Tweet 今週後半に聖書日課にある詩編50編1-6節を読む。2月15日は主の変容主日であり、マルコ9:2-9に書いてある様子を覚えながら読んだらよいかと思う。いつものように、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編50編 1: 【賛歌。アサフの詩。】神々の神、主は、御言葉を発し/日の出るところから日の入るところまで/地を呼び集められる。 2:麗しさの極みシオンから、神は顕現される。 3:わたしたちの神は来られる/黙してはおられない。御前を火が焼き尽くして行き/御もとには嵐が吹き荒れている。 4:神は御自分の民を裁くために/上から天に呼びかけ、また、地に呼びかけられる。 5:「わたしの前に集めよ/わたしの慈しみに生きる者を/いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者を。」 6:天は神の正しいことを告げ知らせる。神は御自ら裁きを行われる。〔セラ インパクトのある言葉はどこだろうか? 私には5節の「いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者を。」 詩編作者の気持ちを覚えつつ1節づつ読んでいきたいが、まず、「賛歌。アサフの詩。」となっている。アサフとはダビデの時代に音楽隊の中に出てくる名前(歴代上15章16-24節参照)。 ダビデの時代に生きていたアサフが詩編50編を残したのか、後世の詩編作者がアサフのことを覚えつつ、アサフの詩としてこの詩編を作詩した可能性もある。 また詩編50編の1-6節は、23節ある詩編50編全体がひとつのユダヤ教の式典のようなイメージがあるが、その式典の導入部分。 神々の神が、東の果てから西の果てまで、すべての地にいる民を集めて、言葉を発せられる(1節)。完璧な美しさを現しているシオンの地から、神は顕われる(2節)。 神々の神であるわたしたちの神は黙ってはおられず、その前の地を火で焼き尽くしながら、また足元では強風が吹き荒れているような状況の中で、来てくださる(3節)。 神は自分の民を裁くために天でも地でも呼びかけられる(4節)。 「わたしの前に、わたしの慈しみに生きる民を、いけにえを供えてわたしと契約を結んだ民を、集めよ。」(5節) 天が神が正しいことを告げ、神ご自身が裁かれる(6節)。 今日この詩編50編の1-6節を通して、主なる神が、現代の私たちに何を語っておられるのだろか? 上記には、1-6節が詩編50編の導入部分に当たることを書いた。 しかし、2月15日の聖日に与えられている福音書箇所が、主の変容のできごとであることを思うと、この詩編50編1-6節が、主の変容の際に、天の「これは、わたしの愛する子、これに聞け」という声が聞こえた時のことを、予告しているような詩編であるようにも感じる。 さらに、主の変容は、イエスの十字架の死と復活への予告であったとも考えることができる。 ある意味、十字架の死と復活の前触れが、詩編50編にも表現されていたような面を感じる。 とくに、5節の「いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者」という箇所から、主イエス自らがいけにえとなり、すべての民の罪の赦しのために、主イエス御自身が、父なる神と契約を結んでくださったことが彷彿してくる。主の変容日が過ぎると2月18日からは、四旬節(受難節とも呼ばれる)に入り、悔い改めて、十字架の死と復活に備える期間となる。 その四旬節を前にして、詩編50編の1-6節の中に、神々の神からすべての民への深い思い、憐れみ、を感じる。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 私はマレーシアにいたが、湯川遥菜氏に続いて、今度はわたしたちクリスチャンにとっては主にある兄弟である、後藤健二氏もイスラム国に殺されたという報道が2月1日の聖日の早朝に流れてきた。そのような状況を覚えつつ、今週後半に聖書日課で与えられている詩編をしっかり読もう。 気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、いまのような状況の中で、わたしたちに何を語っているのか、私たちにどのように行動するように示唆しているか思いを巡らせよう。 詩編/ 147編 1: ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく/神への賛美はいかに美しく快いことか。2:主はエルサレムを再建し/イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。3:打ち砕かれた心の人々を癒し/その傷を包んでくださる。4:主は星に数を定め/それぞれに呼び名をお与えになる。5:わたしたちの主は大いなる方、御力は強く/英知の御業は数知れない。6:主は貧しい人々を励まし/逆らう者を地に倒される。7:感謝の献げ物をささげて主に歌え。竪琴に合わせてわたしたちの神にほめ歌をうたえ。8:主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え/山々に草を芽生えさせられる。9:獣や、烏のたぐいが求めて鳴けば/食べ物をお与えになる。10:主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく/人の足の速さを望まれるのでもない。11:主が望まれるのは主を畏れる人/主の慈しみを待ち望む人。 20:どの国に対しても/このように計らわれたことはない。彼らは主の裁きを知りえない。ハレルヤ。 気になる言葉や、インパクトのあった言葉や節はどこだろうか? 私の場合は、「打ち砕かれた心を癒し、その傷を包んでくださる。」という3節の言葉。 詩編作者の気持ちになって、一節一節読んでいきたい。1節の「ハレルヤ」とは、「主を賛美すること。」そして主を賛美することが、いかに喜ばしく、いかに美しく快いことか、という二つの考察を詠っている。2-6節では、なぜ主を賛美するかの理由が連続的に詠われる。まず、主なる神は、エルサレムを再建し、イスラエルから他の国(エジプトやバビロン)へ追いやられた民を再びイスラエルに呼び戻してくださる(2節)。奴隷となった時代や捕囚されたために、たいへんな苦しみあるいは命を失った民もおり、心がずたずたになってしまった民ではあるが、民を癒し、傷を覆ってくださる(3節)。主は星の数さえもわかっており、ひとつひとつ名前をつけられているように、主の民、一人一人のことを覚えておられる(4節)。主は偉大でその英知なる行いは計り知れない(5節)。主は貧しい者を励まし、主に逆らう者を倒す(6節)。そして7節では、命令形で、主に感謝の奉献をして歌え、竪琴(チェロのような楽器)の調べにあわせて主なる神を賛美せよ。8-9節では、また主を賛美する理由が詠われる。主は傷ついた民がいる時代でも、雨をもたらしてくださり、山々を緑にしてくださる(8節)。動物や鳥が食べ物を求めて鳴けば、主は与えてくださる(9節)。そして10-11節は考察。主は馬の勇ましさや人の足の速さ(武力のことを意味しているように私には感じる)を喜ばれるわけでも、望むわけでもない(10節)。主が望んでいるのは、主を畏れ、主の慈しみを待ち望む人々(11節)。イスラエルの民以外には、主はこのような計らいをされなかったため、異邦人には主の裁きを理解しえないだろう、だから民よ、主を賛美せよ(20節)。 この詩編147編を通して、主なる神が、現代の私たちに呼びかけていることはどのようなことか、思いをめぐらせたい。 イスラム国の人質となった日本人二人に加え、人質となっていたヨルダン人パイロットも、実に悲惨な殺され方で、亡くなった模様。そのような中で、147編の結論である「主を賛美せよ」という気持ちには、なかなかなれないかもしれない。日本の首相、ヨルダン国王、米国大統領、イギリス首相等が、こぞって許しがたい行為として、イスラム国へ武力を持って破壊していくような様相を感じるが、果たしてそこに主なる神の思いが働いているのか、という質問をしたい。これまでテロの犠牲者となった方々の気持ちや、今、悲しみ苦しみの中にある遺族の気持ちを覚える。後藤健二さんの母は、後藤さんが殺害されたとみられる映像が流されたあと、「この悲しみが憎悪の連鎖となってはいけない。」というメッセージを読み上げている。911の犠牲となった方々の遺族たちにとって、アフガニスタンへの攻撃や、もろもろの連鎖的に起こった戦争が、心の癒しになったのだろうか? 詩編147編の3節の言葉から、打ちひしがれた心の人々は、いったいだれによって癒されるのか、考えたい。また10節、11節の意味も、今一度よく吟味したい。今とるべき行動はなんなのか?憎悪の連鎖が起きない様に祈ると主を賛美したい気持ちが湧いてくるように思う。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 日本のメディアでは連日、イスラム国と日本人の人質、日本政府とヨルダン政府の対応の様子が報道されている。そのような中で、聖書日課では2月2日から4日に与えられている詩編35編1-10節を読みたい。ひとりひとり、詩編を読み、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの時期に、わたしたちに何を語ろうとしてくださっているのか思いを巡らせよう。決して、それには正解があるわけではなく、一人一人千差万別な思いが湧いてきて当然なのだと思う。思いを巡らせること自体が、神との対話にもなってきて、大切なことだと思う。 詩編35編 1:【ダビデの詩。】主よ、わたしと争う者と争い/わたしと戦う者と戦ってください。 2:大盾と盾を取り/立ち上がってわたしを助けてください。 3:わたしに追い迫る者の前に/槍を構えて立ちふさがってください。どうか、わたしの魂に言ってください/「お前を救おう」と。 4:わたしの命を奪おうとする者は/恥に落とされ、嘲りを受けますように。わたしに災いを謀る者は/辱めを受けて退きますように。 5:風に飛ぶもみ殻となった彼らが/主の使いに追い払われますように。 6:道を暗闇に閉ざされ、足を滑らせる彼らに/主の使いが追い迫りますように。 7:彼らは無実なわたしを滅ぼそうと網を張り/わたしの魂を滅ぼそうと落とし穴を掘りました。 8:どうか、思わぬ時に破滅が臨み/彼らが自ら張った網に掛かり/破滅に落ちますように。 9:わたしの魂は主によって喜び躍り/御救いを喜び楽しみます。 10:わたしの骨はことごとく叫びます。「主よ、あなたに並ぶものはありません。貧しい人を強い者から/貧しく乏しい人を搾取する者から/助け出してくださいます。」 気になる言葉や、インパクトのあった言葉や節はどこだろうか? 私の場合は、単純明快に「助けてください。」という2節にある言葉。 詩編作者の気持ちになって、一節一節読んでいきたい。 最初に【ダビデの詩。】となっているので、ダビデがピンチに追い込まれたときに、詠った歌なのか、あるいは、後世の詩編作者がダビデのことを想像しながら、作詩したのかと思う。1-3節は、主に向かって「助けてください。」と懇願しているが、私を防御して欲しいという観点から作詩されている。私(ダビデ)に、争い戦うものに、主が争って戦ってください。大きな盾も普通の盾も持って、主なる神が、私を助けてくださるように。私に負い迫る者の前に、槍をもって立ちはだかってください。そして、私の魂に、「お前を救おう」と言ってください。 4-8節に入ってくると、「私を助けてください。」という懇願には終わらず、より具体的に、自分に敵対する者が破滅に陥るように懇願しているように思える。私の命を奪おうとする者は、恥に落とされ、嘲られてしまうように。私に災いを謀る者が辱められ、退くように(4節)。もみ殻同然ともなった彼等に、主の使いが現われて、追い払われるように(5節)。真っ暗となった中で、足を滑らせ、追い込まれるように(6節)。無実な私を滅ぼすため、彼等は網を張ったり、落とし穴を作ったりした(7節)が、どうか彼等が網にかかり落とし穴に落ち、破滅がおとずれるように(8節)。私の魂は、主に在って喜び踊っている(9節)。主なる神に向かって、私は叫ぶ、「あなたにならぶ人はいない。貧しい者は、強き者より助け出され、乏しいものも搾取する者から助けてくださる」(10節)。 この詩編35編を通して、主なる神が、現代の私たちに呼びかけていることはどのようなことか、思いをめぐらせたい。 イスラム国が日本人二人を人質とし、法外な要求がはじまった1月20日から、今日29日早朝まで日本に滞在していた。横浜、東京、熊本、長崎を転々と移動していたが、どこにいっても、毎日ニュースを見る度に、イスラム国と人質の状況が気になった。そして今は成田空港からマレーシアのクアラルンプールに向かう飛行機の中で、この「詩編を読もう」をタイプしている。ひどいことに、一人はもう殺害されてしまったと受け取るしかないような状況だ。湯川遥菜さんの家族のことを思うといたたまれない。残された後藤健二さんを人質として、日本政府、ヨルダン政府との交渉が続いているようだ。後藤さんのことを思い、この詩編35編にあるような祈りをとなえたくなっている自分に気がつく。後藤健二さんは、日本キリスト教団田園調布教会の会員であるとの情報は、知人のフェースブックを介して知っていたが、今日はじめて、朝のNHKのニュースで、後藤さんの属している教会が紹介され、昨晩、教会員の方々が教会に来て祈っていたとのこと。純粋に救い主がおられることを確信している。そして祈りが聞かれますように。この「詩編を読もう」がウェブに掲載されるころには、後藤さんの解放が決まりますように。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は聖書日課で22日から25日まで与えられている詩編62編6-13節を読む。一度、ゆっくり読んでみて、一番気になった言葉やインパクトのある箇所を挙げよう。 その後、詩編作者のことを想像しながら、どういうことを詠っているのかじっくり読み返す。そして、現代の私たちに何を語りかけているのか考えたい。 詩編62編 6:わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。 7:神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。 8:わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。 9:民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。〔セラ 10:人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。 11:暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。 12:ひとつのことを神は語り/ふたつのことをわたしは聞いた/力は神のものであり 13:慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と/ひとりひとりに、その業に従って/あなたは人間に報いをお与えになる、と。 どの言葉がもっとも印象に残るだろうか? 私の場合は8節にある、「神はわたしの岩」という、神の絶対性を詠う言葉。 詩編作者の気持ちになって読んでみたい。 6節から読み始めて、すぐに気がつくことは、詩編作者はピンチに陥っている状況を詠っているようだ。(あるいはダビデのおかれた状況を想像しながら詩編作者は詠っているのかもしれないが。) そのようなピンチ、自分の命が脅かされるような状況にあっても、6-8節において、「自分の魂よ」と自分自身に、落ち着いて、沈黙して、神にのみ希望をおく。神こそ私の岩、救い、とりでとなる塔である。詩編作者自身の救い、栄えは、神次第であり、絶対的に頼ることができる救いの岩は、神である。以上8節まで自分自身に向けて言い聞かせるように詠っている。9節にはいると、その最後に「セラ」という休止符を表す記号が入っているが、12節までは「民」に対して呼びかけ、説教のような言葉にも聞こえてくる。どんな時にも神を信頼し、神の御前に心を集中させて、神こそ私たちをかくまってくださる方。それに比べて人間はむなしく裏切るもの。まるで重みのない存在。人間同士で暴力をふるまったり、搾取しあうことが、力であるようには考えるな。そして、最後の節13節で、はじめて、詩編作者は「わたしの主よ」と、主なる神ご自身に語りかける。慈しみは、あなたのものであり、あなたは、人間の業に応じて報いてくださる。 さて、この詩編62編の上記の箇所が、現代の私たちに何を語っているのだろうか? 1月20日以降、イスラム国が二人の日本人を人質として、日本政府に何百億円もの身代金を要求する事態になっている。放映されているイスラム国の兵士と二人の日本人の映像や、報道事態にも、どこまで真理があるのか、よくわからないが、二人の日本人が拘束されているのが事実として、二人の気持ちを思うと、またその家族のことを思うと心が痛み、そして祈らずにはいられない。特に二人のうちの一人は、日本キリスト教団田園調布教会会員の一人という情報も伝わっており、私の実家からも近いところに家族も住んでいるようだ。そしてついついテレビ報道やインタネットを介して得られる情報が気になる。このような状勢にあって、意味があって、私たちは、この詩編62編を与えられているように思う。いうなれば傍観者にすぎない私たちも、本当にたいへんな思いをされているお二人、またその家族や友人にも、安部総理大臣はじめ政府高官等も、イスラム国の人々も、また舞台裏で交渉にあたる人々、すべての民に、この詩編に詠われている内容が伝わってほしいと願う。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は聖書日課で15日から18日まで与えられている詩編139編1-6節および13-18節を読む。一度、ゆっくり読んでみて、一番気になった言葉やインパクトのある箇所を挙げよう。 その後、詩編作者のことを想像しながら、どういうことを詠っているのかじっくり読み返す。そして、現代の私たちに何を語りかけているのか考えたい。時間に余裕のある方は、1月18日に与えられている福音書、ヨハネ1:43-51も読まれることを薦めたい。 詩編 139編 1: 【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。 2:座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。 3:歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。 4:わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。 5:前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。 6:その驚くべき知識はわたしを超え/あまりにも高くて到達できない。 13:あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。 14:わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか/わたしの魂はよく知っている。 15:秘められたところでわたしは造られ/深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。 16:胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている/まだその一日も造られないうちから。 17:あなたの御計らいは/わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。 18:数えようとしても、砂の粒より多く/その果てを極めたと思っても/わたしはなお、あなたの中にいる。 どの言葉がもっとも印象に残るだろうか? 私の場合は4節後半の、「あなたはすべてを知っておられる。」 できる限り詩編作者の気持ちになって読んでみたい。 主よ、あなたは私のことを知り尽くしておられる(1節)。座っていても立っていても知っているし、頭で何を計画しているかもお見通し(2節)。歩こうが伏せていようが見分け、どんな道を歩もうか、知っておられる(3節)。私が何もしゃべらないうちに、私が何を話しだすかもわかっている(4節)。私を囲っていて、あなたの御手を私の上に置く(5節)。その知識は私の限界を超え、私はとてもおよばない(6節)。 あなたは私の内臓をつくり、母の胎内に私を組み立てた(13節)。私はあなたに感謝する。私はあなたのおそろしい力によって、驚くべきものに創られ、そのあなたの御業がどんなにか驚くべきものかを私はよく知っている(14節)。人類には知りえないようなところで、私は造られた、その場所は地下のごく深いところのようだったが、そこで、私の創造が展開した。私は一本の骨も隠すことができない(15節)。胎児だった私をあなたが見ており、私の一日一日はすべてあなたの書につづられている。私が造られる前からさえも書かれている(16節)。あなたの計らいはどうなにか貴く、神よ、いかにその数の多いことか(17節)。その数は砂粒よりも多く、果てまで、切り刻んでいたとしても、その私をあなたが包んでいる(18節)。 さて、この詩編139編の上記の箇所が、現代の私たちに何を語っているのだろうか? 来る日曜には、ヨハネ1章43節以降で、ナタナエルがイエスの弟子になる場面。 彼はそもそもイエスのことを疑ったような存在。それにもかかわらず、イエスの方に向かうと、イエスがすべてナタナエルが行動したり、あたまの中で考えたことをすべてご存知であるがゆえ、ナタナエルはびっくりして、イエスこそ神の子であると告白する。 実は、このナタナエルがイエスを疑ってしまったことは、わたしたちの人生の信仰生活の歩みの中で、日々体験していることと共通なのだと思う。人間は主なる神が、自分をいかに創造してくださったかが、わかるとき、はっと目を覚ますようなことが起こる。 自分自身の創造のすべてを自分がわかるような気分になっても、神が自分の創造をすべてご存知である、つまり「知ることは知られていることがわかること」とでも表現したらよいのかと思う。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 聖書日課では8日から11日に与えられている詩編は29編となっているが、昨年の今頃にも取り上げた詩編なので、今週は5日と7日に聖書日課で与えられていた詩編110編を読みたい。 短い詩編なので、何回か繰り返して読んでから、気になる言葉、印象の強い言葉を挙げる。 その後、詩編作者のことを創造しながら、どういうことを詠っているのか各節を読む。そして、現代の私たちに何を語りかけているのか考えたい。とくに1月6日は顕現日といって、主イエスがユダヤの民からではなく、異邦人だった東方の国の占星術者たちが、降誕後まもない主イエスを拝んだことを記念する日だった。 そのことからはじまって、2000年の歴史を経て、全世界の異邦人(ユダヤ人以外の民:約70億人)の三分の一以上(約20億)がキリスト教の信仰者となっている。 そのような現代に生きる私たちに、この詩編110編を通して、神が語りかけていることはどういうことなのか思いを巡らせたい。 詩編 110編 1: 【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」 2:主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。敵のただ中で支配せよ。 3:あなたの民は進んであなたを迎える/聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ/曙の胎から若さの露があなたに降るとき。 4:主は誓い、思い返されることはない。「わたしの言葉に従って/あなたはとこしえの祭司/メルキゼデク(わたしの正しい王)。」 5:主はあなたの右に立ち/怒りの日に諸王を撃たれる。 6:主は諸国を裁き、頭となる者を撃ち/広大な地をしかばねで覆われる。 7:彼はその道にあって、大河から水を飲み/頭を高く上げる。 印象に残る言葉としては「わたしの右の座」という言葉。礼拝で毎週、使徒信条のなかでは「全能の父なる神の右に座したまえり。」と唱えているし、マタイ26:64をはじめ、ルカ、マルコ、エフェソ、コロサイ、ヘブライなどでも、「右の座」は引用されている。 さて詩編作者の立場を思って詩編110編を読んでいきたいが、作者は1節に「わが主に賜った主の御言葉」と書いており、「わが主」というのは、ダビデのことで、「主の御言葉」の「主」は全能の神のことだと思われる。 なので、ダビデに仕えていたものが、ダビデが天啓を受けて聞いた言葉を聞き、その言葉が語り継がれて詩編の一つになったのかと思われる。そして、110編は前半(1-3節)と後半(4-7節)に分かれており、前半は、神がダビデに語った、いわば任命の言葉。後半は、ダビデに語った、神の誓いといえるのではないだろうか。 神はダビデに、自分の右の座、つまり神の右腕のような存在、アシスタント、となるように、そしてダビデに敵対する者さえも足台にする(1節)。 神はダビデの権力をシオン(エルサレム)から拡張し強めて、ダビデに敵対する国々をも支配するようにする(2節)。 歴史を振り返るなら、ダビデがイスラエルの南北(南のユダと北のイスラエル)を統合し治めたように、政治的手腕を神が与え、政治的権力が強められた。3節に入ってくると、当時の詩編作者がどういうことをイメージして詠ったのか、明確な意味はよくわからない。 そして、後半の神の誓いになってきて、神はダビデ(とその子孫)を神の言葉に従って永遠の祭司(メルキゼテク)とする(4節)。 主はダビデの右に立ち、諸国の王たちを撃つ・倒す(5節)。 神は諸国を裁き、出るものを撃ち、広大な土地が屍で覆われるようなことすら起こる(6節)。 7節になってくると、3節同様、明確な意味はとらえがたくなってくる。 さて、紀元前数百年前に詠われ始めた詩編110編を通して、紀元後2000年経った、現代に生きる私たちに、神が何を語りかけているかを考えるとき、その意味はぐっと広がるようで、また救い主イエスにフォーカスされてくるようだ。 上記では、1節の「わが主」はダビデに仕えるものが、ダビデのことをわが主であると考え、ダビデの政治的にも宗教的にも優れた指導力のことを想像したが、「わが主」とは、主イエスキリストのことが詠われていると思える。そして、顕現日にその発端をおく主イエスの全世界統治は、2000年たった今も途上であるが、確実に進んでいることを覚える。3節後半や7節が表現していることも、今後の歴史的な進展・変革の中で、明らかになってくるような時代が来るのではないかと思う。 そのような歴史の途上に、主イエスがすべての民を、困難、貧困、悩み苦しみのなかにある状態から希望、解放、喜びへと導き続けており、その宣教の業に、私たち一人一人が置かれていることを覚える。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 復活ルーテル教会の日本語ミニストリーを支えてくださっている主、そして皆様に感謝しつつ、謹んで2015年、新年のお喜びを申し上げます。 詩編を読もうをWebに掲載する木曜日に、今年はクリスマスの12月25日そして元旦の1月1日が与えられたことにより、詩編を読む興味がさらに倍増しているように感じている。12月25日がイエスの降誕日とすれば、1月1日は8日目にあたり、イエスに割礼が施された日となる。今日詩編を読むなかで、イエスという御名が登場していなくても、主なる神、イエスの存在、大いなる光、の存在に気がつきますように! さて、元旦当日に聖書日課によって与えられている詩編は8編。昨年も一昨年も、三位一体主日(聖霊降臨日の翌週の日曜日)の頃に与えられているため、すでに「詩編を読もう」で二回とりあげた。しかし、年の初めに、詩編8編を、新たな気持ちで読んでみよう。 そして、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの新しい年のはじめにあって、現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編8編 1: 【指揮者によって。ギティトに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】 2:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます 3:幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。 4:あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。 5:そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。 6:神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ 7:御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。 8:羊も牛も、野の獣も 9:空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。 10:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。 気になる言葉やインパクトのある言葉はなんだろう? 私の場合は2節後半にある、「天に輝くあなたの威光」という言葉。ヘブライ語でもどういう言葉が使われているか調べたが、もともとの意味は、「主は、ご自分の栄光を天を越えたところに据えられている。」という意味。 詩編作者の立場を思って詩編8編を読んでいきたいが、1節は合唱・演奏するにあたっての説明。2節の前半の言葉、「主よ、わたしの主よ、あなたの御名が力強く全地に満ちている。」と詠っており、この同じ言葉が、最後の10節にも詠われて、詩編8編が終わる。 その言葉にサンドイッチされる中で、最初に書かれている言葉が、上記に書いた「主は、ご自分の栄光を天を越えたとことに据えられている。」 それ以降は、幼子、乳飲み子たちの口(声)によって。神に刃向かう者から砦を築いて守り、報復する者を絶ち滅ぼす(3節)。 天を仰ぐなら、月も星もすべてあなたが配置されたもの(4節)。とてつもない広い全地と天(宇宙)のなかで、主が人間に御心を留めてくださっているとは、いったい人間とは、人の子とは、何者なのでしょうか(5節)。あなたは人間を、神より少し劣るものとして創られ、栄光と威光をかぶらせ、この地に主が創られた、動物たちも鳥たちも、すべてのものを、支配するようにしました(6-9節)。 主よ、わたしの主よ、あなたの御名が力強く全地に満ちている(10節)。 2014年はもう過去となり、2015年がはじまる中で、この詩編8編の言葉を通して、主なる神は私たちに何を語られているのだろうか? 詩編8編の2節後半を、ヘブライ語と英語で、意味を調べ、「主は、ご自分の栄光を、天を越えたところに据えられている。(You have set your glory above the heavens.)」という言葉に、「はっと」させられている。 私たちの見ることができるこの地球上とか、仰ぐことができる天、宇宙を越えたところ、私たちが把握できる空間とか時間を越えた概念の中に、主なる神が存在してくださっている。私たちの認知できる概念をはるかに超えた、大きな御力が、わたしたちの中に働いてくださっている、ことを新たに感じる。さらに、詩編8編の5節の中に、「人の子」という言葉が使われている中で、マリアから生まれた、救い主イエスのことが見え隠れしている。 日本人は長い歴史の中で、初詣という習慣を守ってきており、そこに「神の子であり人の子であるイエス」の存在が浸透するには、さらなる歴史的な時間が必要なのかもしれない。それでも、初詣をして、私たちの認知できる概念をはるかに超えた、大きな御力の存在によって、2015年の平和と幸福を願うという気持ちは、クリスチャンかどうかに関わらず、分ち合うことができ、大切にしなければならないと思う。新年、感謝しつつ、おめでとう。 アーメン。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 12月25日はクリスマス当日、イエスの誕生日とされている。聖書には、イエスが生まれたのが12月25日だったとはどこにも書いていない。 しかし、文化的な背景もあるのだろう。キリスト教会は北半球で冬至がすぎて間もない12月25日をイエスの降誕日とし、さらに12日間を降誕節として祝ってきた。 それが、日本のように1月1日を元旦として大きなお祝いをする文化にも合致しているし、いろいろ都合がよく、そこにも聖霊の働きがあっておこっていることなのかと思う。 さて、クリスマス当日に与えられている詩編は98編。去年も一度とりあげているが、今日また読み、また余韻をぜひ降誕節終了まで味わっていただきたい。ぜひ各自で、詩編98編を読み、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの降誕節にあってひとりひとりに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編98編 1:【賛歌。】新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた。 2:主は救いを示し/恵みの御業を諸国の民の目に現し 3:イスラエルの家に対する/慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人は/わたしたちの神の救いの御業を見た。 4:全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。 5:琴に合わせてほめ歌え/琴に合わせ、楽の音に合わせて。 6:ラッパを吹き、角笛を響かせて/王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。 7:とどろけ、海とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものよ。 8:潮よ、手を打ち鳴らし/山々よ、共に喜び歌え 9:主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き/諸国の民を公平に裁かれる。 本日は牧師からの観想の記述はお休みします。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet クリスマスを一週間後に控えて、今週は詩編89編の1-5節と20-27節を読む。89編は53節もあり、とても長いが、上記の箇所を集中して読む。いつものようにインパクトを感じる言葉や気になる節はなにか? 次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編89編を通して、待降節を過ごす私たちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編 89編8-19節 1:【マスキール。エズラ人エタンの詩。】 2:主の慈しみをとこしえにわたしは歌います。わたしの口は代々に/あなたのまことを告げ知らせます。 3:わたしは申します。「天にはとこしえに慈しみが備えられ/あなたのまことがそこに立てられますように。」 4:「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び/わたしの僕ダビデに誓った 5:あなたの子孫をとこしえに立て/あなたの王座を代々に備える、と。」〔セラ 20:あなたの慈しみに生きる人々に/かつて、あなたは幻によってお告げになりました。「わたしは一人の勇士に助けを約束する。わたしは彼を民の中から選んで高く上げた。 21:わたしはわたしの僕ダビデを見いだし/彼に聖なる油を注いだ。 22:わたしの手は彼を固く支え/わたしの腕は彼に勇気を与えるであろう。 23:敵は彼を欺きえず/不正な者が彼を低くすることはない。 24:わたしは彼の前で彼を苦しめる者を滅ぼし/彼を憎む者を倒す。 25:わたしの真実と慈しみは彼と共にあり/わたしの名によって彼の角は高く上がる。 26:わたしは彼の手を海にまで届かせ/彼の右の手を大河にまで届かせる。 27:彼はわたしに呼びかけるであろう/あなたはわたしの父/わたしの神、救いの岩、と。 インパクトがある、あるいは気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は27節の「彼はわたしに呼びかけるであろう。あなたはわたしの父。」 詩編作者の立場を思って詩編89編を読んでいきたい。89編の1節から5節は今年の6月26 日にも読んでいて、繰り返しになるが、マスキールとは詩編の中でしばしば使われている言葉で、ヘブル語の元々の意味は「悟る。」転じて、「教訓的な詩編」という意味をもつ詩なのだと思う。2節から5節は主への賛美。永遠の主の慈しみ(憐れみ)を覚え、私も代々にわたって子孫たちも、主をほめ讃えます、あなたの真理を告げます(2節)。 私は詠う、「天には永遠なる慈しみが用意されており、あなたの真理が天に立っている」(3節) 。4-5節では、主がダビデに約束した、「子孫を永遠に立て、王を代々備える」ということを詩編作者は人々に思いだすようにと喚起しているのかと思う。5節は「セラ」という休符の記号で閉じる。 20節から27 節は、具体的に主がダビデに対して語り実行されたことを、主が「わたし」という第一人称となって詠っているようである。以下、27節までのいくつかのポイントのみ記す。主がダビデに油を注いだ- – – 油を注ぐには、メサイア、救い主の意味がある(20-21節)。主は彼をサポートすること、そして勝利を約束する(22-24節)。神の真理と慈しみは彼とともにあり、彼は崇拝され、彼の力は全世界の大海、大河にまで及ぶ(25-26節)。そしてその彼が、私のことを「わたしの父、神、救いの岩」と呼ぶであろう(27節)。 この89編を通して、主なる神は現代の私たちに何を語られているのだろうか? 今日読んだ、20-27節は単に、主とダビデの過去の出来事を詠っているように思えるが、よく読み返すと、そこには救い主イエスのことが詠われているような気がしてならない。5節にあった言葉には、「ダビデの子孫をとこしえに立てる」ということが詠われていたが、ダビデの子孫とはだれなのか? また今日の詩編箇所の最後で、「あなたは私の父」と言うのはダビデのことなのだろうか? 後にこの世にダビデの子孫として顕われたイエスが、繰り返し神に向かって「私の父」と呼ばれていたことを思い出す。 詩編は150編あるが、紀元前数百年間に、150編の詩だけが詠われていたわけではなく、旧約聖書の詩編には掲載されなかった詩もたくさんあるのではないだろうか?その中で選ばれた150曲は、紀元前の大ヒットチャート150ともいえるのではないだろうか? その中で、人々はヒット曲の深い深い意味に気がつかずに繰り返しユダヤの礼拝で詠われていたような面があるように思う。そして、現在においても、私たちが気が付かずに歌っている、ポピュラーソング、クラッシックソング、歌謡曲、演歌、あるいは民謡でも、そこに神の御心が潜んでいて、神の思いを表している曲があるという教訓を与えられているように思う。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は詩編126編を読む。すばらしい詩編の一つだと思う。先週復活ルーテル教会の50周年を祝ったなかで、また、待降節の時期にあって、この短い6節だけの詩編を何度か読んでみると良いと思う。 そして、気になる、あるいはインパクトのある言葉や節を挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。 詩編126編 1: 【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。 2:そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。 3:主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。 4:主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。 5:涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。 6:種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。 気になる言葉や、なにかインパクトのある言葉はどこだろうか? 私にとっては、「夢を見ている人のようになった」という言葉。 さて詩編作者の気持ちになって一節づつ読んでいきたいが、この詩編の書かれた時代を想像してみる。日本語だけを読んでいると、紀元前6世紀のバビロン捕囚時代に詠まれた歌のように思えるが、英語に訳されたもの(1節から3節は過去形、4-6節は現在形の願い)から想像して、バビロン捕囚から見事に解放された時のことを過去のすばらしい体験として詠っているようだ。そして、紀元前6世紀以降に起こった、何かの困難に直面した時に、将来への希望を抱いて詠われているように思う。では、一節づつ振り返ってみたい。主がバビロンに捕らわれていた民をまたイスラエルに連れ戻してくださると聞き、夢を見ているようだった(1節)。その時に、民には笑い、喜びが満ち、他の国々も「主なる神が偉業をなされた」と言った(2節)。主は、わたしたちのために大きな業を成し遂げてくださったと私たちは喜び祝った(3節)。主よ、ネゲブ砂漠に川の流れを導くかのように、新たに捕われた私たちを解放してください(4節)。涙しながら種を蒔く人は喜んで刈り入れる時が来ますように(5節)。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人が、束ねた穂を背負い喜んでうたいながら帰ってくることができますように(6節)。 21世紀に生きている私たち、この詩編が訴えてくるものは何だろう? イスラエルの民は、バビロン捕囚から解放が起こった時、現実が夢のごとくに感じられた。同じように、私たちの人生においても、似たような体験があるのではないだろうか? 私は第二次世界大戦13年後に生まれたので、戦争中の厳しい体験を実体験していない。それでも、子供の頃に、1940年代の戦争という真っ暗闇とも言える状況から思えば、1960年代に起こっていたことが、「夢のようだ」と言われていたことを思い出す。 その現実はいったいどのように実現したかを考えると、ララ物資のような日系アメリカ人やクウェーカ教徒たちが中心になって働かれた日本難民救済の働きとか、逆説のようだが朝鮮戦争を支援するために日本に急速に産業が発展する必要が生じたとか、さまざまな要素があるのかと思う。それらは人間の計画というより、背後に働いている主なる神の存在を抜きにはとても考えがたいことなのだと私は思う。 そして、人類がしばしば経験する、困難は、個人的なレベルでも社会的なレベルでも、繰り返される現実がある。 どのような困難かはわからなくても、そのような困難、暗闇に直面した時に、すべてをご存知の御方が民を愛してくださっていることを確信し、夢が現実になることを思い出し、夢を見つつ希望を持って歩めますように。 待降節にあって、希望と喜びを抱きつつ。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace