Tweet 今週は詩編85編の2-3節と9-14節を読む。今年8月7日にも「詩編を読もう」で読んだ箇所。その時は広島と長崎の両原爆記念日にはさまれた日に読んだわけで、神が与えてくださる平和について考えさせらた。そして、同じ箇所を待降節に読むとき、新たな視点が与えられるように思う。 いつものように、詩編を読んだ後、気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。 詩編85編 2:主よ、あなたは御自分の地をお望みになり/ヤコブの捕われ人を連れ帰ってくださいました。 3:御自分の民の罪を赦し/彼らの咎をすべて覆ってくださいました。〔セラ 9:わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に/彼らが愚かなふるまいに戻らないように。 10:主を畏れる人に救いは近く/栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。 11:慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし 12:まことは地から萌えいで/正義は天から注がれます。 13:主は必ず良いものをお与えになり/わたしたちの地は実りをもたらします。 14:正義は御前を行き/主の進まれる道を備えます。 気になった節や言葉はどこだろう? 私は、14節にある、「正義は御前を行き、主の進まれる道を整えます。」来る聖日に与えられている福音書箇所はマルコ1:1-8で、主イエスの宣教開始前に、洗礼者ヨハネが悔い改めのバップテスマを述べ伝えたことと重なってくるような面がある。 詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。主なるあなたがご自分の地(イスラエル)を希望され、ヤコブの子供たちの世代からエジプトに捕らわれ奴隷だったユダヤの民を、イスラエルに連れ帰ってくださったのを思い出します(2節)。自分の民の罪を赦し、あやまちをすべて覆ってくださった事がありました(3節)。という二節が詩編85編の最初に詠われる。そこには、過去の過ちが赦された時があって良き時代になったが、しかし、この詩編が書かれた時代は、また民が神から離れてしまい、困難に直面している時代だったのかと想像する。そして、今日の箇所ではないが4節から8節までは、神に救いを求める駆け引きとも思われるような言葉も出てきて、神への懇願が詠われている。そして9節以降は、現代の音楽でいえば、短調から長調に移調するような感じで、様相ががらりと変わって、賛歌になってくる。 御自分の民が愚かなふるまいに戻ることがないように、主なる神が平和を宣言なさるのを聞く(9節)。 主を畏れている人々(過去を悔い改めている人々)には救いは近く、主の栄光がいっしょにとどまってくださる(10節)。神の慈しみと真理は満ち溢れ、正義と平和は一体となる(11節)。雨が降って見事な植物が地面から芽を出して伸びてくるように、正義が降り注がれて、地上に住む私たちの間に真理が萌出でる(12節)。 主は天からかならず良いものを降らせてくださり、地に実りをもたらす(13節)。正義は主の前を行き、主が歩まれる道を整える(14節)。 詩編85編を通して、主が現代の私たちに語りかけていることに思いをめぐらせたい。現代をどういう時代か振り返ると、残念ながら不正ははびこっている。飢餓阻止のための協力により、飢餓状態からの向上は起こっているのかと思うが、まだまだ貧富の差がはげしくなっているような様相も感じる。自然環境ということを見ると、1983年からの10年間に起こった世界の自然災害合計は一年平均で147回だったが、過去10年間では、306回に跳ね上がっているというデータを見た。ほとんど毎日のように世界のどこかで自然災害が起こっていることになる。自然災害と呼んでいても、そのかなり災害は人類の愚かな、神を畏れぬ行為が自然災害の原因になっているような面があるのだと思う。このような時代にあって、今、新たに、待降節という季節が与えられている。主の到来を待ち望む時。この季節のはじまりは、南カリフォルニアでは、珍しく雨が続いている。 旱魃でたいへんな思いをしていていた南カリフォルニアには、たいへんな恵みと感じる。また、詩編85編の言葉を読みつつ、雨が降っている音を聴くと、私たちを悔い改めへと導き、過去の罪を洗い流してくださるような面を感じる。世界各地では、大雪や寒波に見舞われている地域もたくさんある。しかし、その厳しさの中にも、主なる神が良いものを与えてくださっており、そこに人々の信仰が芽生え、新しく希望と喜びが抱くことができるように。主の到来に備えることができるように。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週はThanksgiving Holiday、感謝祭にちなんで65編を読もう。ぜひ各自、詩編を読み、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの感謝祭のときに、また待降節を迎えるときに、おひとりおひとりに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編65編 1:【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。歌。】 2:沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます。シオンにいます神よ。あなたに満願の献げ物をささげます。 3:祈りを聞いてくださる神よ/すべて肉なるものはあなたのもとに来ます。 4:罪の数々がわたしを圧倒します。背いたわたしたちを/あなたは贖ってくださいます。 5:いかに幸いなことでしょう/あなたに選ばれ、近づけられ/あなたの庭に宿る人は。恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によって/わたしたちが満ち足りますように。 6:わたしたちの救いの神よ/あなたの恐るべき御業が/わたしたちへのふさわしい答えでありますように。遠い海、地の果てに至るまで/すべてのものがあなたに依り頼みます。 7:御力をもって山々を固く据え/雄々しさを身に帯びておられる方。 8:大海のどよめき、波のどよめき/諸国の民の騒ぎを鎮める方。 9:お与えになる多くのしるしを見て/地の果てに住む民は畏れ敬い/朝と夕べの出で立つところには/喜びの歌が響きます。 10:あなたは地に臨んで水を与え/豊かさを加えられます。神の水路は水をたたえ、地は穀物を備えます。あなたがそのように地を備え 11:畝を潤し、土をならし/豊かな雨を注いで柔らかにし/芽生えたものを祝福してくださるからです。 12:あなたは豊作の年を冠として地に授けられます。あなたの過ぎ行かれる跡には油が滴っています。 13:荒れ野の原にも滴り/どの丘も喜びを帯とし 14:牧場は羊の群れに装われ/谷は麦に覆われています。ものみな歌い、喜びの叫びをあげています。 本日は牧師からの観想の記述はお休みします。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は詩編95編の1-7節だけを読む。今年の四旬節の間には、詩編95編12節全部を読んだが、今週はあえて、1-7節だけが与えられている。聖書日課では11月23日に与えられている福音書は、マタイ25:31-46で終末の話。終末の話が控えていることを覚え、詩編95編を読んでみるのも良いと思う。いつものように、詩編を読んだ後、気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。 詩編 95編 1:主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。 2:御前に進み、感謝をささげ/楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。 3:主は大いなる神/すべての神を超えて大いなる王。 4:深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。 5:海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。 6:わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。 7:主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。 気になった節や言葉はどこだろう? 私は、7節にある、「主の声に聞き従わなければならない。」という言葉でこの箇所が終わっていること。 詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。詩編95編は、ユダヤ教の礼拝をテーマにして詠った詩編のように思われる。とくに1節から7節は礼拝のはじめのすばらしい讃美歌なのだと思う。事実、讃美歌21の20番や226番の歌詞の一部は、この詩編95編の言葉が詠われている。そして、ユダヤ教の礼拝に出ていることを思い浮かべながら、一節づつ、読んでいきたい。この礼拝に招いてくださった主に向かって喜び歌おう、救いの岩である主に向かって喜び叫ぼう(1節)。シナゴーグ(礼拝堂)に入って主の前に近づいていき、感謝して、音楽に合わせて喜び叫ぼう(2節)。主は偉大な神、人々はさまざまな神々を想像しているが、主なる神は、すべての神々を越える大いなる御方(3節)。湖の底といえども、神の御手の内に存在しているのであり、高い山々の頂きも主のもの(4節)。大海も主のもので、海を造られたのも主であり、陸も主の御手により形造られた(5節)。 私たち人間をも造られた方なのだから、この礼拝堂で主の前にひざまずこう、私たちは共にひれ伏して、伏し拝もう(6節)。主はわたしたちの神で、私たちは主の民、主は羊飼いで私たちは主の御手のなかで養われる羊たち、今、ここで聞く、主の御声に聞き従わなければならない(7節)。 さて、ここまで読んだところで、主なる神が現代の私たちに語りかけていることに思いをめぐらせたい。 8節以降に何が書いてあったか気になるが、簡単に言うと、8節以降は辛口の説教が書かれているといえる。そして、ここ数週間、日曜の聖書日課で与えられている福音書は、終末の箇所であり、辛口のイエスの御言葉である。といっても、終末の話を聞く中で、わたしたちは、悔い改めへの導かれるような面が多分にある。詩編95編の1-7節を讃美歌を歌うように読んでいくなかで、イエスの厳しい御言葉を聴く心の準備が整えられるような面を感じる。とくに、7節の言葉の中には、たとえどのような主の御声を聴くことになっても、また御言葉にびっくりしてしまうような内容であろうが、よく聞き入って、その御言葉が導いている方向へと歩めますように。 23日の日曜礼拝での福音書は来週後半の感謝祭にちなんだ福音書箇所でルカ17章になるので、あえて、聖書日課にある23日のマタイ福音書25章後半から一部を抜粋して以下に書き写しておくので、ぜひ読んでいただきたい。 31:「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 32:そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、 33:羊を右に、山羊を左に置く。 34:そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。—-途中略— 41:それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ42:お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 43:旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』 44:すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』 45:そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 46:こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は詩編90編を読む。教会の暦では今年は11月23日が聖霊降臨後最終主日となる。聖書日課では11月9日、16日、23日に与えられている福音書箇所がマタイ25章で終末がテーマと言える。イエスの語られていた終末を覚えつつ詩編90編を読むのも良いと思う。いつものように、詩編を読んだ後、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。 詩編90編 1: 【祈り。神の人モーセの詩。】主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。 2:山々が生まれる前から/大地が、人の世が、生み出される前から/世々とこしえに、あなたは神。 3:あなたは人を塵に返し/「人の子よ、帰れ」と仰せになります。 4:千年といえども御目には/昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。 5:あなたは眠りの中に人を漂わせ/朝が来れば、人は草のように移ろいます。 6:朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい/夕べにはしおれ、枯れて行きます。 7:あなたの怒りにわたしたちは絶え入り/あなたの憤りに恐れます。 8:あなたはわたしたちの罪を御前に/隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。 9:わたしたちの生涯は御怒りに消え去り/人生はため息のように消えうせます。 10:人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。 11:御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて/あなたの憤りをも知ることでしょう。 12:生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。 気になった節や言葉はどこだろう? 私は、12節にある、「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができるように」と古代に生きた人々が祈ってくれていたこと。 詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。最初に【祈り。神の人モーセの詩。】となっているが、モーセがこの詩を作ったというより、後世の詩編作者の一人が、モーセ五書の最後の書、申命記最後32章にあるモーセの歌や、33章のモーセが生涯を終える時にあたって人々に語った祝福の言葉を振り返る中で作った歌なのかと思う。 12節ある詩編箇所を、大きく4箇所に分けてそのポイントだけに触れていきたい。 主よ、あなたは山々、大地、人類を創られる前から永遠に存在しておられる神。私たち人類は世代を超えて神の中で存在している(1-2節)。あなたの永遠という単位から考えれば、私たちが生きる時代がたとえ1000年だとしても、それは朝に花が裂き、夕方にその花が枯れてしまうような、とても短い時間にしか過ぎない(3-6節)。神の「怒り」の中で、私たちの罪はあらわにされ、私たちの人生は、70年、80年といえども、あっと言う間で、労苦と災いに過ぎず、あなたの憤りに気づかされる(7-11節)。生涯に日々を正しく認識して知恵を心得て生きることができるように祈る(12節)。 この詩編を通して、主なる神は現代の私たちに何を教えてくださっているのだろうか? この詩編なんども読み返すと、神が私たちに語ろうとしていることは、非常に根が深く、また空中に大きく広がる大樹のようなイメージが沸いてくる。その大樹のなかに埋もれそうな多くのことのなかから三つほど抽出してみたい。ひとつは、私たち個人の人生は平均は80年程度だが、詩編作者の詠っているように、罪に満ちていて、労苦と災いを感じるだけの人生になってしまうのかもしれない(信仰心無しに生きると)。 二つ目として、個人のはかなさだけではなく、人類全体のはかなさも詠っていると思う。そして三つ目、数十年という単位にしろ、数千年あるいは数万年という単位にしろ、永遠という単位に生きる神の存在からは、人類の生存期間は本当にわずかと思う。にもかかわらず、個人個人をしっかり知っておられる神の存在に畏れをいだいて生きるように。 12節の「生涯の日を正しく数える」という言葉から、50代半ばを過ぎた知人と食事をした時、「残りの人生を25年とすると、夕食を食べられる回数はもう9000回程度だから、一回一回の夕食を大切にしたい。」と言っていたことを思い出した。個人個人が神から与えられた時を大切にすることはすばらしい。同時に、それを与えてくださっている神を畏れ神に感謝し、社会に生かされている一員として、神と隣人を愛し続ける生活を送れるように願い祈る。それが、喜びと希望にあふれるイエスの再臨、終末に備えることで、神を畏れる知恵(箴言1:7)を持って生きることのように感じる。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は詩編70編を読む。9日の聖日に与えられている福音書箇所は、マタイの25章1-13節で、十人のおとめが花婿が来るのを待つが花婿が思い通りの時には現れないたとえ話である。その福音書との関係を考えて読んでみるのも良いと思う。 今日の詩編は短いので、何度か読んでみて、そして、詩編を読んだ後、気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。 詩編70編 1:【指揮者によって。ダビデの詩。記念。】 2:神よ、速やかにわたしを救い出し/主よ、わたしを助けてください。 3:わたしの命をねらう者が/恥を受け、嘲られ/わたしを災いに遭わせようと望む者が/侮られて退き 4:はやし立てる者が/恥を受けて逃げ去りますように。 5:あなたを尋ね求める人が/あなたによって喜び祝い、楽しみ/御救いを愛する人が/神をあがめよといつも歌いますように。 6:神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。 気になった節や言葉はどこだろう? 私は、最初と最後の、「速やかに」「遅れないで」という言葉を用いて、神に向かって語りかけていること。 詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。それにしても、70編を一度読むと、「あれ、前にも読まなかったっけ?」と思われるかもしれない。私の記録では、「詩編を読もう」を毎週書き始めてから70編を読むのははじめてだ。しかし、確かに以前にも、この箇所は「詩編を読もう」の中で取り上げたと思う方がいたとしたら、それは記憶違いではない。70編2節から6節は、実は40編の14節から18節をほとんどコピーしたもの。詩編作者は、一度完結した詩編40編の中から14節から18節の部分だけを写して、あらたな詩編としたのではないかと思う。あくまで私の想像だが、神殿の役割として、日本でいう「かけこみ寺」と似たような役割もあったのではないかと思う。つまり、人間関係でにっちもさっちも行かなくなってしまい、命さえも狙われてしまうような状況に陥り、神殿に駆け込む人がいる。神殿に来て、神に祈るにしても、どう祈ってよいかもわからない。そのような場合、40編の13節までは読まなくても、神に祈る結論として、14節から18節だけを書き写して、これだけを、緊急のお祈り用に、どこか見えるところに貼られていたのではないだろうか? 1節の最後に、「記念」と書いてあるが、そのような状況を匂わせる。 さて、2節以降、今一度、振り返りたい。 神よ、私の主よ、すみやかに私を救い出し、助けてください(2節)。 私の命を狙う者、災いにあわせようする者、失敗を笑う者が、逆に恥を受け、あなどられ、笑われ者となり、私から逃げさるようにしてください(3-4節)。あなたを尋ね求め、あなたの救いを愛する人が、あなたにあって喜び祝い、楽しくあなたを賛美できますように(5節)。神よ、わたしは貧しく、小さくなっています。あなたはわたしの助け、逃れ場です。主よ、速やかにわたしのところにきてください。遅れないでください(6節)。 この詩編を通して、主なる神は現代の私たちに何を教えてくださっているのだろうか? とても短い詩編だが、逆に、いろいろな神の教えが頭の中に浮かんできてしまう。三つに絞って、書いておきたい。一つ目は、緊急の場合、短くてもよいから、とにかく祈り求めることの大切さ。現代の世の中には、よくストーカとその被害者のことが報道されることがある。そこに、このような祈りが用意されていることを覚えたい。短くてもよい、神との関係を求める重要性がある。二つ目は、たとえ命をねらうような相手であっても、狙われた相手は、逆にその相手が殺されるようにと祈ってはならない。相手が神によって恥を知るように、そして、そこには、相手も神の愛を知るようにと祈るのが良いように思う。イエスは「敵を愛するように」と言われていたことを思い出す。三つ目は、いくら「速やかに、遅れないで。」と神に祈っても、自分の時計で、神様に期限を設けてはならないのだと思う。それは、9日に読む福音書の中で、十人のおとめに、なかなか花婿が現れない状況のたとえ話から、このようなことを書いている。 現代にあって、たとえあなたのことを殺そうとしている具体的な人がいるわけでもないが、テクノロジーが日々激しく進歩しており、生活環境も変わり続けるゆえに、日々の生活をとてつもなく多忙にしてしまい、忙殺されそうな感覚を覚えている方々も多いのではないかと思う。そのような生活から一瞬でもよいから離れ、この詩編70編の短い祈りを口ずさみ、神との関係を求める時が与えられますように。そして、1週間に一度、日曜日には一時間の礼拝の時間を、神と出会って有意義に過ごされますように祈る。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet すでに26日の日曜日に宗教改革記念礼拝を守ったが、宗教改革の最大のきっかけは1517年10月31日に当時カトリック教会の司祭だったマルチンルターがドイツのウィッテンベルブにある教会の扉に当時のカトリック教会の慣習に、聖書に従っていない部分を指摘し、張り紙をしたことだといえる。そのマルチンルターにとって大きな影響を与えた一つの詩編に43編もあるように思う。いつものように詩編を読んだ後、気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。 詩編43編 1: 神よ、あなたの裁きを望みます。わたしに代わって争ってください。あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者/よこしまな者から救ってください。 2: あなたはわたしの神、わたしの砦。なぜ、わたしを見放されたのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ/嘆きつつ行き来するのか。 3: あなたの光とまことを遣わしてください。彼らはわたしを導き/聖なる山、あなたのいますところに/わたしを伴ってくれるでしょう。 4: 神の祭壇にわたしは近づき/わたしの神を喜び祝い/琴を奏でて感謝の歌をうたいます。神よ、わたしの神よ。 5: なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。 気になった節や言葉はどこだろう? 私は1節にある、「慈しみを知らぬ民。」 詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。それぞれの詩編が書かれた時期を特定することはむずかしい。しかし、簡単に歴史を振り返り、この詩編43編がどのような時代に書かれたか想像したい。 紀元前10世紀ごろにダビデが宗教上も政治上も、イスラエル12部族の民、地域をみごとに治めることができた時代があった。 しかし、王位が継承されていく中で、北のイスラエルと南のユダに分かれていってしまい、それぞれの多くの指導者が、旧約聖書の最初の五書であるモーセ五書に書かれていた掟に従わない時代になっていく。紀元前8世紀終盤には、イスラエル国は陥落する。またユダ国も紀元前6世紀中にペルシャに支配され、民は数十年間バビロンに捕囚される時代も来る。私はそのような時代背景の中で、信仰深い詩編作者たちが、モーセ五書の掟と葛藤し、そして、その教えに従わない多くの民を嘆き、それでも信仰を捨てず、神を賛美して、礼拝で詠われる詩編を次々に作詩していったように思う。特にこの詩編43編については、3節の言葉の中に、本来礼拝を行なう場所から遠く離れたところに詩編作者はおかれていて、いずれは、また聖なる神殿に導かれることを願い祈る言葉が書かれていることから、紀元前6世紀のバビロン捕囚の時代に作詩されたと想像する。そのような仮定のもと、各節ごと読んでいきたい。 神の慈しみを理解できない民、神の道を歩まず、横道にそれている者たちの中から私を救ってください。私の代わりに彼等と争い、神の裁きがありますように(1節)。 あなたこそ私の神で、罪深いものたちから私を守ってくださる砦です。しかし、なぜ、私を見放しておられるのでしょう。なぜ私はユダヤの指導部にもペルシャの民からも虐げられて、嘆きつつ、バビロンに連れて来られなければならないのでしょうか(2節)。あなたの輝きと真理をここに遣わしてください。あなたの輝きと真理は、わたしを導いて、また聖なる山、あなたのおられる神殿へと連れていってくれることでしょう(3節)。 そして神殿で、祭壇に私は近づき、喜び賛美し、「神よ、私の神よ」と琴を奏でて感謝の歌をうたうことでしょう(4節)。 しかし、現実は神殿から遠く離れていて、うなだれてしまい、私の魂が呻いてしまいます。 それでも、神を待ち望もう。私は告白します。主の御顔こそ、私の救いで、私の神です(5節)。 この詩編を通して、主なる神は現代の私たちに何を教えてくださっているのだろうか? 497年前の10月31日が宗教改革の発端だったとされる。当時のカトリック教会の指導部には、御心に従っていない部分もあったのだと思う。それをマルティンルターが指摘した。そのマルティンルターの思いと詩編43編の作者の気持ちには、相通じる要素もあるように思う。さらに500年近くたった今、世界中には、悔い改めの中で圧倒的な勢力のあるローマカトリック教会が存在し、また1世紀の初代教会のころから守られてきている東方正教会群が世界に点在しており、またこの500年間には、その数は三万とも言われるプロテスタント教会群があるといわれる。宗教改革が発端となって、多くのプロテスタント教会が誕生し、伝道は飛躍的に進んだともいえるのかもしれない。しかし、まだまだ真の神の慈しみ、イエスキリストの愛をわからないまま生きている民が多い現実がある。またキリスト教と名乗っていながら、宗派を問わず、戒律ばかりが重視されてしまう教会指導者が出ていることも否めない。そのような時代にあって、十字架に架かって殺され、墓に葬られても、復活し、この地球上の民を赦し生かしてくださっている、主なる神、イエスキリストが、ただしき道へと導いてくださるように祈る。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は先月9月4日に引き続き、詩編119編から41-48節を読む。詩編119編は22文字あるヘブル語アルファベットの各文字ではじまる22の詩が集められている。41節はヘブル語の”v”の文字ではじまる言葉が最初に位置されている詩。新共同訳聖書には、41節の前に(ワウ)と書かれていて、これがなぜ”v”なのかと思われるかもしれない。「ワウ」を「ヴァウ」という英語のv、ヴイ、の音に近いと思っていただければ、vとの関係を想像していただけるのではないかと思う。いずれにしろ、いつものように詩編を読んだ後、気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。 詩編119編 (ワウ) 41:主よ、あなたの慈しみと救いが/仰せのとおり、わたしを訪れますように。 42:わたしを辱めた者に答えさせてください。わたしは御言葉に依り頼んでいます。 43:真実をわたしの口から奪わないでください。あなたの裁きを待ち望んでいます。 44:わたしがあなたの律法を守る者でありますように/常に、そしてとこしえに。 45:広々としたところを行き来させてください。あなたの命令を尋ね求めています。 46:わたしは王たちの前であなたの定めを告げ/決して恥とすることはないでしょう。 47:わたしはあなたの戒めを愛し/それを楽しみとします。 48:わたしはあなたの戒めを愛し/それに向かって手を高く上げます。わたしはあなたの掟を歌います。 気になった節や言葉はどこだろう? 私は42節にある、「わたしは御言葉に依り頼んでいます。」 詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。詩編作者の状況を想像する上で、やはり42節にある言葉だが、「わたしを辱めた者に答えさせてください。」と書かれている部分に大きなヒントがあると思う。詩編作者は、何者かによって、「辱め」つまりあざけられたり、痛烈な批判を受けたりしたのだと思う。したがって、詩編作者は心の閉塞感を覚えながら、この詩を作ったように思う。一節づつ、読んでいきたい。主よ、あなたが約束してくださっていたように、あなたの慈しみと救いが、わたしを訪れますように(41節)。わたしを痛烈に批判したものに対して返答できるようにしてください。わたしはあなたの御言葉を信頼しています(42節)。 わたしの口から真実が語られるようにして、あなたの裁き(わたし辱めた者への)を待ち望んでいます(43節)。私を、どのような状況でも常にあなたの律法を永遠に守る者としてください(44節)。私の語るべき言葉を命令してください、そして(今の心の塞がった状況から)、広々とした状況に導いてください(45節)。わたしは(裁判所で)、王やほかの政治家たちのいる前で、あなたの定めを述べ、決して辱められたままにはならないでしょう(46節)。わたしはあなたの戒めを愛して、楽しみ(楽しい歌)にさえしています(47節)。わたしはあなたの戒めを愛して、手を上げて、あなたの掟を(音楽にあわせて)歌っています。 この詩編を通して、主なる神は現代の私たちに何を教えてくださっているのだろうか? 10月26日の礼拝の中で読まれる福音書は、宗教改革記念礼拝でヨハネ福音書8章の御言葉になるが、聖書日課で与えられている福音書は、マタイ22章後半の「最も重要な掟」の箇所。イエスが「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、神なる主を愛する」ことと、「隣人を自分のように愛する」こと、この二つの掟が最も重要であるという話をされた。 今日読んでいる詩編が作られたのは、イエスが最も重要な掟の話をされるより、数百年さかのぼる。しかし、主なる神の思いが働いて、神が最も重要な掟として与える掟のことを想像しながら、この詩編は作成され、歌われるようになってきたのかと思う。どのような時代が来ようが、あるいは、信仰者であるがゆえに、非難されたり、嘲笑を受けるようなことすらありうることもある。にもかかわらず、主が与えてくださった最重要な二つの掟、その御言葉に頼り、確信し実践しつつ、主をいつも賛美する信仰生活を歩めますように。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 2014年10月16日 詩編を読もう:新しい歌 (詩編96:1-9) 今週は詩編96編の1 節から9節を読む。いつものように気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。 詩編 96編 1:新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。 2:主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。 3:国々に主の栄光を語り伝えよ/諸国の民にその驚くべき御業を。 4:大いなる主、大いに賛美される主/神々を超えて、最も畏るべき方。 5:諸国の民の神々はすべてむなしい。主は天を造られ 6:御前には栄光と輝きがあり/聖所には力と光輝がある。 7:諸国の民よ、こぞって主に帰せよ/栄光と力を主に帰せよ。 8:御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り 9:聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。 気になった節や言葉はどこだろう? 私の場合は、1節にある「新しい歌」という言葉と、「諸国の民」という言葉が3節、5節、7節と3箇所に登場していること。 詩編作者の気持ちを想像しながら今週の詩編を読んでいきたいが、まず、簡単に3節ごとにその要旨をまとめてみたい。 1-3節では、すべての国の人々に新しい歌を歌って、主を賛美するように、呼びかけている。 4-6節では、主が天を造られたという、主を賛美する最大の理由が詠われていると思う。 7-9節では、だから主にひれ伏し崇拝するように。 1節ごとに読んでいきたい。詩編作者は、すべての人々に新しい歌を主に向かって歌うように呼びかける(1節)。主に向かって、主の御名をほめたたえるように。毎日毎日、主の救いの吉報を告げ知らせよう(2節)。すべての国々に、主の栄光と、その驚くべき御業を語り伝えよう(3節)。 主は大いなる方で大いに賛美される、(諸国の人々がそれぞれに描いてきた様々な)神々を超越しており、もっとも畏れおおい方(4節)。 主は天を造られた方であり、諸国の民の思い描いてきた神々はむなしい存在(5節)。主の御前には栄光と輝きがあって、聖所は力があり光輝いている(6節)。だから諸国の民よ、皆、主に帰するように。栄光と力は主のもの(7節)。御名の栄光を主に帰するために、供え物を持って神殿の中庭に入り(8節)、聖なる輝きに満ちた主の前にひれ伏せ。すべての民よ、主の前におののくように(9節)。 この詩編箇所を通して、主なる神は現代の私たちに何を語っておられるのだろうか? 以下、三点ほど気づいたことを書いておきたい。 一つ目は、10月19日に与えられている福音書、マタイ22:15-22の中で、イエスは「神のものは神に返しなさい。」と言われる。この言葉は「神のものは神に帰(き)しなさい。」と書いても良いと思う。与えられた詩編の6-9節と大いに重なってくる部分があり、私たちの身の回り、すべては神が創られたもので、私たちも、神に創られたもの。だから、私たち自身を礼拝で捧げるという気持ちに導かれる。 二つ目は、「新しい歌」という言葉に、大きな響きを感じる。というのは、復活ルーテル日本語部のメンバーは、今年の12月14日に予定されているクリスマスコンサートで、英語部の聖歌隊に加わるよう招かれている。多くのメンバーにとって、まさに新しい歌となる。10月19日、朝10時から日本語部メンバー向けに特訓がはじまる。 三つ目として、詩編96編は昨年5月にも取り上げているが、今年は10月半ばのクリスマスの準備を始める時にこの詩編を読むと、有名な讃美歌「諸人(もろびと)こぞりて」を口ずさみたくなる面もある。「諸国の民」という言葉を繰り返し詠う今週の詩編は、まさに「諸人ごぞりて」だと思う。 クリスマスまでには、10月26日の宗教改革記念礼拝があり、11月2日の復活ルーテル教会における日本語宣教26周年特別記念礼拝もあり、11月末にはサンクスギビングの時を迎える。 それぞれの時、諸人に、また、病で苦しんでいる者、仕事や家庭の悩みをかかえる者、家族や親友を亡くし深い悲しみの中にある者の心に中に、主イエスキリストの癒し、慰め、慈しみが、しみ込み、喜びの扉が開かれるように祈る。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は詩編34編の1 節から11節を読む。聖書日課では来週の月曜から水曜に読む詩編箇所が詩編34編となっている。その中で、12日の聖日に与えられた福音書箇所(マタイ22:1-14)との関係から、特に1-11節に集中したい。もちろん、余裕があれば、12節以降23節までもぜひ読んでいただきたい。何れにせよ、いつものように気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。 詩編34編 1:【ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに。】 2:どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。 3:わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。 4:わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。 5:わたしは主に求め/主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。 6:主を仰ぎ見る人は光と輝き/辱めに顔を伏せることはない。 7:この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。 8:主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。 9:味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。 10:主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。 11:若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。 気になった節や言葉はどこだろう? 私の場合は、9節にある「味わい、見よ」という言葉。この言葉はイエスが最後の晩餐の時に、パンをとって感謝して、それを裂いて弟子たちに与える時、「取って食べなさい」(マタイ26:28)と言われた言葉と同じなのだと思う。詩編はヘブライ語を訳して日本語にしており、また,マタイ福音書ではギリシャ語を日本語に訳しているので、ニュアンスが変わって聞こえるかもしれないが。 詩編作者の気持ちを想像しながら今週の詩編を読んでいきたい。詩編作者は、詩を綴ってゆく中で、ユダヤの礼拝を表現しているような場合がある。詩編34編はその例だと思う。 というのは、2-4節は「招きの言葉」で、5-11節では短い証(ダビデの体験談)のようなことが語られ、それが讃美歌になって歌われる。そして12節以降は説教(神学的示唆)が語られているような面があるのではないだろうか。さて、一節づつ読んでいきたい。どんな場合でも絶えることなく私は主を賛美する(2節)。貧しい人々よ(まだ主を賛美する気持ちになれない人、礼拝来ていない人々よ)どうか讃美を聞き、そしていっしょに喜び祝おう(3節)。共に一体となって、主の御名を崇めよう(4節)。 私が主に求めると主は答えてくださり、脅かすものからいつも救い出してくださった(5節)。主を仰ぎ見る人は輝き、たとえ失敗や間違いを犯しても恥辱を味わったままになることはない(6節)。 虐げられてしまった者が主を呼び求めると、主はそれを聞き、苦難から救い出してくださった(7節)。 主が遣わす者が苦難の中にある者の周りに集まり、畏れて主を呼び求める者を助けてくださった(8節)。主の恵みの深さを味わってみなさい、主の元に身を寄せる人は、どんなに幸いなことか(9節)。主に創造されたすべての聖なる人々よ、主を畏れ敬え、主を畏れる人には不足はなく満たされる(10節)。 若者が欲するものが得られず飢えることがあっても、主を求める人は良いものが与えられ、不足することはない(11節)。 この詩編箇所を通して、主なる神は現代の私たちに何を語っておられるのだろうか? 10月12日の聖日に与えられている福音書箇所がマタイ22章1-14節、「王が人々を婚宴へと招く」たとえ話である。王は神であり、招かれた人々はわたしたち人間。 また、礼拝を婚宴にたとえているような感じもする。 詩編34編を読み、旧約聖書の時代から、主なる神が、人々を礼拝へと招いている。 礼拝の場に集うことは、物理的にただ礼拝の場に来ることが目的ではなく、精神的かつ霊的に、主を畏れ、主を求める人になること、悔い改めて信仰の道を歩む人々になっていくこと。それは、主の恵みを「味わい、見続ける」生活をすることだと思う。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は詩編80編の8節から16節を読む。読むにあたって、10月5日の福音書個所、マタイ21:33-46に描かれたたとえ話を頭に思い浮かべながら詩編を読んでみるのも良いと思う。 何れにせよ、いつものように気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。 詩編80編 8-16節 8: 万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。 9:あなたはぶどうの木をエジプトから移し/多くの民を追い出して、これを植えられました。 10:そのために場所を整え、根付かせ/この木は地に広がりました。 11:その陰は山々を覆い/枝は神々しい杉をも覆いました。 12:あなたは大枝を海にまで/若枝を大河にまで届かせられました。 13:なぜ、あなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆、摘み取って行きます。 14:森の猪がこれを荒らし/野の獣が食い荒らしています。 15:万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください 16:あなたが右の御手で植えられた株を/御自分のために強くされた子を。 気になった節や言葉はどこだろう? 私の場合は、8節に「御顔の光を輝かせ」と詠い願っていること。 逆に言えば、イスラエルの民にとって、主との関係が悪化していることを思わせる。 紀元前8世紀ごろから6世紀はじめにかけてのイスラエルがどのような状態であったか、また6世紀半ばにはイスラエルの民がバビロンに捕囚されてしまったことも振り返り、詩編作者の気持ちを想像しながら今週の詩編を読んでいきたい。「木」と表現されているのは比喩で、イスラエルの民を表していると思われる。 万軍の神よ、との呼びかけのあと、信仰的に神の思いから異なる行いに走ってしまったイスラエルの民がバビロンに捕囚されてしまっているが、どうかイスラエルの地に連れ帰ってください。神の御顔を輝かせ、我々を救ってください(8節)。 神は、エジプトで奴隷として働きぶどうの木のようにやせ細ってしまったイスラエルの民を、エジプトから解放して、当時イスラエルの地に住んでいた民族を追い出してくださって、エジプトから帰ってきたイスラエルの民が、またこの地に住むことができるようにしてくださった (9節)。 イスラエルのさまざまな部族はイスラエルの地で部族ごとに割り当てられた地で繁栄してきた(10-12節)。 神はイスラエルの民を囲ってくださっていたのに、他の地からやってくる異なる信仰を持つ民が、イスラエルの民の信仰を揺るがせて、あなたから離れた行いをしてしまうようになりました(13-14節)。どうか万軍の神よ、天から今一度、あなたが弱っていた民をエジプトから解放し、あなた御自身のために強めてくださったイスラエルの民に、御目を注いでください(15節)。 この詩編個所を通して、主なる神は現代の私たちに何を語っておられるのだろうか?10月5日の日曜日に与えられている福音書の個所は、ぶどう園運営を任された農夫たちだが、収穫をするころになると、ぶどう園を前もって整備してくださった農場主のことを忘れてしまう。 そして貪欲にまた自分勝手に収穫物を管理しようとする。おまけに、農夫たちは、農場主が送ってくる使用人と、さらに息子までも殺してしまうという悲惨なたとえ話。 農場主からいただいていた元々の恩恵を忘れてしまう農夫たちとは、この詩編に登場してくる、ぶどうや杉の木、また大枝や小枝のこと、つまり、イスラエルの民といえるだろう。しかし、自分勝手になってしまうのは、イスラエルの民だけではなく、地球に住んでいる人類全体のことも考えて、この詩編は詠われているように思う。 今日与えられた詩編個所は、現代の社会に、警笛を鳴らしているようにも思える。 主がすべてを創造してくださって、主が、わたしたちの不完全さや恥を、赦していたわってくださっている。しかし、それを忘れ、あるいは気づかずに、詩編に詠われた紀元前のイスラエルの民のように、現代の人類の多くが神との関係悪化に陥ってしまっているようでならない。その関係悪化とは、神は常に人類を悔い改めへと導いているのに、それに従っていない民が大勢いるということを危惧する。詩編作者と同じように、「主よ御顔を輝かせてください。お救いください。」と祈りたい。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace