Tweet 今年は、2月10日が灰の水曜日で、昨日から四旬節に入った。 イースター前日までの40日間(ただし日曜は除く)のことを言う。 四旬節の最初11日から14日の日曜、4日間にわたって、聖書日課に与えられている詩編箇所は、91編の1-2節と9-16節。 各自で読み、また、自分で聞き、いつものように、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、考える。そして神は、今の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編91編 1:いと高き神のもとに身を寄せて隠れ/全能の神の陰に宿る人よ 2:主に申し上げよ/「わたしの避けどころ、砦/わたしの神、依り頼む方」と。 9:あなたは主を避けどころとし/いと高き神を宿るところとした。 10:あなたには災難もふりかかることがなく/天幕には疫病も触れることがない。 11:主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。 12:彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。 13:あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり/獅子の子と大蛇を踏んで行く。 14:「彼はわたしを慕う者だから/彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。 15:彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え/苦難の襲うとき、彼と共にいて助け/彼に名誉を与えよう。 16:生涯、彼を満ち足らせ/わたしの救いを彼に見せよう。」 インパクトのあった言葉として、「災難もふりかかることがなく、天幕には疫病も触れることがない。」との言葉。 詩編作者の気持ちを想像しつつ、この詩編が何を詠っているのか、考えたい。1-2節に詠われている「全能の神の陰に宿る人よ」が象徴していることは、いうなれば、完璧な信仰に生きる人ということに思える。 9節から16節に詠われている内容は、主を避けどころとし、神にやどっている完璧な信仰に生きる人なら、災難はふりかからず疫病にもならない(10節)。どんな道を歩もうが守られる(11節)。御使いたちが、その完璧な信仰者を手に乗せて運び、空中を飛んでも石にぶつかってしまうようなことはなく守られる(12節)。獅子や大蛇さえも踏みにじって歩める(13節)。主は「自分を慕うものだから、どんな災いからも守り、彼の名を高め(14 節)、彼がわたしを呼び求めるなら助け、名誉を与えよう(15節)。生涯、彼を満ちたらせ、救いを彼に見せよう(16節)。」という言葉で、詩編91編は終わる。 詩編作者が言いたいことはなんなのだろうか、私には、そんな完璧な信仰者はいるのだろうか?という問いかけをしているようにも思える。 もし、いるとすれば、神ご自身が、人間とならなければならないことを暗示しているように思えてくる。 さて、この詩編の言葉を通し、主なる神は、今日、私たちに何を語りかけているのだろうか? ここで、2月14日の四旬節第一主日に読まれる、ルカ福音書4章の1-11節に触れたい。 イエスが荒野で40日間にわたり、悪魔の誘惑を受ける話。その中で、悪魔は、詩編の91編11-12節を引用して次のように語っている。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』 また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」その悪魔の言葉に対するイエスの応答は、申命記6章16節の言葉を引用し、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」と反応する。 この悪魔とイエスのやりとりは、旧約聖書の言葉をまるで刀のようにして戦って、イエスが勝利しているような光景にも見えてくる。しかし、本当に大切なことは、刀を磨くような旧約聖書の知識に精通するようなことではないのだろうと思う。 もっと、簡単なことを、認識することではないだろうか? 詩編91編に詠われたような、完璧に神に宿れる人には、なりえず、自分自身に、自分勝手な思いがあり、罪(神から背いてしまうような思い)を伴って生きる自分がいること。なので、災難や疫病にかからないというより、地震にもあうしインフルエンザにもかかることはあるだろうし、獅子や大蛇といわないまでも、コヨーテだとかゴキブリでもトカゲでも、出てくれば怖がって逃げてしまうか、あるいはゴキブリに殺虫剤の力を借りて退治するような、ありのままの自分がいる。そのようなありのままの姿を、認識することではないだろうか。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は2月4日から6日の聖書日課に与えられている詩編99編を読もう。いつものように気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編99編を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編99編 1:主こそ王。諸国の民よ、おののけ。主はケルビムの上に御座を置かれる。地よ、震えよ。 2:主はシオンにいまし、大いなる方。すべての民の上に高くいます。 3:御名の大いなること、畏るべきことを告白せよ。主は聖なる方。 4:力強い王、裁きを愛し、公平を固く定め/ヤコブに対する裁きと恵みの御業を/御自ら、成し遂げられる。 5:我らの神、主をあがめよ。その足台に向かってひれ伏せ。主は聖なる方。 6:主の祭司からはモーセとアロンが/御名を呼ぶ者からはサムエルが、主を呼ぶと/主は彼らに答えられた。 7:神は雲の柱から語りかけ/彼らに掟と定めを賜り/彼らはそれを守った。 8:我らの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らを赦す神/彼らの咎には報いる神であった。 9:我らの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かってひれ伏せ。我らの神、主は聖なる方。 なお、今週は、牧師がステファンミニストリーの研修会に出張しているため牧師のコメントはお休み。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は、聖書日課では、2月1日から3 日に与えられている詩編72編に耳を傾けたい。 少々長いが、各自で読み、また、自分で聞き、いつものように、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、考える。そして神は、今の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編72編 1: 【ソロモンの詩。】神よ、あなたによる裁きを、王に/あなたによる恵みの御業を、王の子に/お授けください。 2:王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ/あなたの貧しい人々を裁きますように。 3:山々が民に平和をもたらし/丘が恵みをもたらしますように。 4:王が民を、この貧しい人々を治め/乏しい人の子らを救い/虐げる者を砕きますように。 5:王が太陽と共に永らえ/月のある限り、代々に永らえますように。 6:王が牧場に降る雨となり/地を潤す豊かな雨となりますように。 7:生涯、神に従う者として栄え/月の失われるときまでも/豊かな平和に恵まれますように。 8:王が海から海まで/大河から地の果てまで、支配しますように。 9:砂漠に住む者が彼の前に身を屈め/敵が塵をなめますように。 10:タルシシュや島々の王が献げ物を/シェバやセバの王が貢ぎ物を納めますように。 11:すべての王が彼の前にひれ伏し/すべての国が彼に仕えますように。 12:王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を/助けるものもない貧しい人を救いますように。 13:弱い人、乏しい人を憐れみ/乏しい人の命を救い 14:不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように。王の目に彼らの血が貴いものとされますように。 15:王が命を得ますように。彼にシェバの黄金がささげられますように。彼のために人々が常に祈り/絶え間なく彼を祝福しますように。 16:この地には、一面に麦が育ち/山々の頂にまで波打ち/その実りはレバノンのように豊かで/町には人が地の青草ほどにも茂りますように。 17:王の名がとこしえに続き/太陽のある限り、その名が栄えますように。国々の民は皆、彼によって祝福を受け/彼を幸いな人と呼びますように。 18:主なる神をたたえよ/イスラエルの神/ただひとり驚くべき御業を行う方を。 19:栄光に輝く御名をとこしえにたたえよ/栄光は全地を満たす。アーメン、アーメン。 20:エッサイの子ダビデの祈りの終り。 インパクトのあった言葉として、「助けるものもない貧しい人を救いますように」との言葉。 詩編作者の気持ちを想像しつつ、この詩編が何を詠っているのか、考えたい。 この詩編は、「王がーーーますように」という言葉が繰り返し出てきている。この詩編は、王の即位式などで詠われてきたのだろう。 はじめに、「ソロモンの詩」となっており、最後は「ダビデの祈りの終わり」となっているが、ここに詠われている「王」はダビデでもソロモンでもなく、いわば理想的な王の姿を詠っているようだ。 つきつめていくと、その王とはだれなのか。。。 ユダヤの歴史の中で、後に顕われる、救い主を詠った歌ともとれる。 さて、この詩編が、現代の私たちに何を語りかけているのだろうか? 詩編を読もうの記事でも、また説教でも、話したが、私は今年の1月5日に昼食をいっしょに楽しんだ友人が、翌日の6日の朝、それは奇しくもキリスト教会の顕現日だったが、自宅ではしごから落ちて亡くなるという境遇を味わっている。 おいしかった昼食とは比較しようもない、全然、おいしくない味わいで、思い出す度に、悲しく、空しい思いが襲ってきていた。 彼は、奥様が、当時は日本からアメリカに戻ってくる飛行機の中におり、息子さん二人はそれぞれ日本と中国に居住しており、自宅には、ひとりでいた。3匹の犬もいっしょにはいたが。。。 はしごから落ちたときには、だれも助ける人は、近くにいなかった。急救車を呼ぶ人もなく、頭からかなりの出血があった。検死の結果では、ほとんど即死に近い状況との話しも聞いた。しかし、今日の詩編を読んで、2500年前には、「助けるものもない貧しい人を救いますように。」という祈りが捧げられ、その祈りの通りに、2000年前から、この世のすべての人はだれも助けることができないような状況の中でも、そこに顕われて、救われる王がいるということをキリスト教徒は学んだのだという思い、神の愛に、今満たされてきている。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は、聖書日課から、25日から27 日に与えられている詩編、119編89-96節を読もう。詩編119編は、176節もある、もっとも長い詩編だが、一段落が平均8節程度からなる22の段落により成り立っている。それぞれの段落の最初の文字はヘブライ語のアルファベット22文字の順番になっている。今週は、その中でも、ラメド(ヘブライ語のL)の段落を読む。今週もとても短い箇所なので、是非、何回か、繰り返し読むことをお勧めしたい。 そして、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、考える。そして神は、今の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編119編 89:主よ、とこしえに/御言葉は天に確立しています。 90:あなたへの信仰は代々に続き/あなたが固く立てられた地は堪えます。 91:この日に至るまで/あなたの裁きにつき従って来た人々は/すべてあなたの僕です。 92:あなたの律法を楽しみとしていなければ/この苦しみにわたしは滅びていたことでしょう。 93:わたしはあなたの命令をとこしえに忘れません/それによって命を得させてくださったのですから。 94:わたしはあなたのもの。どうかお救いください。あなたの命令をわたしは尋ね求めます。 95:神に逆らう者はわたしを滅ぼそうと望んでいます。わたしはあなたの定めに英知を得ます。 96:何事にも終りと果てがあるのをわたしは見ます。広大なのはあなたの戒めです。 気になる言葉、インパクトのある言葉は何だろう? 私にとっては、92 節にある「律法を楽しみとしている」という表現。 詩編作者の気持ちを覚えつつこの詩編箇所を振り返りたい。最初の89節にある「とこしえに御言葉は天に確立している」に始まり、最後の96節にある「広大なのはあなたの戒め」で締めくくっている。 それは、時間的にも空間的にも、主の御言葉・戒めに満たされていることを見事に詠っており、とても情緒的な詩編作者の一面を見る。 情緒的と書いてしまうと、詩編作者がとてもリラックスした雰囲気の中で、この詩編を綴ったかというと、決してそうではなく、波乱万丈の人生の中で、それも、大きなピンチの中で、「助けてください」と叫んでいる様子が浮かんでくる。 一節づつ、振り返りつつ、解釈してみたい。 永遠という時間のなかで、主の御言葉が続いている(89節)。あなたが固く立てた地の上に、あなたへの信仰が代々続く(90節)。あなたの裁きに従ってきた人々はすべてあなたの僕(91節)。私もあなたの律法を楽しみとして生きてきたおかげで、苦しみに耐え、滅ぶことなく歩めた(92節)。あなたの命令によって命が永らえたのだから、私はあなたの命令を永遠に忘れない(93節)。私はあなたのものですから、どうか救ってください、今、あなたの命令を教えてください(94節)。あなたの命令に聞き従わないものが私を滅ぼそうとしているが、わたしはあなたの命令に英知を得る(95節)。この世のすべてには終わり、果てがくるが、あなたの戒めには、終わりも果てもない(96節)。 神の御心は、わたしたちに何を語りかけているのだろうか? この詩編を通して、神に逆らうものから命を狙われるような状況でも、主の命令に従うことが、永遠という単位で命が救われる、だから命令にしたがっている私を助けてください、と祈ることの大切さを教えているのだろか? それにしても、命令とはいったいなんなのか? 与えられた短い詩編箇所のなかで、御言葉、律法、命令、定め、戒め等の言葉が出てくる。 これらの言葉の意味を、旧約・新約聖書を通して、振りかえろうとする時、主イエスの教えてくださった、「神と人を愛する」という言葉が浮かんでくる。 しかし、人を愛するという事は、本当に難しいと思う現実に出会う。たとえば、極端な例としては、何人もの子供たちの命を奪った凶悪犯罪人を愛することができるか? もっと身近な問題としては、日本のキリスト教小説では、大作家とも評して良いと思うが、三浦綾子さんは、最初、教会に集まっている人々を見て、この人たちは自分たちを精神的な貴族だと思っている、というような表現をしていた。 そこには、身近にいる教会に集まる人々を、すぐに愛する気持ちにはなれない現実の一例を見る。 今日読んでいる詩編箇所には、「律法を楽しみとする。」という表現が出ているが、その難しさも、楽しみとして、とらえ、歩めますように:) 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は、聖書日課から、14日から17 日に与えられている詩編、36編6-10節を読もう。先週、いっしょに食事をしていた友人が、翌朝には、自宅ではしごから落ちて事故で亡くなるということが起こったこともあり、奥様や家族のことを思い、自分も気持ちを表現しえない状況にある。状況は異なるが、先日10日の日曜朝10時のみ言葉の学びでは、カトリック教会が、今年を「いつくしみの特別聖年」としており、教皇フランシスコが書かれた、「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」という小冊子をよみはじめた。そのような時期にあって、詩編36編のしかも6-10節だけを、今週読むことには、おおきな意味を感じている。 短い箇所なので、是非、何回か、繰り返し読むことをお勧めしたい。 そして、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、考える。そして神は、今の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編 36編 6:主よ、あなたの慈しみは天に/あなたの真実は大空に満ちている。 7:恵みの御業は神の山々のよう/あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる。 8:神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ 9:あなたの家に滴る恵みに潤い/あなたの甘美な流れに渇きを癒す。 10:命の泉はあなたにあり/あなたの光に、わたしたちは光を見る。 気になる言葉、インパクトのある言葉は何だろう? 私にとっては、6 節と8節にある、「慈しみ」という言葉。 詩編作者の気持ちを覚えつつこの詩編箇所を振り返りたい。詩編作者といつも書いているが、詩編を著した一個人というより、モーセ五書に著された旧約聖書の最初の5巻、そしてイスラエルの信仰の歴史の中で、多くの預言者たちを通じて、神の言葉が著されていく中で、イスラエルの信仰共同体として、この詩編36編にある、「いつくしみ」に関わる描写が著されていると思う。 さて、1節づつ、振り返りたい。 「主よ」という呼びかけではじまった6節は、7節の前半まで、主のいつくしみを、大自然にたとえて表現している。 慈しみは天にあり、その主の真実は大空に満ちている(6節)。 恵みのみ業は神の山々のようにそびえており、主の裁きはどん底のような深い淵のようである(7節前半)。7節後半から10節までは、やはり、「主よ」という呼びかけからはじまり、神と人のふるまいを、見事に表現している。 (慈しみゆえに)あなたは人も獣も救われる(7節後半)。 神よ、慈しみは本来ありえないような貴いことで、(罪深い、被創造物であるにもかかわらず) 親鳥が自分の翼に子鳥をかばうように、神のもとに、人々は身を寄せ、神はかばってくださる(8節)。 あなたの家(神を崇拝する礼拝所と考えてよいのだと思う)には、豊かな恵みがあふれ、また礼拝に漂う甘美な流れのゆえに、霊的な渇きは、癒される(9節)。 命の源泉は、主なる神、あなたにあり、あなたは光となり、わたしたちはその光を見る(10節)。 神の御心は、わたしたちに何を語りかけているのだろうか? ずばり、神は、私たち一人一人がどのような境遇にあろうが、そこに憐れんで、恵みを与え、癒してくださる、「主のいつくしみ」を覚えるように導いているような気がしてならない。 冒頭に、先日の10日の日曜日より、10時のみ言葉の学びで、「父のいつくしみのみ顔」という小冊子を読み始めたことに触れた。 その冒頭には、「イエス・キリストは、御父のいつくしみのみ顔です。キリスト者の信仰の神秘は、ひと言でいえばこの表現に尽きる気がします。」とあった。その学びの中では、集まった兄弟姉妹で「いつくしみって何だろう?」ということを分かちあった。いろいろな表現があったが、「人間にはとてもできないような、神からの愛、神の憐れみ、恵み」、「母親が自分の赤ちゃんをいとおしく見つめるまなざし」、「すぐそばに存在してくださる神からの励み」等々の言葉をわかちあった。 イエスキリスト生誕以来、主イエスを通して、さらにイエスキリストの体である、教会を通して、神が具体的に神のいつくしみを人々に顕されるようになっていることを感じる。教会に集まる者たち、洗礼という不思議な信仰生活のはじまりがある。 それは復活の命のはじまりであり、さまざま人生体験、老い、病、この世の死を過ぎこしていくとき、永遠の命を確かなものとする信仰がある。 その過程で、詩編36編の6-10節にあるようないつくしみや、私たちが上記に表現したような主のいつくしみの体験をし、永遠という中におられる神と、数字で表現してもピントこない何百億年ともいわれる全宇宙・自然と、そして、全人類との信仰体験をあじわう。 冒頭に書いた友人の葬儀のため、これからダウンタウンのお寺に向かう。 彼との交わりは、主の慈しみの介在によって、私にとっても、家族、友人にとっても永遠の記憶となるのだと思う。 葬儀に向かう前に、このようなすばらしい詩編36編が与えられたことを覚え、感謝しつつ。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 新年も最初の1週間が過ぎ去っていこうとしている。聖書日課では、7日から10日与えられている詩編は72編だが、昨年も新年にあたって、72編が読まれたこともあり、今年は、11日から13日、来週月曜から水曜に与えられている詩編106編1-12節をとりあげたい。 いつものように、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、考える。そして神は、今の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編 106編 1:ハレルヤ。恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに。 2:主の力強い御業を言葉に表し/主への賛美をことごとく告げうる者があろうか。 3:いかに幸いなことか、裁きを守り/どのような時にも恵みの業を果たす人は。 4:主よ、あなたが民を喜び迎えられるとき/わたしに御心を留めてください。御救いによってわたしに報いてください。 5:あなたの選ばれた民に対する恵みを見/あなたの国が喜び祝うとき共に喜び祝い/あなたの嗣業の民と共に/誇ることができるようにしてください。 6:わたしたちは先祖と同じく罪を犯し/不正を行い、主に逆らった。 7:わたしたちの先祖は、エジプトで/驚くべき御業に目覚めず/豊かな慈しみに心を留めず/海辺で、葦の海のほとりで反抗した。 8:主は、御名のために彼らを救い/力強い御業を示された。 9:葦の海は主に叱咤されて干上がり/彼らは荒れ野を行くように深い淵を通った。 10:主は憎む者の手から彼らを救い/敵の手から贖われた。 11:彼らを苦しめた者はすべて水に覆われ/生き残る者はひとりもなかった。 12:彼らは御言葉を信じ/賛美の歌をうたった。 気になる言葉、インパクトのある言葉は何だろう? 私にとっては、6 節にある、「主に逆らった」という言葉。 詩編作者の気持ちを覚えつつこの詩編箇所を振り返りたい。多くの詩編に見受けられる、賛美への招きからはじまり、ユダヤ教の礼拝に詠われるのにふさわしいのだと思う(1節)。しかし次編ではいきなり現実的な話となり、いったいだれが、主のみ言葉を告げ続けて、賛美しつづけられるだろうか(2節)。詩編一編にも登場していた「いかに幸いなことか」の言葉のあと、裁きに従い、どんな時でも恵みの業を果たす人は(3節)。4-5節では主への嘆願となり、詩編作者とそこに属している民が、主の民が喜び迎え入れられる時、喜び祝う時、私たちも御心を留め、ともに祝うことができますように。6節以降は、音楽でいえば転調したような感じがする内容になってくる。 まず、先祖が罪を犯したように、私たちも主に逆らったという告白(6節)。先祖は主の御業に目をとめず、主の慈しみにも心を留めず、反抗した(7節)。にも関わらず、主が御名のために、先祖を救い、御業を示された(8節)。 先祖の行く道を進めなくしていた葦の海は干上がって、深い谷を行くように通ることができた(9節)。主は、先祖を憎む者、敵の手から救われた(10節)。先祖を苦しめたものは生き残れなかった(11節)。反抗していた先祖だったが御言葉を信じ、主を賛美するようになった(12節)。 さて、上記のような詩編箇所、神の御心は、わたしたちに何を語りかけているのだろうか? 私たちには、日本という地において260年もの間、キリスト教を迫害した歴史がある。キリスト教徒は死罪とされた。 実は、ヨーロッパでの歴史も時代は日本の歴史よりさらに1500年さかのぼるが、紀元4世紀途中までのローマでも同じ傾向があったといってよい。それは、その当時に普通に生活していた人々から見れば、社会として、キリスト教を認めていなかったのだから、やむを得ないような状況は否めないが、ヨーロッパの先祖も日本の先祖も、罪を犯し、主に逆らったということはできるのだろう。 しかし、この詩編に、主がイスラエルの先祖を辛抱強く慈しみをふりそそげ続けたように、ヨーロッパも日本の民をも、主が愛し続け、憐れみを与え続け、主の救いをもたらし続けてくださっているのだと感じる。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 大晦日、そして年末年始を過ごす時期である。 聖書日課では、大晦日と元旦は詩編8編が与えられているが、さらに大晦日に与えられている旧約聖書箇所、コヘレトの言葉3章1-13節も読んで、各自、2015年あるいは過去を振り返り、2016 年そして将来を展望し、観想の機会を持っていただければと思う。 コヘレトの言葉3章 1:何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。 2:生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時 3:殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時 4:泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時 5:石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時 6:求める時、失う時/保つ時、放つ時 7:裂く時、縫う時/黙する時、語る時 8:愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。 9:人が労苦してみたところで何になろう。 10:わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。 11:神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。 12:わたしは知った/人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と 13:人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ、と。 すべてに時があるという話。年末年始にあってじっくり読まれると良いと思う。有名な箇所なので、過去に聖書で読まれたことがあるか、何かで引用されたのを聞くなり読むなりされたことがあると思う。自分でこの箇所をじっくり読んでいかがだろうか。 私が中学生のとき、幾何学の先生が、一枚の紙を空中になげて、落ちてくる様子を生徒に見せて、「何がおこっているかわかるか?」と質問した。 答えに困って、全員、だまっていた。 すると、「何事が起こるにしても、すべて、時間の経過の中で起こっている。」という話をされた。 詩編8編 1:【指揮者によって。ギティトに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】 2:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます 3:幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。 4:あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。 5:そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。 6:神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ 7:御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。 8:羊も牛も、野の獣も 9:空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。 10:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。 上記のコヘレトと詩編を読みつつ、時と永遠ということを考えさせられた。人間は、この世に生きている時間と、それを超えた永遠の中に生きている。 それは、復活の命、永遠の命。 今という年末年始の時を感謝し、そして永遠の命に感謝し、主の御名を讃えつつ! 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet アドベント、待降節、の最終日がクリスマスイブ。聖書日課では、クリスマスイブに詩編96編が与えられている。 今年のアドベントの最後の主日を迎えるにあたって、詩編箇所96編をじっくり読もう。 そしていつものように、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編96編 1:新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。 2:主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。 3:国々に主の栄光を語り伝えよ/諸国の民にその驚くべき御業を。 4:大いなる主、大いに賛美される主/神々を超えて、最も畏るべき方。 5:諸国の民の神々はすべてむなしい。主は天を造られ 6:御前には栄光と輝きがあり/聖所には力と光輝がある。 7:諸国の民よ、こぞって主に帰せよ/栄光と力を主に帰せよ。 8:御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り 9:聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。 10:国々にふれて言え、主こそ王と。世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。主は諸国の民を公平に裁かれる。 11:天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ/海とそこに満ちるものよ、とどろけ 12:野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め/森の木々よ、共に喜び歌え 13:主を迎えて。主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き/真実をもって諸国の民を裁かれる。 インパクトのある言葉として、10節から13節の言葉を挙げたい。 詩編作者の気持ちを想像しながら、詩編96編に書かれていたことを簡単にまとめたい。 1-3節では、すべての国の人々に新しい歌を歌って、主を賛美するように、呼びかけている。 4-6節では、主が天を造られたという、主を賛美する最大の理由が詠われていると思う。 7-9節では、だから主にひれ伏し崇拝するように。 以上9節までは、過去にも「詩編を読もう」でとりあげており、過去の記録を参考にして9節までのまとめを上記に再び書いた。10節以降は、「詩編を読もう」でははじめてとりあげているが、ドキッとすることを詠っている。すべての国々の王である主が、公平に裁くために来られる。だから天も地も、海とそこに住むものも、野とそこに存在するものも、すべて喜んで歌え! 主が来られて、世界を、そして諸国の民を、正しく真実をもって裁かれるのだから!! さて、この詩編96編を通して、主なる神は現代を生きている私たちに、今日、何を語っているだろうか? 表題に「戦争なんかやめて喜び歌え」と書いた。キリスト教徒にとって、本日クリスマスイブを迎えている。世界中では残念ながら国々が戦争をしてしまっている、あるいは民族が民族に敵対してしまっている、そのような状況にある。その中で、全知全能で、全宇宙を治められる主なるお方が、ご自分の創造してものすべてに対して、戦争なんかしている場合ではなくて、救い主の到来を覚えて、喜び、歌うように語っておられる。 第二次世界大戦中の実話として、クリスマスに際して、世界各地の戦場で、戦争を休止したということがあったと聞く。 しかし、与えられている詩編は、クリスマスだから、あるいは12月24日のイブだから、戦争をやめるようにとは詠っていない。キリスト教の教えるクリスマスとは、たしかに、神のみ子は、この世に来られたが、まだこれからも来られる、第二の到来があるから、それに備えるようにという意味も含んでいる。だから、今日以降ずっと、キリストの第二に到来に備えて、戦争なんかしている場合ではなくて、常に喜び歌っているように、詩編は導いているのではないだろうか? ミネソタ管弦楽団でチェリストとして活躍している磯村幸哉さんという方がいる。私は、セントポールにあるルーサー神学校在学中、磯村ご夫妻にはお世話になり感謝している。幸哉さんのお父様という方は、第二次世界大戦の体験から、子供たちには、武器など担いで世界に行って欲しくない。そして武器の代わりに楽器を担いで、世界に羽ばたくように、と教えたそうだ。幸哉さんのお兄様、和英氏は、東京カルテット(ニューヨークにある室内管弦楽団)の創設メンバーの一人でヴィオラ奏者。 またもう一人の兄弟が、ヨーロッパで音楽家として活動していると聞く。磯村ご兄弟の父上に、詩編96編の作者の思い、神の思いが、働いていたように思う。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet アドベント、待降節、あっという間に第四主日になる感じがする。今年のアドベントの最後の主日を迎えるにあたって、17日から20日までに与えられている詩編箇所80編1-8節をじっくり読もう。 そしていつものように、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編80編 1: 【指揮者によって。「ゆり」に合わせて。定め。アサフの詩。賛歌。】 2:イスラエルを養う方/ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ/御耳を傾けてください。ケルビムの上に座し、顕現してください 3:エフライム、ベニヤミン、マナセの前に。目覚めて御力を振るい/わたしたちを救うために来てください。 4:神よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。 5:万軍の神、主よ、あなたの民は祈っています。いつまで怒りの煙をはき続けられるのですか。 6:あなたは涙のパンをわたしたちに食べさせ/なお、三倍の涙を飲ませられます。 7:わたしたちは近隣の民のいさかいの的とされ/敵はそれを嘲笑います。 8:万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。 気になる言葉、インパクトのある言葉は何だろう? 私にとっては、アドベントにあって、2節3節に使われている「顕現してください」と「来てください」とい言葉。 詩編作者の気持ちを覚えつつ詩編80編を振り返りたい。1節に、< 「ゆり」に合わせて。> と書いてあり、ユダヤ教でゆりの花を飾った礼拝があったのかと思う。80編以外にも、45編、60編、69編でこの言葉が使われている。1節の最後には、「賛歌。アサフの詩。」となっている。アサフとはダビデの時代に音楽隊の中に出てくる名前(歴代上15章16-24節参照)。 ダビデの時代に生きていたアサフが詩編80編を残したのかもしれない。アサフの詩は、詩編の中に12編ある。2節から8節の詩の内容から、時代背景を想像したい。 上述したように、アサフはダビデの時代に生きていた。 ダビデの功績のひとつは、南北イスラエルの統一とよく言われる。イスラエルの民が、南のユダ国と、北のイスラエル国にわかれていたが、それが統一されていったという。 3節には、「エフライム、ベニヤミン、マナセの前に」とあり、これらは、北のイスラエル国に属する部族である。7節の言葉を読むと、「わたしたちは近隣の民のいさかいの的とされ」ということが書かれており、南北間で別れていたばかりではなく、同じ北イスラエルに属していた、エフライム、ベニヤミン、マナセのそれぞれの部族が、近隣の民の間で、対立しあっていたことも想像できる。アサフは、ダビデの指導力が発揮される前の時代から、部族間のいさかいも、また南北統一に向けても、信仰深く、神の力を信じ、顕現してください(2節)、来てください(3節)、御顔の光を輝かせ、わたしたちをお救いください(4、8節)と祈って、この詩編を歌ったのだろう。 さて、この詩編80編1-8節を通して、主なる神は21世紀を生きている私たちに、今日何を語っているだろうか? 私は、待降節にあって、「顕現してください。」「来てください。」と祈るこの詩編はとても、キリスト教の暦のなかで、ふさわしいと、もちろん思う。 そして、神はお考えがあって、この詩編を現代を生きる民に、しっかり読み、詠い、祈るように導いておられるのだと思う。 現代を振り返ると、この地球上で、さまざまな争いが起こってしまっているのは、多くのメディアが伝えるとおり。 中東で、東南アジアで、アフリカで、ヨーロッパで、またアメリカでも、戦争にしろ、テロにしろ、あるいは家族内でのさまざまないざこざにしても。 このような時代に、落ち着いて、「顕現してください。」「来てください。」と主の到来を祈る、いろいろな意味で、私たち人類が壊してしまっている、この地球上の混沌とした破壊的ともいえるような状況から、この人類を救いだしてください。と祈ることが大切なのだろう。 その信仰が、すべての源にあるのではないだろうか? クリスマスの意味をしっかり覚える時となりますように! 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今年のアドベント、待降節は、第二週から第三週に向かいつつある。駆け足で過ぎていくような感じがする。日本語で十二月は「師走」と言い、普段は落ち着いている師匠すらも走るという季節なのかと思う。 しかし、この時期、立ち止まって、しっかり、御言葉に聴き入る時間を持つことをお勧めしたい。 今週も聖書日課では、通常は詩編を読むところで、詩編ではない箇所が読まれる。今週はイザヤ書が与えられた。12章を読むが、たった6節だけの短い章。 いつもの詩編を読むように、このイザヤ書12章でも、気になる、あるいはインパクトのある言葉や節を挙げる。次に、イザヤが預言した時の気持ちになってどのようなことを語っているか、よく考える。そして神はこのイザヤ12章を通して今日私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。 1:その日には、あなたは言うであろう。「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが/その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。 2:見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌/わたしの救いとなってくださった。」 3:あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。 4:その日には、あなたたちは言うであろう。「主に感謝し、御名を呼べ。諸国の民に御業を示し/気高い御名を告げ知らせよ。 5:主にほめ歌をうたえ。主は威厳を示された。全世界にその御業を示せ。 6:シオンに住む者よ/叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は/あなたたちのただ中にいます大いなる方。」 気になる言葉やインパクトのある節はどこだろう? 私にとって、インパクトがある言葉は、1節と4節にある「その日には」という言葉。 預言者イザヤの気持ちを覚えつつ何を語っているか読んでいきたい。イザヤ書は66章からなり、一人のイザヤという預言者だけではなく、複数の預言者によって記されたと思われる。 66章のうち、最初の39章は第一イザヤと呼ばれ、神に背を向けてしまう紀元前8世紀ごろの指導者や民に向けて、辛口の預言がなされている。 そこには、人間の傲慢、神ではない人間の高ぶりが、大きなテーマとなっている。 しかし、「その日には」という言葉ではじまる12章では、そのようなイスラエルの民に、大きな変革の時代が来ることを、イザヤは預言している。1-2節では、イスラエルの民は、神は救い主であることがわかり、その神に感謝する時代が来ることを語る(1-2節)。 そして、枯渇した、いわば瀕死と思われるような状況に陥った民が、喜びのうちに救いの泉から水を汲むことができるようになると述べる(3節)。さらに、イスラエルの民は、その神を賛美し、世界の民に、神の救いを述べ伝えるようになる(4-6節)。 さて、このイザヤ12章を通して、主なる神は21世紀を生きている私たちに、今日何を語っているだろうか? 1節、4節にある「その日には」というその日とはいつのことを言っているのだろうか? 私は、紀元前から紀元後になる、イエスキリストの誕生以降の時代のことを言っているのだと思う。 一人の人間の誕生が、それは救い主の誕生だったが、2000年経っても、祝われ続けている。 それも、イスラエルからはじまって、西にも東にも、救い主降誕の知らせはひろまった。 さらに南半球にも、ひろまっていって、世界中で救い主降誕を祝う時代になっている。 人々は、神とは救い主、イエスであったことに気がつき、喜んでほめ歌を歌い、そして、さらに救い主がこの世に顕われたことを告げ続けている。 クリスマスである。 しかし、現実には、クリスマスを祝う人々は、世界中にひろまり、クリスチャンは25億人と言われても、とてもイエスキリストが救い主だとは信じられない人々、45 億人が世界中にいる。またとくに日本語を話す人々の中では、イエスを神と信じられる人の割合は圧倒的に少ない。主イエスの体である教会に集い、そのイエスの体の一部となっている一人一人のキリスト教徒が、全世界の民に、聖書の御言葉を伝え、クリスマスキャロルを歌い、主イエスの御業・主の憐れみと愛を、示し続けるように、このイザヤ12章を介して、神は導いておられると思う。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace