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Tweet マルコ10:46-52 主イエスの恵みと平安が集まった会衆の上にも、また聖霊の働きにより、今日はここに集えない方々の上にも豊かに注がれますように! わたしの学んだ神学校、ミネソタにあるルーサーセミナリは、アメリカにある8つのアメリカ福音ルーテル教会の中でも規模の大きな神学校だった。幸いなことに、ルター派の神学者でだけでなく、様々な修派の神学者たちが、教壇にたっていた。 あるとき、ゲストスピーカとして、もともとはメソディスト系の旧約聖書学者が、講演に招かれており、聞いたいた。最初に、「ルターは、聖書のみ、恵みのみ、信仰のみということを言っているが、“のみ”といいながら、なんで三つあるのかがわからなかった」という話からはじめた。最近、ルーテル復活ルーテル教会の信者になられた方もいて、はじめて「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」という言葉を聞き、同じ疑問を持たれている方もいるかもしれない。   「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」という言葉は、ルター派教会のトレードマークのようになっているが、みなさんは、どんな風に捕らえているだろうか。今日は、宗教改革記念日ということもあり、ルターだけではなく、16世紀の多くの宗教改革のリーダたちが主張した、「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」ということについて、与えられた福音書から考えを深めてみたい。  福音書記者マルコは、バルティマイという盲人が、イエスに近寄り、「憐れんでください。」と二回、さけんでいる様子を伝えている。 盲人の心境を思うと、とてつもない憐れみをイエスは覚えたのだろう。 というのは、当時の社会情勢から、なにか不幸があったり、体の不具合があったりする場合、とかく、過去に罪深い行為、悪い行いがあったから、あるいは、先祖がなにか罪をおかしたから、そんな不遇な目にあっているという解釈がされた。  しかし、聖書が伝えていることは、私達人間は、みんな罪人なのである。 「私は神に対して罪人ではないが、あなたは神に対して罪を犯した。」などということ自体が罪ということになってきてしまう。 そして、イエスはそのような社会に憤りを覚えていた。 目が見えない上に、バルティマイは、神の罰を受けているからなのだ、というレッテルを貼られて苦しんでいるバルティマイの気持ちを、イエスはハラワタがひしひしと痛むほどに、わかっていたのだと思う。 そして、騒いでいたバルティマイをしかって黙らせようとしていた人々とは、逆に、イエスは、バルティマイのさけんだ通り、憐れみを持って、「あの男を呼んでくるように。」と言われる。 そして、目が見えなかったバルティマイが開眼する。 バルティマイの目が見えるようになったことについて、イエスは「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と話された。「あなたの信仰」とはなんだろうか? その信仰とは、頭でイエスを理解した気になって、「イエスを救い主として信じます」ということより、バルティマイが、イエスこそなんとかしてくださるという、自分の希望も拠り所もすべて、イエスに掛けて、生きていこうとする態度そのものが、信仰なのではないだろうか。 バルティマイは、イエスからは、「行きなさい」といわれたにもかかわらず、イエスから離れていくようなことはなく、イエスの道に従ったと、今日の福音書の最後に書かれている。 イエスの道に従う信仰は、十字架の死と復活を通して、明らかになる。それは、イエスが十字架に架けられるとき、逃げていってしまった弟子たちさえも、イエスが赦し愛してくださること。そして、人種や国籍を超えて、私たち一人一人を憐れんでくださっている、という神からの恵みのみにより、イエスに全信頼をおき、すべてをイエスに掛けて生き続ける信仰があるのではないだろうか。   さらに、そのイエスの恵みを、キリスト者が覚えることができるのは、聖書に綴られた、御言葉のみを通して、人間に与えられるのではないだろうか。 もちろん、われわれの実生活の体験の中で、イエスの愛を覚えることはある、しかし、その背後には、聖書のみに語られたストーリがあるから、恵みを覚えることができるのではないだろうか?  いや、そんなことはない、私は聖書は読まなくても、映画や小説の中で、イエスの恵みに触れることがあるという方がいると思う。 しかし、そのような映画や小説ができている背景には、聖書のストーリ、神の愛が大元になっている。  ルター派教会のトレードマーク、「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」という言葉は、ちょっと言葉を補足して言い換えるなら、「聖書のみに顕された、イエスから与えられる恵みのみを通して、イエスを救い主と信じることができ、その信仰のみによって、罪深い全ての人間が正しき者とされる。」と言い換えることができるのではないだろうか。 新しい1週間、聖書の描かれたバルティマイのストーリを通して、与えられた主イエスの恵みにより、さらに信仰が与えられ、バルティマイのストーリが、皆様一人一人のストーリーに重なってきますように。そして新たに喜びを与えられ、主イエスに従い続けることができますように! アーメン  安達均 Scripture Alone, Grace Alone, Faith Alone Mark 10:46-52 May Grace and Peace of Jesus Christ be poured unto each one of you! I received theological education through Luther Seminary in St. Paul, Minnesota, which is the largest seminary out of 8 ELCA seminaries. Luckily, I could listen to lectures or discourses not only from Lutheran theologians or Bible scholars, but also from many other denomination scholars. One day, I was listening to a lecture spoken by a guest scholar of Old Testament from Methodist. He started with the words something like this, “Martin Luther said “Scripture Alone, Grace Alone, Faith Alone” but it did not make sense to me at all at first, because if alone, why three?” Since some of you became members of Resurrection Lutheran very recently, you might have the same kind of question. Or for some of you, “Scripture Alone, Grace Alone, Faith Alone” was the first time to hear it…. “Scripture Alone, Grace Alone, Faith Alone” is a kind of trade mark for Lutheran Church. For those of you who are Lutherans for many years, how do you answer to the question by the Methodist scholar? Today, it is the Reformation Sunday. Why don’t we think about this question a little bit deeper? In the Gospel text today, Bartimaeus, who was a blind person, came closer to Jesus shouting twice, “Have mercy on me.” When Jesus thought about Bartimaeus, I believe, he felt…

Tweet マルコ10:35-45 主イエスキリストの恵みと平安が集まった会衆の上に、また、今日はここに集まることができない兄弟姉妹の上にも豊かに注がれますように! みなさん日本茶をすごく苦いと思うことあるだろうか? ほとんどの方が日本茶を飲むことが習慣のようになっていて、そんなことを言われても、とても苦いという感覚はないのかもしれない。 もう45年近く前の話になるが、私の兄は日本のカトリックの高校に通っていたが、その3年生の時、一年間、ペンシルベニア州の家庭にホームステイで留学していた。日本からのおみやげとして、日本茶を持っていった。 ホームステイ先について、兄から手紙が来た。 その手紙には、着いて早々に、日本茶を入れて、飲ませたとのこと。 ところが、ホストファミリーの父親は、飲むなり「苦い」といって、あとは全然飲めなかったそうだ。また高校生の息子もいたが、彼の反応も最初は同じだったが、砂糖を入れて、残りを飲んだそうだ。   なぜこんな苦いものが平気で飲めるのか、しかし、私たちは、飲めるばかりではなく、お茶はおいしいのである。私たちは不思議とは思わないが、はじめてお茶を飲んだ人からみれば、本当に不思議なのかもしれない。 与えられた福音書の直前には、イエスが3度目の受難予告をしている。 1回目、2回目のパターンと同じで、イエスが3回目の受難予告をしても、弟子たちにはピント来ない。今回は、ヤコブとヨハネが、イエスに願いごとをしている場面が与えられた福音書は描かれている。 願いごとというのは、「イエスが栄光を受けるときに、私たちをイエスの横に座らせてください。」というもの。 ヤコブとヨハネは、イエスが苦しみを受けるだとか、十字架に死にて葬られるなんてことは全然わかっていなかった。 そして、イエスが、私が飲む杯をいっしょに飲めか? その杯とは、弟子たちは栄光の杯のことをいっていると思って、つまり、ローマ軍に対する勝利の象徴の祝杯というか、ローマの圧力から解放される、祝いと喜びの杯のイメージを持っていたのかと思う。 しかし、イエスが伝えたかったことは、勝利の祝杯などではなく、日本語では苦杯をなめるという言葉があるが、苦しい思いをすることをさしていた。弟子たちは、そのようなことはわからずに、イエスの杯をともに飲むこともできるしとして、自信をもって、「できます」と答えていた。   しかし、イエスの話したことで、見逃してはならないことは、どんな苦しみを受けようが、さらに死んで墓に葬られようが、三日後に復活が控えている、永遠の命が、神によって与えられることを強調しておきたい。 イエスは、その苦しみの中を通っていくなかで、復活の新しい命が与えられることを伝えたかったのだと思う。 さて、このマルコ10章に書かれた話、キリストの弟子たちのとの対話から、現代の私たちは、何を学んでいるのだろか? 30年近く前だが、大学時代の友人と会っている時、クリスチャンである私に、次のような話になったことがある。彼は私と同じ工学部で学んだが、商社に就職し、最初から給料も高く、私が月100時間も残業して、心臓カテーテル検査装置といって心臓の専門医が患者の心臓のどこに問題があるかを診断するための医療機器を開発していたが、それでも、彼からしてみれば、私の給料は、わずかで、彼から見れば、私の生活は本当に苦しく見えたのだろう。 彼からしてみれば、私に勝利しているような感覚があったかと思う。そして、彼には、私以外にもクリスチャンの友達がいたようだが、彼が知るクリスチャンは、みな苦労しているということを言っていた。  私は、それを聞いて、彼はよいことに気がついているなと思った。 というのは、イエスがいう、「私に従いなさい」というのは、イエスがそうであったように、徹底的に仕えること、僕となること、自分を無にすることでさえある。 苦労をするし、苦しみを味わう。 あるいは、キリストが十字架に架けられて殺されたように、信仰を持つがゆえに、殺されてしまうことだってある。 守部喜雅というキリスト教に関する本をいろいろ出している先生がいるが、彼は、日本のキリスト教の歴史において、約250年ものキリスト教の禁教をし、キリスト信仰を持つものを死罪にしてきた日本は、実は殉教者の数が一番多い国でないだろうかと言う。 キリストに徹底的に従うことは、苦杯はなめるし、死ぬことだってあるが、イエスにある永遠の命に授かることでもある。 決して苦杯が苦いままではないし、死は死では終わらない。  私たちは、いつも礼拝で、聖餐式に授かるが、それはイエスの苦しみの血が存在している杯をいただく。それゆえ、聖餐式の杯は、苦杯なのだと思う。 ルーテル学院の上村敏文準教授は、日本にひろまったお茶(ティーセレモニー)は聖餐式と深い関係があり、苦いお茶を飲むことによって、イエスの苦しみを覚えるという意味があるのではないかと言われていた。 聖餐式では、イエスの苦しみそして死を覚えるが、しかしまた、日曜日の復活、復活後のイエスから与えられた、すべての人々に与えられた赦し、恵み、永遠の命、そして喜びを覚える。苦杯であっても、その苦さが苦いままでは終わらない。その苦味、苦しみが、喜びの味に変わってくる。 すなわち、どんなに苦しい仕事の毎日を送っていようが、自分がどんな状況があろうが、イエスの死と復活によって、すなわち、主イエスにある信仰による、神の愛によって、苦しみの日々は喜びの日々に変わっていく。 主イエスにある、喜びを覚えて、新しい一週間を歩みたい。 アーメン 安達均 The True Joy in the Bitter Cup Mark 10:35-45 May the Grace and Peace of our Lord be with you All! Have you ever thought that Japanese tea is very bitter? Most Japanese people are accustomed to drinking Japanese tea, so they probably do not think it is very bitter. My oldest brother studied in the US, for one year, when he was a senior in high school. He home stayed with a family in Pennsylvania. He brought with him Japanese tea and served it to the family. He wrote a letter to us about his experience serving the tea. His host family father could not drink Japanese tea at all. Also there was a family member the same age and grade level as my brother, but he put sugar into the hot tea. For them it was a mystery why Japanese people could drink such a bitter tasting beverage. However for Japanese it’s no mystery at all. Green tea is not bitter, but tastes good. The Gospel given today, just three sentences before the gospel, Jesus was pointing out that he would be killed. In spite of his words repeated for the third time, the disciples did not understand what Jesus meant. This was the same pattern as with the first and second mentions of his suffering and death. However, this time, John and Jacob asked Jesus, “Grant us to sit, one…

Tweet マルコ10:17-31 主イエスキリストの恵みと平安が集まった会衆の上に豊かに注がれますように! 先週、火曜から水曜日にかけて、バークレーにある神学校のカンファレンスに参加した。将来の牧師候補生は先輩牧師と連絡を取り合いながら牧師になる過程を歩むが、その双方の学びの時だった。私は特定の牧師候補生に対して、先輩牧師としての連絡をとりあう立場にはないが、アジア系の神学生が増える様相があり、一人の神学校教授から招かれ、参加していた。 牧師あるいは神父というと、わたしは実に多くの主教、神父、牧師から影響を受けたと思う。その中でも今日は、私とさと子の結婚式の司式をしてくださった牧師の話をしたい。亡くなって17年になるが、亡くなる前にこんなことをいっておられた、「私は何も持ってない。 だから幸せなんだ。」 その言葉は、新鮮で、当時30代半ばだった私にとって、そんなことは考えたことはなかった。 当時の私たちにとっては、家ももうちょっと大きい家に住めたらいいなと思い、マンションから戸建てに引っ越した。給料ももう少しもらえたら良いな、とか、子供部屋にもエアコンをつけたほうが良いな、などなど、いろいろ欲しいものがあった。 だから、なにも持っていないことが幸せだという概念は、私には縁遠いものだった。  そして、今、その牧師が言っていたことを思い返すとき、なんで、そんな心境になれたのかを思い返すとき、本当に何も持っていないから、幸せなのだということを、言いたかったのではないと思っている。 じゃあ、牧師は何を私たちに伝えたかったのだろう。 与えられた福音書の中で、イエスは資産家に慈しんで、語っている、「あなたに欠けているものが一つある。」 いったい何が欠けているのだろうか?その後のイエスの言葉は、「持っている者を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」とある。 持っているものは売り払うなんて、一つどころではない。 これは厳しい言葉だ。 キリスト教会の2000年の歴史を振り返るとき、このイエスの呼びかけに応えようとした人々が大勢いた。たとえば、一世紀のクリスチャンたちは、「すべてのものを共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」(使徒2:43-44)とある。 キリスト教会とは、そのような人々の歩みなのだと思う。 それにしても、イエスはこの資産家に何が欠けている、といいたかったのだろうか? イエスは、この資産家にも、すべての人々に、持っているものをすべて、売り払って、イエスに従うようにということをおっしゃりたいのだろうか?  資産家、あるいは金持ちの話となると、ザアカイという徴税人の話がルカ福音書19章に登場している。彼の場合は、イエスに出会って、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(ルカ19:8)と言う。そして、イエスは「今日救いがこの家に訪れた。」(ルカ19:9)と言われる。 イエスは、ザアカイの50パーセントを良しとしており、すべての人に、「あなたの持ち物をすべて売るように。」などとは言っていないことを確認したい。 それにしても、じゃこのマルコ10章に登場した、資産家に欠けていた一つのこと、とはいったい何なのだろうか?  資産家は、イエスが慈しんで言われたことを聞いた後、気を落として、悲しんで立ち去る。そして、聖書は「資産家はたくさんの財産を持っていたからである。」と記している。 この資産家の行為によって、私たちには、彼はイエスの元を離れ、自分の財産に頼って生きていこうとしていることが明らかになってきているのではないだろうか。 イエスには、最初から、この資産家が自分の財産に頼って生きようとしていることがわかっていたのでなないだろうか。 つまり、ひとつだけ、「主に頼るということ」に欠けた人生を送っていたことを問題にして、イエスは、憐れんで、この資産家にすばらしい助言をしてくださったように思う。 さて、私たちを結婚式をしてくれた牧師の話に戻りたい。「何ももっていないから幸せだ」と言ってくれた牧師が、繰り返しになるが、本当に伝えたかったことは、何も持たないことがそのまま幸せにつながるということではなかったと思う。牧師の言葉の裏には、「主に頼りきって、教会にすべてを捧げてきた、自分には何もない人生だから、幸せだ。」ということを言われていたのだと思う。 現在アメリカ福音教会の牧師たちの半分以上は、50歳以上の年齢だ。 引退する牧師がつぎつぎに出てきている中、新しく牧師になる人々の割合は少ない。 牧師が足りない時代に入ってきている。 実際問題、我々の教区だけでも、ここ二年間に、3つの教会の門を閉じた。とても厳しい経験をしている信徒の方々がいる。 しかし、必ずしも、教会を閉じることが悪いことだとも思っていない。 なぜなら、私たちは、死が終わりではないということを知っている。 また、日本の諺には、失敗は成功の元という話もあり、実際、そうなのだと思う。 さて、今日のメッセージは、次の言葉を持って、まとめたい。 将来の教会のための牧師、教会のリーダ育成、またそのための、神学校への資金援助は、深刻な課題である。 もしも、イエスに徹底的に頼るなかで、将来牧師へのコーリングを感じている方がいたら、ぜひとも、私に相談して欲しい。皆様方の寛大な献金と、将来の牧師探しへの協力に感謝しつつ。 アーメン 安達均 “One Thing You Lack” Mark 10: 21-27 May the Grace and Peace of our Lord, Jesus Christ, be showered upon us in this sanctuary! I was attending a conference last Tuesday and Wednesday that teaches mentor pastors and mentees who are in candidacy to become pastors in the future. That was a wonderful conference and I believe both mentors and mentees learned a lot. Although I am not yet a mentor pastor, due to the fact that there are several Asian prospective candidates in Southern California, a seminary professor invited me to attend that conference. When I think about pastors/fathers in my life so far, there are many who influenced me. Today, I would like to talk about Pastor Keisuke Soma who married Satoko and me. He passed away 17 years ago. Before his earthly death, we met with him right before our family came to the United States. One thing I remember what he said to us very graciously was “I do not have any possessions that is why I am blessed.” For us, at that time we were in our mid-30s, at least for me, I had never thought about such things, and his words were so fresh. At that time, I was still living in Tokyo and we wanted to move from a condo to a house and we did, we wanted to have more income, we wanted to have AC for our kids’ rooms,…

Tweet マルコ10:2-16 主イエスの恵みと平安が集まった会衆の上に豊かに注がれますように! 以前に説教で話したことがあるので、覚えている方もいるかもしれない。 南アフリカ共和国東部で話されているズールー語で「こんにちは」に相当する言葉はなんというか? 「サボナ、Sawubona」。 そして、その応え方として、「ギコワナ、Nigikhona」 短く訳すなら、「サボナ」は「ナボナ」などのお菓子の種類ではもちろんなくて、「私はあなたを見ます。」 「ギコワナ」は「私はここにいます。」 しかし、ニューヨークに住む、アフリカ系のELCAのパスターによれば、この挨拶には、もっと深い意味があるという。 それは、サボナには、「私の中にいる神が、あなたの中にいる神をみます。」 そしてすぐさま応答するキゴワナという言葉にも、「そう、私の中の神がいて、その神があなたの中にいる神を見ます。」 というやりとりらしい。 私は、その挨拶はすばらしく、神が存在するから、私たちは、今互いに会っているんだという認識にたち、そのときの出会いが、それがいつも挨拶を交わしている相手でも、まったくはじめて会ったときでも、また、人種が違う、年齢が違う人とあった時でも、その出会いにはとても意味があり、また、相手のことを真剣に思う、愛が生まれてくるように思う。  今、話したことは、実は、これだけ話せば、今日のメッセージは終わりにしても良いくらいだと思っている。 「えっ」 と思われる方がいるかもしれない。 なぜなら、「さきほど読んだ福音書では、イエス様が、離縁とか離婚について話していただはないですか。 だから、離縁について離婚について、もっと話を聞かせてください。」と思われる方もいるかもしれない。あるいは、「イエスさまは、神が結びあわせたものを人が話してはいけない、といっているから、キリスト教は離縁とか離婚を認めてはいけないのではないですか」という質問もある方もいるかもしれない。 離縁や離婚について、聞きたいということはよくわかる。 離婚を経験された方がこの中にもおられる。 おひとりおひとり、どうだろう、自分の親戚、家族を見回しても、離婚経験者がいるということはほとんどではないかと思う。そして、完全な離縁とはいかなくても、法律にのっとった離婚をした際でも、精神的な痛みや、経済的な痛み、さまざまな傷がどれほど大きいか、多くの方が同感するのではないだろうか。 それは、離婚し、完全にもう離縁、互いに連絡もとらないなどとした場合には、当事者同志だけの問題ではなく、子供や、さらには、孫にまで影響してくることだってある。 自分の父親がだれかわからない、あるいは、自分の祖父はだれだかわからない、それが、痛みになってくることだってある。  しかし、離縁や離婚ということに、もうちょっと話すなら、離婚がやむをえない場合というのもあるのだと思う。事情はさまざまだ。 しかし、離縁や離婚の話は、ここまでにしたい。 なぜなら、今日の福音書の箇所で、ファリサイ人の質問の意図は、モーセの律法とイエスの言わんとしていることが食い違わないかどうかをさぐるような気配があるからだ。ファリサイ派の人々は、イエスのすきをねらって、願わくば、律法に反するようなことを言うなら、イエスを罪に問う、ゆくゆくは、死刑にすら追い込むことを狙っているようなところがあるからだ。 イエスはそのようなことを承知の上で、結婚とか離婚のことを超えて、もっと、もっと、人間にとって大切なことを、示して話してくださっているように思う。 離縁問題というシリアスな話をしている時に、イエスに触れてもらおうとして、子供たちをつれてきた人たちがいた。 弟子たちでさえ、いまはなにもわからない子供たちが出てくる幕ではないとして、その人々を追い返そうとする。 しかし、イエスは、弟子たちを叱り、子供たちをここにつれてくるように言う。  二週間前の礼拝に出ておられた方々は、またかと思われるかもしれないが、今日の福音書箇所の最後では、イエスは、子供たちを抱き上げている様子が描かれている。 律法第一のユダヤ社会では、まだ律法の律の字もわからない子供たちは、いわば、律法を守ったりすることもできず、無能力者的な扱いだった。  そのなにもわからない子供たちに接しているイエスの態度から、イエスは弟子たちに何を教えようとされたのだろうか? それは、また、21世紀を生きる、私たちにも、イエスの思いは迫ってきているのだと思う。 どんな出会いであったとしても、そのかけがえのない出会いの中に、忘れてはならないことを、イエスは教えてくださっているのだと思う。 何年もつきあってきている同じ結婚相手とあっているときでも、未婚の方あるいは離婚経験者でも将来結婚するかもしれない相手とあったときでも、あるいはどのような子供でも、あるいは個人的・経済的に多くの困難を背負っている人でも、目の前の相手は、この自分を創造してくださった神の慈しみがあり、また相手も同じ神が創造してくださって神の慈しみがある。  そう、互いに、同じ神が生んでくださった兄弟姉妹なのだということを覚えるように導いてくださっているように思う。 今日、イエスさまから、おおきな挑戦を受けているのではないでしょうか。 今日から、どんな人と出合ったとしても、それが新しく会う人でも、いままでなんども会ってきている結婚相手とか家族親戚、友人であっても、自分にとって都合がよいか悪いかとかいうことで、相手を見るのではなく、神がその出会わせてくださった人、同じ神の子供たち、互いに兄弟姉妹であることをわきまえて接することができますように。 アーメン 安達均 “A Precious Encounter” Mark 10 : 2-16 May Grace and Peace of Jesus Christ be with you all! Since I talked about this word in the past in one of sermons, someone might remember. What do you say “greetings” in Zulu which is one of the languages in Southern part of Africa? “Sawubona!” And to respond “Nigikhona.” If translated in a short form, they are “I see you.” and “I am here.” respectively. However, an ELCA pastor in New York who is an African American Descendant explained that much deeper meaning of these greetings. When you say “Sawubona,” it means “God in me see you God in you.” Likewise in the response, when you say “Nigikhona,” it measn “Yes God is in me and sees God in you.” When I heard this, I sensed that because of God we are seeing each other. Whomever and whenever we see someone, that is the first time or someone see each other often, whatever his or her ethnicity, gender, age, religion, because of God we see each other. When we think about this, this greetings bring us God’s love and mercy each other. What I talked so far in three minutes is the conclusion of the message today and I may finish this sermon today…. Well, you might think why…. because what I read in the Gospel talked about divorce, so why don’t you talk about it? Or, since Jesus…

Tweet 本日LCR日本語礼拝にて、一年に一度行われます召天者記念礼拝が行われました。去年から今年にかけて、多くの教会の友が天に召され、まだ悲しみのうちにあるご家族の皆さんもいらっしゃると思います。このように礼拝の中で、共に天に召された愛する者達を偲び、その一人一人の存在が私たちの心の中で生き続けている事を再確認できる機会を与えられている事に、神様の恵みと平安を思い、心からの感謝を捧げます。 説教「死は終わりではない」 ヨハネ11:32-44 アメリカ福音ルーテル教会では、牧師になるために、最低500時間におよぶチャプレンとしての学び・体験が要求される。私は、癌の病棟に配属され、致命的な癌だと宣告された方との会話、あと数日後には、亡くなると思われる方との対話が多かった。  もうすぐ亡くなるという事がわかっていたある方との会話で忘れられない話がある。「生きるって何なんだろう。」という話題になった。そのとき、彼自身が、「神とともに生きる。ということではないだろうか。」という答えをだした。 そして、彼のひとみがぎらぎらと輝きだしたことを、今でも思い出す。 彼の肉体は、やせほそり、本当に弱っていて、もう肉体の死が迫っていることはわかっていた。しかし、彼の魂は神とともに永遠という単位で生きられるという希望が湧いてきた様子を、昨日のように思い出す。 今年3月には愛するフォスター牧師が亡くなった。 フォスター先生は、死は人間に必ず訪れるもので、決して不自然なことではないとされ、肉体的な死は、永遠の命の中の通過点にすぎないと考えておられた。 といっても、死は、生きて残される者との、別れであり、とてつもない悲しみや苦しみを、何ヶ月も、あるいは何年にもわたって体験することだってある。 今日、与えられた福音書、ラザロの蘇りのストーリーだ。 この話を信じられるかどうかという問題よりも、イエスがいかに、若い弟ラザロを亡くしたマルタ、マリア姉妹たちのために、泣きじゃくる姉妹たちの身になって、イエスも泣いて対応されたことに、強い感銘を覚える。 イエスの憐れみ、いっしょになって悲しんでくださる、その憐れみの深さは、計り知れないものがある。   ここで、もしも、イエスという名前がピンと来なければ、日本のクリスチャンの小説家、遠藤周作の言葉を借りてきたい。 彼は、クリスチャンでありながら、イエスを玉ねぎに譬えている。 そして、イエスの代わりに、玉ねぎと呼んだ小説も書いている。 玉ねぎとは、いつも台所にあって、身近にある。玉ねぎは、日本料理、中華料理、アメリカ料理、メキシコ料理、カリブ海料理、等々、何料理にも使われる。 また、玉ねぎは、刻むと、涙が出てきてしまうが、そう、私たちの涙のまっただなかにいてくださる方。 今日の聖書の箇所で、ラザロの姉妹や友人たちがラザロが死んで悲しみのどん底にある中で、イエス泣かれた様子、玉ねぎが泣かれた様子を思いうかべて欲しい。    悲しみのどん底にある中で、玉ねぎはラザロに「出てきなさい」と言われ、臨終の時に着せられた布に巻かれたまま、ラザロは墓から出てきた。 そして、玉ねぎは最後に、まわりにいる者たちに、「ほどいてやって、行かせなさい。」と言われる。 これはどういう意味があるのだろうか。 「ほどいてやる。」日本語では「解放してやりなさい。」と言っても良いと思う。 人間はとかく、「人間は死んだら墓に葬られて終わりだ。」という概念から解放を与えてくれる。 人間の死は、決して終わりではなく、神とともに生き続ける。 天に召された人々を覚えて、今日のような礼拝に招かれることは、彼等が神とともに生き続けているという確信が与えられる。 アーメン 安達均 “Death is Not the End” John 11: 32-44 To be a pastor of the Evangelical Lutheran Church in America, over 500 hours of study and experience as a chaplain in a clinical setting is required. I served in a hospital cancer unit for three months. I cannot forget one of the conversations with a terminal cancer patient. While we were talking, the question “What is life?” was asked. He answered the question himself, “The purpose of this life is to live with God, isn’t it?” I remember his eyes shining brightly as he gave his answer. His body was so thin and weak and approaching the end, that was a certainty. However, the hope for the soul to live eternally with God became obvious. I remember that incident was like yesterday… This past March, our beloved Pastor Howell Foster passed away. He shared that physical death comes to everybody and it is not an abnormal matter at all. Physical death is only one point of one’s eternal life. However, during this transitional point, we have to experience sadness and suffering due to the separation between the person passing through the door to heaven and the people left in this world. It is a reality that we experience a great deal of pain and grief for months or years. The good news from John chapter 11 was the story about the raising of Lazarus. Whether or not we can believe this miracle,…

Tweet マルコ8:27-38 主なる神、イエスキリストの慈しみと恵みが この礼拝堂に集まった人々の心の中に豊かに注がれますように。 私の友人と食事をしたとき、その友人は、私がいままで考えもしなかったことを話だした。 その時、彼は56歳だと思うが、「平均寿命まで生きたとして、もう7000回くらいしか、夕食を食べる機会はないと思うと、一回一回の食事を本当に大切にしたいと思う。」 と話していた。  肉体的な死に、日々、近づいているというのは事実だ。 先日隼人君が生まれた。 うまれたばかりではあるが、この世に生きている人、だれをとっても、実は、日々、肉体的な死に近づいている。 せっかく教会に来たのに、「安達牧師、そんな気のめいる話はしないでください。」という方もいるかもしれない。 しかし、これは、本当に気のめいってしまうような話なのだろうか。  もちろん、日々運動や健康食に気をつけて、より長生きすることができるという話はあるのだろう。 しかし、所詮、その長くなった人生でも、究極的には、やはり、その長くなった肉体的な死に向かって近づいている。 本日与えられた福音書、16章におよぶマルコ福音書のなかで、前半の最後、8章の最後をさきほど拝読した。 ここは、イエスの宣教に大きな転換期にさしかかったともいえる箇所、それは、8章の前半までは、イエスの宣教活動は安定した上り坂だった、しかし、今日の箇所以降は、イエスの急激な下り坂をくだっていったともいえる。  8章半ばまでに書かれたことは、イエスは多くの人々の生活を大きく変えることに成功した。 たとえば、イエスは奇跡的に病人を癒したり、目がみえない、耳が聞こえない、しゃべれない人々を見事に、目をみえるようにしたり、耳が聞こえるようにしたり、しゃべれるようにした。 あるいは、5000人の空腹のなかにあった人々、さらに4000人もの人をも、わずかな食料にもかかわらず、満腹にした。 そのイエスの姿は、まさに全能の方、最高の医者のようでもあり、偉大な政治家にもなれそうな人だった。 ところが8章の後半に入って、様相が変わってくる。 イエスは、弟子たちに「あんたがたは自分のことを誰だというのか?」と質問する。 そこで、でしゃばりというか、おっちょこちょいのペトロは、「あなはメシア」であるとこたえる。これはすばらしい答えで、大当たりなのだ。 しかし、ペトロには大きな勘違いがあった。  メシアとはどういう意味なのだろう。。。ごはんを食べさせる飯屋(めしや)じゃない。 もう少し違う発音をするなら、メサイア。メサイアあるいはメシアとは、油注がれたもの。それは、旧約聖書の世界では、超人的な英知と能力を持ってイスラエルを治める方の意味。 ペトロのイメージは、イエスがこれから、超人的にイスラエルを政治的にも治めて、ローマの圧力からも解放してくださる、そんな感覚で、メシアという言葉を使ったように思われる。  すると、イエスは、はじめて、人の子がユダヤ教の指導者たちによって、排斥され殺されること、しかし三日目には復活することになっていることを話す。 ペトロは復活するなんていうことは聞いていなかったのだろう。 最後まで話をよく聞かずというか理解することができないまま、イエスに反駁する。 「イエス様、そんなことがあってはなりあませーーーん。」  するとペトロは、イエスから「サタンよ、引き下がれ」つまり、悪魔よ引き下がれといわれてしまう。 悪魔と呼ばれてしまう、ペトロ。 そこには、ペトロの勘違いをイエスは見抜いて言われているのだと思う。 そして、イエスは、私に従いたいものは、自分を棄て、自分の十字架を担いで歩むように。という話をされる。  いったい、イエスは、弟子たちに、本当に何を言いたかったのだろうか。 また、今日の福音書を通して、主イエスは現代の私たちに何を教えようとされているのだろうか?  イエスは、圧倒的な知識と力をもって、イスラエルを治める政治家ではなかった。 そして、イエスに従うこととは、権力をもつことでもなく、金銭的に裕福になって有名になる、いわば、ドナルドトランプのような人間になることでもない。 イエスは神の子であり、同時に人の子であり、それは神が創造されたすべての人類のその魂を、つないでいくような方だった。 そして、人の子として、人類が体験する最高の苦しみをいっしょに体験し、またわたしたちの罪をぬぐってくださるような方。  そして現代を生きる人間は、とくにアメリカのような国に住んでいる人は、イエスが体験したような十字架刑を体験する可能性はとても低いと思うが、イエスの言われる十字架を担ぐとは、私たちが生きていくなかで、たいへんな痛みを体験するということではないだろうか? 「安達牧師よ、キリスト教を信じることが、痛みを体験することなどなく、健康で長生きができて、経済的にも豊かになるということを教えないのですか?」 といいたくなるかもしれない。 申し訳ないが、それは、ペトロの勘違いと同じ勘違いがあるのかと思う。 キリスト教の牧師として、キリスト教徒になるということは、痛みを体験しないとか、破産しないということを保証する、ということではない。しかし、どんな困難が訪れようが、イエスの信仰において、父と子と聖霊なる方がそばにいらしてくださること、その困難をいっしょに体験してくださっていることを、保証する。  そして、イエスが三日後に死から復活されたように、私たちも死を克服し、永遠の命に与れることをぜひ、覚えておいて欲しい。 イエスの愛と慈しみにより、世の救い主のおかげで、私たちは喜びをもって、永遠の命に生きることができる。 それゆえ、肉体的な死を迎えることが現実であっても、希望をもって歩み、肉体的な痛みも、決して気のめいってくるような話ではなくなる。ぜひ、イエスの信仰により、どんな苦しみを体験するかもしれない将来があっても、主にある喜びを覚えて、歩んで参りたい。アーメン 安達均 “Peter’s Misunderstanding” Mark 8 27-35 May the Mercy and Grace of our Lord, Jesus Christ, be richly poured into the hearts of the people in this sanctuary! When I was eating dinner with a friend, he said something I’ve never thought about… according to him, he was about 56 at that time, “Assuming that I live in healthy condition until 75, I do not think I can eat a healthy dinner more than 7000 times for the rest of my life, so I enjoy dinner every time since it is so priceless. It is true that everyone is getting closer to physical death every day. The newborn, Hayato, was born to the Fukuyama family, a few weeks ago, even for him, the number of days he lives for the rest of his life is less every day. Some people might not want to hear such a depressing fact and say, “Please do not talk about such a depressing topic, Pastor Adachi!” But, my question is: Is it truly a depressing topic? Of course, people may say that if you exercise and eat healthy food every day, you may live longer and number of days you live will be increased. That may be true, but even so, still day by day, you are getting closer to the end of your physical life. The Gospel given today, in the 16 total chapters of Mark, is the end of…

Tweet マルコ7:31-37 聖霊の息吹が豊かに注がれますように! リラックスしているだろうか? 今日のビーチサンデー、リラックスした服装で礼拝堂に集っていることに感謝。 私は高校卒業後、最初に入学した大学での専門は電子回路だった。 電子回路の教授が電子回路のことで教えてくれたことはほとんと覚えていない。 しかし、彼が卒業式のあと、リラックスする時間を大切にするようにと教えてくれたことをはっきり覚えている。 彼によれば、リラックスしているときに、もっともクリエイティブになれるから。  しかし、クリエイティブになれるといっても、どんな創造も、一人の人間が突然なにかを創りだすということはなくて、なにかの情報のインプットや、なにかに誘発されたひらめきがあり、創造がおこっている。 そこにはさまざまなヒントやおかれた環境が関係している、そして考える余裕、もあって実現している。 私は、創造も救いも、じつはすべて、主によって実現していて、人間はあくまで、そのCo-creator なのだと思う。  今日、与えられた福音書を読んでいくなかで、神の創造と救いに関係することが出てきてくるので、そのような神の創造についても思いうかべ、そして、私たちも、その神の創造と救いの業に参画したいと思う。  さて、与えられた福音書、目立った言葉はなんだろう。 ギリシャ語でも、もちろん英語にも日本語にもない言葉、”Ephphatha” という言葉が書かれている。その意味は、日本語では「開け」となっているが、イエスが使っていたアラム語の言葉、Ephphathaを、なぜマルコはそのまま残したのだろうか?  この耳の聞こえない人に対して、イエスは男の耳の中に指をいれ、つばを吐いた手で男の下に触れ、”Ephphatha”という言葉で叫ばれると、男の耳が聞こえるようになった。 イエスの不思議な行いによって、聞こえるようになり、話すこともできるようになる。 この話はマルコ7章だけが記述している。私は、この聖書に訳された言葉「開け」が書かれようが書かれまいが、どんな意味かわからなかったとしても、この箇所が人々におおいに希望を抱けるようにしているのではないかと思う。少なくとも、私たち夫婦にとってはそうだった。  実は、私の妻、さと子は若いころから、右耳が聞こえにくいと言っていた。 結婚したころは、まだ聞こえにくい程度だったが、結婚して10年ほどたったときには、ほとんど聞こえていないようになってしまった。そこで、中野近辺の何人かの耳鼻科の先生にも相談したが、皆、成す術無しとのことで、左耳だけでも正常なのだから、良しということかと思った。 ところがある方が、神尾記念病院というところに行ったらどうかと紹介してくれた。 神尾とは神の尾っぽということで、私は、神の中でもその尾っぽ、とても謙虚な名前に思い、わたしは、良いと思った。 そして、神尾病院の詳細検査の結果、人間の骨として一番、小さい骨といわれる鐙骨を、人口骨に変える手術をすれば、聞こえるようになるという診断だった。 ただし、手術後の休養が大切で、二週間入院とのことだった。あたまの中では、理解できても、そんなただでさえ小さいさと子の、その耳の中にある、最小の神からいただいた骨を、人間が作ってしまうことができるのか。 また、さと子の骨をどうやって人口骨に変えることができるのかよくわからなかった。ただ、私たちはDr. God’s Tailを信じた。  その時、私たちの3人の子供たちは、9歳、7歳、4歳で、2週間の入院は、たいへんだとは思ったが、実家の協力も得られるので、手術をGoすることにした。 結果として、おみごと、さと子の耳は手術直後から、よーく聞こえるようになった。  というか、退院して家に帰ってくると、子供たちの声が全部、左だけで聞こえていたのが、右でも聞こえるようになり、いかに子供たちの声がうるさいかということがわかるようになったという。 いずれにしろ、私たちはDr. God’s Tailに、そして、背後で働いていてくださった、主なる神を誉め、感謝した。 37節「この方のなさったことはすべて、すばらしい」という群集の反応が出ているが、創世記1章31節「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」という、神の創造のすばらしさを思い出させる。そして、「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようになる」話は、イザヤ35章5-6節「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき、あるけなかった人が鹿のように踊りあがる。口の利けなかった人が喜び歌う。」という神の救いの預言があったが、マルコ福音書に記述されたイエスによって、それが実現したことを思い起こす。  マルコは、エッファタ、とか、タリタクムという聞きなれない、普通の人には、よくわからない言葉を通して神の創造と救いのわざが、神の子であるイエスの上に実現しているということを伝えようとしたのだと思う。 そして、私は、さと子の耳におこったことが、つまり神の創造や救いが、人類の多くの働きの中で、主なる神の息吹、聖霊の介添えがあって、現在も起こっていることを伝えたい。 そして、どうか、ただエッファタという言葉を信じて、リラックスして聖霊の息吹が自分の心に満たされるようにして、神の創造と救いの業に、わたしたちも参画しよう。 アーメン 安達均 “Ephphatha: Be Opened” Mark 7 31-37 May the Holy Spirit be richly poured upon the people in this sanctuary! Are you relaxing? I’m thankful for Pastor’s Carl’s leadership and wisdom declaring this Labor Day weekend Sunday as Beach Sunday. Some of you know my major in college was electronics. I learned how to design electronic circuit boards implemented in many kinds of electronic devices. I do not remember much about what my professor taught me about electronic circuits, but there is something I clearly remember him saying at our commencement: Please try to find time to relax; then you may become very creative. As human beings, we are most creative when we are relaxing. Even though you can be creative, I do not think an individual can create something amazing without inspiration. There is always input from somewhere, information from someone, or great need in a specific area; then those circumstances make someone create or I would say God is always the creator of anything but human beings may potentially become co-creators. When we read the Gospel to the end, I think it is related to God’s creation and salvation and we realized that humans may join in these activities. In today’s Gospel, what is the most unfamiliar word to our ears? What does the Greek word, “Ephphatha” mean? In English, it is written as “be opened” This word is Aramaic that was…

Tweet “Do You Also Wish to Go Away?” John 6:56-69 May Grace and Peace of Jesus Christ be poured into the hearts of the people in this sanctuary! Let’s assume that you have been blessed with a very good life, both spiritually and physically. Job was wealthy and had a wonderful family, wonderful spouse and children. However, due to Satan, he lost his wealth, his family, almost everything. Not only that, he contracted a terrible case of leprosy. Three friends initially visited him to comfort him, but in reality, they argued that he must have done something wrong because he lost his wealth, health, and family. In other words, his three friends talked about Job’s misfortune. Assume that you were like Job, but in your case, you were visited not by three friends, but assume that you were visited by Anpanman. And think about what he said, “My head is made of anpan (sweet red bean paste bread), please eat my head, anpan, and this will help you spiritually and physically.” So what do you do? Do you eat anpan, the head of Anpanman? or Do you leave Anpanman since you cannot believe what Anpanman said. Let’s put aside the story of Anpanman and talk about the Gospel text today. According to the lectionary, we have been reading John Chapter 6 for the last several weeks. (We also read Chapter 14 due to the Peace service last week.) Jesus and his disciples healed the sick and, in the beginning of Chapter 6, Jesus fed 5000…

Tweet 詩編 34: 9-14, フィリピ 4:4-9, ヨハネ 14:27 主の平安が豊かに注がれますように! 今日どのような気持ちでこの日を迎えているだろうか?日本では8月15日土曜の正午、それは西海岸時で8月14日の午後7時に、太平洋戦争の終戦後、ちょうど70年となった。なにをもって終戦と呼ぶかは、昭和天皇が、無条件降伏を認め、天皇自ら肉声で、玉音放送として、日本国民に向けて放送された。 さらに、後に多くの言語に翻訳されて、世界にも紹介された。 昭和天皇の言葉の一部を口語訳にしたものを紹介したい。「今後日本国の受けるべき苦難はきっと並大抵のことではなかろう。(中略)しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたくまた忍びがたい思いを乗り越えて、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思うのである。」また最後の段落では「責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟せよ。」 との言葉があった。 戦後70年たって、経済的な復興は見事に達成されたのかもしれない。また戦後70年の間に、日本だけを見れば、たしかに戦争は起きず、平和だったといえるかもしれない。 しかし、未来永劫のために平和な世界を切り開くという点においては、現在世界各地で、戦争は10箇所で起こっているともいわれる。 世界平和への道はまだまだ遠い。 そのような中で、キリスト教徒として、この世界をいかに生きていくように、今日、主なる神は私たちに話されているのだろうか? どのように平和を実現していけるのだろうか? 第一日課として、読まれた詩編の言葉には、「平和を捜し、追い求めよ。」という言葉が語られていた。 そして、その言葉の前には、「主を畏れて、また舌を悪から、唇を偽りから遠ざけて、平和を求めるように。」とあった。 そこには、平和を求めるということは、必ずしも暴力とか、武器をもって戦わないことが、平和をということではないのだと思う。 私たちの交わす言葉において、口から出る言葉も、どんなにか暴力的なことになってしまうか、相手を傷つけてしまうかを、よくわきまえるように言われていると思う。 平和を探し、求めるということは、行動が平和的な行動をするだけではなく、心の上でも平安が求められるということになってくる。 そのように考えると、私たちの身も心も平和な状態に達するということ、しかも世界中の民が、その状態に達するということは、はてしなく道のりの遠いことのように思えるし、とても達成できそうもないことのようにさえ思える。  いったい、神様、私たちは、平和に向けて、どうしたらよいのでしょう? 今日与えられていた福音書、ヨハネ14章27節は、十字架に架かる前に、イエスが弟子たちに、さらに人類に残されている最高の言葉であるようにも感じる。  「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。 」 と弟子たちに話された。そしてその翌日の金曜日には、十字架に架かり、日没前に、イエスは墓に葬られる。  しかし、三日後、日曜日には復活して、なにも暴力を防ぐことができなかった弟子たちをいっさいとがめることなく、赦し、「あなたがたに平和があるように」と言われ、主の真理の霊を注いでくださった。  今日、日曜日、世界中のキリスト教会で、なぜ礼拝の時があるのだろうか? 今日、新たに、日曜日に礼拝の時が与えられているのは、主イエスが復活し、全人類を赦し、そして「あなたがたに平和があるように。」と言われたのが日曜日だったから、毎週日曜日、キリスト教会では、礼拝の時がある。  毎週、日曜日は、復活の日であり、神の憐れみの深さ、その寛大さに、私たちは、驚かされ、ひたすら主を畏れ、崇める。主イエスが与えてくださる平和について、その意味を深く考えよう。 人間的な思いからすれば、説教の最初で述べたように、世界平和はとてつもない遠くのゴールのように感じる。 しかし、キリスト教徒として、たとえ、イエスが十字架に架かられた週末があろうが、世界のいろいろなところで戦争が起こった過去があろうが、先週、金曜あるいは土曜かもしれないが、どんな悲惨なできごとがおきようが、もちろん私たち過去を認め、罪を告白する。そして主が復活した日曜日には、神の憐れみが与えられることを実感する。 私たちは、それらの過去のことは、反省はするが、もう心配はせず、こわがらなくてよい。  今日という日曜に、イエスが与えてくださる平和、それが私たちが想像できる平和とは大きく異なる、主イエスの平和を覚えて、喜びあふれる思いで、イエスの体と血をいただこう。 人類は2000年間、とても不思議な聖餐式、主の体であるパンを裂き、それを分ち合い、また主の血であるぶどう酒を、わたちあってきている。  人間の頭では世界平和が依然、遠くはるか先のことのように思える、しかし、われわれは主イエスから赦し、主の愛、主イエスにおける平安をいただこう。 そのパンとぶどうジュースに、イエスが存在している。 そのパンとぶどう酒に、主の赦し、主の愛、イエスにある平安、が存在している。 神の平和は、実はもうここにある。 マルチンルターキング博士が示唆していたように、神が与える平和とは、最終目的ではないのだ、しかし、平和はそのものは、手段であり、われわれが歩む道である。 わたしたちは、その神の平和、主の体とパンを、さらに多くの人々と分ち合い人生を歩もう。そして、主の体である教会が、ますます、主の御心に満ちたものになっていきますように!  アーメン 安達均 “A Long Way to Go?” Psalm 34: 9-14, Philippians 4:4-9, John 14:27 May Grace and Peace to you in the name of our Lord, Jesus Christ! What do you feel today? In Japan time, at noon, Saturday August 15, which was in Pacific Daylight Saving Time, 8 p.m., on Friday, August 14, it was exactly 70 years after the end of WWII. 70 years ago, at that time, the Japanese Emperor declared unconditional surrender and his speech was broadcast all over Japan and later it was translated into different languages and rebroadcast all over the world. In his speech, he mentioned, “The hardships and sufferings to which Our nation is to be subjected hereafter will be certainly great…it is according to the dictates of time and fate that We have resolved to pave the way for a grand peace for all the generations to come by enduring the unendurable and suffering what is insufferable.” Although it is not very clear in this English translation, the Emperor was envisioning “Peace for all over the world.” And, he also mentioned in his last paragraph, “mindful of its heavy burden of responsibility, and of the long road before it.” After 70 years, Japan geographically has not been an aggressor and there has been no war (involving them) during the post-war period, but if you looked back including other regions, the Korean and Vietnam…

Tweet John 6:35 41-51 主の恵みが集まった会衆に豊かに注がれますように! キリスト教で、予定説という言葉があるが、聞かれたことがあるだろうか? 一例は、「ある人がクリスチャンになるかならないかは、あらかじめ神様が決めていることですよ」ということ。 勘違いしないで欲しいのは、この予定説という考え方は、一部のプロテスタントの考え方で、カトリックや東方正教会では、そんな考えは同意していない。 ルーテル教会もプロテスタントではあるが、予定説という考えはしておらず、そんな話はしない。といいながら、今日、予定説という言葉は使って話ている。 というのは、今日の福音書には、イエスが「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」と話された言葉が出てきたが、これは予定説のことをいっているのではないだろうか、と考える方もいると思うから。もう少し違った言い方をすれば、イエスは、ある人がイエスのもとに来るかどうか(信者になるかならないか)は神があらかじめ決めておられるということをイエスはおっしゃりたいと思う方もいるだろうから。 私は、そのような考え方は、しない方が良いと思っている。というより、この44節の言葉には、もっと他のすばらしいことが含まれていると思っている。信者になるかならないかは、イエスの父なる神があらかじめ計画されていたことなのだ。と言ってしまうと、それは、神はある特定の人々のみを導いているという話になってしまわかないだろうか? また、それは人間の先入観とか偏見すらも、あたかも神の考えであるかのごとく語ってしまう可能性すらもあるように思う。  では、イエスが言われた「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない。」という言葉は、どういう意味を含んでいるのか、さらに思いを巡らせたい。ここで、今年の修養会でジョンウェスレーの話を今一度振り返ってみたい。  メソジスト運動をはじめたジョンウェスレーは、イギリスのアングリカン教会から、アメリカにいる原住民への伝道を志して、アメリカに渡った時は、そもそも戒律主義者だった。 聖書にある律法を守れば、人間は正しいとされると思っていた。メソジスト派という名前の通り、Methodology つまり、きちんきちんと規律を守っていれば、人間は救われるという考え方で伝道しようとしていたのだろう。しかし、アメリカに伝道に来たものの、全然うまく行かなかった。 ウェスレーは、失意のうちにイギリスに戻る。ロンドンのアルダーズゲートという場所で、モロビア派のピーターベーラー宣教師が、当時からすれば、さらに200年前に著されたマルチンルータのローマ3章の説教集について語っていた。ウェスレーに雷が落ちたかのごとくの回心が起こる。 ローマ3章のポイントは、人間はそもそも罪人である。正しい者とされるために、律法を努力して守って義とされるわけではない。 そのような人間を憐れみ、神はイエスキリストを立てて、十字架の死に到るまで父なる神へ従順な信仰を貫かれたイエスをいけにえとされた。その真理なるイエスを信じる者が、正しいとされることを神は示された。言い換えれば、イエスの信者になるということは、完全に神の恵み、神の贈り物であって、人間の努力によるものではない。 人間が努力するかどうかではなく、人間が、その神からの恵みを受け取るかどうかが問題。  神の贈り物ということについて、250年前のベーラー宣教師の言葉ではなく、もうちょっと現代的な贈り物の比喩を使って話してみたい。バレンタインチョコレートは、箱に入っていて、きらびやかな包装紙につつまれ、さらにリボンがかけてあったりする。そこで、そのチョコを食べるには、リボンをはずし、包装紙をとって、箱をあけ、やっとチョコレートにありつける。 神からのプレゼントである、恵みとはそのようなバレンタインチョコとは異なっていて、箱にも入っておらず、包装紙もなければ、リボンもない、私たちのまわりに、神からの恵みが、そのまま満ち溢れている。その恵みは、すべての人間が享受するには、リボンも解く必要もなければ、包装紙をはがす必要もなく、箱をあけなくてもよい、なんら人間が努力する必要はない、勉強をする必要もなく、その恵みにありつける。人間は、実は、神からのプレゼントである恵み、イエスキリストをふんだんに享受してしまっている。 キリストを信じるものになるかどうかは、その恵みを、イエスキリストと信じて、受け取るかどうかになってくる。  ウェスレーは、ローマ3章の説教を聞き、神の恵みに気づいて回心した際に、心がジーンと温まってくるものを感じたそうだ。 そして、それから後のメソジスト派は、驚くばかりの発展をして、アメリカにとどまらず、世界中に広まっていく。  さて、しつこいようだが、最後にもう一回質問したい、「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない。」という言葉は、イエスは現代の私たちに、なにを教えようとされているのだろうか。自分で戒律を守ったりするという努力とか、人間の力によっては、だれもイエスの元へ行くことはできない、つまり人間の力によって信者になるというわけではない。 しかし、父なる神が引き寄せてくださる、一方的な神の恵み、全人類にくださった十字架のイエスキリストを受け取るかどうかが、私たちが信仰者となり、神から義とされるということを教えてくださっていると思う。  人間の力、あるいは聖書を学んで御言葉を暗記したりする人間の努力によって、信仰に到達するのではなく、信仰は神からの贈り物、「私は命のパンである」といわれた、すべての源、イエスを受け取ることから信仰が新しく始まるのだと思う。そして、イエスの御言葉と聖体をいただきつづけ、常に新たにされ続けることが、信仰の継続ともいえる。 今日、新たに、イエスの御言葉を聞いた。そして、これからイエスキリストの体と血である聖体をいただくが、ぜひその深い意味を覚えながら、いただこう。そして、新たな聖霊の力、喜びをもって、世に遣わされ、そのイエスの恵みを分かちあうものとされよう。 アーメン Becoming A Christian According to God’s Grace John 6:35 41-51 May the Lord pour his grace and mercy upon the people here in this sanctuary! Have you ever heard the word, “Predestination” in a church? For example, whether or not a person will have Christian faith is pre-planned by God. Please do not misunderstand: “Predestination” is not a concept or doctrine that all Christian Denominations agree with. Catholic and Orthodox Churches do not agree with this concept. As for Lutherans, we do not talk about this…however, I am talking about it a little bit this morning: Because, people might think that the words Jesus said in the Gospel today, “No one can come to me unless drawn by the Father who sent me” are somewhat related to Predestination. In other words, some people might think that Jesus is telling that whether or not you come to Jesus (become a believer of Jesus Christ) is already planned by God. My thoughts on this are, it is better not to think that way or said another way, there is more important aspect of the verse to reflect upon. If you pursue the concept of predestination, people might think that God is inviting only certain individuals and not others. There is a possibility that someone can replace God’s thinking by one’s individual predetermination. So what does it mean “No one can come to me unless drawn by the Father”? I would…