Tweet 5月16日 詩編を読もう: 神の息 (詩編 104) 牧師:安達 均 キリスト教で三大祭を挙げるとすれば、クリスマスの降誕祭、イースターの復活祭、そしてペンテコステの聖霊降臨祭。 今年の5月19日、来週の日曜は、三大祭のひとつ、聖霊降臨祭にあたる。 聖霊降臨祭を迎えるにあたって、与えられた詩編は104編の後半部分。 以下に書き出してあるので、例によって、ぜひ、3回読んでみよう。 一回目は、気になったところを書き留めるなり線をひくなりし、二回目は、神はいったい自分に何を語っているか? そして三回目は、神はいったい自分の所属するコミュニティに対して何を語っているか? 思いを巡らして読んでみよう。 詩編 / 104編 24:主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。 25:同じように、海も大きく豊かで/その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。 26:舟がそこを行き交い/お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。 27:彼らはすべて、あなたに望みをおき/ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。 28:あなたがお与えになるものを彼らは集め/御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。 29:御顔を隠されれば彼らは恐れ/息吹を取り上げられれば彼らは息絶え/元の塵に返る。 30:あなたは御自分の息を送って彼らを創造し/地の面を新たにされる。 31:どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主が御自分の業を喜び祝われるように。 32:主が地を見渡されれば地は震え/山に触れられれば山は煙を上げる。 33:命ある限り、わたしは主に向かって歌い/長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。 34:どうか、わたしの歌が御心にかなうように。わたしは主によって喜び祝う。 35b:わたしの魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ。 おひとりおひとり、どんなことを思い巡らされただろか? 私は概ね以下のようなことを考えている。 気になった節: 30節 「あなたは御自分の息を送って彼らを創造し/地の面を新たにされる。」 “御自分の息”とは、神の息で、それは聖なる霊の意味になってくる。 まさに、聖霊降臨祭を控えて、この言葉が気になる。 神は私に何を語りかけているか: 私は先週、5月7日に肺炎との診断が出た。 5月1日から4日は、シノッドアッセンブリと称する、教区長が議長となって約400人の方々が集まる会議に出ていた。教区長補佐として、自分にも、かなりの負荷が架かっていたかと思う。会議の途中から、肺炎になっていたのだろうが、息がきれるとか、咳が出るといった肺炎らしい症状は何も出ず、肺炎に罹っているなどとは、全く想像できなかった。 ただ、右側上腹部に、夜中だけ、痛みを感じてはいた。 夜中は痛くても朝には不思議に回復し、自分の責任を果たし、アッセンブリを終えた。教会の 一部となって仕えるとき、神の息、それは人間が理解している空気とか風というものをはるかに超えた聖霊の力が、私の心や魂に働いていたように思う。 また、7日には痛みの原因が肺炎だったとわかり、さらに抗生剤の治療を受けて、癒され大幅に改善している。 与えられた詩編を読むことで、肺炎の真っ只中に、神が働いてくださっていたことに気づかされる。 そして、神への感謝と賛美の気持ちが沸いてくる。 私の所属するコミュニティに何を語りかけているか: 31節には、「どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主が御自分の業を喜び祝われるように。」と歌われている。もともとは詩編作者の個人的な願い祈りとも解釈できるが、この詩が聖書の一部となり、私たちコミュニティにも投げかけられていると感じる。 聖書を一生懸命読むが余りある部分に捕われ、「世の終わりがもうすぐきますよ。」というようなことを語られる方がいる。32節を読むとき、この地球上で災害が起こることは否定しない。しかし、私は、今日の詩編の31節を読み、さらに聖書全体を読んできたなかで、神はご自分の創られた創造物を永遠に喜び、主の栄光がとこしえに続くことを良しとされていると信じる。 コミュニティ全体が、神の息、つまり聖霊が、今の世にも働き続けていて、たとえ、地球環境が病にかかっているような状況にあったとしても、地球がその状態から癒され、さまざまな動物たちや植物も含め、そして、その一部である人間も、健全に世代交代を続けていけるような状況へと神が快復しようとしてくださっている。 さまざまな病や困難におられる方々へ、神の息が働き、癒され、そして希望と喜びが与えられますように。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今年の5月9日木曜日は、カトリック教会や多くのプロテスタント教会の暦では何の日にあたるかご存知だろうか? 今年の主の復活日、3月31日、から復活節に入り、復活節は7週間続いている。主の復活日を第一日目とし、7週間後の50日目の日曜、5月19日には、聖霊降臨祭(ペンテコステ)を祝う。その10日前、つまり復活日から数えて40日目、今年は5月9日になるが、主の昇天日と言われている。復活のイエスが天に昇られた日とされている。 その時の様子は使徒言行録の1章1節から11節に記述されている。 さて、与えられた詩篇、47編を、声に出して読んでみよう。 詩編 / 47編 1:【指揮者によって。コラの子の詩。賛歌。】 2:すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。 3:主はいと高き神、畏るべき方/全地に君臨される偉大な王。 4:諸国の民を我らに従わせると宣言し/国々を我らの足もとに置かれた。 5:我らのために嗣業を選び/愛するヤコブの誇りとされた。〔セラ 6:神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる。 7:歌え、神に向かって歌え。歌え、我らの王に向かって歌え。 8:神は、全地の王/ほめ歌をうたって、告げ知らせよ。 9:神は諸国の上に王として君臨される。神は聖なる王座に着いておられる。 10:諸国の民から自由な人々が集められ/アブラハムの神の民となる。地の盾となる人々は神のもの。神は大いにあがめられる。 5節の終わりに「セラ」と書いてある。 詩編を読んでいると、しばしば、「セラ」と書いてある。何の意味があるのだろうか、と思われた方もいると思うので、今日、この文字に触れたい。 詩編は、そもそも歌である。毎週この記事を書くのに、題目は「詩編を読もう」としているが、「詩編を歌おう」の方が良いのかもしれない。歌であるなら、五線譜があって、音符や休止符があったりするのが良いかと思うが、残念ながら、そのような記述は紀元前数百年前は存在しなかった。よって、詩編は歌われながら、伝承され、文字にも残されたのだろう。 そして、五線譜のようなメロディは残せなかったものの、休止符に相当する記号として、「セラ」という文字が、記述されてきたようだ。ヘブル語で「セラ」という言葉は「つるしておく」という意味があり、つじつまはあう。さて、「セラ」を休止符とし、詩編47編の5節まで歌うような気分で読み、しばらく休止して、6節以降をまた歌うように読んでみたらどんな感じだろうか。主の昇天日にあって、6節「神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる。」がより強調されてくる。 神は、主イエスキリストの昇天を詩編47編作者に預言されたのだろう。 詩編は、時代順序からすれば、キリストの降誕より1000年近く前から歌われはじめたが、詩編の中には、イエス・キリストのことが歌われているとしか思えないような箇所がたくさんある。イエス・キリストは復活後、次のように言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。」(ルカ24:44より) ところで、復活ルーテル教会の礼拝堂正面には、どんな彫刻が刻まれているかご存知だろうか? どんな彫刻だったかよく覚えていないという方は、ぜひ、彫刻をご覧いただきたいと思う。また、復活ルーテル教会で讃美歌を歌う時は、角笛ではなく電子的に作られたものとはいえパイプオルガンの響きとともに讃美歌を歌っている。オルガンの上にパイプが並んでいるが、オルガンと連動しているわけではない。よく見ていただくと、「なんだ、意味ない。」と思われてしまうかもしれない。 私は、それでも、あそこにパイプが置かれているのは、意味があると思う。 とくに、この詩編47編を6節に思いを巡らす時、礼拝堂の彫刻もパイプも、ひとつひとつ、それぞれ神に在って、意味がある。 5月7日または8日の教会からのemail連絡をご覧になった方は、ご承知の通りだが、私は7日に肺炎と診断され、痛み止めを使いながら、抗生剤を服用する治療がはじまった。少なくとも肺炎だとわかったことに感謝している。そして皆様からのお祈りに心から感謝している。 それにしても、8日の夜までは、痛み止めを使っていても、咳がすこし出ると、右下の胸部から右の背中、さらに肩にかけて痛みが走っていた。9日朝は、症状が改善されてきたのを感じている。 肺炎の困難にあるのは、私だけではないし、さまざまな肉体的・精神的な痛みを覚えている方々も大勢おられる。 そのすべての場にあって、主の平安、癒し、慈しみが、豊かに与えられるように祈る。 そして、どんな苦しみにあっても、主の恵みにより、詩編にあるように神を讃美し喜び歌おう。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 5月2日 詩編を読もう: いただきます (詩編 67) 牧師:安達 均 食事の前に、「いただきます」と言って食べるのは、そこに感謝の意味がある。 ある牧師は、「いただきます」という言葉には、「神が創造された命をいただく」という事だと説明してくれた。そこには、深い感謝の意味がある。 さて、与えられた詩篇、67編を三回、声に出して読んでみよう。 詩編 / 67編 1: 【指揮者によって。伴奏付き。賛歌。歌。】 2:神がわたしたちを憐れみ、祝福し/御顔の輝きを/わたしたちに向けてくだ さいますように〔セラ 3:あなたの道をこの地が知り/御救いをすべての民が知るために。 4:神よ、すべての民が/あなたに感謝をささげますように。すべての民が、こ ぞって/あなたに感謝をささげますように。 5:諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように/あなたがすべての民を公平に裁 き/この地において諸国の民を導かれることを。〔セラ 6:神よ、すべての民が/あなたに感謝をささげますように。すべての民が、こ ぞって/あなたに感謝をささげますように。 7:大地は作物を実らせました。神、わたしたちの神が/わたしたちを祝福して くださいますように。 8:神がわたしたちを祝福してくださいますように。地の果てに至るまで/すべ てのものが神を畏れ敬いますように。 どんなことを思われているだろうか? 冒頭に書いたが、この詩篇を読んで、「感謝」することの大切さを感じている。 復活ルーテル教会の牧師をしながら、アメリカ福音ルーテル教会パシフィカ教区の教区長補佐の仕事を与えられている。正直、かなり大変、きつい、と思うこともあるが、いろいろな経験ができることに感謝しつつ、また、不思議なことにどこに行っても、神の恵み、食べ物が与えられる。 食べることができる健康が与えられていることにも感謝し、まさに「いただきます」という感謝の気持ちを表し食べている。 与えられた詩篇に戻るが、気がつかれただろうか? 4節と6節は全く同じ言葉が並んでいる。 しかも、神への呼びかけの言葉の後は、それぞれの節に「すべての民が、あなたに感謝をささげますように。」という言葉が二回繰り返されている。 ただ、二回目に繰り返されるときに、「こぞって」という言葉が入ってくる。「すべての民がこぞって」とすべての民を強調するような言葉。それは、たとえどこの国の方であろうが、また、たとえどのような状況にある方であろうが、すべての民、全員がという意味になってくるのだろう。 全体をよく読むと、「すべて」という言葉は3節、5節、さらに、最後の8節にも出てきている。 3節、5節は、4節、6節と同じように「民」にかかる言葉として使われているが、8節では、「すべてのもの」という言葉に代わっている。 数週間前に読んだ、最後の詩篇150編のさらに最後の節には、「息あるものはこぞってハレルヤ」であったことを思い出す。 詩篇67編を読みながら、二つの目的を感じている。 ひとつ目の目的は、この詩篇を読むなかで、その読む方々が、「感謝を捧げる」ものとなるように。 そして、二つ目は、感謝を捧げるのは、自分だけではなく、この世界中のすべての民、さらには、息をするものすべてが、神に感謝を捧げるものとされるように。 今、復活ルーテル教会のなかには、病のため、まともには食べ物がいただけないという状態の方もいる。しかし、痛みや息苦しさの中にあっても、そこに神の恵みがあり、たとえ肉の糧はいただけなくても、神の祝福があり、御言葉の糧、命の糧をいただき、感謝の気持ちがもてますように。多くの方々の祈りの中で、それが実現していますように。 また、世界70億人の方々、さらには、神が創造されたすべてのものが、神の愛、祝福に気づき、感謝を捧げるものとなりますように。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 4月25日 詩編を読もう:いつ、なぜ、賛美? (詩編 148) 牧師:安達 均 昨晩は、またアラバマ州で爆発が起こっているようだ。現時点では事故が事件かわからない。 先週のボストンやテキサスに続いて、またか。。。 また数日前に中国四川州で大きな地震が起こっている。アメリカ中西部では洪水が各地で起こっている。 さまざまな痛みにある方々を覚えつつ。 与えられた詩編148編を、3回、声に出して読んでみよう。 詩編 / 148編 1: ハレルヤ。天において主を賛美せよ。高い天で主を賛美せよ。 2:御使いらよ、こぞって主を賛美せよ。主の万軍よ、こぞって主を賛美せよ。 3:日よ、月よ主を賛美せよ。輝く星よ主を賛美せよ。 4:天の天よ/天の上にある水よ主を賛美せよ。 5:主の御名を賛美せよ。主は命じられ、すべてのものは創造された。 6:主はそれらを世々限りなく立て/越ええない掟を与えられた。 7:地において主を賛美せよ。海に住む竜よ、深淵よ 8:火よ、雹よ、雪よ、霧よ/御言葉を成し遂げる嵐よ 9:山々よ、すべての丘よ/実を結ぶ木よ、杉の林よ 10:野の獣よ、すべての家畜よ/地を這うものよ、翼ある鳥よ 11:地上の王よ、諸国の民よ/君主よ、地上の支配者よ 12:若者よ、おとめよ/老人よ、幼子よ。 13:主の御名を賛美せよ。主の御名はひとり高く/威光は天地に満ちている。 14:主は御自分の民の角を高く上げてくださる。それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。主に近くある民、イスラエルの子らよ。ハレルヤ。 どんなことを思われているだろうか? 世の中で起こっているさまざまな出来事に巻き込まれている方々、また復活ルーテル教会の兄弟姉妹、特にキモセラピーを続けておられる方々、を思う時、この詩編に書かれているように、「天のものも地のものも、みな主を賛美せよ。」と、大きな声で手をたたきながら讃美歌を歌う気持ちには、なりにくい。 「このような時に、なぜ、賛美するの?」という疑問が沸いてこないでもない。 この詩編148編には、「どこで、だれが、主を賛美するか?」 というような質問に対する答えは書かれているが、「いつ賛美するか?」ということが書かれていない。 いつ?という質問をされると、テサロニケの信徒への手紙第一の5章のなかに、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」と書かれていたことを思い出す。 聖パウロが残した、このテサロニケの信徒への言葉をかみしめよう。 もうひとつの質問、「なんで主を賛美するの?」ということに関しては、上記の詩編148編の5節、6節の言葉、「主は命じられ、すべてのものは創造された、、、越ええない掟を与えられた。」という言葉に注目したい。 主が天のものも地のものも、すべてを創造してくださって、さらに、「掟」をくださったことをしっかり覚えたい。 主がくださった「掟」という言葉、4月28日の日曜日に与えられている福音書箇所は、ヨハネ13章31節から35節。 その中の34節、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」を覚えたい。 旧約聖書を含めて聖書全体にさざざまな掟が書かれているが、主イエス・キリストは、「主を愛することと、互いに愛すること。」を最も重要な掟とされている。 また、主イエス・キリストが言われたことからして、この掟がすべての掟を包括している。 主イエス・キリストが十字架に架けられ死にて葬られても、復活して、十字架に架けてしまったような人々、加担した人々も含め、赦してくださり、主が私たち人間を愛し、大切にしてくださっていることを示された。 私たちもその赦された民として、神を愛し、また、神が創造してくださっている天にあるもの地にあるものすべてを愛し、互いに大切にする存在となるように、主が掟をくださっている。 たとえ、おひとりおひとりが今、どのような気持ちになっておられようが、これらの言葉をかみしめて、詩編148編ももう一度読みかえしてみよう。 日曜日には、元気に復活ルーテル教会の礼拝に加わり、そして、大きな声で讃美歌を歌い、神が創造されたものすべてを大切にし、互いに大切にしあう民、「掟」に従う民とされますように。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 4月18日 詩編を読もう:災いを恐れない (詩編 23) 二つの悲しいニュース。月曜のボストンマラソンゴール付近で起こった爆発事件。そしてさらに、昨晩、テキサスの肥料工場でひどい爆発が起こっている。 一連の爆発が起こっている中で、その中に巻き込まれた方々、そしてご家族のために、祈る。 神の平安、慰めがありますように。 今週、そのような環境の中で、本当に感謝したくなる詩編箇所が、与えられている。読み始めるにあたって、 1) 気になる言葉や句に線をひいたり、メモをとったりする。 2) 自分にいったい神は何を語られているか。 3) 私たちのコミュニティに何を語りかけているか。 そのようなことを考えながら、例によって3回、声に出して読んでみよう。 詩編23編 1:【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 2:主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 3:魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 4:死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。 5:わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。 6:命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。 どこに線を引かれただろうか? どのようなメモを書かれたり、どのようなことを考えられただろうか? 私の場合、今週は、4節が特に迫ってきている。 12年ほど前になるが、911のテロが起こったとき、シカゴの郊外に墜落した旅客機では、次ぎのような状況だったことがわかっているようだ。 乗客の一人が、電話交換手と話し、ニューヨーク、ワシントンDCで起こっているテロのことを聞いた。そしてほかの乗客と共に、操縦していたテロリストたちと戦うことを決意し、電話の交換手といっしょに祈る。そして、詩編23編4節の「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」という言葉を唱えて、犯人たちと格闘。 結果として、飛行機はビルなどに突っ込まないで済んだ。 詩編23編は、1節に書いてあるように、ダビデの詩。 3000年前に生きたダビデの人生のなかで、このような詩が歌われるようになったのだと思う。 しかし、それは、ダビデという一個人だけではなく、とくに、イエス・キリストの死と復活というできごとを、洗礼という形で経験し、さらに、イエス・キリストの体と血をいただいているキリスト者たちに、この4節は特別な意味を持ってくるようになっていると思う。 十字架の死によって、死を滅ぼされる神、主なるイエス・キリストのことを覚える。 どのような災いをも恐れない、この詩編23編の4節は、現代を生きる私たちにも当てはまる。 今一度、ボストン、テキサスの爆発になんらかの形で巻き込まれた方々のことを祈る。そして、復活ルーテル教会の中でも、病との闘いや、さまざまな奮闘をされている方々のことも、詩編23:4節の言葉を覚えながら祈る。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 4月11日 詩編を読もう:嘆きが踊りに (詩編 30) 聖書日課で、今週の後半さらに14日の日曜日に与えられている詩篇は30編。声を出して読んでみよう。 詩編 / 30編 1:【賛歌。神殿奉献の歌。ダビデの詩。】 2:主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなく/わたしを引き上げてくださいました。 3: わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを/あなたは癒してくださいました。 4:主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ/墓穴に下ることを免れさせ/わたしに命を得させてくださいました。 5:主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。 6:ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。 7:平穏なときには、申しました/「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。 8:主よ、あなたが御旨によって/砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると/わたしはたちまち恐怖に陥りました。 9:主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。 10:わたしが死んで墓に下ることに/何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ/あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。 11:主よ、耳を傾け、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。 12:あなたはわたしの嘆きを踊りに変え/粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。 13:わたしの魂があなたをほめ歌い/沈黙することのないようにしてくださいました。わたしの神、主よ/とこしえにあなたに感謝をささげます。 「泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」という言葉がとても印象に残っている。13年前に友人を亡くし、突如、未亡人となられた友人の奥様。 彼女が、どんな嘆き悲しみを体験したかは、測り知れない。 彼女は丁寧に話してくださったが、夜中に襲ってくるどうしようもない寂しさに対して、神様が朝を迎えさせてくださることを確信し、いかに慰められるかと。 与えられた詩篇の続きを読むと、12節には、「嘆きを踊りに変え」て下さる主の働きが書かれている。 いままで付き添ってきた配偶者が突如亡くなってしまったり、あるいは、先週はリックウォーレン牧師もそれを実体験されサドルバック教会員のみなさんに祈りのサポートを求めておられるが、自分の息子に突如先立たれるという深い悲しみに遭遇する方々がおられる。さまざまな原因で、どうしようもない「嘆き」を主に訴える状況に置かれることがある。 主イエスキリストという方は、その嘆きの場にいっしょにいてくださる。夜中には、とんでもない恐怖感を味わったりする。しかし、その場にもいてくださる。 復活の主イエスは、父なる神と、聖なる霊といっしょの存在。神が聖霊なる友となり、私たちの心の中にも入ってきてくださる。誰でも復活の主に出会っている。それに気づく時、その嘆きの状態から、喜んで踊りたくなるような状況に変えていってくださる。 キリスト教の礼拝でも、復活の主イエスに会い、讃美歌を歌い踊り、礼拝が終わった時など、踊りながら礼拝堂から出てくることもある。 日本の文化でも、盆踊りとか阿波踊りとか、いろいろな踊りがあるが、踊りとは、喜びの大切な表現。 「クリスチャンだから私は盆踊りや阿波踊りはしない。」などと言わずに、むしろ、みんなで踊る機会があったら踊ったら良い。 復活ルーテル教会のジャパニーズフェスティバルで教会の庭で盆踊りをすることは意味がある。それは神の慈しみ、愛、祝福に対する表現でもあり、踊りながら、神に感謝する。 (5、13節をもう一度読んで見よう。) Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 4月4日 詩編を読もう:息あるものはこぞって (詩編 150) 牧師:安達 均 復活祭の週に与えられている詩編箇所は150編。 例によって3回、声を出して読んでみたいが、一回読むたびに、次のようなことを考えながら読むことをお勧めしたい。 まず一回目:気になった言葉や句は何か? 線を引いたり丸をつけたりあるいはメモをとる。 そして二回目:この詩編を通して、神はいったい自分に何を語りかけておられるのか? そして三回目:この詩編を通して、神はいったい復活ルーテル教会(あるいは自分の所属する何かのコミュニティ、例えば家族とか、近所とか)のコミュニティに何を語りかけておられるか? 1:ハレルヤ。聖所で神を賛美せよ。大空の砦で神を賛美せよ。 2:力強い御業のゆえに神を賛美せよ。大きな御力のゆえに神を賛美せよ。 3:角笛を吹いて神を賛美せよ。琴と竪琴を奏でて神を賛美せよ。 4:太鼓に合わせて踊りながら神を賛美せよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて神を賛美せよ。 5:シンバルを鳴らし神を賛美せよ。シンバルを響かせて神を賛美せよ。 6:息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。 三回読んでいただけただろうか? どんなメモを残されただろうか? どのようなことを考えられただろうか? いくつかのポイントを書いておきたい。 この詩編の箇所、よく読むと、次のような4つの質問に対する答えが書いてある。 1) どこで賛美するか? 2) なぜ賛美するか? 3) どのように賛美するか? 4) だれが賛美するか? この四つの質問に対する答えに関するようなことを、偏ることなくカバーするようなメモを残されたり、考えた方もいると思う。 それはそれですばらしい。 私の場合は、今朝は、どうも4つ目の質問に関することに集中してしまった。 一回目も二回目もそして、三回目も。 とくに三回目、「息あるものはこぞって」という言葉がせまってきて、考えさせられた。 この世に存在する、呼吸をする、神が創造されたものすべてが皆、主なる神を賛美するように、と勧められてられている。 主が復活された時、イースターの時期にあって、復活されたイエス・キリストは、自分を助けることができなかった女性たち、逃げていってしまった弟子たち、そして3度も自分を否定したペトロに対しても、いっさい文句を言ったり、責めたりすることはされない。 最初に弟子たちに現れたとき「あなたがたに平和があるように。」と言われたことも同時に考えた。 主は、隣人を愛せよ、だけではなく、敵をも愛するようにとも言われていたことも思い出す。 礼拝で神を賛美する時、それは、私たち気のあった者同志だけで賛美するとか、社会的に似たようなグループに属している人だけで賛美するとか、あるいは、大人だけでとか、子供だけでとか、そのようなある特定の人だけが賛美するのではなく、息あるものはこぞって、賛美する。 そのようなイメージを、とくに今の復活ルーテル教会に与えてくださっているように感じる。 4月7日の礼拝は、メソジスト教会の方々がいっしょに礼拝に参加してくださることになっている。 子供も来て欲しいし、また、英語をしゃべる方も、いっしょに賛美してくれたらうれしい。また花が置かれたりして、花もいっしょに。。。 復活の主にあって、良き礼拝の時、賛美の時が与えられますように。 主の復活に感謝し、病の中にある方、さまざまな悩みの中にある方のことも覚え、神の導きを祈りつつ。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet Holy Week、聖なる週、受難週の真っ最中に詩編を読む機会が与えられていることに感謝したい。 本来の聖書日課によれば、この聖なる週に実に多くの聖書箇所を読む。それもそのはず、イエスが十字架に架かる週に起こる事が、新約聖書のかなりの部分に書かれているし、旧約聖書の多くの箇所にちりばめられている。 復活ルーテル教会用に作成した聖書日課には、すべての箇所を書くことができず、限られた聖書箇所だけを載せている。 聖土曜に読むように勧められている箇所はことさら多い。 そのなかの詩編のひとつは16編が与えられている。 以下詩編16編を3回読み返そう。 1:【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。 2:主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」 3:この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。 4:「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」 5:主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。 6:測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。 7:わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。 8:わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。 9:わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。 10:あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 11:命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。 最初の一節に「ミクタム」という言葉がある。 この言葉、人の名前ではない。 ヘブル語の言葉だが、その意味が明確にわからず、適切な日本語に訳せないため、日本語聖書にも、そのまま書かれている。 このミクタムという言葉は、16編のほかに、56編から60編の最初に書かれており、興味のある方は56編から60編にも目を通されると良い。 その明確な意味がわからないものの、どうも、短く格言的な真理をついた言葉と考えられる。 主イエスは、金曜に十字架に架かり、墓に葬られた。 しかし、日曜には復活し、マリアをはじめ、まずは女性たちに復活後の姿を現された。 金曜と日曜の間の土曜、イエスはどこにおられたのだろう? その質問の答えを思い巡らすのに、この詩編16編のとくに10-11節の言葉に集中したい。「陰府」とは、死者の居るところ、死者の住まい。 イエスが話された言葉は、詩編から引用されている言葉も多い。 この10節の前半に詠われていた言葉を、神はイエスの魂にも肉体にも実行された。 そして、10節の後半から11節の言葉を、今一度、読みたい。「あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。」 今年のイースター、復活日は3月31日だが、復活節はペンテコステ(聖霊降臨日、今年は5月19日)まで7週間続く。 復活節に、おひとりおひとりが「永遠の喜び」を実感できる日々となりますように。 とくに、病との闘い、あるいは、人生において大きな変化や局面にある方々が「命の道」を歩み、「喜び」の訪れとなりますように、復活の主、イエスキリストの御名により祈る。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 3月21日 詩編を読もう:御手をもって (詩編 31:10-17) 24日の日曜からは、Holy Week 、聖週間、を迎える。日本語では受難週と呼ばれたりもする。 イエス・キリストが十字架を担ぎ、そして、十字架に架かられる時を覚える週。 詩編31編の6節(口語訳聖書では5節)に、「御手に私の霊をゆだねます。」という言葉が出ている。 この言葉、イエスが十字架に架かられ、息を引き取られる前に、話された言葉でもある。(ルカ23:46) 与えられた詩編31編10節から17節(口語訳聖書では9節から16節)をできれば3回くらい読み返そう。 10:主よ、憐れんでください/わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも/苦悩のゆえに衰えていきます。 11:命は嘆きのうちに/年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ/骨は衰えていきます。 12:わたしの敵は皆、わたしを嘲り/隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き/外で会えば避けて通ります。 13:人の心はわたしを死者のように葬り去り/壊れた器と見なします。 14:ひそかな声が周囲に聞こえ/脅かすものが取り囲んでいます。人々がわたしに対して陰謀をめぐらし/命を奪おうとたくらんでいます。 15:主よ、わたしはなお、あなたに信頼し/「あなたこそわたしの神」と申します。 16:わたしにふさわしいときに、御手をもって/追い迫る者、敵の手から助け出してください。 17:あなたの僕に御顔の光を注ぎ/慈しみ深く、わたしをお救いください。 受難週を迎えるにあたって、準備はできているだろうか? そしてどのような事が起こることを期待されているだろうか?この「詩編を読もう」を読んでくださっている、お一人お一人、それぞれさまざまな人生の過程におられる。 10節から14節の言葉を読み返す中に、「この箇所が、自分にも当てはまる。」と思われるところがある方もいると思う。そして、受難週、イエスが十字架を担いで、歩かれたことを思い出したい。 どのような社会的な困難や、病の苦しみにあったとしても、15-17節にあるような言葉を覚えたい。 「わたしはなお、あなたに信頼し」という15節の言葉、この「なお」という言葉の意味をよくかみしめたい。 イエスが十字架上で、最後に「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と言われたように、「その同じ御手をもって、わたしにふさわしいときに、助け出してください。」と祈れる者でありたい。 病の困難にある方、また家族の看病に追われている方、社会的困難に追いやられてしまっている方、職につきたくてもなかなかつけずにいる方、忙しくて健康的な食生活を送れずにいる方、さまざまな悩みの中にある方、、、それぞれに新しい局面が訪れますように。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 東日本大震災から2年が過ぎた。 まだまだ、深い悲しみの中におられる方々がたくさんいる。 ほんの一瞬の差で、肉親を亡くした方々を思う。愛していた配偶者、あるいは婚約者、この上もなくかわいい子供や孫、あるいは本当に世話になっていた父や母。なんで私が残されねばならないか? なぜ、助けてあげられなかったのか? 2年前の大震災に、「捕われて」しまっている方々。 そのような思いをしている方々は、大震災で肉親を亡くした方々だけではない。 今、アメリカに移住してきたわれわれにとって、われわれは自分勝手で、日本に残している家族や親戚に対して、十分なことができなかったという思いに「捕われて」いるような面は否めない。 与えられた詩編126編をなんども読み返そう。 1:【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。 2:そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。 3:主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。 4:主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。 5:涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。 6:種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。 1節と4節に、それぞれ「捕われ人」という言葉が使われているが、具体的には、神に背いていたイスラエルの人々が、バビロンに捕囚されたことを詠っているのかと思う。 しかし、バビロンに捕われた人々だけではなく、すべての何かへの「捕われ人」、それは、ネゲブ(4節)のような不毛砂漠地帯で絶望感を味わっているような気分の方々、涙を流しながら(5節)、泣きながら(6節)、働いている方々にも通用する話。 そのような広い意味での「捕われ人」に対し、イスラエルの人々のように「神に背いていた人々」という言葉をあてはめてしまいたくない。 しかし、過去の自分の行為や、あるいは、何か適切な行動を起こせなかったことを、自分の至らなさと思い続け、そこに神の介入を願わないでいることは、それは神の思いではない。 どんな失敗とか、恥ずかしいことも、悔い改めて、神の慈しみ、憐れみを乞い求めることこそ、神が喜ばれる。 そして、捕われていた人々に、解放を与えてくださる。 それは、深い悲しみにあって、泣き続けておられる方々が、喜びの歌を歌えるようになる。 詩編126編をよく読むと、たった6節しかない短い詩編に「喜び」という言葉が4回(2, 3, 5, 6節)も使われている。すべての捕われ人を解放し、喜ぶ存在になることは、私たちが自分たちだけで、できるようになることではない。 それは、神が赦し、解放し、真に喜ばせてくださる。 「偉大なる業」は、時代を超えて、すべての人々に賜る。 この「偉大な業」とは何だろう。 この詩編は紀元前、数百年前に書かれたものだが、この詩編の箇所も、キリストの死と復活に結びついている。 それは、礼拝の中で起こっている、洗礼式、聖餐式であり、また、キリスト教のもっとも大切な復活祭でもある。 洗礼が行われ聖餐式を経験している方々でも、解放された思いが、ピンとこないこともある。 しかし、そこには、確かな違いが生じていて、行動に変化が起こっている。 四旬節にあって、主の復活日を約2週間後に控えている。 いろいろな試練にあっている方々、悲しみの中にある方々、捕われている方々が、神の子イエスの犠牲とそのよみがえりの復活祭を通して、すべての民が、大いなる喜びの歌を高らかに奏でる時がきますように。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace