2014年7月13日LCR日本語部週報通算第1314号
July 13, 2014 LCR Japanese Ministry Bulletin
2014年7月13日LCR日本語部週報通算第1314号
July 13, 2014 LCR Japanese Ministry Bulletin
復活ルーテル教会には、以下の写真にあるような日本庭園があります。 日本庭園横には、集会室(通称Tホール)があり、日本語部はそのスペースをよく利用しています。
その日本庭園横で日曜の朝10時からは、礼拝前に「朝のみことば」という時が与えられています。 6月からは、「うさおとあるく教会史」(塩谷直也著 日本キリスト教団出版局)という資料をながめ、キリスト教の歴史をふりかえり、主イエスが2000年の歴史のなかで偉大な信仰者たちにどのように働かれたかを考え、さらに主イエスが現在の我々にどう働かれているのかを考える時を持っています。 塩谷先生の漫画をみながら、語り合う、楽しい時です。 ぜひ、日曜10時に、Tホールにおいでください。
「朝のみことば」の後、10時45分からは讃美歌を練習し、11時半からの礼拝に向け、礼拝堂に移動します。 また、礼拝前の約30分を使って、洗礼希望者向けに、洗礼準備クラスも、10時45分から行なっています。
マタイ13:1-9, 18-23
ローマ8:1-11
救い主イエスによって呼び集められた会衆の一人一人の心の中に主なる神からの恵み、慈しみ、そして憐れみが豊かに注がれますように。アーメン
トマト、きゅうり、かぼちゃ等、野菜などの植物を種から育てた経験がおありの方はいるだろうか? 一度、育てて、翌年、とくに自分では種を蒔いたわけでも無いのに、芽が出てきた経験をお持ちの方いると思う。
私の場合は、家の裏庭の半分くらいがコンクリートの駐車スペースだが、その両脇には細長い土のスペースがある。その片方は日当たりがとても良いが、反対側は日当たりが悪い。
一昨年、プランターでかぼちゃを育てた。去年は、特に種を蒔いたわけではないが、コンクリートわきの日当たりの良いほうからかぼちゃが芽を出し、立派なおいしいかぼちゃが実った。
やはり一昨年、日当たりの良いほうで黄色のミニトマトを栽培し、去年はまったく種をまいたりしなかったが、なんと日当たりの悪いほうの土の部分から、トマトらしき植物の芽が出てきて、10Cmくらいまで伸びたときに、日当たりの良い側に移し変えた。 すると黄色いトマトが去年も山のように実った。
今日の福音書、種蒔きのたとえ。 種蒔きの話に入る前に、第二日課としてその前半部分が読まれたローマ8章について触れておきたい。ローマ8章は本当にすばらしい箇所。この箇所に元気づけられたり、感動したという方もいると思う。
ローマ8章1節、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」とある。 1節のこの言葉には、ドキッとされた経験をお持ちの方も多いと思う。 これは、決して、犯罪を犯しても、罰金がないとか、重犯罪を犯しても服役しなくて良いという意味ではない。
どんな罪をおかそうが、神がその罪深い私を愛してくださっていることは変わる事がなく、神は罪に定めたままにしておくことはなく、赦すということ。
そしてローマ8章はどういう言葉で締めくくられるかというと、28節では、キリストに招かれたものは、万事が益となるように働き、最後の38節39節の結論は、何事も神の愛から私たちは切り離すことはできないという事。
ここに、神の子が十字架に死にて葬られても、何もできず逃げていってしまった弟子たちをも、復活後に「あなたがたに平和があるように。」といって赦す、全人類への神の愛、最高の知らせがある。
神は愛であり、神は人類を愛し続けておられ、その愛は決して人間から切り離されてしまうことはないという最高のメッセージを種として、この種を世に蒔くのが弟子の役割。
ところが、このニュースは、イエスがまだ十字架刑にかかる前の段階で、人々の病を癒し、いくら奇跡的なことを起こし、弟子たちが、「神の国は近づいた」と言って伝道したところで、受け入れやすいものではなかった。
受け入れないどころか、社会に影響力のある律法の専門家、ファリサイ派等は多いに疑い、非難し、異邦人たちの協力を得て、十字架にかけてしまった。イエスが十字架にかかって殺され墓に葬られても、復活し、弟子たちを赦し、弟子たちは伝道を開始した。ところが弟子たちも殉教し、ローマ帝国がキリスト教を認めるようになるまでには、300年を要した。
その歴史的事実と13章に書かれていた種蒔きのたとえを比べて、いったい私たちは、今日、イエスから何を学んでいるだろうか?
種をまく手法は、日本的な農業や、農業が進んでいる国での手法とはちょっと違うように思う。私もだが、耕した場所や鉢植えなど、良い土壌だけに、種を植える。
しかし、イエスが語る種まきのたとえの農夫は、どんどん種を蒔いていく姿が描かれている。その種の大部分は育たないということがわかっているようなところにも蒔いているようだ。種を無駄にしてしまっているようでもある。イエスが描写した農夫は、実はイエスご自身で、気前よく、またあきらめずに、高価な種、御言葉を蒔き続ける姿がある。
私たちは、冒頭で話したように、予測していなかった収穫が起こったり、自分では意識していなかったところに種が蒔かれて、その種から立派に野菜が育つ経験をする。 それはあくまでたとえで、実際は、どのようにみなさんに信仰の種が蒔かれたかを考えてみると良い。ここにいる皆さんはほとんど復活ルーテル教会以外の場所で、種はもう蒔かれていたのが実際だと思う。
それと同じように、復活ルーテル教会で蒔いた種が、私たちの全く知らないところで、育つことがある。たとえば、コロナでは5家族が集まる集会が開かれているが、そのメンバーの母親たちは日本にいて、一人の日本の母親は8月に洗礼を受ける。私たちが今福音書から学んでいることは、キリストの体の一部として、私たちは神の愛、種をどんどん蒔くように導かれているのだと思う。 神は私たちの知らないところで、その種を成長させてくださる。 アーメン
安達均
“You Won’t Believe Where Some Seeds Grow”
Matthew 13:1-9, 18-23; Romans 8:1-11
Jesus Christ, our Savior and Lord, may your Grace and Peace be poured into the hearts of the people gathered in your name! Amen.
How many of you have grown vegetables, such as, tomatoes, cucumbers, or pumpkins, and the following year had a new crop of vegetables without planting seeds? In my case, we have a backyard and almost half of it is covered with concrete for parking space. Beside the concrete, there are two small, long narrow patches of dirt. One side gets much sunshine (and less shade), but the other side gets more shade (and less sunshine).
A year before last, we grew pumpkin in a planter and last year, even though I did not plant any seeds a sprout of pumpkin came up from the sunny patch of ground and several good pumpkins were harvested.
Also, a year before last, we planted yellow, mini tomatoes at the sunny patch of ground and plenty of yellow, mini tomatoes were harvested. Last year although we did not plant anything, there was a tomato sprout that grew from the shady patch soil. I could not believe a seed was there and that the sprout had grown to almost three inches tall. I replanted the sprout to the sunny side and harvested yellow, mini tomatoes last year as well.
Today’s gospel is the Parable of The Farmer Scattering Seeds… Before talking about the parable, I would like to touch on what was written in Romans 8 at the beginning portion of the chapter that was read a few minutes ago.
Chapter 8 of Romans is a very good portion of the Bible. There are people here who were most likely impressed or strongly encouraged by some verses of this chapter. Let’s look at the first verse, it reads, “So now there is no condemnation for those who belong to Christ Jesus.” Please do not misunderstand that there is no punishment for Christians even when they commit crimes.
Rather, for those committing sins or even crimes, there is no change in the fact that God still loves us and does not condemn us as sinners forever but forgives us. God might punish us but still loves us and forgives us.
Chapter eight of Romans 8 concludes with several very famous verses: verse 28 reads, “all things work together for good for those who love God,” and in the last sentences, 38 and 39, St. Paul concludes the chapter saying that “ For I am convinced that neither death, nor life, nor angels, nor rulers, nor things present, nor things to come, nor powers, nor height, nor depth, nor anything else in all creation, will be able to separate us from the love of God in Christ Jesus our Lord.”
Jesus Christ said “Peace be with you” without condemning his disciples who did nothing to prevent the crucifixion and instead ran away. Jesus’ selfless act showed his love to his disciples and all human beings.
God is love and God loves us. This is the Good News. Christians are to scatter this good news as the seed. However, even though Jesus expressed compassion towards the people, taught wisdom, performed miracles saving people, and disciples said “God’s Kingdom is near,” the good news was not well accepted especially by Israel’s leaders.
The reality was that the teachers of the laws, the Pharisees and Sadducees, refuted Jesus and condemned him. He was crucified by both Jews and Gentiles. Even after God’s love was revealed through the crucifixion, it took over 300 years for the Roman Empire to approve the Christian religion.
What can we, those who live in the 21st century, learn from these historical facts and the parable of the sower scattering seeds?
The way that the sower scattered the seeds is very different from the way Japanese farmers or many other farmers in industrial countries do so. Farmers plant seeds where good soil is available and do not try to waste seeds.
However, the farmer that Jesus describes, scattered seeds abundantly, and seemed like he was wasting seeds because many of them did not grow. However, I believe the famer that Jesus is describing is himself and His church, has been scattering the good news abundantly and with determination.
We often see harvests from unexpected, unnoticed seeds. For example when we look at the people here, please think about yourself and who planted the seed in your heart? For many of us, the seed was planted from different churches other than Resurrection Church, because people move here and there from different parts of the world.
At the same time the seeds planted by Resurrection Lutherans may unexpectedly grow somewhere. What we are learning is that we, as a part of body of Christ, are to scatter seeds, the good news of Jesus, the Love of God. God will grow them in unforeseen places. Everything works towards good according to God’s will (even if we don’t realize it at the time). Amen.
Pr. Hitoshi Adachi
当日配布した資料2014 07 12 タスティン家庭集会 新島八重
新島八重のビデオならびに、八重のふるさとである会津は江戸時代のはじめに多くのクリスチャンがおり、たくさんの殉教者が出た等々の会津の歴史に関するビデオも見た。 会津に生まれた新島八重にキリストがどのように働かれ、近代日本にどのような影響を与えたか。 また、同じ主イエスキリストは、現代の私たちにどう働かれているのかを思い巡らす機会となった。 八重の夫で同志社大学の前身を築いた新島譲が召天の際に、妻の八重に残したコロサイ3:13 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」は八重の後の日本赤十字での活動などに大きな影響を及ぼしたように感じた。また、同じ御言葉が、今日、私たち一人一人に不思議に働いてくださっていることを思う。
さまざまな事情で来られなかった方が多かったが、それでも8名の方が集まり、良き学びと交わりの時となった。 次回は9月13日土曜を予定します。(当初は27日を予定しましたが都合により変更します) 日本人初の女性クリスチャン医師:荻野吟子の生涯、関係する御言葉を学び、話し合います。
Healing of the Blind Man「盲人を癒す」マルコによる福音書10章46節〜52節
今回の学びは、46節から52節という短い箇所に書かれている奇跡の話である。
マルコの福音書に書かれている奇跡の話の中で、これが最後に書かれた奇跡だ。それには特別な意味があるのではないかと思う。それはこの奇跡が起こったのはイエスがイスラエルに行く途中であり、イエスはご自分がイスラエルに行く事は、十字架に架かり死ぬ事である、という事実をすでにご存知であったからだ。エリコからイスラエルに行く途中は石ころだらけのかなり厳しい道を歩かなければならない、しかもイエスの心中は行く手に待ち構えている十字架の死が重く伸し掛かっていたのだ。心身共に試練の旅路だったに違いない。
先ず、イエスの一行はエリコに到着する。そして大勢の群衆と共にエリコを出て行こうとした時のことである。バルティマイという道端に座って物乞いをしていた盲人が、イエスが来た事を知って大声で、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」、と叫び始めた。ここでよく考えてみると、マタイの8章22節にでてくる盲人と違って、この箇所ではマルコは盲人の名前を「バルティマイ」と書いている。ただの「物乞いの盲人」ではなく、「バルティマイ」という名で呼ばれる所に相手を尊重し、一人の人間として扱っている事がわかる。私たちだって街角に立ってお金を求めているホームレスの名前を聞く事など先ず無いだろう。
もし彼らの名前を知っていて、名前で呼んであげたら、それは彼らの人格を大切にしていると同時に、親近感を持つ事にもなるだろう。もう一つ、マタイの8章22節では、群衆が盲人をイエスの前に連れて来て、癒してくれるようにと頼んでいるが、ここでは群衆はバルティマイを叱りつけて黙らせようとしていると書いてある。随分の差である。ところが、この男は群衆に叱りつけられてもめげずに叫び続けた。彼がいかに気丈な人間であったかが解る。バルティマイに対して意地悪だった群衆も、イエスが「あの男を呼んで来なさい」と言った途端に態度が変わり、バルティマイに「安心しなさい、立ちなさい、お呼びだ」と言う。彼は躍り上がって喜び、イエスの所に来た。そしてイエスはこの盲人にわざわざ、「何をしてほしいのか」と聞いたのだ。盲人だから目が見えるようになりたいのは解りきっているだろうに、なぜわざわざ聞いたのだろうか?それは、イザヤ書42章の16節に書かれているように、神に出来ない事はなく、決して求める者を見捨てる事はないという事を示している。本人の口から、何を自分が求めているのかを言わせる事によって、彼が「見えるようになりたい」という願いをイエスには成就させることができる。それは文字通りに周りの人達や景色が見えるようになるだけではなく、自分の願いを成就してくれたイエスが誰なのか、真の姿が見えるようになる、という事なのだと思う。
バルティマイがイエスの助けを求めて叫んでいる時に「ダビデの子イエス」と呼んだが、何故「ダビデの子」と言ったのだろうか。それは当時の民衆が、ローマ帝国や、他の強国の圧力に辟易していて、いつかは自分たちを救ってくれる
リーダーが現れるに違いないと信じていた。そのリーダーが「ダビデの子」なのである。そして彼らにとって「ダビデの子」である力強いリーダーのイメージは
軍事的にも政治的にも力のある人物であったに違いない。しかし、イエスは全く正反対だったのだ。イエスは軍力で人々を救う為に来たのではない、国の政治を変える為に来たのでもない、イエスにとって軍事力や政治力などなんの意味もなかった。彼が来たのは人々を癒し、愛し、平和をもたらす為なのだ。バルティマイは、目が見えるようになって、「ダビデの子」の真の意味が分かったに違いない、そして「ダビデの子イエス」が真の救い主であることが、彼には見えるようになったのだ。正に「見えるようにして下さい」と願った事をイエスは成就された。
私たちもバルティマイと同じように盲人なのかもしれない。そしてイエスが私たちに「何をしてほしいのか?」と聞かれたら、私たちは何と答えるだろう。
「見えるようにしてください」と答えられるだろうか? イエスが弟子達に何を望んでいるのかと聞いた時に、ヤコブとヨセフが「あなたの右と左に座らせて下さい」と願ったように、栄誉の座だけを求めているのが私たちではないだろうか?
「見えるようにして下さい」と信じて祈る時、私たちの救い主イエスは必ず私たちに道を示して下さる。イエスはエリコからイスラエルへ行かれる時、それは死への道のりだったにも拘らず、救いを求めて叫ぶバルティマイの声を聴き、立ち止まって彼に救いの手を差し伸べられた。私たちの救い主イエスは、私たちを決して見捨てる事はなく、常に私たちを導いて下さる。私たちもバルティマイのように、しっかりと目を開き、イエスの姿をしっかりと見て従って行こう。
今週は詩編65編を読む。1-14節のすべてを以下に書き写すが、とくに後半の10-14節に集中したい。いつものように気になる言葉や節はなにか? 詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。
詩編65編
1:【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。歌。】
2:沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます。シオンにいます神よ。あなたに満願の献げ物をささげます。
3:祈りを聞いてくださる神よ/すべて肉なるものはあなたのもとに来ます。
4:罪の数々がわたしを圧倒します。背いたわたしたちを/あなたは贖ってくださいます。
5:いかに幸いなことでしょう/あなたに選ばれ、近づけられ/あなたの庭に宿る人は。恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によって/わたしたちが満ち足りますように。
6:わたしたちの救いの神よ/あなたの恐るべき御業が/わたしたちへのふさわしい答えでありますように。遠い海、地の果てに至るまで/すべてのものがあなたに依り頼みます。
7:御力をもって山々を固く据え/雄々しさを身に帯びておられる方。
8:大海のどよめき、波のどよめき/諸国の民の騒ぎを鎮める方。
9:お与えになる多くのしるしを見て/地の果てに住む民は畏れ敬い/朝と夕べの出で立つところには/喜びの歌が響きます。
10:あなたは地に臨んで水を与え/豊かさを加えられます。神の水路は水をたたえ、地は穀物を備えます。あなたがそのように地を備え
11:畝を潤し、土をならし/豊かな雨を注いで柔らかにし/芽生えたものを祝福してくださるからです。
12:あなたは豊作の年を冠として地に授けられます。あなたの過ぎ行かれる跡には油が滴っています。
13:荒れ野の原にも滴り/どの丘も喜びを帯とし
14:牧場は羊の群れに装われ/谷は麦に覆われています。ものみな歌い、喜びの叫びをあげています。
気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は10節の「あなたは地に臨んで水を与え、豊かさを加えられます。」
詩編作者の立場を思って、与えられた詩編箇所の10節以降を読んでいきたい。10節の最初の一文が、10節以降の大きなテーマを詠っているように思う。 主なる神ご自身が大地を訪れ働かれ、水を与え、豊かさを増し加えている。不思議な神の水路のシステムにより、雨が降って、水がその水路を水で満たし、豊かな大地にさらに豊かさを加えている。 その豊かさゆえに、大地では穀物が収穫できるようになる。その穀物を収穫できる大地を、主が与えてくださっている。(10節) (人間が作った)畝を潤し、土をならす。すなわち、畝に豊かな雨をそそいでやわらかくし、芽生えた植物を祝福、成長させてくださるから(主を賛美する)。(11節) 主は豊作の年をまるで冠として大地に授ける。主が訪れて施された土地の跡には、油(見事な実り)が滴っている。(12節) その油(実り)は荒れ野だった原にも滴るようになり、すべての丘が喜びを帯のようにして (13節)、牧場は羊の群れに装われ(たくさんの羊たちが生息して)、谷(丘にはさまれた大地)は多くの麦が育っている。(主に創造された)すべてのものが歌い、歓喜の叫びをあげ、賛美している。(14節)
この詩編箇所を通して、主なる神は現代の私たちに何を語っているのだろうか? 10節より前では、7節に「遠い海」や、8節に「大海のどよめき、波のどよめき」という表現があった。 詩編作者が生きた時代には、地球を宇宙から見ると青く見えるということはわかっていなかったが、現代、海が地球表面の8割近くをおおっているため、すばらしい青々とした地球であることがわかっている。 その青々としたという表現はこの詩編にはないものの、この地球に神が備えてくださった豊かな水のすばらしさがこの詩編後半に詠われていると思う。 そして、海の水が、蒸発し、雨となり、大地を水で潤し、たいへんな栄養となり、まずは植物が、またすべての動物も、その恩恵を被って、成長し命を維持するという不思議なことが起こっている。 人間は種を植えたり、また土地を耕したりもするが、種が芽を出し、茎や葉となり、花が咲き、そして実となるように、成長させてくださるのは、主なる神が加えてくださる恵みのみによってその命が保たれる。今年の主題聖句である、ヨハネ1章16節には、「恵みの上に、さらに恵みを受けた。」とあるが、上記詩編の10節の「豊かさを加える」という表現と共通していると思う。 わたしたちは、とくに都市部に住むと、上記のような大地に与えられた豊かさを忘れてしまいがちで、地球環境を痛めてしまうようなことを平気でしてしまうと思う。 普段、私たちが食卓でいただくものはすべて、地球上で神から与えられた命をいただいているといっても良い。詩編65編は、その恵みの豊かさを、思い出させる。だから、わたしたちは、感謝し、賛美し神に応答する。日曜日の礼拝は、その顕われである。アーメン
安達均
LCR日本語部ではアーバインの愛子G.宅でカール先生による
バイブル・スタディが毎月第2、4火曜日午前10時半より
行われています。現在は聖書の中の奇跡と譬話を予め渡されて
いるテキストに基づいて学んでいます。英語で行われていますが
分り易く質問も活発に行われ充されたひと時を感謝して学んでいます。毎回の内容は、日本語で纏められ、家庭集会報告のカテゴリーに記載されていますので、ご覧下さい。
1ヶ月に1回集まっています。 今回は「神の残した指紋1」というビデオを見て、日本人伝道について話し合いました。
今週は詩編145編の8-14節を読む。毎週読んでいる詩編は、LCR日本語部のカレンダーの裏に記載している聖書日課に沿っており、だいたいはその週の木曜から土曜に読む詩編である。木曜から土曜の聖書箇所も、翌週の月曜から水曜に読む聖書箇所も、その間にはさまれた聖なる日曜に読む福音書個所と関係している。
さて、いつものように気になる言葉や節はなにか? 詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。
詩編 145編8-14節
8:主は恵みに富み、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに満ちておられます。
9:主はすべてのものに恵みを与え/造られたすべてのものを憐れんでくださいます。
10:主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し/あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ
11:あなたの主権の栄光を告げ/力強い御業について語りますように。
12:その力強い御業と栄光を/主権の輝きを、人の子らに示しますように。
13:あなたの主権はとこしえの主権/あなたの統治は代々に。
14: 主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。
気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は14節の「主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。」
詩編作者の立場を思って、与えられた詩編箇所を読んでいきたい。詩編145編は最初の1-2節および最後の21節の言葉から、あきらかな賛歌である。賛歌は138編から続いていて、詩編最後の150 編まで続いており、全体の詩編を締めくくる。 多くの詩編の特徴として、「賛美します」「たたえよ」「ハレルヤ」等々の言葉にはさまれて、主を賛美する理由が詠われている。8節9節では、美しい言葉を連続して、まさに賛美する理由が詠われている。主なる神は、「恵みに富み、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに満ちて、」まさにそのようなお方(8節)。 さらに主なる神は、実際に行動している方で、「すべてのものに恵みを与え、(ご自分が)造られたすべてのものを憐れんでくださいます。」(9節) そして10節から13節では、祈りとなる。だから主に造られたすべてがあなたに感謝し、あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ、(10節)、主なる権限とその栄光を告げ、主の力強い御業についてわかちあうように(11節)。さらに、その栄光と御業が、次の世代の子供たちにも示されるように(12節)。主権も統治も代々、永遠に続くように。(13節) そして14節では、主の御業がより具体的に表現されている。 主が倒れそうな人をひとりひとり支えて、うずくまっている人を起こしてくださる。
この詩編の箇所を通して、主なる神は現代の私たちに何を語られているのだろうか? 14節の言葉が気になると書いたが、幼少の時の出来事を思い返している。 私は2歳の時に、母方の祖父を結核で亡くした。2歳の時なので、祖父のことはほとんど覚えていない。しかし、後にはっきり知ったことは、それから私も結核になったこと。その時は幼かったので、祖父と同じ恐い結核にかかったとは教えられなかったが、今思うとよく助かったと思う。当時は、良い抗生物質がやっと出回りはじめた時代で、私は3歳か4歳かの短いこの世の一生かもしれなかったところが、結局55歳の今となっても生かされている。 五十数年前に良い薬が出回りはじめたというタイミングもあるが、その背後では、主なる神が、倒れそうな私を支えてくださったという思いがする。 その時の結核のおかげて、私は大人になっても胸のエックス線検査の度に、細かな影というか、跡があることを指摘されてきた。 跡があることについて、「心配ない」と医者からは言われてきたが、私の肺は、100パーセントではないのだと思っている。かぜをひいたり、ウィルスが入ったりで、咳がではじめると、数週間止まらないことを、なんどか経験してきた。そのような時に、つらい思いもあるが、聖なる日曜には、礼拝に導かれ、主イエスを賛美し、生きて働かれる御言葉に生かされる生活の中で、やはり、主に支えられることを実感する。7月6日に与えられた聖書箇所に、イエスの語った言葉、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」がある。 現代を生きる私たち、それぞれに目に見えない重荷をたくさんしょって生きている現実がある。 しかし、その重荷を、目には見えない聖霊なる神、救い主イエスがいっしょに背負って歩んでくださっている。アーメン
安達均
2014年LCR日本語部修養会を終えて
今年は6月27日と28日の二日にわたって修養会が行われた。会場は去年に引き続き、Pacifica 教区の礼拝堂を使わせていただいた。
修養会一日目、6月27日金曜日
午前10時から受付が始まり、10時15分に、開会礼拝が始まった。讃美歌「主我を愛す」を全員で歌った後、均牧師がヨハネによる福音書21章の15節から19節までを読み、この箇所から短くメッセージを語った:
この箇所は、イエスが復活後3度目に現れた時の話が書かれている。イエスを亡くした弟子達が、再び漁師に戻ろうかと思っていた所にイエスが現れるが、彼らは気が付かなかった。「イエス様だ」、と気が付いたペテロに、イエスは三回も「あなたは私を愛しているか?」と聞かれる。日本人には「愛」という言葉は一つだが、ギリシャ語には3種類あり、「神の愛」はアガペである。 そして神の愛はアガペであるという事がなかなか理解できない。この聖書の箇所でイエス様が使われた「愛」は、「アガペ」の愛である。二回イエス様が「アガペ」を使って「愛しているか?」とペテロに聞いた時、ペテロは「アガペ」ではなく「フィロス」(兄弟愛)の愛を使って「愛しています。」と答えている。三回目にイエスが「愛しているか?」と聞いた時には、アガペではなくフィロスを使っている。三度も同じ事を聞かれたペテロは悲しくなって「私があなたを愛している事を、あなたはよく知っておられます。」と答える。ペテロはイエスが彼に語りかけている言葉が、何を意味していたのか解らなかった。私たちもイエス様が今私たちに何を語りかけているのか、語られている神のみ言葉、そして神の愛をしっかりとと聴く訓練を、この二日間の修養会を通して学びたいと思う。
短いメッセージの後、信仰告白、そして新聖歌172番の「望みが消え行くまでに」を歌い、祈りと祝祷を持って閉会となった。
主題講演(一) 安達均牧師
11時から一時間に渡り、「み言葉に浸る」(Dwelling in The Word)、というテーマでメッセージを聴いた。ヨハネの1章1節から4節、そして14節からの聖書の箇所から「み言葉」によって私たちが動かされ、生きていることを学ぶ。私たちは「言葉」によって動かされる。言葉は霊であり、イエス・キリストである。 安達牧師のパワーポイントとその資料に沿って、私たちはみ言葉に浸る手法について考え学んだ。 安達牧師はみ言葉に浸る為の手法を3種類述べた。第一の手法は、レクティオ・ディヴィナ:この手法は3−4世紀にさかのぼり、4つのステップから成り立つ。①Lectio(読む)、②Meditatio(黙想する)、③Oratio(祈る)、④Contemplatio(観想するー思いめぐらす) である。第二は、Book of Faith で、ELCAが最近推奨しているが、やはり聖書の4つの読み方である。①全身全霊を込めて読む、②誰が何時どのような目的で誰に宛てたか?等の質問に答えながら読む.③文字通りに書かれている文章を読む.④ルター派の観点から読む。そして第三は、アシュラムであり、これは明日土曜日にキム牧師のご指導によって行われる。
安達牧師は次のように講演を続けた:洗礼は水に浸る事であり、父と子と、聖霊の名によって私たちは洗礼を受ける。それは神の命に私たちが浸る事である。同様に、14節に書いてある「言葉が肉となる。」とあるように、神の存在がそこにあり、私たちはそれに浸る事によって、身になり活かされる。聖書の言葉の中にイエスの愛を感じ、イエスの中に入って行く、またはイエスが私たちの中に入って来る、それはどういうことかを、この修養会で探究して行きたい。 (全体の内容はパワーポイント資料参照)
主題講演の後、私たちは昼食と交わりの時を一時間楽しんだ後、午後のグループ別話し合いへと進んで行った。
午後のグループ別話し合いは、3つに別れたグループが、マルコ、マタイ、ルカの平行記事を読んで話し合うのだが、普段とは違う試行で進められた。 共感福音書と呼ばれるマルコ、マタイ、ルカには、同じ記事が書かれているのだが、微妙に違っている。
マルコは一番最初に福音書を書いたと言われていて、マタイとルカはマルコを土台にして書いたのだろうと言われている。 マルコはペテロの弟子で、ペテロがアラム語で話したのをマルコがギリシャ語に訳していたのだろう、とも言われている。マタイは12人の弟子の一人で、徴税人だったマタイではないかとも言われている。ルカは、医者だったと言われ、使徒言行録を書いたのもルカである。ということは、ルカは多分パウロと伝道旅行を共にしたのだろう、と言われている。
今回の平行記事の箇所は、マタイ22章35節から40節、マルコ12章の28節から31節、そしてルカ10章25節から28節を、それぞれの福音書の箇所を読んだ後、40分かけて自分が一番気になった箇所や、感じた箇所を分かち合い、このみ言葉を通して、2000年前にイエスが誰に何を語りかけたのか、そして21世紀の今、神が何を私たちに語りかけているのか、を話し合った。 マルコ、マタイ、ルカの三人が同様に書いている事は、律法の専門家、又は律法学者が、イエスを試そうと思い、律法の中でどれが一番大切な掟かと聞く所である。マタイとマルコでは、イエス自身がこうお答えになっている、「心を尽くし、精神をつくし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」 (マルコでは、“力を尽くして”ともある。)、そして第二の掟は、「隣人を自分のように愛しなさい」と。 ルカでは、イエスが律法の専門家に「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と聞かれて、彼に「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われている。そして、彼がマルコに書かれている事と同じ律法を言うと、イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われている。それぞれに少しずつ言い回しは違っているが、同じなのは、ユダヤ人の律法学者、専門家がイエスを試みようとして聞いている事。同じ律法の掟をユダヤ人達は子供の頃から暗記しているから、勿論すぐに答えられている、という事。そして特にルカの福音書で書かれているように、「それを実行しなさい」という事は、イエスがユダヤ人達に、「あなた達は律法に書いてある神の言葉を全て暗記していて素晴らしいが、それらのみ言葉を実行していますか?そのみ言葉に生きていますか?自分を愛すように隣人を愛していますか?」、と問われているのではないかと思われる。私たちも、ユダヤ人の律法学者のように、聖書のみ言葉を読み、暗記をする事はできるが、それ以上にみ言葉に浸っているだろうか?み言葉が肉になっているだろうか?そして心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神のみ言葉を受け入れているだろうか?このようにマタイ、マルコ、ルカの平行記事を、それぞれ40分かけてじっくり読んで行くと、普段素通りしてしまい、深く掘り下げて理解していなかった細かい神の思いに気づかされる。グループに別れてそれぞれに話しあう事によって、それぞれに違った観点から異なった思いや疑問を分かち合い、「ああいう感じ方もあるのか、」とお互いが感心しあい、学びあう事ができた。 (各ブループの纏めを読まれると面白い。)
修養会二日目、6月28日土曜日
讃美歌172番を歌い、二日目の修養会が9時に開会された。
安達牧師からキム牧師の紹介があり、キム牧師がアシュラムについて説明された。
アシュラムとは、インドのヒンズー教の静かな隠棲の場所のことで、1800年代後半に、アメリカのスタンレー・ジョーンズ宣教師がインドでの体験を基に、クリスチャンの為に始めた運動である。クリスチャン同士が、教派を越えて集り、静かに祈り、み言葉に聴き入る、そして聖書の一章をゆっくりと時間をかけて通読し、神の語りかけを直接聖書から聴く。それを体験した参加者達は、じっくりとみ言葉に浸って充電されたように、アシュラムが終わってそれぞれの場所に帰って行く時が、新たな信仰生活の始まりとなるのである。
アシュラムとは、私たちが、忙しい場から離れて、もう一度個人の霊的生活の歩みを始める時なのである。ある人にとっては再出発の時となることもある。私たちの信仰生活を振り返って見ると、教会に来ても「燃えない」と思う事はないだろうか?その共通点は、教会以外に学びの時を持っていないからではないだろうか?私たちが祈る時は、願い事ばかりを並べていないだろうか?昔、「心のチキンスープ」という本が流行った事がある。それは心温まる話、勇気が出る話など、自分の都合に合わせて読めるから便利だった。正に自分が「主語」だから自分が中心であり、心地良いのだろう。しかし聖書を読む事とそれとは違う。聖書のみ言葉に「聴く」というのは、み言葉を通して、神様は何を私に語っているのだろう、と神様の御心を聴くことなのである。祈りというのは、年寄りのエリがサムエルに祈る事を教える時に、「僕は聴きます。主よ語って下さい」と言っているように、静かな所で、神様が自分に語っている神の思いを聴く事である。私たちが呼吸するのと同じように、み言葉がなければ私たちは生活の中で神の中に生きる事はできない。信じるとは「一点」の事だが、信仰生活というのは、「継続しなければならないもの」。点には面積がないけれど、無数の点が連続されると「線」になり、持続して行く。しかし、忙しい生活を送る私たちにとってそれが実際に実行できない。(自分が育児をしていると、本当に大変で忙しい中時間を取って聖書を読み、祈りを捧げるには、犠牲が必要となる事が解る。)どこかを削って努力する必要がある。そのようにして神との交わりを持たない限り、子供が親との愛情、交わりがないと人間として育って行かないのと同じだと思う。キム先生のオリエンテーションを聞きながら、このように時間を取って一日でもアシュラムを体験する事は貴重なことであり、自分の信仰の再確認だけでなく、しっかりと神様の語る言葉を聴き、み言葉を身につける機会に恵まれた事に、わくわくするような感動を覚えた。
三浦綾子さんが書かれた本に「ちいろば先生物語」という本がある。その本の主人公の「ちいろば先生」とは、榎本保郎先生である。この先生が日本でアシュラム運動を広められた。「ちいろば」とは榎本先生が作られた言葉である。聖書の箇所で、イエスキリストがエルサレムに入城される時に、皆歓迎してイエスを受け入れる。その時イエスは小ロバに乗って、エルサレムに入城した、という話がある。この世的には、英雄が入場する場面を想像すると、もっと違うイメージなのに、イエスは平和の君として、謙虚に小ロバに乗って入城した。この事が榎本先生に大きな衝撃を与えた。自分も、小ロバのように小さな存在かもしれない、でもイエス様に用いられる事が出来る。死ぬまで自分は“ちいろば”でいよう、と思ったのだ。そして榎本先生は“ちいろば牧師”と呼ばれるようになったのである。榎本先生は肝炎に冒されながらも、1977年にロサンゼルス・アシュラムの為に、無理をして飛行機に乗ったが、機内で倒れ、サンタモニカのERに運ばれ、残念ながらそこでお亡くなりになった。現在彼の息子の榎本恵が受け継いでアシュラムリトリートをアメリカに広めようとしている。
キム先生は、中学生の時に親に連れられて日本に移住したそうだ。その時、日本語ができなかったので、何処の学校も彼を受け入れてくれなかった。やっと受け入れてくれる学校が滋賀県に見つかり、キム先生はその学校に入学し、そこの寮に入った。たまたま榎本先生が近くに住んでいて、大変にお世話になったそうである。
オリエンテーションの最後にキム先生は、プログラムにある10時からの「静聴」とはどういう事をするのか、また、恵みの分かち合い、充満の時とはどのような事なのかを次のように説明された。
このプログラムの特徴は:
語る事ではなく、聞く事が中心。だから講師はいない。講師はあくまでもイエス・キリストご自身。自分も講師ではなく、ただの進行係をしている。また、それぞれのグループに分かれるが、グループをファミリーと呼び、ファミリーのまとめ役が進行係。
アシュラムに参加する時の3つの質問:①ここに来た理由は何か?②何を願っているのか?③何を必要としているのか? ただし、アシュラムの主語は自分ではなくて神なので、神が私をここに来させたのは何か?神が私に願っているのは何か?神が私に必要とされている事は何か? と聴く(静聴の時が必要)。今回は、マタイの福音書6章を聖霊の交わりを求めつつ、読む。同じみ言葉から、新たな何かが感じられる事があるので、先入観にこだわらずに、新しい気持ちで読む。み言葉を素直に読むのは難しいが、
(特に良く知られている聖書の箇所は難しい)、先ず自分のコップを空にして、新しく注いでいく気持ちで読む事が大切。 一時間自分の場所を探し、マタイの6章を全身全霊を注いで読む。その後恵みの分かち合いをファミリーと行う。恵みの分かち合いの時は、先ず話し手の話す事をそのまま聞く、決して反対意見を述べたりしない。相手を尊重し、お互いに心を開いて語り合うことが必要。私たちは皆罪人であり、その罪が赦され私たちが兜を脱ぎ捨て、平等の交わりとして自分を介抱するのだ。それぞれの個人的な問題をオープンに話し合う場でもある。そしてファミリーで話し合ったプライベートな事は決して他言しない。
纏めると、ファミリーで分かち合う時は:
①聖書のみ言葉を語る。
②問題をシェアする。
③今後生活の中で実践する事が示されたならばそれをシェアする。
④その場で話合った事を他では話さない。
⑤始めに説明された3つの質問を話し合う。
⑥一人一人祈る。
進行係は司会なので、自己紹介からそれぞれ示されたみ言葉をシェアできるように進めて行く。要点を全体の前でシェアする。一人一人お祈りを回して、最後に進行係が祈る。
アシュラムは、プログラムが終わる時が始まる時、それが「充満の時」。これからの生活に力強く活かされてこそ、参加した意義がある。聖霊の助けを求めるときが「充満の時」でもある。
キム牧師の説明が終わり、私たちは15分の休息を取った。その後それぞれが静かな場所を見つけ、1時間かけてゆっくりマタイの6章を読んだ。そして11時15分からそれぞれのファミリーが別々な場所に集合し、恵みの分かち合いを行った。
私はCファミリーの進行係を務めた。それぞれがマタイの6章を一時間全身全霊を注いで読んだ後に、一番気になった事、感じた事を語りあった。ある人は、22節の「ともしび」という言葉から、エリがサムエルに言った「神のともしびは消えておらず」というみ言葉を思い、ちいさなともしびでも決して消さないで行きたいと思った、と語った。ある人は「見てもらおうとして人前で善行をしないように」という言葉から、どれ程自分が周りの人に左右されているか、自分が善行をするのは自分を良く見せようと思っているからで、本当に自分が小さいと痛感した思いをシェアしてくれた。ある人は、自分が人の為によかれと思ってやったことの見返しがないとがっかりする、報酬を求めている自分に気が付いた、と語ってくれた。ある人は、 25節を読んでいて、自分が小さい時に感動した聖句だった事を思い出した。そして今やっと自分が全てを神様に委ねて行ける幸いを感じる、と語ってくれた。その他にも、この紙面には書ききれない程の多くの事を分かち合う事ができた。私自身、まだまだ時間が足りない程にしっかりこの箇所を読めてはいないと思う程に、この箇所は掘り下げれば掘り下げる程深くなっていくような気がした。私は、「彼らは既に報いを受けている」という言葉が理解できなかった。誰が誰の報いをすでに受けているのか?何度も読むうちに、そうか、人前で善行を働いたり、施しをしたり、断食をするのは、ユダヤ人達が律法を教えられるままに守ってやっている事を見せることで、それは周りの人を喜ばたせりするだけ、自己満足だけで終わってしまうから、決して神様に報われているのではなく、周りの人の目に報われ、自分が満足して自分を報いてるだけに過ぎない。相手に喜んでもらおうと奉仕をすれば、それだけに神経を使っているから、内面が渇いてくる。そうすれその渇きを癒したいが為に、相手からの報酬を求めたりするのだろう。そうではなく「心の動機」が大切であり、心は神に向いていなければならない。そうすれば、善行をする事が自分の為でも他人の為でもない。神の報いがある。だから喜びが溢れて来る。
昼食の後、充満の時を迎えた。他のファミリー達もそれぞれに素晴らしい恵みの時を持てた事が、それぞれの進行係の報告から感じられた。面白い事に、同じマタイの6章を読んだにもかかわらず、各ファミリーからは、同じような話ばかりではなく、全く違う思いや感想がシェアされた事だった。新鮮だった。 私が一番新鮮に感じられたのは、キム牧師が、それぞれのファミリーの報告を聞くたびに、心からその分かち合いに感動し、初めて聞いた事のように頷き、それらを全て自分の中に受け入れている様子だった。イエスの言葉に聴き入る謙虚な牧師の姿を見た思いだった。
「充満の時」の後は、閉会礼拝となった。
安達牧師がマタイ28章の16節から20節を読み、キム牧師がメッセージを語られた。
キム先生の説教:今日の箇所は復活されたイエスが、弟子達の所に現れて、再び一つにされて、いよいよ世界宣教の為に使わされる箇所です。
三つの点:
1.使命を与えられる神とはどのような神か?
イエスはまことの神であり、三位一体の神である。信じる対象にキャラクターがある。神であり、キリストであり、霊である神がそれである。たとえば、太陽そのものが父なる神だとして、太陽が発する光、(太陽は神と同じように眩しくて見る事ができないが、光は実際にこの世に訪れたイエス・キリスト)、そして光が私たちに届く時に感じる熱、これは聖霊である、私たちはその熱によって動く。しかしながら、実際にはどのように説明しようとしても、神様の事を説明する事はできない。私たちが理解しようとしまいと、私たちはすでに三位一体の恵みの中に置かれている。
祈る事を考えてみよう。
私たちは創造主なる神に向って祈っている。それはミディエーター(中間者)となっているイエス様が、「私の名よって祈りなさい」と言われる言葉により、私たちは キリストの名によって祈っている。聖霊の導きによって、私たちは信じる事、そして祈る事ができる。父なる神に向い、子なるイエスの名により、聖霊の導きによって祈る事ができる。
2.使命を受けられる弟子達はどのような弟子達?
イエスは彼らに生きる理由と目的を与えられた。マタイ28:18、19 ここに書いてある弟子とは、私たち一人一人のことでもある。私たちも神によって生きる理由と目的を与えられている。私たちも彼らとあまり変わりがないのである。
3.神はどのような使命を与えられたのか?
イエスは、疑う弟子達に、ご自分から近づいて来て、弟子達を信頼し、彼らに使命を与えられたのだ。何故ガリラヤへ「行け」と言ったのか?何故彼らの故郷であるガリラヤへ「帰れ」とは言わなかったのか?それはイエスに使命を与えられた彼らが、 目的を持ってそこ「行く」からである。信仰を持って生きるという事は、主の指し示す所に「行く」ということでないだろうか? 私たちはみ言葉によって養われて、 主の信頼と愛を確信し、自分の弱さをも再確認できるのである。そして、弱い私たちでも希望を持ってイエスの使命を全うできる。この修養会を通してその力を得たい。
私たちは最後に今回の修養会テーマ讃美歌となった172番を歌い、安達牧師の祝祷を 受け、心も新たにそれぞれの場所へと派遣されて行った。 正に私たちの新たな信仰生活の始まりとなる修養会となった。 芙美Liang 記録