Archive for the ‘詩編を読もう’ Category

Tweet 復活祭が終わって、第三週目に入っている。今週は23編を読む。いつものように気になる言葉や節はなにか? 次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編23編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 復活節の第四主日(今年は5月11日)には毎年、ヨハネ福音書10章からイエスが羊飼いと羊の関係について話している箇所が読まれる。詩編23編を読み、ヨハネ10章を読むのもとても良い。    詩編 23編 1:【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 2:主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 3:魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 4:死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。 5:わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。 6:命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、「主は羊飼い」という言葉。詩編23編はこれまでも何度も読む機会があったが、今日は、特に「主は羊飼い」という言葉が際立っており、そして、主イエスが「私は良い羊飼い」(ヨハネ10章11節)と語られていたことを思い出す。  詩編作者の立場を思って詩編23編を読む時、まず作者はだれなのだろうかと考える。「ダビデの詩」となっているので、ダビデが作者なのかとも思うが、後世の作詞者がダビデのことを思いつつ、この詩編を作ったようにも思える。いずれにしろ、詩編作者は、遊牧民のことを身近に見ていたのだろう。 そして、自分の置かれた状況を、羊にたとえ、この詩編23編を作ったのかと思う。 初めの一節は、いきなり、主なる神が羊飼いであり、その羊飼いのおかげで一切私には不足しているものは無いと詠う。 主は食べ物や飲み物のあるところに導いてくださり(2節)、たとえ疲労困憊のようなことになっていても、魂を生き返らせ、主と呼ばれる方の通り、主の正しい道を歩ませてくださる。(3節) 羊飼いが鞭や杖をもって導いてくださるおかげで羊たちが危険な道をも通っていける。それと同じように、主が共にいてくださるおかげで、私たちの歩む道が死に瀕するような危険を伴う道であろうが、私も力づけられ歩むことができる。(4節)  私を苦しめる状況があったとしても、食卓を整え、頭に香油を注ぎ、杯を満たしてくださる。(5節) この世の命のある限り、恵みと慈しみが伴ってくださり、さらにこの世の命が終わろうが主の家に戻り、永遠という単位で、私は主の恵みと慈しみの中にとどまることができる。(6節) この詩編を通して、主なる神は何を語りかけておられるのだろうか? 長年、復活ルーテル教会に奉仕され、また時々、教区事務所の庭の手入れもしてくださっていた兄弟がいる。 10数年前にがんをわずらったが回復し、新たな10年ほどの期間が与えられていた。 一年少し前から異なるがんをわずらい、治療をされていた。 しかし、もうこれ以上の治療をできない状態となり、自宅で安静にされていることを思いつつ、この「詩編を読もう」を書いている。 主は自ら “良い羊飼い” と話し、普通の羊飼いとは異なる。死にて葬られても復活なさる主なる神イエスキリストは、私たちにも復活の命をくださっていて、永遠という単位で、その兄弟を恵みと慈しみの中においてくださる。良い羊飼いなる主イエスが永遠にあなたと共にいてくださる。アーメン 安達 均  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 復活祭が終わって、第二週目に入っている。今週は134編を読む。3節しかないので、すぐ読めてしまう。 何度も読んで、いつものように気になる言葉や節はなにか? 詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編134編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。  詩編/ 134編 1:【都に上る歌。】主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。夜ごと、主の家にとどまる人々よ 2:聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ。 3:天地を造られた主が/シオンからあなたを祝福してくださるように。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、「聖所に向かって手を上げ」という言葉。イスラム教の方々が、一日5回お祈りをして、そのたびごとに、メッカに向かって手を上げ、ひれ伏し祈る様子を思い浮かべている。  詩編作者の立場を思い、この詩編を読む時、134編は120編からずっと続いていた「都に上る歌」の詩編集の最後になっていることに気づかされた。エルサレム(シオン)に向かう巡礼の旅を続ける人々に、1節で、夜ごとにも集まって、主をたたえるようにと呼びかける。 2節では、言葉通り、聖なる所に向かって、手を上げて、主をたたえるように。3節では天地を創造された主は、(遠く離れたシオンから、また、旅の途中でどこにいても、祈りに答えて)祝福してくださるように、という祈りの言葉で、詩編134編が、また「都に上る歌」の詩編集が終わる。  この詩編を通して、天地を創造された主が、私たちに何を語りかけておられるのだろうか? 私は今週火曜から4日の日曜まで、パシフィカ教区の総会があって、ハワイのホノルルに来ている。パシフィカ教区はオレンジ郡からメキシコとの国境までと、ハワイ州が教区に含まれる。総会は一年に一回行われるが、7年に一回は、ハワイで総会が行われることが決まっている。2014年は、たまたまその年にあたり、牧師たちと各教会の信徒の代表者たちが集まって、礼拝の時、バイブルスタディの時、財務報告や来年度予算の承認などもある。ハワイ滞在中に「都に上る歌」の詩編集の最後を読んでいることで、いろいろなことを考えさせられる。以下に記しておきたい。 普段生活をしている場所から遠く離れて、特に太平洋の真ん中のようなところにいようが、聖所に向かって真剣に祈るようにと呼びかけられているように思う。聖所とは、決して地理的にどこどこに向かうということではなく、心を、すべてを造られた、つまりこの地球も、太平洋も、ハワイの島々をも創造された主に向けること。 そして、全知全能の主をたたえることの大切さを、主ご自身がよびかけてくださっているように感じる。 わたしは、たしかに自宅を離れて旅行中だが、考えてみると、この地球という場所に、すべての人々が生まれ、旅をしており、この地球に生まれた全員が、いつかはその旅を終えて、天の家に戻るという時がくるということも、主が語られているように思う。 復活ルーテル教会では、英語部の方で先週金曜に天に召された方がおり、10日にメモリアルサービスが予定されている。そして、日本語部の皆さんの中にも、体がとても弱ってきておられる方々が何人かいる。しかし、体が弱っていようが、すべてを造られた主なる神が、祝福を下さり、この地球上での旅をおえようが、復活節にあって、永遠という単位で、復活の主、救い主イエスとの関係が続くことを覚える。アーメン 安達 均  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 復活祭は日曜に終わった。しかし、キリスト教の暦では、復活節は7週間続く。復活節の最初の週に、詩編114編を読む。とても短いので、最低三回は読んでみよう。そしていつものように、一回目は気になる言葉や節はなにか? 二回目は、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして三回目は、神はこの詩編114編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。  詩編 114編 1: イスラエルはエジプトを/ヤコブの家は異なる言葉の民のもとを去り 2:ユダは神の聖なるもの/イスラエルは神が治められるものとなった。 3:海は見て、逃げ去った。ヨルダンの流れは退いた。 4:山々は雄羊のように/丘は群れの羊のように踊った。 5:どうしたのか、海よ、逃げ去るとは/ヨルダンの流れよ、退くとは 6:山々よ、雄羊のように/丘よ、群れの羊のように踊るとは。 7:地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に/ヤコブの神の御前に 8:岩を水のみなぎるところとし/硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、「イスラエルはエジプトを(出る)」という言葉がキーワードに思える。この詩編の中でも大きなきっかけが「出エジプト」という出来事だが、出エジプトは、すべてのイスラエルの民にとって、最大の出来事であり、またこの出来事は、人類全体にとっての最大の出来事、イエスキリストの復活と直接関係してきているようにも思える。この復活については、また後述したい。  詩編作者の立場を思い、この詩編を読み返すとき、1節から4節は、歴史的事実を詠っている。 1節で、イスラエルの民が奴隷であったエジプトの地を離れるということは、ヤコブの子孫たち12部族が、ヘブル語ではない言語が標準語であるエジプトの民のもとを去ること。2節は「ユダは神の聖なるもの(となる)」と詠い、さらに「イスラエルは神が治められるものとなった。」と詠っているが、ユダとは十二部族のなかで、後にユダ国(南王国)となるユダ族とベニアミン族のことを指しているのではないだろうか。そして、2節で使ったイスラエルという言葉は、他の10部族で後にイスラエル国(北王国)となる、つまり、ルベン、シメオン、エフライム、マナセ、イッサカル、セブルン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル族のことを指しているように思える。ちなみに、このイスラエル国(北王国)はのちに、滅亡してしまうことになるが、その滅亡という言葉は使わずに、「神が治められるものとなる。」という言葉で詠っているように感じる。 そして、3節4節で、出エジプト後どのようなことが起こったかを振り返っている。「海は見て、逃げ去った。」は民が紅海を渡るときに、海の水がせきとめられて、海の底を歩いて渡ることができたこと。(出エジプト記14章)「ヨルダンの流れは退いた。」は出エジプト後、約40年の歳月を経たのち、カナンの地への定住前に、ヨルダン川を渡るときに、今度は川の水がせきとめられて、川の底を歩いて渡ることができたこと。(ヨシュア記3章)そして「山々は雄羊のように/丘は群れの羊のように踊った。」とは、モーセがシナイ山に入り、神の言葉を預かったのち、山を降りてきて、民に会う前、山全体が激しく震えた(出エジプト19章18節)の時のことを詠っているように思える。 そして5節6節では、それらの出来事を自問自答すると共に、礼拝などで、この詩編を詠うものたち自らが、このような質問を自分自身ですることで、神の偉大さに気づかされるようになるのかと思う。 7節8節では、その神の偉大さにお任せするしかない民の現実を詠っているような詩編なのだと思う。 この詩編を通して、神が私たちに何を語りかけておられるのだろうか? 特に日曜日に復活祭を祝ったのちに、この114編を読んでいることは神からの大きな語りかけがあるように感じる。 紀元前1200年ごろ、エジプトで奴隷であったイスラエルの民は、奴隷時代を終え、エジプトから脱出した。 出エジプトは確かに起こった。しかし、まちかまえていたのは、どうやって紅海やヨルダン川を渡るかにしろ、あるいは信仰心は薄れ、内部分裂のような問題が起こるにしろ、さまざまな困難が迫ってきていた。 私たちの現代の人生の歩み、あるいは、人類全体の歩みを見ても、イエスキリストの復活は2000年前に起こった、あるいは、イエスの復活祭を日曜に祝ったといっても、私たちは多くの困難をかかえながら個人個人が人生を歩み、人類全体もたいへんな困難を前にして生きている。たとえば、原子力の問題を取り上げてみても、ある意味、現代の人類が手に負えないような問題を抱え込んでいるように感じる。 だからこそ、その困難の中に、生きておられる主なるイエスへの祈り、賛美、そして、御言葉を聴く中で、新たな道が開かれることを確信して、歩む人類でありたい。 アーメン 安達 均  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 聖週間、Holy Week、を迎えている。今年の4月17日は、聖木曜日、洗足の木曜日、Maundy Thursday等の呼び方があるが、復活祭前の特別な木曜日にあたる。キリスト教では、この聖木曜日からの三日間を特に尊重して、特別な典礼や礼拝が行なわれてきた。今週は詩編116編1-2節および12-19節を読むが、イエスが十字架に架かる前の日を覚えるにあたってふさわしい箇所だと思う。いつものように、なるべく3回は読んでみてはどうだろうか。そして一回目は気になる言葉や節はなにか? 二回目は、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして三回目は、神はこの詩編116編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。  詩編116編 1:わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き 2:わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。 12:主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。 13:救いの杯を上げて主の御名を呼び 14:満願の献げ物を主にささげよう/主の民すべての見守る前で。 15:主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。 16:どうか主よ、わたしの縄目を解いてください。わたしはあなたの僕。わたしはあなたの僕、母もあなたに仕える者。 17:あなたに感謝のいけにえをささげよう/主の御名を呼び 18:主に満願の献げ物をささげよう/主の民すべての見守る前で 19:主の家の庭で、エルサレムのただ中で。ハレルヤ。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、「生涯、わたしは主を呼ぼう。」 という言葉。 116編全体からわかることは、詩編作者はあきらかに晩年を迎えている。病なのか老衰なのか死を前にしていても、「生涯、わたしは主を呼ぼう。」と詠い、主の名呼んで、祈り、主との関係を続ける姿勢に、死を前にした詩編作者から見習うことは大きい。そして、どんな人生の途上にあろうが、主にある大きな希望を頂ける。  詩編作者の立場を思い、この詩編を読み返すとき、死を直前にして、会衆に祈りの大切さを教え、また、最高の捧げ物を神殿に奉献しようとしている詩編作者の様子が浮かんでくる。 12節では、詩編作者の生きてきた道のりで、いかに主が報いてきてくださったか、そしてその報いにどう答えようかと詠う。日本語の「報い」という言葉は微妙だが、英語(New Revised Standard Version)の詩編では 報いのところは、“bounty”という言葉が使われていて、いかに主が、恵み、賜物を与えてくださってきたかという意味になっている。13-14節では、神殿に集まる多くの民の前で、主が救ってくださったことを覚え杯を上げ、賛美し、満願の捧げ物を奉献することにしようと詠う。15節では、主に祈って、主との関係を保ち、主の慈しみに生きる人生はどんなにすばらしいか、そして死は主の目にどんなに大切なことかと、教えるように詠っている。16節には、「縄目」という言葉が出てくるが、死に際して、なにかの痛みを感じていたのかとも思われる。要は、どんな人生においても、さまざまな束縛を経験するのが実際で、そのような縛りから解放されるように主に祈ろう。そして、詩編作者自身も、その母親も主に仕える信仰者であることを主に呼びかけて、束縛から解放されるように祈ろうと詠う。 17-18節は、ほとんど13-14節の繰り返しだが、17節では、「感謝の捧げ物をささげよう」という言葉が13節の「救いの杯を上げて」という言葉に代わって詠われている。詩の後半に来て、より「捧げる」という気持ちが強くなってきているように思う。 そして、19節では、「主の家の庭で、エルサレムのただ中で。ハレルヤ。」と詠うが、場所はエルサレムの神殿に多くの会衆が集まっているところを想像しつつ、詩編作者の思いを詠う詩が終わる。 この詩編を通して、神が私たちに何を語りかけておられるのだろうか? この詩編、聖金曜日にイエスキリストが十字架に架かるという時を思いながら読む時、「主の家の庭で、エルサレムのただ中で」という場所が、イエスが十字架に架かった、ゴルゴタの丘に一変してくるように感じる。 そして、最高の捧げ物は、イエスご自身に思えてくる。 私たちの罪、至らなさゆえに、主イエスキリストが自ら捧げ物になってくださっていた事実を新たに思い起こさせる詩編116編だと思う。そこまで私個人も、私たち人類全体を愛してくださっている、主なる神、イエスキリスト、十字架に架かられたイエスを見上げるとき、私たち人類はどうそれに応えるかを、神がわたしたちに問いかけておられるように思う。今年の聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日・復活祭が、お一人お一人にとって大きな意味を持って来ますように。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 四旬節も終盤で、13日からは四旬節の最終週、「聖週間(あるいは受難週とも呼ぶ)」英語では、”Holy Week”に入る。私自身、教区の仕事も担当する中で、一昨日はOrange Coast Memorial、Fountain Valley Regional、そしてSaddleback Hospitalと、三つの病院にそれぞれ入院された3人の兄弟姉妹を訪問した。イエスが十字架に架かられる週を前に、肉体的にも精神的にも厳しい状況にある兄弟姉妹とともに、私自身も厳しい境遇に置かれていることも覚える。そのような境遇で、今週は詩編36編を読む。聖週間を迎える時にあって、ふさわしい詩編が与えられていると思う。いつものように、なるべく3回は読んでみてはどうだろうか。そして一回目は気になる言葉や節はなにか? 二回目は、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして三回目は、神はこの詩編143編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。  詩編36編 1: 【指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩。】 2:神に逆らう者に罪が語りかけるのが/わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない。 3:自分の目に自分を偽っているから/自分の悪を認めることも/それを憎むこともできない。 4:彼の口が語ることは悪事、欺き。決して目覚めようとも、善を行おうともしない。 5:床の上でも悪事を謀り/常にその身を不正な道に置き/悪を退けようとしない。 6:主よ、あなたの慈しみは天に/あなたの真実は大空に満ちている。 7:恵みの御業は神の山々のよう/あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる。 8:神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ 9:あなたの家に滴る恵みに潤い/あなたの甘美な流れに渇きを癒す。 10:命の泉はあなたにあり/あなたの光に、わたしたちは光を見る。 11:あなたを知る人の上に/慈しみが常にありますように。心のまっすぐな人の上に/恵みの御業が常にありますように。 12:神に逆らう者の手が/わたしを追い立てることを許さず/驕る者の足が/わたしに迫ることを許さないでください。 13:悪事を働く者は必ず倒れる。彼らは打ち倒され/再び立ち上がることはない。 どんなことに思いを巡らせておられるだろうか? 私にとって気になる言葉としては、7節にある、「あなたは人をも獣をも救われる。」と書いてあり、ひときわ目立つ言葉に見えてくる。この件については、後述したい。 詩編作者の立場を思い、この詩編を読み返すとき、はっきりとした段落が三つあって、それぞれの段落は以下のようなことが要点かと思う。2節から5節は、詩編作者にとって神に逆らうような悪しき者について、これでもかとばかりに、きつい言葉を並べている。「神に逆らう-罪-神を恐れはない-自分を偽り-自分の悪を認めない-悪事-欺き-善を行わない-床の上でも悪事を謀り-身を不正な道に置き/悪を退けない。」 6節以降、10節まではガラリと様相が変わり、美しい主の賛美となる。あまりにも輝かしく、そのままの言葉で再度書きたい。「主よ、あなたの慈しみは天に/あなたの真実は大空に満ちている。恵みの御業は神の山々のよう/あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる。神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ 、あなたの家に滴る恵みに潤い/あなたの甘美な流れに渇きを癒す。」 そして、11節から13節では、悪しき者と主に従う者についてそれぞれ主への願いが詠われている。 この詩編を通して、神が私たちに何を語りかけておられるか、私が思いを巡らせたことをシェアしたい。 この詩編は、一見、神に背くような悪しき者の滅亡と主に従う者への祝福が詠われているような気もする。しかし、本当にそうなのだろうか? 冒頭にも書いた「人をも獣をも救われる」という言葉が輝いており、私の頭の中に響き続けている。 私たち人間は、神に背いて生活している人々と、神に従順な人々とに分けるようなことはできないと思う。 いやむしろ、全員が神を忘れ、背いて生きてしまう要素がある。 しかし、主なる神は、人をも獣をも救われると、この詩編作者が詠ったように、人間の中にある獣的な要素も含めて救ってくださるように感じる。 人間の自分勝手な思いがあるにもかかわらず、主なる神は、神ご自身が創造されたものすべてを救おうとなさっている。 主イエスが、私たちの罪のゆえに十字架に架かって、すべての民を救われたということは、私たちの認識している罪、あるいは自分では罪だなんて思っていない罪も含めて、十字架に磔(はりつけ)となり、私たちをしっかり神の方に向く者へと生まれ変えさせてくださっている。それは一年に一回イースターの時に起こるのではなく、毎週金曜から日曜の週末に起こっているのだろう。 アーメン。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 四旬節もあと二週間余り。十字架に向かわれる主なるイエスを覚える中で、ご自身がさまざまな苦しい思いを経験されている兄弟姉妹も多いのではないかと思う。そのような境遇で、今週は詩編143編を読む。やはり四旬節にふさわしい詩編だと思う。いつものように、なるべく3回は読んでみてはどうだろうか。そして一回目は気になる言葉や節はなにか? 二回目は、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして三回目は、神はこの詩編143編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。  詩編143編 1:【賛歌。ダビデの詩。】主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。あなたのまこと、恵みの御業によって/わたしに答えてください。 2:あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は/命あるものの中にはいません。 3:敵はわたしの魂に追い迫り/わたしの命を地に踏みにじり/とこしえの死者と共に/闇に閉ざされた国に住まわせようとします。 4:わたしの霊はなえ果て/心は胸の中で挫けます。 5:わたしはいにしえの日々を思い起こし/あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し/御手の業を思いめぐらします。 6:あなたに向かって両手を広げ/渇いた大地のようなわたしの魂を/あなたに向けます。〔セラ 7:主よ、早く答えてください/わたしの霊は絶え入りそうです。御顔をわたしに隠さないでください。わたしはさながら墓穴に下る者です。 8:朝にはどうか、聞かせてください/あなたの慈しみについて。あなたにわたしは依り頼みます。行くべき道を教えてください/あなたに、わたしの魂は憧れているのです。 9:主よ、敵からわたしを助け出してください。御もとにわたしは隠れます。 10:御旨を行うすべを教えてください。あなたはわたしの神。恵み深いあなたの霊によって/安らかな地に導いてください。 11:主よ、御名のゆえに、わたしに命を得させ/恵みの御業によって/わたしの魂を災いから引き出してください。 12:あなたの慈しみのゆえに、敵を絶やしてください。わたしの魂を苦しめる者を/ことごとく滅ぼしてください。わたしはあなたの僕なのですから。 気になる言葉としては、2節にある、「御前に正しいと認められる者は/命あるものの中にはいません。」 150編ある詩編の中で、7つの詩編は「悔い改めの訓練」のための詩編と言われている。今日読む143編もその一つ。 しかし、詩編作者の立場を思い、この詩編143編全体を読み返すと、あまり「悔い改め」っぽくはない、切実に訴える祈りのような面も見えてくる。2節の最後では自分も含めて、御前に正しい者はいないと詠うが、1節と2節前半部分だけで、「祈りをお聞きください。」「耳を傾けてください。」「わたしに答えてください。」「あなたの僕を裁きにかけないでください。」と願い(要求)を4回も繰り返している。そこには、ダビデの切羽詰った状況を詩編作者は詠っているようだ。3節は苦情の様でもあり、4節で自分がいかに落ち込んでいるかを短く詠う。5-6節では、詩編によくあるパターンだが、過去に主なる神がしてくださった救いの御業を思い返し、このような状況にあっても、希望を抱けることを詠う。7節から12節では、主を信頼している言葉をちりばめながら、「ください」という言葉が10回出てきており、願い(要求)を再び繰り返している。  この詩編を通して、神が私たちに何を語りかけておられるかを考えてみたい。12節からなる詩編の中に、14回も「ください」という願いの言葉が繰り返されていることがわかったが、2節後半の、正しいものはひとりもおらず自分もその一人であることを告白することの大切さとともに、10節にある「御旨を行なうすべを教えてください。」という願いが、とくに際立ってくる。自分の思いは正しくないかもしれない、だから、主なる神の御心が成るように、そして自分もそれに従うようにと祈ることの大切さを覚える。 四旬節にあって143編を読む時、イエスキリストが十字架に架かる前の夜、最後の晩餐の後、ゲッセマネで祈られた祈りを思い出す。 短いので、マタイ26章の言葉を記載したい。 「父よ、できることならこの杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに。」 アーメン。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 四旬節に入って、三週間が過ぎた。主なるお方、救い主イエスキリストに向いて日々の生活を歩むことができるように祈る。今週は詩編81編を読む。やはり四旬節にふさわしい詩編だと思う。少々長いが、なるべく3回は読んでみてはどうだろうか。そして一回目は気になる言葉や節はなにか? 二回目は、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして三回目は、神はこの詩編81編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。  詩編81編 1:【指揮者によって。ギティトに合わせて。アサフの詩。】 2:わたしたちの力の神に向かって喜び歌い/ヤコブの神に向かって喜びの叫びをあげよ。 3:ほめ歌を高くうたい、太鼓を打ち鳴らし/琴と竪琴を美しく奏でよ。 4:角笛を吹き鳴らせ/新月、満月、わたしたちの祭りの日に。 5:これはイスラエルに対する掟/ヤコブの神が命じられたこと。 6:エジプトの地を攻められたとき/ヨセフに授けられた定め。わたしは思いがけない言葉を聞くことになった。 7:「わたしが、彼の肩の重荷を除き/籠を手から取り去る。 8:わたしは苦難の中から呼び求めるあなたを救い/雷鳴に隠れてあなたに答え/メリバの水のほとりであなたを試した。〔セラ 9:わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。イスラエルよ、わたしに聞き従え。 10:あなたの中に異国の神があってはならない。あなたは異教の神にひれ伏してはならない。 11:わたしが、あなたの神、主。あなたをエジプトの地から導き上った神。口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。 12:しかし、わたしの民はわたしの声を聞かず/イスラエルはわたしを求めなかった。 13:わたしは頑な心の彼らを突き放し/思いのままに歩かせた。 14:わたしの民がわたしに聞き従い/イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら 15:わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ/彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに。」 16:主を憎む者が主に屈服し/この運命が永劫に続くように。 17:主は民を最良の小麦で養ってくださる。「わたしは岩から蜜を滴らせて/あなたを飽かせるであろう。」 気になる言葉としては、12節にある、「しかし、わたしの民はわたしの声を聞かず/イスラエルはわたしを求めなかった。」エジプトからイスラエルへ40年もかかってしまった旅の途中、民はしっかり神の言葉を守れなかった時が何度もあったことを思う。 詩編作者の立場を思う時、先週の詩編と同じように、礼拝を想像しながら詠っているように思える。 2節から6節に詠われている内容は、礼拝への招きの讃美歌を歌っている。そして7節以降は司祭から神の言葉なる説教が詠われているように思えてくる。7節から11節の前半はイスラエルの民に向かって語られている言葉であり、12節以降でイスラエルの民の実態が詠われる。16節で会衆のための祈りが述べられ、17節では神の希望あふれる言葉が与えられる。 この詩編を通して、神が私たちに何を語りかけておられるかを考えてみたい。四旬節にあって、現代の信仰生活においても、私たちは「信仰生活」と呼びながらも、あまり信仰的ではない生活をしてしまっている自分たちに気づかされるような面があると感じる。信仰生活とは疑いや迷いの中で歩むような面がある。しかし、17節の言葉の中に、イースターへの期待、希望、喜びを思わせてくださるような言葉が書かれている。 イースターまであと3週間と少し、十字架に架かる道を歩んでくださったイエスを覚え、そしてイエスは私たちにも十字架を背負って歩くように言われたことを覚え、その意味をよくかみしめる時でありたい。信仰生活は生やさしいものではなく、厳しいが、そこに、希望がある。  アーメン。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 四旬節に入って、二週間が過ぎた。私たちの主なる神とは違う方向を向いたり、背を向けて行動したりしてしまう自らの罪を覚え、新たに主に向き直る期間として過ごしておられるだろうか。今週は詩編95編を読む。四旬節にふさわしい詩編だと思う。なるべく3回は読んでみてはどうだろうか。そして一回目は気になる言葉や節はなにか? 二回目は、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして三回目は、神はこの詩編95編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。  詩編 / 95編 1:主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。 2:御前に進み、感謝をささげ/楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。 3:主は大いなる神/すべての神を超えて大いなる王。 4:深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。 5:海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。 6:わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。 7:主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。 8:「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように/心を頑にしてはならない。 9:あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。 10:四十年の間、わたしはその世代をいとい/心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。 11:わたしは怒り/彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」 気になる言葉としては、メリバやマサという地名。これらの地名の由来は、40年に及ぶエジプトからイスラエルへの大移動の際、民が神とモーセに文句を言って争った場所であり、また神を試した場所とされる。23日の聖日に礼拝の中で読まれる第一日課、出エジプト記17章の1-7節にそのときの様子が描かれており、7節には、モーセがその場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名づけたと書かれている。  詩編作者は、たった11節の詩編の中で礼拝を想像しながら詠っているように思える。 1節から7節に詠われている内容は、礼拝への招きの讃美歌を歌っているようである。讃美歌21の20番「主に向かってよろこび歌おう」は詩編95の内容が詠われている招きの歌。もう一曲紹介すると、讃美歌21の226番「輝く日を仰ぐとき」も詩編95を含む讃美歌で、英語でも日本語でも、とてもポピュラー。 そして、讃美歌の後は、やや辛口の司祭の説教が詠われているように思える。 その説教の要点は、「エジプトからイスラエルに移動しているとき、昔の民がしたように、神に逆らったり、神を試してはならない。また自分勝手な思いから心を頑(かたく)なにしないように。」 旧約聖書時代の礼拝であるため、使徒信条の唱和や聖餐式、主の祈りなどは無い。 この詩編を通して、神が私たちに何を語りかけておられるかを考えてみたい。上記に書いたような説教の要点、「昔の民のように、神に逆らったり、神を試したり、あるいは自分自身の心を頑なにしないように。」というメッセージはとてもわかりやすく、頭で理解することはできる。しかし、神が現代を生きる私に上記のような事をしないようにと言っているだけだとすると腑に落ちない。というのは、その内容を守り続けられるかというと首を傾げざるを得ないから。自分が知らないうちに、神に逆らうような言動をしたり、神を試すような行為をしてしまったという経験がだれにでもあるのではないかと思う。では、そのような状況に落ち込んでしまったとき、どのように立ち直れるのだろうか? 私は、イエスキリストが生まれてから私も生まれた人間でよかったと思う。それは、神が独り子イエスの生涯を通して、次のような事を教えてくださったから。私たち人間が過去にどのような罪をおかしていようが、つまり人間が失敗をして悔やんだり、恥ずかしくてしょうがないようなことがあっても、神から私たちへの愛が弱められるようなことはない。徹底的に神が私たちを赦し、愛してくださっている。  東日本大震災が起こって、3年と一週間が過ぎた。いまだに、亡くなった肉親や友人のことを思い、悔やんでいる方々のことを思う。その悔やみからの解放はどのようにすれば訪れるのか? 主なる神、救い主イエスキリストによって癒され、解放が訪れるように祈る。 アーメン。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 東日本大震災から3年が過ぎた。 年をとってきたせいか、どんどん一年一年が短く感じられるようになっており、あっという間の三年だった。まだまだ震災の悲しみ、痛み、またいろいろな形での悔やみがあることを覚え、今週の詩編128編を、最低は3回は読んでみてはどうだろうか。そして一回目は気になる言葉や節はなにか? 二回目は、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして三回目は、神はこの詩編128編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。  詩編 / 128編 1:【都に上る歌。】いかに幸いなことか/主を畏れ、主の道に歩む人よ。 2:あなたの手が労して得たものはすべて/あなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか/いかに恵まれていることか。 3:妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。食卓を囲む子らは、オリーブの若木。 4:見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。 5:シオンから/主があなたを祝福してくださるように。命のある限りエルサレムの繁栄を見 6:多くの子や孫を見るように。イスラエルに平和。 3月11日の夜は、ラグナビーチで開かれた原発問題に関する小規模な市民の集いに参加していた。原発の実態を記録したビデオを見たあと、サンディエゴに行く途中の5号沿いにあるサンオノフレ原発廃炉に至った過程で市民運動を展開した二つの団体の代表者と、日本の原爆や福島の原発の状況にも詳しい方が壇上に上がってパネルディスカッションが行われた。そのような体験をした後、この詩編128編をじっくり読む時、一番気になる言葉は、「多くの子や孫を見るように。」という祈りの言葉が一番気になってくる、というか心配になってきているという方が正しい。詳しくは、また後述したい。 作者の気持ちを読みとろうとすると、ごもっともという感じがする。詩編の全編の中には、「いかに幸いなことか」という言葉が何度も出てくる。この128編もそのひとつ。そして、その言葉に続いている言葉は「主を畏れ」とある。「主を畏れる。」という事は、聖書の中に綴られた言葉の中でとても重要なこと。箴言1章7節には、主を畏れることが知恵の始まりという意味の言葉が書かれていた事を思い出す。そして、主を畏れ、主の道を歩む模範的な人がいたのだろう。2節から想像して、主を畏れ、主の道を歩む者は、労働に生きがいを持って精を出し、相応しい報酬を得ることができていた。また3節の言葉から、家族にも恵まれていた。そして4節では、「主を畏れる」ことが祝福されることであるという重要なポイントを詠う。5節に入ってくると、「シオンから」と始まるが、シオンは神殿のあるエルサレムを指していると思う。一生涯、祝福され、度々エルサレムに上ってその繁栄を見て、次の世代とさらにその次の世代をも担う子孫たちにも恵まれるように、という祈りでこの詩編は終わる。 さてこの詩編128編を通して、主なる神が現代の私たちに何を語っているかということを思う時、「いかに幸せか」ということには、将来の子孫たちも含めて、主を畏れて祝福されて生きるようにと教えられているように感じる。そのようなことに思いを巡らす時、将来の生活環境を思うと、世界各地(スリーマイル、チェルノブイリ、そして福島)で起こった原子力発電施設での事故からして、将来にたいへんな負債を残してしまったと思う。サンオノフレ原発は、廃炉は決定したものの、まだまだ、使用済み核燃料の問題は残っており気の遠くなるような将来に渡って大問題なのだと思う。もし東日本大震災級の地震・津波が起こってしまえば、使用済み核燃料からは放射能が出始めてしまい、福島と同じような状況になりかねないという話も出ていた。  20世紀半ばに生まれ、いわゆる高度経済成長期に育った世代の一人として、告白し、謝り、後悔の念を述べざるを得ない。一昨日の集いに参加していた何人かの方々は、電力会社を責めていたが、私はそのような気にはなれなかった。20世紀後半は、「もっともっと」といってエネルギーを使う時代になっていって、その恩恵を受けた世代の一人だから。私は数年前から、1950年代に建築された家に住んでいる。電気系統の設備は建築当初のものを使っているので、電子レンジといっしょに、コーヒーメーカーか、トースターか、ヘアドライアーを同時に使うとブレーカーが落ちる。 1970年代か80年代に建築された家では決してそのようなことは起きなかった。 20世紀後半は人類のエネルギー需要に応えようという大義名分の故に、禁断の実を食べはじめてしまったような気がしてならない。将来に渡って、主なる神、すべてを創造してくださっている全知全能の神を畏れ、主の道を歩む人類になれますように。 アーメン。 牧師 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週読む詩編は51編。この詩編は有名でよく読まれる。伝統的には、四旬節がはじまる時にも、読む箇所となっている。四旬節とは、四十日間のこと。イエスキリストが十字架に架かって復活するイースターからさかのぼって、四十日前から四旬節が始る。ただし、日曜日は四十日に含めない。従って、1週間を6日と考えて、イースターの6週間前(合計36日)とさらにその四日前の水曜から四旬節がはじまる。 日本語では、四旬節のことを、受難節と呼ぶこともある。それはイエスキリストが受難、つまり苦しみにあわれたことを覚える期間でもある。 また、英語では、”Lent”(レント)という言葉が使われる。このレントはもともとはラテン語で、「だんだん長くなる」という意味がある。つまり、北半球にいる場合が前提になってしまうが、春が近づいてきて、だんだん日が長くなっていく時期だから、そのような名称で呼ばれるようになったのではないかと思う。 ではとにかく詩編51編を、何回か読もう。  詩編 / 51編 1: 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。 2:ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】 3:神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。 4:わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。 5:あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。 6:あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。 7:わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。 8:あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。 9:ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。 10:喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。 11:わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。 12:神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。 この詩編は昨年9月はじめにもとりあげられて読んだ。その時「罪」という言葉にやや詳しく触れた。3節、4節にある「背きの罪」と「咎」と「罪」という言葉は、それぞれ、原語であるヘブル語ではニュアンスが異なってくる。昨年9月の繰り返しになるが、今一度書いておきたい。 最初の「背きの罪」という言葉は、ヘブル語の原語では、子供たちが親に向かって反抗するような時に使われる言葉。 それは、親がどんなに子供を愛していても、それに甘え、また親の苦労も理解せずに、親に背を向け反抗するような態度を思っていただければ良いかと思う。次の「咎」と訳された言葉には、曲がった状態とか、いらいらしている状態を現す言葉が使われている。 そこには、おろかな行いをしてしまい、腰を曲げ、身を屈めて、深くうなだれているような状況が思い浮かぶ。 そして、最後のただ「罪」と訳されている言葉は、詩編51編の中だけでも、4節以外に、5節、6節、7節、10節、15節にも出てきているが、ヘブル語の本来の意味は、「的を外している」という意味がある。  さて、四旬節のはじまりにあたりこの詩編51編を読み、この罪という言葉について考える時、どんなことを覚えておられるだろうか。 四旬節のはじめの水曜を、「灰の水曜日」という。 灰の水曜日には、礼拝のある教会が多い。 私は昨日の午前11時半に教区の事務所で、灰の水曜日の礼拝があり、そして、夜7時からは復活ルーテルでの礼拝があった。全員が、額に灰で十字架の印をつけられる。自分たちが、普段は、神の御心とすることをできないでいる、神の御心から外れたことを行なったり、話している現実を覚える、そして、イエスキリストが十字架に架かってくださったことを覚えることになる。 そして、四十日間は、なにかをがまんする習慣がある。私の祖母は、この四旬節の期間は、お肉を一切食べなかったことを思い出す。 現代でも、甘いものを食べないようにするとか、お酒を控えるとか、たばこを控えるとか、いろいろと控えることにチャレンジするキリスト教徒も多い。 今年の四旬節、ぜひ、神の御心から外れてしまうことと思うことは避け、そして避けるだけではなく、その代わりに、神の御心に近いことを実行できますように。それは、なにかをしない代わりに、神に「祈る」ということもとても大切なことだと思う。この四旬節、十字架を担いで歩まれたイエスとの関係が、また新たにされ、深まって、そして、隣人を大切にすることができますように。アーメン。 牧師 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace