Tweet 今週は9月17 日から20 日の聖書日課に与えられている詩編54編を読もう。 以下、いつものように、詩編を読み、気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編54編 1:【指揮者によって。伴奏付き。マスキール。ダビデの詩。 2:ジフ人が来て、サウルに「ダビデがわたしたちのもとに隠れている」と話したとき。】 3:神よ、御名によってわたしを救い/力強い御業によって、わたしを裁いてください。 4:神よ、わたしの祈りを聞き/この口にのぼる願いに耳を傾けてください。 5:異邦の者がわたしに逆らって立ち/暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。〔セラ 6:見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。 7:わたしを陥れようとする者に災いを報い/あなたのまことに従って/彼らを絶やしてください。 8:主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ/恵み深いあなたの御名に感謝します。 9:主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように。 インパクトのある言葉として、3節にある「神よ、御名によって」と詠いはじめる力ある言葉。 詩編作者の状況を推察しつつ、詩編作者がこの詩編をどんな気持ちで詠っているのかをよく考えたい。 1-2節は前書きで、1 節にある言葉、「マスキール」というヘブライ語は、32編をはじめ、全部で13の詩編の前書きに現れている。あまり意味は明確ではないが、教えとか教授的な意味がありそうだ。2節にはダビデの置かれた状況が書かれている。簡単に説明すると、ダビデが、主の御心から逸脱して行動していたサウルのすぐ近くに来ているという情報がサウルに報告され、サウルの部隊がダビデの命を狙っている。サムエル記上23章19節参照。 3節以降の詩編の内容に触れていきたい。サウルがダビデを見つけだして殺されるかもしれないが、ダビデは、「神よ、御名によって」という力強い言葉を述べて、さらにそのパワーを増し加えるように「力強い御業によって」と述べた後、びっくりすることに「わたしを裁いてください」と詠う(3節)。ダビデの心境は、すべてを主の御心に自分を委ねている様子が伺える。そして、ダビデの口から出るすべての祈り・願いを、神がすべて聞いてくださるようにという嘆願(4節)。御心に従わない横柄な者たち(サウルの部隊)が私に逆らい、命を狙っている、彼等は主の御名を第一にしていないのです(5節)と訴える。見よ、神はわたしを助け、魂を支え、陥れようとする者に報いてくださる、あなたの真理によって、彼らを絶やしてくださるように(6-7節)。主よ、わたしは感謝して、恵み深いあなたの御名に感謝し、いけにえを捧げます(8節)。主は常に苦難から救い出してくださり、わたしの目が敵を支配しますように(9節)。 この詩編が現代の私たちに伝えてくれていることを考えたい。この詩編の全体の流れは、ダビデはピンチに立つが、主の御名によって、祈願し、現状を訴え、主を信頼して、主が救い出してくださることを確信する。 それを、ダビデより後世の人々が、民が主の御名に感謝し讃えるのが、詩編54編。 後世というのは、イエスキリストの降誕後も含まれ、現代においても、主の御名において、常識では考えられないような、神の救いがあることを覚える。現代を生きる人々に、本当に健康面でピンチにたたされたり、とてつもない多忙な日々に置かれてやりきれないと思えるような窮地に立たされている人々も大勢いる。 そのような状況の中にあって、詩編54編は、現代の私たちに、主の御名によって祈り、願い、主なる神を第一に生きているかどうかが、鍵であることを教えているように思う。 とくにイエスキリスト降誕後、紀元後に生きている私たちは、どんなピンチにあろうが、力強い主の御名、十字架上で死にて追いやられ、墓に葬られても、復活なさる、三位一体なる主を第一に生よう。常に自分を第一にするのではなく、主なる神を第一に生きているかチェックしつつ、この混迷の時代を、神の救いに与って歩み続けよう。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は9月10 日から13 日の聖書日課に与えられている詩編116編1-9節を読もう。 以下、いつものように、詩編を読み、気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編116編 1:わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き 2:わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。 3:死の綱がわたしにからみつき/陰府の脅威にさらされ/苦しみと嘆きを前にして 4:主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」 5:主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。 6:哀れな人を守ってくださる主は/弱り果てたわたしを救ってくださる。 7:わたしの魂よ、再び安らうがよい/主はお前に報いてくださる。 8:あなたはわたしの魂を死から/わたしの目を涙から/わたしの足を突き落とそうとする者から/助け出してくださった。 9:命あるものの地にある限り/わたしは主の御前に歩み続けよう。 気になる言葉として、「弱り果てたわたし」と言っている詩編作者の状況。 詩編作者の状況を推察しつつ、詩編作者がこの詩編をどんな気持ちで詠っているのかをよく考えたい。 この詩編から伝わってくることは、詩編作者は、この世を生きる時間はもう短くなってきているように思う。もう体もまともには動かせないような状況があるようにも感じる。しかし、まだ息は絶えておらず、たとえ肉体的な死が訪れようが、魂は生き続ける、そんな様子を詠っているように思える。。。。そのようなことを思いつつ、一節づつ振り返りたい。 嘆き祈る声を必ず耳を傾けて聞いてくださる主を私は愛し、生涯、主を呼び続ける(1-2節)。 死が網のように私にからみついて、地獄の恐怖を覚え、苦しみと嘆きを前にしているが、「(肉体的な死はやむをえないが)どうか私の魂を救ってください。」と私は主の御名を呼ぶ(3-4節)。主は憐れみ深く、正義を行なう方で、情け深い(5節)。 哀れな人々を守ってくださる主は、弱り果てている私の魂を救ってくださる(6節)。私の魂よ、安らかであれ、主が報いてくださるから(7節)。主はわたしの魂を死から助け出してくさり、涙がとまらない状況から救い出し、歩行できないような状況になっても、救い出してくださった(8節)。肉体的にはもうなにもできないような状況ではあるが、世の命が続くかぎり、信仰をもって、主とともに生き続けよう(9節)。 この詩編が現代の私たちに伝えてくれていることを考えたい。 この詩編を読んでいて、ふっと思ったのだが、いつの時代に生きる人間も、「おぎゃー」と言ってうまれた日から、一日一日、この世の死に近づいていく日々を送っていく。この世に生きる日々は、一日一日、少なくなっていく。 そのような中で、この世をどう生きるかということは真剣な問題。 詩編116編を通して、信仰の大切さ、日々主を讃えつつ、生きることの大切さを覚える。その信仰の中で、肉体的には、どんなひどい状況がおとずれ、この世の死がおとずれようが、魂の救いがあること。主とともに、永遠の命があることを、示唆されているように思う。永遠の命があることは、主イエスの顕現によって、この詩編が詠われるようになってから、数百年後に明らかになったことではあるが。 アーメン。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は9月3 日から6 日の聖書日課に与えられている詩編146編を読もう。 6日の礼拝で、与えられている福音書箇所はマルコ7:24-35で、その前半は、汚れた霊にとりつかれてしまった娘を持つ異邦人女性は、信仰により、娘の汚れた霊はイエスによって取り除かれる話。後半は、耳が聞こえず、しゃべることができない人が、イエスの不思議な行為により、耳が開きしゃべれるようになる話。 以下、いつものように、詩編を読み、気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編146編 1:ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。 2:命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう。 3:君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。 4:霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる。 5:いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人 6:天地を造り/海とその中にあるすべてのものを造られた神を。 とこしえにまことを守られる主は 7:虐げられている人のために裁きをし/飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち 8:主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し 9:主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。 10:主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。 インパクトのある言葉として、7節「主は捕らわれ人を解き放ち」という言葉。 詩編作者の気持ちを想像しながら今週の詩編を読んでいきたい。 1-2節では、最初のハレルヤという言葉のあと、「私の魂よ」となっており、また2節の言葉も含めて、一見、詩編作者が、個人的に主を賛美するようにみえるが、2節の最後には、「うたおう」という呼びかけになっており、「主を賛美しよう」という会衆全体への呼びかけになってくる。3-6節前半では、君候、昔の中近東やヨーロッパの文化で言うなら領主、つまり一般市民を支配する立場にあるような人々に頼っても、捕らわれ続けてしまい、そこに救いの力はない。所詮彼等は人間であり、死が訪れてしまい、頼り続けることはできない。 だから、主なる神に頼る人々は幸福である。 その主なる神は、大昔に天と地と海を造られた方であり、また、現在もそこに住むものすべてを造り続けておられる方。6節後半-10節では、すべてを創造された主なる神は、虐げられている人々、飢えている人々、捕囚されている人々、目の見えない人々、うずくまっている人々を憐れんで行動を起こしてくださる。 主に従う人々を愛し、孤児や未亡人も励ます。 そして、主に従わないものは、その歩みをひっくり返してしまう。 主なる神は、代々永遠に続く王。だから主を賛美しよう。 今日、この詩編146編を通して、主なる神は、私たちに何を語られているのだろか。詩編は、ユダヤの礼拝で紀元前数世紀から詠われるようになっていた。そして、その中には、救い主の登場を預言したいた言葉を多く含まれている。 その預言の成就の例として、聖日に与えられている、マルコ福音書7章24節から35節の出来事もあるのだと思う。 そして、預言の成就は、歴史の流れの中で、ずっと起こり続けているのかと思う。 20世紀の後半とこれまでの21世紀を生きてきた私にとって、たとえば、女性が牧師として按手を受けるということがなかった時代から、いまでは多くの女性牧師も存在する時代になっており、社会のさまざまな局面で、主の働きにより、解放ということがおこっているように思う。さらなる解放は、全世界のどのようなところで、どのような人々におこるのかということに注意を払いつつ、主は私ひとりひとりへ、先入観や偏見にとらわれないように、行動規範までをも、示してくださっているようにも感じる。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は8月20 日から8月23 日の聖書日課に与えられている詩編34編16 -23節を読もう。23日の礼拝では、福音書は再びヨハネ6章にもどって、イエスが話された「命のパン」の話しの続きになる。聖餐式のことを覚えつつ読むのも良いと思う。 以下、いつものように、詩編を読み、気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編34編 16:主は、従う人に目を注ぎ/助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。 17:主は悪を行う者に御顔を向け/その名の記念を地上から絶たれる。 18:主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼らを助け出される。 19:主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。 20:主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し 21:骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。 22:主に逆らう者は災いに遭えば命を失い/主に従う人を憎む者は罪に定められる。 23:主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は/罪に定められることがない。 気になる言葉として、20節「主に従う人には災いが重なるが」という言葉。 詩編作者の気持ちを想像しながら今週の詩編を読んでいくが、その前に、先々週と先週の復習。先々週は、34編の1-9節、先週は10-15節、そして今週は16節-23節を読んできている。 詩編作者は詩編34編で礼拝を表現しているように思える。1節は前置きのようなもので、2-4節は「招きの言葉」で、5-11節では短い証(ダビデの体験談)のようなことが語られ、そして12節以降は説教(神学的示唆)が語られている。そのように見てくると、本日の箇所、16-23節の説教の結論であり、また礼拝の締めくくりとも言える。先週12節-15節の説教のポイントは、「主を畏れるように。そして、言葉に気をつけて、平和を探し求めよ。」ということだった。 そして16節以降は、なぜ主を畏れ、従うことがそんなに大切なのか、その理由が語られる。あるいは、礼拝の結論として、主に従うものに神が祝福を与えてくださるという宣言が語られるとも言える。さて一節づつ振り返りたい。主は、従う人に目を向け、助けを求める叫びを聞いてくださる(16節)。 :主は悪を行う者にも御顔を向け、その名を地上から絶つ(17節)。主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に助け出される(18節)。主は打ち砕かれた人の近くおり、悔い改める者を救ってくださる(19節)。 主に従う人には災いが重なるが、そのすべてから救い出す(20節)。骨の一本も損なわれないように、守ってくださる(21節)。 :主に逆らう者は災いに遭えば命を失い、主に従う人を憎む者は罪に定められる(22節)。 主はその僕の魂を贖ってくださり、主を避けどころとする人は罪に定められない(23節)。 今日、この詩編34編16-23節を通して、主なる神は、私たちに何を語られているのだろか。私は、言葉は違うが、この詩編に書かれていることは、聖餐式の最後に牧師の宣言や、礼拝の祝祷(祝福)に相当するように思える。 聖餐式の最後は、「主イエスの体と血は、あなた方を強め、永遠の命を与えてくださいます。」と語る。「主イエスの体と血は、」と言っているのは、主イエスの命のパンと血をいただくもの、すなわち、聖餐に授かるもの、主イエスを信じ主に従う者は、強められ、永遠の命が与えられるという宣言だ。さらにダメ押しともいえる、祝祷(祝福)をもって礼拝は終了するが、「主があなたを祝福し、あなたを守られます。主があなたに御顔を向け、あなたに恵みをあたえてくださいます。主があなたに微笑まれ、あなたに平安を与えてくださいます。」というこれらの言葉が意味していることと、詩編34編の16節から23節は、聖餐式と礼拝全体のしめくくりの言葉に思えてならない。 ただ、詩編では上記に書いたように、「主に従う者には災いが重なる」と書いてあり、これは話しが違うのではないかと思われるかもしれない。 しかし、現実問題は、信仰者だって、天災にあうかもしれないし、事故にあったり、スピード違反で捕まったり、ということだってありうるのだと思う。 大切なことは、そのようなことがあっても、そのままでは終わらないということ、救い出される、主が購い出してくださるという事だと思う。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は8月13 日から8月16 日の聖書日課に与えられている詩編34編10 -15節を読もう。16日は平和主日礼拝を予定しており、聖書箇所は、第二日課と福音書は、聖書日課から選んだものではない箇所が拝読される。しかし、第一日課は、あえて、今週与えられている詩編箇所が読まれる。 平和礼拝へ向けて、心を供えつつ、しっかりこの詩編箇所を読みたい。 いつものように、まず気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編34編 10:主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。 11:若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。 12:子らよ、わたしに聞き従え。主を畏れることを教えよう。 13:喜びをもって生き/長生きして幸いを見ようと望む者は 14:舌を悪から/唇を偽りの言葉から遠ざけ 15:悪を避け、善を行い/平和を尋ね求め、追い求めよ。 平和主日礼拝を控えて、インパクトのある言葉として、15節の「平和を尋ね求め、追い求めよ。 詩編作者の気持ちを想像しながら今週の詩編を読んでいくが、その前に簡単な解説を加えたい。先週後半の詩編は、34編の1-9節、今週は10-15節、そして来週は16節-23節が与えられている。先週、書いたことの繰り返しになるが、詩編作者は詩編34編で礼拝を表現しているように思える。1節は前置きのようなもので、2-4節は「招きの言葉」で、5-11節では短い証(ダビデの体験談)のようなことが語られ、そして12節以降は説教(神学的示唆)が語られている。そのように見てくると、本日の箇所、10-11節の2節は先週の証の続き。そして12-15節は、神の御言葉、説教のポイントに入ってくるといってもよい。 以上を踏まえて、一節づつ読みたい。ダビデの体験したことから、聖なる人々よ、主を畏れて敬うように、主を畏れる人には、なにも不足するものがない(10節)。 若獅子は獲物がなくなって飢えるようなことがあっても、主を求めている人にはいつも良いものが与えられる(11節)。若い世代の人々よ、私に聞き従うように、主を畏れることがいかに大切かを教えよう(12節)。喜ぶあふれ、長生きしようと幸いを得ようとする者は(13節)、語る口や舌を悪や偽りの言葉から遠ざけ(14節)、悪い行いはせず、善を行い、平和を探し、追い求めよ(15節)。 今日、この詩編34編10-15節を通して、主なる神は、私たちに何を語っているのだろうか。この週末は第二次世界大戦の終結から70周年を迎えるにあたって、復活ルーテル教会では、6月終わりから「40日間の平和への祈り」を呼びかけてきている。今日読んでいる詩編34編15節の言葉は第15日目に与えられていた箇所でもあった。 そして、12-15節を通して、今日改めて読むとき、そのポイントは「主を畏れて、悪を語らず、平和を追い求めよ。」ということになるのだと思う。 「40間の平和への祈り」の小冊子には、その三日目に19世紀のアメリカのラルフ・ワルド・エマーソン牧師の言葉で、「暴力によっては平和に導くことはできず、理解によってのみ達成する。」という言葉があったことも思い出している。 詩編34編12-15節で歌われていることと、共通するような面を感じる。理解しあうということには、決して暴力を振舞うことを避けるという行為も大切なことだが、それ以前に、悪を語らない大切さがあり、さらに、もっともはじめには「主を畏れる」ことの大切さを知った上で、対話の席にもつけるように思えてくる。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は8月6 日から8月9日の聖書日課に与えられている詩編34編1-9節を読もう。いつものように、まず気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編34編 1:【ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに。】 2:どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。 3:わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。 4:わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。 5:わたしは主に求め/主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。 6:主を仰ぎ見る人は光と輝き/辱めに顔を伏せることはない。 7:この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。 8:主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。 9:味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。 今週、私にインパクトのあった言葉としては、9節「味わい、見よ、主の恵みの深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。」 詩編作者の気持ちを想像しながら今週の詩編を読んでいきたい。詩編34編を「詩編を読もう」でとりあげるのは今回で2回目。 以前にも書いたが、詩編作者は、詩を綴ってゆく中で、ユダヤの礼拝を表現しているような場合があり、詩編34編はその一例。2-4節は「招きの言葉」で、5-11節では短い証(ダビデの体験談)のようなことが語られ、そして12節以降は説教(神学的示唆)が語られているような面がある。 その中で、9節までだけを読む。 どんな場合でも絶えることなく私は主を賛美する(2節)。貧しい人々よ(まだ主の恵みの深さを味わっていない人)どうか讃美を聞き、そしていっしょに喜び祝おう(3節)。共に一体となって、主の御名を崇めよう(4節)。 私が主に求めると主は答えてくださり、脅かすものからいつも救い出してくださった(5節)。主を仰ぎ見る人は輝き、たとえ失敗や間違いを犯しても恥辱を味わったままになることはない(6節)。 虐げられてしまった者が主を呼び求めると、主はそれを聞き、苦難から救い出してくださった(7節)。 主が遣わす者が苦難の中にある者の周りに集まり、畏れて主を呼び求める者を助けてくださった(8節)。主の恵みの深さを味わってみなさい、主の元に身を寄せる人は、どんなに幸いなことか(9節)。 今日、この詩編34編を通して、主なる神は、私たちに何を語っているのだろうか。ここ数週間の聖日は、ずっと福音書はヨハネ6章が与えられていて、ややしつこい位に、イエスが「わたしが命のパン」と言われた言葉にちなんだ御言葉をあじわっている。 はじめて聖餐式の様子を見る者にとって、司祭や牧師が「あなたに与えられたイエスキリストの体です。」と言いパンやウェハーを信者に渡している光景は、「なんでパンやウェハーがイエスの体なのか?」と疑問を抱き、滑稽にさえ思えてしまうかもしれない。 しかし、現代を生きる者は、この詩編の5-8節で詠われていたような、失敗や間違いをして恥辱を味わったことのある者、虐げられた経験のある者、苦難の真っ只中にある者であり、なにか絶対的なものがあるなら頼りたい、という人々が、ほとんどなのだと思う。そして、この詩編では、絶対的な存在である主の御もとに身を寄せる人が、いかに救われるかを詠っている。しかし、その絶対的な存在は、詩編に綴られた時代には目には見えなかったが、目に見える形で、神のひとり子イエスが送られた。 詩編34編9節で「味わい、見よ、主の恵みの深さを」と詠われていたこの「味わい、見よ」は、本当に味わうことができ見ることができる「わたしは命のパンである」と話すイエスの登場を示唆していたように思えてくる。 そして、イエスを通して、現代に生きる私たち、日頃の生活でさまざまな苦難に直面する者にとって、その絶対的な存在が、意識・無意識に関係なく、聖餐式の中で体験し、イエスの愛と赦し、希望、喜びを得て、新たな局面に向かう力が与えられている。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は7月30 日から8月2日の聖書日課に与えられている詩編78編23-29節を読もう。8月2日の聖日には、ヨハネの福音書6:24-35が与えられており、あわせて読むと良い。 いつものように、まず気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編78編 23:それでもなお、神は上から雲に命じ/天の扉を開き 24:彼らの上にマナを降らせ、食べさせてくださった。神は天からの穀物をお与えになり 25:人は力ある方のパンを食べた。神は食べ飽きるほどの糧を送られた。 26:神は東風を天から送り/御力をもって南風を起こし 27:彼らの上に肉を塵のように降らせ/翼ある鳥を海辺の砂のように降らせ 28:彼らの陣営の中に/宿る所の周りに落としてくださった。 29:彼らは食べて飽き足りた。神は彼らの欲望を満たしてくださった。 気になった言葉としては、「翼ある鳥を海辺の砂のように降らせ」という言葉。またインパクトのある言葉として、「神は彼らの欲望を満たしてくださった。」 72節もある長い詩編78編をとりあげるのは初めてのこと。その23-29節だけを詩編作者の気持ちになって読んで行くまえに、78編の全体像をつかむ必要を感じ、簡単に全体のポイントを4つに分けて書いておきたい。1-4節は、詩編78編の前文のような部分で、次世代の子供たちへ、主がなさってくださったこと(歴史)を教えていくと詠っている。5-11節では、神の御業・神との契約をことごとく忘れてしまった世代があったが、そのような頑固で反抗の世代となってしまわないようにと詠う。12-66節は、イスラエルの民が過去から当時(紀元前数百年前)までに学んだ教訓が詠われている。67節から72節では、神がユダ族(無垢な心を持つダビデ)とシオンの山を選ばれたことをもって詩編78編は詠い終わる(ひいてはダビデの子孫に希望があることを示唆しているように思われる)。以上のような全体像の中で、23-29節は、歴史上の一つの大きな出来事を詠っている。 イスラエルの民が紀元前1200年ごろに、エジプトでは奴隷となっていたが、解放されて、イスラエルへの帰路に着く。 ところが、その旅は過酷であり食べ物も貧しく、イスラエルの民はリーダのモーセに文句を言い始める。そのような民であったが、神が雲に命じて天の扉を開く(23節)。そしてイスラエルの民にマナを食べさせ、神が天からの穀物を与えられた(24節)。民は力ある方のパンを食べ、神はさらに民が飽きてしまうほどに糧を送り続けた(25節)。神の力をもって、東からも南からも、風を起こされた(26節)。 そして塵が降るように、肉を降らせ、海辺に砂が舞うかのごとく鳥を舞わせた(27節)。イスラエルの民が宿っているところに、大量の食べ物を落としてくださった(28節)。民はそれらを食べ、その欲望は満たされた(29節)。 今日、この詩編78編を通して、主なる神は、私たちに何を語っているのだろうか。とくに与えられた23-29節を読む時、わたしは日本の第二次世界大戦後の食糧難の時代から現代の日本を思い出す。私が生まれる10数年前の話しだが、日本の民がいかに日々の食糧に困ったか、両親から子供の時によく聞かされた。その食料難の前には、両親が私たちになかなか語ることも難しい、悲惨な戦争があった。父は19歳の時、本当に仲の良かった21歳の兄が戦死している。それから70年後、国会では、安保法制の問題が大きな論点だ。「世界の平和を守るための日本の安保関連法案の整備について話し合っている」と言うと聞こえは良いが、少々きつい言い方をすれば、日本がもっと武装して何かの兆候があれば、戦争にも参加していくかどうかを話し合っているとも言える。現在の日本の民に、第二次世界大戦時の、民の痛みが本当に伝わっているのだろうか? またその後の食料難がどれほど厳しいものであったかを意識しているのだろうか? さらに、食料難時代から復興していくにあたり、どれだけの援助、その背後には神がどれだけ働かれたか、を覚える人々がどれだけいるのだろうか? 現代は飽食の時代のようでもあり、78編29節に描かれた様子と重なるような気がする。 詩編78編は、紀元前数百年前に詠われ始めた。さらに時代は進み、私たちは、イエスというお方が、この世に降りてこられ、「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」と言われ、「わたしが命のパンである。」と教えてくださったことを学んだ民である。詩編78編を読み、さらに、聖日に与えられているヨハネ福音書を読み、観想し、祈り、さらに主が私たちにどう行動するように働きかけているか、思いをめぐらせて、行動したい。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は7月23日から26日の聖書日課に与えられている詩編145編10-18節を読もう。145編は、読んだ節は多少づれているが、「詩編を読もう」では過去3回とりあげている。26日の聖日に与えられている福音書箇所が、イエスの5000人への給食の場面で、その様子を想像しながらこの詩編を読むと、また新たな視点が与えられると思う。 いつものように、まず気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編 145編 10: 主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し/あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ 11:あなたの主権の栄光を告げ/力強い御業について語りますように。 12:その力強い御業と栄光を/主権の輝きを、人の子らに示しますように。 13:あなたの主権はとこしえの主権/あなたの統治は代々に。 14:主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。 15:ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。 16:すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます。 17:主の道はことごとく正しく/御業は慈しみを示しています。 18:主を呼ぶ人すべてに近くいまし/まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし インパクトのある言葉として、「ときに応じて食べ物をくださいます。」という言葉。 詩編145編は、詩編最後の139編から150編までの12編の連続している賛歌の中盤にある。その中でも20節ある145編のなかほどから後半にかけての詩編箇所。 賛歌に歌われる内容は、大きく三つに分けることができ、詩編作者が主を賛美する箇所、詩編作者が自分だけでなく人々が賛美するように願う箇所、そして、賛美する理由。 与えられた箇所は、「願い」と「理由」に分類される。そのようなことを念頭におき、一節づつ振り返る。 主が創造され主の慈しみに生きる者すべてが、あなたに感謝し主を讃えますように(10節:願い)。主権は主にあり、その栄光を告げ、力強い御業を語るように(11節:願い)。さらにその御業と栄光、主権の輝きを、次世代にも伝えますように(12節:願い)。あなたの主権は永遠であり、世々限りなく続く(13節:理由)。主はたおれそうな人を支え、うずくまっている人を起こしてくださる(14節:理由)。人々が主に目を注いで待ち望むと、あなたは時に応じて食べ物をくださる(15節:理由)。主は命あるものすべてに御手を開いて、望みを満足させてくださる(16節:理由)。主に従う道はずっと正しく、主の御業に慈しみが顕われている(17節:理由)。誠意をもって主の御名を呼ぶ人すべての近くに居てくださる(18節:理由)。 今日、この詩編145編10-18節を通して、主なる神は、私たちに何を語っているのだろうか。詩編作者は、二千数百年前の当時のユダヤ人だけではなく、この地に命を与えられたすべての人間が、後世にわたって、主を賛美するように、と歌った。 それは、当時のユダヤ教だけではなく、ユダヤ教を引き継いで世界中に浸透したキリスト教も、そしてイスラム教をも通じて、さらには、世界中にある数え切れないほどの宗教をも通じ、あるいは宗教という枠を超えて、世界中に命を賜ったさまざまな思想家や教育者をも通じて、命を与えてくださる創造主を敬い賛美するように、ということを呼びかけられているよう思える。 なぜ主を賛美するかという理由が、与えられた詩編箇所の後半に書いてあるが、この詩編が詠われ始めた後、数百年経ってから、イエスが5000人もの人々に5つのパンと二尾の魚から食物を与えたような奇跡がおこったから。しかし、それだけが奇跡ではなく、現代、この地球上に70億人もの命が生き、天の恵みを分ち合って生きていることも、奇跡的なことで、創造主が人類を愛し憐れんでくださっているからなのだと思う。 その70億人が、争うことなく、平安の中で、創造主なるお方に感謝し、賛美して生きることの大切さ、そのことを人々に言い広めるように、この詩編145編10-18節は、私たちに導いているのではないだろうか。19世紀の幕末から明治維新を生きた、日本の武士、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者、そして慶應義塾の創設者でもある福沢諭吉は、アングリカンチャーチ(日本では後に聖公会)のキリスト教宣教師(慶応義塾の英語教師)たちから大きな影響を受けていたと思われるが、自分の子供たちに、「てんとうさまをおそれ、これをうやまい、そのこころにしたがうべし。 ただし、ここにいふてんとうさまとは、にちりん(日輪)のことにはあらず。 西洋のことばにてごっど(GOD)といひ、にほんのことばにほんやくすれば、ぞうぶつしゃ(造物者)といふものなり。」という言葉を残している。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は7月16日から19日の聖書日課に与えられている詩編23編を読もう。何度もとりあげている詩編だが、19日の福音書箇所の一節、マルコ6:34に、「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」という部分がある。 そのようなことも思い浮かべつつ、読んでいきたいと思う。 いつものように気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編 23編 1:【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 2:主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 3:魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 4:死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。 5:わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。 6:命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。 私の場合は、1節の最初、「主は羊飼い」という言葉に大きなインパクトを受けている。 「詩編を読もう」では23編を過去にとりあげているし、葬儀やメモリアルサービスでも読まれることが多い。しかし、また新たに、詩編作者の気持ちになって、詩編23編を振り返る。「ダビデの詩」となっているが、ダビデ本人の詩が伝承されたものかもしれないし、数百年後に、当時のダビデのことを思って、作られた詩かもしれない。 いかに痛ましくたいへんな状況であっても、不安に陥りそうな羊に必要なものを必ず与えてくださる羊飼いのようなお方、主がおられる(1節)。疲労困憊にある私を安全な休息の場へと導いてくださる(2節)。その憩いの場において魂は生き返り、まさに主の御名にふさわしい正しい道へと導いてくださる(3節)。そして新たな道が、たとえ厳しい死の陰の谷を通るような面があったとしても、主が共に歩んでくださっており、羊飼いが手に持って歩む鞭や杖のような厳しさがあっても、それが私を力づけ、災いにあうことだって恐いことではない(4節)。 私を苦しめるものが目前に現れても、主が食べ物を与えてくださり、油を注いでくださり、ふんだんに飲み物を与えてくださる(5節)。永遠に主の恵みと慈しみが私の後をはげしく追っており、それはどこにいっても、その場が主の家でありつづける(6節)。 今日、この詩編23編を通して、主なる神は、私たちに何を語っているのだろうか。 昨日と今日の報道記事を引用したい: [東京 15日 ロイター] - 衆院平和安全法制特別委員会は15日、集団的自衛権の行使を容認する安全保障の関連法案を与党の賛成多数で可決した。 [東京 16日 ロイター] - 安全保障関連法案が16日、衆議院本会議で可決され、9月下旬の国会会期末までに成立する公算が大きくなった。憲法上許されないとされてきた集団的自衛権の行使が可能になるほか、自衛隊による他国軍への後方支援が拡大する。国民の間で慎重論が根強いままの衆院通過で、政権支持率は一段の低下が予想される。 安全保障関連法案について阿部首相自らも、「理解は進んでいない」と認めている状況の中で、採決が行なわれてしまう状況はなんなのだろうか? 正式に法案が成立するには、参議院での話し合いがあるそうなので、平和に向けて、さらに祈りたいと思う。 19日の聖日に与えられている福音書では、イエスは群集を見て「飼い主がいない羊のような有様を深く憐れみ」とある。 この光景は、いまの多くの日本国民にも、また、世界中の民の多くにも当てはまるように思える。18日の聖書日課のなかで、旧約聖書のエレミヤ12:1-13が与えられているが、その10節に「多くの牧者がわたしのぶどう畑を滅ぼし、わたしの所有地を踏みにじった。」という言葉が与えられている。 紀元前7世紀後半のエレミアに与えられた言葉だが、現代にも通じるものがあるように思う。 真の牧者、イエスは、2000年前から教え始められており、聖霊が働き主イエスの体なる教会を形成する民が、現在20億人とも言われているが、詩編23編に描かれているように、羊飼いなる主イエスの体が、世界中の民に、主の愛をもって接し、導き、主の御心に沿った道を歩むことができますように。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は7月9日から12日の聖書日課に与えられている詩編85編9節からを読もう。とても短い箇所を読むが、第二次世界大戦の終了から70周年を迎える年にあって、含蓄のある言葉が多く含まれている。いつものように気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編85編 9: わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に/彼らが愚かなふるまいに戻らないように。 10:主を畏れる人に救いは近く/栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。 11:慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし 12:まことは地から萌えいで/正義は天から注がれます。 13:主は必ず良いものをお与えになり/わたしたちの地は実りをもたらします。 14:正義は御前を行き/主の進まれる道を備えます。 気になる言葉としては、「主は平和を宣言されます」という言葉。 詩編作者の気持ちになって、一節づつ、読んでいきたい。 主なる神が、平和を宣言・約束される、それは、主の慈しみに希望をおいて生きる人々に昔のような神に背く行いをしないようにするため(9節)。 主を畏れる人にこそ、救いは近く、神の栄光は、その主を畏れる私たちの生きる地に留まるでしょう (10節) ――栄光が地に留まるという、栄光が人格化されていることに注目。神の慈しみは人々の地上のまこと(ヘブライ語ではwe-e-metという言葉が使われており信仰深いという意味もある)と出会い、また神の正義は人々の間に存在する平和と口づけする――さらに神の”慈しみ”と”正義”も人格化されていることに注目(11節)。 人々のまこと(信仰)は植物が地上から芽を吹いて成長するかのように天に向かって萌え出でて、神の正義は天から雨が降るかのごとく地に注がれる(12節)。 主はかならず良いものを地に与え、私たちの地に実りがもたらされる(13節)。 神の正義が主の前を先行し、主の歩む道を整える(14節)。 さて、この詩編85編の後半部分を通して、主なる神は、現代に生きる私たちに何を語りかけているのだろうか? 私は、栄光・慈しみ・正義―――これらは神に供えられているのだと思って、上記では、わざわざ「神の」という言葉をつけて表現したが、紀元数百年前にすでに、「地に留まる」「まことと出会う」「平和に口づけする」などの動詞から、人格化されて詩編に詠われていたことに驚かされる。そして、神はイエスという人において、顕われてくださったことと、結びつき、そして、現代においても、聖霊という神の存在が、人格化されてこの世に生きていることにも、通じているのだと思う。また現代に生きる人類が抱く信仰(上記に書いたように「まこと」と訳されているヘブライ語は信仰に置き換えることもできる)は、植物が成長するように、この地から天に向かって伸びていくかのごとく成長していく様子を思い浮かべる。植物が天からの雨が注がれて育っていくかのごとく、地上の人々が抱く信仰も、天から良い恵みを注がれて、どんどん成長していくことが、現代においてもおこりうることを覚える。 そして、そのような民は、神の意志に背いて戦争をしてしまうような振る舞いに戻るようなことをしないようにしてくださり、聖霊なる神は平和を宣言してくださる。第二次世界大戦終了から70年が経つ年にあって、まさに主の平和の宣言が、いまこそ、起こりうるのだと思う。 平和には、人々の信仰が鍵なのかと思う。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace