Archive for the ‘詩編を読もう’ Category

Tweet 今週は与えられている詩編は80編の1-8節と18-20節を読もう。今週も最初にできる限りこの詩編作者を想像しながら詩を味わってみよう。次に、待降節にあって、主の降誕と再臨を覚えながら、神はこの詩編を通して現代を生きる私たちに何を語っているか黙想してみたい。      詩編80編 1: 【指揮者によって。「ゆり」に合わせて。定め。アサフの詩。賛歌。】 2:イスラエルを養う方/ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ/御耳を傾けてください。ケルビムの上に座し、顕現してください 3:エフライム、ベニヤミン、マナセの前に。目覚めて御力を振るい/わたしたちを救うために来てください。 4:神よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。 5:万軍の神、主よ、あなたの民は祈っています。いつまで怒りの煙をはき続けられるのですか。 6:あなたは涙のパンをわたしたちに食べさせ/なお、三倍の涙を飲ませられます。 7:わたしたちは近隣の民のいさかいの的とされ/敵はそれを嘲笑います。 8:万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。 18:御手があなたの右に立つ人の上にあり/御自分のために強められた/人の子の上にありますように。 19:わたしたちはあなたを離れません。命を得させ、御名を呼ばせてください。 20:万軍の神、主よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。 今週の詩編もだれが作者であるか断言はできないし、時代も明確ではない。まず2節にある「顕現してください。」、3節にある「来てください。」という願い、さらに、5-7節に書かれている言葉から想定すると、詩編作者が属する国、イスラエルの民が、とんでもないピンチに陥っていることが考えられる。4節、8節、12節の言葉は、ほぼ同じ言葉が繰り返されているが、なかでも「わたしたちを連れ帰り」という表現からして、どこかほかの国へ民全員が捕囚されてしまっているような状態なのかもしれない。そのような状況のなかで、18節の言葉から考えると、神と同等の方が力をもって救い出してくださらないとならない状況を訴えているように思う。 そして、19節では、神への忠誠心を誓っているように思える。  4節、8節、20節で、3回も繰り返されている言葉の中で、「御顔の光を輝かせ」という言葉がある。 毎週の礼拝は、派遣の讃美歌を歌って終わるが、その前にいつも、「祝祷」がある。 祝祷では、 「主があなたを祝福し、あなたを守られます。  主の御顔があなたに輝き、あなたに恵みを与えます。  主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えます。」 という言葉が語られている。 詩編80編のなかで「御顔の光を輝かせ」という言葉と近い言葉が祝祷の中でも使われていることからして、そもそも「御顔の光を輝かせ」や「御顔があなたに輝く」や「御顔をあなたに向け」が、主が民に親密であり、主が近くにいてくださる状況を詩編80編では乞い願っているように思う。  以下は、この80編を私たちが21世紀に読むことを通して、神がわたしたちに何を語ってくださっているかを考えたい。詩編の80編の大きなテーマは、「神にすぐに来てください。顕れてください。」と言ってよいと思うが、作詞された時代と現代とで、「神にすぐに来てください。」という緊急性の違いがあるかどうかということを考えた。 現代にあって、宗教を避けようとする機運が高まっているように感じる。そのような世間情勢は、ある意味、「神様なんて来ていただかなくていいんですよ。」という社会的風潮を感じる。 しかし、本当にそうなのだろうか。しかし、実際問題、人類が自らの努力とか知恵だけでは全く解決できない問題にたくさん遭遇している。もう三年近く前になるが、東日本大震災、また最近のフィリピンの台風やアメリカ各地でおこる竜巻などの自然災害などはもちろん、アメリカの債務が天文学的な数字になってしまっていることや、日本もそのGDPからすればとてつもない債務になっていて、解決策があるとは思いがたい。また諸国間の外交問題も不協和音が響いているように思う。世界的に大きなピンチに陥っているように思う。そこで、礼拝堂で協和している和音を聞き、神に祷り、神にすぐに来てくださいと歌うように、詩編80編が招いているように思う。 復活ルーテル教会の聖餐式で、よく「マラナタ」を歌うが、その意味は、「主よ、来てください。」 アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週与えられている詩編は42編。最初にできる限りこの詩編作者を想像しながら詩を味わってみよう。次に、待降節にあって、主の降誕と再臨を覚えながら、神はこの詩編を通して現代を生きる私たちに何を語っているか黙想してみたい。      詩編 / 42編 1:【指揮者によって。マスキール。コラの子の詩。】 2:涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。 3:神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。 4:昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う/「お前の神はどこにいる」と。 5:わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす/喜び歌い感謝をささげる声の中を/祭りに集う人の群れと共に進み/神の家に入り、ひれ伏したことを。 6:なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。 7:わたしの神よ。わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から 8:あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて/深淵は深淵に呼ばわり/砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。 9:昼、主は命じて慈しみをわたしに送り/夜、主の歌がわたしと共にある/わたしの命の神への祈りが。 10:わたしの岩、わたしの神に言おう。「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ/嘆きつつ歩くのか。」 11:わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き/絶え間なく嘲って言う/「お前の神はどこにいる」と。 12:なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。 この詩編もだれが作者であるか断言はできないし、時代も明確ではない。しかし、5節の言葉から想像して、かつては喜び賛美しつつ、祭りの中をユダヤ教のエルサレムにある神殿に入り、神聖なる神の御顔(契約の箱を意味しているかもしれない)に会っている経験をした。しかし、神殿に定期的に入って礼拝するような生活はできなくなり、神殿からは遠く離れた地で、ほとんど絶望とも思えるような状況に置かれていることを詠っている。ダビデがサウルから追われほとんど絶対絶命とも思えるような状況になってしまった時のことを詠っているようにも思える。エルサレムから離れ、ヨルダンの地、さらに現在のシリアとレバノンの国境にあるヘルモン山の方まで、逃げていって、その地で、あたかも殺されるか自決せざるを得なくなる状況を待っているようでもある。詩編作者を追いつめている者は、「お前の神はどこにいるか」(4節、11節)としつこく迫っている。しかし、完全に希望を失っているわけではない、6節とまったく同じ言葉が、12節の中で繰り返されている。自ら「神を待ち望め」と詠い、さらに「御顔こそ私の救い」と告白しようと詠うなかで、神なる方、救い主、を待ち望む中に、希望を詠っているように思える。 待降節にあって詩編42編をしっかり読むことはとても意味が深いと感じる。21世紀に生きる私たちにとって、2000年前に主イエス・キリストは来られたが、わたしたちは、その当時生きていた人々のようにイエス・キリストという生身の体を持った主なる神を見ることはできない。それはある意味、この詩編作者が神の御顔を見れずにいることと共通している。現代、キリスト教を信仰していない方々から「あなたの神はどこにいるのか。」と言われてしまう面はある。それでも、この詩編作者が詠っているように、「神を待ち望め。」と私たちも自分たちに詠うことの意味がある。主なる救い主イエスが2000年前に顕われてくださったときに、再臨してくださるということが新約聖書(マタイ16:27-28、ルカ21:27、使徒1:11他)には書かれている。また、父なる神、子なるキリスト、そして、聖霊を信じるキリスト教徒にとって、復活したイエスが「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)と語ってくださっていたことは、たとえ目に見えなくても、私たちの間に聖霊が、つまり、イエスの存在があることを確信できる。そして、私たちがこの世で生きている時か、天国でかはわからないが、私たちは主の御顔を見る時が訪れることを、主なる神がこの詩編を通して教えてくださっているように思える。     詩編42編の「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める」という言葉が詠われている。それは鹿にとって水が不可欠のように、どのような時代であろうが、私たち人間にとって神は不可欠の存在であり、私たちから見えるか見えないかに関わらず、神はしっかり存在してくださっている。私たちがどのような状況にあろうが、たとえ絶望と思えてしまうような状況にあっても、実は主にある希望を抱いて間違いはない。 アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週与えられている詩編は72編。最初に「ソロモンの詩」と書かれてるので、ダビデとベトシェバの子で、ダビデ王の後継者となったソロモンを思い浮かべながら読むことをお勧めしたい。二回目は、イエス・キリストの降誕節にあって、この詩編72編は、現代の私たちに何を語りかけているかを考えながら読んでみよう。      詩編 / 72編 1:【ソロモンの詩。】神よ、あなたによる裁きを、王に/あなたによる恵みの御業を、王の子に/お授けください。 2:王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ/あなたの貧しい人々を裁きますように。 3:山々が民に平和をもたらし/丘が恵みをもたらしますように。 4:王が民を、この貧しい人々を治め/乏しい人の子らを救い/虐げる者を砕きますように。 5:王が太陽と共に永らえ/月のある限り、代々に永らえますように。 6:王が牧場に降る雨となり/地を潤す豊かな雨となりますように。 7:生涯、神に従う者として栄え/月の失われるときまでも/豊かな平和に恵まれますように。 18:主なる神をたたえよ/イスラエルの神/ただひとり驚くべき御業を行う方を。 19:栄光に輝く御名をとこしえにたたえよ/栄光は全地を満たす。アーメン、アーメン。 ソロモンのことを思いながら、以下、書き綴りたい。冒頭に書いたように、ソロモンはダビデ王を引き継いだ南北統一国家の王。上記の箇所ではないが、この詩編の最後20節には、「ダビデの祈りの終わり」という言葉が書かれている。ということは、ダビデが後継者ソロモンに向けて祈った詩ということになる。 この詩編を読む限り、たしかに、祈りであり、ソロモンの就任にあたり、またソロモンに限らず、後世の王たちの就任式などの礼拝でも用いられていたのではないかと想像する。 言ってみれば理想的な王をイメージして祈られているように思う。 ソロモンという名前は、「シャローム」が語源で、ヘブル語の平和の意味。ダビデの波乱万丈の人生のなかで、その子には「平和」な時代を期待し祈りつつ、名づけられたように思う。 その期待と祈りの通り、ソロモン就任当初は、確かに平和の到来といって良いのかと思う。そして、ダビデ時代には完成しなかった、神殿の建設が行なわれた。その神殿にありとあらゆる金銀財宝を集め、主へ奉献したようだ。さらに、豪華な王宮をつくり、その栄華を極めた。 そして、そのような栄華を極める時代は長続きはしない。諸外国との貿易を盛んに行い、豪華な品々を集めたり、外貨導入もしようとしたのだろうが、結局は貿易赤字だったのだろう。税収を増やす政策をとらざるを得なくなり、統一国家のはずが、逆に分裂する要素が生まれていった。  さて、以下は、アドベントの時期にあって、イエス・キリストのことを思いながら、書き綴りたい。 この詩編の18節、19節の言葉には、全知全能の神の存在を讃えて、さらに救い主の到来をも祈っているように思える。  そして、イエス・キリストは、この世に来られたとき、ソロモンについて何と言われたか? マタイ6章29節には、イエスの言葉として、「しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」そのイエスの言葉は、人間的な栄華の虚しさを語られ、真の栄華とは何かを問われているように思える。 21世紀を迎えている現代、尖閣諸島や竹島問題から中国や韓国の防衛識別圏がメディアを賑わしている。 微妙な識別圏の問題も、エネルギーなどの関係で、それぞれの国の栄華に関係してくるのかもしれない。 しかし、3000年前のソロモンの栄華や、その栄華に対して、イエスがどう話されていたか、よく考えたい。 国を超えて、主なる神が驚くべき御業をなしとげらる主イエスの平和、主イエスにある希望を抱く。アーメン Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今年の11月28日は、サンクスギビング(感謝祭)の祝日。感謝祭にふさわしい詩編100編をぜひ読んでみよう。    詩編 / 100編 1:【賛歌。感謝のために。】全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。 2:喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ。 3:知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ。 4:感謝の歌をうたって主の門に進み/賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。 5:主は恵み深く、慈しみはとこしえに/主の真実は代々に及ぶ。 復活ルーテル教会では、礼拝のはじめに讃美歌21の5番をよく歌うが、まさに詩編100編がそのまま讃美歌になっている。この感謝祭を過ごし、これからクリスマス、そして、新年に向かっていく中で、ごちそうを食べられる方はごちそうをいただく中で、家族をはじめ、いろいろな方々に様々な手段で感謝の意を表す季節だと思う。しかし、この詩編の100編を読み、あるいは讃美歌21-5を歌い、ぜひぜひ、わたしたちを造られた神、恵みふかく、とこしえに憐れんでくださっている神への感謝を忘れないようにしよう。   感謝祭近くになると、「ハッピィ サンクスギビング」という言葉をかけあう。 昨日、復活ルーテル教会と同じ、アメリカ福音ルーテル教会に属する一教会で、会計を担当してくださっているボブさんという方と電話で話していた。そして、仕事の話が終わり、「ハッピィ サンクスギビング」という言葉をしゃべって電話を切ろうと思った。通常であれば、「サンキュー、ユー、too」という言葉が返ってきて電話を切ることになるのだが、そうではなかった。 かなりこみいった会計処理の問題を話していた電話で、結構な長電話だったが、さらに時間を延長して話をするというか、話を聞くことになった。  というのは、奥様が今年亡くなられたとのことで、45年間必ず妻といっしょに感謝祭を過ごしてきたのに、今年は過去46年中、初めて妻のいない感謝祭を過ごすということだった。 私は彼のことを教区の集まりなどで、過去数回話したことがあるだけだったので、彼自身のことをそれほど知らなかった。それでも、奥様のことは何度か話にでてきて、少し知っていた。彼は敬虔なルーテル教会の信者であり、奥様は敬虔なカトリック教会の信者であるということだった。  電話を切ってからも、いろいろなことが気になった。カトリック教会がルターを破門することになるきっかけである「95カ条の論題」が1517年に書かれて、つまり宗教改革が始まって、今年は496年目にあたるはずだ。すると、ボブさんご夫婦が金婚式、結婚50年を二人で迎えることができれば、それは同時に宗教改革500年ということになったはずだ。カトリックとルーテルの一致の問題は、毎年、カトリック教会とルーテル教会のそれぞれの委員が集まって話しているが、ボブさんご夫妻のように、生活面では46年前に一致して来られた方もいるということを考えた。 さらに次のようなことも考える。この感謝祭の当日、ボブさんと同じように、なかなかハッピィという気持ちにはなれずに、いや涙のなかで、この感謝祭を迎えている方がいる。数日前に日本から早々と喪中の葉書が届いたが、私はアメリカの感謝祭の過ごし方と日本のお正月の過ごし方は、家族が集まるという点で似ていると思っている。 そうなると、ボブさんが電話を切ろうとする間際に、奥様が亡くなった話をされたことは、いわば、喪中宣言をされたようにも思える。いずれにしろ、ボブさんばかりでなく、いろいろな事情から、今年のサンクスギビングを、あるいは今年のサンクスギビングもお一人で過ごされている方々がいることを覚える。 そこに、詩編100編5節にあるように、主の恵みが豊かに、そして慈しみが永遠に注がれている。”Thanks be to God” 「感謝は神に」 アーメン  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週読む詩編は46編。お葬式で一番よく読まれる詩編23編などとともに、たまたま23という数字の2倍の46編も、とても有名な詩編。 二回は読んでいただきたいと思うし、また、人生において何かの苦難を経験した時などにおいて、ぜひこの詩編46編を読んだら良いと思う。   詩編 / 46編 1: 【指揮者に合わせて。コラの子の詩。アラモト調。歌。】 2:神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。 3:わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも 4:海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。〔セラ 5:大河とその流れは、神の都に喜びを与える/いと高き神のいます聖所に。 6:神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。 7:すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。 8:万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ 9:主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。 10:地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。 11:「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」 12:万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ この詩編に関係して、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターのエピソードと、現代に生きる私の友人の牧師が経験したことを書きたい。  マルチン・ルターは、この詩編46編をもとに、讃美歌21の377番「神はわがとりで」(あるいはちょっと古い1954年にまとまった讃美歌の267番「神はわがやぐら」)を作詞作曲している。讃美歌をよく知る方々の間で、「好きな讃美歌は?」と聞くと、この讃美歌は上位に入ってくることが多い。ルターは16世紀の宗教改革の中心人物であり、意志の強い英雄のように思われてしまう面がある。しかし、カトリック教会の司祭であった彼が1517年に「95カ条の論題」を書き上げて発表した後は、カトリック教会からは破門されてしまい、多くの困難、苦難の中に立たされ悩みの中で、やむをえず宗教改革が遂行されていき、プロテスタント教会という大きな存在が形成されてしまったような面がある。ルターは1525年、41歳の時、同じカトリック教会の修道女だった16歳も年下のカタリーナと結婚している。カタリーナはとてもユーモアあふれる女性で、真っ黒な喪服を着てマルチンの部屋に入ってきて、冗談で「神は亡くなられました。」と話した、というエピソードがある。それくらい、マルチンルーターが落ち込んだような時があったようだ。しかし、マルチンは、自分の信仰がまるで神が死んでしまわれたようであったのかと、はっと気づかされた。そのような時、この詩編の言葉が彼に勇気を奮い立たせた様子が思い浮かんでくる。1527年から2年ほどかかって、詩編46編をもとにした、377番の有名な讃美歌が出来ていった。   私と同じように、会社勤めを20年以上したあと、5年近くかかって、一昨年牧師になった方がいる。彼女の人生も苦難、悩みの連続だった。17歳のときに、期せずして妊娠してしまう。彼や彼の家族には理解は得られないまま、男の子を出産する。「神はわたしたちの避けどころ、私たちの砦」という言葉がどれだけ彼女を助けたか。 数年後に高校時代の仲間で会うなかで、一人の男性と結婚する。夢あふれる結婚生活を始めるなか、彼の実家のあるメキシコに旅行する。若いご主人と、彼の弟が酔った勢いで喧嘩をはじめてしまう。なにを思ったか弟がナイフを握りご主人が刺されてしまう。救急車で病院に運ばれるが、結局、ご主人は死亡。その時も「神はわたしたちの避けどころ。」という言葉に慰められ、また生きて行く勇気が与えられる。現在、息子さんはもう30歳となり、彼女は、一教会の牧師になっている。 牧師である以上、困難はつきものだか、避けどころである神がいつも彼女に寄り添っている。  詩編46編の言葉そのものにしても、あるいは、讃美歌377番あるいは267番にしても、それらの言葉によってどれだけ多くの人々が励まされ、どん底の状況から回復したか、計り知れない。 最後に377番の一、二節の言葉を書き留める。 1. 神はわが砦 わが強き盾、すべての悩みを 解き放ちたもう。 悪しきものおごりたち、よこしまな企くわだてもて いくさを挑む。 2. 打ち勝つ力は われらには無し。 力ある人を 神は立てたもう。その人は主キリスト、万軍の君、われと共に たたかう主なり。 復活ルーテル教会に集っている方々、またそのご家族の中にも、困難、苦難の中におられる方々がいる。 そのお一人お一人に、神が砦となり、また強き盾となってくださっていることを祈りに覚えつつ。  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週読む詩編は98編。今週も二回は読みたいと思う。一回目はこの詩編を、まず「窓」にたとえて読んだ場合、いつの時代かは特定できないが、ユダヤ教の礼拝で歌われている様子を窓を通して見るような感覚で、どのような光景が思い浮かんでくるか思いを巡らせてみよう。 そして、二回目は「鏡」にたとえられるか、つまり、その光景がまるで現代に起こっていることを映し出しているか考えよう。映し出しているとするとどのような光景に変わってくるのか、思いを巡らせてみよう。  詩編 / 98編 1: 【賛歌。】新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた。 2:主は救いを示し/恵みの御業を諸国の民の目に現し 3:イスラエルの家に対する/慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人は/わたしたちの神の救いの御業を見た。 4:全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。 5:琴に合わせてほめ歌え/琴に合わせ、楽の音に合わせて。 6:ラッパを吹き、角笛を響かせて/王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。 7:とどろけ、海とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものよ。 8:潮よ、手を打ち鳴らし/山々よ、共に喜び歌え 9:主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き/諸国の民を公平に裁かれる。 「窓」として読んだ時の光景? 「自然の中で主なる王を賛美する祭り」 この詩篇が歴史上、何の時代に書かれ、最初に歌われたのがいつかははっきりわからない。 しかし、1節で「主は驚くべき御業を成し遂げられた」と詠っている部分は、エジプトから40年あまりを経て、イスラエルの民がカナンの地へと定住した紀元前12世紀ごろのことを意味しているかもしれないし、紀元前6世紀にバビロン捕囚から帰還した時のことを詠っているかもしれないし、まったくことなる出来事を指しているかもしれない。あるいは、主イエス・キリストの降誕そして十字架上の死そして復活を預言して詠われているようでもある。 いずれにしろ、大切なことは主なる王(6節)が導いてくださって、その民として喜び、主を賛美しようと歌っている。 それは、主との交わりの礼拝の時ともいえるし、お祭りの時とも言えるように思う。 祭りと礼拝は、似ても似つかぬことのように思われてしまうかもしれないが、ともに神を賛美するという点では共通で大いに関係があると思う。そして、いろいろな種類の音が聞こえてくる。 人々の歌声や、琴の音、ラッパや角笛の音はもちろんだが、さらに、湖の波や川の流れの音、さらにはそれらの音が山々に反響してくる音なども、主なる王を賛美している。大自然の中で、屋外で行われる主を賛美する祭りの光景を思い浮かべる。   「鏡」として読む時の光景? 「新しい楽器を用いて新しい讃美歌を歌う」 復活ルーテル教会の礼拝では、毎日曜日に3回の礼拝が行われているが、よくよく考えてみると、すべて主を賛美する祭りでもある。また三回の礼拝では、実にさまざまな楽器が使われ、伝統的な讃美歌や近年作詞作曲されたプレイジングソング等々、さまざまな種類の賛歌が歌われる。第一礼拝はトラディショナルな礼拝でオルガンが使われているが、オルガンといっても、パイプオルガンの音色を出す電子オルガンが使われている。また第二礼拝は、何種類かのギターとドラム(ともに電子的に音を増幅している)、さらにピアノも使われる。 第三礼拝では、また、オルガンが使われ、時々、ピアノや弦楽器も使われ、日本語の讃美歌がたくさん歌われる。紀元前のユダヤ教の礼拝からしてみれば、数々の新しい楽器が使われているのは事実。そして、礼拝で歌われる讃美歌は、新しい歌も選ばれている。 これからも、さまざまな新しい楽器が使われ、新しい歌も歌われていくだろう。詩篇の中では、海の波の音や、山々の反響音も加わっているが、そのような音も、電子的に再現されて、礼拝で使われている場合もあるに違いない。 そのような光景を思い浮かべている。  最後に、詩篇98編で使われている「新しい歌」という言葉について触れたい。この言葉、詩篇33編、40編、96編、98編、146編、149編で使われている。 特に、詩篇40編では、私たちの口に、新しい歌が授けられたことが詠われている。そのほかの箇所では、ほとんど、新しい歌を歌おうと、呼びかけている。 主イエス・キリストの十字架と復活から約2000年の経った今も、イエスの生き様が多くの人々の心を動かし、洗礼へと導き、また聖餐礼拝へも導いてくださっている。 それに伴い、新たな主の救いを体験して、新たな讃美歌が主イエスの導きにより、世界のどこかで毎日、作詞作曲されている。バッハは礼拝の度に新しい曲を演奏していたらしい。 復活ルーテル教会では、毎週新しい讃美歌を歌うわけではないが、主イエス・キリストの福音により新しく洗礼をうけている方々が出るなかで、新しい歌も歌おう。   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet (旅行中、パソコンの調子が悪くなり掲載が遅れましたことお詫びします。) 今週読む詩編は17編。二回は読みたいと思う。一回目はこの詩編を、今週も、まず「窓」にたとえて読んだ場合、つまり約三千年前のダビデの時代の様子を窓を通して見るような感覚で、どのような光景が思い浮かんでくるか思いを巡らせてみよう。 そして、二回目は「鏡」にたとえられるか、つまり、その光景がまるで現代に起こっていることを映し出しているか考えよう。映し出しているとするとどのような光景に変わってくるのか、思いを巡らせてみよう。  詩編 / 17編 1:【祈り。ダビデの詩。】主よ、正しい訴えを聞き/わたしの叫びに耳を傾け/祈りに耳を向けてください。わたしの唇に欺きはありません。 2:御前からわたしのために裁きを送り出し/あなた御自身の目をもって公平に御覧ください。 3-4:あなたはわたしの心を調べ、夜なお尋ね/火をもってわたしを試されますが/汚れた思いは何ひとつ御覧にならないでしょう。わたしの口は人の習いに従うことなく/あなたの唇の言葉を守ります。暴力の道を避けて 5:あなたの道をたどり/一歩一歩、揺らぐことなく進みます。 6:あなたを呼び求めます/神よ、わたしに答えてください。わたしに耳を向け、この訴えを聞いてください。 7:慈しみの御業を示してください。あなたを避けどころとする人を/立ち向かう者から/右の御手をもって救ってください。 8:瞳のようにわたしを守り/あなたの翼の陰に隠してください。 9:あなたに逆らう者がわたしを虐げ/貪欲な敵がわたしを包囲しています。 10:彼らは自分の肥え太った心のとりことなり/口々に傲慢なことを言います。 11:わたしに攻め寄せ、わたしを包囲し/地に打ち倒そうとねらっています。 12:そのさまは獲物を求めてあえぐ獅子/待ち伏せる若い獅子のようです。 13:主よ、立ち上がってください。御顔を向けて彼らに迫り、屈服させてください。あなたの剣をもって逆らう者を撃ち/わたしの魂を助け出してください。 14:主よ、御手をもって彼らを絶ち、この世から絶ち/命ある者の中から彼らの分を絶ってください。しかし、御もとに隠れる人には/豊かに食べ物をお与えください。子らも食べて飽き、子孫にも豊かに残すように。 15:わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み/目覚めるときには御姿を拝して/満ち足りることができるでしょう。 皆さんは、この詩編を「窓」として読むとき、どんな光景を思い浮かべられているだろうか? また「鏡」のように現代の光景をも映しているだろうか? 私が思いを巡らせたことは以下のような事。 「窓」として読んだ時の光景? 「ダビデの真剣な祈り」 1節に「祈り、ダビデの詩」と書いてあり、文字通り、ダビデが三千年前にこのような祈りを毎晩のように訴えていた様子を思い浮かべている。ダビデの生涯を思うと、史実として簡単に言うならば、三つの大事業を行ったと思う。一つ目は北のイスラエル国と南のユダ国の南北統一国家の建設という偉業を成し遂げた。二つ目は南北の国家統一にとどまらず、その国家領土を拡大した。 三つ目には、王国の政治支配と、ユダヤ教の民族的支配を結びつけた。 しかし、それらの三つの大事業の影には、困難で深刻な状況に何度も直面しつつ、日々の主の対話、真剣であたかも神と格闘するかのような祈りと、主なる神の導きの中で偉業の遂行が行われた様子が伺える。  詩編の構成として、1-2節、6-8節、13-14節の部分でダビデから主なる神への深刻な祈願が詠われる。3-5節ではダビデと主の関係が詠われる。9-12節ではダビデを敵とする人々が、ダビデに対してどのような行為をとろうとしているか、すなわち、主なる神を畏れないものたちとの関係を詠っている。 それらの言葉の節々に、ダビデの真剣さがあふれ出ている。さらに15節の言葉にはダビデの祈りを切実に聞いてくださる主なる神のおかげで、ダビデに生きる力が与えられるように詠っているように思う。 上記に「毎晩のように」と書いたが、3-4節の言葉に「夜なお尋ね」という言葉があることや、15節の言葉に「目覚めるときには」という言葉があり、それらの言葉から推察して、ダビデは毎晩このような祈りを主なる神に唱えていたような光景を思い浮かべる。 「鏡」として読む時の光景? 「さまざまな共同体のリーダの祈り」 ダビデに相当するような政治的かつ宗教的指導者が、国家レベルで現在の世の中に存在しているかと思うと、具体的にこの方という人は思い浮かばない。ところが、家庭、教会、市町村レベルでも、知事や州のレベルでも、あるいは国家レベルでも、信仰を持って生きている方々が、ダビデと同じように真剣に主なる神に祈り、格闘するような思いで日々の決断を主との対話の上で決めて、遂行しているリーダとそのリーダの率いる共同体が現代にもたくさん存在し、全世界に主なる神の祝福が今も、いつの時代も与え続けられているように思える。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 先週は詩編84編1-8節を読んだ。今週はその続きで84編の9節から13節を読もう。たった5節なので、3回は読んでみよう。 また、先週の84編1-8節も再度読むのも良いと思う。そして先週と同じように、この詩編を窓のように読む場合と鏡のように読む場合で、それぞれ光景を思い浮かべてみよう。  詩編 / 84編 9:万軍の神、主よ、わたしの祈りを聞いてください。ヤコブの神よ、耳を傾けてください。〔セラ 10:神よ、わたしたちが盾とする人を御覧になり/あなたが油注がれた人を顧みてください。 11:あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは/わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。 12:主は太陽、盾。神は恵み、栄光。完全な道を歩く人に主は与え/良いものを拒もうとはなさいません。 13:万軍の主よ、あなたに依り頼む人は/いかに幸いなことでしょう。 さて、皆さんは、この詩編を「窓」として読んだ時、どんな光景を思い浮かべられただろうか? また「鏡」のように現代の光景をも映しているだろうか? 今週も先週に引き続いて私が思いを巡らせたことを書き留めたい。 「窓」として読んだ時? 「エルサレムに上る決意」 先週の8節までを読んだ限りでは、詩編作者自身は、まだ神殿のあるエルサレムに上って行く決断をしていなかったように思う。しかし、この詩編の後半では、詩編作者自身も、その仲間たちとともにエルサレムに上って行く決意をしているように見える。 それは9節、10節の祈りの言葉からわかる。 9節では主なる神への呼びかけが詠われており、10節には、エルサレムへの旅の途中で遭遇すると思われる困難や危険に対しても、私たちを守ってくださる方、つまり救い主(ヘブライ語で「油注がれた人」とはメサイア、救い主を指す。ここで詠われたメサイアについてこの記事の最後に記したい。)がいっしょについているので、その方を神がしっかりと、ご自身が油注いだ救い主として認めて、私たちが旅の途中に守られるようにと祈っているように思える。11節では神殿の庭で過ごす一日は、神殿から離れたところでいただける恵みに比べて千倍の恵みにも相当する。 それは、当時、エルサレムから遠く離れて詩編作者が生活していた土地では、神を崇拝しない人々との暮らしであり、耐え難い暮らしだったのだろう。そして12節では主なる神を賛美し、そして神殿のあるエルサレムへ向かうことが正しい道を歩くことであり、その道を歩く人々に豊かな恵みを与えてくださると詠う。そして13節で、主に信頼して生きることこそ、幸せなことと詠って、この詩編は終わる。 「鏡」として読む時?「教会を離れた方々が教会に戻る決意」 先週は、復活ルーテル教会で毎週礼拝に参加していたが、引越しやあるいは病等のなんらかの理由で、毎週の礼拝に来られなくなった方々のことを覚えると書いた。今週は、もっと広い意味で、復活ルーテル教会に限らず、なんらかのキリスト教会との接点があったのに、真のキリストの教えから遠ざかってしまっている方々のことを覚えている。 それは、幼稚園でも小学校時代でも、なんらかのキリスト教会の催しに来た時でも、礼拝堂に入って天井との空間に驚いたり、オルガンの響きや聖歌隊の讃美歌を聴いた時でも、なんらかの神との接点が起こった時のことを憶えている方。そのような方々が、また教会に戻って来ようという決意をしていることを覚える。 ただ、一人では戻ることは難しく、家族や友人たちと、もし、そのような身近な方がいない場合でも、最も強力な友である、イエスキリストというお方、聖霊、と共に礼拝堂に戻って来ることができる。 そして毎週、礼拝に集う生活がどんなにか素晴らしく幸せであるかと気がつき、讃美歌を日々歌う生活をするようになる。  上記、「窓」として読むときの内容で、メサイアのことを書いた。詩編作者が生きていた時代は、イエス降誕以前なので、メサイアは世の中に登場していない。またイエスをメサイアとするのはキリスト教であり、現代のユダヤ教では、今でもメサイアは登場していない。それでも、詩編作者が、「あなたが油注がれた人を顧てください」と詠っているのは興味深い。ダビデの子孫のだれかを指して詠っているのか、あるいは、メサイアの登場を預言して詠っているのかとも思う。詩編作者がこの詩を詠った当時の明確なことはわからない。比較的短い詩編84編を二週間に渡って読んだ結果、21世紀の今という時代にあって、2000年前にキリストが到来したのは歴史的事実でも、それを認めずにキリストから目を背けて暮らしている方々に、大きな変化の時期が訪れていると考えさせられた詩編だった。本日10月31日はハローウィンかつ宗教化改革記念日である。この時期にふさわしい詩編だと思う。この詩編を本日読むように導かれたことに感謝し、礼拝に来ようとしている方々がいることを確信し、その道が守られるように祈る。   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 10月24日 詩編を読もう:復活ルーテルへの道 (詩編84) 牧師:安達均 今週読む詩編は84編1-8節。とても短い。2回でも3回でも読んでみよう。ただ、今週は少々思い巡らす質問を変えてみたい。 説教では時々話しているが、聖書は「窓」にもたとえられるし、「鏡」にもたとえられる。というのは、聖書に書かれている内容は、まるで「窓」を通して外を見るように、歴史的に数千年前に起こった事を「聖書という窓」を通して数千年前の様子を伺うように読むことができる。しかし、その「窓」が「鏡」のように変わることもある。つまりその聖書に書かれている内容が「鏡」のように、私たちが現在体験していることを、「聖書という鏡」が映し出しているようにも読める。 そこで、今週の詩編を「窓」として読むとき、どのような光景が浮かんでくるか? さらに「鏡」として読むとき、現代の私たちをどのように映し出しているように読めるか? そのような二つの質問に思いを巡らせてみよう。  詩編 / 84編 1:【指揮者によって。ギティトに合わせて。コラの子の詩。賛歌。】 2:万軍の主よ、あなたのいますところは/どれほど愛されていることでしょう。 3:主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。 4:あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り/つばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。 5:いかに幸いなことでしょう/あなたの家に住むことができるなら/まして、あなたを賛美することができるなら。〔セラ 6:いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。 7:嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。 8:彼らはいよいよ力を増して進み/ついに、シオンで神にまみえるでしょう。 皆さんは、この詩編を「窓」として読むとき、どんな光景を思い浮かべられているだろうか? また「鏡」のように現代の光景をも映しているだろうか? 私が思いを巡らせたことは以下のような事。 「窓」として読んだ時の光景? 「エルサレムを離れて」 1節に「ギディト」とあるがこれはおそらく琴のような楽器の名称と思われる。「コラ」というのは、合唱隊を務めた人々。 この詩編の作者は、かつて、エルサレムに生活していたが、今はどこか遠く離れた場所に生活しているのだと思う。しかし、エルサレムに住み、神殿の中に入った時のことが忘れられず恋しくて、このような詩を主に向かって詠っている。 神殿では、聖壇の上の方に当たる部分ではすずめやつばめが巣をつくって雛がかえるような光景も見受けられたのだろう。そして、またいつか神殿に入り、神に向かって賛美することができるなら、どれほど幸いなことかと詩編作者は詠う。(以上2-5節)  さらに詩編作者が生活している土地から、エルサレムに旅をする人々のことを詠っている。この詩編作者が居る場所を特定することはできないが、その場所からエルサレムに向かうことは、かなりの危険を伴う旅だったのかと思われる。 しかし、勇気を出して、心を開いて神を信頼して、エルサレムに向かうならば、たとえ険しい谷があろうが、また雨に打たれようが、谷間は美しい泉と変わり、また雨も励ましの祝福と思えるようになり、エルサレムに到着することができる。そして、また神殿に入って、主に会うことができる人々はどんなにか幸せだろうかと詠っている。(以上6-8節)   「鏡」として読む時の光景? 「復活ルーテル教会を離れた方々の思い」 復活ルーテル教会で毎週礼拝に参加しておられたが、引越しやあるいは病等のなんらかの理由で、毎週の礼拝に来られなくなった方々のことを覚えている。 復活ルーテル教会のどこかですずめや鳥が巣を作っている光景を見た覚えは無いが、中庭はきれいで、あちこちに鳥がとまれるような木はある。また礼拝堂は美しく、入った時に豊かな霊に満たされた経験をお持ちの方々は多いと思う。そして、また毎週の礼拝に出ることができたらどんなに良いかと思われている方々がおられる。そのような方々の中で、病が治癒するなり、あるいは礼拝出席を妨げていた何らかの理由から解放され、勇気を出し、心を新たにされて、再び、復活ルーテル教会の礼拝に参加できるようになる方々もおられる。 そのような方々に、豊かな神の祝福がある。  亡くなった方々も引っ越された方々も、あるいは、なんらかの事情から復活ルーテルに来られない方々も含めて、どこに居るにしても、主の祝福があることを祈る。 また、復活ルーテル教会の礼拝に戻って来られることが可能な方々には、物理的にも心理的にも、ぜひ復活ルーテルへの復活の道が与えられるように祈る。 アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週読む詩編は121編。 とても短い詩編なので、3回読んで、気になった言葉は何だったか? 自分に何を語りかけられたか? またコミュニティに何を語りかけられているか? そのような質問に思いを巡らせてみよう。  詩編 / 121編 1:【都に上る歌。】目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。 2:わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。 3:どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。 4:見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。 5:主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。 6:昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。 7:主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。 8:あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。 皆さんは、どんなことに思いを巡らせておられるだろうか。いつもの三つの質問に対して、私が思いを巡らせたことをシェアしたい。 気になる言葉は何だったか? 「目をあげて」 「目をあげて」というこの言葉、ピンと来たことは、10月10日に礼拝で二曲目に歌った讃美歌21の156番。 普通の讃美歌だと301番で「やまべに向かいてわれ目をあぐ」という歌詞ではじまる讃美歌。 いずれの歌詞もほとんど詩編121編の内容がずばり歌われている。 この詩編、一番最初に「都に上る歌」と書かれていて、それは、旅に出かける時の詩なのかと思う。 そして、旅に出かける前に、これから歩いていく方向には山があり、その山々を見上げて、少々不安を感じながらも旅の安全を確信するような詩だと感じる。ところが、10月10日の福音書は、復活ルーテル教会ではルカ10章にある、「良きサマリア人」のたとえ話で、旅人が山賊に襲われてしまい、持ち物を盗まれ、半殺しになってしまう話。この詩編を歌っておきながら、旅人が襲われてしまう話が取り上げられていたのは、滑稽に思える。イエス様がなんとなく微笑んでおられるようだ。   自分に何を語りかけられたか? 「人生の旅路に」121編を繰り返し読むとき、何日もかかって旅をする様子が浮かんでくる。詩編が書かれたのは紀元前であり、車も電車も飛行機も、もちろんなかった時代。 現代であれば車で朝に出発すれば夕方には到着できるような距離でも、当時は何日もかかって旅をするという、人生の一大事だったのかと思う。 しかし、この詩編に詠われているのは、本当に物理的な、どこかからどこかへ旅をするという具体的な旅を詩にしているのだろうか? 詩編作者と話をできるわけではないので、なにも確実なことはいえないが、どうも詩編作者は、物理的な旅を詠っているのではなく、人生の旅路を詠っているように思える。少なくとも、私には、旅は比喩であり、人生の旅路を詠っている詩に思えてくる。  コミュニティに何を語りかけているか?  「神との関係」 米国経済は、ここ数週間、米国債務問題で揺れていた。米国の債務は17兆ドルになっているが、法律があり米国の債務には上限が決められている。議会がなかなかその上限を引き上げる法案作成、可決をできなかったために、一部政府機関が閉ざされてしまう事態に陥っていた。日々の経済活動のなかで短期的には債務上限の引き上げをしない限り、米国債務不履行に陥ってしまうため、世界経済にも不安を与えていた。しかし、幸い議会では期限だった本日の早朝に法案を可決し、最悪の事態は回避され感謝したい。しかし、今回の回避はあくまで一時的なもので、1月には、また似たような事態に陥る可能性があるとされる。そして1月に議会がなんらかの法案を通したとしても、またすぐに問題が浮上してくるのではないだろうか。ある意味、アメリカ国民も、また米国経済が世界経済に大きな影響を及ぼしている現状からして、全世界の市民も、世界中で袋小路というか、行き止まりの旅路を歩んでいるような気もしている。しかし、この詩編121編に詠われていたことを、今一度、よくかみしめたい。 すべてを造られた主のもとから助けが来る。 全世界の市民が、すべてを造られた主、唯一の神、との関係をしっかり保つこと、主が与えてくださっている信仰に生きることで、袋小路が袋小路ではなくなる、行き止まりの旅路が、解放への旅路に転換する。   「神との関係をしっかり保つこと、主が与えてくださっている信仰に生きること。」と書いたが、これらがどういうことなのか、さらに聖書日課にある聖書箇所を読みつつ、10月20日の日曜の礼拝で与えられる御言葉を待ちたい。     Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace