Archive for the ‘牧師説教’ Category

Tweet マタイ16:21-28 主イエスにある希望と喜びが、礼拝堂に集まった会衆の心の中に豊かに注がれますように アーメン Prosperity Gospelという言葉がある。訳すなら、「 繁栄の福音」といえば良いだろうか?いわば金持ち、裕福になりたいという自分なりの目的があってキリスト教を信じるようになる方々がいるのは現実だと思う。 しかし、イエスキリストは、十字架を背負って私に従うように言われた。十字架の大きさにもよるが、十字架を背負って生活していたら、それが金持ちになれるというわけでもなさそうだ。十字架を担ぐということはどういうことなのだろうか?  ペトロが先週の聖書箇所の中で告白していたように、主イエスが救い主、生ける神と信じて生活する事が大きな鍵だと思うが、しかし、それはどういうこのか? 本日与えられている聖書の中で、弟子たちに、十字架を背負って私に従うように話す前に、イエスは、弟子たちに「自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている。と弟子たちに打ち明け始められた。」とある。 イエスの予知能力があるんだ、と読まれる方もいるかもしれない。しかし、よく考えると、イエスが病人を癒し、貧困の中に食事を与え、希望、励ましを与えた。 また異邦人、カナン人の女性の子供ですら、イエスに癒された。 すべての人を神が創造されたものとして、主の憐れみ、愛を施された。  ユダヤの指導者たちは、貧困や病は律法を守らないことや異邦人のように律法を知らない結果であると見ていたような面がある。なので、律法を守ることを最優先にしている宗教的エリートたちにとって、イエスの行為は目の上のたんこぶだった。したがって、ユダヤのエリートたちには、だんだんイエスを殺す動機が強まっていくことは理解できたのだと思う。  しかし、苦しみを受け、死するということだけでなく、イエスは復活を視野に入れておられた。 「復活することになっている。」と話されたことは、これこそすごいと思うかもしれない。 しかし、復活ということも、旧約聖書の中には、たとえば、エゼキエルには枯れた骨の復活の話はあるし、ダニエル書12章などにも、苦しみを受け、葬られ、しかし、立ち上がるというイメージは預言されていたことで、必ずしも驚くべき話でもないように思う。 私は、そのような予知能力に感動するより、もっとほかに感動すべきことがあるのだと思う。それはイエスの生き様がであり、そこに、神の意志だと感じることがある。通常の考えなら、苦しみ、死が控えているとわかったなら、苦しまないように、あるいは十字架に架かかろうとしている原因をよく考え、その原因をとりのぞくように行動する。しかしイエスは徹底的に神と全人類への愛を示す宣教、奇跡を遂行しつづける。それが、人の子イエスの深い父への信仰であり、生ける神で救い主であるイエスの計画実行なのだと思う。  弟子たちには、そのような考えは理解されず、「あなたは救い主、生ける神」と信仰告白した一番弟子のペトロでも、その中には神の目的とは異なる自分なり目的があった。だから「そんなことがあってはなりません。」とイエスを叱責する。しかし、イエスからは、「さがれ、サタンよ。」と、逆に叱責されてしまう。サタンとは、悪魔、人を神から遠ざけるものの象徴。  そして、「私についてきたいものは、自分の十字架を担いで私に従いなさい。」という言葉を弟子たちに与えている。 これは、その当時の弟子たちに話しているだけではなく、今、ここに集まっている兄弟姉妹ひとりひとりにも、「十字架を担いでイエスに従うように。」と言われていることなのだと思う。 どうか皆さん、一人一人、イエスが十字架を担いで歩かれたときのことを想像して欲しい。イエスはエルサレムの街中を、十字架を担いで歩かされた。ユダヤのリーダや市民から馬鹿にされ、辱めを受けながら。 21世紀は、イエスが本当に十字架を担がされた時とは、時代背景が異なる。私たちが、文字通り十字架を担ぐということはないだろう。しかしながら、拷問を受けるとは言わないまでも、イエスの信仰は、物質的な裕福さや、楽な生活を保障するようなものでは決してない。十字架を担いてイエスに従うということ、たとえ困難の中にあろうが、あるいは、どんな困難が訪れようが、イエスが救い主であり生ける神であるという信仰を持ち続けるということではないだろうか。  スライド紹介 ここでフランスの画家、ジャンフランソワミレーの「馬鈴薯植え」という一枚の絵を分ち合いたい。この絵にはいっさい十字架は描かれていないが、私は「十字架を担いでイエスに従う。」ということと関係があるように見える。この絵は実は約30年に渡って、私たちの家の居間にいつも掲げられてきた。私たちの結婚式の司式をしてくれた牧師夫妻が私たちに贈ってくださった。絵に描かれた雲は、今にも雨が降ってきて、嵐がおき、洪水すらおきかねないような天候であるかのように感じる。にもかかわらず、この絵に描かれた若夫婦は畑を耕し、ジャガイモを植え続けている。この絵の裏に、牧師が次のような言葉を書き残してくださった。「明日が世の終わりでも、今日、二人で地を耕してください。主の栄光のために。」 私はこの礼拝堂に集められた兄弟姉妹が、今、真のキリストの弟子となられていることを覚える。私たちは、なんらかの形で、苦しみを体験してきたか、これからも体験することがあるのだろう。 しかし、神の恵みと愛は、私たちの信仰をますます強くしてくれる。 今日、イエスは、私たちに、神の最終的な判断を信じつつ、目先の利害に振り回されないように教えてくださっている。 キリストの弟子とし、私たちは父・子・聖霊なる生ける神、救い主イエス、をひたすら信じ、神の意志に従って、イエスの愛を周りの人々と分かち会って生きてゆく。 神の恵みにより、私たちには復活の命、永遠の命の中におり、天の御国(約束の地)にて、真の朽ちることのない富が与えられる。 アーメン  安達均 What Does “Take Up Your Cross” Mean? Matthew 16:21-28 May the hope and joy of Jesus Christ be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary! Amen. Have you heard the phrase, “Prosperity Gospel?” There are actually people who become Christians or attend certain churches focusing on becoming wealthy. These people are following their own agenda and not living in a way that glorifies God. Jesus said, “Take up your cross and follow me.” Well, if you live your life literally carrying a cross, I do not think you will earn lots of money. What does it mean to take up your cross and follow Jesus? I think the key is believing, as Peter confessed in the Scripture we read last week, that Jesus is the Messiah and the living God. How should we live, in this world, when we take up our cross and follow Jesus? Today’s Gospel text details Jesus’ foresight of his suffering, death, and resurrection. Before Jesus taught his disciples to take up the cross, he mentioned that he would undergo great suffering at the hands of Jewish leaders, be killed, and be raised on the third day. For us, readers of the Bible, 2000 years after Jesus foresaw his own death and resurrection; we might be impressed by Jesus’ predictive ability. But let’s think about the context when he predicted this. Jesus was miraculously healing…

Tweet マタイ 16:13-20    主イエスキリストの恵みと平安がここに集まった会衆の心の中に、豊かに注がれますように! 私たちはよくイエスキリスト、英語ならJesus Christという呼び方をする。 あるいは日本語ではキリストイエスということもある。そうすると、外国人の名前だからキリスト、Christは苗字/Last Nameで、イエスが名前/First Nameだと思っている方もいると思う。 しかし、実際はそうではない。Jesusは名前であっているが、キリスト、Christ、あるいは、新約聖書の原語、ギリシャ語ではXristosあるいは、イエスと弟子たちが使っていたヘブル語では、Messiahで、旧約聖書の中で使われたこの言葉は「油注がれた者」という意味。神が世に送り平和をもたらす救い主という意味だ。 だから、イエスキリスト、Jesus Christと言ったときは、「救い主イエス」という意味のことを言っている。そして、キリスト教という宗教の名前になっているが、その意味は「救いの教え」とか、「世を救う宗教」という意味が、私たちの信仰にはあるのだと思う。 しかし「世を救う宗教」と言ってしまうと、どう感じられるだろうか。日本の新興宗教に世界救世教というものがあるが、なにか信仰宗教と勘違いされてしまうような面もあるように思う。そこで、救い主であるイエスという方について、もっと掘り下げて思いを巡らす必要がある。今日の聖書箇所は、イエス自身が私たちにせまってきているようなとても大切な箇所。 イエスと弟子たちは、先週はティルスとシドン地方という異邦人地域を旅していた。今週も異邦人地区といってよい、フィリポ・カイサリアという地域を旅している時の話。これはガリラヤ湖の北方40キロ近辺の都市。ユダヤ教の影響はうすく、ローマの宗教や土着の宗教が混在しているような場所であったと思われる。そのような環境で、イエスが弟子たちに質問する。 まずイエスは弟子たちに「世の人々は、人の子(イエス自身の意味)を何者だといっているのか?」という質問をした。それに対して、弟子たちが、洗礼者ヨハネとか、預言者の一人だとか返答をした。 その後、ずばり、イエスは「じゃ、あなた方は、私のことを何者だというのか?」という質問を弟子たちにしている。 これは、第三者的の話をすればよかった第一の質問とは全く異なり、これまで直接話して、また行動を共にしてきた弟子たちから見て、イエスは何者なのか、弟子たち自身の応答を求めた質問だ。 それに対してペテロが、100点満点の返答をしたといってよい。「あなたはメシア(世の救い主)、いける神の子です。」と返答する。その回答を聞いたとたん、イエスは、「あなたは幸いだ」と言われ、直後にイエスの言葉で、大きく分け三つの事を話している。 最初に「あなたにこの事を顕したのは、人間ではなく、天の父だ。」イエスがメシアだという正解を言えたからといって、思い上がることないようにという意味がこめられていたように思う。また、後のペトロの勘違い(来週述べる)や裏切りのこともイエスはわかっていて、まだぺトロがイエスを救い主だとは信じきれていないこともお見通しなのではなかったのだろうか?  二つめのコメントが続く。「ペトロはヘブル語でケファで、岩とか石の意味。私はそのペトロの上に教会を立てる。」 教会が建物であれば、岩や石が土台というのはよくわかる。しかし、それは比喩であり、キリスト教会の土台は、イエスが救い主という信仰が土台になるんだよ、ということをイエスはおっしゃりたかったように感じる。 最後のイエスの言葉は、「あなたに天の国の鍵を授ける。地上でつなぐことは天でもつなぐし、地上で解くことは天でも解かれる。」 ここで、イエスはペトロに物理的な鍵を渡したわけではない。これもやはり比喩で、イエスを救い主、生ける神とする信仰が、地上と天国をつなぐことになる。つまり、この地上が天国にもなり得る。それは、鍵が開けたり閉じたりするように、地上が天国のようにもなり、またそうでない時もあるという意味合いがあったように思う。 さて、今日の福音書、イエスと弟子たちの会話からはじまって、さらにイエスとペトロの会話に集中した話、私たちに何を迫ってきているのだろうか。イエスは弟子たちにした「じゃ、あなた方は私を何者だというのか?」という質問は、生ける神、イエスが、現代の私たちにも、質問しておられるのだと思う。  いかがなものだろうか? 私たちとイエスの関係を振り返ってみてはどうだろうか? わたしたちは、ペトロが「あなたはメシア、生ける神」という告白をしたのと似ていて、洗礼を受けるときには、父と子イエスと聖霊なる、唯一の生ける神を信じてキリスト教徒となっている。  しかし、私たちは、完璧ではない。洗礼で信仰告白をしても、また、毎週毎週、信仰告白をしても、実は、疑いが生じ、神様からソッポ向いて普段の生活をしてしまったりする時がある。土台である信仰のゆらぎというものが出てきてしまうのだと思う。 しかし、その信仰ががたついてしまうような私たちでも、生ける神、主が私たちを事実として、教会に招いてくださっている。 それは、そのような私たちを礼拝中の主イエスとの関係の中で、憐れみ、赦し、大きな愛を持って、霊的な糧をくださり、だいじょうぶやりなおせるよ、永遠の命に生きているんだよ、と語りかけ、希望と喜びを持って、世に送り出してくださることがおこる。希望は不安悩みに対する最高の武器。  2000年前、主なるイエスが世に来てくださったということは起こった。そして主の聖霊がずっと臨在してくださっている。かといって、イエスの再臨は起こっておらず、この世はある意味、中途半端な状態。 多くの闇の部分を抱えている。現代の世の中、神の国は来た、でも完全に来たわけではない、という時代が2000年続いている。  そのような中で、イエスの信仰、十字架にかかって葬られても復活なさるイエスご自身が、どれほど、わたしたちの困難や重荷の支えになっているか、はかり知れないものがある。いろいろな不安や悩みを抱えていようが、主にある希望と喜びを今、新たに与えられて、あらたな1週間を歩みだそう。アーメン “Who is Jesus?” Matthew 16: 13-20 May Grace and Peace from Jesus Christ be richly poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary! We often say, “Jesus Christ” during worship. To ears unfamiliar with worship practices, Jesus sounds like a first name and Christ sounds like a last name. But of course, this is only partially correct. Jesus is his first name, but Christ is not his last name. “Christ” whether in English, Greek or Hebrew is a title. “Xristos” is Greek and it means “Savior.” In Hebrew, it means “Messiah.” In the Old Testament it means “anointed” and in the New Testament it means someone sent by God who saves the world and brings peace. Therefore, when we say the words “Jesus Christ,” it means “Jesus, the Savior.” From the title “Christ,” we get our religion’s name “Christianity,” which means something like “religion that saves the world” or “teaching of the savior.” However, if we call Christianity the “religion that saves the world,” this doesn’t sound very different from many other religions. This general description causes many people, especially Japanese people, to question Christianity because it sounds so similar to other religions. Therefore, we need to think more deeply about Jesus, the Savior and I believe today’s Gospel text is wonderful because it makes us think about the relationship between Jesus, his Biblical disciples…

Tweet マタイ 15:21-28 主の恵みと平安が集まった会衆に注がれますように! 79年から80年ごろに大ヒットした曲で、「異邦人」という曲がある。シンガーソングライターで歌っていた歌手の名前は、久保田早紀さんという方。 音楽専攻の大学生だった彼女に、突然と歌詞とメロディが浮かんできて、異邦人を作ったらしい。ちなみに、彼女はクリスチャンではなかった。大ヒットした「異邦人」はメロディはやや暗い感じ。歌詞の内容は失恋。  ある人を好きになったらしい、片思いであり、彼女の思いは彼氏から振り返られなかったという哀しみの歌。とにかく聞いてみよう。(演奏)  一番の歌詞の終わりは、「あなたにとって私、ただの通りすがり。ちょっと振り向いて見ただけの異邦人」 と歌う。 そして、二番の歌詞の終わりは、「あとは哀しみもて余す異邦人、あとは哀しみもて余す異邦人」とくりかえし、「哀しみだけが残る」という歌詞。  さて、久保田早紀さんの話をしたところで、福音書の内容に入っていきたい。しかし、今日の福音書の前半部分は、福音と言えるのかどうか、考えてしまうような内容。 聖書の箇所、最大のフォーカスはイエスと異邦人との関係。イエスはユダヤ人だった。そして、登場している女性はカナン人。  イエスと弟子たちは、ティルスとシドンに旅をする。 そこはイエスと弟子たちにとっては、あきらかに異邦人の町。そして、登場するカナン人女性もイエスにとっては異邦人である。  その彼女には、ひどい病にかかった娘がいた。彼女には、もう頼るべき人はいなかった。そして、ガリラヤ湖周辺で多くの人々を癒し救っていたイエスのうわさを聞いていたのだろう、彼女はイエスに頼めば助けてもらえると必死になってイエスに会いに行く。 そして、イエスとその弟子たちを見つけ、ついて行き、次のように言う。「主よ、娘が悪霊に苦しめられています、この私を憐れんでください。」とお願いする。しかし、イエスは、なにも応えない。 それどころか、弟子たちからは、「この叫びながらついてくる女を早くおいはらってください。」とまでせかされてしまう。  そしてイエスは、はじめて言葉を彼女にしゃべる。「私は迷う羊、イスラエルの民の元にしか遣わされていない。」いったいイエスは何ということをおっしゃるのだろうかと思ってしまう。しかし、彼女はイエスを拝み、「主よ憐れんでください。」と嘆願する。  それで、イエスは2回目の返答をする。「子供たちのパンをとりあげて、犬にやってはいけない。」と。。。 何という発言だろうか? 子供たちとは、イスラエルの民のこと。そして、子犬とは異邦人のことを指す。 差別発言とも言えるかもしれない。 しかし、イエスに頼るしかない女性の現実があった。それこそ、ここであきらめてしまっては、悪霊にとりつかれた娘との生活は、哀しみの連続に陥るしかなかった。そこで、彼女はイエスの言葉を逆手にとり、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」という。 どうしようもない状況に追い詰められていた彼女には、異邦人であろうが、主の憐れみ、主の救いは、受けられるはずだという強い信念、ゆるぎないイエスへの信仰が彼女の中に確立されていた。 そして、イエスは、最初は無視した上、二回目も、ひどいと思われてもしかたのないような言葉を言われたのに、彼女のゆるぎない信仰告白を聞き、180度態度を変えられる。そして、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と言われ、その時点で、娘の病が癒されるということが起こる。  さて、この話、今日私たちに、神は何を語っているのだろうか。イエスもユダヤ人、弟子たちもユダヤ人というグループで行動しているなかで、イエスも含めて、まず、福音、神の救いは選民と言われるユダヤ人に与えられるという考えがあったことは事実なのだと思う。  しかし、同胞たちへ、「神の国は近づいた。」といって伝道しても、ユダヤの指導者たちや、イエスの子供時代から知る人々への伝道は難しかった。 しかし、優先順位が低いと思っていた、異邦人の中に、イエスの救い主とする信仰を表すものが登場してきた。 今日の福音書にあった、カナン人の女性や、ヨハネ4章にある、サマリア人女性も、イエスを救い主とした。  長い歴史で見るならば、ユダヤ人の数を上回る、とてつもない数の異邦人たちがイエスの信仰者となった。 ユダヤ人からはじまったキリスト教会であるが、異邦人であろうがユダヤ人であろうが絶対なる神、主イエスからの救いを受けられるという信仰が確立し、それがユダヤ民族から始ったキリスト教会を様変わりさせたということが言えるのではないだろうか。  先週の金曜には、第二次世界大戦が終了して69年が過ぎ、70年目にはいった。しかし、異国間、民族間の間で戦争が繰り返されている事実がある。 異国で育った人々と、また異なる民族と、どのように接するか。 自分とは異なる国や文化で生まれた育った人々と、どうつきあうか、また異なる宗教を信じる人々と、どうつきあうかは大きな課題である。今一度、異邦人であろうが、主の救い、憐れみを受けられると確信したカナン人女性の姿に学べるところがあるのだと思う。 最後に最初に紹介した、久保田早紀という女性について、もう一言述べておきたい。日本人の彼女からは、異邦人が大ヒットした後は、これといって、ヒット曲は聞かなかった。しかし、最高のGood News 、3年後には、彼女自身がイエスから見れば異邦人ではないということに気づいた。そしてキリストを救い主として受け入れ、洗礼を受け、クリスチャン歌手としての地道な活動をしているそうだ。  この世の中に、失望してしまうようなニュースがたくさんあるが、しかし、父と子と聖霊なる唯一の神が、国籍、民族、文化にかかわらず、私たちを救いだしてくださる。 主イエスキリストにあって、私たち異邦人は、異邦人だからといって、主の愛が受けられないということは全くない。民族や国籍にかかわらず、イエスの信仰を通して、主の憐れみを受け、喜びの人生を歩むことができる。私たちは決してイエスからみて外国人だから関係が無いとか、キリスト教は外国の宗教だということではない。 日本人にも世界のどこに住むどこの国籍の方々にも、主にある平和をひたすら願い祈りつつ。アーメン 安達均 “Despite Being A Foreigner” Matthew 15: 21-28 May Grace and Peace be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary! About 35 years ago, in Japan, there was a great hit song called “A Foreigner” by singer songwriter Saki Kubota. At that time she was a music major in college and was not a Christian, FYI. The story goes that the poem and melody suddenly came to mind and she wrote this song. This is a sad tune and is a song of heartbreak. Let’s listen to it: (first 2 minutes only. https://www.youtube.com/watch?v=Xo7bTmN6THw ) Although the girl loved a guy, it was one sided and her love was not returned by him. The last line of this song is “when you told me I am just a foreigner.” From here, I want to talk about the Gospel today but I am not sure if the first half of the Gospel text is really good news or not. For me, the focus of the story is the relationship between the Gentile woman and Jesus. Jesus and the disciples were traveling around the regions of Tyre and Sidon. These regions were obviously foreign to Jews. The Canaanite woman, a foreigner to Jesus and the disciples, appeared before them. Her daughter was possessed and tormented by a demon; as a mother she was desperately concerned about her child. There…

Tweet マタイ14:13-20 ここに集まりました会衆の上に、また、今日この礼拝に来れない兄弟姉妹の上にも、聖霊の導きにより、主イエスの力、パワー、をさずかりますように! アーネストゴードンはスコットランド出身のイギリス軍の司令官だった。第二次世界大戦中、インドネシア、マレーシア、シンガポール、フィリピン等に参戦したが、シンガポールが日本に占領されたのを機に、スリランカに逃げようとした。 しかし、逃げる途中に乗っていた船が日本軍につかまり、捕虜となった。 そして捕虜の一人として、泰面鉄道の建設に仕える労働者として働かされることになる。 泰緬鉄道とは、タイとビルマ(現在のミヤンマー)を結ぶ鉄道で、わずか2年たらずで完成した。しかし、6万人の捕虜たちと18万人のマレーシア、タイ、インドネシア等から強制的に集められたのアジアの労働者たちが働き、そのうち、1.2万人の捕虜ならびに9万人の労働者たちは亡くなったと伝えられている。 この泰緬鉄道は、死の鉄道、Death Railway、とも呼ばれる。日本人による捕虜たちの扱いは、残酷で、アーネストも拷問を受け、栄養失調、熱帯性の潰瘍、そして、盲腸炎も患うことになった。そして死を待つだけの収容所に送られた。死の収容所では、人々はただ死を待つだけの日々であった。  アーネストゴードンの話は、またメッセージの後半に触れたいが、ここで、今日の福音書の内容に入りたい。 今週与えられている聖書箇所は、「イエスはこれを聞くと」という言葉から始まっている。イエスは何を聞いたのだろう? 今日の箇所の前の段落、マタイ14章の最初に描かれた様子を簡単に説明するとイエスの幼馴染、洗礼者ヨハネが首を切られ、ヘロデ王の誕生会の席上、その頭を持って来られて、見世物になるという悲惨な出来事が起こった。そのことを、イエスは聞かされた。 イエスの悲痛な思いを想像して欲しい。胸を引き裂かれるような思いにかられたのではないだろうか? イエスは、ガリラヤ湖で船に乗り、人里離れたところで一人になり祈る。 ところが、病人を癒したり、目の見えない人を見えるようにしたイエスのことを聞いていた群衆がイエスを追ってきた。その群集は数は、男性の大人だけでも5000人。 イエス自身も本当に悲しい思いの中にあったが、同時にイエスは、追ってやってきた群集の病に苦しみ、そして飢えている人々への思い、愛に満ち溢れている。  弟子たちは、群集を解散させ、勝手に自分たちで食べ物を買いに行くようにしてはどうかとイエスに提案するが、イエスは弟子たちに、「あなたがたが食べ物を与えるように。」という。 弟子たちは「そんなことはできっこない」と思い、「パン五つと魚2匹しかありません」と叫ぶ。 しかし、その直後のイエスの御業を見て、考えが変わったのではないかと思う。 イエスは群集の前で、五つのパンと二匹の魚をとりあげ、賛美し、それを裂き、人々に与えた。 神に賛美することと、みんなで分かちあうことで、空腹だった5000人もの人々を、たった魚2匹とパン5個から、満腹にされる。 5000人という数字は大人だけなので、配偶者や子供もいれれば、おそらく2万人とかの人々が、いたのではないかと思う。 正確な人数が問題ではなく、そこに臨在される神の御名において、主イエスとの分ち合い、さらに、人々との分ち合いの中で、この奇跡は起こった。   ここでアーネストゴードンの話に戻りたい。アーネストゴードンは死を待つだけの収容所へ移動したが、そこで、二人のクリスチャン、ダスティミラー(メソジスト)とディンティモーア(ローマカトリック)の看病を受ける。同じく捕虜だったが、親身になって、アーネストの面倒をみて、立つことすらできなかったアーネストは、歩けるようになり、死の収容所からは奇跡的に出られることになる。 奇跡はアーネストに起こっただけではなく、キリストの愛に基づく二人の行動が、他の捕虜たちの行動がより仲間で助け合うようになった。また、何人かの日本軍将校たちの行動すら変化させていった。 さらに奇跡的ともいってよいことがおこった。彼らは、竹をきって竹やぶに囲まれたスペースを作り、その中に竹で聖壇をつくり、また十字架とランプも作って聖壇の上に置いた。  主イエスの体である教会は、どんなところにだって出来る、それが、想像もできなかったようなところにも。 キリストの愛があるところには、聖霊も存在しており、キリストの存在もある、なぜなら二人かそれ以上の人数でイエスの御名のもとに集まるところには、キリストがおられる。キリスト教を禁止するような日本軍の管理下にあったにもかかわらず、主の礼拝が実現し、多くの兵士たちに癒しと慰めが与えられ1943年のクリスマスには、約2000人もの人々が礼拝を守った。アーネストは第二次大戦終了まで生き残ったが、POWの経験は、彼の中の信仰心を強め、長老派教会の牧師に導いた。 私はこの話を、アーネストゴードン氏が書いた「クワイ河の奇跡」を元にかかれた日本の記事から主に学んだ。絶望の淵におかれたところに、キリストによる希望の教会が立ったともいえる。どんな劣悪でみじめな環境の中においても、そこにイエスキリストの聖霊との愛の分かち合い、また人々との愛の分かち合いが起こるような環境の中で、奇跡が起こるのだと思う。。 そして、現代においても、奇跡が起こっているのだと思う。マレーシア航空の事件にしても、イスラエルで起こっていることについても、まるで世の終わりかとも思えるようなことが起こっている。しかし、その中にイエスを分かち合い、信仰を分かち合う人々の間に神のパワーが与えられていることを信じる。 またみなさんの中にも、まるで死の谷を歩いていたような人々がいるかもしれないが、教会につながることが、すなわち神とのわかちあい、また人々とのわかちあいが絶望の中にパワーを与え、慈しみ、愛、希望、喜びが与えられる。そしてキリストの体の一部である復活ルーテル教会につながる中で、私たちも神が意図する偉大な出来事を成す。アーメン 安達均 “The Power of Being Connected To Church”3 Matthew 14: 13-20 May the Grace and Peace of Jesus Christ be poured into the hearts of the people gathered in this church! As a Japanese person, quite honestly, it is difficult for me to talk about this. However, with the help of the Holy Spirit, I would like to talk about Ernest Gordon’s remarkable story. Some of you might have heard about Ernest Gordon’s story from the movie “To End All Wars.” Ernest Gordon was a Scotsman who was a Commander in the British Army. He served during World War II (WW II) in campaigns including the Malaysian, Indonesian, Singaporean, and Philippine campaigns. After the fall of Singapore, he and other British officers tried to escape to Sri Lanka. However, his fishing boat was captured by a Japanese ship; his group was captured and they became POWs. He was part of a forced-work group that was tasked with constructing the railroad between Thailand and Burma. The railroad connected Thailand and Burma and was completed in less than two years between 1941 and 1943. Sixty thousands of POWs and 180 thousand workers from Malaysia, Thailand, and Indonesia were forced to work like slaves, and almost 90 thousand local workers and 12 thousand POWs died due to malnutrition, torture and disease. Ernest Gordon, in addition to torture, (at various times) suffered from beriberi, malaria, tropical ulcers, and underwent an…

Tweet マタイ 13:31-33, 44-51 主イエスキリストの恵みと平安が集まった会衆の一人一人の心の中に豊かに与えられますように! グーグル社と自動車会社各社は、ロボットカー(英語ではDriverless Car)の開発にしのぎを削っており、すでに試作車が走っている。日本政府も2020年にはロボットカー実用化、つまり認可を目指しているらしい。 このロボットカーが実用化されると、どういう社会になっていくのだろうか?たとえば、ブレイクを迎えに行くOCTAはすべて自動化された車。あるいは、ブレイク自身が特別車両を自分で操作して、車いすのまま乗り降りして、自分で礼拝に来ることも現実になるように思う。いそいろ想像は広がっていく。 人間の運転よりロボットの運転の方が安全かつ効率もよく、交通渋滞は緩和されたり、高速道路などの制限スピードはあげてもよくなり、移動に要する時間は早くなるのかもしれない。 しかし、トラックにしろ、バスにしろ、タクシーにしろ、運転を職業としていた人の職種は激減していくのかもしれない。 古い仕事が、やりかたがどんどん変わり新しい仕事に変わって行くということは歴史上起こってきた。19世紀には馬車や荷車の運転手はいただろうが、自動車の運転手はいなかった。今から数十年後には運転手はほとんどいなくなるかもしれないが80年前はいなかったソフトウェアの技術者は、膨大な人数に増えており、今後む増えるだろう。そのほんの一部が車の自動運転ソフト開発の仕事ということか。 さて、今日の聖書は、天の国のたとえ。天の国というと、人間が死んでからの世界と思われるかもしれないが、マタイの語る天の国とは、神の国とも同義であり、神が王となって支配する国をいろいろにたとえている。 今日のメッセージはいろいろと想像力を膨らませながら聞いていただければと思う。 最初は、神の国を、からし種と、パン種(イースト菌とかふくらし粉)にたとえている。もちろん、イエス様誕生の最高のニュースは、イスラエルという小国で起こったが、キリスト教は、世界中に知れ渡るということを示唆している面もある。 また、英語ではGood things come in small packages. という諺があるが、文字通り「高価なものはその包みが小さい。」あるいは少々異なる訳をするなら「小さいものはあなどれず、驚かされる」という意味にもなるかと思う。 しかし、私はからし種から成長した木には鳥が来て巣をつくるという話には、まるで価値が無いものとされてしまうような鳥ですら、ちゃんと神が守り巣を作る場所が与えられるという面が重要だと思う。また、ぱん種の話は神が創造して命をたまわったものに、十分な食べ物が供給されるというイメージを浮かぶ。 つまり神の国には、ホームレスには住む場所が与えられ、食べ物に困る人に、豊かに食べ物が与えられる社会。 次のたとえでは、畑を借りていた小作農民が畑仕事をする中で宝を見つけ、畑ごと買う話がある。生活に貧窮している小作農民が畑を買えるという考えは希望に満ちている。また、宝だけを買うのではなく、畑ごと買う。畑という土地の方が高そうに思うが、土地よりもっともっと、高い価値のものがそこにはある。そして、その小作農民は、小作ではなくなって、自作農民になるのか、その宝でまったく違うすばらしい仕事に従事するのかもしれない。 次のたとえでは、商人がものすごい高価な真珠を見つけるたとえ。その真珠は、商人がいままで稼いできた資産をすべて売り払ってでも買うようなものすごい高価なもの。無一文になっても、その高価な真珠だけで生きていく。神の国のたとえに出てくる真珠とは、物理的な何かの物体なのだろうか?この商人も、いままでと同じような商人ではなく、まったく違うすばらしい仕事をすることになるのかとも思う。 神の国は、漁師の網にたとえられる。網にかかる魚は、いろいろ、良い魚も悪い魚もかかる。 これは先週の良い麦と毒麦のたとえに似ているが、ポイントは、その網にはどんな魚も招かれている。 天の国は、良い人間も悪い人間、罪深い人間、神にそむいて生活していた人間も招かれている。 また、良い魚と悪い魚をよりわける天使の存在がある。 そのよりわけは人間の仕事ではない、神が遣わす天使の仕事。これらのことを学んだ弟子たちは、新しいものと古いものの両方が入った蔵から、新しいものも古いものもとりだす主人、つまり主なる神に似た存在になってくるらしい。 新しいものとふるいものというのは、イエスは何を語っているのだろうか? 旧約聖書と後の新約聖書を指しているともいえないだろうか。つまり、両方の御言葉を蔵にしまっておかずに読むように。 網と蔵のたとえの意味するところは、良いものも、悪いものも、ユダヤ教徒もユダヤ教徒ではない異邦人も、どんな罪や恥のある者だって、どんな人種や文化の人間だって神が王である国に招かれている。しかし、主の裁きもある。その裁きに対して、恐怖心をいだいて生活しなさいということではない。なぜならイエスが十字架に架かって罪を赦してくださるから。むしろ、網の中で、人類をこよなく愛している主なる神に気づかされ、神に似て創られた人間が、どう神の愛に応答して生きるかが問われているのではないだろうか? 六つのたとえから神が支配する国のいろいろな認識がわいてくる。私が話したこと以上に、ここにいる皆さんの心の中に、いままで思いつきもしなかったいろいろな神の国の考えが沸いてきたのではないかと思う。 それらの考えが、私利私欲に満ちたものではなく、すべてを捧げられ、十字架にかかって死にて葬られ、復活するというイエスの生き様につながっていること、また、イエスの教え、主を愛し、隣人を愛する、につながっていることがとても重要なことなのだと思う。 今日、新たな日曜があり、新しい1週間がはじまった。 それに伴い、私たちは神の国に近づく。イエスの教えに従って、主を愛し、隣人に仕える中で、社会は変わって行く。今日与えられた神の国のさまざまな認識に感謝し、また私たちがキリストの体の教会の一部であることに感謝したい。イエスが、慈しみ、希望、平安を私たちの心の中に注いでくださっている。そして、私たちはそれぞれ、イエスの望まれるように、喜んで行動できる。アーメン 牧師 安達均 “Is This What The Kingdom of Heaven  Like?” Matt. 13:31-33, 44-51 May Grace and Peace of the Lord, Jesus Christ, be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary! Google and many auto companies are working very hard to develop driverless cars. I heard that some test cars are already running in some cities in the United States. In Japan, according to a governmental study, it is forecasted that by 2020 driverless cars will be commonplace. What will the society be like when driverless cars are an everyday means of travel? For example, Blake may not need to call OCTA and he might get his own specially-designed disabled car. He would get into it by himself while seated in his wheelchair and come to church or go grocery shopping without anyone’s help. The possibilities seem endless… The driving capability of driverless cars might be more accurate and efficient, therefore traffic jams may be reduced and speed limits may increase on designated freeways if most cars are driverless. However, bus, truck, and cab drivers may be unemployed. There might not be the need for certain professional drivers in the future. Some professions may be phased out and new professions will appear, this has happened throughout history. For example in 19th century, there were no professional car drivers but there were expert horse and wagon…

Tweet マタイ 13: 24-30, 36-43 主イエスの恵みと平安が会衆の上に豊かに注がれますように! バイキングという言葉を聞いて何を思い浮かべるだろうか? 70年代に日本で中学高校時代を過ごした私としては、まず、バイキング料理、食べ放題を思い出す。 私は男三人兄弟だったので、バイキング料理は本当に楽しみだった。 もともとバイキングは8世紀から11世紀位に南部ヨーロッパ地方、イギリスやロシアにも進入、略奪を繰り返した盗賊で北方ゲルマン民族の総称。スカンジナビア半島を本拠地としていたようで、現在のノルウェー、スウェーデン、フィンランドあたりに住んでいた民族。盗賊だったので、食事も豪快だったのではないかと思う。 そんなことから、バイキング料理が食べ放題の食事という意味にもなったのかと思う。  そのヨーロッパでは海賊・盗賊行為をしていたバイキング族は、南方のキリスト教徒からは敵対視されたが、海賊は伝道者に変っていったようだ。 そして、ヨーロッパ北方への布教にたいへん貢献をしていったという伝説がある。しかし、本当にバイキング族は、海賊とか盗賊と呼ばれなければならないほどの悪者だったのだろうか?  与えられた聖書、良い麦と毒麦の話、どんな風に読まれた(聞かれた)だろうか? この世の悪はいつかは裁かれるというメッセージと思った方もいるのではないだろうか。道徳的・教育的観点からそのような解釈も良いのだと思うが、それは救い主イエスの話のポイントだったのだろうか? たとえ話の中で、良い麦と悪い麦の芽もまじった状態で生息しており、僕たちが、毒麦の方は抜いてしまいましょうか? と主人に尋ねるが、良い麦まで抜いてしまうかもしれないからどちらも育つままにしておくようにと言われる。 裏を返せば、本当は、どれが良い麦で、どれが悪い麦だか今はわからないということが言えるのではないだろうか? あるいは、人間がこれは毒麦だと思っても、それは、神の目から見て、毒麦ではなく、良い麦になっていくことだったありうるということではないだろうか?  本日の第二日課は、先週に引き続きローマの信徒への手紙8章。先週も話したように、使徒パウロが残したすばらしい箇所。しかし、使徒パウロという人は、もともとはキリスト教徒を迫害していた人間。また、8章の前の7章にはどんなことが書いてあるかご存知だろうか? パウロはキリスト教に回心してからも、ローマ人への手紙の7章には、こんな言葉を残している 「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」 パウロは回心し、キリスト教徒となり、世界最大のキリスト教伝道者となったともいえる。しかし、彼が晩年に書いたローマの信徒への手紙の中で、7章に残した言葉は、彼自身の中に存在している罪を認めていて、いわば毒麦の要素が残っている、自身の欠陥を著しているのだと思う。 さらにイエスのたとえ話とパウロの言葉を参考にする時、今日、私たちは何を学んでいるのだろうか?この世の中、良い麦と毒麦両方とも存在しているのが事実なのだと思う。また、一人一人を見ても、同じ一人の人間なのに、良い面と悪い面を両方があるとも言えるのだと思う。つまり、わたしたちのだれが良い人で、だれが悪い人とも断定できない。  21世紀を生きる人間として、現代の毒麦とはなんだろうか? 先週は、マレーシア航空機が撃墜され、約300名の民間人が死亡する悲しい事件が起こっている。それこそ、一概にすべてが毒麦とは言えないのかもしれないが、さまざまな国々、グループ、テロリストが武装化に動いている。憲法解釈の問題も関連があるが、日本だってその例外ではないのだと思う。また物質主義とか、人種差別にしても、悪い麦がはびこっている社会が現実にあるのだと思う。その社会の中にキリスト教会もおかれている。  そして、教会に集まる人々の中にも、軍につとめている、あるいは軍に納めるものを開発・販売している方々がいるのも現実。あるいは、コンシューマリズムにのっとって、教会も同じように考えてしまい、さまざまな教派や無教派教会が南カリフォルニアに存在しているのが現実で、さまざまな選択がある。したがっていろいろな教会を比べ、駐車場がどんなか、礼拝堂が新しいかとか、集まっている人々、聖餐式の形や、牧師の説教のスタイルや内容によって、さまざまな要因を考え、そして、どの教会に行くかを決断する。  それが必ずしも私利私欲に満ちた考えだというわけではなく、私たちは良きにつけ悪きにつけ、決断をせまられる。人々はさまざまな事柄、宗教も含めて、異なった意見、それが、議論になってしまうことを含めて様々な異論が出てしまう。そして同じ一人の人間の中にも、かたや完璧な性格をお持ちの方かと思うと、その同じ個人がとんでもない間違い、恥をさらけ出すこともあるという矛盾が存在するのが現実に起こる。マルチンルターは、わたしたちは、キリストによって聖なる者とされているが、同時に、また罪人なのだだということも言っている。 社会においても個人においても、良い麦、毒麦が共存しているのが現実。そのような現実の中に、私たちの慈しみ深い神がこの世の人々を愛し、一人一人を気にかけている。救い主イエスは、私たちの間に、そして、私たちの中に存在してくださる。その主を見ることができなくても、その存在を感じることができる。最初に話したバイキングの人々の話に戻りたいが、彼等は海賊・盗賊だったと述べたが、そのように言われなければならないほどの悪人だったのだろうか? 最近の説は、海賊とか盗賊というより、商売にも航海術にも長けた商人だったという歴史家もいる。私は彼等の中に良い面と悪や罪も同時に存在していたのだと思う。 バイキング族は、南方のキリスト教徒たちと交流するうちに、自分たちの罪があらわになり、そのような自分たちをも、この上なく愛してくださっている、絶対的な神の存在、主なるイエスの存在がわかり、キリスト教徒となり、最高の知らせを人々に伝えるようになっていったのだと思う。  キリスト教徒になるということは、自らの行為や言動の中の恥とか罪を認めることがまず第一にあるのだと思う。しかし、そのような面があるにもかかわらず、イエスキリストを通して、神が赦し、この上なく大切に思ってくださっている神の愛に気づく、そして、救い主に応答し、神を賛美し、良き知らせを分ち合い、世に仕えてゆくのがキリスト者だ。 主なる神が引き続き、この世の中に、聖なる霊と無条件の愛を送ってくださり、そして、人々が、自ら、神と社会に応答し、すばらしい神の愛の種まきをし、奉仕する生活を歩めますように。 安達均  “Can Weeds Become Wheat?”  Matt. 13: 24-30, 36-43 May Grace and Peace be upon you in the name of our Lord Jesus Christ! When you hear the word “Viking”, what do you think of and what images come to mind? During my middle school and high school years in Japan, in the 70s, I remember some restaurants that offered “All-You-Can-Eat” buffets. In Japan these restaurants are called “Viking Style.” Since I was the youngest of three brothers, I was so happy when my family ate at Viking style restaurants. I thought it was an exciting experience. History teaches us that the Vikings were fearsome raiders who lived in northern Europe/Scandinavia and often came to Southern Europe, England, and Russia, too. They seemed to enter regions and plunder again and again between 8th – 11th centuries. Since they were raiders, they ate a variety of hearty foods that were easily taken on longships. Therefore, people started calling hearty all-you-can-eat buffets “Viking Style.” The true Vikings repeatedly raided and plundered northern and southern Europeans and, at first, treated Christians as enemies; interestingly though over time they converted to Christianity. Then, they became devout followers of Jesus Christ and contributed to the Christian missions to Northern Europe, their motherland. Do Vikings still deserve their terrible reputation? Should we view them differently? In the Gospel Text today, what did you hear from the Jesus’ words when…

Tweet マタイ13:1-9, 18-23  ローマ8:1-11 救い主イエスによって呼び集められた会衆の一人一人の心の中に主なる神からの恵み、慈しみ、そして憐れみが豊かに注がれますように。アーメン トマト、きゅうり、かぼちゃ等、野菜などの植物を種から育てた経験がおありの方はいるだろうか? 一度、育てて、翌年、とくに自分では種を蒔いたわけでも無いのに、芽が出てきた経験をお持ちの方いると思う。 私の場合は、家の裏庭の半分くらいがコンクリートの駐車スペースだが、その両脇には細長い土のスペースがある。その片方は日当たりがとても良いが、反対側は日当たりが悪い。  一昨年、プランターでかぼちゃを育てた。去年は、特に種を蒔いたわけではないが、コンクリートわきの日当たりの良いほうからかぼちゃが芽を出し、立派なおいしいかぼちゃが実った。 やはり一昨年、日当たりの良いほうで黄色のミニトマトを栽培し、去年はまったく種をまいたりしなかったが、なんと日当たりの悪いほうの土の部分から、トマトらしき植物の芽が出てきて、10Cmくらいまで伸びたときに、日当たりの良い側に移し変えた。 すると黄色いトマトが去年も山のように実った。  今日の福音書、種蒔きのたとえ。 種蒔きの話に入る前に、第二日課としてその前半部分が読まれたローマ8章について触れておきたい。ローマ8章は本当にすばらしい箇所。この箇所に元気づけられたり、感動したという方もいると思う。  ローマ8章1節、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」とある。 1節のこの言葉には、ドキッとされた経験をお持ちの方も多いと思う。 これは、決して、犯罪を犯しても、罰金がないとか、重犯罪を犯しても服役しなくて良いという意味ではない。  どんな罪をおかそうが、神がその罪深い私を愛してくださっていることは変わる事がなく、神は罪に定めたままにしておくことはなく、赦すということ。  そしてローマ8章はどういう言葉で締めくくられるかというと、28節では、キリストに招かれたものは、万事が益となるように働き、最後の38節39節の結論は、何事も神の愛から私たちは切り離すことはできないという事。  ここに、神の子が十字架に死にて葬られても、何もできず逃げていってしまった弟子たちをも、復活後に「あなたがたに平和があるように。」といって赦す、全人類への神の愛、最高の知らせがある。  神は愛であり、神は人類を愛し続けておられ、その愛は決して人間から切り離されてしまうことはないという最高のメッセージを種として、この種を世に蒔くのが弟子の役割。 ところが、このニュースは、イエスがまだ十字架刑にかかる前の段階で、人々の病を癒し、いくら奇跡的なことを起こし、弟子たちが、「神の国は近づいた」と言って伝道したところで、受け入れやすいものではなかった。   受け入れないどころか、社会に影響力のある律法の専門家、ファリサイ派等は多いに疑い、非難し、異邦人たちの協力を得て、十字架にかけてしまった。イエスが十字架にかかって殺され墓に葬られても、復活し、弟子たちを赦し、弟子たちは伝道を開始した。ところが弟子たちも殉教し、ローマ帝国がキリスト教を認めるようになるまでには、300年を要した。 その歴史的事実と13章に書かれていた種蒔きのたとえを比べて、いったい私たちは、今日、イエスから何を学んでいるだろうか?  種をまく手法は、日本的な農業や、農業が進んでいる国での手法とはちょっと違うように思う。私もだが、耕した場所や鉢植えなど、良い土壌だけに、種を植える。 しかし、イエスが語る種まきのたとえの農夫は、どんどん種を蒔いていく姿が描かれている。その種の大部分は育たないということがわかっているようなところにも蒔いているようだ。種を無駄にしてしまっているようでもある。イエスが描写した農夫は、実はイエスご自身で、気前よく、またあきらめずに、高価な種、御言葉を蒔き続ける姿がある。  私たちは、冒頭で話したように、予測していなかった収穫が起こったり、自分では意識していなかったところに種が蒔かれて、その種から立派に野菜が育つ経験をする。 それはあくまでたとえで、実際は、どのようにみなさんに信仰の種が蒔かれたかを考えてみると良い。ここにいる皆さんはほとんど復活ルーテル教会以外の場所で、種はもう蒔かれていたのが実際だと思う。 それと同じように、復活ルーテル教会で蒔いた種が、私たちの全く知らないところで、育つことがある。たとえば、コロナでは5家族が集まる集会が開かれているが、そのメンバーの母親たちは日本にいて、一人の日本の母親は8月に洗礼を受ける。私たちが今福音書から学んでいることは、キリストの体の一部として、私たちは神の愛、種をどんどん蒔くように導かれているのだと思う。 神は私たちの知らないところで、その種を成長させてくださる。 アーメン 安達均 “You Won’t Believe Where Some Seeds Grow” Matthew 13:1-9, 18-23; Romans 8:1-11 Jesus Christ, our Savior and Lord, may your Grace and Peace be poured into the hearts of the people gathered in your name! Amen. How many of you have grown vegetables, such as, tomatoes, cucumbers, or pumpkins, and the following year had a new crop of vegetables without planting seeds? In my case, we have a backyard and almost half of it is covered with concrete for parking space. Beside the concrete, there are two small, long narrow patches of dirt. One side gets much sunshine (and less shade), but the other side gets more shade (and less sunshine). A year before last, we grew pumpkin in a planter and last year, even though I did not plant any seeds a sprout of pumpkin came up from the sunny patch of ground and several good pumpkins were harvested. Also, a year before last, we planted yellow, mini tomatoes at the sunny patch of ground and plenty of yellow, mini tomatoes were harvested. Last year although we did not plant anything, there was a tomato sprout that grew from the shady patch soil. I could not believe a seed was there and that the sprout had grown to almost three inches tall. I replanted the sprout to the sunny side and harvested yellow, mini tomatoes last year as well. Today’s gospel…

Tweet ヨハネ 21: 15-19   救い主イエスの恵みと平安がこの礼拝堂に集まった会衆の心の中にしみわたりますように!アーメン もう30年近く前になってしまうが、日本で会社勤めをしていて、ペースメーカを入れた方が良いか、心臓手術をすべきか、他の内科的な手法で治療すればよいか等々を判断する心臓カテーテル検査に使われる機械の開発設計をしていた。  海外から特別なドクターとか取引き先が来社して、海外事業の担当者からは、専門知識を必要とするから技術部門からも顧客対応をして欲しいと頼まれたりすることも多かった。 そのような時、資料を準備し、商品を見せて開発の背景、趣旨、用途を説明するのは、大喜びで対応した仕事のひとつだった。 会議の後に、顧客からも営業担当部署からも、感謝されたとき、「どういたしまして」 “You are welcome” というつきなみな挨拶をしていた。あるいは、つまらない言い方だが、謙虚なつもりだが、「私の仕事としてやるべきことをやっているだけです。」”It is my job… and I am doing what I supposed to do.” というような言葉しか、思い浮かばなかった。  しかし、何年かするうちに、”It is my pleasure.” という言い方があることがわかり、まさに、これだ。私が言いたかった言葉は、と気づいた。 そして、だんだん、この言葉を自然に使えるようになっていった。 しかし、エンジニアとしてより、事業戦略とか子会社のマネージメントを担当する部署の仕事に変わっていったとき、それは昇進だったのに、心から”It is my pleasure.”という機会は少なくなってしまった。 本日の聖書箇所の少し前には、復活後のイエスが弟子たちに三度目に現れた時の様子がある。弟子たちは、三度目にもかかわらず、そこにいた人がイエスだとは気がつかないでいた。近くに神がいるのに、それに気づかない私たちの実体が書かれているのかと思う。 イエスはペトロとサシで話す。ペテロは一番弟子とは言うものの、イエスが十字架に架かりそうになると、三度もイエスを否定してしまった。しかも、その場からは逃げていってしまった。 それくらい、イエスとの関係を傷つけた弟子なのである。 復活後のイエスは、イエスと面と向かって話す。イエスが3度目にペテロにあらわれても、なかなか気づかなかった弟子に対して、3回、同じような質問をくりかえす。 「私を愛しているか」 という質問を。そして、ペテロは答える。3回「私があなたを愛しているのはあなたがよくご存知です。」  ペテロはイエスが三回も同じ「私を愛しているのか」という質問したことに、悲しい気持ちになってしまった。しかし、「愛しているか」とイエスが聞き続けることを裏を返していうならば、イエスがペトロを疑っているとかではなく、神がどんなにか深くペトロのことも愛してくださっていて、それゆえに、「私を愛しているか」という質問を繰り返ししていることに後々気づいていったのではないだろうか? たとえば、もし配偶者なり恋人が、あなたに、「私のこと愛している。」と何回も聞くなら、その配偶者や恋人があなたを深く愛しているということだということではないだろうか?  そのような会話のあと、イエスはとんでもないことを話しだした。あなたは若いときは、さっそうとして自分の好きなところに出かけていた。 しかし、ペトロ、あなたは、年をとると、自分で着飾るどころか、だれかに両手を広げられ、帯をしめられ、行きたくないところに連れていかれてしまう。  この会話はイエスの復活後数日なので紀元後34年ごろに起こったと思われるが、それから約30年後、ペトロはローマにつれてこられ死亡したとされている。しかも、病死とかではなく、無残な死に方をしている。逆さ十字架の刑で殉教したといわれている。だから、ペトロは初代カトリック教会のビショップとされ、その墓の上に壮大な聖ペトロ大聖堂が建築され現在にいたっている。ペトロは若いころは、行きたいところに行き、平安のうちにこの世の人生を終われれば良いと思っていたと思う。キリスト教徒を激しく迫害し、権力者はキリスト教を認めていないローマに行って殺されたいなどとは思っていなかったと思う。  しかし、ペトロの人生を考えると、主なる神、イエスからの徹底的な愛をいただいていることを確証できたゆえに、とんでもない拷問をうけようが、神の愛の中でどんなことにも絶えられるという気持ちが備わっていく。どんな人生を歩むことになったとしても、それが、この世では無残な死に方に終わっても、神の栄光を顕すことに寄与するならば、痛み苦しみが忍耐となり、それが希望、喜びに変わっていたのではないだろうか。ローマ5章には、「苦難が忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。希望は欺くことがない。聖霊によって神の愛が注がれているからです。」とある。   ペテロのイエスとの関係、さらには、イエスの生涯、ペテロの生涯を通して、神は現代の私たちには何を教えてくださっているのだろうか? 御言葉を全身全霊をこめて読んでいく時、神は敬虔な信仰者だけではなく、いいかげんなキリスト教徒も、非宗教的な世の中で普段、神を忘れてしまって生きている人々も含めて神が人類を愛することを止めてしまうということなどなく、しつこいくらい愛し、恵みを注ぎつづけてくださっているということではないだろうか? 今日の聖書箇所には、その神の愛に生かされていることがわかる中で、私たちの歩むべき道を記されているように思う。それは、イエスがペトロに語ったように、私たちも若いころはよかった、自分でやりたいことができていた。車にのってしっかりシートベルトも自分で締めて行きたいところに行っていた。しかし、年をとるにつれ、若いころ楽しんでいた仕事でも趣味でも、それが変わっていき、望んではいなかったことをしなくてはならなくなってしまう現実もあるのだと思う。しかし、キリスト教徒として、その中に神の意志、栄光を実感できるのではないだろうか?  そして、それがどんなに忍耐を要するような仕事や境遇であろうが、その神の栄光のために、私が遣わされているということに気づくとき、心から「はい、喜んで」と言って仕えることができるのではないだろうか。アーメン。 安達均 “It’s My Pleasure” John 21:15-19 May Grace and Peace be with you in the name of Jesus Christ, our Lord and Savior! Amen. About 30 years ago, I was one of the engineers who developed a cardiac catheterization system that helps doctors decide whether or not patients need pacemakers, any kind of cardiac surgery, or any type of internal medicine. Sometimes our overseas department had guests from foreign countries, such as famous doctors or sales representatives. On those occasions, I often supported presentations by explaining the newly developed systems since it required special knowledge about cardiac catheterization. I truly liked that aspect of my job. I enjoyed describing the products and explaining the reasoning behind including certain special features. After the meetings, customers and the international sales department were thankful for my insights; I just said “You are welcome.” or sometimes I humbly said, “It is my job… and I just did what I supposed to do.” At first, I did not know how to adequately express my humility and joy on these occasions. Later on, I learned to say, “It is my pleasure.” I realized that this phrase was exactly what I was looking for. Then, I became accustomed to using this phrase. However, after 10 years of engineering…

Tweet マタイ10: 24-39 主イエスキリストの恵みと平安が集まった会衆の上に、そして、またこの礼拝を覚えながらも、ここに集えない人々の上にも、豊かに注がれますように! 一番恐いと思うことは何だろう? 死に至るような病気や事故になることへの恐れ?そのような恐れがあるために、食事に注意したり、運動をしたり、定期健診を受けたり、安全運転に心がけたりするということがある。恐れは一概に悪いこととは言いない。しかし、恐れてばかりで、何もできなくなってしまってはいけないので、恐れにも程がある。  先週木曜日の夕方は、私はすばらしいCCNの講演会に出席できたと思い、感動している。 エベレスト北壁登頂を72歳という高齢で先月の5月25日に成功したビルバークさんという方がこの復活ルーテル教会に来てくださり、自ら撮影したビデオや、自分の使っていたさまざまな登山具を披露しながら、約1時間半の講演会をしてくれた。  約5%は帰らぬ人になると言われるエベレスト登頂を6回試み、南から一回、北壁も一回、合計二回の成功を治めた。その要因には、普段のトレーニングもあるし、遺伝子によって高山病になりにくい体質に恵まれていること、良い器具やティームメンバーに恵まれること、メンタルトレーニング、そして信仰がある。 エベレスト頂上付近には、過去に挑戦したが帰らぬ人となった人々の遺体が、放置されたままになっている。遺体回収ができないほどの厳しい自然環境がある。その遺体を見ることも、自分も同じ運命になるのではという、死への恐怖との闘いなのだと思う。そのような面でもメンタルなトレーニングがとても重要なのだと思う。しかし、彼の話の中から、メンタルトレーニングともうひとつの最も大切な要素により、恐さを超えて、エベレスト北壁登頂に成功したんだな、と私は思った。もう一つの大切な要素とは何なのか。メッセージの後半で述べたい。 与えられた福音書、イエスが弟子たちを派遣するときに語った話の後半部分をマタイ福音書から読んだ。わかりにくい面もあるし、なんでこんなことが書いてあるのかと思う面もある。一つの大きなポイントは、弟子たちが派遣された先で、様々な不安、恐れを抱くことはわかっていて、その恐れへの心構えにあると思う。  今日の箇所には、恐れという漢字が4回使われている。 26節にある、「恐れるな」、28節に、また、「恐れるな。」 そして、同じく28節には、こんどは「恐れなさい。」 そして、最後の四つ目は、31節にある「恐れることはない。」  一つ目は、彼等を恐れることはない、といわれている。彼等とは、派遣された先で、イエスキリストが派遣した弟子たちが、神の国の福音を伝えに来たのに、その福音を全くわかろうともせず、弟子たちを受け入れないような人々と出会う。しかし、いずれは、神の福音はあきらかになるのだから、はじめて出会った人々でわからない人々がいるのはあたりまえで、恐れることはないということを、イエスは前もって忠告していたのかと思う。 次の二番目の恐れることはないという言葉は、体を殺しても魂を殺すことができない方を、恐れるなとイエスは言われる。宣教をする事で、言葉通り、弟子たちも肉体的な死さえ訪れるわけだが、恐れてはいけない。そして、三番目の、「肉体も魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」否定形ではなく、「恐れなさい。」という言葉に直接に関係している。 聖書全体でも、恐れるなという言葉はあちこちに出ているが、恐れよという言葉が出てくるのは、それは、本当に恐れなければならない。 その対象は、地獄において、地獄での肉体的、霊的な死を、滅ぼすことができる、つまり地獄という最悪の状況から脱することができる、全知全能の神を、もっとも、恐れるように。 その神をもっとも恐れ、神との関係を確立するとき、他の恐れはみな、神への恐れにはかなわなくなる。弟子たちは後にわかることだが、その神は、実はイエスキリストであり、主ご自身が肉体的な命を犠牲にしてまでも、弟子たちを愛して、守り、生かしてくださる、そのような主なる神。 すずめ一匹では、貨幣の最小単位である一アサリオンの価値もない。 だから二匹ペアにして、やっと一アサリオンで売られているようなすずめすら、神さまに守られている。あなたがたは、神の目からすずめよりもっと尊いものであり、神の加護がある、だから、その神を恐れ、あとは恐れるな。 これが、31節の「恐れることはない。」の意味だと思う。 今日の福音に書かれた、四つの「恐れ」という言葉から、神への恐れによって、他のものに対する様々な恐怖から解放されるようになるということを学んでいる。 このイエスの言葉は、現代を生きる私たちにも、多いに関係している。 さきほどエベレスト北壁登山を成功したビルバークさんの話をした。体質に恵まれ、良い器具やチームに恵まれ、普段から体のトレーニングもし、そしてもっと重要なメンタルなトレーニングが大切という話をした。  メンタルなトレーニングの話がフィジカルなトレーニングよりも大切と語ったあと、一時間半の講演の中で、わずか1分半くらいだったと思うが、そのあと、さらに重要なことを話した。 それは、スピリチュアルなものが大切。彼自身は、クリスチャンであり、神に全幅の信頼を置いているということ。 メンタルな面で、これ以上歩けない、睡魔が襲ってどうしようもないという恐れから解放される、神への恐れ、イエスキリストの信仰があることを確信する。 私たちの人生の登山においても、さまざまな恐れ、それは健康的な恐れの範囲内なら良いが、それ以上の恐れを抱く必要はまったくない。この聖日の朝、恵み、憐れみ、慈しみ、に満ちた父、子、聖霊に畏れひれ伏すことで、さまざまな恐れから解放されて、今週も主イエスとともに信仰の旅路を歩もう。そこに大きな喜びがある。 アーメン 安達均 “Whom to Fear” Matthew 10:24-39 May Grace and Peace of Jesus Christ pour into the hearts of the people here and those who are not able to join us, even though their thoughts and prayers are surely heard! What do you fear most? Is it a disease or an accident that will cause your death? To be proactive you could eat healthily, drive safely, exercise regularly, get yearly physicals, and so on. Fear is not always a negative emotion. As long as fear doesn’t stop you from living a full, active life; it can teach you to respect your life. Just this past Thursday night, at Resurrection, Bill Burke gave an impressive and wonderful lecture/presentation. Mr. Burke is the oldest climber, living in the United States, to ascend Everest’s summit (a record he still holds). He just returned from climbing Mt. Everest’s north face on May 25th of this year. He shared with us HD video, his climbing equipment (and gadgets), candid photographs. Most importantly he told wonderful stories about his climbing expeditions and his unwavering faith in Christ. Bill Burke is now 72 years old, since 2003, he has climbed all 8 of the world’s tallest mountains. He has climbed Everest 6 times and summited twice. Statistics show, 5% of Everest’s climbers do not return, it is a risky and life threatening challenge. However, Mr. Burke summited Everest twice, once from south face and…

Tweet マタイ28:16-20 この礼拝堂が父と子と聖霊なる空気に満たされ、一人一人に恵みと平安が与えられますように! 三位一体という言葉を聴き、どんな事を思い浮かべられるだろうか? ここにおられる多くは、キリスト教用語であることはわかっておられる方が多いと思う。でも、キリスト教になじみの無い多くの日本人にとってはどうだろうか?  私が医療機器の会社に勤めていたとき、社長はよくこの言葉をつかっていた。開発、生産、販売が「三位一体」となって、会社の危機を乗り切ろう。。。 とか。 小泉元総理大臣もよく使っていた。 三位一体の改革とか。 修養会に講師として招いた、キムホンソン先生は、三味一体(味に注意)というコラムを日刊サンに毎月載せている。 日本、韓国、アメリカの味で一体になっているご家族であり、アメリカにいる日本人も韓国人も三位一体の神の中で、いろいろたいへんな面もあるが、なかよくやりましょうという思いがこめられており、神の思いがそこにあるように思う。  私の会社の社長や、総理大臣が使う、三位一体は、同じ漢字を書くが、キリスト教とは関係が無いとされる。しかし、本当に関係が無いのだろうか? 三位一体主日に与えられている聖書箇所、大宣教命令と呼ばれている。 復活後のイエスがガリラヤ地方で、弟子たちにあって、大宣教命令を言い渡したときの様子が書かれている。  イエスのこの大命令のなかには、日本語聖書だと、「行く」「弟子にする」「洗礼を授ける」「教える」という四つの動詞を含んでいる。 ギリシャ語聖書だと、はっきりとした命令形の動詞は、「弟子にする。」という言葉だけ。他の動詞は文法的には分詞。 すべての国の民を、イエスの弟子にするためには、キリストの使徒たちは、世界に向けて出かけていき、教会が世界の国々に建てられる必要があったのだろう。それから、洗礼を授けるという言葉と、教えるという言葉。それは、弟子となっていく過程において、洗礼を授けるということも、教えるということも成されるなかで、弟子になっていく。 ただ、洗礼を授けるという言葉の前に、「父と子と聖霊の名によって」という言葉がついている。 さてこれはいったいどういうことなのだろうか?  私が按手を受けた牧師として、洗礼を授けるとき、「父と、子と、聖霊の御名によって」と言って、この教会では滴礼といって、水をかけることしかしていない。 しかし、もともとの洗礼の意味は、浸るとか沈むという意味がバップタイズの動詞の中にはある。 なので、健康な方は、プールで洗礼を受けるというのも良いことだし、プールまでは行かなくても、洗礼盤の水のなかに、じゃぼんと頭をつけるという洗礼のやり方も良いのだと思う。 しかし、浸すとか沈めるという洗礼の行為の前に書かれている、父と子と聖霊の名によってという部分をつけて、それを直訳するならば、「父と子と聖霊の名の中に沈める」となる。「名」とは単なる呼び名ではなく、実体を表す。洗礼とは「父と子と聖霊というすべてを創造されたる主なる神のいのちの中に入ること」と考えられるのだと思う。  洗礼を受けるという事は、水の中に浸ったり、水をかけたりする中で罪深い古い自分が死んで新しく生き返るというちょっと恐いことは一回起こる。その時点で、父と子と聖霊という神の命の中に浸るようになるともいえる。 洗礼を受けた後は、自分が自覚する自覚しないに関係なく、父と子と聖霊という三位一体の主の満ちる中に、生きていくようになる。 さて、その三位一体の主の中に浸って生きるということが、私たちの実生活の中でどう関わってくるのだろうか? 私が生きていく上でという主語が「私が」ではなく、父と子と聖霊なる唯一の創造の神が、主語で、わたしたちに直接関わって、私たちを生かさせてくださっている事に気づかされるように思う。  今日は父の日。母の日を世間は祝うようになったが、ソナラ・ドットさんという女性は、男兄弟5人、つまり自分を含め6人の子供たちを、母が亡くなったあと、父親がで育てたという家庭に育った。彼女は母の日だけではなく、父の日があった方が良いと思った。それが父の日の元祖らしい。ソナラさんのように、父親の愛をあきらかに認識できるような方もいるだろうが、得てして父親の存在は、わかりにくく、その父の良さとか暖かさが、何年もの時間を経てわかることもあるように思う。  そして、実は、キリスト教でいう、父と子と聖霊という三位一体の神の存在も、多くの方々にとって、わかりにくのかもしれない。しかし、キリスト教の言葉ではありながら、日本では、キリスト教をほとんど意識していない会社の社長とか、あるいは総理大臣が使っている。そこには、父なる神の思いがあり、神ご自身が非宗教的な人間社会の中にも、関わり姿を現そうとされている思いを感じてくる。 実は、聖霊は、神・主イエスから出てくる息、聖なる空気がわたしたちが生きていくこと自体の根底を支えてくださっている。 また、2000年前に顕われてくださった、子なるキリストが私たちの歩む道となってくださって、わたしたちからは物理的には見えない中でもいつもいっしょに歩んでくださり、わたしたちも、その天の父に向かって、キリストの道を歩んでいる。 三位一体の命に浸るなかで、天の神に向かって歩む人生は、この世的には苦しい困難の多い経験をすることもある。 しかし、苦しいことを経験していても、三位一体という創造の神が元気づけ、励まし、必要なものを与えてくださる。その道は、喜ばしく、恵みに満ちた人生だ。洗礼を受けて、主のイエスの言葉を聴き学ぶ中で、キリストの弟子となり、三位一体という実体のなかで、ダイナミックな人生を歩もう。そして、まだ愛にあふれる創造主の存在に気がつかないで人生を歩む方にも、三位一体の暖かさや愛情を表現する弟子となり、他者をもイエスの弟子にする者として歩めるように。アーメン 安達均 Immersed in the Father, the Son, and the Holy Spirit Matthew 28:16-20 May this sanctuary be filled with the breath of the Father, and of the Son, and of the Holy Spirit, and May the Trinitarian God pour grace and peace into the hearts of the people here and elsewhere in the world! What do you think of when you hear the word “San Mi Ittai (Japanese word meaning the Holy Trinity)? Many people here know that the word is used in Christianity. However, how is this word understood by the many Japanese people who are not Christians? When I was working for a medical devices manufacturer, the president often used this word. As in, “Let’s overcome our challenges using San (meaning three) -Mi-Ittai, (meaning collaboration) among Engineering, Production, and Sales.” Also, the Japanese Prime Minister, Shinzo Koizumi, named one of his reform plans “San-Mi-Ittai no Kaikaku (meaning Reform of the Trinity). The second day’s lecturer of this year’s retreat, Pastor Hongson Kim, writes a column called “San-Mi-Ittai” every month in the Japanese Newspaper, Nikkan Sun. He is Korean, his wife is Japanese, and his children are US citizens. I think his family is an example of how Korean, Japanese, and US citizens commune well together. I, truly, believe God’s wisdom is part of the word “San-Mi-Ittai.” Although “San-Mi-Ittai,” as used by the president of the medical devices manufacturer and the Prime Minister, doesn’t have a…