Tweet 今週読む詩編は111編。 いつものように、3回読んで、気になった言葉は何だったか? 自分に何を語りかけられたか? またコミュニティに何を語りかけられているか? そのような質問に思いを巡らせてみてはどうだろうか。 詩編 / 111編 1:ハレルヤ。わたしは心を尽くして主に感謝をささげる/正しい人々の集い、会衆の中で。 2:主の御業は大きく/それを愛する人は皆、それを尋ね求める。 3:主の成し遂げられることは栄え輝き/恵みの御業は永遠に続く。 4:主は驚くべき御業を記念するよう定められた。主は恵み深く憐れみに富み 5:主を畏れる人に糧を与え/契約をとこしえに御心に留め 6:御業の力を御自分の民に示し/諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる。 7:御手の業はまことの裁き/主の命令はすべて真実 8:世々限りなく堅固に/まことをもって、まっすぐに行われる。 9:主は御自分の民に贖いを送り/契約をとこしえのものと定められた。御名は畏れ敬うべき聖なる御名。 10:主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。 皆さんは、どんなことに思いを巡らせておられるだろうか。いつもの三つの質問に対して、私が思いを巡らせたことをシェアしたい。 気になる言葉は何だったか? 詩編111編と112編の構成 特定の言葉ではないが、私は構成が気になっている。111編の次の詩編112編を8月29日に読んだが、その詩編との構成が実に似ている。 112編を読んだ時にも気になったが、その時はあえて書かなかったので、今回書いておきたい。 111編と112編の二編で一組を成すような詩編だと思う。どちらも最初の「ハレルヤ」という「主を賛美せよ」という意味の言葉で始まっている。 112編では、1節で「いかに幸いなことか」という言葉で始まって、112編全体は人が幸せな理由は何かが書かれ、全体的には「人間」が動詞の主語になる詩になっている。 111編では、1節で詩編作者が「主に感謝」をささげると同時に、人々の群れのなかで、会衆とともに感謝をするという言葉が述べられたあと、主に感謝をささげる理由は何か、つまり主なる神が何をしてくださっているかという内容になって来て、全体的には、「主」が動詞の主語になる詩になっている。詩編には、このように、構成面でよく考慮されたものがあり、ヘブル語の言葉の遊びのような詩では日本語では楽しめないが、111編と112編のような構成を楽しむことは、日本語に訳されたものでも可能である。 自分に何を語りかけられたか? 「主を畏れるしかない」 112編を読んだときに、「主を畏れる人が幸せ」という事を書いたが、「主を畏れる」というテーマは、111編から続いており、また、聖書全体のなかでも、とても大切なテーマ。 箴言1章7節に「主を畏れることが知恵の初め」という言葉があったが、今日の詩編111編の10節にも同じことが詠われていて、人間の教育の点でも実は基本中の基本なのだと思う。 そして、「主を畏れる」と言う時の「畏れる」という動詞の主語は、人間だが、よくよく考えると、主なる神が人間を「主を畏れる」しかないように導いてくださっている。 つまり、いくら人間が畏れるという動詞の主語であっても、もともとは、神が働いて、そのようにしてくださっている面がある。 コミュニティに何を語りかけているか? 神の恵み 「主を畏れるしかない」ように神が導いていると書いたが、そのようになる具体例として、神がいかに驚くべき恵みの御業をわたしたち人間に成し遂げてくださっているかが、今日の詩編の2節から9節に詠われているように思う。よく歌われる讃美歌に「数えてみよう主の恵み」があるが、 つまり、コミュニティ全体で、神の恵みがいかに驚くべきもので豊かに与えられているかに気がつくとき、その神を畏れずにはいられなくなり、そして、一節にあったように、人間全体で感謝を捧げるということが、自然発生的に起こってくるように思う。 東日本大震災で多くの漁村が犠牲になったが、2ヶ月前に日本に行った時にその地域に住んでいる方々の話を聞き、また婦人の友に連載されていた漁村での助け合いの記事を読んだ。魚を獲るにしろ、わかめなど海藻類を育て収穫し販売するにしろ、海にある神の創造の恵みは測り知れない。その海が急変することもある。それは潮の具合により、収穫量が大きく変わったり、今回の津波のような大打撃を被ることもある。漁村の方々の中に、いかに自然を畏れ敬うかが大切といわれる方々が多いということがわかった。 また、それに気がついているからこそ、いろいろなお祭りがあり、それらのお祭りを通して、神に感謝することが多いのかと思う。キリスト教会の礼拝においても、神を賛美し神に感謝するという大きなポイントがある。だから、お祭り的な要素も自然に発生してくる。 安達 均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週読む詩編は37編の1節から9節。いつものように3回読み、一回目は気になった言葉、二回目は神が自分に何を語りかけているか、三回目は神がコミュニティに何を語りかけているか、思いをめぐらせよう。 1:【ダビデの詩。】悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。 2:彼らは草のように瞬く間に枯れる。青草のようにすぐにしおれる。 3:主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。 4:主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる。 5:あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい 6:あなたの正しさを光のように/あなたのための裁きを/真昼の光のように輝かせてくださる。 7:沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や/悪だくみをする者のことでいら立つな。 8:怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。 9:悪事を謀る者は断たれ/主に望みをおく人は、地を継ぐ。三回読み、それぞれ、どのようなことに思いを巡らせておられるだか? 私の場合は、とにかく「ゆだねよ」という言葉に強く引かれている。そして、どのような困難があろうが、真剣に「主にゆだねる」生活をするように。 それは主にゆだねて何もしないという事ではなく、同じコミュニティに住む人々にも、「主にゆだねて」生きるように呼びかけるように、神が語りかけてくださっているように思える。 今週はじめ、アメリカ福音ルーテル教会の一教会としてこの南カリフォルニアで中国語伝道をしている牧師と話していた。設立して10年も立っていないその中 国語伝道の教会は、はじめの数年で、中国本土からはもちろん、台湾、香港、フィリピン、マレーシアなど東南アジア諸国からアメリカに移住してくる方々の波に乗り、すぐに100人以上の会員数となった。 二世代目の子供たちへのミニストリーのため英語での伝道者も与えられ、恵まれた礼拝堂のスペースも確保されていて、まだまだ、伸びても良い状況にある。 ところが、その教会の近くで、どこの宗派にも属しませんという中国語の教会がはじまり、そのリーダは、「アメリカ福音ルーテル教会のその中国語伝道の教会は、低所得者層を集めている教会だから、その教会には行かず、私の教会にいらっしゃい。」というようなうわさを立てていることが伝わってきた。 私はそのアメリカ福音ルーテル教会の牧師と話しあったことは、まさに、この詩編97編に詠われていることだった。 決してその単立教会のリーダのことを非難したりいらだつことなく、主を信頼して、主にゆだねて伝道を続けていきましょうという事だった。 「ゆだねる」ということは、信仰のキーワードだと思う。それは自分で怒りを覚えていらだって裁いたりすることなく、すべて主にゆだねて生きること。 しかし、ゆだねた結果、何もしないということではない。 聖霊の働きによりますます、宣教と社会奉仕に燃え、そしてイエスキリストの体の一部である教会形成の働きへと導かれる。 それは、聖霊の働きにより、逆に、主が信仰者にゆ だね、主イエスキリストの働きを成すものとされるような面がある。10月6日の聖日礼拝の御言葉の歌(讃美歌21-564)は、まさにそのことを歌っていると思うので、その歌詞を最後に書いておく。 1.イェスは委ねられる、伝道のみわざ、 「神のことば伝え、病をいやせ」。 あかしのつとめに 赴く群れに 主よ、今、与えたまえ、聖霊の力を。 2.イェスは集められる、ひとつの民に。 「授けよ、バプテスマ。教えそだてよ」。 共に生かされて つかえる群れに 主よ、今、与えたまえ、聖霊の力を。 3.イェスは遣わされる、地のはてまでも。 主は共におられる、世の終わりまで。 恐れを乗り越え 旅行く群れに 主よ、今、与えたまえ、聖霊の力を。 様々な状況に置かれている皆様が、主にゆだねる生活をいとなみ、豊かな聖霊の 力が働いて、主イエス・キリストのゆだねがありますように。 アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週読む詩編は146編。いつものように3回読まれることをお勧めしたい。 1:ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。 2:命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう。 3:君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。 4:霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる。 5:いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人 6:天地を造り/海とその中にあるすべてのものを造られた神を。 とこしえにまことを守られる主は 7:虐げられている人のために裁きをし/飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち 8:主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し 9:主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。 10:主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。 先週与えられていた詩編は113編はハレルヤに始まり、ハレルヤに終わる詩編だった。 今週も同じようにハレルヤに始まり、ハレルヤに終わる詩編。 実は、詩編146編以降は、最後の150編まで、すべてハレルヤに始まり、ハレルヤに終わる詩編となる。 150ある詩編の結論は、「ハレルヤ」(主を賛美せよ)とも言える。 最後の5つの詩編の最初、146編について、1-2節、3-6節前半、さらに6節後半から10節までに分けて、以下、思ったことを書いておきたい。 1-2節: 私もみんなも主を賛美せよ 1節では、一見、「わたしの魂よ」という言葉の中に、詩編作者個人が自分自身に「主を賛美するように」呼びかけているかのように読めるが、2編を読み、さらに3編以降に移っていくとき、決して詩編作者個人で賛美するのではなく、自分の属するコミュニティ、ひいては人類全体へ「主を賛美せよ」と呼びかけているように思える。 3節-6節前半: 誰を頼るか 君候、昔の中近東やヨーロッパの文化で言うなら領主、日本なら大名に相当するような人々、つまり一般市民を支配する立場にあるような人々に頼っても、所詮彼等は人間であり、死が訪れてしまい、頼り続けることはできない。 だから、主なる神に頼る人々は幸福である。 その主なる神は、大昔に天と地と海を造られた方であり、また、現在もそこに住むものすべてを造り続けておられる方。 6節後半-10節: 貧困の中にある方々を憐れむ主 すべてを創造された主なる神は、虐げられている人々、飢えている人々、捕囚されている人々、目の見えない人々、うずくまっている人々を憐れんで行動を起こしてくださる。 主に従う人々を愛し、孤児や未亡人も励ます。 そして、主に従わないものは、その歩みをひっくり返してしまう。 主なる神は、代々永遠に続く王。 だから主を賛美しよう。 「今をどう生きるか」 9月29日の日曜日に与えられている聖書の箇所はルカ福音書16章にある金持ちとラザロの話。 金持ちとラザロが、死後に行く天国では、立場が逆転してしまうような譬えをイエスは話されている。 その話は、私達の死後の世界への予言というより、現実社会で富める層と貧困層との間に大変な格差がある現実のなかで、私達がどう生きるかを問いかけているのだと思う。 そして、今週、いっしょに与えられている、詩編146編に関しても、ただ昔に詠われた詩編を読んで鑑賞するというのではなく、21世紀を生きる私達に、「今どう生きるか」を問いかけているように思える。 表題に書いたように「主に頼り、主を賛美して」生きることはもちろんだが、主に頼り主を賛美する中で、さらに、私達ひとりひとりにできることをするように、主が行動へと導かれる。 復活ルーテル教会の中で、さまざなな困難にある方々のことを覚えるとともに、ホームレスの方々、またホームレスではないものの、日々の食料に困っている経済的な困窮の中にある方々の上に主の憐れみを祈り、また教会につながる者が、つまり主イエス・キリストの体である教会が、さらなる行動を起こし続けることができますように。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 詩編を読もう:主は偉大ですばらしい (詩編113) 今週読む詩編は113編。ユダヤ教の伝統では、過越しの祭りの際にうたわれる詩編のひとつ。 短い詩編なので、いつものように3回読まれることをお勧めしたい。 1:ハレルヤ。主の僕らよ、主を賛美せよ/主の御名を賛美せよ。 2:今よりとこしえに/主の御名がたたえられるように。 3:日の昇るところから日の沈むところまで/主の御名が賛美されるように。 4:主はすべての国を超えて高くいまし/主の栄光は天を超えて輝く。 5:わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き 6:なお、低く下って天と地を御覧になる。 7:弱い者を塵の中から起こし/乏しい者を芥(あくた)の中から高く上げ 8:自由な人々の列に/民の自由な人々の列に返してくださる。 9:子のない女を家に返し/子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ。 ハレルヤで始まり、ハレルヤに終わるこの詩編、どのようなことに思いをもたれただろうか? さっと読んだだけで内容があまりよく把握できなかったとしても、なんとなく、気持ちが晴れ晴れしくなるような詩編だと思う。 このハレルヤの意味は、「主を賛美せよ」という意味だが、日本語に訳された詩編なのに「主を賛美せよ」とは訳さずに、ヘブライ語の言葉をそのまま用いて、その響きが、うれしくて喜ばしい感じがしてとても良いと思う。 以下、二つのハレルヤにはさまれた中身について、1-3節、4-6節、7-9節に分けて書き留めたい。 1-3節:時と場所を超えて主を賛美せよ 最初のハレルヤに続いて、1節の残りの部分から3節までは、主に仕える者たちよ、とにかく主を賛美せよ、という呼びかけの言葉。どのように賛美するかというと、「今よりとこしえに」(2節)、つまり時間を越えて永遠に。また、「日が昇るところから日の沈むところまで」(3節)、つまり、すべての場所。 4節-6節:主は偉大 1-3節で、時や空間という次元を超えて、主の御名を賛美するように。と詠う以上、その続きには、なぜ主を賛美するかの理由が歌われる。 なぜなら、主はすべての国を超え、つまりさまざまな国の事情を超越した天の高いところに居られ、主の栄光は天をも越えて輝いており(4節)、その方こそが私たちの神であり、そこに並ぶものはいないし、とても高い所に主の座を置いておられ(5節)、かといって、地上のできごとに無関心というわけではなく、へりくだって、地上に起こる、さまざまな出来事もご覧になる(6節)ような偉大な方だから。 7節-9節: 主はすばらしい 主を賛美する理由はさらに続く。 主は天からただご覧になっているだけではなく、世の弱者や貧困の中にある者を立ち上がらせてくださり(7節)、束縛された民を自由な民に戻してくださり(8節)、子の生まれない人に、子供を持つ親の喜びを与えてくださるような方だから。 この詩編113編の後半に、過越しの祭り(エジプトで奴隷だったイスラエルの民が解放されたという事実を覚え続けるお祭り)で歌われる要素が含まれている。 かと思うと、この113編はクリスマスにも実は関係が深いと思う。たまたま、15日に行なった信徒会で、クリスマスに日本語部では何を歌うかが話し合われ、讃美歌21の178、「あがめます主を」というマリアの賛歌が候補に挙がっていた。その歌詞1節と2節を以下に記すので、詩編113編の内容と重なってくる部分があるのをおわかりいただけるかと思う。 1. あがめます主を、わが魂。 たたえます主を、わが心は。 名も知れぬ娘を 主はあえて選び、み子の母として 用いられた。 2. 求めます主は、弱い友を。 訪ねます主は、貧しい人を。 つきぬ愛そそぎ 痛みをとりさり、低きを高める ちからの主は。 今、日本語部の中には、多くの方々が病の中にある。またクリスマスまでの間に洗礼を受けようとされている方々もおられる。 ひとりひとりに主の愛が豊かに訪れ続けるように祈り、またクリスマスを迎える準備が、たとえどのような体調であったとしても、わくわくする喜びを覚えながら、少しづつ準備が進みますように。 主を崇め、賛美しつつ。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 詩編を読もう:的外れなこと (詩編51:1-12) 今週読む詩編は51編の1-12節。1節と2節にこの詩編の背景が書かれている。ダビデとバト・シェバのことはサムエル記下11章に記録されていて、また預言者ナタンがダビデのものに来たときの事はサムエル記下12章に記録されているので、時間の許す方は、それらを読んで、詩編51編を読まれると良い。 しかし、その背景がわからなくても、この詩編51編 読むことは、とても意味があるので、いずれにしろ3節から12節までを、何回か読むことはお勧めしたい。 詩編 / 51編 1: 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。 2:ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】 3:神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。 4:わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。 5:あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。 6:あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。 7:わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。 8:あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。 9:ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。 10:喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。 11:わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。 12:神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。 ダビデとバト・シェバの話は興味深い話だが、ダビデは王であり、またその行為は王という権力があるから実行できたことであり、この詩編51編を読むことは、「自分はダビデのような罪を犯せる立場にもないわけで、自分にとって関係の無い話」として読んでしまうかもしれない。しかし、私はこの詩編は「他山の石」、つまり、自分の反省や修養に役立つ面は多いにあると思う。 与えられている詩編箇所は、過ちを犯し、自分の罪をみとめ、自分のやましさや恥ずかしさに悩む時、神に罪の赦しを請い、新たな希望が与えられることを願って読む箇所として、すばらしい箇所だと思う。と言っても、罪という言葉、あるいは「罪人(つみびと)」という言葉が日本語でイメージした時、とかく、「犯罪」とか「犯罪人」というようなイメージで解釈されてしまい、自分は警察に捕まったことはなく、「自分は罪人ではない」として、詩編の51編も、そのほか聖書でいろいろなところで語られる「罪人」の話も自分には関係が無いと思われてしまうかもしれない。 そこで、聖書に書かれている「罪」という言葉について、詩編51編の3節と4節に書かれた言葉を掘り下げて、考えてみたい。 日本語では、「背きの罪」「咎」そして単に「罪」という三種類の言葉が使われているが、それぞれの原語の意味を以下に書く。 最初の「背きの罪」という言葉は、ヘブル語の原語では、子供たちが親に向かって反抗するような時に使われる言葉。 それは、親がどんなに子供を愛していても、それに甘え、また親の苦労も理解せずに、親に背を向け反抗するような態度を思っていただければ良いかと思う。次の「咎」と訳された言葉には、曲がった状態とか、いらいらしている状態を現る言葉が使われている。 そこには、おろかな行いをしてしまい、腰を曲げ、身を屈めて、深くうなだれているような状況が思い浮かぶ。 そして、最後のただ「罪」と訳されている言葉は、詩編51編の中だけでも、4節以外に、5節、6節、7節、10節、15節にも出てきているが、ヘブル語の本来の意味は、「的を外している」という意味がある。 これらの言葉から「罪」あるいは「罪人」について考えると、刑法に違反したかしないか、あるいは警察に捕まるか捕まらないか等には関係無く、私たち人間を創造された神の思いとは違った行為や、神の目から見て的外れなことをしてしまい、身を屈めてうなだれているような状態を思い浮かべる。 聖書で語られている罪は、実はこの世に生まれたすべての人間に当てはまっているのだと思う。12節の言葉にあるように、神が私たちに清い心を創造してくださるように祈りつつ。 アーメン Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 2013年9月5日 詩編を読もう:主の教えを口ずさむ人々の幸せ (詩編1) 牧師:安達均 今週読む詩編は1編。 150編ある詩編の一番最初に書かれている詩編。短くまた美しい詩編なので、3回は読まれたらよいかと思う。そしていつものように一回目は気になる言葉は何だったか? 二回目は自分に何を語りかけられたか? また三回目はコミュニティに何を語りかけられているか? 思いを巡らせてみてはどうだろうか。 詩編 1編 1:いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず 2:主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。 3:その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。 4:神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。 5:神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。 6:神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。 詩編1編は、過去に何度も読んだが、新たに読むとき、新しいことに気づかされる。今日、新たに思い巡らしたことを書いておきたい。 気になる言葉: 口ずさむ人 詩編は「いかに幸いなことか」という言葉から始まっているので、その後に書かれていることは、「幸せとは何か」について書かれていると思われ、大きな興味が沸いてくるような面がある。先週の詩編112編にも、同じような展開があって、「幸せな人とは主を畏れる人」というのが結論だったのかと思う。 詩編1編でも、その線に近いことが書いてある。 ただ、表現方法として、「いかに幸いなことか」という最初のフレーズではじまった1節は、2節の最後の「口ずさむ人。」という言葉で終わっている。 この「口ずさむ人」という表現は、とても情緒的で、この詩に美しい花を添えているような表現に思える。 ただ、この「口ずさむ」という表現は英語でも同じような情緒的な表現があるのかと思い調べると、”meditate” (New Revised Standard Version)という言葉が使われていて、「瞑想する」とか「黙想する」というような意味になっており、イメージが少々異なっている。さらに、元々のヘブル語ではなんと言う言葉だったかを調べると、”hagah”という言葉が使われていて、これは「うなる」というおもしろい意味がある。 自分に何を語りかけているか: 日本語に訳された聖書を読む楽しみ 私は、「口ずさむ」と書かれた日本語聖書の表現はとても楽しい感じがして、心がウキウキするような面もあり、ありがたい。 ちなみに、新改訳聖書でも同じ、「口ずさむ」という表現が使われていたが、口語訳聖書では、ただ「思う」というどちらかというと英語の”meditate”に近い表現かと思う。いずれにしろ、私たちが普段読む聖書は、訳されたものを読んでいるのであり、そこには訳者たちの解釈が入っている。 また、この詩編1編の最初の節の言葉は、ヘブル語のアルファベットのAにあたる文字で始まっていて、最後の節の最初の言葉はヘブル語のアルファベットの最後の文字で始まる言葉が使われていたり、ヘブル語独特の詩の楽しみがあるが、訳されているものだけを読んでいると、その辺の楽しみは訳しようがない。訳されたものを読むなかで、本来の言語の楽しみとは、違った楽しみが表現されるように思う。しかし、やはり、訳されたものを読んでいるということは、大きく意味が変わってくることもありうるので、注意が必要だ。 コミュニティに何を語りかけているか: 神に従う者たちのうなり コミュニティということを考えると、2節は「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」と日本語では単数形のようだが、「口ずさむ人々」という複数形で捉えても良い。少なくとも英語では複数形で表現されている。複数で考えると、いろいろなイメージがわいてくる。たとえば、今という瞬間でも、世界中のどこかで、聖書研究会なりをしていて聖書の言葉を読んでいる人々がいる。また朝起きて聖書を読んでいる人もいれば、就寝前に聖書を読んでいる人々もいる。世界中のどこかでは平日にも礼拝をしているところもあり、その中で、皆で聖書を読んでいる所もあるだろう。それらのすべての声が聞こえてきたらどういう風に聞こえるだろうか。一台の車が通る音を聞くのと、交通量の激しいフリーウェーの近くで聞こえる音の違いを考えてみるとわかりやすいかと思う。一人一人が、いくら楽しい声で口ずさんでいたとしても、それが何万人もの方が口ずさんでいたとしたら、それは、「うなる人々」の声になってくるような気もする。 たとえ、それが全体では「うなる」ような感じかもしれないが、主なる神は、多くの人々が主の教えを口ずさむのを喜ばれていて、口ずさんでいる一人一人に幸せ、喜びがある。今日健康を与えられている人、病の中にある方、あるいは、悲しみの中にある方も、何かの主の教え、ただ単に「神を愛し、隣人を愛せよ。」だけでも良いので、口ずさんで心の幸せが与えられますように。 アーメン Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 8月29日 詩編を読もう:幸せ (詩編112) 牧師:安達均 今週読む詩編は112編。 いつものように、3回読んで、それぞれ、気になる言葉は何だったか? 自分に何を語りかけられたか? またコミュニティに何を語りかけられているか? 思いを巡らせてみてはどうだろうか。 詩編 / 112編 1ハレルヤ。いかに幸いなことか/主を畏れる人/主の戒めを深く愛する人は。 2:彼の子孫はこの地で勇士となり/祝福されたまっすぐな人々の世代となる。 3:彼の家には多くの富があり/彼の善い業は永遠に堪える。 4:まっすぐな人には闇の中にも光が昇る/憐れみに富み、情け深く、正しい光が。 5:憐れみ深く、貸し与える人は良い人。裁きのとき、彼の言葉は支えられる。 6:主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。彼はとこしえに記憶される。 7:彼は悪評を立てられても恐れない。その心は、固く主に信頼している。 8:彼の心は堅固で恐れることなく/ついに彼は敵を支配する。 9:貧しい人々にはふるまい与え/その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。 10:神に逆らう者はそれを見て憤り/歯ぎしりし、力を失う。神に逆らう者の野望は滅びる。 どんなことに思いを巡らせておられるだろうか。今週は、いつもの三つの質問に対して、私が思いを巡らせたことを書いておきたい。 気になる言葉は何だったか? 「いかに幸いなことか」 詩編の最初の「ハレルヤ」という「主を賛美せよ」という意味の言葉のあと、「いかに幸いなことか」という言葉が出てきている。 詩編の中には、この言葉がしばしば使われている。(興味がある方は、時間のゆるすときに1、41、65、89、119、128編を読まれても良い。) 「いかに幸いなことか」という言葉は、人間が生きて行く上で、「幸せって何なんだろう?」と考える事はよくある。その質問の答えを詩編作者が提供してくれるわけで、「いかに幸いなことか」という言葉には、次に何が書かれているか、強い興味が沸いてくる。実は、イエスキリストもこの言葉を使って、山上の垂訓を語っている。(マタイ5章) 自分に何を語りかけられたか? 「幸せとは主を畏れること」 「いかに幸いなことか」という興味ある言葉の次には、まず「主を畏れる人」という言葉が出てきた。これは基本中の基本で、「主を畏れる」ということは、聖書の中で繰り返し出てくる。 箴言の1章7節には「主を畏れることが知恵の初め」という言葉がある。 3週間前の8月8日に読んだ33編でも、この言葉が出てきて、「主を畏れる人」というタイトルで、「詩編を読もう」を書かせていただいた。 今週読んでいる詩編112編では、「主を畏れる人が幸せ」ということが詠われているわけであり、私は、「ごもっとも」と思う。 コミュニティに何を語りかけているか? 幸せな信仰者の人。そして、詩編113編の中で、主を畏れる幸せな人は、「このような人生を歩んでいますよ」ということを、コミュニティに語りかけている。 イエス・キリストがこの世に登場された時代は、安息日には、会堂(シナゴーグ)と呼ばれるところに人々は集まり、詩編を詠って賛美し、またユダヤ教の指導者が説教のようなことをしていた。 つまり、詩編の言葉が、コミュニティに広まるメカニズムがあったのかと思う。 現代でも、キリスト教会は日曜日にコミュニティの人々が集まり、讃美歌を歌って、メッセージを聴くという伝統を引き継いでいる。 しかし、まだまだ、同じこのオレンジカウンティという場所、あるいはアメリカ合衆国にというコミュニティに住んでいる方々で、「主を畏れることが知恵の初めであり、また、主を畏れる信仰が幸せなんだ。」ということまで意識される方々は少ないように思う。 最後にもう少し、112編全体に触れておきたい。2節3節では、主を畏れる人には良い事ばかりが起こるような印象が書かれているが、4節以降は、この世の現実が書かれはじめる。 4節には「闇の中に光が昇る」とあり、主を畏れる人も、闇を経験する。 また裁判沙汰のような事(5節)も起こるかもしれないし、7節には、「悪評をたてられても」という言葉も書かれており、悪い噂がたってしまうことがある現実が書かれている。 イエス・キリストの歩まれた生涯を思い浮かべるのも良い。 私たち、毎週日曜日に、主を畏れ、主を賛美する者の群れも、さまざまな悩みやあるいは病の中にあって闇を経験している者も多いのが現実だ。にもかかわらず、主を畏れる者は、主にあって強められ、主の祝福によって守られ、恵みが与えられ、主が微笑んでくださり、さまざまなごたごたの中にも、心の平安が与えられ幸せである。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週読む詩編は103編の最初の8節。神の愛を詠ったすばらしい讃美だと思う。時間の許す限り3回でも5回でも読まれたら良いかと思う。 詩編 / 103編 1: 【ダビデの詩。】わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって/聖なる御名をたたえよ。 2:わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。 3:主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し 4:命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け 5:長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。 6:主はすべて虐げられている人のために/恵みの御業と裁きを行われる。 7:主は御自分の道をモーセに/御業をイスラエルの子らに示された。 8:主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい。 この詩編を読み、どんなことに思いを巡らせておられるだろうか。気になる言葉は何だったか? 自分に何を語りかけられたか? またコミュニティに何を語りかけられているか? 私は、1節と2節にある「たたえよ」という命令形の言葉が気になった。3-5節の部分は自分に語りかけられる言葉と感じた。6-8節は、人類全体というコミュニティに向かって語られているような気がした。 そこで、1-2節、3-5節、6-8節に分けて、それぞれ思いつくことを書いておきたい。 1節、2節ともに「わたしの魂よ、主をたたえよ。」という言葉からはじまっている。 繰り返されることで、「主をたたえよ」という強い命令のように感じる。 それは、詩編作者、ダビデが自分の体験から自分自身に言っているようでもあり、この詩編を読むものすべてが自分で自分に、「わたしの魂よ」と呼びかけ、「主をたたえるように」命令しているようでもある。それも、ただたたえるのではなく、全身をもって(1節後半)、また、主が計らってくださったことを何ひとつ忘れることなく(2節後半)たたえるように。 命令する以上は、その理由が書かれているのかと思い、続きを読んでいくと、3節以降は、やはり「主をたたえる」理由が見事にうたわれている。 3節から5節は、「主はお前の」という言葉ではじまっていて、主と自分の関係の中で、主が直接、自分にしてくださるすばらしい御業が書かれている。「赦し」、「癒し」、「購い出し」、「冠を授け」、「満ち足らせ」、「新たにし」という主が自分にしてくださる動詞が6つ出てきている。 まさに神の行い、御業。主の愛が自分を包括してくださっているようでもある。 6-8節は、コミュニティについて詠っているように感じる。 6節では、虐げられている人々へ、つまり、コミュニティのなかで、騙(だま)す人々と騙されている人々に対して、主の裁きと恵みの御業を行ってくださる。 7節では、歴史的に起こったひとつの例として、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民に対して、そのリーダであるモーセにイスラエルへ帰還できるようにその道を示し、そして、イスラエルの民、一人一人にも、主の御業を示された事実を短く詠っている。そして8節で主の慈しみが、いかに大きいかを詠っている。 最後に「慈しみ」という言葉について触れておきたい。 本日の詩編の4節と8節に出てきたし、実は、今日の詩編の9節以降を読んでいくと、11節と17節にも出てくる。 聖書を読んでいて、あるいは、キリスト教の牧師や神父たちの説教、メッセージ等々を聴いていて、「慈しみ」という言葉はよく使われる。 キリスト教ばかりではなく、仏教でも。 そもそも、「慈しみ」というのは、仏教の言葉だった。 ポルトガル語、ラテン語、英語などでキリスト教が日本に入ってきて、神の大きな愛の表現方法として、ぴったりあてはまる日本語として、仏教で使われていた「慈しみ」が近いということになったのだと思う。 しかし、この日本語に訳された「慈しみ」という言葉は、詩編が書かれたヘブル語では、そもそも何という言葉なのだろうか? ヘブル語の詩編では、”rebem” (ヘブル語は文字が違うが、ヘブル文字をアルファベットで表記した)という言葉が使われている。 そして、この言葉はそもそも、英語でいう”womb”、母の胎、子宮のこと。 そこで、神の「慈しみ」のイメージとして、母が子宮の子に愛情を注いでいるところを思っていただければ良いのかと思う。 復活ルーテル教会に集まる人々、特に病の中にあり困難の中にある方々、そして、地球上のすべての人々に、神の慈しみが豊かにありますように。 主を賛美しつつ。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 終戦記念日にあって黙祷の祈りを持ちつつ。 今週読む詩編は82編。今回は、まず一回読んでから、下の解説を読まれたら良いかと思う。 詩編 / 82編 1:【賛歌。アサフの詩。】神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。 2:「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。〔セラ 3:弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。 4:弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」 5:彼らは知ろうとせず、理解せず/闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。 6:わたしは言った/「あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか」と。 7:しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する。 8:神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。 一回読んでみて、どんな感想を持たれているだろうか? 1節に描かれている光景に何か違和感を覚える方もいるのではないだろうか。神聖な会議が行われている様だが、神々の間で裁きを行われる神が立っている。 とくに21世紀に生きる我々にとって、また、一神教を信じているはずの、ユダヤ教、イスラム教、そしてキリスト教の聖典のなかに、このような光景があるのに、なにか疑問を持たれるかもしれない。 しかし、旧約聖書には、これと似ているイメージは描かれている。皆さんに聖書を読むときに、とかく、「現代の私たちに何を問いかけているのかを考えよう」と申し上げているが、このような光景を読む時は、いきなり現代の私たちへの状況を考えるより、どっぷりと、自分が旧約聖書時代に戻ったようなイメージの中で、2回目を読み、さらに、以下の解説を読まれたらどうだろうか。 詩編に82編2節では神が、神に逆らって不正をを働いている神々にクレームをつける。そして、「セラ」となっているので、休止符が入る。(セラについて以前にも説明したが、詠うときの休止符の意味を持つ記号のようなものと理解すればよい。)3-4節では、クレームから、アドバイスに変わる。神々に弱者、孤児、生活に困窮している人々こそ正しい人であることを認めるようにと。 5節では、そのアドバイスを受け入れる気配の無い神々が暗闇の中で行き来している様子が描かれ、そして、地の基がぐらぐらと揺れ始める様子が描かれている。 6節7節で言われていることは、「私は言った」となっていて、詩編作者の言葉のようでもあるが、むしろ、会議の中で、神が裁定を下す時の言葉のイメージで捉えて良いと思う。 「あなたがたは、神ではなく、地上に生きる人間で、いずれは死が訪れる、いや、いっせいに没落の時がやってくる。」と語られ、それは、有罪判決とともに、刑の執行が同時に起こるかのイメージが描かれている。 8節は、祈りの言葉で終っているが、今週の詩編においても先週と同じく、「嗣業」という難しい言葉が使われている。この「嗣業」という言葉を使わずに、祈りを表現するなら、「神よ、立ち上がって裁いてください。 すべての民は、元々、あなたが創られたのですから、すべての民が、あなたからの恵みを受継ぐ者としてください。」という伝道的な祈りで締めくくられていると感じる。 さて、ここで、上記のような旧約聖書時代のイメージが現代の私たちに語りかけている事は何なのだろうか。 あるいは、旧約聖書時代のイメージが現代と共通することはないだろうかと考えながら、詩編の3回目を読まれたらどうだろうか。 現代においても、孤児や弱者、生活困窮者たちはたくさんおられる。 また、社会正義の観点からは疑問を抱かざるを得ないようなリーダ、それは政治家であったり、あるいは、企業や非営利団体(宗教団体も含む)の幹部だったりする。 現代においても、地の基がぐらぐらと揺れているような事態は続いている。 社会全体が、実は、とても不安定な中にある。 だからこそ、すべての民が、この詩編にあるような言葉を読み、そして、すべての民、とくにさまざまな会社でも団体でも、リーダ一、一人一人が実は自分が神に創られたという原点に気づくようにと祈る。 ある方がロボットを開発した。ロボットは精巧に作られたがため、開発者の言う事を聞かなくなってしまった。現代の神と信仰を持たずに生きる人々の関係は、このロボット開発者とロボットの関係に似ているような面もある。(まだそのようなロボットは実在しないと思うが。。。) Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 8月8日 詩編を読もう:主を畏れる人 (詩編33:12-22) 牧師:安達均 今週読む詩編は33編の12節から22節。時間があれば3回ほど読んでみよう。そして、気になった語句や節、さらにこの詩編が自分に何を語っているか、また、自分の所属しているコミュニティに何を語っているか、思いを巡らせていただきたい。 詩編 / 33編 12: いかに幸いなことか/主を神とする国/主が嗣業として選ばれた民は。 13:主は天から見渡し/人の子らをひとりひとり御覧になり 14:御座を置かれた所から/地に住むすべての人に目を留められる。 15:人の心をすべて造られた主は/彼らの業をことごとく見分けられる。 16:王の勝利は兵の数によらず/勇士を救うのも力の強さではない。 17:馬は勝利をもたらすものとはならず/兵の数によって救われるのでもない。 18:見よ、主は御目を注がれる/主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。 19:彼らの魂を死から救い/飢えから救い、命を得させてくださる。 20:我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。 21:我らの心は喜び/聖なる御名に依り頼む。 22:主よ、あなたの慈しみが/我らの上にあるように/主を待ち望む我らの上に。 7月29日にロサンゼルス空港を立ち、1週間半かけて日本に行っていた。二日づつ妻の実家と私の実家を訪問し、最後の三日は東北へ向かい、東日本大震災の津波で甚大な被害を受けた岩手県三陸海岸中央部の釜石市、山田町、宮古市、田老地区を訪ねた。大震災を経験した方々から、地震がおきたら丘に逃げるという防災のための基本的な話を聞いた。その基本を聞く度に、美しい自然に感謝しつつも、自然の脅威を知り、自然を畏れて生活することの大切さを覚えた。また「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:7)という言葉を何度も思い浮かべた。 カリフォルニアに戻って、最初に与えられた上記の詩編箇所の18節には「主を畏れる人」という言葉があり、今日の詩編箇所を数回読むなかで、この「主を畏れる人」という言葉がどんどん迫ってきた。 詩編記者は、「主を畏れる人」について、どのように語っているのかという質問に答えるべく、感じたことを、以下記していきたい。 12節は、主を神とする人々の幸せが述べられている。「嗣業」というむずかしい言葉が使われているが、主の宝を代々受け継いでいく民のすばらしさが述べられているように思う。 13節から18節には、主が、この地球上に住んでいるすべての人々(14節)をいかに見ておられるかが詠われている。人の心も含めて、すべて主が造られた(15節)のであり、創造主がすべての人を見分けておられる(16節)。 17節18節は戦いの勝利について書かれているが、これは現代の私たちには比喩で、人間の幸せ、あるいは人生の勝利は、結婚して子供がいるかどうかとか、財産の多さ、立派な家に住んでいるかどうかなどに左右されるものではないと教えられているように思う。そして、問題の18節になるが、「主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人」を主は特に注意して見ておられる。言葉を変えて言えば、主を畏れているか、主の慈しみを待ち望んでいるかどうかを、主が見てくださっていて、そして、19節にあるように、そのような人々の魂を死と飢えから救い、命を与えてくださっている。 20節から22節は、この詩編のしめくくりで、そのように見てくださっている主を待ち望む、つまり紀元前にあっては救い主の降誕を待ち望むことであり、現代にあっては、いつも聖霊がいっしょに居てくださっていることを知ってイエスの再臨を待ち望むことで、主が盾となって助けとなってくださり(20節)、主に寄り頼むことで、私たちは大いに喜びに満ちた人生を歩む(21節)。そして22節の祈りの言葉をもって、詩編は終わっている。 上記、12節で嗣業を説明するところで書いた、「主の宝を代々受け継ぐ」とはどういうことかさらに考えたい。 私は田老地区の大震災の被害は、堤防が崩れたこともあり、とてもひどかったという感覚を持っていた。 しかし、今回現地に出向いて、実際にそこにいた人々と話し、また資料を見せていただく中で、今回の死者は、明治29年や昭和8年の大地震による大津波の時より、はるかに少ない人数で済んでいたこを知った。そこには、「大地震が起きたらすぐに丘に逃げる。」という知恵、知識が、過去に起っていた津波の経験から、代々受け継がれていて、田老地区に住んでいた方々にかなり浸透していたことを知った。 そこには、知恵の伝承があった。それは、知恵が宝であり、その知恵の根本は、自然への畏怖、主を畏れることが宝。この地球上、どこに住んでいても、さまざまな自然災害に遭遇する可能性がある。カリフォルニアでは山火事が各地で起こっているが、どのような地域に住もうが、主を畏れる事を代々伝承しよう。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace