Archive for the ‘詩編を読もう’ Category

Tweet 来る日曜日は主の変貌日となる。山上で三人の弟子たちを前に、主イエスの姿が真っ白に輝き、数百年前の預言者、モーセとエリヤがその場に顕われるという奇跡が起こる。その変貌主日の三日前から与えられている詩編は2編となる。いつものように気になる言葉は何か、次に詩編作者の気持ちで考える。さらに、主なる神がこの詩編を通して自分に何を語りかけているか、思いを巡らせよう。   詩編 2編 1: なにゆえ、国々は騒ぎ立ち/人々はむなしく声をあげるのか。 2:なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して/主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか 3:「我らは、枷をはずし/縄を切って投げ捨てよう」と。 4:天を王座とする方は笑い/主は彼らを嘲り 5:憤って、恐怖に落とし/怒って、彼らに宣言される。 6:「聖なる山シオンで/わたしは自ら、王を即位させた。」 7:主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。 8:求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし/地の果てまで、お前の領土とする。 9:お前は鉄の杖で彼らを打ち/陶工が器を砕くように砕く。」 10:すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。 11:畏れ敬って、主に仕え/おののきつつ、喜び躍れ。 12:子に口づけせよ/主の憤りを招き、道を失うことのないように。主の怒りはまたたくまに燃え上がる。いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて どんな事に思いを巡らせているだろうか? 私は気になることばとして、12節の「子に口づけせよ。」「子」とはだれだろうか。以下に書くことになると思うが、主イエスキリストのことだと思う。そのしきたりが今も守られているかどうかはさだかではないが、ロシア正教会の礼拝では、最後に参拝者が前に出て行って神父の持つ十字架にキスをするということが行なわれていたことを思い出す。  詩編2編の作者を特定することはできないが、神の言葉を預かった預言者の一人なのだと思う。 神の言葉がたくさん引用され、インパクトのある言葉が詠いこまれている。 1-3節では、世の政治家のような者になることのむなしさが詠われている。 唯一の神への信仰を持たずに政治活動に一生懸命になり、自分たちで勝手な法律を決め、国の領土を定めようとすることのむなしさ、主に従わないことへの嘆きが詠われている。4節から6節では、あたかも詩編作者が天を王座とする神と出会い、世のむなしい政治家たちを嘲り笑い、憤って、宣言される。「わたしは、このシオンにおいて、自ら王を即位させた。」その王とはだれか?ダビデだろうか? 私は、すでに主イエスのことが詠われているように思う。 7節から9節では、預言者が主から語られた言葉をそのまま詠う様子が思い浮かぶ。「お前(即位させた王)は私の子である。私が生んだ。私に尋ね求めよ。私はすべての国々をお前の受け継ぐべき土地、領土とする。」 そして10節から12節では、世の政治家たちに、またその国々を支配している気持ちになっている王たち、統治者たちに、その主を畏れ敬って、主に仕え、喜び踊るがよい。 その主にキスせよ。 主が憤って怒るようなことがないように。そして、12節の最後に「いかに幸いなことか、主を避けどころとする者はすべて。」という詩編1編の最初の言葉と同じ「いかに幸いなことか」が詠われて終わる。  この詩編を通して、神は現代の私たちに何を語られているのだろうか? とくに日本的あるいはアジアの文化や宗教観を考えると気づかされることがある。村や地域をとりしきる長なる人々、あるいは地球上に存在する多くの国々の首相とか皇族、あるいはさまざまな宗教団体の教祖とかやおよろずの神々たちに、この詩編は強く迫ってきているように思う。「お前は私の子」という言葉は、主イエスキリストの洗礼時や、また来る日曜日に祝う主の変貌日に、天から聞こえた「これは私の愛する子」という言葉と同じなのだと思う。 つまり、地球や太陽をも創られたすべての創造主なる全知全能の神が、イエスと全地球に住む統治者とかやおよろずの神々に語る「イエスは私の愛する子である。すべての国々、すべての土地をイエスの受け継ぐ領土とする」という宣言に聞こえる。それゆえ、この世に生を持ったものは、すべて、この主なるお方を畏れ、敬い、愛し、そして、その主なるお方を避けどころとすることが幸せであり、また、聖書全体に語られていることからして、主イエスを避けどころとすることが永遠の命に生きることなのだと信じる。  詩編1編と2編は詩編全体の前置きで、詩編150編全体の鍵となる事が詰まっている。また詩編150編全体には、聖書全体のエッセンスがまとめられているような面がある。 また、主の変貌日の奇跡は、主の十字架の死そして復活への前触れのような面がある。 アーメン  牧師 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 牧師 安達均 最近は一番長い詩編119編の一部を読んでいる。今週は、33節から40節を読む。いつものように気になる言葉は何か、次に詩編作者の気持ちを考える。さらに、主なる神がこの詩編を通して自分に何を語りかけているか、思いを巡らせよう。   詩編 119編 33:主よ、あなたの掟に従う道を示してください。最後までそれを守らせてください。 34:あなたの律法を理解させ、保たせてください。わたしは心を尽くしてそれを守ります。 35:あなたの戒めに従う道にお導きください。わたしはその道を愛しています。 36:不当な利益にではなく/あなたの定めに心を傾けるようにしてください。 37:むなしいものを見ようとすることから/わたしのまなざしを移してください。あなたの道に従って/命を得ることができますように。 38:あなたの僕に対して、仰せを成就してください。わたしはあなたを畏れ敬います。 39:わたしの恐れる辱めが/わたしを避けて行くようにしてください。あなたは良い裁きをなさいます。 40:御覧ください/わたしはあなたの命令を望み続けています。恵みの御業によって/命を得させてください。 短い8節だけの詩編箇所の中で、気になる言葉として、「道」という言葉が4回出てきている。 聖書は、人生の歩みを旅路にたとえていることが多いため、「道」という言葉がたくさん出ている。先週読んだ詩編の119編の一番最初も、また詩編1編も、そのテーマは、「幸せとは主の道を歩むこと。」だった。 ちなみに、英語の聖書(New Revised Standard Version)で”Way”という言葉が何回使われているか調べたところ、931回使われている。 さて、今日読んでいる詩編では、詩編作者が「道」に迷っているというか、どの道を歩むべきかわからないでいる様子が伺える。 そして主にいろいろ懇願している祈りを詠っている。 懇願する言葉の最後に使われる「――ください」という言葉はなんと10回も出てきている。詩なので、「ください」という言葉が、韻を踏んでいるとも言える。そして、これほど、主に繰り返し懇願するということは、道に迷うだけではなく、誤った道を歩んでしまった詩編作者の実態が見え隠れしていると思う。36節で「不当な利益にではなく、あなたの定めに心を傾けるようにしてください。」とか、37節では「むなしいものを見ようとすることからわたしのまなざしを移してください。」と詠っている。詩編作者が過去に、不当な利益をむさぼろうとしていた時や、主なる神ではなく、なにかの偶像に没頭してしまったような時があったのだと思う。 そして、悔い改め、つまり新たに主なる神に向き直ろうとして、この詩編を詠っているように思える。  主なる神は、この詩編を通して、現代の私たちにどのようなことを語りかけてくださっているのだろうか? 毎週水曜日は、教区事務所の礼拝堂で、午前11時半から礼拝がある。 昨日メッセージを担当した牧師は、説教の途中で集まった者たちが互いにシェアする時間を持った。 教区事務所に勤務する一人の女性職員が、道端で段ボールの紙に「ホームレス」という文字を書いている方をよく見かけるが、”I made wrong choices.” 「私は誤った選択をしました。」と書いた段ボールの紙を持って立っていた人を見たという話をしてくれた。そして、礼拝堂の中で、私も同じように、しょっちゅう誤った選択をしている人間の一人だなという感覚を持った。 ひらがなで、「あやまる」と書くと、それは「誤る」とも「謝る」という意味にも解釈できることになるが、その立っていた方の持っていた言葉のなかには、「謝り」の気持ちもあったことだろう。それは、今日与えられている詩編に見え隠れしている部分とも共通していることのように思える。 しかし、今日の詩編で強調されていることは、主なる神に向かって「あなたに従う道」に導かれるように懇願していることなのかと思う。「誤まり」を認め「謝る」ことはそれはとても重要なことだと思うが、「悔い改め」とは、「誤ったことを謝る」だけではなく、方向転換の意味があり、「主なる神に向き直る」ことが悔い改め。  たまたま昨日開いた聖書箇所、イザヤ30章21節に以下のような言葉があり、紹介しておきたい。 あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け/右に行け、左に行け」と。  道を誤ったが、じゃあ、どっちに行けば良いかわからない時、背後に主がおられるかもしれない。主に向き直って、主が指示される道を知り歩むことができますように。 アーメン Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 牧師:安達均 今週も119編の一部を読む。176節もある詩編の中の一番最初の段落、1節から8節だけを読む。いつものように気になる言葉は何か、次に詩編作者の気持ちを考える。さらに、主なる神がこの詩編を通して自分に何を語りかけているか、思いを巡らせよう。   詩編 119編 1:いかに幸いなことでしょう/まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。 2:いかに幸いなことでしょう/主の定めを守り/心を尽くしてそれを尋ね求める人は。 3:彼らは決して不正を行わず/主の道を歩みます。 4:あなたは仰せになりました/あなたの命令を固く守るように、と。 5:わたしの道が確かになることを願います/あなたの掟を守るために。 6:そうなれば、あなたのどの戒めに照らしても/恥じ入ることがないでしょう。 7:あなたの正しい裁きを学び/まっすぐな心であなたに感謝します。 8:あなたの掟を守ります。どうか、お見捨てにならないでください。 気になる言葉として、長い詩編119編の最初の言葉、「いかに幸いなことでしょう」がある。 英語だと”Happy are those” (New Revised Standard Version)という言葉ではじまっている。全部の詩編は150編あるが、その一番最初の詩編1編の最初の言葉も「いかに幸いなことか」、英語だと全く同じ”Happy are those”である。そして、新約聖書の中でマタイ福音書5章から7章に著された、イエスキリストの山上の説教も、新共同訳では「心の貧しい人々は、幸いである」と訳されているが、文語訳では、「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者。」であり、ヘブライ語や英語も、実は詩編の1編や119編の最初の言葉と同じ意味になってくる。   詩編作者が1-8節全体で述べていることを簡潔に一文で書いてしまえば、「幸いとは主の道を歩むこと。」となるのかと思う。 しかし、以下に挙げるような様々な言葉を使って、主の道を歩むことがどういうことかを表現している。 「まったき道を踏む」、「主の律法に歩む」、「主の定めを守る」、「心を尽くして主の定めを尋ねる」、「決して不正を行なわない」、「あなたの命令を固く守る」、「あなたの掟を守る」、「あなたの裁きを学ぶ」、「まっすぐな心であなたに感謝する」という言葉が「これでもか、これでもか」と言わんばかりに並べられている。 そして8節は、「あなたの掟を守ります」という誓いの言葉と、「どうか、お見捨てにならないでください。」という言葉で終わっている。 なぜ、詩編作者は、この誓いの言葉と、いわば赦しを請うような言葉を詠うことになったのだろうか? おそらく詩編作者に、主の道を歩みきれないような過去があったように思える。また、6節には「どの戒めに照らしても、恥じ入ることがないでしょう」と詠っているが、詩編作者が、主の道を歩みきれないがために、自分自身が恥ずかしくてしょうがないような状況、あるいは、自分を責めるような思いに苛まれている状況が見え隠れしている。  主なる神は、この詩編を通して、現代の私たちにどのようなことを語りかけてくださっているのだろうか? 詩編でも、新約・旧約聖書全体を通しても、「幸いとはなにか」ということが一つの大きなテーマなのだと思う。そして、現代を生きる私たちも「幸せって何?」という問いかけをしている。 ニューヨークヤンキーズに入団が決まった田中投手は仙台からニューヨークに引っ越すのに、チャーター便を利用したが、チャーター便を自前で調達できるほどになることが幸せなのか? あるいは、徹底的な努力をして、何かを達成することが幸せなのか? 詩編が伝えている「主の道を歩む」には、大きなヒントがある。 チャーター便に乗ることと幸せはほとんど無縁なのだと思う。田中投手だって、世のほとんどの人々が、 チャーター便に乗らなくても幸せはあるということは認めるところだろう。 また、主の道を歩むため、徹底的に神の掟を守るということは、徹底的な努力と似ていると思うが、行為が「幸せ」なのだろうか? イエスキリストが、「心の貧しい人々は幸い」と言われていたことも、よく噛み締めたい。 心の貧しき者とはだれか? 2月2日の説教で話したことの一部を、今一度、ここに記しておきたい。 日本語では、「心の貧しい人々は幸い」となっているが、ヘブル語あるいはアラム語の語順で書くが、「幸せ、貧しい人々、霊的に。なぜなら、彼等のものだから、神の国は。」となる。 最初の言葉は、「幸せ」という言葉で、ぐっと聴いている人々の注目を集める。 さらに続く言葉は、「貧しい」という言葉。 なんで?と聴衆の注目を益々集める。皮肉を言っているわけではない。その次の言葉は、「霊的に」という言葉。霊的に貧しい、よく考えると、イエスさまがおっしゃりたいことは、「霊的にとても弱く、助けを必用としている人々」となってくると感じる。 それはすなわち、群集の多くは、病になっていて、医療ではとても直せず、霊的に満たされることがなにより大切だった。だから、幸せなのは、霊的な助けをいただける、私に従ってきているあなた方だ。そして、神の国を引き継ぐことになるからと話されているように聞こえる。 アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週は119編の一部を読む。この詩編は176節もあり、詩編の中で一番長い。また聖書全体の中でもこんなに長い176節もある章はない。詩編119編は、それぞれの段落がヘブライ語のアルファベット22文字の順番になっていて、22の段落によって構成されているため、こんなに長い一編になってしまったのだろう。 今週はその詩編の14段落目、105節から112節だけを読む。いつものように気になる言葉は何か、次に詩編作者の気持ちになって読み考える。さらに、主なる神がこの詩編を通して自分に何を語りかけているか、思いを巡らせよう。   詩編 119編 105: あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。 106:わたしは誓ったことを果たします。あなたの正しい裁きを守ります。 107: わたしは甚だしく卑しめられています。主よ、御言葉のとおり/命を得させてください。 108:わたしの口が進んでささげる祈りを/主よ、どうか受け入れ/あなたの裁きを教えてください。 109:わたしの魂は常にわたしの手に置かれています。それでも、あなたの律法を決して忘れません。 110:主に逆らう者がわたしに罠を仕掛けています。それでも、わたしはあなたの命令からそれません。 111:あなたの定めはとこしえにわたしの嗣業です。それはわたしの心の喜びです。 112:あなたの掟を行うことに心を傾け/わたしはとこしえに従って行きます。 105節の言葉は、どこかで見たことがあるという方が多いと思う。あるいは暗記しているという方もいると思う。毎月の聖書日課を準備する時に、私はこの詩編の105節を空きスペースに挿入することもある。 本日新たに、この段落全部を読み通してみると、107節の「わたしは甚だしく卑しめられています。」という言葉と110節の「主に逆らう者がわたしに罠を仕掛けています。」という言葉が気になってしょうがない。 この詩編作者の立場を思うと、107節と110節の言葉からして、とんでもない人生の深いトラブルに巻き込まれている状況が想像できる。 この段落の最初、105節は人生を旅路にたとえて、詩編作者のすばらしい感性に感動するが、この段落全体からは、詩編作者が抱える根深い問題があるため、とんでもない人生の真っ暗闇を通っている様子が伺える。 まさに「お先真っ暗」ともいうような状況に遭遇している。 そしてその暗闇にありながらも、詩編作者の心に刻まれている主なる神の、「御言葉」「律法」「命令」「定め」「掟」を携えてその真っ暗闇を歩み続ける。この詩編作者の歩む人生が、どうしようもない暗闇であるがゆえに、「御言葉」が「道の光」であり「歩みを照らす灯火」であるというすばらしい比喩も生まれてきたのかと思う。それにしても、この詩編作者は旧約聖書時代の人であり、「御言葉」としているのは、旧約聖書の最初の五つ書、「モーセ五書」に記された何百もの掟のことを指しているのかと思う。尊敬の念を抱く。 さて、自分に神が何を語りかけているかということを思うと、9日の聖日に与えられているマタイ福音書箇所(マタイ5:13-22)との関連から、この詩編に詠われている内容について思いを巡らしている。上記に詩編作者に対して「尊敬の念を抱く。」と書いたが、次のような主イエスキリストの言葉があったから。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」 しかし、かといって、詩編作者が暗記していたと思われる何百もの掟を覚えることが、神の御心であると言われているようには思えない。イエスが最も大切な掟として教えてくださっていた、「主なる神を愛すること」が最も大切な掟であり、それと同じ位重要な掟が「隣人を愛すること。」そして、律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。と言われていたことを思い出す。西郷隆盛は「敬天愛人」という言葉を書き残しているが、私たちの人生でどんな暗闇の道を歩むことになろうが、日本語ではこのような文字に表された言葉が、その暗闇の中で光となって、人生の歩みを継続できる。  最後に一言。西郷隆盛は一度は自殺未遂をした人である。しかし、助かり、天がどれだけ自分のことも愛してくださったかに気付いたようだ。 私たち人間は、「敬天、つまり創造主なる神を敬う」だけでなく、ヨハネ3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」にあるように、主なる神が、とてつもなく、この世の人々を愛してくださっていることも、覚えよう。アーメン。  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週の詩編は37編を読むが、40節もある長い詩編の一部、10節から17節を読む。37編の1節から9節は昨年10月3日に読んでおり、その時何を思ったか思い起こされるのも良いかもしれない。そして、10節から17節の中で気になる言葉は何か。そして主なる神が、この詩編を通して自分に、あるいは自分の所属する家族や教会、あるいは会社でも地域社会でも、何を語りかけているか、思いを巡らせよう。   詩編 37編 10: しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。 11:貧しい人は地を継ぎ/豊かな平和に自らをゆだねるであろう。 12:主に従う人に向かって/主に逆らう者はたくらみ、牙をむくが 13:主は彼を笑われる。彼に定めの日が来るのを見ておられるから。 14:主に逆らう者は剣を抜き、弓を引き絞り/貧しい人、乏しい人を倒そうとし/まっすぐに歩む人を屠ろうとするが 15:その剣はかえって自分の胸を貫き/弓は折れるであろう。 16:主に従う人が持っている物は僅かでも/主に逆らう者、権力ある者の富にまさる。 17:主は御自分に逆らう者の腕を折り/従う人を支えてくださる。 詩編37編1節から9節には、主に信頼し、主に委ねることの大切さが書かれており、9節は「主に望みをおく人は、地を継ぐ。」という言葉で終わっていた。そして10節以降は、主に従わず逆らう者はどうなってしまうか、そして主に従う者がどうなっていくかが描かれている。  10節から17節の言葉の中で、どんな言葉が気になっているだろうか? 私の場合は11節の「貧しい人は地を継ぎ」という言葉と14節は「まっすぐに歩む人を屠ろうとするが」という言葉がとても気になっている。 最初に気になった「貧しい人は地を継ぎ」という言葉、今度の日曜日に読む福音書、マタイ5章の山上の説教の最初の部分、イエスは「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」と話し始めており、多いに関係があると思う。イエスは当然、旧約聖書の詩編のこともよくわかっておられるなかで、山上の説教を語られたのだと思う。しかし、日本語の翻訳の問題もあるかと思うが、イエスのこの言葉は、この世の常識からすれば「なんで心の貧しい者が幸いなんですか?どうして神の国は心の貧しい者たちのものなのですか?」と質問したくなる。 今日の詩編の箇所は、山上の説教の最初の言葉を理解する上で、とても参考になるように思う。 詩編作者の記した「貧しい人」もイエスの言う「心の貧しい者」も、貧しい故に主を信頼し、主に委ねる人のことを言われているように思う。 次に気になる言葉として「まっすぐに歩む人を屠ろうとするが」と上記に書いたが、私はこの言葉の中に、「まっすぐに歩んでいたイエスが屠られるが、しかし、死をもって死を滅ぼされた主なる神、イエスキリスト」のことが思い浮かんでくる。 今日の詩編箇所を繰り返し読む中で、繰り返し起こってしまう乱射事件のことを考えている。 15年前コロンバイン高校で亡くなった高校生や教師、7年前のバージニアテックの大学生や教授、二年と少しを経過したがコネチカット州サンディフック小学校で亡くなった小学生たちと教師たち、いまだに遺族の気持ちを考えるといたたまれなくなる。 しかし、犠牲者たちは、天の地を引き継いでいるのだと思う。いたたまれない中に希望を抱いている。 銃を乱射した者たちについては、結局15節の言葉にある「その剣はかえって自分の胸を貫き、弓は折れるであろう。」ということが現実になったように感じている。それにしても、犯人となった若者たちが、もし、この詩編を真剣に読む機会があったら、このようなことは起こらなかったのではと悔やむ。 私が間違っていて、「この詩編を読んだが、あのような犯行に及んだんだ。」ということが全く無いとは言い切れない。 しかし、私は何千年前からも、創造者なるお方、神が人類に残してくださった聖書に記されたストーリが、現代に育つ私たちにも、繰り返し語られることの大切さを思わずにはいられない。   一人でも多くの者が主に従う者とされ、豊かな平和に自らをゆだねる生活をいとなみますように。 アーメン  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週の詩編は先週と同じ40編を読むが、7節から18節を読む。最初は詩編作者の気持ちをできる限り想像して読んでみよう。 そして、次は自分の立場で、この詩編がどういう意味を持ってくるか考えてみよう。 また26日の日曜日に与えられている福音書箇所はマタイ4章からになるが、19日の日曜日に与えられていたヨハネ1章後半と似ており、ペトロ・アンデレ等が、イエスに従うものとなっていく様子が描かれている。 そのこととの関連の中で、この詩編を読むのも良いと思う。  詩編40編 7:あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず/焼き尽くす供え物も/罪の代償の供え物も求めず/ただ、わたしの耳を開いてくださいました。 8:そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは/巻物に記されております。 9:わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み 10:大いなる集会で正しく良い知らせを伝え/決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存じです。 11:恵みの御業を心に秘めておくことなく/大いなる集会であなたの真実と救いを語り/慈しみとまことを隠さずに語りました。 12:主よ、あなたも憐れみの心を閉ざすことなく/慈しみとまことによって/いつもわたしをお守りください。 13:悪はわたしにからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪に捕えられ/何も見えなくなりました。その数は髪の毛よりも多く/わたしは心挫けています。 14:主よ、走り寄ってわたしを救ってください。主よ、急いでわたしを助けてください。 15:わたしの命を奪おうとねらっている者が/恥を受け、嘲られ/わたしを災いに遭わせようと望む者が/侮られて退き 16:わたしに向かってはやし立てる者が/恥を受けて破滅しますように。 17:あなたを尋ね求める人が/あなたによって喜び祝い、楽しみ/御救いを愛する人が/主をあがめよといつも歌いますように。 18:主よ、わたしは貧しく身を屈めています。わたしのためにお計らいください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。わたしの神よ、速やかに来てください。 7節から12節は、先週も読んで、大好きな讃美歌21の402番の「世にある限り、主の恵みと慈しみを語り伝えん」が、この詩編40編と関係していることを書いた。 そして、今週13節以降を読んでいくと、ガラッと雰囲気が変わる。「恵み」「慈しみ」という言葉は出なくなってしまう。朗らかに讃美歌を歌っている場合ではない。1節には「ダビデの詩」となっていたので、ダビデの心境が、このような状況にあった時のことを詠っているのかとも思う。 また、詩編作者自身も、根深い問題の中に沈んでしまうような経験をしていたのかと想像する。 そして、自分の敵が恥を受け、主の側にある者が主をあがめ歌いますようにと詠う。 そして、詩編作者自身がいかに弱いものであるか、すぐに助けに来てくださいという懇願をもって、詩編40編は結ばれている。 詩編が詠われるようになって、2500年以上の時が流れていると思うが、現代においても、この世の人生、実は13節に描かれたような状況に陥っていることが多々あるのかと思う。 教会で多くの人々と会うなかで、”How are you?” と話しかけ、”Good.”という受け答えをしているなかでも、”How are you feeling?”とさらにもう一度聞きなおすならば、たいへんな問題をかかえておられる方もいる。 私自身も、会社勤めをしていて、電子医療機器の設計を担当していた時はいつも設計ミスがあったのではないか心配したし、臨床試験中に担当していた装置がたいへんな誤動作をしてしまった時と長男の出産がほぼ同じ時期に重なりどうしようもない気持ちに陥った。あるいは子会社のマネージメントを担当していた時も、売り上げ・経費の問題はいつも悩んでいたし、そして、教会の牧師としても、とくに教区の財務を担当している一人として、常に悩みながら日々過ぎていく。家族一人一人のことを思っても、常時心配事があり、自分の弱さを痛感することがしょっちゅうである。それゆえに、この詩編の最後、18節に詠われている言葉は心にしみる。この世の生活は、「主の助け」無しには考えられない。  聖書に描かれた最初の弟子たちのことを考えても、実は、皆、弱くて悩みを抱えており、立派だったとか、優れていたという者を、主が弟子として選ばれていたわけではない。 むしろ、おっちょこちょいのような者が弟子として遣わされているような面は否めない。だから神に従う者、主なるイエスに従う者は、決して自分で自分を誇れるような存在ではなく、主の助けをいただき、そして、なんとかこの世を歩んでいる。そして、主を崇め、賛美する者となっている。  アーメン Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 1月16 日 詩編を読もう:主の恵みを語り伝える (詩編40:1-12) 牧師:安達均 今週の詩編は40編の1節から12節。最初は詩編作者の気持ちをできる限り想像して読んでみよう。 そして、次は自分の立場で、この詩編がどういう意味を持ってくるか考えてみよう。 19日の日曜日に与えられている福音書箇所はヨハネの1章から、イエスの最初の弟子アンデレが自分の兄弟であるシモンペテロに「自分は救い主に会った」ことを伝え、そしてペテロをイエスのところに連れてくる場面である。その場面と、この詩編の兼ね合いについて思いを巡らせるのも良いと思う。 詩編40編 1:【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】 2:主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。 3:滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ/わたしの足を岩の上に立たせ/しっかりと歩ませ 4:わたしの口に新しい歌を/わたしたちの神への賛美を授けてくださった。人はこぞって主を仰ぎ見/主を畏れ敬い、主に依り頼む。 5:いかに幸いなことか、主に信頼をおく人/ラハブを信ずる者にくみせず/欺きの教えに従わない人は。 6:わたしの神、主よ/あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。わたしたちに対する数知れない御計らいを/わたしは語り伝えて行きます。 7:あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず/焼き尽くす供え物も/罪の代償の供え物も求めず/ただ、わたしの耳を開いてくださいました。 8:そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは/巻物に記されております。 9:わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み 10:大いなる集会で正しく良い知らせを伝え/決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存じです。 11:恵みの御業を心に秘めておくことなく/大いなる集会であなたの真実と救いを語り/慈しみとまことを隠さずに語りました。 12:主よ、あなたも憐れみの心を閉ざすことなく/慈しみとまことによって/いつもわたしをお守りください。 1節ダビデの詩とあるので、ダビデの生涯を思い浮かべるのも良いかと思う。 2節から4節の内容からして、ダビデがサウルから命を狙われ、絶対絶命とも思えるピンチに遭遇しても、主なる神がピンチから脱することができるようにしてくださったことに感謝し、主を讃え、また、畏れ敬うことを詠っているように思える。 5節から8節の内容からして、詩編作者は、主なる神によって再三起こる不思議な業について詠い、また数え切れない主の計らいを受けており、それを巻物に記録として残している事を述べている。 そして9節以降では、詩編作者自身が、受けた主の恵みを、徹底的に述べ伝え続けることを述べている。  この詩編、ある意味、私のことを詠っているような部分があると感じる。 4節には主の恵みを新しい歌にして詠うこと。 6節には主の御計らいを語り伝えていくことが書かれている。 8節には、記録に残していること、10節11節では、主の恵みについて唇を閉じることなく正しく伝え、語り続けることが詠われている。 私は、こどものころ、兄から「均は本当に話好きだ。」といわれたことがある。その傾向は今でも変わっていないようなところがあり、特に、神様からいかに恵みを授かっているかということとなると、話がしたくてしたくてしょうがないような面がある。 かといって、何時間も話すというわけではなく、節度を保ち、常識的な範囲内でありたいとは思っているが。  19日の日曜に与えられているヨハネ福音書1章の箇所は、ある意味、とても伝道的なところである。そして、この詩編40編もとても伝道的な面がある。 ヨハネ一章では、イエスに一度会っただけの体験ながら、アンデレはペテロに「メシアに出会った」ことを報告し、すぐにペトロをイエスのところに連れてきている。 40編では、主の恵みを繰り返し述べ伝えることを主に約束している詩編のようにも思える。  詩編40編は、大好きな讃美歌21の402番(讃美歌502番)の歌詞と深く関係している。その歌詞の繰り返しのところを以下に記述しておきたい。 世にある限り、 主のみ栄えと いつくしみを 語り伝えん アーメン 主の恵みを讃え、感謝して、自分だけではなく、多くの方々のことを救い主が一人一人大切に思ってくださっていることをひしひしと感じつつ。 安達 均  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週の詩編は29編。12日の日曜日は主の洗礼主日となり、マタイによる福音書3章13節から17節を読む。そのような関係の中で、この29編をまず読まれたらどうだろう。 また、ご自分の置かれている環境のなかで、29編を通して、神は何を語られているか、思いを巡らせよう。 詩編29編 1:【賛歌。ダビデの詩。】神の子らよ、主に帰せよ/栄光と力を主に帰せよ 2:御名の栄光を主に帰せよ。聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。 3:主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。主は大水の上にいます。 4:主の御声は力をもって響き/主の御声は輝きをもって響く。 5:主の御声は杉の木を砕き/主はレバノンの杉の木を砕き 6:レバノンを子牛のように/シルヨンを野牛の子のように躍らせる。 7:主の御声は炎を裂いて走らせる。 8:主の御声は荒れ野をもだえさせ/主はカデシュの荒れ野をもだえさせる。 9:主の御声は雌鹿をもだえさせ/月満ちぬうちに子を産ませる。神殿のものみなは唱える/「栄光あれ」と。 10:主は洪水の上に御座をおく。とこしえの王として、主は御座をおく。 11:どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように。 1節2節には、「主に帰せよ」という言葉が3回詠われ、さらに「主にひれ伏せ」という言葉が2節の最後に出てきている。 激しい命令形の言葉が使われている。 3節から9節前半までは、「主の御声は。。。」という表現が続き、その中に表現されている内容は、激しい嵐のようでもある。そして9節後半から11節後半では、そのような嵐の中でも、人々が「栄光あれ」ととなえ、主の祝福が祈られる。 この詩編は、主の洗礼の時に起こった様子が重ねあわさってくるような面がある。 マタイ3:16-17によると、「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。」となっている。 さらに、この箇所は、ペンテコステの出来事(ルカ2章)とも深い関係がある。 強風、雷鳴、地震などは、本当に怖くなるが、主の洗礼もペンテコステの出来事もそのような状況の中にあったことを覚えたい。そして、詩編29編が昔から詠われていたように、主なる神はご自分の創造されたものに深い愛を持ち、育てられ、民は「主に栄光あれ、民の平和を与えたまえ」と民は祈る。  現在、復活ルーテル教会日本語部の置かれている状況を書いておきたい。昨年後半から、洗礼を受ける者が相次いで現れた。集まる者の多くが病との闘いの中にあることも覚えたい。 また、昨年後半から毎週復活ルーテルに来られるようになった福元忠一さんが突然の事故で、大晦日から元旦にかけての未明、逝去された。深い悲しみの中にあり、今週土曜日にはお葬式がある。その翌日には、吉田柳子さんの洗礼式となる。ある意味、嵐がふきあれる日々の中で、洗礼式が行なわれるようでもある。すべての出来事に主の時があり、そして、その中で、聖霊が働き、大きな愛をもって、復活ルーテル教会の一人一人をも、慰め、癒し、力づけてくださる。 栄光を主に帰せよ。神に栄光あれ。 主が民を祝福してくださるように。アーメン。    Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 主の年2014年の到来を心から歓迎します。 あけましておめでとうございます。 今年、最初に読む詩編は72編。この詩編の1節から7節と18・19節は先月、待降節の最初、12月5日に読んだばかり。今回は、20編まである全編を通して読み、さらに前回は取り上げなかった8節から17節を集中的に2回なり3回読まれたら良いかと思う。そして年の初めにあたり、神は何を私たちに語りかけておられるのか黙想してみたい。  詩編72編 1: 【ソロモンの詩。】神よ、あなたによる裁きを、王に/あなたによる恵みの御業を、王の子に/お授けください。 2:王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ/あなたの貧しい人々を裁きますように。 3:山々が民に平和をもたらし/丘が恵みをもたらしますように。 4:王が民を、この貧しい人々を治め/乏しい人の子らを救い/虐げる者を砕きますように。 5:王が太陽と共に永らえ/月のある限り、代々に永らえますように。 6:王が牧場に降る雨となり/地を潤す豊かな雨となりますように。 7:生涯、神に従う者として栄え/月の失われるときまでも/豊かな平和に恵まれますように。 8:王が海から海まで/大河から地の果てまで、支配しますように。 9:砂漠に住む者が彼の前に身を屈め/敵が塵をなめますように。 10:タルシシュや島々の王が献げ物を/シェバやセバの王が貢ぎ物を納めますように。 11:すべての王が彼の前にひれ伏し/すべての国が彼に仕えますように。 12:王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を/助けるものもない貧しい人を救いますように。 13:弱い人、乏しい人を憐れみ/乏しい人の命を救い 14:不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように。王の目に彼らの血が貴いものとされますように。 15:王が命を得ますように。彼にシェバの黄金がささげられますように。彼のために人々が常に祈り/絶え間なく彼を祝福しますように。 16:この地には、一面に麦が育ち/山々の頂にまで波打ち/その実りはレバノンのように豊かで/町には人が地の青草ほどにも茂りますように。 17:王の名がとこしえに続き/太陽のある限り、その名が栄えますように。国々の民は皆、彼によって祝福を受け/彼を幸いな人と呼びますように。 18:主なる神をたたえよ/イスラエルの神/ただひとり驚くべき御業を行う方を。 19:栄光に輝く御名をとこしえにたたえよ/栄光は全地を満たす。アーメン、アーメン。 20:エッサイの子ダビデの祈りの終り。 年は明けたが、クリスマスはまだ終わっていない。キリスト教の暦では12月25日の降誕日から1月6日の顕現日までが降誕節。 なので、救い主イエスの降誕との関係の中で10節から17節を見ていきたい。 気になる言葉は、10節にある「シェバやセバの王が貢ぎ物を納めますように。」や15節にある「彼にシェバの黄金がささげられますように。」との言葉。 15節の言葉は、実際に、この詩編が「ソロモンの詩」として詠われ祈られた通りに、シェバの女王がソロモンを訪ね、多くの金が捧げられたという事実が起こった。(列王記上10章1節以下) また、10節に関しては、イエス降誕後に占星術の学者たち(異邦人のリーダたち)が、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた(マタイ2章1-12節)ことによって、紀元前1000年ごろのダビデの祈りが実現したように思える。 21世紀の現代にあって、私は昨年夏に岩手県の被災地を訪問する機会があり、いまだにたいへんな思いをしておられる被災者たちのことを思う。12節-14節の祈りは、身にしみてくる思いがある。天皇陛下も年頭の言葉として、「年頭に当たり被災者のことが改めて深く案じられます。」と著されたようだが、同感だ。 日本では、初詣真っ盛りなのだと思う。明治神宮だけで参拝者は300万人を越えるらしい。そのほとんどが、特に神官や住職の方々の説教などを聞くこともなく参拝者が賽銭箱に献金をしてくださるのは、素晴らしい気もする:)。日本にあるキリスト教会がいくつあるかわからないが、仮に5000あったとしても、クリスマス礼拝、12月29日の礼拝、元旦礼拝さらに1月5日の礼拝で、その全部のキリスト教会の礼拝に参加される方の合計でも300万人には到達しないのが現状ではないだろうか。しかし、10節の「すべての王が彼の前にひれ伏し/すべての国が彼に仕えますように。」あるいは、年末の最後に読んだ97編7節「神々はすべて、主に向かってひれ伏す。」という言葉をかみしめたい。 2014年の元々の初めは、主イエスの降誕。改めて、主の年2014年の到来、あけましておめでとうございます。今年も主に在って恵み深い年となりますように。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 心から主イエスキリストの御降誕を喜びたい。今週は詩編97編を読もう。この12月25日のクリスマス、主の降誕日に与えられている詩編。年末年始は、何かと忙しい時期だが、ぜひ、じっくりこの詩編を味わう時間が与えられるように祈る。25日はもう過ぎてしまったが、主の降誕節は1月6日の顕現日まで続くので、この時期に詩編97編を読まれると良いと思う。    詩編97編 1:主こそ王。全地よ、喜び躍れ。多くの島々よ、喜び祝え。 2:密雲と濃霧が主の周りに立ちこめ/正しい裁きが王座の基をなす。 3:火は御前を進み/周りの敵を焼き滅ぼす。 4:稲妻は世界を照らし出し/地はそれを見て、身もだえし 5:山々は蝋のように溶ける/主の御前に、全地の主の御前に。 6:天は主の正しさを告げ知らせ/すべての民はその栄光を仰ぎ見る。 7:すべて、偶像に仕える者/むなしい神々を誇りとする者は恥を受ける。神々はすべて、主に向かってひれ伏す。 8:シオンは聞いて喜び祝い/ユダのおとめらは喜び躍る/主よ、あなたの裁きのゆえに。 9:あなたは主、全地に君臨されるいと高き神。神々のすべてを超え、あがめられる神。 10:主を愛する人は悪を憎む。主の慈しみに生きる人の魂を主は守り/神に逆らう者の手から助け出してくださる。 11:神に従う人のためには光を/心のまっすぐな人のためには喜びを/種蒔いてくださる。 12:神に従う人よ、主にあって喜び祝え。聖なる御名に感謝をささげよ。 詩編97編は1-5節は神が創造されたすべて、自然も含めて、地球全体で、喜び踊って祝うようにと詠っている。 そして6節から9節では、イスラエルの民、共同体で主を喜び祝う様子が詠われている。さらに10-12節では、個人的なレベルで主にあって、喜び祝うようにと言わい、感謝を捧げるように詠われているように思う。 クリスマスが、つまり救い主であるイエス・キリストの降誕が個人的なレベルでいったいどういう意味を持っているのか、黙想されると良いと思う。 「主イエス・キリストという神を信じると楽でいいですよ。」という牧師がおられた。 彼の言いたかったことは、この詩編の7節にある、「神々はすべて、主に向かってひれ伏す」という言葉に現れているように思う。 というのは、日本的な文化では、お寺や神社などさまざまな拝む対象が存在してしまっている。安倍総理大臣が戦争で亡くなった方たちのためと言われて靖国神社を参拝されたようだ。私の伯父も戦死したがクリスチャンだったので、もしできることなら安部総理はキリスト教会の礼拝にも出席されるのが良いようにも思ったりする。そうすると外交上、もっと楽にならないだろうか?。。。。また、お寺や神社だけでなく、もっと広い意味で、何かに没頭してしまって、神聖なる主なる神ではないものに対して、それが自分の神であるかのごとくに行動を取り続けている人々もいる。 しかし、そのような神々はすべて、主に向かってひれ伏す。 つまり、その主なる神を信じれば、他の神々も包括しているような部分がある。  といってもすべての神々が主と仰ぐような神がいったい存在するのだろうか?という疑問がでてくる。。。。そのような主なるお方が、人間の体で2000年前に誕生した。 それも、とても理解に苦しむような形で。常識では考えられない結婚をしていない乙女、マリアから生まれた。生まれた場所は馬小屋。そして馬のえさをいれる飼い葉おけに寝かされた。名はイエスと名づけられた。日本でいえば、「太郎」とでもいったらよいか、要はどこにでもあるような名前がつけられた。それがキリスト(救い主の意)イエスの誕生の次第だった。  24日のクリスマスイブの礼拝の祝祷で語られた言葉を以下に記しておきたい。 救い主誕生の喜びがあなたの日々の生活を喜びで満たす。 救い主誕生による平安があなたの日々の心配事をとりさってくださる。 救い主誕生の光があなたの置かれた暗闇を明るく照らしてくださる。  そしてベツレヘムの星の下に生まれた愛なる御子が毎日のあなたの生活のなかで共に歩んでくださる。 父なる神と、その子・救い主と、聖霊の御名によって。アーメン Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace