Archive for the ‘牧師説教’ Category

Tweet ヨハネによる福音書10章1-10節 「羊飼いと羊」 “The Shepherd and The Sheep” 今日の福音書の中で「羊は羊飼いの声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」と書いてあります。羊が羊使いの声が分かるとは了解できますが、羊飼いは本当に、何十、何百と言う羊の声を聞き分けることができるのでしょうか? 私は都会生まれ、都会育ちですから、羊の声は皆同じに聞こえるのですが。ところで、日本の羊はメーメーですが、アメリカの羊はバーバーです。 ある小学校1年生の男の子を対象にしたアンケートで、自分がもし動物だとしたら、どんな動物になりたいかとの質問の答えは、ライオンが一番、熊が2番、象が3番、イルカが4番でした。羊は答えの中に出てきませんでした。しかしそれは男の大人にも言えることで、一番なじみのあるサービス・クラブはLion’s Club です。ついでに言いますが、アメリカの建国の時Benjamin Franklin は七面鳥をアメリカのシンボルにしたかったのですが、それにはかなりの反対が在り、決まったのは頭の白いBold Eagle です。 オーストラリア、二ユージーランドでは羊の数は人口の数より多いと聞きます。羊はアメリカの牧場では見ないわけではありませんが、アメリカと羊はあまりイメージが会わないようです。私たちの頭の中にも、羊のイメージとはか弱い、誰かに世話をしてもらわなくてはならない、あまり利巧でない動物と考えられているのです。 イエス様は私たちを愚かな、弱い、誰かから面倒を見てもらわなくては生きてゆけない羊だと言うのです。しかし私たちは私たちのシェパードである神様の声を聞き、イエス様に従って生きたい人間です。羊たちは自分の羊飼いの声を知っていて、それには従いますが、他の羊飼いの声を聞いてもそれには応答しないのです。羊が皆同じような顔をしているのは確かで、他の群れの羊と区別するには特別なしるしを羊の体に刻むのです。アメリカの牧場で育つ牛は持ち主の牧場の名前の焼印を押されます。火で焼かれた熱い焼印は牛だからこそできるのですが、羊には其れができません。その代わり、ある羊飼いに従う羊たちの耳にナイフで切り傷をつける習慣があります。特別の切り傷のしるしです。それにより羊が迷子になった時、その羊を見つけた羊飼いは、どの羊飼いの羊かすぐわかるのです。耳の一部をナイフで切られた羊も、それを行なった羊飼いも痛い思いを経験するのですが、それはどこの羊飼いに属するのかを知るための必要な印です。しかし自分の羊を本当に大切に世話をしている羊飼いたちは、同じような顔をしている全ての羊に何か特別な特徴があるのを知っています。叉、24時間羊と共に生活してきた羊飼いは一匹、一匹の羊を見るだけでその羊の性質も分かっているのです。その一匹、一匹に羊飼いは名前を与えているはずです。たとえば、それは、あだ名で、食いしん坊さん、泣き虫さん、のんびりさん、おこりぼさん、、そうです、顔だけでなく一匹、一匹の羊の性質も知っているのです。同じようにイエス様、神様は、私たち一人ひとりの名前も、性質も、全て知っているのです。覚えていますか、イエス様の話された迷子になった羊の話を?それは、ルカによる福音書15章にあります。「あなた方のうちに、百匹の羊を持っているものがいたとする。そのうちの一匹がいなくなったら、99匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは、捜し歩かないであろうか」。 ここでの答えは、「勿論です。そのたった一匹のために山を越え、川を渡って探し回るのです」。迷子になった一匹の羊はかけがえのない羊です。愛されている羊です。そのたった一匹のために、羊飼いは全力を尽くして探しまわるのです。私たちが道に迷った時、一人で帰り道も分からず途方に暮れている時、神様は必ず私たちを探しに来てくださると信じます。わたしとあなたという世界の中で本当に小さい存在の私たちを神様は何時も見守ってくださっているのです。 世界の、いや、宇宙の全てを司る神様はあなた方全ての人の名前を知ってます。そして、あなたの名前は神様の手のひらに刻み込まれているのです。私たち時々自分がなんて取るに足りない、意味のない人間だと思うことがあるかもしれない。しかしイエス様は私たち一人ひとりの名前を知っています。そして私たちを大切な人と見守ってくれているのです。同じように私たちの羊飼いであるイエス様に従っていく中で、洗礼を受ける儀式は神様の子どもとなることです。水で父と子と聖霊のみ名によって清められ、額に十字架をマークされたわたしたちは、羊飼いであるイエス様の信仰の群れに入るのです。羊飼いであるイエス様は誘惑に打ち勝つ力、お互いを大切にして生きる人生でなくてはならない愛の精神を私たちの中に育ててくださるのです。 最後に、Alfred Soord という人の画いた絵を見てください。Google でThe lost sheep と捜索すると色々な羊飼いと羊いの絵が出てきますが、この羊飼いの絵ほど必死に迷った羊を助け出したいとの思いが私たちの心に迫ってくるものはありません。                                                                 何かGrand Canyon のような所で足を踏み外してどん底ではないが、かろうじて飛び出た岩にしがみついている羊です。一足でも間違った動きをすれば、それこそどん底に落ちてしまう。恐くて恐くて動くことさえできない。羊は自分だけでこの危機から逃れることができない。誰かに助けもらえなければ・・・泣きながら助けを待っていた羊が上のほうを見たとき、そこに自分の羊飼いを見出したのです。同じくそこには大きな鷲が飛んでいる。私を餌食とでも思っているのだ。ああ恐い、羊飼いさん、助けてください。あなたによるしか私は助けられません。救ってください。羊飼いは探していた羊が見つかって嬉しかった。しかし今や羊を崖の上まで導かなければ。そのために自分の命をも懸けて羊の所に降りてゆこう。そんなドラマをこの絵の中に見るのです。私が来たのは、羊が命を受けるためしかも豊かに受けるためである」。命を受けるとはどういうことでしょうか? 私たちは今ここで息をしています。心臓も働いていて、体の中に血をめぐらし自分しかも豊かに受けるためである」。命を受けるとはどういうことでしょうか? 私たちは今ここで息をしています。心臓も働いていて、体の中に血をめぐらし自分がしたいこともやっています。しかし生きていながら、生き甲斐を感じていない人、つまり、私の人生とは何だろうと感じることもあるのです。しかしイエス様を救い主を信じるわたし達はわたし達がどんな人生を送ってきた、送っているものであっても主を信じることで救われるのです。救われるということは助け出されるということです。 世界の宗教の中で自分の修行、行いによって救いを達成する事ができるという教えはあります。しかしキリスト教、イエス様を信じるわたし達は、人生の嬉しい時、悲しい時、全ての時に神様であるイエス様を信じ、神様から一方通行で与えられる神様の赦し、慰め、励ましを両手で受け取ることです。強いて言うなら、今ここでイエス様、私たちの神様は今ここで私たちを愛してくださっているのです。救われるということは愛されていることを確認することです。イエス様から愛されている羊である私たちを何時も守り、緑の牧場に導いてくださる方、イエス・キリストこそ私たちのかけがえのない羊飼い、わたし達はイエス様に従う羊です。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet ルカによる福音書24章13-35節 「地震、竜巻、火事、親父(おやじ)」 “Earthquake, Tornado, Fire and Father” 私たちの父なる神、主イエス・キリストから恵みと平安があなた方の上にあるように。 アーメン。 先週の初め、娘は大学時代の友だち、今アラバマに住むJessica から電話で今までになかった、カテゴリー5の竜巻がバーミンガムを襲い、200人近い死傷者と千軒以上の家を崩壊したことを知らされました。Jessica の家はたいした被害はなかったのですが、彼女のおじさん、おばあさんの家は土台を残しただけで、家も、車も、大木もすっかり飛び去られてしまったのです。Jessicaのおじいさん、おばあさんは警報が鳴ったとき、家の中に在る物を、一つも持ち出す時間もなかった、ただ急いで車で逃げ出したのです。命は時の思い出の記録が一瞬のうちに消え去ってしまったのです。 叉テキサス州の北で何週間も前えより火事が始まり、その大きさはアメリカのNew Jersey州以上の大きさに拡大しました。これはLos Angeles, Orange County, Inland County を合わせた以上の大きさで、Dallas, Fort Worth に住む人たちも非常に心配でたまらなかったのです。 災害と言えば、繰り返し、繰り返し見てきた、東日本を襲った地震の恐ろしさ、また津波の驚くほどの破壊力を見て、千年に一度の大きさの地震には言葉もで出ません。放射能の問題もまだ長く続くでしょう。私たちは日本がこの経験から学んだことにより何よりも精神的に立ち上がってくれることを望みます。精神的に立ち直ることは全て他のことも正しく改善されてゆくことだと信じます。 このような災害を考えているうちに、ふと頭に浮かんだ言葉が「地震、雷、火事、親父(おやじ)」です。私たちの恐れているもの、それは世界の色々な処に住んでいる人達にとっても同じだと思います。どの宗教も私たちの人生の中で恐れと救いについて教えています。私はクリスチャンですが、他の人が持っている信仰を云々言うのは好みません。と言うのは、信仰を生み出す世界の宗教の中に、私たちにまだ分からない力、それは、哀れみと言うか、癒しと言うか、許しというか、慰めと言うか、救いと言うか、人間だけにしか分からない霊的な力がそこに見出されるからです。私の両親は父の両親と共に住んだ一軒2世帯の中で育ちましたから仏壇も毎日見ていました。そこにお線香を炊いて両手を合わせて南無妙法連華経と祈る祖父と祖母を見ていましたし、お盆の時には胡瓜や茄子で馬を作り仏様が帰ってきましたと言っていたのをよく覚えています。同じ家に住んでいながら、私の祖父と祖母がキリスト教の信仰を受けとった両親と一度も衝突したことはありませんでした。お互いが、お互いの宗教を認め合っていたからです。 私の思い出の中で両親の夫婦喧嘩はありましたが、それは母がぶつぶつ言っているだけで父は返答したり、手を出すことはしなかった。ただ口を結んでしばらく母のところから離れていた。しかし時間が経つとお母さんも何で喧嘩腰になっていたのか、もうケロットして「ごはんですよ。カレーライスよ。暖かいうちに食べましょう」で万事OK。子供心に、夫婦喧嘩は大変になると思ったことはありません。ですから私も父譲りの穏健型、立野先生から言われた、「ほんわか」さんです。 でも一度だけ父にひっぱたかれたことがあります。それは高校のとき、自分の二階の部屋で隠れてタバコをすってた時、「豊、電話」との父の声、急いで下に降りていって友達と長話し。「なんか煙臭い」と父に言われて二階に飛んでいった。吸っていたタバコが灰皿から机の上に落ち、そこにあった紙切れの中で燃え出していたのです。こいつはやばいと思ったときには父は座布団で机の上の火事をたたいて日を消していました。その時父から出た言葉、それは「馬鹿野郎」です。そしてその後、平手で顔をピンタされました。その時の親父の怖かった顔は忘れません。まさに恐い者は、地震、雷、火事、おやじです。 何か前置きが長くなりましたが今日の福音書に戻りましょう。 今日の福音書は、エルサレムの町からエマオという町にある自分たちの家に帰る途中に出会った、二人の旅人とイエス様との会話です。この二人は過去一週間に渡って起ったイエス様のことを語っていたのです。そこにイエス様が入られて「だれのことを話しているのか」と聞かれたのです。エルサレムはイエス様の十字架による処刑、復活の話しで皆興奮していたはずです。そのことを知らないとはあなただけですよと二人の旅人は言ったのですが、福音書には彼らの目はさえぎられていて、其れがイエスだと分からなかったと書いてあります。 二人の旅人のうち一人はクレオパと言う名の人ですがもう一人の人の名前は出てきません。皆さんのうちこの福音書を何回も読んだ人がいると思いますが、この二人の旅人は二人の男と思っている人たちが多いようです。二人の兄弟、あるいは父親と成人の息子、しかしもう一人の人がクレオパの奥さんであってもいいのではないでしょうか?その夜行き着いたところは彼らの家でした。 旅の中で話されたことを知らないとイエス様は言ってません。イエス様はこの一般の庶民であっただろうクレオパのイエス様に対しての思いに心が弾んだはずです。イエス様自身が旅の中で自分のことを証し始めたのです。勿論その時クレオパも、もう一人の旅人も其れがイエス様だとわかっていなかった。それにしてもこの人は只者ではないと思ったはずです。旧約聖書の預言、叉救い主として来られた、そして復活したイエス様はこれから彼に従う人たちとどのように拘わりがあるのか、二人の胸の中は希望と喜びが強く生まれてきたはずです。さて彼らの家について、イエス様に一泊するようにすすめたのです。イエス様はそれを承知しました。すぐに食事の支度ができ、と言ってもそのころの食事は私たちの一食3千カロリーのものではなく、パンと水、干魚そしてワイン、そんな物だったと思います。3人がテーブルに着くと、イエス様はパンを取り、祝福し賛美の祈りを唱え、それを裂いて二人に渡したのです。イエス様はこの二人と聖餐式をおこなったのです。すると、二人の目が開け、イエス様だとは分かったのですが、その姿は見えなくなったと福音書に書いてあります。私はこの時からこの二人は人生が変わったと信じます。イエス様に出会い、イエス様の聖霊に触れた方の人生は変わるのです。聖餐式で皆さんに言う言葉、それは、「あなたの心の中でイエス様を主と認める者はどうぞ、主の聖餐をお受けください,そこにイエス様がいらっしゃるのです」。「でも先生、私はほかの人から聖餐は洗礼を受けたものだけが受けられる特権と聞いていますが」、と言われるかもしれない。それがその人の想いであるなら洗礼を受けるまでお待ちくださいでいいのです。しかし主の聖餐の主人公はイエス様です。イエス様の恩恵を心の中から求めている人にイエス様がそこにいられることを経験していただきたいのです。これはマジックではありません。神様のギフトです。神様が私達と何時も共にいるよとの約束です。勿論洗礼は大切な儀式です。神様の子どもとして神様の愛を人生の中で実行して生きたい、神様の恵みをほかの人にも分かち合うことのできる私になりたいと言う宣言の儀式です。 私は自分が牧師として神様に仕える者として頂いたことに何時も感謝しています。また、聖餐式の中で私たちの罪の為に死んでくださった神様を覚えます。どんな罪でも神様は許してくださるのです。そこで、重い心から開放されます。感謝の心が育ちます。同時に、全ての人のすばらしい所が見えてきます。お互いに許しあう思いが必ず生まれます。其れがキリスト教の精神です。一言で言うならば神様を愛し愛される精神です。今私がここに立って皆さんの顔を見ている時、あなた一人ひとりの中に甦りのイエス様を見出すことができます。「でも先生、人間は所詮、罪人でしょ。何故私たちの中に神様を見るなんて言えるのですか?」と言われるかもしれない。理屈ではないんです。私は神様から愛されていると信じられる人は幸福なんです。神様の顔の中にあなたの顔があるのですから。 最後に一言。地震、竜巻、火事、親父の親父とはどういうことですか?親父は怖い存在のようですが、私にとって私の親父の存在は私の心のよりどころでした。母がそうではなかったと言う訳ではありまん。しかし父は私が何も言わなくても私の思いが何時も分かっていた人、私に失敗することを心配しないでいいよ。それ以上に可愛い子には旅をさせろ、自分で自分の道を開きなさいと励ましてくれたのです。そして私も二人の子どもの親父です。親父でもお袋でもいい。私たちがイエス様に従って生きる生き様を自分の子どもだけでなく全ての人に見てほしい、そんな自分を神様に支えられて生きて行く私たちになろうではありませんか?アーメン   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 「疑いから信仰に、不安から平安に」私たちの主であるイエス・キリストより祝福と平安があなた方の上にあるように。アーメン。今、私が聖書の中の人物の名前を言います、そうしたら皆さんにその人達をよく表している最初の言葉を出してみてください。たとえば、ノアの箱舟、ユダの裏切り、パウロの回心、モーセの十戒、そして今日の主人公、それはトマスの疑いです。あるいは疑いのトマスです。英語で彼のニックネームはDoubting Thomas です。このトマスはマタイ、マルコ、ルカによる福音書ではただイエス様の弟子として名前が書かれているだけです。ヨハネの福音書はトマスについて書いてありますが、それも彼について3回だけです。一回目はイエス様が友達のラザロが死んだことを弟子たちに伝え、死んだラザロの所に行こうと言ったその時に、イエス様に返した「私たち行って、先生と一緒に死のうではないか」と言ったのはトマスです。イエス様はユダヤ教の祭司、叉律法学者に嫌われていました。イエス様は人への偏見を許さなかったからです。そして、世間で見放されている人たちをこよなく愛した人です。ですからイエス様のイスラエルの宗教を司る人たちと何時も衝突していました。2回目にトマスがヨハネの福音書に登場するのは今日の福音書の箇所で、他の弟子たちは前日甦られたイエス様に出会っていましたが、そこにいなかったトマスはその翌日、「私は、その手に釘のあとを見、私の指をその釘の跡に差し入れ、叉、私の手をその脇に差し入れてみなければ、決して信じない」と言ったのです。3回目、これが最後ですが、トマスが福音書出てくるのはイエスさまが復活後に、ガリラヤ湖で漁師の仕事に帰っていた7人の弟子たちに神の国の到来を全ての人々に宣べ告げなさいと宣教師としてのは働きを生涯の仕事として祝福された時です。イエス様の選ばれた12人の弟子は皆それぞれに個性があり性格も一人ひとり違います。しかしイエス様に従って生きようとする私たちにも共通して言えることは私たちは神様が本当に何時も私と共にいてくださり、私を愛してくださっていると強く確信する時もあれば、私は神様の愛をいただく価値のない者、惨めな人間ですと感じる時も沢山あるのです。私は、時には、自分が愛されるべきでない人間であると知っているからこそ、神様の赦しと哀れみを求めるのです。イエス様がトマスに言いました。「私の釘による傷跡を見なさい。それによってあなたは私を信じることができる」と。イエス様は私たちの受けるべき罪の重荷を背負って私たちの代わりに死んでくださったのです。しかしイエス様を信じる私たちの手と心にも目には見えない傷跡があるのです。それは傷跡と言うより、他人を助けたしるしです。他人を許した証拠です。他人を愛した、大切にした神様から戴いた思いやりのサインです。ある人がイエス様に従って生きている証拠はイエス様が私たちの求めた隣人との関係、それは困っている人を助けること、過去の罪を許してあげること、それ以上に、自分の罪をも告白することです。心から自分の行いを反省して、へりくだって神様に許しを求める時、神様の愛を求める時、神様は必ず私たちの祈りを聞いてくださいます。トマスの言葉をパラフレイズして言うならば、「わたしはイエス様の手と脇の傷跡を見なくては、そこに私が指で触らなければ私はそこにいる方が本当に生き返ったイエス様とは信じない。」イエス様のほかの弟子たちはイエス様の復活した日曜日の夕方、イエス様が復活されたということはマグダラのマリアから聞いていたのです。しかし、其れが本当ならば、イエス様が十字架に架かった時、ヨハネを除いては、自分たちもイエスの弟子であったということで、捕まえられ、鞭打たれ、最後には投獄され、処刑されてしまうに違いないとの恐怖に駆られていたのです。でもそれは私たちの姿ではないでしょうか。もし私たち一人ひとりがトマスであったら、他の弟子の言った言葉、「私たちは復活のイエス様に出会った」と聞いてそれが本当かとすぐ信じられたでしょうか?日曜日の礼拝の中で、毎週わたし達は使徒信条という言葉を一緒に告白します。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず・・・・我は聖霊を信ず、聖なるキリスト教会、聖徒の交わり、罪の許し、からだの甦り、永遠の命を信ず」。この使徒信条はイエス様こそ私たちの神様であると言うステートメントです。私はイエス様と顔と顔を合わせて出会ったことはありません。イエス様の声も聞いたことがありません。しかしイエス様は私の心に存在しているのです。イエス様は聖書の言葉を読む時、あるいは皆さんと信仰の喜びを分ち合う所で、私に、叉私たちに話しかけてくださっているのです。もしあなたが自分の健康について質問がある時、どこに行きますか?それは、お医者さんです。若しあなたが、水道、またはガスの修繕をしなければならない時、だれを呼びますか?それはプラマーです。若しあなたが、あなたの信仰について質問があるとしたら何処に行きますか? それは教会の牧師、教会学校の先生、あるいはBible Classではないでしょうか。コンピューターの前に座って、あなたの信仰の問題を或るいはYahooに質問することも出来るかもしれない。それに対してコンピューターは答えを与えてくれるかもしれない。しかしコンピューターは心と心の対話の中での答えは与えてくれません。信仰の問題について答えを聞きたいならば、私の答えは、神様に直接祈りの中で質問するのが一番です。答えがすぐに出てこないかもしれない。神様は瞬間的な答えをくれないかもしれない。しかし神様は信頼するものに必ず答えを与えてくださいます。説教の中で信仰について聴くことができるかもしれない。あるいはイエス様の下さった聖餐の儀式の中でイエス様の聖霊にふれ、聖霊によってあなたの信仰の中での質問の答えが与えられることもあるのです。今日のトマスの話の中で知って欲しいのは私たちの疑問、疑いを私たちの知識、経験によって解決することは出来ないと言うことです。人と人の交わりの中で、特にイエス様を主と認め、イエス様に従う信仰を持つ仲間の中で、祈りの中で、叉一緒に神様の言葉、聖書を読んでゆく所で、聖霊によって答えが与えられるのです。一人で聖書を読んでゆく事は大切です。しかし、仲間の人たちと一緒に聖書を読むのも大切です。お互いの経験、お互いの信仰を心から分かち合うことにより私たちは主の愛と平安を経験するのです。祈りましょう。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 復活祭聖餐礼拝  2011年4月24日 ヨハネによる福音書20章1-18節 「驚きの結末」”The Surprise Ending” 多くのイスラエルの人々がイエス様に託していた夢がカルバリの丘の十字架の上で消えました。イエス様はユダヤ人をローマ帝国から解放してくれる人と思っていたのです。イエス様は歴史の中でダビデ王の再臨のように感じていたのです。 ユダヤの人々はイエス様がライ病、目の見えないものを治したのを見てきました。神様の愛についての教えを聞きました。彼らは叉放蕩息子の譬え、貧乏人に自分の持っていた最後のお金をあげた婦人の話も聞きました。 イエス様は人々にお互いを愛し合いなさい、特に誰からも愛されていないそのような人たちを愛しなさいと教えられたのです。人々はこのイエス様に心を惹かれたのです。彼は普通の人ではありません。イエス様が何か違う、何か神秘的な人であると思った人もいたはずです。そうです、イエス様は救い主、そしてイエス様は神様の国が私たちの真っ只中に来たと教えられたのです。しかし今やその夢がこの金曜日に敗れ去ったのです。イエス様は十字架に架かって死に、墓に葬られ、私達の夢は消え去ったのです。 イエス様に従ってきた弟子たちの希望は消えてしまい、叉、惨めな現実的世界へと戻されたのです。イエス様が墓に葬られてから3日目の日曜日にマグダラのマリアがまだ胸の張り裂けるような思いでやってきました。しかしそこで何が起こったかは皆さんの知っているとおりです。イエス様は墓の中に見つからなかったのです。 話しは変わりますが、ある家族のみなさんが一緒にテレビでイエス様の受難とイースターの出来をを見ていたのですが、まだ小さい娘さんは、イエス様が十字架の上で苦しんでいる姿を見て涙がとまりません。死んで十字架からおろされたイエス様がお墓に入れられる場面を見ていた娘さん、今度はスマイルの顔で言いました。「これからの所がいいところよ」と。 それはイエス様の復活の場面です。白い衣をきた二人のみ使いが、イエス様の葬られたその場所でマグダラのマリアに尋ねたのです、「女よ、何故泣いているのか?」と。墓の中にイエス様の遺体が見つからない、それはどういうことかわからない。そう言って振り向くと、復活されたイエスがいたのですが、マリアはそれがイエス様だと分からなかったのです。皆さんも経験したことがあるように、その目のまん前にいる人、まん前に在る物も涙によってはっきり見えないとこもあるのです。 しかしイエス様が「マリア」と呼ばれた時、その聞きなれていたその声でそこに復活されたイエス様がいるとわかったのです。同じようにイエス様は私たち一人ひとりの名を知っています。私達の全てを知っているのです。私達を全てを愛してくださっているのです。 イエス様の死と復活によって世界は変わったのです。死ぬことはもはや恐れることではありません。神様は私達に死に打ち勝つ復活の力を与えてくださるのです。 1991年にソビエト連邦が崩壊した出来事を皆さんご存知と思います。コミ二スト、共産党の時代には宗教の自由は認められませんでした。しかし共産党の政府が崩れたその日にソビエトだけでなく、周りの共産党の国々に、あるパス・ワードが広がっていきました。そのパス・ワードは、 “The Lamb Wins!” 「子羊による勝利」です。百年にも及んで共産党の政府の中で弾圧されていた宗教の自由、イエス様への信仰が再び認められたのです。 キリスト教の信仰は復活されたイエス様が私たちに永遠の命を約束されたことによって始まります。私達の恐れている死はイエス様の復活によって打ち負かされているのです。 The Newsweek Magazine に何年か前、こんな文章が載っていました。これはSouth Carolina州のGreenville county  のdepartment of Social services から、すでに亡くなるった人たちに送られてきた手紙の内容です。これは日本語に直さず、英語そのままで読んでみます。 “Your food stamp will be stopped effective immediately because we have received notice that you passed away. Thank you for your attention to this matter.  You may reply if there is any change in your circumstances.” そのChange in your circumstancesができるのはイエス様だけです。イエス様は生きています。イエス様は生きているからこそ私たちも永遠に生きることができるのです。 ここ2、3週間、私はマルタ、マリア、そしてラザロの話しをしましたが、イエス様からの直接な言葉をお聞きください。それは、「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」です。(ヨハネによる福音書11章25-26節) Christ has risen.  (Response) He has risen indeed.  Amen. Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 枝の主日聖餐礼拝2011年4月17日 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 私達の父なる主イエス・キリストより恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。 今日の与えられた福音書の日課は44節にわたる長い話でしたが、この礼拝のすぐ後に行なわれる静子Genewichさんのメモリアル・サービスを考えると、神様はこの日に素晴らしい福音を皆さんに送って下さったと思います。 信仰生活の長いクリスチャンは、このラザロの死についての話しを何十回も聞いているはずです。ラザロと彼の姉妹のマルタ、マリアはベタニアというエルサレムから2マイルとそんなに遠くない町に住んでいました。ラザロがどんな職業についていたか福音書には書いてありませんが、多分このベタニアで地位も名前を知られていた人だと思います。  あるいはこれは推測ですが、ベタニアはイエス様の生まれたベツレヘムからも近くその距離は2マイルです。イエス様は育ったナザレの町から毎年過ぎ越しの祭りにエルサレムまで来ていたわけですから或はイエス様とラザロは昔から知り合いであったかもしれません。ラザロの妹のマリアは主に香油を塗り、自分の髪の毛で主の足を拭いた女と今日の福音書で書いてあります。 イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後12人の弟子を連れてイスラエルの国中で神の国の福音を宣べ伝えたことは4つの福音書を読んでわかりますが、この神の国の伝道をするために費用がかかったのは確かです。それを支えていた人たちが実際いたのです。その多くは女性だったと知ってますか?聖書学者の多くはマグダラのマリアはイエス様の伝道に掛かる費用を自分からも、色々な所からも調達した人だったと言っています。 それに叉、福音書には名前しか知らない多くの女性の名が出てきます。特にイエス様がゴルゴダの丘で十字架に架かった時、十字架の下に集まった女性たち、叉、イエス様が死んでお墓に納められた3日後に香料を持ってきたのは全て女の人でした。全てのこれらの女の人の名前は福音書には書いてありません。これもまた私一人の推測ですが、そこにベタニアのマルタ、マリアもいたのではないでしょうか? ここで知って欲しい大切なことは、ラザロ、マルタ、マリアはイエス様を愛していた、叉イエス様も彼らを愛していたということです。ですからラザロが重い病気にかかり、これは死を招くような病気だと判断したラザロの姉妹はイエス様に使いをよこし、「イエス様ラザロのもとにすぐ帰って来てください、彼を病気から癒してください」と切望したのです。それなのにイエス様はその場にまだ2日滞在し、その後やっと弟子たちにもう一度ユダヤのラザロのところに行こうと言ったのです。イエス様がラザロの所に着いた時はすでにラザロが死んで4日目です。もう墓に収められていました。悲しみに耽っていたマルタとマリアをを想像してください。最初にイエス様に出会ったのはマルタです。イエス様が来られたと聞いて、イエス様のところまで行き言いました。「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。然し、あなたがどんなことをお願いになっても、神様はかなえてくださる事を、私は今でも存じています」。妹のマリアもその後、イエス様に対面した時、同じ言葉をイエス様に言いました。「あなたがどんなことをお願いになっても、神様はかなえている事を、私は今でも存じています」。 私は去年の6月に父を亡くしました。その時が来ることは分かっていました。2年もの間、口から食べることの出来なくなった父はおなかにチューブを差し込まれEnsure というミルクシェキだけでかろうじて生きていたのですが、お葬式にやせ果てた顔の父を見て涙が止まらなかった。イエス様も友達のラザロの死を目の前にして、いや、姉妹もそこに集まった人たちが泣いているのを見て涙を流されたのです。 「イエス様は涙を流された」 英語では、  “Jesus wept”  という聖書の中で一番短い言葉の中にイエス様の私たち、人間に対しての深い思いが言い表されているのです。私たちが悲しみの中で泣く時にイエス様、神様は共にいて私達と一緒にに泣いて下さるのです。イエス様が泣いているのを見たユダヤ人たちは言いました。「ああ、なんと彼を愛しておられたことか。然し、あの盲人の目を開けたこの人でも、ラザロを死なせないようにできなかったのか」。イエス様は言いました。「石をとりのぞけなさい」。それに対してのマルタの言葉、「主よ、もう臭くなっています。四日もたっていますから」。ここでマルタはイエス様が神様から出てきた者、全能の神から来たもの、それをまだ把握していなかったのです。 イエス様を信じますとついさっきまで言ったマルタ。そのマルタ、でも、それはマルタだけではない、イエス様に従って生きてゆこうと決意した私たち全てに、イエスは言いました。「もし信じるなら、神の栄光を見るであろうと言ったではないか」と。この話しのクライマックスは「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばれたイエスの言葉、そしてそこで起こった奇跡。死人が甦ったのです。 人生の中でどんな苦しいこと、悲しいことを経験しない人間は一人もいません。しかし、神様は、そのような試練に出会う私たちに人生の生き方、悲しみを喜びに変えることのできる力をイエス様を主と信じる信仰によって与えて下さっているのです。 今日の礼拝の後すぐ始めるメモリアル・サービスは私たちの友達、いやそれだけではない、信仰の友であった静子さんを偲ぶと共に、静子さんはすでにイエス様の元にいらっしゃることを確認する時です。 神様の元に帰る、それは天地の創造者のもとに帰ることです。私達の神様、イエス様は、「あなたは素晴らしい人間として人生を送りましたね。もっとも、あなたには人生で辛い時もあった。悲しい時もあった、喧嘩した時もあった。私にくってかかってきた時もあった。私があなたと共にいないのは何故かと問われたこともあった。デモね、これだけは知ってください。私はあなたを見放したことは一度も無かった」と。 私達の人生で、神様と顔と顔を合わして出会った経験をした人はいるでしょうか?。然し神様を心の中で感じた人、経験した人は沢山いるはずです。私たち一人ひとりはただ偶然に此の世に生まれたのではないのです。私たち一人ひとりは神様の計画の中で此の世に生まれ、此の世に色々な形で貢献しているのです。人生の中で神様から愛されていると信じることのできる人たちは幸いです。というのは神様から愛されていると信じる私たちはただ単に神様の愛を受け取るだけではなく、その神様の愛を人と人の付き合いの中で実行して生きてゆくことを人生の一番大切な事と信じることが出来るからです。それこそキリスト教の真髄です。 神様の恵みと平安が何時もあなた方と共にあるように祈ります。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 私達の父なる主イエス・キリストの恵みと平和が、あなた方の上に豊かに与えられますように。アーメン。 アラビヤのらくだの小隊の昔話の中にある一つの話を紹介しましょう。ある夜、テントの中で寝ていた男が夜中に急におなかがすいて起き上がり何か食べるものがないか、蝋燭の火をつけて探し始めました。麻の袋に入っていたdates (なつめやしの実)を見つけてそれを食べ始めたのですが、その中に虫を見つけてこいつはだめだと口から吐き出したのです。次に口に入れたdates もよく見ると虫がついていた。これも駄目だと投げ捨てたのですが、この調子では何も食べるものがないと考えて、今度は蝋燭の火を消して袋に残っていたdatesを食べ干したのです。 私はまだ小さいころ暗い所にいると何か自分の周りが大きくなってその反対に自分は小さくなっていったような思いによく駆られることがありました。叉夜お風呂屋さんに行って帰り道の暗い中をよく家まで駆けて走ったことを思い出します。今でもHalloween のシーズンに遊園地で行なうお化け屋敷に入ってみたいと思うことはありません。暗い所、それは私にとって、叉多くの人たちにとって怖い所、悪いことが起こる所、そしてその場は悪魔の所と言う潜在意識が強い所です。叉、暗いと言うことは、人間として他者への愛と思い遣りが無い処では無いでしょうか。 今日のエフェソの使徒への手紙に、聖パウロはこのように書いています。「あなた方は、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光りとなっています。ですから、光りの子として歩みなさい」。これを読んで、私が思い出したのは、クリスマスの時によく聞く、イザヤ書9章1節の言葉です。「闇の中を歩む民は、大いなる光りを見、死の陰の地に住むものの上に、光が輝いた」。英語では、 “The people who walked in darkness have seen a great light; those who dwelt in a land of deep darkness, on them has light shined.” ヨハネによる福音書の1章の始めにも次のように書かれています。「初めに言葉があった。言葉は神であった。言葉のうちに命があった。命は人間を照らす光りであった。光りは暗闇の中で輝いている。そして暗闇はこれに勝たなかった」。 イエス様によって生きる者は光の子として生きると言われていますが、私たちが本当に光りの子であるならば、イエス様の光りによって、イエス様の御心にかなう善意と、正義と真実の行ないが出来るのです。イエス様の光りなしで私たちは自分の人生の道を築くことはできません。皆さんは夜空に出る月を見る時、その月の輝きが月自体から出ていると思いますか? そうではなくて、月が光るのは月が太陽の光りを反射しているからです。ということは、私たちも神様からいただいた光りを思いやり、祈る心、奉仕の精神と言う言葉と行いを持って私達の隣人に反射させているのです。 私の住んでいるRiversideは人口37万人のLos Angeles から60mile 東にあります。仙台市が姉妹都市で、過去10年ほど、毎年仙台から、またRiverside からの団体がお互いを尋ね合っています。今回起こった地震のため、特にRiverside の市長をはじめ多くの市民が先頭に立って募金運動を行いました。今すぐには行けないけれど、できればこの夏に、中学生から大学生まで、大人も交えて日本に行って何か形で仙台にいる友達を助けたいと語っています。 神様のイメージで作られた私たち人間はお互いを助け合って生きてゆく時、神様という創造主が私たち人間に示された愛を感じられるのではないでしょうか。 今日のエフェソの信徒への手紙の中で、聖パウロはこう書いています。「あなた方は、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」。神様は私たちに何時も光りの子であるようにと祈ってくれているのです。光りの子は人間の一番美しい形です。 私の好きな聖句の一つはコリントの信徒への第一の手紙、12章26節です。「一つの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、全ての部分が共に喜ぶのです」。これを言い返すと、「もし私達の一人が悩めば、他の人たちも皆共に悩み、一人が喜ぶなら、私たち全ても喜ぶ」と言えます。 私たちが始めた祈りのマフラー、Prayer Shawl はこれから作る人も、受け取る人も日本人だけでなく、祈りを必要としている全ての復活ルーテル教会員の人たちに上げられるよう皆さんに話しかけています。苦しい時、悲しい時、淋しい時、心も体も疲れきっている時、そんな時、私たちは友達の慰め、訪問、思いやり、何か作ってくれた食べ物、Hug, そしてそこに祈りのマフラーを受け取ることは嬉しいことです。誰かが私の様な者を思ってこれを編んでくれたのかと思う時、そこに神様が、私達と共にいるのです。 さて、1988年のWinter Olympicに起こった出来事を紹介しましょう。これは去年、土曜日の夕拝をやっていた時、説教で話したもので、すでに知っている方もいるでしょう。この話しの主人公はアメリカの金メダルを期待していた長距離スピード・スケーターのDan Jansen と言う選手です。この人の写真を見て、ああこの人見たことがあると思われ方いると思います。彼のレースの始まる2時間前に電話でDan のお姉さんが亡くなったことを知らされました。彼のお姉さんは何年も前から白血病で苦しんでいた人でした。この悲しいニュースを受けて、お姉さんの為にこのレースを捧げようと思ったのですが、初めのカーブでころんでしまったのです。4日目にもう一つのレースに出たのですが、これでもころんでしまったのです。心が落ち着かなかったんでしょう。彼の泣いている姿を見て多くの人も涙を流しました。彼は何千通もの慰めの手紙を受け取りました。その手紙の一通はMark Arrowood と言う30歳の身体障害者からで、その手紙の内容はSport Illustrated という雑誌に書かれています。それを紹介しましょう。 “Dear Dan, I watched you on TV.  I’m sorry you fell two times.  I am in Special Olympics.  I won two gold medals seven years ago at the Pennsylvania State Summer Olympics, right after my Dad died.  Before we start the games we have a saying that goes like this.  “Let me win but if I can’t win let me be brave in the attempt.  I want to share one of my gold medals with you because I don’t like to see you not get one.  Try again in four more years.” Dan は様な行為こそ私たち人間が神様から戴いた思い遣りの心です。教会は神様からの福音を聞く所だけでは在りません。他者との関係の中でそれを実行してゆく所です。その福音が実行される場には必ずイエス様がいるのです。 さて最後に、アメリカ、コネチカット州のNew London Harbor というところで  燈台守の仕事をしてきたJacob walkerさんの話しを聞いてください。40年の間、彼は一日も休まずこの燈台の仕事を守った人です。海で仕事をするものにとって燈台は道しるべであり、頼れる存在です。然しその裏には昼間も、夜も光りを絶えない様に守る、叉、危険も覚悟での仕事です。このJacob さんは60歳で亡くなり、彼はこの燈台が見える丘の上にあるお墓に葬られました。その後20年、こんどはJacob さんの奥さんが燈台の火を守っていったのです。ある日新聞の記者がこの奥さんを尋ね、「この灯台の火を守るとはどういう心構えが必要ですか」と質問したのです。奥さんはご主人のお墓を眺めながら言いました。「私の主人は生きている間、毎晩口癖のように光りを大切にせよ」。それは英語で、  “Mind the light”です。 同じように私たち、イエス・キリストに従う者は神の光の中を歩む者です。神様の光りは私達を常に善良、正義、そして真実の道に導いてくださるのです。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 四旬節第1主日聖餐礼拝     2011年3月13日 創世紀2:15-17,3:1-7 「蛇からりんご買っちゃだめだよ」 “Never buy an apple from the snake” 岸野豊牧師 私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平安が、あなた方の上にあるように。アーメン。 皆さんの人生の中で、この歌、この歌手こそ私にとても影響を与えたというものがあるはずです。それが美空ひばり、フランク永井, 島倉千代子、石原祐二郎、吉永小百合、坂本九かもしれない。私の大好きな歌手は皆さんもご存知の広田美恵子、そしてBeatles です。1960年代から70年代にかけてよくBeatlesの歌を友達と歌いました。お風呂の中でも歌っていました。 特に私の好きなのは  “Yesterday” という歌。歌詞を英語と日本語で入れましたので読んでみてください。英語の歌詞を読んでみます。”Yesterday, all my troubles seems so far away, now it look as though they’re here to stay, oh I believe in yesterday.  Yesterday, love was such an easy game to play, now I need a place to hide away, oh I believe in yesterday.”私はこの歌を歌っている時、何故かエデンの庭から追い出されて一日過ぎた、そんな時のアダムの心境を感じるのです。昨日までは遥か彼方にあった苦悩が、今は僕の元に座わろうとしている。不意に僕は今までの僕ではなくなった。暗い影が僕に重くのしかかる。ああ悲しみは突然やってきた。昨日までは素晴らしい日と信じていたのに。 岸野先生は説教も歌謡曲から発想するんですね、と言われて全くその通りです。 さてアダム、昨日まで何も心配事なくエデンの園と言われるまさに天国のような所で奥さんのイブと二人幸福に暮らしていたんです。畑仕事をしなくでもOK,昼も夜も気候がよく, 裸のままで生活していた。 おいしい果物はいくらだって食べられた。ただ禁じされていたのは、エデンの庭の中にある、木の実、それだけは食べてはいけない、触ってもいけないと神様から言われたのです。 そこにいた蛇がイブに言いました。「エデンの園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのですか?」蛇は誘惑を施すもの、つまりここでは悪魔です。人間は誰でも人生の中で何回も誘惑され、悪魔に打ち負かされた経験があります。これは誰でも経験したことですが触っちゃだめだよと言われると触りたくなる、食べちゃだめだよと言われて、ますます食べたくなる。 ところで、イブが蛇に唆されて、叉、アダムもイブにそそのかされて食べた果物はりんごだと皆から言われますが、聖書にそれがりんごとはどこにも書いてありません。でもどうしてりんごと言う風になったかと言うと、それは二つのラテン語の言葉からの言葉の遊びです。ラテン語でEvil, つまり悪魔はmalus そして、りんごはmalum だからです。同じようにりんごに毒をいれたのは白雪姫と小人たちの話の中に出てくる嫉妬に駆られたおばあさんに変装してで出てきたwitch queenです。 テレビで昔、Animal Kindgom というテレビのショーで蛇について語っていたことを思い出します。と言うのは、蛇は自分の餌になる動物に出会うとその動物を催眠術にかける力をもつていると言うのです。 鼠が蛇に出会い、どの様に退却しようかと考えているうちに、目と目を合わしているうちに催眠術にかかり動けなくなくてしまうと言うのです。悪魔とはそんな存在ではないでしょうか。 悪魔は私たちに催眠術をかけ、私たちの心の中まで忍び込んで、気がつかないうちに私たちの頭の中に麻薬を入れてしまうのです。 叉私たち人間は、好奇心の強い生き物です。いろいろなことが知りたい、明日何が起こるのか知りたい、私は果たして幾つまで生きられるか知りたい。然しそれは知ってはいけない事というよりも知ってしまったら逆に人生を空しく生きてゆくことになるのではないでしょうか? 日本では誰でも知っている浦島太郎の話しをしましょう。「昔昔浦島は、助けた亀に連れられて、竜宮城へ来て見れば、絵にもかけない美しさ」。浦島太郎は毎日、毎日の宴会を乙姫さんと過ごしてきたわけですが、地上の生活が懐かしくなり、乙姫様に別れを告げて叉、亀に乗って自分の故郷に帰っていった。しかし、地上の様子がすっかり変わっている、何かおかしい、海辺は知ってる海辺だけれども、そこにある家も、人も、知らないものばかり。その時、乙姫様からいただいた玉手箱に、いったい何がはいっているのかと気になってきたのです。 然し、乙姫様からその玉手箱をお土産でもらった。その箱を開けてはいけませんと乙姫様は言ったではないか。さてどうしよう。まさに蛇にそそのかされたイブ、叉イブにそそのかされたアダムの葛藤と同じです。ここで誘惑に負けた浦島太郎は紐を解いて玉手箱を開けたのです。突如、浦島太郎は若い青年から真っ白な髪のおじいさんの姿に変わったのです。たったひと時すごした海での楽しかった時も、地上の世界では何十年も過ぎた時間に等しかったのです。 はっきり言って、浦島太郎の話と蛇にそそのかされたイブとアダムの話しはまったく関係の無い話かもしれません。然しこの好奇心の追求と言う思いは、良い答えを与えてくれることもありますが、そうでないこともあります。 2週間前、日本に一週間帰国した時、「あんたもうそろそろアラ還ね」と言われました。」あらかんとはなんだか知らなかったのですが、それは60歳になる祝い事ですね。高校時代の何人かの同級生から招待を受けて居酒屋でお互いの生活の問題、特に退職の年代に近ずいている、また、健康の問題など話しました。。停滞気味の日本の経済の中で退職して、昔のように気兼ねの無い生活ができるかなとの声も聞きました。 人間は誰でも幸福に暮らして行けたらならと思う、そしてそれがどんなものか、少しでも神様、その私の将来の一ページでも見せてもらえたら嬉しいのですがと私たちは願うかもしれない。でも、その将来の一ページを見た所で、なんと怖い思いをする、悲しくなることになるかもしれない。人生知らぬが仏であってもいいのです。神様から与えられた人生を一歩、一歩神様のみ心にかなうように生きてゆくことの人生、それは神様が私たちを守り、導いてくださる人生、それを私たちは望むのです。 昔のことは昔のことで、それはどうにもならない。だからこそ今の時を大切に生きてゆく人生、を私たちは神様、イエス様に祈り求めるのです。イエス様は私たちが心の中で思っていることを全てご存知です。それを祈りの中でイエス様にもう一度話してみてください。イエス様は私たちの人生の中で必ず私たちの祈りを聞いてくださいます。 アーメン。                                                                                           Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 「サマリヤの女」“The Woman of Samaria”岸野豊牧師 私達の父なる神、主イエス・キリストより恵みと平安があなた方の上にあるように。 アーメン。 福音書の中にはイエス様によって心を動かされた沢山sの女性についての話があります。その中で皆さんのよく知っている三つの話があります。一つは、長血を患っていた女。この女は自分の持っていた全てのお金をこの病気の治療の為に色々とつぎ込んだのに12年もの間この病気で身体的にも、精神的にも苦しんでいた女です。イエス様という方はどうも色々な人の病気を治すことが出来るという噂を聞いてこの女はイエス様の後に歩いて行きイエス様の衣の裾を触った所、病気から一気に開放されたのです。 叉1人の女はイエス様がお客として来ていた家に来て、高価な香油をイエス様の足に注ぎ泣きながら、自分の髪の毛でそれを塗りつくした女。この女はファリサイ人に軽蔑されていたのですが、イエス様はこの女の行為を素晴らしいものと認めたのです。 もう一つの話は娘が悪霊によって苦しめられていたそのお母さんのイエス様への必死の癒しの願いです。「主よどうかお助けください」とこのお母さんがひれ伏して頼んだ時、イエス様は言いました。「子どものパンを取って子犬にやってはいけない」と。それに対してお母さんは、「ごもっともです。然し、子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです」。イエス様はこのお母さんの信仰を賛美し、その時娘は病気から癒されたのです。 さてこれらの奇跡、そしてイエス様の女性に対しての思いやりは他に例がないほど当時の人たちの心を動かしたものではないでしょうか? 今日の福音書に出てくるサマリヤの女の話も世間の中で、人々に見くびられている、肩身の狭い、自尊心に欠けた女の話です。それもユダヤ人から嫌われていたサマリヤ人の女性です。 ところでサマリヤ人の話というと皆さんはGood Samaritan、善きサマリヤ人の話を何度か聞いたことがあると思います。これはルカの福音書だけに出てくる、ある1人のユダヤ人が旅路で強盗に会い、半殺しにされ道端に投げ込まれた話です。最初にこの死にかかっているユダヤ人に気がついたのは、ユダヤ人の祭司です。見て見ぬふりをしてそこを通り過ぎた。そして次に来たのがリーバイと呼ばれるくらいの高い人。でもこの人も変なことに拘りたくないとそこを素通りしたのです そして、次に来たサマリヤ人は、この半殺しになっていたユダヤ人の男を自分のロバに乗せて次の町の旅館まで連れて行き、この知らない男を医者に見てほしいとお金まで出して、この男の快復を祈ったのです。この話がよく知られている裏には、ユダヤ人とサマリヤ人の仲が悪いと言う事実もあった訳ですが、人間としての他者に対しての思いやりは人種、民族を超えてあるべきものではないでしょうか。 今日の福音書はイエス様がイスラエルの南、ユダヤの土地から北のガラリヤへ弟子たちとサマリヤを通って行く途中に起こった話しです。 イエス様の生まれる7世紀以上の昔、ユダヤ人はアッシリヤと呼ばれる国との戦争に負けた結果イスラエルの一部であったサマリヤに住んでいた多くの人たちは捕虜、あるいは奴隷としてアッシリヤに連れて行かれたのです。然しそこに残ったユダヤ人はユダヤ以外の人たちとの結婚により100%ユダヤ人としての純潔な血筋を失ったのです。その混血のユダヤ人がサマリヤ人と呼ばれるようになったのです。 同じようにユダというイスラエルに住んでいたユダヤ人もバビロニアと言う国との戦争に敗れサマリヤの人たちと同じように長い間バビロニアに捕虜として連れて行かれました。この人たちが後にイスラエルのユダの土地にもどってきた時、サマリヤ人はユダのイスラエル人に手を差し伸べたのですが、ユダのイスラエル人は、 “No thank you, we don’t need your help. We are pure Jews, not like you people.  We have nothing to do with you.” と言ってそれ以来、サマリヤ人は汚れた民族として他のユダヤ人から軽蔑されるようになったのです。それ以来ユダヤ人はサマリやの土地に入ることさえ控えていたのです。 イエス様はそのことを知っていながら自分の育った故郷であるガラリヤをサマリヤの土地を通って行かれたのです。イエスの弟子たちは、恐らく殆どのユダヤ人は遠回りでもサマリヤの地を避けて旅をしたのです。然し、サマリヤ人の土地を通ってゆくこと、叉そこで出会った女との会話はイエス様の民族を超えての人類に対しての愛を物語っているのです。 イエス様は昼の12時ごろにヤコブの井戸があるサマリヤのシカルというところにこられたのです。弟子たちは町まで食べ物を買いに行っていたらしい。イエスさまが井戸の所に座っていると、サマリヤの女が水を汲みに来たのです。 皆さんのうちに昔、水道が無かった時代に井戸まで水を汲みに行ったという経験のある人いますか? 私は物心が付いた頃から水道の水しか覚えていませんが、宣教師でアフリカに行っていた人の話を思い出します。1970年代にアメリカのルーテル教会はタンザニアと言うアフリカの国で、 Communityで一番必要な物は何かというと新しい井戸を村のまんなかに掘ることでした。アメリカの教会は援助金を出し、村の真ん中にその井戸を作ったのです。それまでは村の女たちは朝まだ夜が明けないころに水がめを頭の上に乗せて2マイルも遠くに在る古い井戸の所に行かなければならなかったのです。水瓶をいっぱいにして戻ってくるのは大変な重労働ですが、それは村の女性たちにとってCommunication の場であった大切な時だったと聞いたことがあります。 水を井戸まで行って瓶に入れて持ってくる、それはこのサマリヤ人の村でも同じことだったと思います。然し、ここに出てくるサマリヤの女は朝早くではなく、昼の正午に井戸に水を汲みに来たのです。そこに私は思うんですが、この女は他の女たちから嫌われていたのではなかったでしょうか? だからこの女は昼に誰も井戸に行かない時に水を汲みに来たのだと思います。それだけ自分が皆から仲間はずれにされていたのでしょう。 イエス様はこの女に水を飲ませてくれと頼んだのです。イエス様は長い旅に疲れきっていたはずです。喉が渇いていただけでなく、体も痛かったに違いありません。水を飲ませてくれと頼んだイエス様は人間の疲れ、弱さ、渇きを私達と同じように知っている神様です。この女の答えは、「ユダヤ人のあなたがサマリヤの女の私に、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか?」 イエス様はユダヤ人からラビ、日本語で「先生」と呼ばれていた人。ラビは公の所で一人で婦人と話すことは禁じられていたのです。 当時ファリサイ人を呼ばれていたユダヤ教の聖職についている者のニック・ネームは「あざとかさぶたの男」と呼ばれていました。なぜかと言うと、通りで人の目を引くような女性に出会ったとき、彼らは目を瞑って歩き、そのために塀とか家にぶっかって怪我をする人たちだったからです。 イエス様が一人でいる女に話しかけていたこの話しは他のラビから見れば、とんでもないことだったのです。特に世間から白目で見られている女には話しかけることは神様に対しての罪だと言われていたのです。 然しイエス様はこの嫌われていたサマリヤ人、それも女のサマリヤ人と話しをしていたのです。それもただの女ではない、世間から評判のよくない女です。然し思い出してください。イエス様は世間の評判など気にしませんでした。神様は特定の人にだけ来るのではなく、全ての人にです。神様は強い人にだけ来るのではなく、弱い人、身分の低い者、学歴が無いもの、貧乏人、self-esteem の低い人、目の見えない者、耳の不自由な者、全て、神様、イエス様を必要としている人たちに来るのです。 イエス様にとって全ての人は平等に愛されます。それは全ての私たちが罪人であるが、その罪の大きさは神様に取って同じです。イエス様はそれ以上に大きな罪を許されたものは小さい罪を許されたものより神様の愛を知っているとも言われているのです。 私はイエス様による信仰、イエス様からいただいた信仰を持っていることが私の人生の最高のギフトであると認識しています。私が弱い時、悲しい時、疲れた時、心が痛む時、人を傷つけた時私がイエス様を求める時に、イエス様はすでに彼の方から私の心の扉をたたいて、「心配しなくてもいいよ。あなたの心の中は全てもう知っているのだから。あなたに私の聖霊をあげるから、元気を出しなさい、I am with you all the time 」と言ってくださっているのです。信仰を持つ、いや、信仰を与えられたと言うことは、神様が人生のどんなときにも私達と共にいると言うことです。そのことを確認しながら人生を送ること、それこそ神様から頂いているギフトです。 祈りましょう。 イエス様、あなたは私たちがあなたに祈る前から私達の心にあるすべてのことをご存知ですね。わたしたちの心の秘密も知っていますね。私たちはあなたの前で、私達の罪を告白して、ただただあなたの哀れみと許しを求めます。どうか私たちにあなたの愛と聖霊を注いでください。私達の心と行いがあなたの御心にかなうものとなるよう私達を導いてください。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 四旬節第2主日聖餐礼拝「ヨハネ3:16」“John 3:16””岸野豊牧師  私たちの父なる神と主イエス・キリストより恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。 今日の福音書はイエス様に好感を持っていたファリサイ派の1人であるニコデモと言う人のイエス様との会話です。」イエス様は言いました。「よくよくあなたに言っておく。誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることができない」。ニコデモは答えました。「人は年を取ってから生まれることが、どうしてできますか。もう一度、母親の胎内に生まれることが、どうしてできましょうか?」 会話の内容は、神の国に入るためには、人はどのように再び生まれることができるか」との問答です。洗礼とは私たち一人ひとりが自分の罪を悔い改め、信仰によってイエス様を救い主と告白する儀式です。私は教会の礼拝によく出てこられるようになった方に、「あなたはもう洗礼を受けませんか」と声をかけています。そこでよく聞くのは、「私はまだ聖書のことも神様の教えについてもう少し勉強して分かるようになったら」と言う言葉を聞きます。 私たちの教会では赤ちゃんにも、まだ幼い子どもにも、これらの子どもたちが自分で神様を主と認めることができない前に、洗礼を授けることができるのです。人が洗礼を受けるとは神様からの聖霊の賜物を受けることです。神様の子どもとなることです。 これはこの教会で何人かの人から聞いたことですが、藤田エスターさんのご主人, メソジスト教会の牧師であったJonathan藤田先生は教会に来られるようになった方々に、早いうちに洗礼を受けるように進めたと聞いています。私も藤田先生と同じように考えます。神様への信仰を持つと言うことは神様の全てがわかるようになったからではなく、まだ色々なことが分からなくても神様が、神様に従ってくる人々に時が経つにつれて信じる心ををくださるのです。 同じように私は教会で行なう聖餐式でもまだ洗礼を受けていない人も、イエス様の体と血である聖餐はそこにイエス様、神様がいるということを心の中で受け入れることができる人には、是非受け取っていただきたい神様の賜物です。信仰生活のはじめからキリスト教とはなにか、全てがわかる人はいません。信仰は自分の努力だけでは大きくなりません。信仰、信じる心は、まず神様に自分の心を開き「神様、私の心の中にあなたが入って来てください」と祈ることによって始まるのです。 さて今日のメッセージはヨハネの福音書3章14から15節に書いてある「モーセが荒れ野で蛇を上げたように人の子も上げられねばならない。それは、信じる者がみな、人の子によって永遠の命を得るためである」という文章について考えてみたいと思います。 モーセは神様に従って、エジプトで奴隷として暮らしてきたユダヤ人を解放してイスラエルの地につれもどした旧約聖書の英雄でしたがユダヤの民がエジプトを出てイスラエルに戻るまで40年間砂漠の中を彷徨ったのです。大勢のユダヤ人はモーセに言いました。「何故、私たちをエジプトからこの荒野に導いたのは私たちをここで死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます」。そこで主は、火の蛇を民のうちに送られた。蛇は民を噛んだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。 皆さんから、何故神様はそんな無残なことをするのでしょうと質問が出て当然と思います。然し神様はユダヤ人たちに辛い時にも、悲しい時にも、どんな時も、神様を信じなさいと教えているのです。  さてここで今日の福音書の箇所は、旧約聖書の民数紀21章の蛇の話し、それは、蛇に噛まれた、死にかかっている人に対しての言葉です。 それを読んでみましょう。そこで主はモーセに言われた、「火の蛇を造って、それをさおの先上に掛けなさい。全ての噛まれた者が仰いで、それを見るならば、生きるであろう」。モーセは青銅で一つの蛇を造り、それをさおの上に掛けて置いた。蛇が人を間でも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。 この聖書の箇所を今こういう物を持って紹介しましょう。(竹竿と蛇の絵を見せる)火の蛇をさおの先に掛けましょう。さおに二匹の蛇が上りました。それを絵で書くとこういったものになります。さて皆さんの中に、何かこの蛇が竿に絡まっている、そんな絵をどこかで見たことがあると言われる方いると思います。 これはお医者さん、叉医学のシンボルです。まさに「火の蛇を造って、それをさおの先上に掛けなさい、全ての蛇に噛まれたものが仰いで、それを見るならば、生きるであろう」の聖書の言葉が今日の医学のシンボルになっているのです。 ちょうどモーセ荒野で蛇を掲げたように、人の子も、(それはイエス様のこと) 叉上げられなければならない。上げられなければならないとは、イエス様が十字架に架かると言うことです。イエス様が十字架に架かり、私たちの罪のために死んでくださった。 しかし、イエス様は十字架の上で、息を引き取ったその三日後に甦ったのです。そして、イエス様は、その甦りの命を、永遠の命を私たちに約束してくださったいるのです。 もう一度言います。私達の救いは、私達の罪を背負って十字架と言う木にかかって私達を贖う為に死んでくださったイエス様によって達成されたのです。 キリスト教の信仰を一番簡潔に力強く語っているのは今日読んだヨハネによる福音書3章16節です。これをも一度皆さんと一緒に大きな声で、ゆっくりと読んで見ましょう。新約聖書の167ページ下の段の16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が独りも滅びないで、永遠の命を得るためである 私達の多くはこの聖句を口語訳で暗唱できる方も多いと思いますのでもう一度口語訳の言葉で呼んでみましょう。「神は、その独り子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者が独りも滅びないで、永遠の命を得るためである。」この言葉はクリスチャンの中では一番知られている、一番唱えられている聖句です。 話は変わりますが、私たちはこの九日間東北地方を襲った災害のすさまじい姿を見て悲しい思いでいっぱいです。震度9.0、考えられない地震です。それでも日本人の心の中には誰でも、何時か大きな地震がどこかで叉来るに違いないという思いはあったはずです。 あのすごい津波の威力、家も車もおもちゃのように破壊されてしまった。津波警報が出て、30分のうちに非難できなかった方々、その人たちの地獄のような経験を思うと涙が出て止まりません。そんなところにいなくて良かったと思う裏には、私達のこれからの日本の同胞に対しての思いやりと援助をこれからもしてゆかなければなりません。 アメリカの二ユースを見ていると今回起こった災害の中で、日本人の気質のことが色々な面で再認識されています。例として長い列の中で食べ物や水をもらうのに長い間待っている間、自分の番が来るまでじっと我慢して待っている、ただそれだけのものでも日本人は秩序を守る人たち、辛抱深い人たち、お互いをRespect する精神の持ち主と、再確認されているようです。それを聞いて、私たちは嬉しい。この頃日本人は少し堕落したなんて聞いていましたが、本当は今でも日本人の心の深いところに人生とは自分だけのことではなく、皆と一緒に支えあって生きて行くことが大事であるとの心構えがあるのではないでしょうか。それが苦しい時、悲しい時にお互いを助ける精神として出てくるのではないでしょうか? もう一つの日本人の精神が原子力発電所の事故現場で感じられます。私はアメリカで、3 mile island と言うペンシルベニアに在る原子発電所の1979年におこった今回の福島第一原子発電所とよく似た事故の時,25マイルはなれたGetysburgと言う町にあるルーテル神学校の4年生でした。まだその頃はアメリカ人も放射能の危険さをよく認識していなかったので、10マイル以内に住んでいる人はそこを出なさいと言う命令が出されました。 然し風の具合では放射能もGettysburg の方に来るかもしれないと言われて神学校の多くの人たちはキャンパスから何週間にわたって出たのです。日本の広島と長崎の原爆の影響を知っていた私は先頭に立って放射能の怖さを皆に語ったのですが、目に見えない怖いことはその時多くのアメリカ人は気ずくいていなかったのです。 3 mile islandの事故では、放射能はそんなに外に出なかったと言っていましたが、実際には原爆病がでてきて何百人の人たちがその後亡くなってきたのです。それを知って私は、叉私たちは、今も福島第一原子発電所で一生懸命これが原子発電所の致命傷にならないように日夜24時間働いている人たちに感謝をすると共に、この命を掛けての仕事をしている発電所の人たち、消防署の方がた、自衛隊のヘリコプターのパイロット、叉そこで働いている方々の家族に神様からのお守りを祈るばかりです。 世界の90カ国から援助部隊を送りたいとの申し入れが日本の政府に入ったと聞いています。人間は困っている人を助けたい、泣いている人を慰めたいと言う思いがどこの国から、どこの文明の人たちも持っているはずです。 この東北大震災は日本の歴史に大きな影響を与えるでしょう。然しこれが私達の祖国の精神を強め、日本という国はよくやった、よく立ち上ったと世界にpositive な影響を与えられる国にいなってくれるよう祈ります。 英語に、  “God helps those who help themselves”と言う言葉があります。その意味は「私たちが物事に一生懸命真心を持って取り組む時、神様は私達の助けとしてそこにいるのだ」ということです。祈りましょう。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace