。私たちの中で、王様の息子、王子様の婚宴のお祝いのParty に行った人はいないでしょう。しかし、一般庶民でも、王子様の結婚式がいかに大切なものか、また王様はその準備の為に沢山のお金をかけたことは想像できます。王様の跡継ぎの王子様の結婚式はこの夏のPrince William とKate Middleton の結婚式の様だったと思います。誕生日もお祝い事ですが、結婚式とそのあとの宴会ほどすばらしいものはありません。イエス様が、神の国を宴会の食事の時と比較するのは意味のあることです。神様の国に属すると言うことは、神様の催す宴会に参加することができると考えてもいいのではないでしょうか? イエス様の時代には結婚式に招ばれると言うことは二回にわたるinvitation で始まります。最初に招待状が送られます。それに返答しなければなりません。そして二回目の手紙の内容は、remainder,このおめでたい結婚式を忘れないようにとの忠告です。このお祝いは素晴らしいものですから、是非出てください、一緒にこの素晴らしい時を祝ってくださいとのinvitation です。 さて王様は召使を送ってすべての人を結婚式の宴会に招待したのですが、招待されていた人達は理由をつけていかなかったのです。またほかの人達は、王様の召使を捕まえて、侮辱を加えた上、殺してしまったのです。もしあなたが王様であったなら、この事件にどう対処しますか? 王様は怒って、軍隊を送ってそれらの人殺しを滅ぼし、その町を焼き払ったのです。そして、もう一度、彼のメッセンジャーを送ってこの結婚式のパーティーに来てくださいを呼びかけました。それから「婚宴の用意はできているが、招かれていたのは、ふさわしくない人々であった。だから、町の大通りに出て行って、出会った人は誰でも宴会に連れて来なさい」と命じたのです。 王様の僕は道に出て行って出会う人は、悪人でも善人でもみな集めたので、婚宴の席はいっぱいになりました。王様がこのパーティーに入ってきて、出席者の中に礼服、つまりそのパーティーにふさわしい服を着ていないものを見て、怒り、「何で、あなたは礼服を着ないで、ここに出てきたのか」と尋ねたのです.黙ったままのこの男は王様の命令で縛り上げられ、外の暗闇にほうり出されたと書いてあります。最後に14節で「招かれるものは多いが、選ばれる人は少ない。」と書いてあるのです。この福音書の話は先週に続き、イエス様のたとえ話です。 このイエス様の話のポイントは何かといえば、たとえ話の中にあったように、神様は私たちを神様の元に招待されているということです。しかし招待されている私たちはいつも、必ずしも神様に従って生活していないのです。そこで後ろめたさを感じます。しかし、もし皆さんが芸能界のタレントのパーティーに呼ばれたとする。それが美空ひばりとか、加山雄三のパーティーだとしたら、行かない人はいないでしょう。もっとも、美空ひばり、加山雄三って誰と若い日本人に言われてしまうかもしれない。プロマイドにサインをしてもらって、握手をしただけで一生それが思い出の宝となるのですから、タキシード、またはセクシーなイブニングドレスを着て、そのパーティーに飛んでいくはずです。 しかし神様のParty とは、いつも宴会のような者ではありません。神様はいろいろな人を集め、そこで人と、人の出会いの私たちは神様のパーティーに呼ばれて、それは教会の礼拝、愛餐のときでもあります。そこで第一に、ほかの人と共に神様の素晴らしさを賛美するのです。第二に、私達は自分自身の人生、生活の中でのPriority、何が一番大切なことかを真剣に考えなければならないのです。それが何かといえば、私たちの生活の中で、神様に喜ばれる人生を送ることができるように勤めることです。私たちの生活の態度、人との付き合いの仲で、私たちが小さなイエス様になることです。 イエス様はどのような方でしか? という質問を良く受けますが、その答えは、すべての人を愛した方です。愛されたのはイエス様の弟子だけではありません。世間から嫌われている人、病気の人、生活に困っている人、悩みを持ている人、自分の将来は一体どのようになるのだろうと不安を感じている、すべての人のためにこの世にこられたのです。神様は私たちすべての者にこの神様の宴会にこられるよう私たちを招待しているのです。そこに私たちが来ることを期待しているのです。この招待はすべての人に無償で与えられているのです。そして、神様はこの素晴らしい宴会を無駄にすることはしません。すべての人が、それが良い人でも、悪い人でも、すべての人に与えられているのです。すべての人々は神の愛の対象だからです。この神様の宴会に招待されているということは二つの大切なことを意味します。その一つは沢山の人たちとお祝いの時を共有すること、そしてもう一つは私たちの生活の中で何が一番大切なことかを確認することです。それは、神様の無償の恩恵、慈悲です。神様が、私たちの無償で、神様の愛を下さる、下さっている、これからもずっと下さるのです。しかし「いやそんなことはない。神様だって悪いことをした人を無条件で愛せるのですか」と、その質問は、イエス様を救い主として受けとった人、また、まだ神様を救い主として受け取った人からも聞かれたことが何回もありました。 私たちは善行,よき行いをしたことで神様からポイントをいただくのではありません。このポイントが沢山たまって、この世を去るとき、天国に行く引き換え点となるわけではありません。 このところをRobert Caponさんという牧師さんの講演会で聴いた話を紹介しましょう。ケーポン牧師によると、私たちはUsed car , ポケットに$265ドルの現金を持って夢の中古車を探している者だというのです。探しても探しても、そんな夢の中古車は見つかりません。私から言えば、そんなところに、たった  265ドルの車なんてあるはずがないのですが。この男、駄目だ、そんなもの見つからないかとしょんぼりして家に帰ろうとしていたところにセールスマンがニコニコしながらやって来て、奥のガラージにもう一つ、君の見てない車がある、見てみるかい。これがその車の鍵だ。どうもうちの社長は君が気に入ったらし、社長はそれをただで上げるといってる。あんた幸福だね。ガラージに行ってみるとそこには車が一台だけ、それも新品のポルシェ、スポーツ・カーです。何でこれがただなんておかしいよ。何かこの車にジンクスでもあるんじゃないだろうか? 本当だとしても、新品のポルシェにかかる保険が払えるだろうか?あまり馬力が多すぎて、私には手におえないんじゃないだろうか? でもここの社長さん、なんで私にこの車をただでくれるというのか。何かたくらみでもあるのかなあー。この男の心がまだ動揺して、どうしようと惑っているその間、社長さんは根気強くその男を遠くから観察していたのです。神様はこの社長と同じです。遠くから私たちをみっめて、「私があげるギフトは無償ですよ。頭金の払いもいらない、利子もない、月ずきの払いもない。No  string attachですよ」と。 神様の国はそのようなものと聖書は語るのです。私が良いことをすることによってではない、私たちの救いは、神様から一方通行の愛によって無償で与えられているのです。私たちに神様が願われていることは、素直に神様の愛を「ありがとう、神様」と言って受け取ることです。神様の国は天国とも呼ばれますが、それは死んだ方の行く所だけではありません。神様の国は私たちのただ中、真ん中にあります。 ルカによる福音書17章20節から21節にはこう書いてあります。「神の国はいつ来るのかとパリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に神の国はあなた方の間にあるのだ」。 聖書の中で一番、大切な時は何時かという質問が何回も出てきます。皆さんはその答えを知っているはずです。一番大切な時は過去ではなく、未来でもない。一番大切なときは今なのです。Right Now!  Right Here! です。 今なすべきことをしなければならないのです。その中で一番大切なことは神様を愛するように、お互いを愛し合いなさい、お互いを助け合いなさい、お互いを大切なものとしなさいと言う言葉です。 James Whistler と言う画家、アーテイストが彼の才能を認められて多くの人たちが彼の絵を求めるようになりました。あるお金持ちの人は彼の絵を買いたい。しかし一つだけ条件がある。それは、Jamesがこのお金持ちの人の家に来て、それをどこに飾ったらいいか教えてくれということでした。James はお金持ちのマンションで、「ここはどうか」「あそこはどうか」と一つ一つの部屋で絵を掲げた男に言いました。「あなたが本当にこの絵を一番いいところに飾りたい気持ちはわかります。でも一番良い所に飾りたいなら、すべての部屋の家具、壁にかかっているものを取り除けなさい。そうしたら、あなたが一番いいと思ったところがわかります。一番大切なあなたが宝物と思っているものは、それが家の中で一番大切なところに掲げられるのは当然です。 同じように、私たちの多くは神様を、家の中のたとえで、家具と家具の隙間に入れようとします。しかし神様は私たちに、私をあなたの家の中で一番大切な所に置いてくださいと言っているのです。神様が私たちにとって一番大切な方であるなら、わたしたちの心に中に住んでもらえるようお願いしましょう。 イエス様は言いました、「私は命のパンである。私に来る者は決して飢える事がなく、私を信じる者は乾く事がない」。どうか神様の聖餐を受ける時、そこに本当に神様がいるんだということを心の中で嚙み締めてください。主は何時もあなたとともに歩んでくださっているのです。   アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マタイによる福音書21章33-46節 「神の国の果実」  “Fruits of the Kingdom” 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなた方の上にあるように。アーメン。 先週の召天者礼拝は本当に素晴らしい礼拝でした。私はそこで、悲しみよりも喜びを、そして感謝の思いで一杯でした。皆さんが心を合わせて神様に賛美をし、神様の約束した神の国は私たちに約束されているんだと確信を持つことができたからです。 さて、今日ここで私の作ったフルーツ・サラダを見てください。バナナ、りんご、パイナップル,オレンジ、イチゴ、グレープ、いちじく、キーウイー、柿、梨、そして、さくらんぼ。おいしいですよ。 イエス様はよく色々なフルーツを彼の話の中で使っています。フルーツは、地面の中で、また葉っぱから太陽の栄養をとってできる神様のギフトです。フルーツサラダの中に沢山のフルーツがあるように私たち一人一人もそのフルーツです。神様から頂いたギフトを持つフルーツです。それは、お花を綺麗に生けることの出来る人、料理の上手な人、庭仕事が好きな人、短歌、俳句、カラオケで満足と感じられる人、新しく来た人の接待が好きな人、献金を数える、記録をする事が自分の気性に合っている人、私たちの中にはこのように神様からのギフトを頂いている人が沢山いるのです。そのお互いのギフトを使って教会の中で神様を賛美が出来ることに私たちは感謝します。全て私たちが出来ることは、神様からのギフトなのです。私たちがお互いにお互いのギフト、お互いの素晴らしさを感謝するところには神様がいつも私たちと共にいてくださるのです。 今日の福音書の話は譬え話でその舞台はブドウ畑とその畑の仕事を任された悪い小作人の話です。この小作人、これが都会の人だとしたら、借りているアパートの面倒をみない人です。その人は、アパートに入ったのはいいのですが、家賃を払わない、壁に大きな穴を開ける、そして、許可なしで部屋の中を紫のペイントで塗りつぶす、下水道は詰まったままで水が流れない。出て行って下さいと言っても出ない。最後にはお巡りさんが来て力ずくで追い出すしかありません。 ところが聖書の中での小作人はそれよりずっと悪い。ブドウ畑を収穫の時まで面倒を見るように頼まれたのです。小作人はある程度の収穫されたぶどう、それは全体の20%ぐらいでしょう。それが、小作人の収入で、80%のぶどうはブドウ畑の持ち主のものです。ぶどうの殆どはぶどう酒となります。それが結構いい収入となるのです。 ぶどうの収穫の時が来て、畑の主人は自分の僕を送り出し受け取るべきぶどうを取りに来たのです。しかし小作人は一人の僕を殺し、もう一人の僕に石を投げかけたのです。畑の主人はまた何人かの僕を送ったのですが、この僕たちも悪質な小作人によって殺されてしまったのです。私はなぜ主人がお巡りさんのような人を送らなかったのかと思いましたが,その代わり自分の息子なら軽んじられないだろうと小作人のところに送ったのです。ところが、小作人は「こいつは主人の息子だ、こいつも殺してしまおう。」と。とんでもないことをしたのです。 この譬え話の中で畑の持ち主は神様です。ブドウ畑はイスラエル、雇われた農夫はユダヤ人、僕は預言者そして息子はイエス様です。この譬え話は神様の私たちを赦すことの辛抱強さ、神様の愛、そして不正な小作人をも救いの中に入れたい神様の思いやりです。 私たち人間は、この愛を受ける価値のない者をも愛する神様の愛がよくわかりません。しかし、神様は私たちが神様を愛すること、また、それによって神様といつも密接な関係を作ることを望んでいるのです。聖書の中で、神様に“アバ父よ”と言う言葉がいたるところで見付かります。それは直訳するなら「お父様」、「お父ちゃん」です。私たちがどんなに神様に逆らうような者になっても神様の元に返ってくるように願っているのです。 最後に送ったブドウ畑の主人の息子は雇われた小作人によって殺されてしまいました。これはこの地上のイエス様の最後の時を語ってます。思い出してください。イエス様が彼の人生でエルサレムに入城したとき、群集は、「ホザンナ、ホザンナ、神の名によってくるものに祝福あれ」とイエス様をユダヤの民のリーダーとして迎えたのを覚えていますか。 そのイエス様は同じ週の金曜日にユダヤ人のリーダーによって十字架による死刑の宣告を受けたのです。そのイエス様が救い主として来られ「ホザンナ、ホザンナ」とイエス様を迎え入れた群集は今度は、「十字架につけろ、十字架につけろ」とイエス様を見放したのです。 いまこの教会に来ている人の中には人生の初めから家族ぐるみでクリスチャンとして育った方、人生の過渡期に、神様とはどのような方かと思って教会にこられるようになった方、キリスト教には関係がなかったが、友達になった人に誘われて教会に来るようになった方といろいろな理由でここに皆さんが集まっています。 70年,80年ほどの信仰生活を持って神様に全てを委ねますとはっきり宣言できる人もこの中に沢山いらっしゃいます。キリスト教のABCを教えてくださいと言う方もいます。その中で、私がはっきり言えることは、救いを求める全ての人にイエス様は神様の愛を与えてくださっていると言うことです。 今日の福音をもう一度21世紀にい来る私たちにどのように拘わるかを考えて見ましょう。 私たちは神様から送られるメッセージ、そしてメッセンジャーに耳も心も開かないことが沢山あります。あるいは送られたメッセージが、私たちを良い方に向うようにとの良い意味でのアドバイスだとしても、心の中がもやもやしている時には、「ああ、あなたのアドバイスなんていらない。私をほっといてください」ということがあるでしょう。 私の場合、その神様から送られたメッセンジャーの#1は家内のナンシーです。言葉を濁さず、私を観察して思ったことをズバット言います。「どうしたの、何でそんなに落ち込んでいるの。自分で自分が落ち込んでいるのを楽しんでいるみたいで、おかしいよ。何か心配事があるなら、私に話してよ。私はご飯の用意をするだけの奥さんではないのよ。本当に心配事、悩み事があるならイエス様にお祈りしているの? していないでしょう。あなたの態度、その傲慢な態度でどうして教会の牧師の勤めが果たせるの」と。それを何回も何回も繰り返して聞いているうちに、一人にしておいてくれと怒鳴ったこともあります。もっとも、そのすぐ後で、まずいことをしたと反省するのですが。教会の会員さんからも言われることがあります。どういう訳か私は、悩み事がある時、自分の心の中に思っていることが顔に出てしまうらしい、「先生どうしたの、大丈夫、」と言われて、「何ともない。大丈夫」と答えても、まだ心の中でのもやもやは続くのです。 牧師は信徒の前で模範でならなければならないと言われますが、模範のような顔つき、態度もあっても、そこに心がなければ落第です。しかし、牧師でも、信徒でも、同じです。同じ人間です。私の足りないとこを神様は知っています。それでも私を愛してくれる、それが神様、私の家族、それはこの教会の方々すべてを含みます。私たちはお互いを助け合うことを神様から命じられているのです。お互いを親切に、心からの言葉を持って、私たちの兄弟、姉妹と呼べる関係を築いていきましょう。 ブドウ畑はこの世で私たちが一緒に生活するところです。神様は私たちからこの世に住む私たちの支払いを期待しています。その支払いは何でしょうか? それは今日の説教の初めにお話した神の国のフルーツといわれるものLove愛、Compassion あられみ、Peace 平和、Trust 信頼、Encouragement 励まし、Courage 勇気、Prayer 祈り、Forgiveness 赦し、そして Repentance悔改めです。これらのフルーツを私たちの生活の中で分かち合い、お互いを助けて生きていけるようイエス様の導きが皆さんの上にありますように。アーメン。     Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet         「与えられた永遠の命を信じる者」”Joy of Believing Eternal Life” 私たちの父なる主イエス・キリストから恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。 これまでに、多くの方からキリスト教の信仰の原点あるいは出発点はどこでしょうか、と聞かれた事が何回もあります。私の、そして全てのクリスチャンにとって信仰の原点、出発点とはイエス・キリストが十字架にかかって死んだ後、父なる神によって復活なさったと言う事実にあります。コリントの信徒への手紙(一)15章17節にこのように書かれています。「そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」 イエス様の十字架の死は弟子たちに大きな衝撃を与えました。その時、彼らはイエス様に失望してしまったのです。弟子たちは、このイエス様こそイスラエルをローマ帝国から開放してくださる方に違いない、そう信じてイエス様に望みをかけていたのです。ところが、三日後の日曜日、死んだはずのイエス様が弟子たちの前に現れたのです。弟子たちは、その人物がイエス様だ、とすぐには解りませんでした。しかしいろいろな場面でイエス様と出会うことによって、自分たちと共にいる方はイエス様だと解り、復活の事実が成就された事を知るのです。 復活されたイエス様を信じることができるようになったのは、ただ単に自分たちが一生懸命信じたから出来るようになったのではありません。信じられるようになったのは、神様のギフトである信仰が、弟子たちの心に聖霊の働きによって入って行ったからです。 世界の歴史を見ますと、「イエス様こそ神様です」と信じる信仰は2千年も続いているのです。例えば、私達が生まれ、成長して自分達の子供が生まれるまでの年数を25年します。すると百年で4 generation(世代), 1千年で、40 generation, 2千年で80 generation となります。今世界の中で、イエス様に従う信仰を持った者は世界の人口の3分の1です。世界のあらゆる国の中で迫害を受けてもクリスチャンは生きているのです。 旧約聖書に詩篇と言う本があります。多くの詩篇の中に書かれていることは神様との対話です。詩篇139章に、私達人間が神様、創造者に向けて語っている言葉がこのように書かれています。「あなたは、私の内臓を造り、母の胎内に私を組み立ててくださった。私はあなたに感謝をささげる。私は恐ろしい力によって驚くものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか私の魂はよく知っている。秘められたところで私は造られ,深い地の底で織りなおされた。あなたには、私の骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。私の日々はあなたの書にすべて記されている、まだその一日も造られないうちから。」 詩篇の言葉は難しいのですが、ここで言われていることは、私たちは神様の計画の中で生まれて来た、人生は偶然に始まるものではないと言うことです。私たちは神様によって造られ、他者とまた神様との関係の中で人生を有意義に過ごす機会を与えられているのです。私達の人生には目的と意義がある事を神様は教えてくださっているのです。 今日の召天者礼拝は、神様のご計画により、私達がこの世で時を共に過ごす事ができた私達の家族、そして友人の一人一人を偲ぶ時です。そして、この方たちが私達の人生に関わったことを覚え、それによって、私達の人生が豊かになった事に感謝をする時です。よく言われているように、人生は長いようで本当は短いものです。ついちょっと前まで赤ちゃんだと思っていた子供が、瞬く間にもう小学生、中学生、高校生、大学生、そして社会人へと成長して行きます。親にしてみれば、なんと時間が経つのは早いものか、の一言に尽きます。そして私たちも私たちの両親が歩んだのと同じような人生を繰り返し歩んで行くのです。 私ももうすぐ還暦を迎えます。昔と違って60歳と言ってもおじいちゃんと呼ばれるまではまだ時間があるでしょうが、物忘れはするようになったし、記憶力は確かに昔ほどありません。しかしそれだからと言って20年前の私に戻りたいとは思いません。その時はその時で苦労があった。しかしそれを乗り越える力も確かにありました。私たちは人生を再び繰り返すことができません。一度しかない私たちの人生です。その人生の中で神様は私たちに与えられた今の時を大切にしなさいと言われているのです。その一つが今の私たちを見守ってくれた人々へ感謝を捧げる事です。 私たちを愛し、愛された人たちを思い出し、その人たちに感謝をするこの召天者記念礼拝を持つことは大切なことなのです。私の父は昨年6月に、二年間に亘る病院生活から神様の御許に帰りました。そして家内の父もこの6月に神様の御許に召されました。悲しみは今でも続きます。先立ってこの世を去った人生の伴侶、お母さん、お父さん、おじいさん、おばあさん、おじさん、おばさん、友達、その方々は今でも私たちの心の中で生きているのです。私たちはその素晴らしい者たちに囲まれて人生を過ごすことができた、そのことを神様に感謝しましょう。 今日私が選んだ福音書はヤイロという会堂司の娘の死と復活についての話です。イエス様は、私を含めて、皆さんの人生を今のこの時まで愛を持って導いてくださっているのです。これをRock climber、登山家 の体験から話して見たいと思います。一人で山の岩場を登る人もいますが、多くの登山家は何人か一緒にグループで山を登ります。そのグループの仲間達はお互いに信頼しながら山を登るのです。グループの一人が山の峰の頂上までもう少しだ、と言う岩場で、つかんでいる岩に全身の力を注ぎ、体を上に持ちあげようとした、その時です。摑まっていた岩が、欠けたのです。この登山家は急激に落下して行きました。この登山家は、私の命もこれまでだ、と思ったかもも知れない。自分の家族の顔が目の前に現れたかもしれない。何もできない状況で目を瞑って祈りの言葉を捜していたその時、この登山家は自分がロープで宙ぶらりんになっていることに気がついたのです。地上から何キロもある空中に、仲間の二人が岩場にしっかり打ち込んであった釘とそこにしっかり結んであったロープのお陰で、この男は命拾いをしたのです。 Grand Canyon のふちに立ち下を眺めた時、私は寒気がして足がすくみました。底に飲み込まれそうな気持ちにかられたからです。これは人生の不安と同じではないでしょうか?私たちの人生は迷子になった、空っぽになった、また不安に取りつかれたような気持ちで悲しくなることがよくあります。しかしそこで思い出して欲しいことは、イエス様は岩、私たちの信頼できる岩、その岩は私たちを見放すことを決してしないということです。イエス様は私たちが信頼することのできる方です。それを信じて今日の福音書の話を聞いてください。 ヤイロというユダヤ人の会堂の責任者に12歳の娘がいました。この娘が病気になりました。ヤイロと彼の奥さんは一生懸命看病したのですが病気は悪くなるばかりでお医者さんもこの娘を元気にすることができませんでした。このままでは娘は死んでしまうかも知れないという苦しい思いの中で、ヤイロは奇跡を起こすことができるイエス様のことを知りました。イエス様は病気の人を癒す、耳の聞こえない者を聞こえるようにできる、足を引きずってやっと歩いている者を自由に歩けるようにしてくれる、目の見えない者を目が見える者にしてくれる。ヤイロは、イエス様ならきっと彼の娘の病気を治してくださるに違いない、と信じたのです。そのイエス様が今彼の町に来ているということを聞いて一目散にイエス様のところに走って行ったのです。イエス様を見つけた彼はイエス様の足元に跪き、心の底から泣いてイエス様に娘の癒しを求めたのです。「どうか私の家に来てください、私の娘が死にかけているのです」と。もし私の娘が死にかけていたならば、イエス様に同じように頼んだでしょう。皆さんも同じことをイエス様に言ったはずです。私たちにとって子供はかけがえのない宝物だからです。 ヤイロがイエス様と彼の家まで急いで走っていったのです。その途中、会堂司の家の者が来て、「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」と言ったのです。ヤイロの目の前は真っ暗になりました。「ああ、遅すぎたか、せっかくイエス様をお連れしたのに。」ヤイロの家に着いたとき、イエス様は続けて言いました。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」イエス様は娘の手を取り「タリサクミ」「娘よ、起きなさい。」と言いました。すると娘は、その霊が戻ってきて、すぐに起き上がりました。娘の両親は非常に驚いたのです。 イエス様は神様の息子です。彼にできないことはありません。イエス様は私たちにも、永遠の命の希望を与えてくださっているのです。なぜなら、イエス様は、死の中から甦り、もう死ぬことがないからです。 今日、私たちがここに覚える天に召された家族や友人のお一人お一人は今神様の許にいます。神様と共に私たちを見守ってくれているのです。主イエス・キリストによって、そのお一人お一人と何時の日にか再会できる事が、私たちに約束されているのです。これこそ召天者礼拝の中で受ける私たちの心の平和と安らぎなのです。アーメン。       Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マタイによる福音書20章1-16節 「神の葡萄畑で愚痴る者」”Sour Grapes in God’s Vineyard” 私たちの父なる主イエス・キリストから恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。 私は都会育ちですからお百姓さんの仕事とはあまり縁がありません。しかし私が神学生として4年間勉強したPennsylvania のGettysburg の産業は主に農業で、見事に実った小麦、見渡す限り全てがひまわりの畑、そして私が一番興味のあったのはだいだい色のかぼちゃ畑でした。かぼちゃは日本でもありますが、一つ違うのはその大きさです。大きさがスイカのように4ポンドドほどのものが多い中で、中にはお化けかぼちゃもあるのです。とても一人で持ち上げることのできない100ポンドほどのものもあり、なぜ神様はこんなお化けかぼちゃを創造したのかと思うこともよくありました。 アメリカのお祭りの一つにハロウインというお祭りがありますが、そのお祭りの飾り付けに必要なものはこのかぼちゃで、そのかぼちゃに彫刻をするのです。もっとも私が子供たちと作ったものは怖い顔のかぼちゃでした。ところでこのかぼちゃを畑で収穫するのは思ったより大変な仕事です。最初に働く人を探します。カリフォルニアでは出稼ぎのメキシコ人が多いようにペンシルベニアにはプエルトリコ人がこのような仕事にかりだされます。お百姓さんはトラックで街角にたむろして仕事を探している人たちをPick up して畑まで連れてゆき、そこで一日$50の約束で働いてもらうのです。一日中一つ五キロのかぼちゃを畑からトラックまで運ぶ、ろくに休憩の時間もありません。朝6時にPick up された人達は一生懸命働いていましたが、それでもこの仕事は終わりそうもないとお百姓さん、12時にまた同じ街角まで行ってそこでたむろしていた何人かの人を連れてきたのです。3時になってまた5時になって、新しい働き手がPick up され仕事に加わりました。さて6時になり最後に雇われた人が先に給料を受け取りました。50ドルです。これを受け取った人は笑顔でホクホクです。次に3時に、そして12時に雇われた人。50ドルの約束でしたが、それに何かプラスの賃金をもらえるだろうと思っていたにですが、同じ50ドルを受け取りました。その顔は不服な顔つきです。6時に雇われた人たちも同じ50ドルを受け取りましたが、この人たちはこわばった顔つきで、お百姓さんに言いました。「私たちは一日中、12時間休みもなく働いたのになぜ3時間しか働かなかったものと同じ給料なのですか。それは不公平ではありませんか。私たちはあなたから100ドル受け取るべきです」。 もちろんこの話はブドウ畑が、かぼちゃ畑に変わっただけで聖書のイエス様の話の内容と同じです。この話は会計とか、経済とか、労働ユニオン、Labor Unionの話ではありません。この話は神様の恩恵、恩寵、好意、慈悲、ギフトについての話です。This is all about the GRACE of God. 神様はすべての物の作り主、管理人なのです。神様は、神様の意思でこの恩恵、Grace を私たちに与えてくださっているのです。このGrace,恩恵は、わたしたちが神様から私たちに無償 に与えられているのです。 朝早く働きに来た者も、昼から働きに来た者も、たった3時間しか働かなかった者にも、神様は同様な恵みを与えてくださっているのです。神様はたくさん仕事をしてきた人たちにそれなりの報酬をしないのですかと質問するのは当然と思われますが、神様の私たちへの愛はすべての人に神様の見方で平等に与えられているのです。 イエス様が十字架につけられた時、その隣の十字架に犯罪人としてつけられた一人はこう言いました。「イエスよ、あなたが御国においでになる時には、私を思い出してください。」それに対してのイエス様の答え覚えていまか? イエス様は答えて言いました。「よく言っておくが、あなたは今日、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。 この男は犯罪を犯した者、それがどんな者かはわかりません。しかし惨めな人生を送ってきたような男、しかしイエス様の噂は聞いていたと思います。そのイエス様の隣、それも十字架にかかった、その辛い、人生の命ももう消えようとしているその時、「あなたは私と一緒にパラダイスにいるであろう」と言われたなら、それほど光栄なこと、それほど涙が出てくるようなすばらしい福音ではないでしょうか? この男はイエス様を知らなかった。しかし聞く話によると、イエス様は世の中で皆から嫌われているもの、罪人と言われる者達を哀れんでくださるお方だと言われている。イエス様は私たちがどんな罪人でも私たちを赦し、愛してくださるのです。神様が私たちを愛してくださると言う時、誰が一番愛されているかとの質問はいりません。何故なら、この惨めな私も、あなたも、イエス様、神様にとっては#1の愛の対象であるからです。愛に順番があるのは人間の世界だけです。神様の愛は平等です。しかし、愛さ更に言うなら、私たちの一人ひとりはイエス様の愛の対象#1であるはずです。私たち人間にとってそれはできませんが、神様、イエス様にとっては、私たちすべてが神様の愛の対象#1なのです。そして、神様はすべての人をいつかは神の国へと招いてくださるのです。 Reader’s Digest にJim Williams と言う人が書いたものを皆さんに紹介しましょう。私がある夜、規制スピードを超えてハイウエイを走っていたとき近寄ってきた車が私のすぐ後ろにつきサイレンを鳴らしました。車をハイウエイの脇に止めて窓を開けるとお巡りさんがやって来て何も言わず、フラッシュ・ライトで車の中を点検しました。最初に私の顔、そして妊娠7ヶ月目の家内、そして18ヶ月目になるベイビー・カー・シイトで眠っていた娘、そしてぐっすり眠っていた3人の息子たち、そして最後にこれ又ぐっすりねむっていた二匹の犬を見たのです。ゆっくりと、おまわりさんは私の顔にフラッシュ・ライトを向けなおし言いました。このところは英語で本のなかに書いてあったとおりに言いましょう。 “Son,” he said.  “You can’t afford a ticket.  Slow down.”  And with that, he returned to his car and drove away.お巡りさんはわたしにTicket を出して当たり前だった。しかしそれは忠告にとどめて、大切なことを言ってくれたのです。「車の中の宝物を大切にしなさい、家族の一人ひとりを守りなさい」とのお巡りさんの言葉は、まさに、私にとって神様からの言葉のようだっのです。 もう一つ伝説の中の話を紹介しましょう。お母さんとまだ幼い少年の話です。ある日少年のお母さんは病気になりました。お母さんを元気にしてあげたいとの思いで村の花屋さんにお母さんお好きなバラの花を買いに行きました。しかしお店の花はみな売切れです。ああお母さんにお花を上げたかったのに残念と心落ちして帰る途中、すばらしい庭園を見つけたのです。綺麗なばらの花が沢山咲いていました。そこにgardnerを見っけて、もしバラの花を売ってくれないかと頼んだのです。Gardnerは言いました。「この庭園は王様の持ち物で、売ることはできません」と。少年は涙を流して自分に言いました。「それでは何時かお母さんをおんぶしてここまで連れてきてあげよう。この素晴らしいバラを見たらお母さんの病気も良くなるでしょう」と。その時です。少年を呼ぶ声が庭園の中から聞こえました。それはプリンス、王様の息子の声です。「庭の花を売ることはできないけれど、その花をプレゼントすることはできますよ」と。そして両腕にいっぱいになるほどのバラを少年に与えたのです。これは神様と神様の国でも同じです。神様の国に入るメンバーシップはどんな価格でも買うことの出来るようなものではありませんが、親切で慈悲深い神様より無償で自由に与えられるのです。 これが私たちの信じる神様の恩恵、GRACEです。Graceは、数とか、ポイントとか、私たちがする善行いによって受け取るものではありません。神様が私たちに一方通行で下さる掛け替えのないギフト、賜物です。しかしある人はこの神様からのGrace と言うものが心の中に入らないのです。受け取れないのです。 畑に言って働きなさいと言われ、朝早くから働いた人たちが、お昼から働いた人たち、そしてたった短い間働いた人たちと同じ賃金をもらったことが面白くない。神様の恩恵、Graceは、この人たちの心の中で、片隅にも見つからないのです。 今日の旧約聖書の話はヨナという宣教師の話です。あの大きな魚、鯨に飲み込まれた人の話と皆さんは思い出すでしょう。ヨナは神様に呼ばれて外国に行き、そこで神様について語りなさいと言われ、いやいやながら異国の地で神様のことを語ったのです。異国人がイスラエルの神様を受け入れなかったならそれでもいい、ユダヤ人だけが救われるはずだから。ところが外国人、異邦人が、イスラエルの神様の教え、救い、神様の恩恵まで受けとった。Acceptしたのです。これは面白くない。彼は、ユダヤ人の神様を外国人が受け入れることに神様に抗議し、怒りのあまりに死にたい位ですとまで口に出して神様との会話をしたのです。救いは私と私の民族だけのもの。これがヨナの考え方でしたが、それに対しての神様の答えは、私は世のすべてのものが私を信じ、救いを受けることです。大切なことは人間である一人ひとりと神様からいただいた愛の精神で付き合うこと、一緒に生きることができるように勤めることです。 私たちの中でもイエス様に従う信仰を守ってきた先輩はたくさんいらっしゃいます。それと反対にキリスト教徒はと勉強を今始めた方もいます。信仰の長い、短いによって神様の私たちに対しての愛は変わりません。私たちはみな平等に、それは全てのキリストに従うものに同じように与えられていることを覚えてください。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マタイによる福音書18章21-35節 「赦すことの大切さ」          “The importance of forgiveness” 私たちの父なる主イエス・キリストから、恵みと平安があなた方にあるように。アーメン。  10年前の今日9月11日の朝、皆さんは何をしていましたか? 朝の9時ごろだったと思います。テレビをつけて、ニュースを見ようとしたことろ、突然 New YorkのWorld Trade Center に、飛行機が飛び込んできたシーンのを見たのです。これは、すでに起こったビデオでしたが、何と言う恐ろしい事が起こったのかと思っていた矢先、今度はまた考えられないような事、それはこのビルが上の方から地上までものの2,3分のうちに崩落していったのです。その後、また同じことが起こり、Twin tower と呼ばれていた、もう一つのビルに、これまた、もう一機の飛行機が突入したのです。そればかりではなく、もう一つの飛行機はアメリカ国防省のペンタゴンというビルと突入しました。そして4つ目のハイジャックされた飛行機はワシントンDC の国会議事堂、あるいはWhite House に突入することを目的としていたらしいのですが、その途中ペンシルベニアの山麓に墜落したのです。 テレビの時代になってKennedy 大統領の暗殺事件以来の大きなニュースであった聞きました。2753人がこの事件で、命を落としたのです。それは70国からの人たちを含みます。お父さん、お母さん、息子、娘、兄弟、姉妹を亡くされた家族を思うと今でも涙が出てきます。この後、アメリカは、アルカイダ、そしてイラクのフセイン大統領とアメリカ、世界の秩序の敵として戦うようになったのです。人類の歴史は戦争と平和の連続です。私は第2次世界戦争の後に生まれて日本が戦争に拘わったことを経験していませんが、両親、祖父、祖母の時代にも明治維新の時代も、戦国時代、源平の時代にも戦いがなかったわけではありません。戦い、戦争、喧嘩がいつも、どこかの国、民族の中で続くのは私たちが自分、自分たちが正しい、自分たちの意見が一番、自分たちが他の人たちより優れているという考え方から出てくるのです。 自分が正しい、自分の意見が一番だと考える私たちは知らず知らず他の人たち、それは、両親、兄弟、姉妹、友達、仕事の仲間の中でも、意気投合することが難しい状態を作ってしまうので。はっきり言って愛し合うこと、お互いを大切にする、赦しあうことは必ずしも優しいことではありません。しかし、神様であるイエス様は私たちに私たちの人生の中で一番難しい戒めを今日の創世記と福音書の中で語っているのです。それはお互いを赦し合うことです。 ヤコブの13人の息子たちの一人、ヨセフが余りにも自分は父のヤコブに一番愛されていると自慢していたのを我慢できなくなった兄弟によって大きな穴に落とされました。その後、見つけられた駱駝の商隊によって助けだされたのですが、エジプトで奴隷として売られたのです。ヨセフが自分の兄弟に対しての赦すことのできな怒りは非常に大きかったと想像します。何年、何十年もたち、イスラエルでの飢饉で食物をエジプトまで求めてきたヤコブの兄弟が、その時、王様の側近とまでになったヨセフと対面し、本当だったら兄弟たちを牢屋にぶち込むほどの怒りがあったはずです。自分の正体を明かさずにそれを水の泡に流して赦してやった。それどころか、沢山の穀物を与えて兄弟たちをイスラエルに帰したのです。 同じように、今日の福音書は王様が借金のある僕に返金をするように命じたところ、「少し待ってください、必ず王様返金しますから」と言われ、王様は哀れに思い僕の負債を取り消してあげたのです。この王様は寛大でした。しかし負債を赦された僕は彼に借りのある者を見つけ、首を絞めて「借金を返せ」と命じたのです。「どうか待つてください、少し時間を下さい、必ず返しますから」と頼んだ僕に王様が寛大であったのと反対に、この僕を金の返還ができるまでといって牢獄にぶち込んだのです。 35節の王様の言葉はこの悪い僕だけにではなく、私たちにも語られている神様からの言葉です。聞いてみてください。「あなた方めいめいも、もし心から兄弟を赦さないならば、私の天の父もまたあなた方に対して、そのようになさるであろう」。ここで聖書ははっきり語っているのです。神様から哀れみを受けた私たちはお互いを赦すことを命じられているのです。 少し時間をあげますから、人生の中で、誰から虐めらた、騙された、貶された、暴力を受けた。そんな経験を覚えていますか。それが大きなこと、小さなことにしろ、私たち一人ひとりが必ず経験してているのです。そのような経験の中で、人生真っ暗になった時があったと思います。あなたに被害を与えたその人を赦すことができますか?できましたか? 旧約聖書では「目には目を歯に歯」という考え方はイエス様の出現する前の一般のユダヤ人の報復、英語で言うRetribution として一般から認められていたのですが、イエス様はこの考え方にチャレンジされたのです。誰かから意地悪の言葉をかけられた。かあっとなって「何だお前」と大声で答える。こぶしが飛んで来て鼻血が出る。「このやろう」と言って取っ組み合いの喧嘩になる。周りの人はこの二人を引き離そうとするが、喧嘩はさらにエスカレートして一人は棒を振りはじめる。相手も石を拾ってそれを喧嘩相手に投げつける。最後には二人ともへとへとになって地面に倒れる。それは惨めな姿です。 このような喧嘩は男の人のやることと思いがちですが、時には、女の人もすさましい。Irvine  のCostcoで見たのですが、ある東洋人のおばさんが、会計のところで、どうもお釣りのことでごたごたしているのを見ていた時、急に、このおばさん、言葉の問題があったのか、自分の母国語で怒鳴りだしたのです。その声が、お店のあらゆるところまで聞こえてくるようなそれはすさまじいシーンでした。お店の店長さんらしい人が、このおばさ見ている感じになりました。私は家内との喧嘩になりそうなときには逃げるほうで、対決するのは苦手です。もう一度聞きます。もしあなたが、誰かから悪いことをされた時、あなたは「私はあなたを赦します」と言えますか?神様が私たちに教えてくれたことの中で、「赦す」 “Forgive”と言うことは非常に難しいことなのです。旧約聖書の中で、3回まで赦しなさいと書いてあります。しかしイエス様の教えは旧約聖書の教えを乗り越えています。ペテロが赦しは7回までしなければなりませんか?とイエス様に質問した時、イエス様は言われました。「あなたに言っておく。7回どころか、7の70倍までも赦しなさい。」つまり赦しは永久に続けなくてはならないのです。 私は、所詮罪人ですが,クリスチャンとして神様から赦された者であると確信しています。イエス様は、私たちの受ける聖餐式の中で、イエス様の体とその尊い血によって私たちを赦してくださっているのです。 神様の許しは神様の愛と同様に計り知れない私たちへのギフトなのです。5歳になる男の子がお母さんとの約束を破りました。彼はこっそり自分の部屋に入ろうとしていたところを、お母さんに見つかって言われました。どこに行くつもり?」「自分の部屋です。そこで神様とお話したいから」。お母さん続けて言ました。「お母さんに話せないことがあるの?」「うん、お母さんは僕を叱って、あれやっちゃだめ、これやっちゃだめって言うけれど、神様は僕を赦してくれて、悪いことしたことを忘れてくれるから」。では大人の私たちはどうでしょう。私たちに赦す心、能力があるのでしょうか? 次の聖書の話を覚えていますか? お父さんが家の門から通りの彼方まで走っていった。そこに、いつか帰ってきてくれよと願っていた年下の息子を見出したからです。両腕の中に息子をしっかり抱きしめて本当に嬉しかった。ホーム・カミングのお祝いを催したのです。それもこの息子がお父さんの大金を無駄使いしてしまったにもかかわらず。過去のことは過去のこと。大切なのは明日に向かって生活することです。 この放蕩息子へのお父さんの愛はたいしたものです。これが私たちの天の神様、イエス様の愛である訳です。子供によって傷つけられたこのお父さん、世間からは常識のないお父さんと私たちは見てしまう。しかしこれが私たちを心から愛してくださる父の愛であり、私たち、イエス様を信じる者は天のお父様の愛、限りなく寛大な愛を頂いているのです。イエス様に赦された私たちは、お互いを愛する、大切にする、自分の兄弟、姉妹として愛し,ゆるし合う関係を築いていかなければなりません。 最後に、Forgiveness, 許しは人生の過程であることを知ってください。この先私たちの人生で、また怒りに駆られ、人との関係が難しくなることがあると思います。しかし、わたしたちはお互いを何回も何回も赦さなければならない時が来るのです。これをイエス様は7どころか7の70倍しなさいと言った理由です。 人生が意義あるものになるためには、何回も何回も私たちに拘わる人たちを赦しなさい、そして許しがあるところには和解の場ができるのです。和解の場が出来るところには平和、平安が訪れるのです。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 「転覆しない人生」 1992年、経験を積んだマイケル プラントと言う船乗りは単独で北大西洋を越えてフランスへ向かう目的でアメリカを立った。2週間目にプラントに大変な事が起こり、行方不明となった。プラントが準備万全であることを知っていた家族や友達はショックを受け、また非常な悲しみに襲われた。プラントの船には救急用のラジオを含めて最新の器械が設置されていて万が一の時には単に短い4っのシグナルを送りさえすれば彼の居場所はすぐ解り助けを得る事ができるようになっていた。 プラントは最新の連絡機能がつけてあり大海でも恐れる事が無い船を持ち、そして深い経験を積んでいるセーラーでありながら11日目に跡形一つ残さずに行方不明となってしまった。コヨテと名づけられた彼の船の捜査がはじめられた。大西洋を飛ぶ航空会社のパイロットには「助け」を求めるシグナルに注意を払ってくださいとの依頼が出された。何日も経過したが幸運は向いていないようだった。しかしコヨテはアゾレス*から450マイルも離れている所に逆様に浮かんでいるのを飛行中の航空会社の一員に見つけられた。しかしプラントの姿は見つからなかった。 捜査によると11日目にカナダとUSAで緊急の連絡を伝えるシグナルが受け取られた事が分かった。しかし正常では4っのシグナルであるべきが、短い3つであったことから無視されたのだった。もう一つ不思議なのはコヨテが逆さまで見つかったことだった。普通では、ましてわりと穏やかな海では逆さまになる事はありえなかったのである。計算以外の事は起こるものだが、造船会社は災害予防に最善を尽くしている。それには転覆予防計と言うのがあって船の幅、重さ、角度を計算して船の横幅や重さを決めるからである。 漕ぎボートと帆船とはどう違うか知らないが、一般知識としては、転覆しないためには船の水面下の重さが水面上より大きくなければならない。プラントの船には転覆予防に8000ポンドの重みが付けてあったが発見された時にはそれは失われていた。どうなったのだろうか?何かに打ち当たって外れたのだろうか?きちんと装着されていなかったのか?それとも設計に欠けたところがあったのだろうか?それは誰にも分からない事で8000ポンドの錘もプラントも不明となった。(*アゾレス 大西洋中間、リスボンから930マイル西方にあるポルトガル領の島の集まり。)水面下に余分につけてあるこの錘が船の転覆を予防しているように、私達の生活が転覆したり沈没しないためには聖霊的な錘を水面下につけておかなくてはいけないのではないでしょうか。 夫婦が結婚のカウンセリングに行った。二人とも大学卒で良い職を持ち年毎に収入は増えてハワイやヨーロッパにバケーションホームが買えた。高級な車に乗り豪華な服装をして何事もスムーズに暮らしていたのだが、ある日妻は夫がオンラインで猥褻な事を楽しんでいる事を発見した。妻が夫に対面して話すと夫は恥を感じながら行動を認めたのだがその理由はわからなかった。夫は自分の子供時代、成長期に父親から辛い思いをさせられた事をカウンセラーに打ち明けた。 父は彼は何事にも絶対失敗する人間だと繰り返し言って精神的な苛めをしていた。母は母で彼は絶対高校は勿論大学などは行ける様な人間ではないと言い続けたのだった。その反抗心で彼は精神力を全部そそぎ金融関係の成功者となり社会的な成功者となった。彼は週に80時間働いて「立派な生活」を保つ事で親に「それ見ろ」と言うのに成功したのだ。彼の水面上の暮らしは素晴らしいものであったが、水面下には錘は何も無かったのだ。人生の嵐に襲われた時に頼りになる錘の準備は全く準備されていなかった。そして彼のオンラインでの破廉恥な行動で妻を無くし、職も名誉も無くしてしまったのだ。それは彼の中には彼の人生を真っ直ぐに舵をとる備えが何も準備されていなかったからだ。 別の男性の話をしましょう。チェ・ソンボンと言う21歳の韓国人で最近「アメリカ ゴット タレント」に似た様な番組の「韓国ゴット タレント」というショウに出て歌う前に彼は照れ屋でバツが悪いような様子がみえました。そして審査員達は彼の生い立ちを尋ねました。何と言う話でしょう! 彼が3歳の時に両親は彼を見捨てて孤児院に入れました。与えられる食事は少量で、住居はひどく、そして色々な乱暴を受けたので5歳でそこから逃げ出しました。次の10年間はチューインガムやエネルギードリンクを売り道路で寝起きして生活しました。今は肉体労働者です。彼が歌い始めると、丁度イギリスの「ブリテン ゴット タレント」でスーザン ボイルが歌うのを人々が始めて聞いたときと同じように人々に絶大な感動を与えました。 その素晴らしいパフォーマンスの後チョイは記者から彼の厳しかった子供時代の事を繰り返しインタヴューされました。どうやって路道で生き延びたのか?なぜギャングの仲間に入ることもなくまじめに生きたのか?何処で歌うことを学んだのか?どうやって生き続ける勇気を得てここに至ったのか? チョイは「どうやって生きる勇気と希望をを持って強く生き続けてこられたのか自分では解らない」と答えた。だか何かが彼をここまで真っ直ぐに導いて来たのだ。 チョイと異なり、私達クリスチャンは何故か、言い直せば誰が私達を転覆(転落)から守っているのか知っています。水面下の錘が何か、誰が船を浮かばせて転覆を予防しているか、大波や大風に立ち向かう力を与えて下さっている、それは私達を創造なされた愛情深い神でしかない。 詩篇のなかで神は言われる、『民が荒波の中に放り込まれた時にその民をしっかり守るのは私である。』 マイケルプラントのボートに何が起こったかは知る由も無い。しかし8000ポンドもの錘を失くし彼には全く勝ち目はなかった。オンラインで不埒なことをしていた男は転覆を予防する何物も持っていなかった。 ところで、皆様はいかがでしょうか? 私達は水面上の事;金銭、パワー、社会での地位そして人気、見かけ、容貌、社会での成功などには大変興味を持っています。しかし水面下はどうなのでしょう? いざと言うときの充分な錘がつけてあるのでしょうか。若しあなたが神を自分の錘として自分に装着させているなら、どのような激しい嵐に見舞われても、どのように海が荒れても、風が激しくても必ず守り、転覆させないと神は約束されているです。 Tami Day(山本民子)要約   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マタイによる福音書16章13-20節「彼らが言うには・・・」  “They say….”  私たちの父である神と主なるイエス・キリストより恵みと平安があなた方の上にありますように. アーメン。 今日の福音書の記事の中でイエス様が、「人々は、人の子のことを何者だと言っているのか」と書いてあります。英語でそれは、 “Who do they say that I am?” です。 そこで、弟子たちは答えました。「あなたは洗礼者ヨハネだ」、「エリヤだ」、「エレミヤだ」とか、預言者の一人だと言う人もいます」。さてこの後、イエス様が、弟子たちへ、単刀直入に「あなた方は私を何者だというのか」との質問をなさったのです。 この礼拝堂の中にいる私たちはイエス様のこの質問にどう答えますか? 長い信仰生活の人は、「イエス様、あなたは神様の子、私の罪を負って十字架にかかって死に、しかし神様の偉大な力で甦った方」と信仰告白をなさるでしょう。ある人は、私はもう少し納得がつくまで時間をください。イエス様が偉大な方とは信じています、でも聖霊に触れてそれが力強くできるまで時間をくださいと言われるかもしれない。またある人は言います。「私は仏教の仏様を今でも拝んでいます。クリスチャンになると今までの信仰のすべてを捨ててイエス様だけを神様として生きていかなければならないのですか?」 これは大きな信仰の問題です。私たち一人ひとりがこの問いへの答えを出すのです。キリスト教の信仰はただ聖書を読むことだけでは育ちません。聖書の中で言われているイエス様の隣人との関係をわたしたちの人生の中で実行する中で信仰も育つのです。ですから私は出会った人の中に神様の姿を見ることが良くあります。それは本当です。ある人から一緒に祈ってくださいと頼まれ、心からその人のことを思って祈る時、祈りを受けた人は神様の存在を感じるのです。 イエス様は弟子たちへの質問「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか」と聞いた時、ペテロが真っ先に答えました。「あなたはメシヤ、生ける神の子です」。その次のイエス様の言われた言葉は大きな責任をペテロに与えているのです。「シモン・バルヨナ、これはペテロの別名、あなたは幸いだ。あなたにこのことをあらわしたのは、人間ではなく、私の天の父なのだ。私も言っておく。あなたはペテロ。私はこの岩の上に私の教会を立てる。黄泉の力もこれに対抗できない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは,天上でも解かれる」。 このようにイエス様から言われて、ペテロは自分を誇りたいような気持ちになったかもしれない。この私が、この世で神の国への鍵をイエス様から頂いたとは、これほどイエス様は私のことを信頼しているに違いないと思ったことでしょう。それは神様に選ばれた私という誇りですが、その反面、これはとても大きな責任です。しかしこれはイエス様に従って生きてゆく決心をした私たちの責任でもあります。英語でこの責任をStewardship という言葉を使って言いますが、私たちの生活、他人に対しての思いやり、お互いを大切にすることは、神様から私たちに託された責任です。 しかしここで心に留めていただきたいのは、これは単に、イエス様を、神様を信じる方だけにする行為、思いやりではありません。世界中のすべての人は私たちの隣人、私たちの愛の対象です。宗教の違う人他にも、Sexual orientation の違う人にも、自分と異なるPolitical Party を支持している人にも、私たちはイエス様から教えられた愛をもってお互いの人生を大切に生きてゆきたいのです。私のMentor であったフィラデルフィアの牧師さん、ボブ・ハイソン 先生は彼の教会の部屋の壁に、 “To confess Christ as Lord is to have a healthy respect for all people” と言うポスターを掲げていました。日本語で言うならこれはイエス・キリストを告白することはすべての人々と尊敬すべき関係を持つことです」。 ところでペテロの話に帰ります。皆さんがご存知と思いますが、シモン・ペテロは12弟子の中で、一番、福音書の中に名前が出てくるリーダーであることは確かです。彼は自分でも私はイエス様に一番近いものと思っていたに違いありません。彼の名前はシモン・ペテロです。イエス様に従って行ったその前はシモンと呼ばれていたのですが、イエス様がこのシモン・ペテロのペテロに大きな彼の性格を見抜いていたのです。ペテロ、その名前の意味は岩です。岩は硬い頑丈なもの。置かれている場所でちょっとやそっとでは動きません。ニューヨークのマンハッタンは固い岩の土地で、その土地がしっかりしているからこそ大きな高層ビルが建てられるんです。それは人間についても同じことで、人の土台がしっかりしていないと人生でいろいろな問題を持つことになると言われます。 イエス様は自分のことをよく「人の子」、Son of man と言う言葉を使ってあらわしていましたが人の子とはメサイア、救い主という意味でもあります。イエス様は自分で選ばれた12弟子をご自分の始められた仕事、それは人々に神様の愛を知ってもらいたい、いやそれ以上にその神の愛をお互いの生活の中で、実行していくように教育したのです。12弟子ほどラッキーな人達はいなかったでしょう。毎日の生活の中でイエス様の説教、奇跡、癒し、そして人間の悲しみが喜びに変わったその姿を見てきたのです。 そんな12弟子に、「あなたは私をだれと呼ぶか」との問いは私たちにも語られているイエス様の質問です。To be Christian means believing that Jesus is the Christ, the Son of the living God. 私たちが「主よあなたはメサイヤ、救い主です」と呼ぶ時,そして「あなたこそキリストです」と告白する時、私たちはイエス様が油を頭に注がれた者、それは父なる神からおくられた者であることを確認することです。 すべてを捨ててイエスについてきた12弟子が始めの頃イエス様をどう思っていたかはっきりわかりませんが、一日が過ぎる度にイエス様の偉大さを心に感じたに違いありません。そこで、「イエス様あなたこそ私、私たちの救い主です」との告白ができるようになったのです。 わたし事ですが、人生もうすぐ60年を通って来てイエス様への思いが山の頂上、それと反対に、谷間の底に落ちたような思いを繰り返してきたのです。これからもイエス様に喜ばれないそういう口から出る言葉、思いで、クリスチャンとなんて呼ばれることも出来ない時があるのです。それは私がまだ真面目にイエス様についてゆくことのできない人間であるからなのです。 しかしそんな私、あなたは、私たちに、十字架に架かって私たちの罪のため死んでくださったイエス様は、罪と咎にけがれた私、わたしたちを哀れんでくださったのです。それを思うと私の心は感謝の思いで一杯です。ですから長い歴史の中で、私たちに心の安らぎと喜びを下さってこられたイエス様は、偉大な方であり、私にとってこの神様なしに明日の生活もできません。 今日の説教の最後にイエス様がペテロに約束してくださった天国に入るにあたっての鍵について語ってみましょう。イエス様は弟子たちに「あなたがたはわたしをだれというか」と質問したとき、シモン・ペテロが真っ先に手を上げて、答えました。「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と。 すると、イエスは彼に向かって言いました。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いである。あなたにこのことをあらわしたのは、人間ではなく、私の天の父なのだ。そこで、私はあなた方に言う。あなたはペテロである。そして、私はこの岩の上に私の教会を建てよう。黄泉の力もこれに打ち勝つことはできない」と。さてこれに続くイエス様の言葉は大切な言葉です。「わたしは、あなたに天の国の鍵を授ける」と。 ペテロがその鍵をもらったのでしょうか? カトリック教会はまさにそのように受け取ります。ペテロ自身がカトリック教会の第一代目の法王、Popeです。それは2千年を何百人にも及ぶ法王によって受け継がれてきました。法王はカトリック教会の中では最高主権者であり、彼がこの地上でのキリスト教の頂点です。よく注意して法王の着ているガウンを見てください。底に鍵の刺繍が縫いこまれています。法王はカトリック教会の中でペテロと同じ天国に至る道を示す力を持っているのです。 しかし、新教、プロテスタントと呼ばれるクリスチャン、それは私たちのルーテル教会、メソジスト、聖公会、改革派教会、バプテスト、聖霊派の教会の中で、天国の鍵を持っているのは誰だと思いますか。それはビショップと呼ばれる人、いろいろな教会の一番くらいの高い人でしょうか。いいえ、そうではありません。 天国の鍵は私たち一人ひとりが神様を救い主と信じ、告白する時に私たちにすでに与えているのです。この罪深い私、私たちは心を低くして神様、この罪びとの私を赦し、哀れんでくださいと心の底から祈る時、すでに与えていただけるのです。しかしその鍵はいつも私たちの胸の中にはありません。傲慢になった時の私たち、人を見下ろして自分がもっと神様に愛されていると思った時、私たちはその鍵、天国の鍵をいただくことはできません。 敢えて言うならば、私たち人間は天国の鍵がいただけるような生き方ができない、罪に満ちた人間です。しかし、その罪人を愛してくださった神様、イエス様に心の中で出会った時は人間としての感謝と幸福を感じる最高の時であると信じます。 どうか私たちが少しでもイエス様のように生きることができるようになれたら、それが私たちの人生の中で一番大切な思いと祈りであるのです。アーメン Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace