Tweet 今週は詩編28編を読む。「ダビデの詩」となっているが、ダビデの生きた時代を想像するより、もっと後世に生きた一人の詩編作詞者の時代背景を思い浮かべつつ読んだら良いかと思う。 では、いつものように気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。 詩編28編 1:【ダビデの詩。】主よ、あなたを呼び求めます。わたしの岩よ/わたしに対して沈黙しないでください。あなたが黙しておられるなら/わたしは墓に下る者とされてしまいます。 2:嘆き祈るわたしの声を聞いてください。至聖所に向かって手を上げ/あなたに救いを求めて叫びます。 3:神に逆らう者、悪を行う者と共に/わたしを引いて行かないでください。彼らは仲間に向かって平和を口にしますが/心には悪意を抱いています。 4:その仕業、悪事に応じて彼らに報いてください。その手のなすところに応じて/彼らに報い、罰してください。 5:主の御業、御手の業を彼らは悟ろうとしません。彼らを滅ぼし、再び興さないでください。 6:主をたたえよ。嘆き祈るわたしの声を聞いてくださいました。 7:主はわたしの力、わたしの盾/わたしの心は主に依り頼みます。主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。歌をささげて感謝いたします。 8:主は油注がれた者の力、その砦、救い。 9:お救いください、あなたの民を。祝福してください、あなたの嗣業の民を。とこしえに彼らを導き養ってください。 気になった節や言葉はどこだろう? 私の場合は、2節に表現された「至聖所に向かって手を上げ/あなたに救いを求めて叫びます」という祈る姿勢。祈るという行為は、両手を合わせて静かに祈るだけではなく、時と場合によっては、両手を上げて嘆き叫ぶ祈りもあって良いのだと思う。 詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。冒頭にも書いたが、詩編作者は、紀元前1000年頃のダビデの時代というより、イスラエルの指導者たちが腐敗し、その信仰が揺らぎ、神に悪とされる行為を実行してしまった時代があって、されにその時代にも救いが訪れたことを想像しつつ、読んだら良いのかと思う。 さて、一節づつ読んでいきたい。 大胆に「主よ」「私の岩よ。」と呼びかけ、「黙っていないでください。主が沈黙しておられるなら私は死んで墓に葬られてしまいます、それでもいいのですか?」と言わんばかりの強い呼びかけ(1節)。嘆き祈る私の声を聞いてください。私は手を挙げて、必死に叫んで祈っているのです(2節)。 私が、神に逆らう者、悪を行なう者の仲間にならないようにしてください。彼等は平和を唱えても、実は心の中で別のことをたくらんでいます(3節)。彼らの悪い行いに応じて、あなたが報いて、罰してください(4節)。彼等は主の恵みの御業を学ばず、理解せず、語ろうともしません。そのような彼等を滅ぼし、起き上がれないようにしてください(5節)。 6節以降は、ぐっと雰囲気が変わってくる。 主を賛美しよう。主は、嘆き祈る私の声を聞いてくださったから(6節)。 主は私の力であり盾でもあり、だから主に寄り頼みます。主が助けてくださり、私の心は喜び踊り、賛美の歌をささげて、感謝します(7節)。主は油注がれた者の力、私の砦であり、救い主(8節)。どうかあなたの民全部を救ってください。祝福してください。あなたの恵みを受け継ぐ民全部を。永遠に導き養ってください(9節)。 この詩編を通して、主なる神は現代の私たちに何を語っておられるのだろうか?この詩編は、詩編作者が生きた時代だけではなく、現代の我々の生きている時代にも、迫ってくるものがある。中東地域では戦争がまた起こってしまっている。また、日本を含めた、東南アジア地域にも、不和・葛藤が起こっている。民を代表して政治を司る者が、本当に心の中で何を考えているか、神の思いに従っているのか? また、詩編の中で「神に逆らう者、悪を行なう者」という人々は、世のリーダだけではなく、至るところに存在してしているのが現状だと思う。そしてうかうかしていると、3節にあるように、自分も神に逆らう者、悪を行なう者の仲間入りをしてしまうような面がある。悪を行なうという表現はきついかもしれないが、神の思いに従わず、神の思いから離れて行動している民が多いのだと思う。そして、その中に自分も入ってしまうことがあり反省を迫られる。 だから、毎週の礼拝で、罪の告白をすることの大切さがあると思う。 罪という言葉がピンと来ないなら、自分の不完全さとか、恥とかを、すなおに神に告げる大切さがあると思う。そして、毎週、礼拝に集う者として、今日の詩編にあるように、主に嘆き祈ろう。主は必ず、その祈りを聞いてくださることを信じて。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は詩編145編1-8節を読む。新共同訳聖書では、(アルファベットの詩)と書かれているが、この詩編こそヘブル語の「いろはがるた」というべきものかもしれない。 150編ある詩編の中で最も長い119編を説明するときに、「いろはがるた」と書いてきたが、119編は、ヘブル語の各文字からはじまる数節の詩が、ヘブル語のアルファベットの数だけ並べられている。 145編は、ヘブル語の各文字からはじまる一節だけの短い歌が並んでいる詩。そして145編全体ですばらしい賛美になっている。 さて、いつものように気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。 詩編 145編 1:【賛美。ダビデの詩。】わたしの王、神よ、あなたをあがめ/世々限りなく御名をたたえます。 2:絶えることなくあなたをたたえ/世々限りなく御名を賛美します。 3:大いなる主、限りなく賛美される主/大きな御業は究めることもできません。 4:人々が、代々に御業をほめたたえ/力強い御業を告げ知らせますように。 5:あなたの輝き、栄光と威光/驚くべき御業の数々をわたしは歌います。 6:人々が恐るべき御力について語りますように。大きな御業をわたしは数え上げます。 7:人々が深い御恵みを語り継いで記念とし/救いの御業を喜び歌いますように。 8:主は恵みに富み、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに満ちておられます。 気になった節や言葉はどこだろう? 「御業」という言葉が3節から7節の中だけで、6回も登場している。 詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。今日の詩編個所には、大きく分けて、三つのことが詠い込まれている。 ひとつは、詩編作者自身が「主を賛美する。」ということ。二つ目は、主の御業がすばらしいこと。つまり賛美する理由。そして三つ目は、「詩編作者だけではなく、人々が主を賛美するように」という願い。 一節一節を読んでいきたい。そしてそれぞれが、「賛美」なのか「理由」なのか「願い」なのかを確認していきたい。 わたしの王で、神よ。あなたを崇めます。どのような世の中であろうがいつも御名をたたえます。途絶えることなく、あなたを讃え、御名を賛美します(1-2節:賛美)。 偉大なる主は、時代を超えてほめたたえられる主。その偉大なる御業は、人間が研究して全容を明らかにするようなことはできない(3節:理由)。世代交代して世が変わり行くが、主の御業をほめたたえて、力強い御業が、世代を超えて伝え続けられるように(4節:願い)。栄えある主の輝き、また人々を従わせるような威光を、また驚くべき主の数々の御業を、私は誉め詠います(5節:賛美)。 大きな御業をわたしは数え上げ、人々は恐るべき主の御力を語りますように、人々が主の深い恵みを語り継ぎ、救いの御業を喜び詠うように(6-7節:願い)。 主は恵みに富んでおり、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに満ちておられる(8節:理由)。 この詩編を通して、主なる神は現代の私たちに何を語っておられるのだろうか?詩編作者が主を賛美し、その賛美する理由(主の偉大な御業)を語り、人々が代々賛美するように願い祈っているだけではないと思う。現代の私たちも、主を賛美し、主がなさった数々の御業を語り、また世の人々が主を賛美するように願い祈る気分になってくる。主の偉大な数々の御業として、旧約聖書に著されている、主の創造、アダムの誕生、アブラハムの生涯、イサクの家族・ヨセフ物語、出エジプト、等々の主の働かれた偉大な出来事も述べ伝えるように導かれている。それと同時に、新約聖書に著された、数々の主イエスの御業、教えも、もちろん語り継がれる。来る聖日は、福音書はマタイ20 章1-16節の「ぶどう園の労働者」のたとえ話である。 すばらしい個所であり、主イエスがいかに人々を憐れんでくださっているか、びっくりするような話である。福音書個所をじっくり味わう機会が与えられるように。 そして、聖書に書かれた主の御業だけではなく、各自私たちに与えられた主の御業がいろいろあると思う。 それは、実際起こった時には、主の御業だとは全然気づかなかったことでも、後から振り返ると、その中に主の御業があったことが必ずある。 そのような実体験も語り合い、そしてまた、それらの御業の証を通して、世の人々が、偉大なる主を賛美するように願い祈る。 現在、復活ルーテル教会では50周年の記念文集を編算すべく、寄稿を願っている。ぜひ、おひとりおひとりが体験された、主の御業をわかちあっていただければと願い祈る。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は詩編103編8-13節を読む。103編は22節からなるやや長い詩編。1-2節と20-22節の最初と最後は、「主をたたえよ」という言葉が5回出てきている賛美の詩編であることを念頭におき読むようにしたい。いつものように気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。 詩編 103編 8:主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい。 9:永久に責めることはなく/とこしえに怒り続けられることはない。 10:主はわたしたちを/罪に応じてあしらわれることなく/わたしたちの悪に従って報いられることもない。 11:天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。 12:東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。 13:父がその子を憐れむように/主は主を畏れる人を憐れんでくださる。 気になった節や言葉はどこだろう? 8節にある「慈しみは大きい」という言葉。 詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。冒頭に書いたように、詩編103編全体は、「主をたたえよ」という言葉にはじまり、同じ言葉でしめくくられる讃美の詩編であるので、3節から19節のサンドイッチの中身は、なぜ主をたたえるのかという理由が、いろいろと詠われている。 そして、本日与えられている8-13節は、主をたたえる理由の中核部分なのだと思う。 一節ごとに想像力を膨らませながら読んでいきたい。歴史的にイスラエルの民全体に主がどれだけ、憐れみ深かったか、恵みに富んでいたか、忍耐強かったか、そして主の慈しみがとてつもなく大きかったかを振り返っているように思える(8節)。主はイスラエルの民を責めたり、民に怒りを覚えられたこともあったが、それらは、あくまで一時的なことでしかなかった(9節)。 主は決して罪の大きさに応じてあしらったり、報復したりするようなことはなさっていない(10節)。天は3次元で、2次元の地上より、はるかに高い空間を備えているように、主の慈しみは、主を畏れる民が感じることができる慈しみをはるかに超えた、とてつもない高さ・大きさがある(11節)。東方向と西方向は全く正反対で、東のはては、西のはてからは届きようがないようなところまで、わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる(12節)。 父がその子をこの上なくかわいがるように、主を畏れる民をこの上なく憐れんでくださっている(13節)。 この詩編を通して、主なる神は現代の私たちに何を教えてくださっているのだろうか? 詩編103編の3節から19節は、「主をたたえる」理由がいろいろ詠われているが、その最初の理由は、3節にある「主はお前の罪をことごとく赦し」という言葉が筆頭にある。 主の赦しの程度がどれほどのものかを8節から13節で形容しているかのように感じる。 そして、その赦しの究極を人類に示してくださったのが、主イエスの十字架の死と復活、なのだと思う。 あの911から13年が過ぎた。 いまだに癒えない心の痛みを覚え続けておられる方々もいるのだと思う。とても赦せないという気持ちでいる犠牲者の家族・友人や、あるいは政治家も多いのだと思う。 オバマ大統領は、極端なテログループ、イスラム国(ISIS, ISIL)への空爆拡大を辞さないことを昨日表明したようだ。 そのような報道を聞いているのは、13年前の911の出来事が根底にあるのだとは思う。 その時のことは話でしか聞いていない今の中高生以下のこどもたちには、今の報道はどう聞こえてくるのだろうか? 911を覚えている私たちの世代は、911以降に生まれた世代に、どう語っていけばよいのだろうか? 自分を十字架にかけ葬むる人類を赦し「平和があるように。」と言われる救い主イエスを覚える時、いろいろな思いがこみあげてくる。 さらに救い主イエスが顕われる数百年前に遡って、詩編作者たちが覚えた主なる神の慈しみの大きさを覚える時、神が21世紀を生きる人類にも、主なる神の慈しみの大きさを次世代に継承していくようにと言われているように思う。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は詩編119編65-72節を読む。詩編119編はヘブル語のいろはがるたのような詩をならべたもの。22文字あるヘブル語アルファベットの各文字ではじまる22の詩が集められている。65節はヘブル語の”t”の文字ではじまる言葉が最初に位置されている歌。もちろん日本語に訳されているので、”t”の文字ではじまっている言葉かどうかはわからない。しかし、新共同訳の聖書をみると(テト)と65節の前に書いてある。これはヘブル語のアルファベット文字の”t”に相当する文字をカタカナで表記している。さて前置きはそれくらいにして、いつものように気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。 詩編119編 (テト) 65:主よ、あなたの御言葉のとおり/あなたの僕に恵み深くお計らいください。 66:確かな判断力と知識をもつように/わたしを教えてください。わたしはあなたの戒めを信じています。 67:わたしは迷い出て、ついに卑しめられました。今からは、あなたの仰せを守らせてください。 68:あなたは善なる方、すべてを善とする方。あなたの掟を教えてください。 69:傲慢な者は偽りの薬を塗ろうとしますが/わたしは心を尽くしてあなたの命令を守ります。 70:彼らの心は脂肪に閉ざされています。わたしはあなたの律法を楽しみとします。 71:卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。 72:あなたの口から出る律法はわたしにとって/幾千の金銀にまさる恵みです。 気になった節や言葉はどこだろう? 67節にある「ついに卑しめられました。」という言葉と71節にある「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。」 詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。全体的には、とてもわかりやすい言葉で表現されており、すんなり読める詩である。詩編は詩編作者の祈りであり、また詩編にくみこまれている歌であるので、この言葉をシナゴーグにあつまったユダヤ教徒たちが礼拝の中で皆で祈り詠うようになったと想像する。この詩編個所、すんなり読めるとは書いたが、詩編作者の人生は、決して「すんなり」したものではなく、山あり谷ありの信仰の旅路を歩んだことだろう。さて一節一節を振り返りたい。 主の御前にへりくだって、あなたの僕である私を恵み深く計らってください(65節)。と詠いはじめ、あなたの戒めに従う判断力や知識を持ち合わせていなかった自分に、ぜひあなたの判断力や知識を教えてください。あなたの戒めを信じています(66節)。 私はあなたの戒めに従わず迷いの人生を歩んでいたため、ついに卑しめられましたが、今からはあなたの戒めに従います(67節—詩編作者は人々から非難されたりしたのだろう)。あなたはすべて善なる方で、すべてを善に変えられる方なので、あなたの掟を教えてください(68節)。あなたの掟を学ばずに傲慢に生きている者はうわべだけを繕おうとするが、私は心からあなたの掟、命令を守ります(69節)。その傲慢な者たちはあなたに心を開いていないが、わたしは心をあなたに開き、あなたの法を楽しみにします(70節)。卑しめられたおかげで、あなたの掟を学ぶようになりました(71節)。あなたが語る律法は、どんな財宝にもまさる恵みです(72節)。 この詩編を通して、主なる神は現代の私たちに何を教えてくださっているのだろうか? 上記には、新共同訳聖書に用いられた「卑しめられた」という言葉をそのまま使って書いてきたが、卑しめるという言場、どう解釈したら良いか考える時、7日の日曜に与えられた福音書個所(マタイ18:15-20)にその答があるように思った。福音書からキーワードを二つ挙げるとすると「忠告」と「祈り」なのだと思う。 兄弟姉妹から受ける忠告と兄弟姉妹が集まって、心を一つにしていっしょに「祈る」ことの大切さがある。 「卑しめられた」とあったが、周辺の信仰者から「忠告を受けた」という言葉がピンと来るように思う。 そして、現代を生きるキリスト信仰者たちも、もし主の道からはずれて生きているような場合は、兄弟姉妹間で、忠告しあうことの重要性を教えられているように思う。 また、忠告しただけで終わるのではなく、この詩編作者が詩編に残して、信仰者たちが集まった場で、皆で詠い祈ることが行なわれていたように、現代の兄弟姉妹たちも、いっしょに主に感謝して祈ることの大切さがある。もし兄弟姉妹が集まる機会がすぐに得られないような場合は、2500年以上前に生きた詩編作者たちが残してくれた、詩編を読み、時を越えて詩編作者と心を一つにして読むように心がけることもすばらしいことだと思う。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は詩編26編を読む。12 節という比較的短い詩編だが、聖書日課にあるように、最初の8節だけに集中する。いつものように気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。 詩編26編 1:【ダビデの詩。】主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。 2:主よ、わたしを調べ、試み/はらわたと心を火をもって試してください。 3:あなたの慈しみはわたしの目の前にあり/あなたのまことに従って歩き続けています。 4:偽る者と共に座らず/欺く者の仲間に入らず 5:悪事を謀る者の集いを憎み/主に逆らう者と共に座ることをしません。 6:主よ、わたしは手を洗って潔白を示し/あなたの祭壇を廻り 7:感謝の歌声を響かせ/驚くべき御業をことごとく語り伝えます。 8:主よ、あなたのいます家/あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います。 気になった節や言葉はどこだろう? 私の場合は、8節、「主よ、あなたのいます家/あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います。」を挙げる。 詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。先週与えられていた詩編18編の状況と共通しているのかと思う。 ダビデがサウルの手によって、絶対絶命のピンチに立たされている時に、ダビデが(あるいはその時のダビデの状況を察して後世の詩編作者が)詠った詩だと思う。 ただし、18編では、ダビデの安全が保障された時、既にピンチの状況から救い出された後に詠っている賛美だったが、それとは対象的に、26編ではまだ救い出されるかどうかわからない時に詠っているのだと思う。 さて最初から詳しく読んでいきたい。 1節:絶対絶命、生きるか死ぬかという状況の中でダビデはまず、主なる神の審判を望んでいると詠うが、それだけではなく、自分の主張も入ってくる。 自分は完全な道を歩んで来たし、主を信頼して横道にそれたこともありません、と詠う。2節:どうか主よ私が潔癖なことを、調べ、試してみてください。私の五臓六腑や心臓(感情や心情?)が正しいということを、火を用いてでも、試してみてください。3節:あなたのゆるぎない愛が私の目の前にあって、このような絶対絶命の中にあろうが、あなたの真理に従って、主の道を歩んでいます。4節:私は偽る者とはいっしょに食事の席についたりすることはなく、あなたに背を向けて行動するような人々の仲間には入ってません。5節:悪事を企てようとする者たちを憎んでいるし、主に逆らう者とは座ったりもしない。6節:(救い出された時には)私は手を洗って自分が潔白であったことを示し、あなたの祭壇を回るようにします。7節:会衆とともに讃美歌を歌い、主から賜った驚くべき御業を次世代に語り伝えます。8節:主よ、あなたの宿る場所、サイナゴーグを慕っております。(礼拝堂にまた戻ることができるようひたすら望んでいます。) この詩編を通して、主は現代の私たちに何を教えてくださっているのだろうか?紀元前1000年ごろのダビデの置かれた様子が、なんとなくわかる気がしてくる。そしてその時の様子が、イエスキリストが十字架を担いでエルサレムを歩む様子にも重なってくる。ただし、イエスの場合は、死に至ることなく救い出されるダビデとは大きな違いがある。イエスは、徹底的な侮辱や辱めを受けたあげく死にて葬られ、しかし、死からよみがえり、復活される方。 そこには、違いがあるものの、ダビデが絶対絶命のピンチでも主を信頼していたように、人の子でありかつ神の子であるイエスも主なる父を信頼しつづけているという点で共通点があるのだと思う。そして、現代を生きるわたしたちにも、世の中がどうなってしまうかわからない状況、明日には世の終わりが来るかもしれないと思われる状況が来ようが、確固たる信仰、主イエスの信仰、を土台として、歩み続ける者になるように導かれていると思う。そして主イエスの信仰が土台となるということの表れとして、詩編作者が8節で詠っているように、礼拝に集いたくてしょうがなくなるような気持ちになってくるのだと思う。 8節の言葉は4月末から5月初めにパシフィカ教区の総会に行った時のことを思い出させる。アメリカ福音ルーテル教会(ELCA: Evangelical Lutheran Church in America)は全米に65の教区があるため、ELCAの総主教(Presiding Bishop)は65すべての教区総会に毎年出席することはできない。しかし、昨年総主教に就任したばかりのElizabeth Eaton総主教はパシフィカ教区総会に出向いてくださり、教区の牧師と信徒リーダーたちはユーモアあふれるしかし力強いメッセージを聞くことができた。その中の一つの大きなポイントは、神の使命を受けて礼拝を司ること、メッセージを取り次ぐこと、洗礼・聖餐式を執行することの大切さを改めて学ばされた。 そんなこともあり、先週の信徒会でも話したように9月からは少しだが、礼拝の形式が変わる。聖霊の働きにより、毎週の礼拝に導かれる方々の信仰生活の土台がさらに強まりますよう祈る。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は詩編18編読む。この詩編は119編(176節)、78編(72節)に続いて3番目に長い詩編。そこで、新共同訳聖書では、1-4節および21-31節だけを読む。いつものように気になる言葉は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。 詩編18編 1:【指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩。主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌の言葉を主に述べた。】 2:主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。 3:主はわたしの岩、砦、逃れ場/わたしの神、大岩、避けどころ/わたしの盾、救いの角、砦の塔。 4:ほむべき方、主をわたしは呼び求め/敵から救われる。 21:主はわたしの正しさに報いてくださる。わたしの手の清さに応じて返してくださる。 22:わたしは主の道を守り/わたしの神に背かない。 23:わたしは主の裁きをすべて前に置き/主の掟を遠ざけない。 24:わたしは主に対して無垢であろうとし/罪から身を守る。 25:主はわたしの正しさに応じて返してくださる。御目に対してわたしの手は清い。 26:あなたの慈しみに生きる人に/あなたは慈しみを示し/無垢な人には無垢に 27:清い人には清くふるまい/心の曲がった者には背を向けられる。 28:あなたは貧しい民を救い上げ/高ぶる目を引き下ろされる。 29:主よ、あなたはわたしの灯を輝かし/神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。 30:あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし/わたしの神によって、城壁を越える。 31:神の道は完全/主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に/主は盾となってくださる。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、3節にある「岩、砦、逃れ場/わたしの神、大岩、避けどころ、盾、救いの角、砦の塔。」 詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。1節にある言葉から、ダビデがピンチに立たされたが救い出された時に歌ったものであることがわかる。そして、実はこの詩編、サムエル記下の22章に、ほとんど同じ言葉で記されている。聖書は結構重複しているところがある。さて2-4節では、長い詩編の冒頭に、「私の力である主を慕う。主は、たとえるなら、私の岩、砦、逃れ場、神、大岩、避けどころ、盾、救いの角、砦の塔である。だから主を賛美し、私は主を呼び求め、その主がわたしを救い出してくださる。」と詠う。ダビデが主を慕い、賛美する理由を、「岩」以下「砦の塔」までさまざまな物にたとえて、短く詠っている。そして5節以降では、そのようなたとえをさらに多岐にわたって表現していこうとしているようだ。21節から25節では、ダビデ自身の主に従う行動基準とそれに報いてくださる主を表現している。「わたしの正しさに報いてくださる。手の清さに応じてくださる。わたしは主の道を守り、神に背かない。わたしは主の裁き、掟を近くに置いて行動する。わたしは主に対して純粋で、罪から身を守る。主はわたしの正しさに応じてくださり、主の目に対してわたしの手は清い。」また26節から28節では、「わたし」という表現はなくなり、ダビデだけに限らず、主に従う人々やそうではない者にも対象を広げて表現しているのかと思う。「主は慈しみに生きる人に、それを示し、純真な人には純真に、清い人には清い。心の曲がった者には背を向け、貧しい民を救い上げ、高ぶる目を引き下ろす。」そして、29節30節では再び「わたし」という言葉が登場し、ダビデ自身の体験談のイメージだと思う。「主はわたしのランプをより明るくしてくださり、闇の中でも歩めるようにしてくださる。主がいてくださるから敵軍を追い散らし、また敵の城壁をも越えることができる。」31節になると、また「わたし」という表現を使わずに、「神の道は完全、主の命令は炎のかたまりのようなもの。主のもとに身を寄せる人には、盾となってくださる。」 この詩編箇所を通して、主なる神は現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせてみたい。24日の聖日に与えられているマタイ16章13-20節では、イエスは弟子たちに「あなた方はいったい私を誰だと言うのか?」という質問をしている。その応えを、紀元前1000年ごろダビデが詠っていたようにも感じる。そして、わたしたちは、この賛歌を参考に、ひとりひとり、詩編18編の個人バージョンを作詩するように導かれているのではないだろうか? その時、ダビデが3節で詠ったようなたとえ、いやさらに広がりのあるたとえも良いと思う。しかし、イエスが私たちの罪を背負って十字架に架かった方なので、それらのたとえが自分勝手で私利私欲ではないように注意したいと思うが。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は詩編87編を読む。「詩編を読もう」のコラムに何度か書いて来たが、読んでいる詩編は、次の主日に与えられる福音書個所と関係がある。17日の日曜に与えられている福音書はマタイ14章22-33節で、ユダヤ人ではない異邦人(カナン人)女性と悪霊にひどく苦しめられていた娘が、主イエスによって癒され救われる話である。では、87編を読み、いつものように気になる言葉は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。 詩編87編 1:【コラの子の詩。賛歌。歌。】聖なる山に基を置き 2:主がヤコブのすべての住まいにまさって愛される/シオンの城門よ。 3:神の都よ/あなたの栄光について人々は語る。〔セラ 4:「わたしはラハブとバビロンの名を/わたしを知る者の名と共に挙げよう。見よ、ペリシテ、ティルス、クシュをも/この都で生まれた、と書こう。 5:シオンについて、人々は言うであろう/この人もかの人もこの都で生まれた、と。」いと高き神御自身がこれを固く定められる。 6:主は諸国の民を数え、書き記される/この都で生まれた者、と。〔セラ 7:歌う者も踊る者も共に言う/「わたしの源はすべてあなたの中にある」と。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、「主は諸国の民を数え、書き記される/この都で生まれた者、と。」 詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。おおざっぱには、1-3節までは、エルサレムにある神の栄光が詠われる。4-7節はエルサレムが生まれ故郷である、と宣言する人々の喜びを詠っている。1節に「コラの子の詩」と書いてあるが、コラとはユダヤ教の礼拝で聖歌隊を務めていた人々のことだと思われる。主が定めた聖なる山、エルサレム(シオンの山とも呼ばれる)のことを詠いはじめている(1節)。 ヤコブ(ヤコブの子孫たち、すなわちイスラエルの民全体を指しているのだと思う)が、さまざまな理由で、エルサレムではない土地にも住むようになっているが、主なる神が、何よりも愛されるシオンの城門(エルサレム)よ、(2節)。神の都(エルサレム)よ、主の栄光について人々は次のように語ることでしょう(3節)。 「主なる神は、ラハブ(イスラエルの民が400年奴隷として仕えていたエジプトのことを指している)と、バビロン(イスラエルの民が紀元前6世紀に捕囚された土地)で生まれた者たちも、主の民として挙げる。 さらにはペリシテ、ティルス、クシュ(当時のイスラエル周辺諸国で、イスラエルからすれば、諸外国)で生まれた者たちも、聖なる山(シオン、エルサレム、聖なる都)で生まれた、と記録される。」(4節) シオン(聖なる都)について、人々は語るであろう、「この人もあの人もこの都で生まれた。」とし、いと高き神がそれを確かなこととして定められる(5節)。主なる神は、諸外国で生まれた者を数え、皆エルサレムで生まれた者とされる(6節)。礼拝や祭りで、歌う者も踊る者も、いっしょに賛美する、「わたしたちの源は、すべて主の中にある」と(7節)。 この詩編箇所を通して、主なる神は現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせてみたい。詩編87編は多分に預言的要素を含んでいる詩編のように感じる。3節から5節で詠われている内容は、ユダヤ民族だが、さまざまな歴史的背景からエジプト、バビロン、ペリシテ、ティルス、クシュ等々の諸外国で生まれたユダヤ人がいたことは確かで、その者たちも含めて、聖なる都、エルサレムで生まれたユダヤ人として、主なる神が認めてくださることを詠っているようだ。しかし、6節に入って、その範囲がずっと広がって行くように感じる。6節の「諸国の民」とは、諸国にいるユダヤ民族だけではなく、諸国にいる異邦人も含めて、すべての民が、エルサレムで生まれた民、主なる神としての扱いを受ける、すなわち、主イエスからの慈しみを受け、救われることが、紀元前から預言され、詠われていたように思う。福音書に残された事実として、主イエスを救い主として受け入れ始めたのは、サマリアの女(ヨハネ4章)であったり、17日の福音書個所にある、カナン人の女性である。また紀元後の世界を見ると、ユダヤ人以外の世界各国の民が、主イエスを救い主と受け入れ、主イエスからの、とてつもない豊かな恵みを受けつつ、救い主なるイエスを賛美し、主にある喜びの中に生きている時代が訪れてきている。復活ルーテル教会に集う私たちもその中にある。 そのようなできごとは、史実であり、主なる神、イエスによる導きの中で起こっている。栄光は主に! アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は詩編85 編9節から14節を読む。私事になるが、神学校時代に詩編の授業をとった。学期末に、最後のレポートを書くとき、どんな理由でもよいから詩編の一編を選び、それについて決められた質問にしたがってレポートを書くことが課題だった。その時、私が選んだ詩編が85編だった。 もう何を書いたかほとんど覚えていない。。。それはそれとして、今日新たに、85編をフレッシュな気持ちで読み、いつものように気になる言葉は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。 詩編 85編 9: わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に/彼らが愚かなふるまいに戻らないように。 10:主を畏れる人に救いは近く/栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。 11:慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし 12:まことは地から萌えいで/正義は天から注がれます。 13:主は必ず良いものをお与えになり/わたしたちの地は実りをもたらします。 14:正義は御前を行き/主の進まれる道を備えます。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、9節の「彼らが愚かなふるまいに戻らないように。」という言葉。とくに広島と長崎の両原爆記念日の間にあって、ずっしりくる。 詩編作者の立場を思って、今週の詩編箇所を読んでいきたい。今日の箇所は9節以降の後半のみだが、簡単に1節から8節に何が書いてあったかを触れておくと、1-4節では良き時代に、神がイスラエルの民にしてくださったこと。5-8節では、現在は、その神と自分たちの関係がおもわしくなく、その関係改善を求める祈り、というか駆け引きのような様相すらある。そして、9節以降は、びっくりするような表現の賛歌なってくる。では9節から一節づつ触れていきたいが、9節は神の約束を信頼してあらたに詠い始める感じで、「私は神が平和を宣言されるのを聞く。自らが創造した民に対して、そして、神の確かな愛の中に生きる人々に。愚かに神に背を向けてしまわずに神に向き合う人々に。」10節で、「主を畏れる人には(今の神との関係がおもわしくない状況から変わって)神の救いは近く、神が私たちの地にとどまってる。」11節では、とても面白い詩的な表現をしており、慈しみ、まこと、正義、平和という四つの単語が擬人化されて、「いつくしとまことの二人が出会って、正義と平和が口づけする」と詠う。12節、さらに詩的な表現は続き、今度はまことは植物のように、また正義が植物が育つのに必要な雨にたとえられているかのようでもあるが、「まことが地面から萌えいで、正義は天から降り注がれる」と詠う。13節では、イスラエルの民を植物にたとえているようで、「わたしたち自身(イスラエルの民)が育つ地に、主なる神は良い栄養を与えてくださり、その地がわたしたちに実りをもたらす。」 14節では正義の擬人化表現がまた登場し、「正義が主なる神の前を行進して、主の歩まれる道を備える。」と詠って、詩編85編を閉じるが、9節以降で、イスラエルの民が誤まった行動をしてしまった中にも、力強い神の約束を詠い、静かに神を賛美している。 この詩編箇所を通して、主なる神は現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせてみたい。本日のタイトルは「愚かなふるまいに戻らない。」とし、上記にも、今は広島と長崎の両原爆記念日の間にある、と書いたが、また世界の雲行きがあやしげになってきていることを危惧している。そのような状況におかれている人類に、今日の詩編の9節の言葉から、いかに戦争が罪深く、主なる神の思いからソッポを向いてしまっている、まさに「愚かなふるまい」なのかと思う。 人類は、それぞれ自分の国、あるいは自分の所属する団体なりの「正義」を掲げているが、この詩編12節で詠われているように、「正義」は天から注がれているもので、人類自身から勝手に沸いてくるようなものではないように感じる。「まこと」が萌えいでるという表現があったが、それはあくまで、地に生息する人類に、天から正義の雨が地に注がれるからこそ、「まこと」、真理、がそこに存在しうるのかと思う。「正義」と「平和」が口付けすると詠われていたが、正義と平和が一体であるということなのだと思う。つまり「正義」そのものは、「平和」なのだと教えられているように思う。今日の詩編の最後には、正義が主の御前を行進していて、主の進まれる道を整えているという描写があったが、そこには、主イエスが十字架を担がされて歩いている姿が浮かんできてしまう。主イエスが神の示される正義に従うゆえに。そして、今日与えられた詩編箇所の最初「主は平和を宣言される」は、十字架に架けられても復活し、弟子たちを赦して、「あなたがたに平和があるように。」と語ってくださったイエスの平和宣言をも思い出させてくれる。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は詩編145編8 – 9節および14 – 21節を読む。実は、同じ詩編の8節から14節を7月3日にもとりあげたばかりで、多少、重なっているが、すばらしいところなので、またこの詩編箇所を開いていることに喜びを覚える。 全部で150編ある詩編のなかで、終盤の138編から145編までは特にダビデの賛歌と呼ばれ、146編以降、150編までは、それぞれ「ハレルヤ」ではじまり「ハレルヤ」で終わるパワフルな賛歌で、詩編は閉じられている。そのような詩編の構成の中で、ダビデの賛歌の最後を集中的に読むことになる。いつものように気になる言葉は何かを挙げてみよう。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編 145編 8: 主は恵みに富み、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに満ちておられます。 9:主はすべてのものに恵みを与え/造られたすべてのものを憐れんでくださいます。 14:主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。 15:ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。 16:すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます。 17:主の道はことごとく正しく/御業は慈しみを示しています。 18:主を呼ぶ人すべてに近くいまし/まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし 19:主を畏れる人々の望みをかなえ/叫びを聞いて救ってくださいます。 20:主を愛する人は主に守られ/主に逆らう者はことごとく滅ぼされます。 21:わたしの口は主を賛美します。すべて肉なるものは/世々限りなく聖なる御名をたたえます。 気になる言葉や節はなんだろう? 今日は21節の「わたしの口は主を賛美します。すべて肉なるものは/世々限りなく聖なる御名をたたえます。」を挙げたい。 詩編作者の立場を思って、今週の詩編箇所を読んでいきたい。冒頭にも書いたように、ダビデの賛歌の一部が今日の詩編箇所。 詩編作者はダビデと思っても良いし、ダビデの生涯を良く知る人が、ダビデの生涯を思いつつ、この詩を作ったということも考えられる。 いずれにしろ、ダビデの生涯から、またこの世に命を賜った一人としても、生きている限り「主がすばらしい」と賛美し続けたくなる最たる理由を今日の詩編箇所で詠っているように思う。大きく分けて三つの理由をこの箇所で表現しているように思う。 一つめは、8-9節で、「主がいかにすばらしいか。」 主が恵みに富み、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに満ち、すべてのものに恵みを与え、憐れんでくださっていると詠う。 二つめは、14-16節で「主がいかに養い支えてくださっているか。」 主は倒れそうな者を支え、うずくまっている人を起こし、主に待ち望むと適切に食べ物を与えてくださり望みを満足させたくださる。三つめは、17-20節で、「主がいかに近くにいてくださるか。」 主の道がことごとく正しく、御業は慈しみを示し、主を呼ぶ人の近くにいて、主を畏れる人々の望みをかなえ、叫びを聞き救い、主を愛する人を守り、主に逆らう人は滅ぼされる。 そして、最後の21節は、だから、「私の口は主を賛美します。」と詠い、すべて命を与えられた肉なるものは、代々引き継がれて、聖なる御名を讃えます。という言葉で145編は閉じられる。 この詩編箇所を通して、主なる神は現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせてみたい。 来る聖日、8月3日に与えられている福音書箇所は、イエスが5つのパンと二匹の魚から「五千人に食べ物を与える」話。その話との関係から上記のさまざまな主を賛美する理由のなかで、二つ目に挙げた、主がいかに養い支えてくださっているか。の部分と関係があり、なかでも15節の、「ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。」の一節が浮かび上がってくる。この15節にあらわされている光景は、何千人もの人々のまなざしが、主イエスに向かっていて、そして、イエスが食べ物をとりあげ主に感謝・賛美して、さらにそれを分かち会うために裂き、そして、それらを弟子たちも手伝って、何千人もの人々に分け与えた様子が、15節に表現されていたように感じる。 それは、また食べ物を望んだ時だけではなく、19節に表現されているように、「主を畏れる人々の望みをかなえ/叫びを聞いて救ってくださいます。」にもつながってきていて、主にかしこまって従うなかで、主によって奇跡的に人々が救われることが、この現代においても、教会の活動を通じて起こっていることを思う。 具体的には、説教の話になっていってしまうので、ここには書かないが、要は、主イエスキリストとのわかちあい、そして信仰者同志のわかちあいのなかで、わたしたちの人知にはおよばない、驚くべき御業が遂行されている。 だから、145編の21節にあるように、わたしたちの口は、主を賛美しつづける。この21節は146編から150編の讃美歌につながっているし、また現代の私たちの信仰生活にも直結している。アーメン Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は詩編119編129-136節を読む。119編は176節もある最も長い詩編。22の段落からなるが、それぞれの段落がヘブライ語のアルファベット22文字の順番になっている。2月に三週間にわたってその三つの三段落を読んだが、今回はまた違う段落を読む。 いつものように気になる言葉は何か?詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編 119編 129:あなたの定めは驚くべきものです。わたしの魂はそれを守ります。 130:御言葉が開かれると光が射し出で/無知な者にも理解を与えます。 131:わたしは口を大きく開き、渇望しています。あなたの戒めを慕い求めます。 132:御顔をわたしに向け、憐れんでください/御名を愛する者への裁きに従って。 133:仰せのとおり/わたしの足どりを確かなものにしてください。どのような悪もわたしを支配しませんように。 134:虐げる者からわたしを解き放ってください。わたしはあなたの命令を守ります。 135:御顔の光をあなたの僕の上に輝かせてください。あなたの掟を教えてください。 136:わたしの目は川のように涙を流しています。人々があなたの律法を守らないからです。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は130節の「御言葉が開かれると光が射し出で」。 詩編作者の立場を思って、今週の詩編箇所を読んでいきたいが、今回で4回目となる詩編119編全体について述べておきたい。119編は、構成としては、「ヘブル語版いろはがるた」とも言うべきか、ヘブル語のアルファベット(総数22文字)の各文字ではじまる詩が集まって22段落により構成されている。その内容は、この世の人生でさまざまな困難に会う中で、人生の指針というか、歩むべき道について詠っている。また、詩編作者自身は、生まれ故郷とは違う土地に生きている状況の中でどう生きるかというようなことについて書いているような面がある。つまり、あくまで、この世の人生は、仮宿に生きているに過ぎない、だから旅路にたとえているような面がある。 以上を踏まえた上で、詩編作者の気持ちを想像しながら読んでいきたい。 あなたの定め(詩編の書かれた時代背景から、旧約の最初のモーセ五書に書かれた様々な規定の事を言っていると思う)にはドキッとするような驚きがあり、私の魂は、その定めがあるため、道を逸脱せずに歩むことができる(129節)。 モーセ五書を開くなら人生に迷う者にまるで光が差し込んで来るようで、知識がなかったような者にも、(あなたの思いを)理解するようになる(130節)。 今の私はのどが渇ききってしまい水を求めるように、あなたの戒めを慕い欲しています(131節)。 あなたの御顔を私の方に向けて、憐れんでください。あなたの御名を愛する者たちに、あなたが普段からしているように(132節)。あなたの約束に従って、私の歩みを確かなものにしてください。どんな悪事も私を支配してしまうことが無いように(133節)。私を虐げる者から、救い出してください。私はあなたの命令を守ります(134節)。あなたの御顔をあなたの僕である私に輝かせ、あなたの掟を教えてください(135節)。私の目からは涙が流れ落ちています、なぜなら、この世では、あなたの律法が守られていないからです(136節)。 この詩編箇所を通して、主なる神は現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせてみたい。この詩編作者が言うように、この世の人生は一時的な旅路。日本に住んでいようがアメリカに住んでいようが、いずれは天に還(かえ)る。その旅の途中では、いろいろ指針や決まりごとがあるのだと思う。今週の詩編箇所には、定め、戒め、命令、掟、律法、等々の言葉が出てきたいたが、モーセ五書には600以上ものイスラエルの民が守るべき定めが記された。それはモーセに与えられた神の掟。 モーセが現れてから1000年以上経って、イエスキリストが「神の国は近づいた。」と話されて、この世に現れ、すべての掟は、「神を愛することと、隣人を愛する。」という二つの掟が最も重要であり、すべての律法が、この二つの掟に基づいていることを教えてくださった。21世紀を生きる私たちにとっても、「こうしなければ、あるいはこんなことはしてはいけない。」といろいろなことがあるが、しかし、すべては、「主なる神を愛し、隣人を愛する。」というこの二つに基づいているといえる。「えっ、二つだけの簡単なことなの。」と思われるかもしれないが、そう、実行するのが簡単かどうかは別問題として、たった二つだけの簡単な掟なのだと思う。 そして、イエスは主なる神がいかに、私たち人類を愛してくださっているか、十字架の死と復活を通して顕された。 旧約聖書、新約聖書にある神の御言葉は、私たちを本当に驚かせ、この世でいろいろ悩んでしまう人類に、大きな光を差し込んでくださっている。普段から聖書を開き、日曜には、礼拝で御言葉に触れ、会衆とともに主を賛美、応答するという人生の旅路に、本当に驚きがあり喜びがある。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace