Tweet 今週は詩編86編を読む。先週の65編と同じパターンで1-17節すべてを以下に書き写すが、後半11節以降に集中する。いつものように気になる言葉は何か?詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編86編 1:【祈り。ダビデの詩。】主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは貧しく、身を屈めています。 2:わたしの魂をお守りください/わたしはあなたの慈しみに生きる者。あなたの僕をお救いください/あなたはわたしの神/わたしはあなたに依り頼む者。 3:主よ、憐れんでください/絶えることなくあなたを呼ぶわたしを。 4:あなたの僕の魂に喜びをお与えください。わたしの魂が慕うのは/主よ、あなたなのです。 5:主よ、あなたは恵み深く、お赦しになる方。あなたを呼ぶ者に/豊かな慈しみをお与えになります。 6:主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈るわたしの声に耳を向けてください。 7:苦難の襲うときわたしが呼び求めれば/あなたは必ず答えてくださるでしょう。 8:主よ、あなたのような神は神々のうちになく/あなたの御業に並ぶものはありません。 9:主よ、あなたがお造りになった国々はすべて/御前に進み出て伏し拝み、御名を尊びます。 10:あなたは偉大な神/驚くべき御業を成し遂げられる方/ただあなたひとり、神。 11:主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように/一筋の心をわたしにお与えください。 12:主よ、わたしの神よ/心を尽くしてあなたに感謝をささげ/とこしえに御名を尊びます。 13:あなたの慈しみはわたしを超えて大きく/深い陰府から/わたしの魂を救い出してくださいます。 14:神よ、傲慢な者がわたしに逆らって立ち/暴虐な者の一党がわたしの命を求めています。彼らはあなたを自分たちの前に置いていません。 15:主よ、あなたは情け深い神/憐れみに富み、忍耐強く/慈しみとまことに満ちておられる。 16:わたしに御顔を向け、憐れんでください。御力をあなたの僕に分け与え/あなたのはしための子をお救いください。 17:良いしるしをわたしに現してください。それを見て/わたしを憎む者は恥に落とされるでしょう。主よ、あなたは必ずわたしを助け/力づけてくださいます。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は11節の「主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。」 詩編作者の立場を思って、特に11節以降を読む。10節までには、詩編作者が大きな問題の中にあり自分ではどうしようもない状態で神に懇願する様子が詠われている。そして11節は「あなたの道を教えてください。」と懇願し、「私はあなたの真理の中を歩みます。」と詠う。そこには、10節までは神が自分を憐れんで救ってくださるようにという受身の祈りだったものが、11節前半でがらりとその音調が変わったような、能動的な祈りに変化している。11節後半は、信仰生活の鍵、あるいは知恵の源とも言える「主の御名を畏れ敬う」ことができるように、ただ主にのみ集中するような心にしてくださいと詠う。そして12-15節では、さらに音調が変わったような、懇願する状態から、あたかも願いが適えられている状態を客観的に示すように詠う。私は主に感謝し、尊ぶ。(12節) あなたの慈しみは大きく、どん底から私の魂を救い出す。(13節) 傲慢で暴虐な者たちが私の命を狙っているが、彼等は、あなたを第一に畏れていない。(14節) そのような者たちをも含めて、主は情け深く、憐れみに富み、忍耐強く、慈しみと真理に満ちている。(15節) そして16-17節では、憐れんでください、御力を与え僕をお救い下さい、良いしるしを私に現してください、という願いの言葉が続いた後、その願いが適えられるのを見て、私の敵が恥に落ち、主が私を助け力づけられるという確信を詠って、この詩編は終わる。 この詩編箇所を通して、主なる神は現代の私たちに何を語っているのだろうか? 現代においても、この詩編作者が経験したような、自分ではどうにもできない状況に陥る。家庭内でも仕事のトラブルでも個人的に身動きがとれないような経験もするし、原子力の問題にしても、東南アジアの国際的な政治情勢にしても一個人ではどうしようもない。そのような状況にあって、この詩編の11節の言葉と主イエスが語っていたことを思い出す。「あなたの道を教えてください。私はあなたの真の道を歩みます。」との祈りに対し、主イエス御自身が現代においても「私は道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)と語ってくださっている。主イエスにある信仰の歩みを続けることに救いがある。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は詩編65編を読む。1-14節のすべてを以下に書き写すが、とくに後半の10-14節に集中したい。いつものように気になる言葉や節はなにか? 詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編65編 1:【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。歌。】 2:沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます。シオンにいます神よ。あなたに満願の献げ物をささげます。 3:祈りを聞いてくださる神よ/すべて肉なるものはあなたのもとに来ます。 4:罪の数々がわたしを圧倒します。背いたわたしたちを/あなたは贖ってくださいます。 5:いかに幸いなことでしょう/あなたに選ばれ、近づけられ/あなたの庭に宿る人は。恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によって/わたしたちが満ち足りますように。 6:わたしたちの救いの神よ/あなたの恐るべき御業が/わたしたちへのふさわしい答えでありますように。遠い海、地の果てに至るまで/すべてのものがあなたに依り頼みます。 7:御力をもって山々を固く据え/雄々しさを身に帯びておられる方。 8:大海のどよめき、波のどよめき/諸国の民の騒ぎを鎮める方。 9:お与えになる多くのしるしを見て/地の果てに住む民は畏れ敬い/朝と夕べの出で立つところには/喜びの歌が響きます。 10:あなたは地に臨んで水を与え/豊かさを加えられます。神の水路は水をたたえ、地は穀物を備えます。あなたがそのように地を備え 11:畝を潤し、土をならし/豊かな雨を注いで柔らかにし/芽生えたものを祝福してくださるからです。 12:あなたは豊作の年を冠として地に授けられます。あなたの過ぎ行かれる跡には油が滴っています。 13:荒れ野の原にも滴り/どの丘も喜びを帯とし 14:牧場は羊の群れに装われ/谷は麦に覆われています。ものみな歌い、喜びの叫びをあげています。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は10節の「あなたは地に臨んで水を与え、豊かさを加えられます。」 詩編作者の立場を思って、与えられた詩編箇所の10節以降を読んでいきたい。10節の最初の一文が、10節以降の大きなテーマを詠っているように思う。 主なる神ご自身が大地を訪れ働かれ、水を与え、豊かさを増し加えている。不思議な神の水路のシステムにより、雨が降って、水がその水路を水で満たし、豊かな大地にさらに豊かさを加えている。 その豊かさゆえに、大地では穀物が収穫できるようになる。その穀物を収穫できる大地を、主が与えてくださっている。(10節) (人間が作った)畝を潤し、土をならす。すなわち、畝に豊かな雨をそそいでやわらかくし、芽生えた植物を祝福、成長させてくださるから(主を賛美する)。(11節) 主は豊作の年をまるで冠として大地に授ける。主が訪れて施された土地の跡には、油(見事な実り)が滴っている。(12節) その油(実り)は荒れ野だった原にも滴るようになり、すべての丘が喜びを帯のようにして (13節)、牧場は羊の群れに装われ(たくさんの羊たちが生息して)、谷(丘にはさまれた大地)は多くの麦が育っている。(主に創造された)すべてのものが歌い、歓喜の叫びをあげ、賛美している。(14節) この詩編箇所を通して、主なる神は現代の私たちに何を語っているのだろうか? 10節より前では、7節に「遠い海」や、8節に「大海のどよめき、波のどよめき」という表現があった。 詩編作者が生きた時代には、地球を宇宙から見ると青く見えるということはわかっていなかったが、現代、海が地球表面の8割近くをおおっているため、すばらしい青々とした地球であることがわかっている。 その青々としたという表現はこの詩編にはないものの、この地球に神が備えてくださった豊かな水のすばらしさがこの詩編後半に詠われていると思う。 そして、海の水が、蒸発し、雨となり、大地を水で潤し、たいへんな栄養となり、まずは植物が、またすべての動物も、その恩恵を被って、成長し命を維持するという不思議なことが起こっている。 人間は種を植えたり、また土地を耕したりもするが、種が芽を出し、茎や葉となり、花が咲き、そして実となるように、成長させてくださるのは、主なる神が加えてくださる恵みのみによってその命が保たれる。今年の主題聖句である、ヨハネ1章16節には、「恵みの上に、さらに恵みを受けた。」とあるが、上記詩編の10節の「豊かさを加える」という表現と共通していると思う。 わたしたちは、とくに都市部に住むと、上記のような大地に与えられた豊かさを忘れてしまいがちで、地球環境を痛めてしまうようなことを平気でしてしまうと思う。 普段、私たちが食卓でいただくものはすべて、地球上で神から与えられた命をいただいているといっても良い。詩編65編は、その恵みの豊かさを、思い出させる。だから、わたしたちは、感謝し、賛美し神に応答する。日曜日の礼拝は、その顕われである。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は詩編145編の8-14節を読む。毎週読んでいる詩編は、LCR日本語部のカレンダーの裏に記載している聖書日課に沿っており、だいたいはその週の木曜から土曜に読む詩編である。木曜から土曜の聖書箇所も、翌週の月曜から水曜に読む聖書箇所も、その間にはさまれた聖なる日曜に読む福音書個所と関係している。 さて、いつものように気になる言葉や節はなにか? 詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編 145編8-14節 8:主は恵みに富み、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに満ちておられます。 9:主はすべてのものに恵みを与え/造られたすべてのものを憐れんでくださいます。 10:主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し/あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ 11:あなたの主権の栄光を告げ/力強い御業について語りますように。 12:その力強い御業と栄光を/主権の輝きを、人の子らに示しますように。 13:あなたの主権はとこしえの主権/あなたの統治は代々に。 14: 主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は14節の「主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。」 詩編作者の立場を思って、与えられた詩編箇所を読んでいきたい。詩編145編は最初の1-2節および最後の21節の言葉から、あきらかな賛歌である。賛歌は138編から続いていて、詩編最後の150 編まで続いており、全体の詩編を締めくくる。 多くの詩編の特徴として、「賛美します」「たたえよ」「ハレルヤ」等々の言葉にはさまれて、主を賛美する理由が詠われている。8節9節では、美しい言葉を連続して、まさに賛美する理由が詠われている。主なる神は、「恵みに富み、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに満ちて、」まさにそのようなお方(8節)。 さらに主なる神は、実際に行動している方で、「すべてのものに恵みを与え、(ご自分が)造られたすべてのものを憐れんでくださいます。」(9節) そして10節から13節では、祈りとなる。だから主に造られたすべてがあなたに感謝し、あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ、(10節)、主なる権限とその栄光を告げ、主の力強い御業についてわかちあうように(11節)。さらに、その栄光と御業が、次の世代の子供たちにも示されるように(12節)。主権も統治も代々、永遠に続くように。(13節) そして14節では、主の御業がより具体的に表現されている。 主が倒れそうな人をひとりひとり支えて、うずくまっている人を起こしてくださる。 この詩編の箇所を通して、主なる神は現代の私たちに何を語られているのだろうか? 14節の言葉が気になると書いたが、幼少の時の出来事を思い返している。 私は2歳の時に、母方の祖父を結核で亡くした。2歳の時なので、祖父のことはほとんど覚えていない。しかし、後にはっきり知ったことは、それから私も結核になったこと。その時は幼かったので、祖父と同じ恐い結核にかかったとは教えられなかったが、今思うとよく助かったと思う。当時は、良い抗生物質がやっと出回りはじめた時代で、私は3歳か4歳かの短いこの世の一生かもしれなかったところが、結局55歳の今となっても生かされている。 五十数年前に良い薬が出回りはじめたというタイミングもあるが、その背後では、主なる神が、倒れそうな私を支えてくださったという思いがする。 その時の結核のおかげて、私は大人になっても胸のエックス線検査の度に、細かな影というか、跡があることを指摘されてきた。 跡があることについて、「心配ない」と医者からは言われてきたが、私の肺は、100パーセントではないのだと思っている。かぜをひいたり、ウィルスが入ったりで、咳がではじめると、数週間止まらないことを、なんどか経験してきた。そのような時に、つらい思いもあるが、聖なる日曜には、礼拝に導かれ、主イエスを賛美し、生きて働かれる御言葉に生かされる生活の中で、やはり、主に支えられることを実感する。7月6日に与えられた聖書箇所に、イエスの語った言葉、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」がある。 現代を生きる私たち、それぞれに目に見えない重荷をたくさんしょって生きている現実がある。 しかし、その重荷を、目には見えない聖霊なる神、救い主イエスがいっしょに背負って歩んでくださっている。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は詩編89編の1-5節と16-19節を読む。89編は53節もあり、とても長いが、上記の箇所を集中して読む。いつものように気になる言葉や節はなにか? 詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編89編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編 69編8-19節 1:【マスキール。エズラ人エタンの詩。】 2:主の慈しみをとこしえにわたしは歌います。わたしの口は代々に/あなたのまことを告げ知らせます。 3:わたしは申します。「天にはとこしえに慈しみが備えられ/あなたのまことがそこに立てられますように。」 4:「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び/わたしの僕ダビデに誓った 5:あなたの子孫をとこしえに立て/あなたの王座を代々に備える、と。」〔セラ 16:いかに幸いなことでしょう/勝利の叫びを知る民は。主よ、御顔の光の中を彼らは歩きます。 17:絶えず、御名によって喜び躍り/恵みの御業にあずかって奮い立ちます。 18:あなたは彼らの力の輝きです。御旨によって、我らの角を高く上げてください。 19:主は我らの盾/イスラエルの聖なる方は我らの王。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は17節の「絶えず、御名によって喜び躍り」。 詩編作者の立場を思って詩編89編を読んでいきたい。150 編の詩編のなかで、12の詩編には、マスキールと書かれている。ヘブル語の元々の意味は「悟る」というような意味がある。転じて、「教訓的な詩編」という意味をもつ詩編なのだと思う。 そして、エズラ人エタンが作詞・作曲者ということになるのだろう。 いったい、エズラ人とは?またエタンとはどういう人だろうか? エズラといううとエズラ記が有名だが、エズラ人となるとエズラという一人の人ではなく、民をバビロン捕囚からイスラエル帰還に導いた指導者たちと想像する。とくにエタンという人がどういう人なのか、むずかしいが、歴代誌上15章16節と19節に出ている、演奏者、とくにシンバルを鳴らしていたパーカッショニストであり、かつ詩編作者だったのではないかと思う。 さて、2節から5節は主への賛美。永遠の主の慈しみ(憐れみ)を覚え、私も代々にわたって子孫たちも、主をほめ讃えます、あたなの真理を告げます(2節)。 私は詠う、「天には永遠なる慈しみが用意されており、あなたの真理が天に立っている」(3節) 。4-5節では、主がダビデに約束した、「子孫を永遠に立て、王を代々備える」ということを詩編作者は人々に思いだすようにと喚起しているのかと思う。5節は「セラ」という休符の記号で閉じる。 16節から19節も、2節以降、連続的につながってきている賛美なのだと思う。 いかに幸いなことか、勝利することは、主の光の中を民が歩く(16節)。御名のゆえに絶えず、喜び踊り、恵みにあずかり、奮い立てる(17節)。 あなた自身が、わたしたちの力の輝きであり、あなたの御意志によって、私たちを強めてください(18節)。主が我等のたてとなってくださり、聖なる御方こそ、我等の王。 この89編を通して、主なる神は現代の私たちに何を語られているのだろうか?冒頭にも書いたが、89編は50節以上もある長い詩編だ。 そして、その全体の内容は、かならずしも、神を賛美したいことばかりではなく、むしろ、神に嘆いている部分、とくに後半には嘆きの言葉がたくさん詠われている。 この詩編が書かれた時代は、民が律法をまもらず、他国の王によって、バビロンに捕囚されてしまったりということが起こり、悔い改めながらも、いったいバビロンからの解放はいつ訪れるのかと、暗い気持ちでいる状況もあったのだろう。 しかし、そのような暗雲立ち込めるような状況にあっても、主が民をあきらめずに約束を守ってくださる主の慈しみ、憐れみを、褒め称える大切さがあるのかと思う。 それは、現代にあっても、国家間のひずみや、市民団体間の異なる意見、たとえば原子力の問題等、あるいは家庭内でも、さまざまな争いが耐えないのが実情なのかと思う。 しかし、そのような困難の中にあっても、聖書全体に約束された、神の愛、キリストの愛、をいただいていることを確信し、主を賛美する歩みが大切なのかと思う。 そして神の愛に気づくとき、喜び踊るような気持ちにもなってくる。私が平日に働いている教区の事務所では、水曜の午前11時半から礼拝がある。昨日は、復活ルーテルで日本語部の仕事をしていて、礼拝に行くことはできなかったが、午後に教区事務所に出向くと、同僚が、これから毎週礼拝後には皆でダンスをすることにしたという。 来週が楽しみだ。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は詩編69編を読むが、8節から19節に集中して読む。いつものように気になる言葉や節はなにか? 詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編69編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編 69編8-19節 8:わたしはあなたゆえに嘲られ/顔は屈辱に覆われています。 9:兄弟はわたしを失われた者とし/同じ母の子らはわたしを異邦人とします。 10:あなたの神殿に対する熱情が/わたしを食い尽くしているので/あなたを嘲る者の嘲りが/わたしの上にふりかかっています。 11:わたしが断食して泣けば/そうするからといって嘲られ 12:粗布を衣とすれば/それもわたしへの嘲りの歌になります。 13:町の門に座る人々はわたしを非難し/強い酒に酔う者らはわたしのことを歌います。 14:あなたに向かってわたしは祈ります。主よ、御旨にかなうときに/神よ、豊かな慈しみのゆえに/わたしに答えて確かな救いをお与えください。 15:泥沼にはまり込んだままにならないように/わたしを助け出してください。わたしを憎む者から/大水の深い底から助け出してください 16:奔流がわたしを押し流すことのないように/深い沼がわたしをひと呑みにしないように/井戸がわたしの上に口を閉ざさないように。 17:恵みと慈しみの主よ、わたしに答えてください/憐れみ深い主よ、御顔をわたしに向けてください。 18:あなたの僕に御顔を隠すことなく/苦しむわたしに急いで答えてください。 19:わたしの魂に近づき、贖い/敵から解放してください。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は17節にある、「恵みと慈しみの主よわたしに答えてください/憐れみ深い主よ、御顔をわたしに向けてください。」 詩編作者の立場を思って詩編69編を読んでいきたい。 1節には、例によって「ダビデの詩」とあるが、これはかならずしもダビデが詩編作者であると断定できるものではない。 原語のヘブル語では、「ダビデのための詩」と解釈することもできる。 ダビデ以降の時代の詩編作者がダビデが経験したのと同じような絶対絶命とも思われるような状況に遭遇して、ダビデのことを思い作詩したとも考えられる。 8節から10節は一見、主への文句とか愚痴ともとられてしまうような詩編作者のつぶやきを詠う。8節は、大胆な言葉だと思うが、あなた(主なる神)への(私の信仰)のために、私は嘲られ、侮辱されている。9節では、兄弟すらも私をだめ人間と見放し、外国人であるかのように扱う。10節では、主の神殿への思いが私の心を占めているがゆえに、主を嘲るものは、私も嘲る。 ちなみに10節前半の言葉は、ヨハネ2章で人々が神殿を商いの場所としてイエスが激怒した際、その17節でこの詩編箇所が引用されている。11-13 節も、いわば作者のおかれた悲惨な状況が続く。11節12節では信仰者のしきたりである、断食をしたり、粗布をまとうようなことをすると、ますます嘲りの対象となる。13節では、街頭でたむろし酒に酔っている者も、私を非難し、笑いものとしている。14節から18節までは、繰り返し嘆願の祈りに入っているが、まず、「御旨のかなうときに」という謙虚で、辛抱強い言葉を伴った上で、嘆願の連発となっていく。神は豊かな慈しみの方なのだから、私に答えてください。(14節後半) 泥沼にはまったままにしておかずに救い出してください 。(15節) まるで激しい水の流れが私を押し流したり、深い沼が私を飲み込んだりしないように、また深い水底にいるような私を助け出してください。(16節) あなたは恵みと慈しみに富む方ですから私に答えてください。憐れみ深い神様、私にその顔を向けてください。(17節) その御顔を私から隠すことなく、苦しんでいる私に急いで返答してください。(18節) わたしの魂に近づいてきて、敵、嘲る者たちから解放してください。(19節) この69編を通して、主なる神は現代の私たちに何を語られているのだろうか? この詩編作者の信仰から、大きな学びがあるように思う。キリスト教徒ではない友人が、25年くらい前になるが、私が家族で毎週教会に行っている事を知り、「自分の知るクリスチャンの人たちは、みな苦しい生活を強いられている。」と語った。彼はだから自分がクリスチャンにならないとかクリスチャンをばかにするという言動を私に語ったわけではないが、きっぱりと私との距離を置かれてしまった気がする。私のその時の気持ちは、詩編69編の作者が8-13節で詠っていることと、共通したような面があるように思う。キリスト信仰者であるがゆえに、孤立無援であるかのような状況に置かれたと思うことがある。しかし、恵みと慈しみに富み、そして憐れみ深い主なる神が、そのような状態を放置することはないという信仰を支えに祈り続けることは大切。主の思いにしたがって生かされ続けよう。上記に書いた友人からは数年後に、ある伝統的なキリスト教会での結婚式をするとのことで招待状が届き参列した。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は詩編8編を読む。この詩編は15日の日曜が三位一体主日であり、三位一体にちなんで与えられている詩編。じゃ、三位一体とは、「父」と「子」と「聖霊」が「一体(すべての創造主なる神)」という教えだが、父と子と聖霊が一体であることを知的に理解することは難しいように思う。それよりか、三位一体という言葉(英語ではトリニティという言葉)により、いかに創造主なる神が私たちの実生活に関わっておられるかを感じることが大切なことだと思う。そして、詩編8編が、それを感じるための助けになるように思う。 いつものように気になる言葉や節はなにか? 詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編8編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編 8編 1: 【指揮者によって。ギティトに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】 2:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます 3:幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。 4:あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。 5:そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。 6:神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ 7:御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。 8:羊も牛も、野の獣も 9:空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。 10:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は1節と10節に二回登場している。「あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。」 詩編作者の立場を思って詩編8編を読んでいきたい。 1節は合唱・演奏するにあたっての説明が書いてあるが、ギディトというのは、あるきまったメロディの名前だろう。2節の言葉、まず主への呼びかけがあり、全能の主が全宇宙にもこの地球上にも君臨してくださっている、と詠う。上記に書いたように、同じ言葉は最後の10節にも出てきて、この言葉により詩編8編をサンドイッチ構造にしている。サンドイッチの中身は2節の後半の「あなたの威光をたたえます。」という言葉から始まっている。3節にいきなり、幼子、乳飲み子たちの口(声)によって、神に刃向かう者から守る。と書かれている。この地球もさらに宇宙も、次世代、将来にわたって、健全であるように、神が働かれている。4節の言葉、詩編作者は夜空の星を眺め、神と全宇宙の関係について、さまざまな思いを巡らせたことだろう。5節は、とてつもない広い天、全宇宙にあって、この地に人間を創って、主が人間に心を留めてくださっている驚き。 いったい人間とは何者? 6-9節には、この地において、神が人類を信頼して任せていること。 それは、創世記1章26節にも書かれていたこと。そして10節、全能の主が全宇宙にもこの地球上にも君臨してくださっている、という意味の言葉を再び詠い、詩を閉じる。 この8編を通して、主なる神は私たちに何を語られているのだろうか? 私には、すべてを創造された御方が、人類登場の時から、時代を超えて、人類に深く関わってくださっていることを覚える。 そして、創造主が人類にこの地の生態系を治めるように任せておられる。 しかし、所詮人類も創造主が造られた存在で、人類は創造主の管理下にある。管理下という言葉を使ったが、創造主が人間たちを細かく、「あれをせよ、これをせよ。」と指図しているわけではない。その管理は、人類を信頼して、任せきっているような面がある。 創造主なる存在は、一見、子供たちをほったらかして自由奔放に育てるような父親のような面がある。しかし、本当にほったらかしているのではなく、父の愛を示すために真理なる子、救い主イエス、をこの地球に2000年前に人として登場させた。 さらに創造主の息・風・聖霊をずっと送り続けてくださって、激しく私たちの実生活の中に存在してくださっている。 その人類とダイナミックに関わる創造主の存在が、三位一体(トリニティ)という言葉から伝わってきて、喜んでいるのは私だけだろうか? アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は詩編33の1-11節を読もう。聖書日課によると5日から7日までは、12-22節を読むことになっているが、その箇所は昨年8月にも読んで、「詩編を読もう」に書いたので、敢えて詩編33編の前半を取り上げる。 今年の6月8日の日曜は、主の復活日4月20日を第一日目とすれば7週間後、50日目となり、聖霊降臨祭(ペンテコステ)となる。その10日前、つまり復活日から数えて40日目には、復活した主が天に昇って行かれた。主の昇天日から聖霊降臨日までの間は、弟子たちはどのような気持ちだったのだろうか?そんなことも考えながら、詩編33編に取り組まれたらどうだろうか? いつものように気になる言葉や節はなにか? 詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編33編1-11 節を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編33編 1: 主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。 2:琴を奏でて主に感謝をささげ/十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。 3:新しい歌を主に向かってうたい/美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。 4:主の御言葉は正しく/御業はすべて真実。 5:主は恵みの業と裁きを愛し/地は主の慈しみに満ちている。 6:御言葉によって天は造られ/主の口の息吹によって天の万象は造られた。 7:主は大海の水をせき止め/深淵の水を倉に納められた。 8:全地は主を畏れ/世界に住むものは皆、主におののく。 9:主が仰せになると、そのように成り/主が命じられると、そのように立つ。 10:主は国々の計らいを砕き/諸国の民の企てを挫かれる。 11:主の企てはとこしえに立ち/御心の計らいは代々に続く。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は11節の「御心の計らいは代々に続く。」 詩編作者の立場を思って詩編33編を読んでいきたい。 1節では、要は「喜んで主を賛美する讃美歌を詠おうよ」と礼拝に集まる人々に向かって呼びかけているようだ。 2節では琴に合わせて、つまり楽器にあわせて讃美の歌を歌おうと、さらなる呼びかけ。いわば詩編の讃美歌のお決まりのパターンではじまっている。そして、このお決まりのパターンではじまる詩編は、その後で、賛美する理由が詠われる。しかし、3節に入っても、まだ賛美する理由は詠われず、「新しい歌を」とか「美しい調べと共に」という言葉も出てきて、いつものお決まりのパターンではなく、新しく喜び叫ぶようにと呼びかける。そして、4節から11節は、すべて、主を賛美する理由が詠われていると言ってよいと思う。 敢えて一節一節は書き出さないが、7節に「大海の水をせきとめ」とあるように、特定の歴史的事件を詠う部分もあるが、4節「御業はすべて真実」とか、11節の「御心の計らいは代々続く。」と詠っているように、主の一環した正しさ、力強さを詠っている。 この33編1-11節を通して、主なる神は私たちに何を語られているのだろうか? 「新しい歌を」との呼びかけに応えて、私たちの礼拝でも新しい讃美歌を詠うことの大切さを感じる。 讃美歌21はそのような呼びかけの中で、編集されていった讃美歌集だと思う。 復活ルーテル教会でも、讃美歌21から、近年たくさん詠うようにしている。最初はちょっと歌いづらいと思うことはあっても、讃美歌21の歌詞は過去の讃美歌の言葉に比べて分かり易く、讃美歌21も美しい調べに満ちている。 また、私たち自身の体験、証を、詠うような賛美の詩を作って、それに美しい旋律をつけて歌うように、とも主なる神は呼びかけてくださっているように思う。 私たちが普段生活している中でも、たとえキリストの姿は見えなくても、実は神の働き、キリスト神の愛、聖霊の導きは時代を超えて存在している。そして、一環した主の計らいに気づかされて、感謝したい、賛美したい、喜びの叫びをあげたい、そういう気持ちを讃美歌にして歌うように呼びかけられているようだ。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今年の5月29日は「主の昇天日」に当たる。主の復活日4月20日を第一日目とし、7週間後、50日目の日曜、6月8日には、聖霊降臨祭(ペンテコステ)を祝う。その10日前、つまり復活日から数えて40日目、今年は5月29日になるが、主の昇天日とされる。復活のイエスが天に昇られた日とされている。 その時の様子は使徒言行録の1章1節から11節に記述されている。 毎年、主の昇天日に与えられる詩編は47編で、旧約時代に詠われ始めた詩編なのに、主の昇天があたかも預言されたような描写もある。 興味ある方は、詩編47編も読まれるのも良い。また47編については、昨年の主の昇天日であった5月9日に読み、記述してあるので、「詩編を読もう」を毎週集めてくださっている方は、去年の5月9日に遡って読んでいただくのも良いと思う。(ウェブサイトでも、過去の「詩編を読もう」を読むことができる。) さて、今週は、聖書日課では主の昇天日の翌日と翌々日に与えられている詩編箇所93編を読む。 いつものように気になる言葉や節はなにか? 詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編93編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編93編 1:主こそ王。威厳を衣とし/力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。 2:御座はいにしえより固く据えられ/あなたはとこしえの昔からいます。 3:主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる。 4:大水のとどろく声よりも力強く/海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。 5:主よ、あなたの定めは確かであり/あなたの神殿に尊厳はふさわしい。日の続く限り。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は1節に描写された「世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。」 詩編作者の立場を思って詩編93編のことを考え、解説も加えたいみたい。 詩編93編は、全部で150編ある詩編の中で、7編存在する(47 編、93編、95編から99編) 「即位の詩編」と呼ばれる。 即位の詩編とは、詩編が作られた時代のユダヤ教国家は君主制。代々君主が即位し、宗教的にも政治的にも国家を統治しようとした。 しかし、実際問題は、さまざまな問題に遭遇する。 そのような、荒波の中でも、新たに王が即位し、その戴冠式のような事が行なわれる時に、即位の詩編が詠われる必要があったのかと想像する。戴冠式に合わせて詩編作者も93編を作詞したのかと思う。 93編に詠われている内容は、国王の座に着くものが、主なる神を顕す存在。1節では、人間的な要素ではなく、絶対的な主なる神の力、威厳を持つ者と詠う。また統治される世界も固く据えられ、揺らがない。2節には、主なる神が時を越えて昔から存在していたのだと。3節―4節では様々な荒波も起こるが、それらの荒波よりさらに強く、また高い主の存在。5節では主なる神が定め、即位する王が、確かな存在であり、日の続く限り(王が生きている限りという意味かと思う)この神殿にふさわしく即位が続く。 21世紀に生きる私たちに、絶対的な創造主である方は、聖書に記述された詩編93編を通して何を語ろうとされているのだろうか? 日本やアメリカに生活している市民にとって、共和制(人民が統治上の最高権威を持つ政治体制)であるため、君主制のことはあまりピンとこないかもしれない。しかし、この21世紀にあっても、先進国、発展途上国を問わず、多くの君主制をとっている国が存在することを忘れるべきではないと思う。思いつく国をいくつか挙げるとすれば、スウェーデン、ノルウェー、タイ、モロッコ。。。。 そして、この93編をよく読むとき、君主制とか共和制とかの政治体制を超えた、絶対的な創造の神の力強さを私は感じる。 「世界は固く据えられ、揺らぐことがない。」と詠われた言葉には、「えっと」少々疑問を持つ方も多いかもしれない。日本は憲法改正の問題、アメリカは先週また起きた射殺事件、などぐらぐら揺れている。地球という単位で、気候は不安定であり、しょっちゅう地震は起こる。宇宙から見れば、地球はものすごいスピードで太陽の周りを回っているし、太陽系自体も動いており、宇宙自体は膨張しているらしい。 しかし、世界は固く据えられ、揺らぐことがない、という言葉には、説得力を感じる。 昇天されたイエス、主なる神は、私たちの考えたり見たりすることができる次元を超えた、揺らぐことのない確固たる愛を基盤にされていることが、詩編93編の言葉と、イエスの生涯から伝わってくる。 アーメン 安達均 後述:上記に触れた、先週土曜の夜、サンタバーバラ大学での連続射殺事件の犠牲者たち、家族、友人等を思い、創造主なる神の癒しと慰めを祈る。 銃規制の話題もまた再燃するかと思うが、その本質的な問題は、今の日本国憲法改正問題とも共通した要素があるように感じる。 主なる神、イエスも、私たちの間に立って、これらの問題に遭遇されていることを覚え、主の導きを祈る。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は66編の8-20節を読む。いつものように気になる言葉や節はなにか? 詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編66編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編66編 8: 諸国の民よ、我らの神を祝し/賛美の歌声を響かせよ。 9:神は我らの魂に命を得させてくださる。我らの足がよろめくのを許されない。 10:神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。 11:あなたは我らを網に追い込み/我らの腰に枷をはめ 12:人が我らを駆り立てることを許された。我らは火の中、水の中を通ったが/あなたは我らを導き出して/豊かな所に置かれた。 13:わたしは献げ物を携えて神殿に入り/満願の献げ物をささげます。 14:わたしが苦難の中で唇を開き/この口をもって誓ったように 15:肥えた獣をささげ、香りと共に雄羊を/雄山羊と共に雄牛を焼き尽くしてささげます。〔セラ 16:神を畏れる人は皆、聞くがよい/わたしに成し遂げてくださったことを物語ろう。 17:神に向かってわたしの口は声をあげ/わたしは舌をもってあがめます。 18:わたしが心に悪事を見ているなら/主は聞いてくださらないでしょう。 19:しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け/聞き入れてくださいました。 20:神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく/慈しみを拒まれませんでした。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、16 節の言葉が一番気になっている。特に詩編作者が「わたしに成し遂げてくださったことを物語ろう」と詠っていること。 詩編作者の立場を思って詩編66編の8節よりよく読んでいきたい。 「賛美の歌を響かせよ」と書いてあるところから、この詩編は、神を讃える賛美の歌。それは自分だけが賛美するのではなく、諸国の民に、神を賛美するように、呼びかける賛美歌。 9節では、詩編によく出てきているが、神を讃える理由を詠う。その理由とは、「神は私たちに魂を得させ、またよろめかないようにしてくださっている。」 10節から12節のはじめは、厳しいことが詠われている。詩編作者自身もそして人類全体でみても、銀を火でねるようなすさまじい体験や、がんじがらめにされてしまうような、あるいはある国の人々が、私たちを完全に弾圧してしまうような経験もした。しかし、神が私たちを豊かな所に置いてくださっている。 13節から15節は、その神の恵みの豊かさに応じて、最高の捧げ者を神殿に奉ずる。それは困難の中にあった時に、肥えた動物や雄山羊や雄羊を捧げますから助けてくださいと神に約束したこともあったのだろう。その約束通りに、捧げますと詠う。16節は、さまざまな困難な体験をする中で、神を畏れるものは、神が私にしてくださって来たことが何だったのかをよく聴くようにと詠う。17-18節は、私は真剣に神に向かって、私の口と舌を使って、神を賛美します。心が別のところにあって真剣さに欠ける賛美では、神は聞いてくださらないだろうから。 19-20節は、神は私の祈る声に耳を傾け聴いてくださった。 だから神を賛美しよう。神は私たちの祈りをけっして退けることなく、徹底的に神の愛を与え続けてくださっていると詠ってこの詩編は終わる。 この詩編を通して、主なる神は、私たちに何を語りかけておられるのだろうか? 詩編66編8節から20節は、来る日曜日の福音書個所、ヨハネ14章15節から21節とともに与えられている詩編箇所。 ヨハネ福音書で、明日イエスは十字架に架けられてしまうという状況の中で、「わたしは、あなたがたを見放さない。」と、また、「あなたがたが私のうちにおり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」と語っておられた。 詩編66編の10節から11節に表現されていたような、ひどい体験、困難、苦しみをあじわってしまうような人生があろうが、決して私たちを見放さない主なる神、主イエスキリストがおられるということを、ぜひ覚えておきたい。 困難や苦しみのなかにあっても、実は、その真っ只中に、聖霊なる主が存在してくださっている。 話はちょっと飛躍するが、昨晩は、女性宇宙飛行士である山崎直子さんのご主人、山崎大地さんに会って話をする機会に恵まれた。いろいろな話をされていたが、「ここだって宇宙なんですよ。」という言葉を改めて聴いた。(改めてというのは、私の長男も数年前は宇宙工学を専攻し、同じことを話していた。) この言葉、今、いろいろなごたごたが起こってしまうこの地球上はすばらしい宇宙空間の一部であり、この詩編66編で詠われているような、さまざまな困難の中でも神がわたしたちを豊かな慈しみの中に置いてくださるという事と同じ事に思えてくる。 さまざまな問題を抱える人類だが、徹底的にその人類を愛してくださっている神の中に置かれている。この事を人々に物語ろう。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は102編の18節までを読む。いつものように気になる言葉や節はなにか? 詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編102編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編102編 1:【祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩。】 2:主よ、わたしの祈りを聞いてください。この叫びがあなたに届きますように。 3:苦難がわたしを襲う日に/御顔を隠すことなく、御耳を向け/あなたを呼ぶとき、急いで答えてください。 4:わたしの生涯は煙となって消え去る。骨は炉のように焼ける。 5:打ちひしがれた心は、草のように乾く。わたしはパンを食べることすら忘れた。 6:わたしは呻き/骨は肉にすがりつき 7:荒れ野のみみずく/廃虚のふくろうのようになった。 8:屋根の上にひとりいる鳥のように/わたしは目覚めている。 9:敵は絶えることなくわたしを辱め/嘲る者はわたしによって誓う。 10:わたしはパンに代えて灰を食べ/飲み物には涙を混ぜた。 11:あなたは怒り、憤り/わたしを持ち上げて投げ出された。 12:わたしの生涯は移ろう影/草のように枯れて行く。 13:主よ/あなたはとこしえの王座についておられます。御名は代々にわたって唱えられます。 14:どうか、立ち上がって/シオンを憐れんでください。恵みのとき、定められたときが来ました。 15:あなたの僕らは、シオンの石をどれほど望み/塵をすら、どれほど慕うことでしょう。 16:国々は主の御名を恐れ/地上の王は皆、その栄光におののくでしょう。 17:主はまことにシオンを再建し/栄光のうちに顕現されます。 18: 主はすべてを喪失した者の祈りを顧み/その祈りを侮られませんでした。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、あまりにも詩的というか(詩編なので当たり前なのかもしれないが)、趣のある表現が多いと感じ、挙げかねている。しかし、ひとつ挙げるとすると、18節の、「主はすべてを喪失した者の祈りを顧み/その祈りを侮られませんでした。」を挙げたい。結局、あまり趣のある表現ではないが、とても元気づけられる。 詩編作者の立場を思って詩編102編を読む時、まず1節にあるように、詩編作者自身が心くじけてしまった経験を持つ中で(あるいはそのような人の立場を思いつつ)、この詩を書いたように思う。 2-3節では、主なる神に、私の祈りが聞かれるようにと訴え、すぐに答えてくださいと叫んでいるような強い語気で詩編ははじまる。4-12節では、心くじけた者のどうしようもない状態をぐちをならべるような感覚で詠っている。しかし、それらのぐちが、上記にも書いたが、とても詩的で趣がある。「生涯は煙となって消え去る。」「骨は炉のように溶ける。」(4節)、「心は、草のように乾く。」(5節)、「骨は肉にすがりつき」(6節)、「廃墟のふくろう」(7節)、「屋根の上にいる鳥」(8節)、「パンに代えて灰を食べ、飲み物に涙を混ぜた。」(10節)、「生涯はうつろう影、草のように枯れて行く。」とづらづらと続く。 13 節以降は様相は一変し、主を賛美する言葉に変わっていく。これらの言葉は紀元前6世紀にエルサレムが破壊されてしまった後の時代に書かれたと思われるが、主なるあなたが、永遠に王座についており、代々にわたって、主の御名が唱えられる。(13節) とはじまり、破壊されてしまったシオン(エルサレム)を憐れんで、新たな恵みの時を宣言する。 主に従う民が、廃墟になったシオンでも、どれほどにシオンの石を、いや塵ですら慕っていることか。(15 節) 国々も王たちも、主の栄光をどれだけ畏れるか。(16節) 主がシオンを再建し、栄光の中で顕われる。(17節) そして、主はすべてを喪失した者の祈りを顧みて、決してその祈りを侮るようなことはない。(18節) この詩編を通して、主なる神は、私たちに何を語りかけておられるのだろうか? 私の場合は、先週末に天に召された兄弟のこと、未亡人となられた姉妹。また昨年召された方とその未亡人。逆に昨年召された姉妹と寡夫(ヤモメ)となられた兄弟等のことを思っている。また数々の離婚された方々のこともいっしょに覚えている。この詩編では、住んでいた都が陥落してしまったときの人々と主なる神の関係を詠っていたのかと思うが、夫婦として築いてきた都というか二人の城、結婚関係は、たとえ離婚しなかった夫婦でもいつかはどちらかが天に召され、その都がばらばらと崩れていくような、そして、心くじける時がくるのが避けられない。 しかし、そこで、主に素直に語りかけて祈るとき、その祈りを決して侮ることなく、必ず顧みてくださる方がおられる。早くも4週間が過ぎようとしている復活節にあって、十字架の死によって死をも滅ぼされる主イエスに、祈ることの大切さ、そして祈りが強さに変わっていくことを確信する。アーメン 安達 均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace