Archive for the ‘詩編を読もう’ Category

Tweet 7月25日 詩編を読もう:心を尽くして 感謝 (詩編138) 牧師:安達均 今週読む詩編は138編。比較的短いので、読む時間があれば3回ほど読んでみよう。あるいは、毎日一回づつ3日間で3回読むのも良いと思う。 1:【ダビデの詩。】わたしは心を尽くして感謝し/神の御前でほめ歌をうたいます。 2:聖なる神殿に向かってひれ伏し/あなたの慈しみとまことのゆえに/御名に感謝をささげます。その御名のすべてにまさって/あなたは仰せを大いなるものとされました。 3:呼び求めるわたしに答え/あなたは魂に力を与え/解き放ってくださいました。 4:地上の王は皆、あなたに感謝をささげます。あなたの口から出る仰せを彼らは聞きました。 5:主の道について彼らは歌うでしょう/主の大いなる栄光を。 6:主は高くいましても/低くされている者を見ておられます。遠くにいましても/傲慢な者を知っておられます。 7:わたしが苦難の中を歩いているときにも/敵の怒りに遭っているときにも/わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。 8:主はわたしのために/すべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの慈しみが/とこしえにありますように。御手の業をどうか放さないでください。 1-3節、4-6節、そして7-8節の3箇所に分けて、それぞれポイントとなることを書いていきたい。 1-3節-心を尽くして感謝:1節にまず、「心を尽くして感謝して神の御前でほめ歌をうたいます」という詩編作者のこの詩を詠い始めるにあたっての神への意思表示が書かれている。この1節の言葉、ヘブル語では、「神々の前で」という複数形の言葉が入っていて、人々が拝んでいる他の神々もいっしょに含まれていて、さらに、詩編作者が信仰している対象である神が別格でおられるようなイメージが浮かんでくる。2節に入っても「御名に感謝」となって感謝という言葉が再び登場し、また「すべての御名にまさって」という表現もあり、そこには、1節に続いて「他の神々にまさって」というイメージが伝わってくる。 さらに3節では、感謝する理由として、神が自分の呼び求めに応じ、魂に力を与え、さらに解き放ってくださったことが書かれている。  グローバルな神: 4-6節は、その構成は1-3節を引き継いでいて、「神への感謝」の意思が4節にも書かれているが、主語は詩編作者だけが感謝するのではなく、地上の王すべてとなり、その時点では他の多くの神々に奉仕している者も含めて感謝をささげるという将来のグローバルなイメージを表現しているのではないだろうか。5節では、やや具体的にすべての地上の王がどのように感謝の歌を詠うのか、また6節ではやはり感謝を捧げる理由が書かれている。 二種類の祈願:7-8節は願い事の祈りになってくる。7節では「苦難の中にある時でも、私を救い出して命を得させてください。」とあり、自分がそうなって欲しいと思う内容の祈願。しかし8節に入って、主体が自分から主に移って、主の思いが遂行され、主の慈しみ・業が永遠に続くようにという祈りになってくる。   さて、短い138編のいくつかのポイントを書いてみたが、さまざまな思いを皆さん思い巡らしておられるのではないだろうか? 以下にさらに二点ほど私の感想を書いておきたい。 1) 日本語の聖書では表現されておらず残念だが、ヘブル語や英語では1節に出てくる「神々の前で」という複数形の言葉が興味深い。詩編作者が神々を拝んでしまう人々に対する裁きを書くのではなく、尊敬の念が現われているように思う。この旧約聖書を聖典としているイスラム教もユダヤ教もキリスト教も一神教だが、その一人の神は、人々が抱き、拝んでしまう神々の存在を、十分理解しておられるように思う。 2) 5節の「主の道」という言葉の中に、イエス・キリストが十字架に向かって歩まれる道を思いだしている。そして、7節8節の二つの祈りは、ゲッセマネでのイエスの祈り「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39より) と共通しているように思う。 28日の日曜に与えられている聖書の箇所は、ルカ11章の主の祈りの箇所。私たちは、自分にしてみればこのようになって欲しいという「何々してください。」とか「このような状態になりますように。」という具体的な内容を祈る。それはそれで良い事だと思うが、しかし、「御心が天になるごとく地にもなさせ給え。」という祈りを常に覚えていると良い。自分の思い通りにはならなくても、自分の思っていたことよりももっと良いものを、主は与えてくださる。  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週読む詩編は15編。5節だけの短い詩編。まずは声に出して読んでみよう。  詩編 15 編 1:【賛歌。ダビデの詩。】主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。 2:それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり 3:舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。 4:主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び/悪事をしないとの誓いを守る人。 5:金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は/とこしえに揺らぐことがないでしょう。 どのような感想をお持ちだろうか? ご自分の生活や行動基準に何か影響を与えることが出てくるだろうか? 短いので、一節一節、解説を書いていきたいと思うが、その前に2点ほど記しておきたい。 1) 私はこの詩編を読んで、子供の時に正教会の礼拝堂に入る時のことを思い出している。子供ながら、必ず、礼拝堂に入る前には、胸の前で十字架を切って入っていた。  2) この詩編は、あくまで、当時のユダヤ教の話であり、しかも、当時の時代背景を理解する必要を感じる。 さて、この2点を書いた上で、15編にはどのようなことが書いてあったかふり返ろう。 1節に描かれていることは、この詩編がイスラエルの神殿に巡礼に来た人々の典礼歌ともいうべきもので、巡礼者の問いかけが1節に書かれている。 それは、神殿の主に、いったいどのような者がイスラエルの神殿に入ることができるのでしょうか? という入場資格を質問している。 2節以下に、その入場資格が書かれている。 5節の前半までが、入場資格だが、2節と4節にそれぞれ、包括的な倫理規定とも言える言葉が書かれていて、3節と5節前半に、具体的な行動規定とも言える言葉が書かれている。 2節には、完全な道を歩き、正しいことを行い、心には真実の言葉がある人と書いてあるが、とても抽象的な表現。ともすると完璧な人格者だけが神殿に入れるのかと思われるかもしれないが、たぶん人格者とか道徳的な面で完璧な人という意味ではないようだ。問いかけ自体が、神殿の主体たる神への問いかけであり、神との関係をしっかり保って、人生を歩み、行動し、語るような人と理解したらよいかと思う。  3節では、2節に書かれていた内容の具体例が書かれている。その内容は、神との関係をしっかり保つがゆえに、隣人との関係も大切にすることが書かれているように思う。具体的には、うっかり舌をすべらせて隣人を傷つけたりせず、親しい人なのにその人のことを軽蔑し悪い噂がたってしまうようなことを言って災いをもたらすようなことをしない人。  4節ではまた抽象的な表現になってくるが、やはり2節にあったように、神との関係に重きが置かれている。 主の目から見て正しくないとされるものをしりぞけ、主を畏れる人を尊び、そして、神との関係を無視して悪い事をしない人。  5節では、また、人間関係に戻って、より具体的な行動基準になっている。お金を貸しても利息をとらないということが書かれているが、当時のユダヤ社会では、そもそもお金を貸して利息をとることが禁じられていた背景がある。ポイントは、貧困者の困窮を利用して己の利を得るような行為はしない人。また、賄賂を受け取ることは、高い地位にあるものがそれを乱用することで社会が乱れることであり、そのような事はしない人。 そして、5節後半に書かれている結びは、このような人は動揺せず人生に破局が来ることなく、また礼拝堂に入るのにふさわしい人ということになるのだろう。  さて、どのようなことを思われるだろうか? これらのことはとても意味のあることであり、とくに3節に書かれている内容などは、私たちの生活で特に律するべきことのように思う。 しかし、かといって、この詩編15編に書かれていた内容に、完全に従っているという人は現実問題、いないのではないかとも思う。だからこそ、礼拝堂に入る前の心構えとして、心の中で十字架を切って神の赦しを乞い、礼拝堂に一歩二歩と、主を畏れつつ入って行く気持ちが大切だと思う。  最後にイエスの言葉を書いておきたい。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」 マタイ11:28より     Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 7月11日 詩編を読もう: 主の道 (詩編25)  今週読む詩編は25編。聖書日課によれば、今週の木曜から日曜までは25編の1-10節。来週の月曜から水曜で11節から20節を読むことになっている。少々長くなってしまうが、25編全部、以下に記すので、読んでみよう。  詩編 25 編 1:【ダビデの詩。】主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み 2:わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように/敵が誇ることのないようにしてください。 3:あなたに望みをおく者はだれも/決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。 4:主よ、あなたの道をわたしに示し/あなたに従う道を教えてください。 5:あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください/あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。 6:主よ思い起こしてください/あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。 7:わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず/慈しみ深く、御恵みのために/主よ、わたしを御心に留めてください。 8:主は恵み深く正しくいまし/罪人に道を示してくださいます。 9:裁きをして貧しい人を導き/主の道を貧しい人に教えてくださいます。 10:その契約と定めを守る人にとって/主の道はすべて、慈しみとまこと。 11:主よ、あなたの御名のために/罪深いわたしをお赦しください。 12:主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。 13:その人は恵みに満たされて宿り/子孫は地を継ぐであろう。 14:主を畏れる人に/主は契約の奥義を悟らせてくださる。 15:わたしはいつも主に目を注いでいます。わたしの足を網から引き出してくださる方に。 16:御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。 17:悩む心を解き放ち/痛みからわたしを引き出してください。 18:御覧ください、わたしの貧しさと労苦を。どうかわたしの罪を取り除いてください。 19:御覧ください、敵は増えて行くばかりです。わたしを憎み、不法を仕掛けます。 20:御もとに身を寄せます。わたしの魂を守り、わたしを助け出し/恥を受けることのないようにしてください。 詩編25編は、ヘブル語で読むとわかるが、各節の最初の言葉の文字をならべていくと、ヘブル語のアルファベット順になっている。いってみれば、いろはガルタを読んでいるような面がある。 いろはガルタといえば、人々はそれを暗記して、カルタ遊びをすると同時に、一枚一枚に教育的配慮がある。つまり教えがある。  この詩編25編も、ユダヤの民が憶えることを意識して詩編作者が作詩したように思う。いろはガルタのように、一節一節がことわざから成り立っているわけではないが、25編全体では、一貫した教えがある。 それは「主を畏れ、主の道を歩む。」 旧約聖書の箴言の一章七節には、「主を畏れることは知恵の初め。」という言葉があり、詩編25編にも通じる言葉である。友人で、この言葉に強い影響を受け、宗教を除いて教育しようとする公立の教育に疑問を持ち、自分の子供たちをホームスクールで育てたご夫婦がいる。本当によく努力され、すばらしいと思うし、私はご夫妻のことを尊敬している。  しかし、たとえ公立の教育機関の中にあっても、しっかりキリストの生き方に根ざした先生方はおられる。 いろはガルタの「ろ」の「論より証拠」ではないが、たとえイエス・キリストという言葉を出すこともせず、聖書を持ち出して議論をするようなことをしなくても、キリストのような愛をもって、実生活を送り、生徒たちを自然に主の道に導びこうとされていた何人かの公立の先生方を見てきた思いがあり、子供達を小学校から高校まで、公立の教育機関に委ねた私たちは、決して後悔していない。 詩編25編を解説するうちに、子供の教育の話になってしまったが、詩編25編は必ずしも、子供たちだけのために詠われたものではない。 人生何歳になっても、たとえ、この世の死を迎える時になっても、詩編25編に詠われた内容は、大いに記憶しておくべき事だと思う。 たとえ、人生の後半にあっても、いや、むしろ人生の終盤だからこそ、しっかりと主に望みをおき、主を畏れ、主の道に導かれ、永遠の命の道を主といっしに歩むことをお勧めしたい。その道には永遠の喜びもある。        Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 7月4日 詩編を読もう:神の永遠の支配 (詩編66:1-9)  今週読む詩編は66編。いつも3回読むことを勧めているが、必ずしも、続けて3回読まなくてもかまわない。 一月に一回配っている聖書日課では、詩編66編は今週の木曜から日曜まで4日間に亘って読むことになっている。だから、聖書日課に沿って読んでいる方は、数日に亘って他の聖書箇所との関連の中で読むということもお勧めしたい。といっても、聖書日課に載っている箇所を全部読んでいる時間が無いという方は、少なくとも6日の土曜に読むルカ福音書9章1-9節や、7日の聖日に読むことになっている同じくルカ、10章1-11節、16-20節だけでも読まれると良いと思う。     詩編 66 編 1:【指揮者によって。歌。賛歌。】全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ。 2:御名の栄光をほめ歌え。栄光に賛美を添えよ。 3:神に向かって歌え/「御業はいかに恐るべきものでしょう。御力は強く、敵はあなたに服します。 4:全地はあなたに向かってひれ伏し/あなたをほめ歌い/御名をほめ歌います」と。〔セラ 5:来て、神の御業を仰げ/人の子らになされた恐るべき御業を。 6:神は海を変えて乾いた地とされた。人は大河であったところを歩いて渡った。それゆえ、我らは神を喜び祝った。 7:神はとこしえに力強く支配し/御目は国々を見渡す。背く者は驕ることを許されない。〔セラ 8:諸国の民よ、我らの神を祝し/賛美の歌声を響かせよ。 9:神は我らの魂に命を得させてくださる。我らの足がよろめくのを許されない。 上記の1節から9節の構成を簡単に書いておきたい。 1-4節は賛美への招きと内容: 1-2節で、すべて神によって創造された地球上のすべてが、神を賛美するようにと勧めており、3-4節には、賛歌のポイントが具体的に書かれている。 5-9節は三つの賛美する理由:5-6節に神の過去の御業、イスラエルの民が紅海もヨルダン川も渡ることができたこと。7節で神がすべての国々を含め永遠に支配されていること。8-9節ではさらなる賛美への招きの言葉と、神が「我ら」つまり全人類に命を与え、しっかり歩むことができるようにしてくださっていること。  冒頭で、ルカ9-10章の一部をいっしょに読むようにお勧めした。イエスが天に上げられるエルサレムへの旅の途中、12人の使徒たちを派遣する箇所と、さらに72人の弟子たちを派遣する箇所。 ルカが伝えている二回の派遣の最大のポイントは、「神の王国」の宣教だった。つまり神が王で支配されるということ。  「神の支配」ということは、与えられた詩編66編の7節でも詠われている。ただ、ここで注意したいのは、神の支配の仕方。 神は人間を奴隷のように支配したいと思っているわけではない。 神は人間をこよなく愛している。それゆえ、実際にエジプトで奴隷だったイスラエルの民に、たいへんな御業を見せてくださった。 6節に描写されているように、紅海の水を両方に分け、民が渡れるようにしてくださるという奇跡を見せてくださった。 しかし、そのようなことだけではない。 9節に描かれていることは、21世紀を生きる私たちにもあてはまる。さまざまな誘惑に弱い私たち人間に、神が「そっちじゃないよ、こっちだよ。」といってよろめかないで歩むように指し示してくださっているようなところがある。 何を指し示してくださっているのだろうか? 私は世界中のあらゆるところにさらに建てられ続け、またいろいろなところにますます掲げられ続ける、あるいは人々の心に刻まれている「十字架」だと思っている。ある意味、死刑に使われていた道具である十字架が世界中にここまで広がってきているのも奇跡的なこと。 イエスの死と復活の十字架を思うとき、わたしたちは、よろめかないで主の道を歩める。たとえこの世の肉体的な死が訪れようが、わたしたちは、主イエスの愛に与り、永遠に主とともに歩むことができる。 7日の日曜は、10時の礼拝で10歳の女の子と8歳の双子の男の子への洗礼式がある。また14日の日曜には、まだ生まれて1ヶ月の男の子への洗礼式もある予定。 洗礼によって刻印された者には、新しいしるしとして、十字架がしるされる。  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2013年6月27日 詩編を読もう:救いの確信 (詩編140)  今週読む詩編は140編。例によって、3回読もう。1回目を読み終わったときに、気になった箇所や言葉を書き留め、2回目は、自分自身にいったい神は何を語りかけているか、そして、3回目には、いったい神は自分の所属する何かのコミュニティ(家族だったり、復活ルーテル教会だったり、あるいは、全人類だったり)に何を語られているかを考えてみよう。    詩編 140 編 1:【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】 2:主よ、さいなむ者からわたしを助け出し/不法の者から救い出してください。 3:彼らは心に悪事を謀り/絶え間なく戦いを挑んできます。 4:舌を蛇のように鋭くし/蝮の毒を唇に含んでいます。〔セラ 5:主よ、主に逆らう者の手からわたしを守り/不法の者から救い出してください/わたしの歩みを突き落とそうと謀っている者から。 6:傲慢な者がわたしに罠を仕掛け/綱や網を張りめぐらし/わたしの行く道に落とし穴を掘っています。〔セラ 7:主にわたしは申します/「あなたはわたしの神」と。主よ、嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。 8:主よ、わたしの神よ、救いの力よ/わたしが武器を執る日/先頭に立ってわたしを守ってください。 9:主よ/主に逆らう者に欲望を満たすことを許さず/たくらみを遂げさせず/誇ることを許さないでください。〔セラ 10:わたしを包囲する者は/自分の唇の毒を頭にかぶるがよい。 11:火の雨がその上に降り注ぎ/泥沼に沈められ/再び立ち上がることのないように。 12:舌を操る者はこの地に固く立つことなく/不法の者は災いに捕えられ/追い立てられるがよい。 13:わたしは知っています/主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ/乏しい人のために裁きをしてくださることを。 14:主に従う人は御名に感謝をささげ/正しい人は/御前に座ることができるでしょう。 どのような言葉を、書き留められただろうか? ご自分に、またコミュニティに神は何を語りかけてると思われただろうか?  それぞれ考えられたことが、さらに、発展することを願い、以下、詩編140編の構成を振り返ってみたい: 2-6節は主への懇願とその理由:2節および5節で、詩編作者を苦しめ、主に従わずに挑んでくる者から、助け出し、守り、そして救い出してくださるようにという主への懇願の繰り返し。 3-4節および6節は、どのような状況であるかを描写し、救い出されたい切実さを訴えている。 7-9節はさらなる懇願の繰り返し:すべての節、最後の言葉は「ください」で終っていて、さらなる懇願の繰り返し。 7節では、主が願いを聞いてくださるように。8節では主が前に立って守ってくださるように。9節では、主に逆らう者の欲望やたくらみが達成されることなく誇ることがないように。 10-12節で主に従わない者の行く末:詩編作者であるダビデを包囲する者たちが、いったいどうなってしまうかが記述されている。 13-14節で主に従う者の確信: 貧しい者、乏しい者を主が助け出し、主に従う者たちが主と共に存在できることを確信している。  さて、みなさんはどんなことを考えておられるだろうか?  私は、この詩編で5節および9節に出てきている「主に逆らう者」という言葉が気になってしかたがない。そして10-12節の描写も気になる。 復活ルーテル教会では、23日の日曜日には佳代子さんのメモリアルサービスを行い、信仰者たちのコミュニティの中で生活されていた彼女は、今も主イエス・キリストと平安の中にあるということを確信できる。しかし、現在の世の中、特に戦後日本の文化に慣れ親しんだ方々の中に、いっさいの宗教を否定し、さらには神の存在を認めないと言われる方々がいる。実は、メモリアルサービスの当日、「うちは無宗教です。」という方針の方が亡くなっていたことを知った。残念ながらその方とは、キリストの話をする機会が訪れないままだったが、詩編140編を繰り返し読むなかで、「主に逆らう」という強い表現はしないまでも、神の存在を否定して生きておられる方々と、対話の機会をもち、神の恵みについて分かち合い、救いの確信をそれぞれの方が持てるように、導かれているように感じている。 亡くなった一家のお父様とご家族の上に主の慰めを願い、この願いも主が聞いてくださいますように。   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 6月20日 詩編を読もう: すべての人が主を認め(詩編22) 今週読む詩編は22編。いつもだったら、3回読まれますようにと書いている。しかし、今週は少々長い詩編の一部だけを読み、その前後関係も説明してから、また読んでいただきたい。なので、まずは以下の箇所、一回だけ読んでみよう:   詩編 22編 20:主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ/今すぐにわたしを助けてください。 21:わたしの魂を剣から救い出し/わたしの身を犬どもから救い出してください。 22:獅子の口、雄牛の角からわたしを救い/わたしに答えてください。 23:わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。 24:主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。 25:主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。 26:それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。 27:貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。 28:地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。 29:王権は主にあり、主は国々を治められます。 一回読んで、どんな感想を持たれただろうか? 21節や22節に描写された状況を思うと、何故そのようなことになってしまったのか想像しがたい面もある。 そこで、この詩編箇所の前後について少々説明したい。 1) この詩編22編のはじめ、2節になるが、「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。」という言葉ではじまっている。 これはイエス・キリストが十字架に架かる前の晩、ゲッセマネで祈られた言葉。 2) またこの詩編の最後は、30節から32節になるが、「命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。」 さて、22編の最初と最後の言葉をよく読んだ上で、あと2回でも3回でも20節から29節を読んでみてはどうだろうか。 私には、この詩編で詠われていた内容は、イエス・キリストが絶対絶命のピンチにおかれ、死に追いやられてしまう事、さらに復活する事も、紀元前数百年前の預言であったように思う。 また、26節と27節に書かれているようなことを実感し、毎週日曜日に集会(礼拝)に集い賛美している民が世界中にいる。 そして、28節にあるような、この世のすべての国、すべての民が、主に立ち返り、集会で主イエス・キリストを讃え、賛美するような時に向かって、歴史は歩んでいるように思う。つまりこの詩編箇所に書かれたことが、さらに何百年、何千年かかるのかわからないが、現実となる。 その主の司っておられる歴史の過程において、信仰生活を歩むようになった私たちは、この同じ時代に生まれている方々、それはこの世の人生の終点近くを歩まれている方々、人生のさまざまな通過点にある方々、この世の人生の始点に立った赤ちゃんたち、また、これから生まれてくる世代に向かっても、主イエスの恵みの御業を述べ伝える。  特に今、復活ルーテル教会で、信仰生活を送り、人生の終点を迎えた方とそのご家族への主の慈しみと慰めを祈り、また、あたらしい命を授かったご家族のことも思い、主の祝福があるように。 そして、復活ルーテル教会に集う方々、まだ洗礼を受けられていない方々も含め、そのすべての民に、主の豊かな祝福が注がれ続けられますように。     Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 6月13日 詩編を読もう: 深い淵の底に望みが (詩編130)  月曜には芙美さんのご主人デイビットさんの父上のお葬式があり、昨日は日本から来て結婚式を挙げたカップルがあり、その夕方には稲村ご夫妻に待望の赤ちゃん、蓮(Len)君の誕生、そして十日後には佳代子さんのメモリアルサービスを控えている。 この世の人生の始点、通過点、終点と、信仰上も重要なポイントを過ごしている方々とご家族の上に、神の祝福、励まし、慰めを祈りつつ。  今週読む詩編は130編。まずはとにかく3回読まれますように:   詩編 130編 1:【都に上る歌。】深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。 2:主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。 3:主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。 4:しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。 5:わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。 6:わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。 7:イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。 8:主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。どんなことを考えられているだろうか? ざっとポイントを書くと、1-2節は、深い淵の底というどうしようもない状況に陥っている中、主を呼び求めいる。 3-4節は主が赦してくださらない限り、いったい誰が主を敬うかという訴え。 5-6節は主を待ち望む強い意思表明。 7-8節には主が救い出してくださることの確信。 日本で、第二次世界大戦以後に形成されていった文化は、赤ちゃんが生まれて神社には行くし、また年の初めには初詣も行く。結婚式となればキリスト教会かホテルで牧師か神父にお願いして式を挙げる。さらに、亡くなったらお坊さんにお願いして葬式をしてもらう。あくまで形だけの儀式的な宗教との関わりだけ、逆に言えば宗教とはあまり深く関わらない方が良いという考え方が主流のように思う。そのような文化の中で、20世紀後半に大半の人生を送ったという世代は、宗教にはあまり深入りしないという考えを持っていて、ある意味当然だと思う。しかし、いくら、宗教と距離は置いていても、自分や家族の人生のさまざまな節目に、どうしようもない状況は訪れる。 仏教で良く言われる「生老病死」という言葉に代表されるように、それはだれにでも訪れる通過点がある。それぞれに大変さがある。生まれるときの母子の大変さ、子供達が結婚するなりして子育てを終了した時などに感じる老い、また子供がいるいないに関わらず老いていく過程でさまざまな悩みやどうしようもない不安の訪れ、またこんなに苦しい思いをするものだったのかと感じる病にもなる。そしてこの世の人生の終点はかならずだれにでもやってくる。 生きていく過程で、どうしようもない状況に追い込まれた時に、この詩編130編の言葉は、とても参考になるのではないかと思う。いくら宗教から距離を置いて生きていこうとしても、神の存在を意識することは多いにある。 そして、人間の思いに関わらず、ずっと神の方から人間を愛してくださっている。  新約聖書に記された手紙のかなりの部分は、パウロによって書かれているが、パウロもそれをよく承知していた。パウロが記したローマ人の手紙8章35節から39節の言葉も記載しておきたい。  「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」 詩編130編の言葉、さらにローマ信徒への手紙8章の言葉を読むことは、大いに、父なる神と子なるイエスキリストにおける希望と喜びを感じる。  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 6月6日 詩編を読もう:死から解き放つ神 (詩編68:1-11,20-21) 牧師:安達均 復活ルーテル教会日本語部の群れは悲しみの中にある。バルサー佳代子さんは、8年 前ボストンから南カリフォルニアに引っ越して来られ、復活ルーテル教会の場所を借りて練習しているゆうかりコーラスの活動に参加し始めた。そして復活ルーテル教会日曜の礼拝に去年の夏まではほとんど休まず来られるようになり、 さらに太鼓クラスなどの復活ルーテルの活動にも積極的に参加しておられた。 その佳代子さんが天に召された。 また長年、復活ルーテル教会の礼拝に毎週来ておられた藤田エスターさんは、今日の飛行機で親戚のいるコロラドに引っ越された。エスターさんはもう100歳まで片手で数えられる程の年数になって来ておられるなか、次にお会いできるのはいつかと思いを巡らす。  今週後半に与えられている詩編は30編だが、4月11日に取り上げたばかりなので、来週前半に与えられている詩編68編の1-11節および20-21節を今日は読みたい。以下、書き出してあるので、ぜひ3回読んでみよう。     詩編 68編 1:【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。歌。】 2:神は立ち上がり、敵を散らされる。神を憎む者は御前から逃げ去る。 3:煙は必ず吹き払われ、蝋は火の前に溶ける。神に逆らう者は必ず御前に滅び去る。 4:神に従う人は誇らかに喜び祝い/御前に喜び祝って楽しむ。 5:神に向かって歌え、御名をほめ歌え。雲を駆って進む方に道を備えよ。その名を主と呼ぶ方の御前に喜び勇め。 6:神は聖なる宮にいます。みなしごの父となり/やもめの訴えを取り上げてくださる。 7:神は孤独な人に身を寄せる家を与え/捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる。背く者は焼けつく地に住まねばならない。 8:神よ、あなたが民を導き出し/荒れ果てた地を行進されたとき〔セラ 9:地は震え、天は雨を滴らせた/シナイにいます神の御前に/神、イスラエルの神の御前に。 10:神よ、あなたは豊かに雨を賜り/あなたの衰えていた嗣業を固く立てて 11:あなたの民の群れをその地に住ませてくださった。恵み深い神よ/あなたは貧しい人にその地を備えられた。 20:主をたたえよ/日々、わたしたちを担い、救われる神を。〔セラ 21:この神はわたしたちの神、救いの御業の神/主、死から解き放つ神。 気になった箇所はどんなところだろうか? 2-11節の内容についてどんなことを感じておられるだろうか?  いままで読んできた詩編の中にも、「神をほめ讃えるように」ということが主題になっていて、その前後に、ほめ讃える理由が書かれている場合があった。 この詩編の箇所も似たような形と言える。「神に向かって歌え、御名をほめ歌え」という言葉から始まっている5節が中心になって、その前後に数々の理由が述べられている。 2-4節には、神を憎んだり、神に逆らったり、あるいは神に従う場合、どのようなことになってしまうのだろうかということが書かれている。 6節から11節には、神は、孤児、未亡人、孤独な人、いろいろな困難にある人々に対して、それぞれに応じてくださることが書かれている。    さらに選ばれていた詩編箇所の20節と21節。 ここにも、主をたたえるようにということが書かれ、21節には、重大な理由も書かれている。  冒頭に書いたが、復活ルーテル教会の仲間たちで体験していることは、一人は病で天に召され、また、一人はコロラドに立たれた。 なかなか、主を讃える気分でもない。 しかし、よくよく考えてみたい。 バルサー佳代子さんは、強い信仰の持ち主でありご本人も祈り続けられ、また病で教会に来れなくなった去年の9月以降は、主イエスを信じる信仰者の仲間達が毎週日曜の礼拝で必ず祈り続けた。 そのような継続的な祈りの中で天に召された。 それは、バルサー佳代さんに主がともにいてくださり、今も、いっしょにいてくださるという確信がある。  また藤田エスターさんとて、たとえコロラドに行かれてしまい、私たちの中には、もうこの世では会えない者もいるのではないかとい思いもあるが、しかし、エスターさんに何があっても、主がづっといてくださるという確信がある。 詩編68編の21節には、その確信の根拠が書かれている。「主、死から解き放つ神」という言葉がある。 それは、主なる神は、その主を信じる者から、死をも解放され、永遠にいっしょにいてくださる。 この確信がある由、私達は、やはり神をほめ歌い続ける。佳代子さんのメモリアルサービスでは、歌うことが大好きだった佳代子さんに主が共にいることを覚え、讃美歌をたくさん歌いたい Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 詩編5月30日 詩編を読もう:全地よ賛美し礼拝せよ (詩編 96:1-9) 牧師:安達均 復活ルーテル教会日本語部は6月2日と23日の日曜の礼拝は10時の礼拝に参加して合同礼拝を守る。 ちなみに9日、17日、30日は通常通り11時半から日本語礼拝を守るし、7月8月もすべての日曜、日本語礼拝が持たれる予定。今週後半に与えられた詩編96編1節から9節を通して、復活ルーテル教会の日本語部に連なる民に、主は何を語られているのだろうか? まずは、与えられた箇所を3回、読んでみよう。 詩編 96編 1:新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。 2:主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。 3:国々に主の栄光を語り伝えよ/諸国の民にその驚くべき御業を。 4:大いなる主、大いに賛美される主/神々を超えて、最も畏るべき方。 5:諸国の民の神々はすべてむなしい。主は天を造られ 6:御前には栄光と輝きがあり/聖所には力と光輝がある。 7:諸国の民よ、こぞって主に帰せよ/栄光と力を主に帰せよ。 8:御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り 9:聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。 3節ごとに、思いつくままに、ポイントと思われることを書いていきたい。 1-3節:「全地よ主を賛美せよ」 まず、全世界の人々全員が主を賛美するようにと勧めている。 全地、つまり国籍、言語、世代を超えて、この地球上の民すべて、新しい歌を主に向かって歌い、主の御名を讃え、賛美するように。 すべての民に毎日働いている、驚くべき主の御救いの御業を、そして主の栄光を語り伝え、すべての民が主を賛美するように。 4-6節:「主は天をも造られた」 1-3節と6-9節にはさまれた4-6節は、なぜ全地の民が同じ主を賛美し礼拝するか、その決定的な理由が書かれている。それは、主が地上に存在するものすべて、さまざまな植物、動物、人間、自然を造られただけではなく、この地を覆っている天をも造られた。(先週与えられていた詩編8編もおおいに参考になる。)それぞれの国や地方なりに、神を解釈して、結局はこの地に神々がいるということになってしまっているが、その神々を超えて、栄光なるお方、天をも造られた輝ける主が存在している。  7-9節:「全地よ主を礼拝せよ」 だから、世界中のすべての民は、その神々を超えて存在しておられる主に、最終的におちつくように。そして、その主のおられる礼拝堂に、供え物を持って入り、そして輝ける主にひれ伏し、礼拝するように。  さて、最所に書いた質問に戻りたい。この96編は何を今の私たち、特に復活ルーテル教会日本語部に連なる者たちに語っているのだろう。 カリフォルニアは、19世紀半ばまではメキシコだった。 それより前は、さまざまな民族のアメリカ原住民が点々と住んでいたところ。そして、今は、世界中のいろいろなところで生まれた方々がさらに移住してきている。 アフリカから、中東から、南米から、アジア太平洋の国々から、ヨーロッパから、また、もちろんアメリカ原住民の子孫の方々もいれば、アメリカ国内の他州から引っ越してこられた方々も。  復活ルーテル教会は、アメリカ福音ルーテル教会のパシフィカ教区に属するが、南カリフォルニアに位置するパシフィカ教区だけで、15の言語を使って、礼拝している。日本語部はその15言語で礼拝しているグループのひとつ。 アメリカ福音ルーテル教会も、さまざまなキリスト教宗派の中の、ただひとつの存在。 6月は英語部との合同礼拝が2回行われることになっているが、合同礼拝に参加する中で、この詩編96編に書かれた、全地のすべての民が、主に向かって新しい歌を歌って、天をも造られた主を賛美し礼拝するということを覚えたい。 繰り返すが、日本語部は、復活ルーテル教会の一部であり、復活ルーテル教会はアメリカ福音ルーテル教会パシフィカ教区でさまざまな言語で礼拝している教区の一部であり、アメリカ福音ルーテル教会も、さまざまな宗派を含む、もっともっと大きなキリスト教会の一部である。  また、1節一番最初に書かれた「新しい歌」という言葉、自分たちの育った文化の中では経験してこなかった、あまりなじみのない新しい歌を歌うことになると思うが、主にひれ伏す思いで、賛美し礼拝できますように。  復活ルーテル教会の中には、日本語部英語部を問わず、さまざまな病と闘っておられる方々がいる。その方々のことも覚えて祈りつつ、賛美し礼拝する時が持たれますように。   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 5月23日 詩編を読もう:人類の責任 (詩編 8) 牧師:安達 均 5月26日の日曜は、聖霊降臨後の最初の主日で、多くのキリスト教会では三位一体主日を祝う。この時期、与えられている詩編は8編。 三位一体とは、簡単に言ってしまえば、「神とキリストと聖霊が一体である。」という事。キリスト教のとても大切な教えだが、奥が深くあまり簡単に理解できることでもない。そこで、あまりこの言葉に固執することなく、神と人間の関係について理解を深めることが大切だと思う。神と人間の関係を考えるなかで、後に、三位一体についても理解が深まる時が来るように思う。  与えられた詩編を3回繰り返し読んでみよう。 詩編 8編 1: 【指揮者によって。ギティトに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】 2:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます 3:幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。 4:あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。 5:そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。 6:神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ 7:御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。 8:羊も牛も、野の獣も 9:空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。 10:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。  どんなことを思われているだろうか? 今日は1節から順番に思いついたことを書いていきたい。  1節は合唱・演奏するにあたっての説明書だが、ギディトというのは、あるきまったメロディの名前だと思われる。 2節の言葉、よく読むと最後の10節が同じ言葉で終わっている。全能の主が全宇宙にもこの地球上にも君臨してくださっているという意味の言葉がこの詩編の最初と最後に書かれ、サンドイッチになった形。サンドイッチの中身は2節の後半の「あなたの威光をたたえます。」という言葉から始まっている。  3節にいきなり、幼子、乳飲み子たちの口(声)によって、神に刃向かう者から守る。と書かれているのは、興味深い。 主イエス・キリストが子供たちを大切にされたこととも関係があるように思う。 この地球もさらに宇宙も、将来にわたって、健全であるために、次世代が生きていける地球と宇宙の環境保全の大切さを呼びかけらているように感じる。 4節の言葉、詩編作者は夜空の星を眺め、神と全宇宙の関係について、さまざまな思いを巡らせたことだろう。それは現代の人類も同じで、特にこの4節の言葉は、私たちが、神と全宇宙のことを考えるにもふさわしい言葉。 1969年にアポロ11号が月面着陸したとき、コインに各国の指導者たちの言葉を刻み、月面に置いてきたらしい。 バチカン、つまりローマ教皇の選んだ言葉として、この詩編8編の言葉が刻んであるそうだ。  5節は、とてつもない広い天、全宇宙にあって、この地に人間を創って、主が人間に心を留めてくださっている驚き。 いったい人間とは何者? 6-9節には、この地において、神が人類を信頼して任せていること。 それは、創世記1章26節にも書かれていたこと。とくに20世紀の後半になって、人類自身の行為により、生態系が侵されつつあることに気づきはじめた。 それは一体わたしたちにどのようなことを示唆しているのだろうか。  この詩編8編の言葉を繰り返し読むなかで、神は現代の人類に、将来の何世代にも渡って、神の創造された生態系を維持管理していく責任を授けられていると感じる。     Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace