Archive for the ‘詩編を読もう’ Category

Tweet 来る日曜日は復活後第四主日となる。7週間ある復活節の半ばに入ってきている。毎年この復活節第四主日は「良き羊飼い」に関する福音書箇所が読まれ、詩編は23編が聖書日課には与えられる。詩編23編は現代ではメモリアルサービスなどでもよく読まれ、「もう読んだことがある」という方が多いのではないかと想像する。 しかし、何度読んでも、その度に新たな発見をするような詩編ではないかど思う。 今年も23編を読んで、いつものように気になる言葉や節はなにか? 次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編23編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。     詩編 23編 1:【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 2:主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 3:魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 4:死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。 5:わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。 6:命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、1-3節を読み進む中で、主が休憩のために導いてくださることを詠うなかで、ダビデや詩編作者がいかに疲労困憊するような状況にあったことを想像する。  詩編作者の立場を思って詩編23編を読む時、この詩編を詠いはじめるまでの状況が、いかに痛ましくたいへんな状況であっても、不安に陥りそうな羊に必要なものを必ず与えてくださり導いてくださる羊飼いのようなお方、主がおられる(1節)。そして、そのような疲労困憊にある羊に、とても大切な安全で休息の場へと導いてくださる(2節)。その憩いの場において魂は生き返り、まさに主の御名にふさわしく、次のステップに向かう際には、軌道修正をしてくださる(3節)。そして新たな道に向かうとなると、さらに厳しい死の陰の谷を通るようなことがあっても、主が共に歩んでくださっており、羊飼いが手に持って歩む鞭や杖さえも私を力づけ、災いにあうことだって恐いことではない(4節)。 私を苦しめるものが目前に現れても、主が食べ物を与えてくださり、油を注いでくださり、ふんだんに飲み物を与えてくださる(5節)。永遠に主の恵みと慈しみが私の後をはげしく追ってきてくださり、それはどこにいっても、その場が主の家でありつづける(6節)。  この詩編を通して、主なる神は何を現代の私たちに語りかけておられるのだろうか? 読む一人一人、お若い方も、還暦を過ぎておられる方々もいると思う。 しかし、それぞれに、ピンチという状況を経験されてきたのではないだろうか。 私は2歳のころに結核になったりしているが、まさに、2-3節にあるように、主が十分な休息の場を与えてくださり、快復への道へと導かれたように思う。そして、人生へのさらなるチャレンジを目前にしようが、4-5節にあるように、主なる神が元気付けてくださる。それは主イエスが十字架に架かり、死にて葬られても復活されたように、主イエスの信仰により、私たちにも復活の命、永遠の命が与えられていることを確信することができて、さまざまな困難に立ち向かう勇気が新たに与えられるのではないだろうか? それはこの世の肉体的な死を迎える時、いっさいの食べ物も家も財産もこれから先は持っていくことができないような境遇を迎える時になっても、このうえのない主の恵みと慈しみが与えられ続ける。 今、どんなにか困難な状況を迎えている方々がおられようが、そこに存在する主の癒し、慰め、慈しみが豊かに注がれている。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週は聖書日課では4月16-19日に与えられている詩編4編を読む。主なる御方に心を集中させて読んでいこう。そして、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編 4編 1:【指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩。】 2:呼び求めるわたしに答えてください/わたしの正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください/憐れんで、祈りを聞いてください。 3:人の子らよ/いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか/むなしさを愛し、偽りを求めるのか。〔セラ 4:主の慈しみに生きる人を主は見分けて/呼び求める声を聞いてくださると知れ。 5:おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り/そして沈黙に入れ。〔セラ 6:ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。 7:恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。 8:人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください。 9:平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに/わたしをここに住まわせてくださるのです。 気になる言葉というと、私の場合は5節の「横たわるときも」と9節の「平和のうちに身を横たえる。」 さて、詩編作者の気持ちになって、一節づつ振り返りたいが、5節の言葉に、「横たわるときも」という言葉があり、最後の9節には、「平和のうちに身を横たえ」という言葉が書かれていること推測して、なにか眠れないときに、作詩されたように思える。 1節にある説明は、この詩編は音楽の伴奏付で歌われる様子が想像できる。しかし、眠りと関係しているので、静かな伴奏を詩編作者はイメージしているのではないだろうか。また、賛歌でありながら静かな曲想で、またダビデの生涯でいろいろな挑戦を受けた時とも関係がある歌なのだろう。2節以降、詩に入っていく。眠れずにいる詩編作者が神によびかけて、私の正しさを認めてくださる神よ、私に答えて、苦難から解放し、憐れんで、祈りを聞いてくださいと嘆願する(2節)。人々は、いったいいつまで私の主にあって生きる誉れを辱め、主の思いから離れたむなしい言葉を愛し、偽るのか(3節)。セラとあるので間奏が入る。主に生きる人は見分けてくださり、主を呼び求めるものの声を聞いてくださるということを知ろう(4節)。 主を畏れよう、そして横たわるときに、自分に正直に語り、そして沈黙しよう(5節)。 またセラとあるので、間奏が入る。 主にふさわしい献げ物をささげ、主を信頼しよう(6節)。 主から恵みが示されることを疑う人々がたくさんいるが、主よどうか私に御顔を向けてください(7節)。人々はぶどうを豊かに収穫して喜ぶ、そして、それにもまさる喜びをどうか私の心に与えてください(8節)。いろいろと気になるこことだらけだが、それでも主に信頼して平和のうちに横たわり、私は眠れる。主よ、あなただけにより、私はこの地に生活することができている(9節)。 さて、この詩編を読むなかで、主なる神が現代の私たちにいったい何を語ろうとされているか思いを巡らせたい。この詩編の背景にある、信仰を持つことを疑問視し、詩編作者に挑戦した人々がいたという時代は、現代にも通じるものがある。 しかし、主なる神、すべてを創造された主が、今も活き活きとおられ、それゆえに、太陽も地球も、さまざまな星も、主にある創造が続いており、秩序が保たれ、わたしたちの永遠の命もその中に存在している。さらに現代は、キリスト降誕と復活後の世界に人類は生かされており、死にて葬られても死を滅ぼしよみがえられ、私たちとともに主なるイエス、聖霊が、私たちのなかにしっかりと働いてくださっている。その創造主であり、この世に来られたそのひとり子イエスであり、そして聖霊なる三位一体なる主を信頼して歩むことがどんなにすばらしいことなのか。この地球上での生活には様々なチャレンジがあるが、しかし、主に頼り主の体である教会に仕える中で、この上もない喜びを覚え、そして主にある平安を与えられる。それはすなわち、どのような困難があって眠れない夜にも遭遇するが、それでも主に信頼する中で、喜びの眠りが平安のなかで与えられている。  安達均    Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週は聖書日課では4月9-12日に与えられている詩編133編を読む。新しいイースターの季節に入った。厳密には、我等の兄弟姉妹である東方正教会では使っている暦が異なるため、イースターは4月12日となるが、そのようなことも覚えて、主なる神に心を集中させて読んでいこう。そして、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編 133編 1:【都に上る歌。ダビデの詩。】 見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。 2:かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り/衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り 3:ヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。 気になる言葉というと、「兄弟が共に座っている」そういう状態をなんという恵みであるか、そして喜びであるかと表現していること。 さて、詩編作者の思いを想定しながら、一節づつ見てゆきたい。「都に上る歌」とあるので、神殿のあるエルサレムに向かって上るときに歌うものと想像できる。 そして、ダビデの詩となっているが、かならずしもダビデが詠ったというわけではなく、後世の詩編作者がダビデのことを想像しながら歌ったようにも思える。詩の内容に入っていくが、兄弟が共に座っている状態を、すばらしい恵みであり喜びである、と詠っている。そこには、旧約聖書に描かれてきた兄弟関係は必ずしも良いものばかりではない。いやむしろ悲惨な関係ともいえるものが多い。アダムとイブの息子たちで、人類最初の殺人と言われる兄カインが弟アベルを殺してしまう関係にしても、人類最初のオレオレ詐欺(笑)とも言えるかもしれないが弟ヤコブが父イサクを騙して結果的に兄エサウの継ぐべき資産を横取りしてしまったことにしても、またヤコブの息子たち12人のなかで、下から二番目のヨセフは兄弟のなかでは仲間はずれになりエジプトに売られてしまうようなことさえ起こる。そのような難しい兄弟関係が多いなか、ともに兄弟が座っているというなにげない光景が、なんという恵みであり喜びなのかが詠われている(1節)。つづいて2節と3節の前半で、二つのすばらしい光景を付け加えている。すばらしい香りの油がアロンの頭に注がれて、頬のひげに降りてきて、さらに着ている服の襟に垂れている長いひげの先のほうまで滴ってくる香油の様子の美しさを詠っている。そこにはアロンは神の任命を受けたモーセから油注がれて大祭司に就任する様子を想像すればよいのかと思う(2節)。次の節の前半で、光景はがらりと変わり大自然の光景を詠う。都エルサレムの北方約250Kmにあるヘルモン山。標高は1200メートル位らしいが、冬はいただきに雪をかぶるような山で、エルサレムとヘルモン山の中間にあるガリラヤ湖や、さらに都であるエルサレム(別名シオン)に向かう途中にある丘陵地帯に対しても、大切な水源になっているのだと思う。そのヘルモン山にある露とエルサレムに流れてくる滴のなんと美しいことかと詠う(3節前半)。 そして最後に、シオンにて主なる神が、永遠の命を布告されると詠う(3節後半)。  この詩編133編を通して、主なる神は現代のわたしたちに何を語りかけてくださっているか考えたい。兄弟が共に座っている光景は、ある同じ親から生まれた兄弟というより、あるいはユダヤ教を信仰するユダヤ人たちというより、創造主に創られたすべての人類が、この地球に共に居住している様子に思えてくる。そのように考えると全人類の親はだれなのか、全人類の親、創造主の思いを考える時、その子供たちも、この地球上で、共になかよく居住することが可能になるように思う。 また二節から、神がモーセを通してアロンに油を注ぎ、大祭司に任命する様子を想像するより、娼婦だったと思われるマグダラのマリアを通して、神のひとり子イエスに高級な油が注がれた光景を思い浮かべたくなる。マグダラのマリアさえ用いられ、油注がれた救い主イエスが、そして大祭司イエスが存在することを覚えたい。詩編133編3節前半に詠われた大自然の光景を覚えるとき、とくに今カリフォルニアに住む中で、たいへんな旱魃に見舞われている現実がある。もちろん、水を大切にし、できるかぎり節約する生活をしようとすることは当然しなければならない。ただもっと大切なことがあるように思う。それはその水を創造して供給してくださる創造主を愛し敬うことではないだろうか。そして詩編の133編の結論は、その創造主と人類の愛し合う関係のなかで、主なるイエスが全人類への永遠の命を宣言してくださることをうたっているのかと思う。しかし、この四旬節から復活節に移行する季節にあって(プロテスタント、カトリック教会では5日からもう復活節だが、私たちの兄弟姉妹である東方正教会では12日がイースター)人類が罪の世界に生きてきていることを実感するとともに、主イエスの復活によって、創造主からの一方的な赦しにより、人類が新しく永遠の命を与えられていることを覚える。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週は聖書日課では受苦日に与えられている詩編22編、(2節はイエスの十字架上の言葉)を読もう。主なる神に心を集中させて読んでいこう。気になる言葉や節は何かを挙げ、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているかよく考え、そして、神は現代の私たちに何を語っているのか思いを巡らせよう。 詩編 22編 1:【指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】 2:わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。 3:わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。 4:だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。5:わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。 6:助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。7:わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。 8:わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。 9:「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」10:わたしを母の胎から取り出し/その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。11:母がわたしをみごもったときから/わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。 12:わたしを遠く離れないでください/苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。13:雄牛が群がってわたしを囲み/場シャンの猛牛がわたしに迫る。 14:餌食を前にした獅子のようにうなり/牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。 15:わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋のように溶ける。 16:口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。 17:犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。 18:骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め 19:わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。 20:主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ/今すぐにわたしを助けてください。21:わたしの魂を剣から救い出し/わたしの身を犬どもから救い出してください。 22:獅子の口、雄牛の角からわたしを救い/わたしに答えてください。 23:わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。 24:主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。 25:主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。 26:それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。 27:貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。 28:地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。 29:王権は主にあり、主は国々を治められます。 30:命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得 31:子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。 気になる言葉:私の場合は20節にある「あなただけは私を遠く離れないで」 詩編作者の気持ちになって振り返りたいが、詩編は「賛歌」と1節には書いてあるが、特に前半は「嘆き」の詩編ともいえる。節によって、1) 嘆きと訴え、2) 信頼、3) 助けを求める、4) 賛美の誓い にグループ分けできそうなので、詩編全体を振り返り、分類をしてみたい。2-3節は「嘆きと訴え。」4-6節になると「信頼」の言葉に変化。7-9節はまた「嘆きと訴え」になってくる。10-11節は再び「信頼」の言葉に。そして12節になってはじめて「助けを求める」言葉になる。13-19節はまた「嘆きと訴え」にもどってくるが、状況をより明確に述べている。20-22節は再び「助けを求める」言葉になる。23節以降になると、暗い短調だった曲ががらりと明るい長調の曲になるように変化している。21節から最後の31節まで「賛美の誓い」を詠い続けている。  主なる神が、受難週にあってこの詩編を読んでいる私たちに、何を語られているのだろうか? 冒頭にも書いたように、2節にある言葉はイエスが十字架上で金曜午後三時に「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(マルコ15:34)と叫ばれた言葉。神の子でありながら人の子としても私たちの住む世の中に生を受けたイエスも神への不平とも言える訴え、質問、を投げかけたことに、大きな慰めが与えられると思う。私たちも神への大胆な質問が赦されているように思う。そして、20節にある「あなただけは私を離れないでください。」という助けを求める言葉は、信仰の本質に関わる言葉だと思う。たとえどんな状況にあろうが、主なる神は決して私たちを離れてしまうことはない。イエスの十字架の死と復活がそれを教えてくださっている。すべてを失ったと思っても、主なる神だけは見捨てることなく、そこに寄り添ってくださっている。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週は聖書日課通り、3月26-28日に与えられている詩編118編1-2節および19-29節を読む。いつものように、主なる神に心を集中させて読んでいこう。そして、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編 118編 1: 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。 2:イスラエルは言え。慈しみはとこしえに。 19:正義の城門を開け/わたしは入って主に感謝しよう。 20:これは主の城門/主に従う人々はここを入る。 21:わたしはあなたに感謝をささげる/あなたは答え、救いを与えてくださった。 22:家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。 23:これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。 24:今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。 25:どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。 26:祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。 27:主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。祭壇の角のところまで/祭りのいけにえを綱でひいて行け。 28:あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。わたしの神よ、あなたをあがめる。 29:恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。 気になった言葉は何だろうか。 私の場合は、22節の「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。」 詩編作者の時代にさかのぼってみて、作者がこの詩編の言葉にこめた意味を想像していきたい。詩編はユダヤ教の礼拝において詠われていた詩が編集されたもの。 118編は、とくに礼拝が始るときに、司祭や会衆が神殿に入る時に詠われていたのではないかと考えられる。礼拝の始めに、神殿の外で司祭が「恵み深い主に感謝しよう。」と大きな声でよびかけると会衆が「慈しみはとこしえに。」と応える(1節)。次に司祭が「イスラエルの民は言う。」と呼びかけるとまた、「慈しみはとこしえに。」と会衆は応える(2節)。 今日の箇所には入っていないが、似たような応答が3-4節にあって、続いて、なぜ主に感謝するのかの理由が5-18節まで詠われる。そして19節ではいよいよ神殿の門があけられて、19-29節は神殿に入ってゆく時に神殿の中で行なわれることが詠われていたのだろう。19-21節は神殿の城門を開けて、入ったところで、主に感謝しよう、これこそ主の門であり、主に従う人はこの門を入る、私たちにあなたが答え、救ってくださったので、主に感謝する、と詠いながら進む。22-24節は喜び踊りながら神殿中央部に入ってくる様子が思い浮かぶ。ただ22節の「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。」は、新訳聖書のなかで何度か引用されており、新訳の世界ではイエスのことを述べていると考えるが、旧約時代に、詩編作者はいったい何のことを語っていたのか特定しがたい。しかし、兄弟に裏切られてエジプトに連れてこられたヨセフが後には、旱魃にあってあえいでいたイスラエルの民を救うことになるヨセフのことを意味していたのかもしれない。26-28節は、司祭たちと会衆は捧げものをたずさえて進み、祭壇で捧げ、主に感謝しながら詠い続ける様子が目に浮かぶ。 そして29節では1節と同じように、「恵み深い主に感謝せよ」という司祭の呼びかけと、「慈しみはとこしえに」という会衆の応答で118編は終わる。  この詩編箇所を通じて、主なる神は現代のわたしたちに何を語りかけてくださっているか考えたい。3月29日からはいよいよ受難週となり、イエスの御苦しみを覚え、そしてこれまで以上に私たちの罪をに覚える時だといえる。それはキリスト教信者自身が、イエスを十字架刑に追い込んでしまった一人であることに気付く時だともいえる。それは2000年前に起こった過去の出来事というより、現代も続いている。イエスキリストの体である教会に集まる者自身が、自ら教会を 傷つけていることを認識する時とも言える。その受難週を迎える前に、この詩編が訴えてくるものは何なのだろう? この詩編は、数日後にはイエスが十字架刑になるのに、民の歓喜の声の中で、イエスがエルサレムに入城してくる様子にも重なってくるものがある。また現代の「主を賛美します、主を賛美します。」と歌い、賛美することが一番大切という牧師たちや教会の指導者たちが、大きな声でプレイズソングを歌っている様子にも重なってくる。賛美することが一番大切ということはどういうことなのか? 家を建てる者の退けた石が隅の親石であることの意味をじっくり観想したい。2000年続いているキリスト教会の礼拝では、最初に開会讃美歌を詠うが、その後すぐに、罪の告白となることに、大きな意味がある。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週は聖書日課では3月23-25日に与えられている詩編119編9-16節を読む。いつものように、主なる神に心を集中させて読んでいこう。そして、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編 119編 9: どのようにして、若者は/歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。 10:心を尽くしてわたしはあなたを尋ね求めます。あなたの戒めから/迷い出ることのないようにしてください。 11:わたしは仰せを心に納めています/あなたに対して過ちを犯すことのないように。 12:主よ、あなたをたたえます。あなたの掟を教えてください。 13:あなたの口から与えられた裁きを/わたしの唇がひとつひとつ物語りますように。 14:どのような財宝よりも/あなたの定めに従う道を喜びとしますように。 15:わたしはあなたの命令に心を砕き/あなたの道に目を注ぎます。 16:わたしはあなたの掟を楽しみとし/御言葉を決して忘れません。 気になった言葉は何だろうか。 私の場合は、15節の「あなたの命令に心を砕き」という言葉。「心を砕く」というと、「心配する」とか「配慮する」という感覚で使われていることが多いかと思う。しかし、原語のヘブライ語や英語に訳された言葉などを参考にして、つきつめて行くと「熟考する」という意味なのだと思う。 詩編作者の時代にさかのぼってみて、作者がこの詩編の言葉にこめた意味を想像していきたい。 詩編119編には22文字あるヘブライ語のアルファベットの各文字ではじまる22の詩が収められている。本日の箇所は、二文字目のBに相当する言葉ではじまる詩。 1-8節はAではじまる言葉で、基本中の基本ともいうべき教訓が書かれているともいえる。 そして二つ目の詩では、最初の節の言葉から若者への教訓にフォーカスしているようだ。 一節づつ考えていきたい。 いったい若者はどのように清き道を歩んでいけば良いのか、それは主の言われたとおりの道を歩み続けること(9節)。 心を尽くして主に尋ねもとめて、主の教えからはずれてしまうことがないように(10節)。主の言われたことを覚え、主に過ちを犯すことがないようにすること(11節)。主よ、賛美します、あなたの掟を教えてください(12節)。主が語られた裁きも自分で物語ることができるように(13節)。財宝などを喜ぶのではなく、主の定められた道を歩むことこそが宝であり喜びとなりますように(14節)。主の訓示をじっくり観想し、主の定められた道を敬って歩むように(15節)。主の掟こそ楽しみとし、主の言葉を覚えるように(16節)。 この詩編箇所を通じて、主なる神は現代のわたしたちに何を語りかけてくださっているか考えたい。 ユダヤ教信者の家族では、現代でも、親が子に、じっくりユダヤ教のトーラ(律法)を教えるという。日本語ではトーラを律法と訳してしまうが、どちらかというとさまざまな生活上の基本であり、旧約聖書のなかでも最初のモーセ五書に残された掟、「教訓」として捉えたらよいと思う。そして主イエスキリストは、最も重要な掟に関して次のように語られていたことを思い起こす。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」 現代の生活では、モーセ五書や詩編が著された時代とは大きく異なる環境の中に置かれており、モーセ五書では語られていない教訓や掟を自分たちで決めなければならないこともあるのかと思う。たとえば、夜中でも電気をつけて、本を読んだりすることもできる。あるいは夜中に映画を見に行ったり、あるいは友人と遊びにいったりもすることができてしまう。 しかし、いろいろな自由度があるなかで、行動規範は、常に「主なる神を愛する。隣人を愛する。」を年頭におき行動するかどうかになるのかと思う。四文字熟語で「敬天愛人」という表現もできるが、その意味は深く、熟考して行動する必要がある。 現代の親や教師たちは、こどもや生徒たちに、このようなことを教える大切さがあるのだと思う。 ルーテル教会が母体となって100年以上前に建立された九州学院を1月に訪問したが、学院の教訓が「敬天愛人」であることを思い出す。  安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週後半の聖書日課にある詩編107 編1-3節および17-22節を読む。150編ある詩編は、五つのグループに分けてとりあつかわれることがある。その五つのなかで、107編以降150編までは、最後のグループとされる。107編は第五詩編グループの中で一番最初の詩編ということになる。いつものように、主なる神に心を集中させて読んでいこう。そして、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編107編 1:「恵み深い主に感謝せよ/慈しみはとこしえに」と 2:主に贖われた人々は唱えよ。主は苦しめる者の手から彼らを贖い 3:国々の中から集めてくださった/東から西から、北から南から。 17:彼らは、無知であり、背きと罪の道のために/屈従する身になった。 18:どの食べ物も彼らの喉には忌むべきもので/彼らは死の門に近づいた。 19:苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らの苦しみに救いを与えられた。 20:主は御言葉を遣わして彼らを癒し/破滅から彼らを救い出された。 21:主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。 22:感謝のいけにえをささげ/御業を語り伝え、喜び歌え。 さて、どのような言葉がインパクトがあっただろうか?あるいは引っかかったか? わたしの場合は、特に一節の言葉から、恵み深い主から慈しみがとこしえにあるという言葉。 詩編作者の気持ちになって、本日の詩編箇所を振り返りたい。詩編作者の気持ちというべきか詩編編集者の気持ちというべきかよくわからないが、冒頭に書いたように、107編は第五詩編グループの一番最初の詩編。その1-3節は、107編から150編の最大のポイントを詠っているようだ。 主がいかに恵み深いか、そしてその主から注がれる慈しみは永遠に存続している、だから主に感謝せよ(1節)。主は苦しめられている人々を救われた、主に買い戻された人々は皆、感謝して謡え(2節)。主によって東西南北にある国々から集められたものよ(3節)。そして4節以降43節まである長い詩編107編は、主の恵み・慈しみがいったいどのようなものかを具体的に挙げているように思える。その中で今日読んだ17-22節では、詩編作者は以下のようなことを詠っているように思う。 人々は主なる神のことをよくわからず、主に背を向けてしまい罪の道を歩くことになり、結局(神の敵対者)に従う者となってしまった(17節)。どんな食べ物も、本来食べるべきものではない(忌むべき)ものであるため、ほとんど死をさけられない病になってしまった(18節)。そのような苦難の中から主に助けを求めると、主は人々を苦しみの中から救い出された(19節)。 主の御言葉が与えられ、人々は癒され、破滅から救い出された(20節)。だから主に感謝しよう、主の慈しみはとても深く、人々に驚くべき事を成し遂げる(21節)。だから感謝の捧げ物をして、主の成し遂げられた事を代々語り、喜んで主を賛美しよう(22節)。 詩編107編を通して、主なる神は、今日の私たちに何を語りかけてくださっているのだろうか? 昨日3月11日を持って、あの東日本大震災から4年間という期間が過ぎた。四年も経ったのに、仮設住宅にいる方々がいるし、心が癒されていない方々がいるという記事も見るし、四年しか経っておらずまだまだ原発の被害とそれに対処する期間はこれから何十年、何世代にも続くのだという記事も見かける。とくに原発の問題を思う時、17節18節にある言葉は、人々が無知(主なる神を畏れていない状況)であるため、主の道から背いて、悪魔の道を歩み、結果食べるものは、みな汚染されてしまったものとなり、瀕死状態となってしまった、という内容が重くのしかかってくる。しかし19節以降にあるように、主なる神に助けを求めると苦しみから救われ、主の御言葉によって癒され、破滅から救われる。という言葉に大きな望みがあることを覚えたい。そして、人々に主の業を語り伝え、主の永遠の恵みに感謝し、捧げ物をし、賛美しようという言葉から、永遠の慈しみを感じる。そして、この詩編を詠う私たちが、どういう行動をとるべきなのか、自ずとわかってくるように思う。  四旬節にあって、十字架を担いで歩むようになる主を覚え、謙り自分のいたらなさを告白し、聖なる御名を褒め称えつつ。  安達均    Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週後半に聖書日課にある詩編19 編を読む。いつものように、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編19編 1:【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】 2:天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。 3:昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。 4:話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても 5:その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。 6:太陽は、花婿が天蓋から出るように/勇士が喜び勇んで道を走るように 7:天の果てを出で立ち/天の果てを目指して行く。その熱から隠れうるものはない。 8:主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。 9:主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。 10:主への畏れは清く、いつまでも続き/主の裁きはまことで、ことごとく正しい。 11:金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。 12:あなたの僕はそれらのことを熟慮し/それらを守って大きな報いを受けます。 13:知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。 14:あなたの僕を驕りから引き離し/支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ/わたしは完全になるでしょう。 15:どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。 さて、どのような言葉がインパクトがあっただろうか?あるいは引っかかったか? わたしの場合は、バイブルスタディをするときや、説教の前などに、15節にある言葉の内容の祈りを心がけていることもあり、15節の「言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれますように。」 詩編作者の気持ちになって、19編を振り返りたい。 1節にダビデの詩となっているので、ダビデがこの詩編の作者かもしれないし、後世の詩編作者の一人がダビデのことを想像しつつ、礼拝での賛歌として作詩したとも思われる。 2節以降については、本日は、一節一節ふりかえるというより、大きく三つの部分にわけて、ポイントは何かということを述べてみたい。 一つ目は、2節から7節で、天と地、そして太陽の出現について、その空間的、時間的なひろがりを詠っている。2節の「御手の業」や5節の「設けられた」などの言葉からして、天も地も太陽もすべて神の創造のなかでおこっている。 二つ目は、8節から11節で、聖書(旧約聖書でとくにモーセ五書なのだと思う)に書かれ、伝えられてきた、さまざまな主の律法や命令が、いかに尊いもので、畏れおおく、また、金銭には変えられない価値があり、また甘い(愛情に満ちた)ものでもあるか。 三つ目は、12節以降最後までで、主なる神への語りかけ、謙虚な祈りなのだと思う。  詩編19編を通して、主なる神は、今日の私たちに何を語りかけてくださっているのだろうか? 四旬節は3週目に入っている。 この期間、自分の罪を振り返る時期ともいえる。 現代はとかく、自然と離れて、情報化社会の中で人間が作り上げた世界にひたって、生活を送っている。しかし、詩編19編の前盤に詠われていることから、たとえ人間が創り上げたと思われるような世界でも、すべては神の創造の上に成り立っていることを忘れてはならないのだと思う。先週はフロリダ方面へ出張していたが、ダラス経由の飛行機だった。 ダラスという南部に位置する都市でも、行きは空港の滑走路脇に数十センチの雪が溶けずに残っているのに驚いた。そして帰りはなんと、ダラスに雪が降っており、多数の便がキャンセルとなり、私も自宅近くの空港には帰ってこれず、LA国際空港に帰ってきて、予定より7時間遅れで家に日曜の明け方にたどりついた。情報化社会や飛行機の技術がここまで発達しているとはいえ、自然が相手ではどうにもならない。中盤に入って、十戒に代表される主の律法、さらにその大元は、主イエスの御言葉から「主を愛し、隣人を愛する」という最も重要な掟に従って生きることの大切さと、その価値の尊さを覚える。 そして最後の祈りの中に、最重要な掟を、守りきれない私たちの現実があるなかで、神に赦し、清め、導きを願いもとめる私たちの現実があるのだと思う。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週後半の聖書日課の詩編箇所、22編23-32節を読む。いつものように、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。レント(受難節)にあって、主イエスの御苦しみを覚えつつ読みたい。というのは、詩編22編の前半にある言葉は、イエスが十字架に架けられた午後3時にイエスが息をひきとる前に引用している御言葉。 与えられた23節から32節だけだとそのことがよくわからないので、あらかじめ記載しておきたい。 詩編22編 23:わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。 24:主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。 25:主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。 26:それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。 27:貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。 28:地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。 29:王権は主にあり、主は国々を治められます。 30:命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得 31‐32:子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。 どこの箇所が気にってもっとも気になっただろうか? 私の場合は、いろいろな箇所が気になってしまったがひとつ挙げるとすると、29節の「王権は主にある」という言葉。  詩編作者の気持ちになって読んでいきたいが、今日の箇所ではないが22編の1節には、この詩編が「賛歌」でダビデの詩ということが書いてあったこと、そして2節には、「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」という言葉が書かれていて、ダビデがただ事ではない状況におかれているなかで歌われる詩編であることを述べておきたい。 しかし、そのような状況で始まった詩編にしては、23節以降はガラッと様相の変わった賛歌となっている。主を賛美する言葉、主がイスラエルの民にしてくださった恵み、またイスラエルの民への教えに満ちてくる。自分の兄弟に主のことを語り伝え、礼拝で賛美する(23節)。イスラエルの民はみな主に栄光を帰し、主を恐れるように(24節)。主は貧しい者、助けを求める者の叫びを聞く(25節)。だから私は大きな礼拝で主を賛美し献上する(26節)。貧しい者は満ちたり、主を尋ね求める者は賛美し、健康が与えられるように祈る(27節)。全地で、すべての人類が主のもとに立ち帰って、すべての国の民が主にひれ伏すように(28節)。王権は主にあって国々を治める(29節)。すべての民が種にひれ伏して、この世の命を失ったものも、ひれ伏し、魂がよみがえる(30節)。子孫は神に仕え、代々、主の成し遂げたことを告げ知らせるだろう(31-32節)。 さて時代は変わって、この主なる神がこの詩編を通して現代の私たちに何を語りかけているかに思いを巡らす時、とくに四旬節にあるため、主イエスが十字架にかかられ「わが神わが神、なぜ私を見捨てるのですか」という言葉を話されたのが、この詩編22編の最初に書かれていたことを思い出さざるを得ない。しかし、そのような状況の中にあっても、この22編の最後の数節では大きな希望が歌われている詩編であり、わたしたちは、この詩編22編を通して大きな力、元気、励ましをいただけるように感じる。キリスト教徒が一番強い時、また最高の希望と喜びにあふれるようになるのは、どん底と思えるような状況にあっても、そこに強さがあるのだと思う。安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週後半の聖書日課にある詩編25編1-10節を読む。いつものように、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。今年は昨日2月18日が灰の水曜日で、すでにレント(受難節)に入った。そして受難節の最初の聖日に与えられている福音書箇所は、イエスが荒れ野で誘惑を受けた箇所、マルコ1:9-15。その光景を覚えて、この詩編25編を読むのも良いかと思う。 詩編25編 1:【ダビデの詩。】主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み 2:わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように/敵が誇ることのないようにしてください。 3:あなたに望みをおく者はだれも/決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。 4:主よ、あなたの道をわたしに示し/あなたに従う道を教えてください。 5:あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください/あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。 6:主よ思い起こしてください/あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。 7:わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず/慈しみ深く、御恵みのために/主よ、わたしを御心に留めてください。 8:主は恵み深く正しくいまし/罪人に道を示してくださいます。 9:裁きをして貧しい人を導き/主の道を貧しい人に教えてくださいます。 10:その契約と定めを守る人にとって/主の道はすべて、慈しみとまこと。 気になる言葉やインパクトのある節はどこだろう? 2節にある「敵が誇ることのないように」という状況。 詩編作者の気持ちを覚えつつ1節づつ読んでいきたい。1節に【ダビデの詩。】となっており、詩編作者は、特に2節後半の言葉から、ダビデが敵に囲まれ危機的状況にあった時のことを想像しながら、この詩を詠ったのかと思う。この詩編の言葉は、1)神との信頼を宣言する箇所、2)神への要望を述べる箇所、3)詩編作者が教訓を述べる箇所のどれかに属する言葉が並べられて構成されているようだ。そこで、そのどれに属するかを考えつつ、一節づつ振り返りたい。 私の魂はあなたに望みを置いています、神よ、あなたを信頼してお願いします(1節と2節前半:信頼)。私が恥を受けることがないように、また敵が誇ることのないようにしてください(2節:要望)。あなたに望みを置くものは恥を受けることがなく、人を欺く者が恥を受ける(3節:教訓)。主よあなたの道を示して、あなたに従う道を教えてください、あなたの真理に私を導いてください(4節、5節前半:要望)。あなたは私の救いの神で、あなたに永遠の望みをおいています(5節後半:信頼)。主よ、あなたの永遠なる憐れみと慈しみを思いだしてください、わたしの若き日の罪や背きを思い出すことなく、主の慈しみと恵みの中に私を留めてください(6-7節:要望)。主は恵み深くて正しく、罪人にも道を示してくださる、主は謙(へりくだ)る者を認め、主の道を教えてくださる、約束を守る者にとって、主の道は慈しみと真理である(8-10節:教訓)。 今日この詩編25編の1-10節を通して、主なる神が、現代の私たちに何を語っておられるのだろか? この詩編はダビデが危機的状況にあった時のことが想像されながら詠われた時代から、紀元後、キリスト教会では、キリストが荒れ野でサタンの誘惑を受けられた時のことを覚つつ、詠われるようになったともいえる。そして、現代に生きる私たちも、同じ詩編をレントの始りの時期に読むとき、私たちも何かの危機の中に置かれている、あるいは誘惑の中におかれていることを覚える。それは、健康上はよくないのに、何か甘いものをたくさん食べたくてしょうがなくなるようなことから、自分の健康に関連して、かかってもいない病にいつかかかるのではないか心配でしょうがないとか、あるいは、老後のことが心配でしょうがない等々いろいろなことがあるのかと思う。 ピンチや誘惑の中で最も強力なもので、すべての状況に共通しているのは、私たちの心を、主なる神から遠ざけようとする力なのだと思う。そのような誘惑に陥らないように、また危機的状況から救い出されるように、主なる神に全幅の信頼を置いて礼拝を守ること、聖書を読もこと、そして主に祈ることの大切さを覚える。そして、歩むべき正しき道、従うべき教えが示され、主イエスの慈しみにつつまれながら、神に自らを捧げ、社会に仕える行動へと導かれていることを覚える。 アーメン  安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace