Archive for the ‘牧師説教’ Category

Tweet ヨハネ9:1-41 安達均 集まりました会衆の上に、主イエスキリストの恵みと平安が豊かにありますように! 何か困難があったとき、自分の何かが悪くてこれは天罰がくだったのだ。 とか、あるいは、自分の先祖が何か悪いことをしたために被っている困難だと信じている方もいる。あるいは、ヒンズー教や仏教に伝わっている輪廻思想によれば、自分が今生まれ変わっているが、前世で、なにか悪いことをしてしまったので、しょうがないと思う方もいたりする。物は考えようだが、確かにそのような説明を受けて納得し、今の困難を我慢することができるということもあるのかと思う。しかし、そこには、真の赦しや過去の罪からの解放ということが起こるのだろうか悩んでしまう。 本日与えられている聖書、目の見えない人の人生が、イエスによって大転換する話。 彼は「生まれつき目が見えない」ので「それは両親の罪の結果なのだろうか」と弟子たちは考えた。しかし、イエスは個人の罪とその人の病気や障害の関係をはっきり否定する。イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」(3節)。そして「神の業がこの人に現れるためである」と言う。イエスは原因や目的を述べて目の前の現象を説明するのではなく、これから起こる出来事に弟子たちの目を向けさせる。そして、目の見えない人の目の上に、泥につばをペッペッと吐いて、こねて塗るというようなことをした後、「シロアム」という池に行き、洗うように言われる。そしてその日は安息日だった。すると、見ることができなかった光景を見れるようになる。ここで、生まれつき見ることができなかった彼の人生がイエスが行い命令したことによって大逆転する。  本日の聖書箇所の後半では、のちのち、彼は実際にイエスに会って、イエスを見ることになるが、目が見えるようになる時点までは、彼はイエスを見ることができていない。しかも、たまたが通りがかったイエスと弟子たちが彼に話し始めており、彼にとっては神、イエスがどういう人か何もわかっていなかった。それにくらべ、聖書の中に描かれているファリサイ派の人々は何が正しいことか、強い信念があり、いわば、神のことを悟っていた。 それは、目が見えない人がいたら、それは過去の罪の結果であるとし、安息日に何かをすることは罪であるため、安息日に奇跡は起こせないという信念だった。 ファリサイ派の人々のそのようなところに、宗教の落とし穴がある。 霊的な盲目といっても良いかと思う。  私は、ファリサイ派の人々だけを言っているわけではなく、現代のキリスト教信者と言っている我々の中にも、そのような危険性を否定できない。 「私には、こうこうこうだからこうだ、という確信があり、だから私は正しい」と言って、その信念を見事に語っているようなキリスト教信者には、ファリサイ派の人々と同じように、霊的な落とし穴がある。そして、本当の神の御業を見れず、信念が根底から崩されてしまうようなところがる。「私はイエスキリストを見た。」という方もおられるが、本当に私たちは、イエスを見ているのだろうか? 聖餐式でいただく、ウェハーとぶどう酒の中に、イエスを本当に見ているのだろうか? 私たちは、イエスが毎週毎週、霊的な視力を回復してくださるようにして聖餐を受けているのか、あるいは、イエスを見るといいながら、霊的には盲目で、自分の固定観念に陥っていないだろうか。  イエスは、本日の聖書箇所の最後で、「今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」と言われる。 イエスは自分なりの理解で、「イエスを見える。」と話すことに対して、警告を与えてくださっているように感じる。 たしかにイエスは2000年前に来られたが、私たちはイエスの再来を待つ身である。「イエスは来た。だけどまだ。」という時代に生きている。 私たちは、今日の聖書にあるような、盲目の状態から目が見えるようになった人に見習いたい。固定観念にはとらわれず、イエスのほうから顕われ、与えてくださるこの上ない愛と憐れみに感謝する。 四旬節の後半に向かう中、この礼拝中の御言葉と聖餐を通し、イエスに会うことができるように、そして主が私たちに、十字架を担ぐ力を与え、そして、愛なるイエスと共に、歩むことができるように祈る。アーメン “Truly Seeing Jesus or Meeting Jesus” John 9:1-41 Pr. H. Adachi May the Grace and Peace of Jesus Christ be upon you in this sanctuary! Whenever people have difficulties in their lives, some people think that the difficulties are God’s punishment for the supposed wrongs that these people have done. There are Buddhists or Hindus that believe in the cycle of death and rebirth, and if bad things happen; it is because they think they did something wrong in their former lives. Everything depends on your mindset, but I wonder if people truly believe they can be forgiven and truly freed from the cycle of wrong doing? I am not sure if just being patient during hardships will help. The Gospel text today, is the story of the blind man, and how Jesus changed his life. Because the man was born blind, the disciples thought the man’s own sins or his parents’ sins caused his blindness. However, Jesus refuted the relationship between sins and the man’s blindness, Jesus said, “Neither this man nor his parents have sinned” and “God’s works might be revealed in him.” Jesus did not try to explain the cause of the man’s blindness, but he let his disciples see what happened when He interacted with the blind man.  Then, Jesus spat on the ground and made mud with the saliva and spread the mud on the man’s eyes, saying to him, “Go, wash in the pool of Siloam” (which means Sent). Then the man…

Tweet ヨハネ4:5-42 牧師 安達均 主イエスキリストの恵みと平安が豊かに与えられますように。 先週水曜の夜から木曜朝まで、Family Promiseというホームレスとなってしまった家族に、一時的に寝る場所と食事を提供するプログラムのボランティアとして、Fountain Valley にあるのKing of Glory Lutheran Churchに行ってきた。 Family Promiseのコーディネータから2枚に渡るボランティアの説明書をよく読んで出かけた。 それにしても、実際、トイレはどこか?朝食の時はどちらのフェローシップホール(二つある)でコーヒーを入れるのか? ボランティアの寝るマットレスはどれを使ったら良いか、細かいことは現地に行ってから確かめる必要があった。 したがって、9時過ぎについて、私たちはまごまごした。 私たちがホストとして、お世話をする立場のはずなのに、逆にゲストとして泊まっているファミリー、とくに12歳の女の子Sちゃんや、二人のお父さんたち、LさんやRさんから、トイレの場所、朝食のフェローシップホールはどっちを使うか、ボランティアのマットレスはどれで、どこで寝るか等々を教わることから会話ははじまった。 結果として、仲良くなることができ、みな夜中はよく眠ることができたようで、私たちも会議室でよく眠ることができた。そして朝は希望を抱いて別れた。 与えられた福音書、ヨハネ4章5節から42節、少々長い箇所だが、すばらしい箇所だと思う。聖書箇所の背景を説明したい。サマリア人とユダヤ人はいってみれば仲が悪かった。ユダヤ人はサマリア人とは大きなギャップがあり、ユダヤ人とサマリア人が話しをするようなことはまずなかった。また、そのサマリア人は女性である。男と女という関係においても、当時の社会情勢からして、知らない男性と女性が話しをすることは適切ではないとされていた。つまり、男と女のギャップもあった。さらに、このサマリア人女性は、地域の人々との間にも大きなギャップがあった。というのは、過去に何人もの男性と結婚していて、今は、一人の結婚していない男性と生活していた。 そのような彼女は、地域の人からも孤立していて、また彼女自身には恥ずかしい思いもあり、なるべく、人とは顔を合わせない生活をしていた。 さまざまなギャップを持つ女性が、人目をはばかりながら、真昼間の暑い時に井戸に水を汲みに行った。 彼女はイエスにそれまで会ったことはなかった。しかし、イエスは救い主であり、また神であるがゆえに、彼女の過去をとことんご存知であった。そして、イエスが話しかける。イエスは全く彼女を批判するような話かけ方はせず、むしろ、イエスの方から、「水を飲ませてください。」と言う。 ジャンバニエというカトリックの思想家は、「本当に人を愛するとは、何かをしてあげることではありません。。。一生懸命にお世話をしながら、『あなたは自分ではできないでしょう』と、その人の無力さを見せつけてしまうこともあるからです。人を愛するとは、その人自身の美しさを自分で発見させ、見せてあげることだと思います。その人の存在する場所を作ってあげることです。あなたは大切な人であり、あなたには価値があると、その人自身に示してあげることです。」と言っている。ユダヤ人とサマリア人とのギャップを超えて、また、男と女の間のギャップも越えてイエスが話しかけられ彼女はびっくりする。イエスはそのようなギャップを問題としない。というのは、イエスがこのときに問題とした、生きた水、命の水に関する話がとても重要だったから。イエスはそのようなギャップを超えるだけではなく、「水を飲ませてください。」と話しかけはじめることによって、困っている人をお世話しようとするのではなく、彼女自身にイエスにはできないことがある、彼女に価値があることを認識させようとしているような面がある。そして、会話が進んでゆき、水を飲ませてくださいとイエスが話しかけたのに、サマリアの女が、逆に、イエスに、生きた水をください。とお願いする話になる。その時点では、まだサマリアの女性には、のどの渇きを思っている。   なので、サマリアの女には誤解があるものの、私はこの時点ですでに、イエスは生きた水を彼女に与えている。そして、イエスとの会話の終盤では、彼女はイエスが救い主であることがわかる。その結果、水を汲みにきたのに、桶をほったらかしにして、村に戻っていく。 地域の人々とはギャップがあって、目をあわせることすら避けていたが、今度は、「さあ見にきてください。私は救い主に会ったようです。」といって、村中の人々に伝道することになってしまう。 そして、村中の人々が、イエスを主と信じるようになってしまう。この話、2000年前の物語で、それを聞いて「良い話だとかおもしろい。」で終わるのではなく、主なるイエスは現代の私たちにとても大切なこと、「生きた水」とはどういうことなのか教えてくださっており、私たちにも命の水が湧き出していることに気づくきっかけになるように思う。    最初の「水を飲ませてください。」という言葉の中に,イエスは彼女が大切な存在であり、価値があるということを、イエスの愛を込めて話かけているように感じる。そこからはじまったイエスとの流れるような会話がおこる。そしてサマリアの女は、まるで暑い地面に置き去りにされてしまい死にそうになっていた魚が、きれいな水の中に再び戻って、元気に泳ぎだすように、彼女は、「命の水」を救い主からいただき、主イエスについて、元気よく伝道をはじめることになった。 ファミリープロミスでの話を最初に紹介したが、私がホストであったにもかかわらず必用に迫られて、ホームレスの家族からいろいろなことを教わることから会話がはじまった。  そこには、私たちが気づかぬうちに、神の思いが働いていて、その会話の中に、豊かなイエスの命の水が、与えられていたように思い、先週KOGに泊まっていた家族のうえに祝福があり、イエスが導かれる方向へ進んでおられると信じる。 今教会に集まってさまざな教会での活動の中にも同じ命の水が湧き出ていることを覚え、そして、またこれから教会に来るようになるものも、同じ命の水が湧き出るように。その命の水によって新しくされる経験を通して、私たちが新しくLCRの周辺のコミュニティに対して、伝道の働きができるように祈る。アーメン   “Living Water” John 4:5-42 Pr. Hitoshi Adachi May Grace and Peace be upon you in the name of our savior, Jesus Christ! This past Wednesday night from 9:30 p.m. until 7 a.m. Thursday morning, Satoko and I stayed at King of Glory Lutheran Church and served as volunteers for the Family Promise. It is a program offering temporary accommodations for homeless families. We read instructions that were provided by our Family Promise program coordinator and Council president, Pete. However, we were still unsure about which bathroom of several bathrooms to use, which fellowship hall to use for meals (since there are two of them), and which mattresses volunteers should use while staying on the campus… Therefore, when we arrived at KOG after 9 p.m. we were unsure about what to do. Even though we were the hosts to the families, we learned from a 12 year old girl, S, one father, L, and the other father, R, which bathroom to use, which fellowship hall to go to for breakfast, and the proper mattresses that we should use. As a result, I think, we socialized well with the families, had a good night and everyone slept very well. Then the next morning, all of us departed with hope and the promise of a new day.   The Gospel Text read today is John 4:5-42. It is a little bit long, but it is a wonderful portion of…

Tweet ヨハネ 3:1-17 牧師 安達均 主イエスキリストの恵みと平安が豊かにあるように! 聖壇にあるポールを見て欲しい。紫の布がかぶせられている。何があったか覚えいるだろうか?どういう意味があるのだろうか?紫はもともと高級な色で、王位を示すという意味もあるが、クリスチャンとして覚えていたいことは、紫とは四旬節の色。 マルコやヨハネが伝えるところによると、イエスが十字架にかけられる直前に着せられていた衣は紫色だった。イースター前の40日間、イエスが十字架にかけられたこと、そして、私たちの罪を思うとき、この紫色が四旬節の色となる。 じゃ、なぜ十字架を隠すのか?どう思われるだろうか? いろいろな思いがあって良い。イエスが十字架に架かっていることを想像される人もいるかもしれない。私もそのように感じることはいままで何回もあった。 今年は、私は、今日の福音書箇所を読んだあと、この紫の布の中には、蛇が隠されて居るようなイメージを抱いている。なぜそんなことを言うのか、後ほど話す。   本日の聖書箇所、ヨハネ福音書3章1節から17節。特に16節は有名で、聖書の中で一番好きな節は?というアンケートをとったなら、アメリカ人に聞けばこの節だという人が一番多いと言われる。  「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」   ニコデモというユダヤ教の指導者であり議員がいた。彼は、イエスの言う「人は水と霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(5節)を理解できない。新たにに生まれるなんていうことがあるはずはない、とニコデモが考える中で、主イエスが語られた言葉が16節の言葉。 有名な16節の前には、14節と15節で、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」とも語っている。いったいモーセが荒れ野で蛇を上げたように、ということはどういうことなのだろうか。  これは、明日の聖書日課で読むことになっている民数記21章に書いてあるが、紀元前1200年ごろに、モーセに引率されたイスラエルの民、何十万もの人々がエジプトからイスラエルに40年もかかって移動した。 その途中で、民は神とモーセに文句を言い始める。「こんな粗末な食べ物ではもうやってられない。なんで私たちをエジプトから導きだしたのか。」 そのような民に向かって、神は行動を起こす。 炎の蛇を送って、民をかませる。そして、多くの死者まで出てしまう。そこで民は猛反省して、「わたしたちは罪をおかしました」という罪の告白をし、蛇を取り去ってくれるように祈る。 神はモーセに「青銅の蛇をつくり旗竿につけて掲げるように」と命じ、「蛇を仰ぐものが命を得る」と言われる。そして、事実、蛇にかまれたものが、竿を見上げると命を得る。イエスは、これからイエス自身がどうなるかということを語るに際し、棒につけられた蛇にたとえて話している。 つまり、神の気持ちもよくわからずに文句をいった民が、罪を認め、棒に上げられた蛇を見上げて赦され新たな命を得たように、洗礼を受け、罪を告白し十字架にかかるイエスを信じるときに、新しい命を得るという事を、イエスがニコデモに語りたかったという事なのかと思う。  私たちの日常生活において、私たちは、神の視点からみれば、とてつもない罪をおかしていることが多々ある。1200年前にエジプトからイスラエルに旅をした民に比べればどんなにか物質的には豊かな生活をしていようが、好きなものが食べられないとか、ある食べ物はおいしくない不満を言って過ごしている。私たちは、神がどんな思いでおられるかを忘れてしまい、また、時には、神の言われることを無視してまで行動してしまうことがある。 そのような私たちに、神はひとり子イエスを送ってくださった。そして、イエスはいまだに十字架につけられているようなところがある。それは私たちの罪を赦すため。神は私たちの罪を赦し、イエスが十字架に架かることで、私たちの罪が隠される。 いま一度聖壇の紫のかかったポールを見て欲しい。この紫の布の中に私たちの罪を象徴する蛇がいるような気がしてくる。紫の布の中に、何をみているだろうか? 十字架上のイエスがおられることを見ていると同時に、その中に私たちの、失敗やら恥ずかしい思いも、いっしょに十字架に磔にされていて、イエスがその罪を隠してくださっているのがわかるだろうか?   今日のメッセージのポイントは、神は罪を赦し隠してくださるだから、いくら罪をおかしても良いということではない。 この紫の布で包まれたイエスが、私たちの罪を背負い、赦すために十字架にかかってくださったことを認識する時、神がその独り子を送り、私たちの罪を隠してくださっていることがわかった時、私たちはどう行動するかだ。後ほど、聖餐式のため聖壇の回りに集まるが、跪いて十字架を見上げる時、神の憐れみを覚え、新しい命に生きていることを覚え、キリスト者として、新たな信仰生活を歩みだすことができるように祈る。アーメン。   New Life John 3:1-17 Pr. Hitoshi Adachi Please look at this pole. It is covered by a purple cloth. Do you remember what is underneath it? What does it mean to you? In ancient times, purple represented (maybe it still does) expensive items and royalty. Therefore, purple was historically reserved for kings and queens. Also as Christians, we should remember that purple is a color of Lent. According to St. Mark and St. John, right before Jesus was crucified, he was dressed in purple cloth by soldiers. Therefore when we remember the time Jesus was walking to be crucified, purple is used liturgically. However, why do we put the purple cloth on the cross in this Resurrection Sanctuary? What do you think? It is OK for each of us to have different ideas about the symbology. You might interpret that Jesus is on the cross. I like that idea; it is a potent image. However, this year, especially when I think about the Gospel text given today, I feel like the cross might not be under the cloth. I am wondering if it might be a serpent under the cloth. Why would I say such a thing? I will tell you shortly… The Gospel text today is from John chapter 3:1-17. I would say that verse 16 is a very famous verse. I was told that, based on poll results, John 3:16 is the most…

Tweet マタイ 4:1-11 牧師 安達均 救い主イエスが集まりました会衆を祝福し、主イエスの御言葉を豊かに与えてください。 悪魔がいると思われている方、何人位いるだろうか? 現代、悪魔とか悪魔の誘惑とか話したところで、どれだけの方がまともに話し相手になってくれるだろうか。 もちろん、そのような話をとても興味を持っていて悪魔のイメージを持っている方もいる。 怪獣とかお化けのような悪魔がいると信じている方もいる。 また、家に仏壇や神棚があったり、なにか、新興宗教のつぼだとか、そういうものの中に悪魔の存在があると信じている方もいて、私の友人でとても保守的な牧師は、そのような置物こそ悪魔で災いをもたらしているという方がいたりする。 私は、もっと違う種類の悪魔の存在があると思う。今日の福音書箇所はそのようなことを考えさせられる。 現実的なことで、私たちが日常出会うことのなかに、私は確かに悪魔の存在というか悪魔の誘惑があるのだと思う。 今日の聖書の箇所はそういうことを考えさせられるところだと思う。 本日の福音書箇所は、まず、「イエスは悪魔の誘惑を受けるために、霊に導かれて荒れ野にでかけた。」とある。 「悪魔に会うため」ではなく、「悪魔の誘惑を受けるため」とあるので、誘惑にポイントがあることを認識しておきたい。 イエスが40日間の断食をして空腹を覚えた時、一つ目の誘惑は「石をパンに変える。」ように言われる。それは、神聖なものに頼るのではなく、物質的なものに頼るような誘惑が襲ってきたのだと思う。 二つ目の誘惑は、「神殿の屋根から飛び降りよ。神であるあなたが天使たちに命じれば、助ける。」と言われる。これはいったいどういう誘惑なんだろうか? 天使たちに命じて、過剰なまでに自分だけの利己的に身の安全を確保する、そして、自分以外の社会のことは考えないで生きていこうとする誘惑があるのだと思う。 三つ目の誘惑は、「悪魔にひれ伏せば、国の繁栄を与えよう。」とあるが、この世的な財産とか権力を持とうする誘惑があるのだと思う。 これらの誘惑に対して、イエスは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る言葉で生きる」「主なる神を試してはならない。」「あなたの主を拝み、ただ主に仕えよ。」と、申命記の8章3節、6章16節、そして6章18節を引用して答えられる。 これらの誘惑をする者とイエスの会話は、現代の私たちに何を、教えてくださっているのだろうか? 一つ目のパンに代表される物質的なものには頼らないようにと言っているように思われるが、生きる糧というのは、なくてはならないものだ。  また、二番目の身の安全を確保することだって、普段の健康保険とかあるいは老後のための年金ということは、大切なことだと思う。 イエスは物質的ものや身の安全を確保するということでは、生命保険に入るとか、健康保険をも否定されているのだろか。 さらに、財産とか資産も生きる上で、住む家や日頃の買い物をしたりする上で、ある程度は必用。また社会というものは、政府やその他の多くの組織で成り立っているので、リーダと呼ばれる人たちに、ある程度の権力を委ねるということは大切なのだと思う。 イエスが、物質、身の安全、財、権力をすべて否定されているのでは無いと思う。 しかし、主なる神との関係から離れて、自分の物質的な欲望に没頭しないように、あるいは、自分だけの身の安全を過剰なまでに確保しようとして、医療・生命保険に加入したりしないように。 あるいは、神と隣人への関係以上に、自分だけの財産とか、自分本位の権力を維持しようとすることへの警告を、イエス様は発してくださっている。 この世の中、毎日、神との関係を危険にさらす悪魔の誘惑がたくさんある。物質的な宣伝、医療保険あるいは年金を勧誘する、あるいは、土地とか建物の財産とか権力をむさぼるような教育を受けることが良いような宣伝がされすぎているような面がある。都市部に住むと、平均で4000もの宣伝を目にし、その多くは、悪魔の誘惑に近い。一番大切なことは、物質的なものに頼ったり、年金とか生命保険とか、あるいは財産や権力ではない。主なる神を畏れ敬うこと。それは、すなわち、神との関係と隣人との関係をしっかりした上で、自分の物質的なこと、身の安全、そして、財産のことも考えれば良い。灰の水曜日からレント、受難節に入った。イースターまでの40日間を、神を畏れ敬うとの関係を第一にして、御言葉を読み、神なるイエスに祈る、友や家族を誘う、礼拝に出る、恵みに応答して捧げる、生活をされますように。  “Is there a Devil?”  2014 3 9 Matthew 4:1-11     Pr. H. Adachi May the Lord bless us and give us His word, in the name of our Savior, Jesus Christ! How many of you believe that the devil exits? If you speak to someone about the devil or the devil’s temptations, how does he or she respond? Of course, there are people who are very serious about the devil. Some people have a certain image of the devil, something like a monster or an evil spirit. For example, if someone has a Buddhist altar, a small shrine, or a sort of religious urn, some conservative Christians believe that these things are “of the devil.” However, I believe there are different devils in this world. The text today makes us think about the existence of the devil. The Gospel text begins with, “Then Jesus was led up by the Spirit into the wilderness to be tempted by the devil.” Interestingly, he was led by the Spirit and it also says, “to be tempted,” in other words, the purpose was not meet with the devil, but to be enticed by the devil.  After Jesus fasted for 40 days and 40 nights, the devil’s first temptation was to command stone blocks to become loaves of bread. This was the temptation to only rely on material goods rather than to rely on divine sustenance as well. The second temptation was to “throw yourself down from the top of shrine, and…

Tweet マタイ17:1-9 牧師:安達均 主イエスキリストの恵みと平安が、ここに集まった兄弟姉妹の上に豊かに注がれますように!  ここのところいかがお過ごしだろうか?今年の幕開けはセンセーショナルな幕開けだったと思う。長年日本語部をサポートしてくださっているJさんの召天のニュースがあったかと思うと、突然のFさんの召天。  先月は突然、Mさんが倒れた。意識を失ったが一命を取り止めた。一昨日には、退院予定とのことだったが、かぜをひき、結局まだ入院しており、明日退院予定。復活ルーテル教会日本語部の中で、さまざまな苦しみを体験している兄弟姉妹は多い。 健康上の事ばかりではなく、最近交通事故にあってしまったり、あるいは私生活の面でなにか悩み事があるという方もたくさんおられるのが現実だ。言うなれば人生の谷間を歩んでいる状況の方々が多い。  そのような私たちに、本日与えられた主の変容日の聖書箇所は、ちょっと怖いような箇所でもあるが、逆に、世の不安からは守られる箇所のように思う。 主の変貌が起こる少し前のことから説明したい。  マタイ17章は「6日の後」という言葉で始っているが、6日前に何があったのだろうか?16章で、この世的な栄光、ローマに対するイスラエルの勝利をもたらすイエスのリーダとしての手腕を願う弟子たちの姿があった。それに反して、イエスは、「ユダヤの指導者から苦しみを受け、殺され、三日後には復活することになっている。」と話し始めた。 リーダ格で目立ちたがりやのペテロは、イエスを「そんなことがあってはなりません。」といって、いさめはじめてしまった。ペテロに対して、イエスは、「悪魔よさがれ。邪魔者。お前は神のことを思わず、人間のことを思っている。」と言われる。  この人こそイスラエルの本当の指導者であり主だと思って従ってきたイエス様に、悪魔だとか邪魔者と言われてしまったペトロはどんなに落ち込んだことだろう。 頭が真っ白になって、何を言われてもよくわからない状況になってしまったのではないかと思う。  そのような会話があって6日後、さきほど読んだ主の変貌ということがおこる。落ち込んでいたペテロとさらに他の二人の弟子を連れて、イエスは山に登る。山の頂上に来るとイエスの姿が目の前で変わる。 イエスの顔は太陽のように輝き、服は真っ白となる。 イエスの姿が変わるばかりではなく、そこに、紀元前1200年前とか800年前にこの世にいたモーセとエリヤも、その場に顕われ、イエスと語りあう姿を目撃する。ペトロと二人の弟子は、とんでもない光景を目撃してしまう。 ペテロはまた口をはさんでしゃべりだしてしまう。「主よ、あなたがここにいるのはすばらしいことです。お望みでしたら、小屋を三つ建てましょう。」しかしその直後には、雲に覆われて、何も見えなくなってしまう。 すると天からの声が聞こえる。 「これは私の愛する子。私の心にかなう者。これに聞け。」 山に登ってただでさえ怖かったのに、そのような光景を見たかと思ったら雲に覆われ何も見えなくなって、天からの声が聞こえたことは、もう怖くてしょうがない。天の声は、「おだまんなさい。」と言われたような感覚もあったのではないだろうか。 そして、こわくて震えて、地面にひれ伏していた3人の弟子たちに手を触れて、イエスが「起きなさい。恐れることはない。」と言われる。  今週、水曜からの受難節を前に、今日の主の変貌日を迎えている。この主の変貌は、イエスキリストの苦しみ・受難、十字架上の死、そして復活の前触れのような要素があると言われる。私もそう思う。 ただ、今年の主の変貌の様子を読むと、たとえ私たちがどんな暗い谷間を歩くことになっていようが、あるいは恐くてしょうがない崖っぷちに立つようなことがあろうが、そこに、主イエスによる絶対的な擁護が与えられていることを確信できると思う。 私は洗礼を受けた後、何年かしたころだった。大黒柱であった父は、出張も多く、そのころは勤めていた会社の技術者としてソ連の仕事をしていてモスクワによく出張していた時期だった。出張に行ってない時は、帰りが遅く、いっしょに食事をすることは稀だった。しかし、ある晩、早く帰ってきて、母と子供たち全員に話があるという。  10歳位の私は、父の気持ちは、家族をとても大切に思っているということと、経済的にはよくない状況でこれから家族はたいへんだということはわかった。 しかし、父の会社のビジネスが具体的にどういうことになっているかはよくわからなかった。 あとから考えると、ソ連の仕事はなんども行ったがあまりうまくいってなくて、利益は出ないし、その時の会社の状態も良い状況ではないということだったのだと思う。    つまり、経済的にはどうなっちゃうかわからない。 母はひたすら節約を心がけたのだと思う。兄二人は私立の中学に行っていたが、私は近くの公立中学に行くことになるのかとも思った。  私は、毎晩祈る習慣はあった。その晩も、洗礼を受けたときに司教からいただいたイエス様のイコンの前で祈った。簡単に、「今日もありがとうございました。よく眠れますように。父と子と聖霊の御名によって。」と祈ることで、ゆっくり眠ることができた。 その時、主イエスが「恐がらなくていいんだよ。」と言って、どんな中学に行こうが、どんなたいへんなことがあろうが、主イエスが守ってくださる、だいじょうぶ、と思えた。経済的な困難にしても、病気にしても、この世の困難は恐くはない。そういう確信を得たように思う。それは言うなれば、主の変貌の体験だったように思う。 本日与えられた御言葉により、私たちは、全員、主の「恐れることはない。」という言葉を聞いている。 別に今日でなくても、みなさんにも何か主の変貌の体験をお持ちの方はいるかもしれない。 それが主の変貌だったと気がつかなかったとしても、後から考えると、この世の困難の真っ只中イエスが来てくださり、触れてくださり、「私の言葉を聞きなさい。怖がることは無い。」と言ってくださっていたことに気づくことがあるのだと思う。 水曜からはじまる四旬節(受難節)の期間、イエスキリストの存在と主の加護を認識する機会となり、四旬節の最後には恵み豊かな受難週(聖週間)と憐れみ深いイースターを迎えることができますように。 アーメン “Do Not Be Afraid” March 2, 2014 Matthew 17: 1-9 Pr. Hitoshi Adachi May God’s Grace and Peace pour into the hearts of our brothers and sisters gathered here in this sanctuary! How are you doing these days? Where did the past 60 days go? This year started with bittersweet occurrences here at Resurrection Lutheran Church. Mr. S. went to his eternal home, Mr. F. went there, too. Just a week ago (from last Saturday), Mrs. M. passed away and we had her memorial service yesterday. During last month, Mr. M. lost consciousness and went to the ER, then he was transferred to the ICU and now he is at a rehabilitation center. Among our brothers and sisters, many of us are experiencing health issues. People are not only experiencing health related issues, but there are people who had traffic accidents or are people in the midst of life troubles. In other words, there are many at Resurrection who are going through valleys in their lives. The text read today is the transfiguration of our Lord, which makes us fear and wonder, but, I also think, it gives us God’s protection in the midst of many challenges. Let me explain some background regarding the text. Matthew 17 starts with the words, “Six days later,” what happened six days before that? According to the end of Matthew 16, we could interpret…

Tweet マタイ5章38-48 牧師 安達均 主イエスの恵みが語られる言葉に現れ、あなたの平安が礼拝堂に集まりました、あなたの子供たちである兄弟姉妹の上に豊かに与えられますように! 私が小学生の時、カトリック教会に熱心に通っていた伯母が、「だれだれ神父は、本当にイエス様のようなお方なのよ。」という話をした。私は「人間がイエス様、つまり神だなんてそんな馬鹿な」と思ってその話をまともには受け取らなかった。 しかし、その言葉は私の頭から全く忘れることはなく、今日ここで話をしている。もっとも伯母は今から10年以上前に亡くなったし、その神父も召されているが、いまだに伯母の言葉が私を魅了する。 他の伯父伯母たちに比べ、物静かで、大学教授と結婚して、6人の子供たち、つまり私のいとこたちを育てていた常識的な伯母だった。が、なぜ神父といえども人間が神みたいだという、言ってみれば世の常識的ではないような話をしたのか、興味深かった。  さて、さきほど読んだ福音書箇所、引き続き、山上の説教の箇所を読んでいる。 今日の箇所のイエスの結論は、群集に向かって、「完全な者となりなさい。」という言葉で終わっている。  ちょっとイエスさま、それは非常識じゃないですか?という質問をしたくなる。なぜかというと群集は、病の中にある人々や、もう看病でたいへんな生活を強いられていた人々だったから。  また、その結論の前には、世の常識からすると、「えっ?」と思われるような話があった。「右の頬を打つものがいたら、左の頬をも向けよ。」 「シャツやアロハを奪おうとする者がいたら、ジャケットやセータまでも与えよ。」 「1マイル先まで荷物を運ばせるものがいたら、2マイル先まででもいっしょに運んであげなさい。」 さらに、「隣人は愛し、敵を憎む、というか自分を迫害するような者とは関係を持つな」が常識的なように思われるが、「隣人も敵も愛し、自分を迫害するもののために祈るように。」と、そして「完全な者」となるように言われる。「そんなの無理です。」とも言いたくなる。イエスは常識を覆しているようで聞いている人々は戸惑ったと思う。。 聖書の中には、神は良い行いをする者には良い報いを与え、悪い行いをする者には罰が与えられるような話も出ている。そのような神の態度は、親が子供にもすることで教育上正しく生きるには必要なことだ。しかし、罰を与えることが神の本質ではなく、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」と語ったイエスの言葉の中に、本質的な神の愛がとてもよく現れている。  そして、父なる神が、完全な愛を持って人間を愛してくださっているように、あなた方もたがいに、その互いにというのは、あなたの敵、迫害する者も含めて完全な愛を実現するようにというイエスの教えが示される。 それにしても、人間は神じゃないから、そんなことはできるはずありませんと、私たちは、言いたくなる。  本日与えられている第二日課の中に「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」という言葉があった。 山上の説教のはじまりは、霊的には欠乏しているもの、しかし、神の愛によって聖霊が満たされるようになる者が実は幸いなんだという神の恵みの話で始まっていた。 つまり、イエスの話を聞いている群衆が神の恵み、神の霊で満たされるという話だ。 パウロの言う、神の霊が自分たちの内に住んで、自分たちは、神の神殿となっているという比喩だが、これは実際に実現していることだと思う。  また第一日課のレビ記の言葉の中には、「あなた方は聖なる者となりなさい。私は聖なる者である。」という言葉があった。 神は大昔から聖なる者として生き続けておられ、現代においては、神に従うもの、イエスに従う者を、霊で満たし、神の恵みを十分にいただける存在としてくださっている。  さらなる神の恵みで満たされた現代のキリストに従う者たちにも、神の霊が住んでくださっており、完全な者、完全な神の愛を実現する者に変えられるということは起こっている。 冒頭に語ったように、伯母が尊敬していた神父が、イエス様みたいな方だという話は、父なる神と、その子イエスキリスト、そして、聖霊の働きにより、霊的に満たされた神父の上に、本当に起っていたことだと思う。 そればかりではなく、伯母だって、聖霊に満たされ、一生、仏教徒だった伯父をそのまま大切にし、神の愛をもって愛し続けた。  私たち、至らない人間だとは思うが、それでも一人一人の中に、神の霊が住んでくださり、キリスト者として、完璧な神の愛を実現する者へと変えられると確信し、新たな一週間を歩むことができるように。 アーメン “Can We Be Perfect?” Matthew 5: 38-48 Pr. Hitoshi Adachi May your Grace be in the words spoken from my mouth and may your Peace be present into your children, brothers and sisters in the sanctuary! When I was an elementary student, one of my aunts who faithfully attended a Catholic church, told me “The Father at my church is like Jesus.” At the time, to me it was an awkward statement. Because I thought: how can a human being be like Jesus? However, the words she said have not left my brain and I am still talking about this even 45 years later…both the Father and my aunt have passed on but her statement still fascinates me. The aunt that made the statement was a quiet person compared to other aunts and uncles but had a lot of common sense. She was married to a university professor and raised 6 wonderful children with her husband. But to me, at that time she made the statement, it was not common sense that an individual was like Jesus. The Gospel text I read a short time ago, was still a part of Sermon on the Mount, which we started to read three weeks ago. The conclusion of the text today is: Jesus said “Be Perfect” to the crowd. For the people listening, it might have been a very difficult thing, because many were sick and many…

Tweet マタイ 5: 13-20 牧師 安達均 主イエスキリストの恵みと平安が集まった兄弟姉妹の上に豊かに注がれますように! アーメン どこの教会に行っても、熱心に教会に来られている年配者がおられる。私は、日本のロシア正教会では祖母とその友人たちに、野方町教会、ルーテル日吉教会、またミネソタ神学校近くのピースルーテル教会でも、それぞれの教会で、年配者からどれだけ恵みをうけたか、学んだか計り知れない。 カリフォルニアに来る前、日本の野方町教会に通っていた80代の紳士がおられ、なんとかバスに乗ってやっと来るという健康状態だったが、必ず日曜には休まず来られていた。 そして、時々私は、帰りは家まで送って行った。何を話すというわけではなかったが、いっしょに居ることだけで、聖霊によって私には学ぶものがあったように思う。 ある年のイースター、キリスト教徒となっていた娘さんたちとイスラエル旅行に行くことを決断され、決行された。元気に帰国されたが、翌日、長女の家で、長女が仕事から戻ると、居間にあった専用のいすに腰掛け、聖書を開いた姿勢で亡くなっていた。 天国へのすばらしい凱旋だったと思う。数日後には彼の一生を祝う葬儀が営まれた。  今日の聖書箇所、イエスは集まっている人々に、「あなた方は地の塩である。」と言われる。塩は人間の食べ物の味付けに欠かせないもの。また私はよく数日にわたって食べるりんごとかキャベツを切ったりしたあと、5分10分塩水につけてから、保存する。つまり塩は腐りにくくする効果がある。また私はよく塩水でうがいをする。清める効果があるから。 イエスは、さらに、「あなた方は世の光である」とも言われる。 光は周囲を明るくする。真っ暗では、お祈りや瞑想以外、何もできないが、明るくなることで、いろいろなことができる。光は明るくするだけではない。私の家では、よくまな板を外に出して干しておくが、日光の消毒、殺菌効果があるから。光もやはりかけがえのないもの。  イエスの元に集まっていたのは、病気になってしまい社会のお荷物と感じていた人々、あるいは老いの苦しみ悩み、また介護の悩みの中にある人々、なにもやる気がでなくなったような人々もいたことだろう。そのような人々に、あなたはかけがえのない存在の地の塩であり、世の光であると言われる。 この言葉は、あなた方は、「塩になりなさい。」とか「光になりなさい。」という命令形で語られていない。あなた方は、イエスキリストに従う群衆の一人一人であり、神の霊と恵みにより、かけがえのない存在である、「地の塩である。世の光である。」というイエスの宣言だ。  イエスは「塩が塩でなくなってしまったら、捨てられてしまう。」とも言われるが、私に従い、塩とされたあなたは、もう塩ではなくなってしまうことは無いというイエスの断言にも聞こえる。 「灯火を升の下に置くものはいない」と言われるが、升とは木でできた、穀物などの量を測るもの。 使わないときは、さかさにして置いていたのではないかと思う。 つまり、灯火に升をかぶせて光を遮断してしまうようなことをする者はいない。 だから世の光であるあなた方も、隠れたりしないで、堂々と人前に出なさいと言われる。 「あなた方の立派な行い」という言葉があるが、「立派な」と訳された言葉は、ギリシャ語では「Kalos」という言葉で、ギリシャ語ではしょっちゅう使われ、「良い」という意味で、つまり「良い行い。」とも訳せる。  神の霊、恵みによってあなた方は「良い行い」をする者とされている。だから、それを見た人々も、あなたの行いをみてあなたを偉いというのではなく、その源である父なる神を讃え、あがめるようになるとイエスは言われる。 イエスキリストに招かれ、復活ルーテル教会の礼拝堂に集まっている兄弟姉妹のみなさん! 2000年前に群集に語られたイエスの言葉と同じ言葉を、今日、ここで私たちは聴いている。 実はよく考えると、ここに集まっている私たちも、「自分は世の中の役に立っていない。」とか悩む存在である。 しかし、イエスはここに集まった一人一人が神の目から「あなたはかけがえのない存在、地の塩であり世の光だ。」と宣言してくださっている。 そして、神の霊に満たされた一人一人に、恥ずかしがったり、また、隠れたりすることなく、聖なる霊に助けられ、キリストの導かれるまま、堂々と世に出て行って輝きなさいと言われている。  そして、私たち兄弟姉妹の中に神の働きを見る人々が、導かれて、神の御名をあがめる、すなわちキリストに従う者となっていくということが起こるという話を聞いている。 冒頭に話した教会はみな、毎週日曜の礼拝は、礼拝堂がいまも満杯になる教会。野方町教会におられた80歳代の兄弟の存在が、私の信仰生活を強めた話をしたが、娘さんたち、お孫さんたちもほとんどキリスト教徒となられた家系だが、さらに彼等が回りの人々に影響を与えている。お孫さんの一人は数年前に牧師になられた。 この復活ルーテル教会に集まっている兄弟姉妹の子供たち孫たち、そして友人たちも、みなさんの神の霊に満たされた信仰生活を見て、主イエスキリストなる神を讃える存在となりますように。アーメン。  Matthew 5: 13-20 Pr. H. Adachi May the Grace and Peace of Jesus Christ be poured into the hearts of brothers and sisters in this sanctuary! Wherever we go to church, we see elderly people. It is immeasurable how much I’ve learned from them. I learned much from my grandmother while attending a Russian Orthodox Church during childhood. I’ve also learned from elderly people at Nogatamachi Church, Hiyoshi Lutheran Church, Resurrection Lutheran Church (of course), and Peace Lutheran Church near my seminary in Minnesota. The elderly are an invaluable source of information and advice, if we choose to listen. When I was attending Nogata-machi Church in Tokyo, between 85 through 97, there was an old gentleman, over 80 years old, who came to the worship by bus every week. He was not very healthy but he regularly attended church. I often drove him home after services. He and I did not talk much but just by being with him, I learned something…through the Holy Spirit. During the Easter season of the 1990s, he and his daughters decided to go to Israel. I was surprised that he wanted to go to Israel at his age. The family had a wonderful trip and came back to Tokyo. One day after they came back, the daughter went to her school to teach. When she returned home from work, she found that her father was sitting…

Tweet マタイ5:1-12 牧師 安達均 主イエスキリストの恵みと平安が豊かに注がれますように! ご自分の生活を振り返ってみて欲しい。自分あるいは身近な方が肉体的な病の中にある方、たくさんおられる。病ばかりではなく、肉体的にはまだまだ成長の過程にある赤ちゃん、子供、孫の世話をしているという方たくさんいる。 あるいは、精神的に病んでいる方が身近におられる方々もたくさんいる。総合失調症、記憶喪失症など。年配者が記憶喪失気味になるばかりではない。  実は、私の友人の牧師は、子供がまだ高校生だが、中学の時に突然記憶喪失に襲われ、それ以来、どこの小学校に行っていたかとか覚えていない。しかし、その記憶喪失があってからのことは、しっかり覚えていて、彼にとって新しい人生、親にとっても新たな親子関係になっている友人がいる。   あるいは、肉体も精神も健康だが、どうしても霊的なことを受け入れない方、神を拒む方、あるいは、イエスはごめんこうむるという方が身近にいて、悩むというか、大げさかもしれないが、迫害を受けている方々もおられる。  福音書の箇所は、有名な山上の説教。マタイ5章から7章まで続くが、その一番最初、日本語では「心の貧しい人々は幸い」と訳された箇所。最初に、この山上の説教を聞いているのは、どういう人々かを説明しておきたい。 4章には、イエスがガリラヤ湖付近で教え、ありとあらゆる病を癒したため、その評判を聞きつけた人々が、様々な病気や苦しみで悩む人々を連れてきた。そして、大勢の群集がイエスに従うようになった、と書かれている。 この山上の説教は、そのような、病気や苦しみで悩んでいる本人も、その介護者、親だったり子供だったり友人なりもいた。また、中にはイエスを疑う者もいたと思うし、本当にいろいろな人々がいたのだと思う。現代でも冒頭に述べたような、さまざまな病気や悩みに苦しむ方々がいるが、そのような者たちに説教をはじめた。   日本語では、「心の貧しい人々は幸い」となっているが、ヘブル語あるいはアラム語の語順で書くが、「幸せ、貧しい人々、霊的に。なぜなら、彼等のものだから、神の国は。」となる。 最初の言葉は、「幸せ」という言葉で、ぐっと聴いている人々の注目を集める。 さらに続く言葉は、「貧しい」という言葉。 なんで?と聴衆の注目を益々集める。皮肉を言っているわけではない。その次の言葉は、「霊的に」という言葉。霊的に貧しい、よく考えると、イエスさまがおっしゃりたいことは、「霊的にとても弱く、助けを必用としている人々」となってくると感じる。  それはすなわち、群集の多くは、病になっていて、医療ではとても直せず、霊的に満たされることがなにより大切だった。だから、幸せなのは、霊的な助けをいただける、私に従ってきているあなた方だ。そして、神の国を引き継ぐことになるからと話されているように聞こえる。 そのあとは、「悲しんでいる人」、「柔和な人」、となるが、群集の中には、赤ちゃんを失い悲しんで居る者もいただろうし、病人を連れてくる柔和な心を持った人々もいただろう。 さらに、日本語では「義に飢え渇く」となっているが、社会正義的には話しのあわない社会に住んだいた。さらにイエスは、「憐れみ深い人」「心の清い人」「平和を実現する人」「義のために迫害される人」となってくるが、イエスキリストご自身がそういう方であり、イエスキリストに従う者たちも、つまり目の前にいる群衆の一人一人も、キリスト者に変えられて、イエスキリストの祝福、神の国の中にある者とされていくことを述べているように思う。 このイエスの語った山上の説教は、2000年前にイエスに従った大群衆に語られているだけではなく、今、この礼拝堂の中で、あらたに神なる主イエスの言葉として、主が豊かに私たちに与えられている。  それは、さまざまな悩み、また病にみまわれている私たちに、「幸せなのは、今、霊の助けを必要として、この場にいる、あなた方だ。 なぜなら、あなた方が神の国を引き継ぐから。」 それは決して、肉体的、精神的な満足を与えられるものではないかもしれない。 正式な牧師になる前だったが、癌病棟でチャプレンとして奉仕していた。 3ヶ月だけだったが、その間に何人か患者さんが召された。看護士の方が、私のところによってきて、「ありがとう。患者さんたちにとって、また家族の人々にとって一番大切なのは霊的な癒しなのよ。」と言われたことがある。クリスチャンとして先端医療機器の開発、生産、販売する会社に25年間勤めた私も、実は同感だった。  私たち人間には、肉体的あるいは精神的にどんなピンチを迎えていようが、主イエスの信仰により、一番大切な霊的な欠乏が補われる。主イエスキリストが大きな希望、豊富な恵み、慈しみ溢れる癒しを与えてくださり、人は祝福の内に次のステップを歩み出すことができる。 アーメン Matthew 5:1-12 Pr. Hitoshi Adachi May the Grace and Peace of Jesus Christ be with you all! Please reflect upon your lives. I understand that many of you, your family members, or someone close to you are dealing with physical disease. Or not only physical disease but many of you are also taking care of your own children or grandchildren who are still growing physically and mentally. Or you or someone close to you might have some sort of mental illness. Like depression, eating disorders, or schizophrenia for example. One of my pastor friends has a son, who is in high school. A couple of years ago, he suddenly developed amnesia. Since then he does not remember his past life. He does not remember where he grew up or which elementary school he attended. However, after the incident, he is OK, because he at least remembers his life from two years ago. So the relationship between the son and parents was renewed and strengthened. Or you might have family members or close friends who are physically and emotionally OK, but do not accept or believe in any type spirituality, especially denying Jesus Christ, as their savior. Although it’s an exaggeration to say you are oppressed or persecuted by them; you may be mocked and shunned for your beliefs. Today, I read the first portion of Jesus’ Sermon on the Mount, which is a long sermon,…

Tweet 「主が選んだ」  マタイ4: 12-23 主イエスキリストが、集まりました会衆の上に、豊かな恵みを注いでくださいますように! 自分でいろいろな教会をみて、ルーテル教会が良いと思うようになった、あるいは、さまざまな宗教を学んだ結果、わたしはキリスト教徒になったという兄弟姉妹はいる。多いに結構なことだと思う。  しかし、私がキリスト教を選んだとか、私が教会を選んだという気持ちもあるかもしれないが、本当に自分が選んで来たのだろうか。自分がキリスト教会を選んだんだというのは、ちょっと腑に落ちない面がある。というのは、自分が神を選んだようで、それは人間の選択能力が神の選びより優れているような話をしていることにならないだろうか?  たとえ自分で選択したという気持ちがあっても、実は、最初から神が選んでおられたのではないだろうかと思う。しかも、それは、他者より優れていたとかそういうことではなく、ひたすら、神があなたを大好きでたまらなかった。その神の気持ちに応答したと考える方が腑に落ちるように思う。 さて、本日与えらた福音書の前半部分は、預言者たちが書き残していたことが、イエスの出現によって実現することをマタイは述べている。イザヤの8章終わりから9章にかけて、次のようなことが書かれていた。 「ゼブルン、ナフタリと呼ばれる地方、つまりガリラヤ沿岸は、ユダヤから見放されたような状態となっていたが、そこに住む者、暗闇の中に住む者たちは、大きな光を見ることになる。」 そして最初の弟子たちが、イエスに従うようになる様子をマタイは記述している。二人の兄弟ペテロとアンデレがガリラヤ湖で漁をしていた。そこにイエスが声をかけて、「わたしについてきなさい。人間を獲る漁師にする。」という。すると、信じがたいが、二人はすぐに網をすてて、従ってしまう。 次には、ゼベダイというお父さんの息子たち、ヤコブとヨハネが父親といっしょに網の手いれをしていた。そこに、イエスがやってきて、彼等を呼ぶ。すると、やはり信じがたいが、ヤコブとヨハネはすぐさま、父親と網を残して、イエスに従ってしまう。  この4人の漁師たちが突然、イエスの声に反応して、イエスに従うものとなる様子は、ある意味不自然のような気もする。だれかの弟子になるというのであれば、先生となる人の評判とか、あるいは、いろいろな先生を比べてみて、また面接もあり、私はだれだれ先生の弟子になろうということを決めるような面がある。しかし、マタイは全然そういうことは書き残していない。  いったい、今日与えられた福音書を通して、私たちは、何を主イエスキリストから学んでいるのだろうか? ひとつ学べるということは、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、そして、ヨハネも、まずは一方的に神が選んだということではないだろうか。  そして、四人は、ほかの先生と呼ばれる人と比べるようなことはせず、ただイエスに従ったとマタイは記述している。それにしても、私は、マタイの誇張表現があるようにも思う。なぜかというと、先週読んだヨハネ福音書によれば、まずアンデレがイエスに会って、一晩、イエスとの会話なりがあった上で、アンデレはペテロをイエスを合わせている。  また、ルカ福音書によれば、なかなか魚が獲れない状況の中で、イエスから、もう一度船を沖に出して、網を投げるように言われる。 ペトロは、じょうだんじゃない、魚とりに関してはおれの方がプロなんだから、口出ししないで欲しいと言わんばかりだった。 それでも、イエスの言うとおりに網を張ったところ、大漁となり、ペトロはイエスに従うものとなったことが記述されている。  ヨハネ福音書のように、アンデレが兄弟のペテロを連れてきたとしても、またルカが伝えるように、ペトロとイエスの漁の仕方について、やりとりがあった上に、ペトロが従ったにしても、私はマタイの記述から伝わってくる、「主イエスキリストが、”選ぶ”という動詞の主語で、イエスが弟子たちを選んだ。」というポイントは変わらないように思う。神の選び、聖霊の働きがあって、弟子となっている。 もう一つ大切なのは、この弟子たち、ユダヤ社会で、立派な教育を受けていたとか、家柄が良かったからとかという理由で主イエスキリストが彼等を選んでいるのではない。いや、むしろ、世の中でみはなされたような地に住んでいた者たちが選ばれているようなところがある。 それどころか、問題児たちが弟子になっているような面がある。あるいは家庭的に問題のあた家柄の人間が弟子たちになっているような面がある。今日の福音書箇所ではないが、十二弟子たちは、イエスに従っていく間に、「誰が一番弟子のなかで偉いか?」という議論をしたり、さらに、ゼベダイの奥さん、弟子となったヤコブとヨハネの母は、ほかの弟子たちをさておき、イエスのところにやってきて、私たちの息子こそ、あなたの両側の座に座らせてください、と懇願するという話がある。。。 このような聖書の話を通じて、何を思っておられるだろうか? ぜひご自身のことを振り返っていただきたい。 いろいろな過程があって、ご自分で選んで、キリストの信者になったとか、だれだれさんが誘ってくれたから、私は教会に来るようになったという方はおられるのはわかる。しかし、そのようなことが起こるのは、実は神が選んでくださって、今、この礼拝堂に一人一人が座っている。  しかも、その選びは、私たちの能力があるとか、家柄がよいとかそういう基準で選ばれているわけではなく、むしろ、わたしたち自身が社会の中では弱い存在だったり、なにか、問題があってここにいるような面は否めないのだと思う。そのような神の選びだからこそ、すべての人々が主に従う者となる希望があると思う。 また、そのような選びだからこそ、クリスチャンは決して自分自身を誇ることはできない。そしてほめ称える対象は、主の御名となってくる。 今週も謙虚に主に感謝し、主を崇め、キリスト者としての歩みを続けよう。 アーメン “God Chose Us” Matthew 4:12-23 May the Lord, Jesus Christ, pour His grace and peace into this sanctuary! Amen. There are people who looked at many churches before choosing to come to a particular congregation. There are also people who studied many different religions before choosing to be a Christian. These situations are reality and I have no objections when people look into different faiths and choose one that fits their needs. However, even if many people feel that they chose their faith, is it really they who chose? Quite honestly, I am not quite clear if human beings may choose whom to follow religiously…because it seems to imply that humans know more than God. My understanding is even if you feel like you chose whom to follow, especially Jesus Christ, human beings did not choose first, but Jesus, the Lord, chose you and invited you to follow him. God did not choose you because you’re superior to other human beings, he chose you because he loves each one of us equally. His love is boundless and he chose you to receive it. I think because you’re at worship today, you chose to accept his invitation. In the beginning of today’s Gospel text, Matthew described that what prophet Isaiah said 600 years ago became reality by the appearance of Jesus Christ. According to Isaiah, in the beginning of Chapter 9, it reads, “The people who walked…

Tweet 救い主に会いに行こう ヨハネ1:29-41 神の恵みと平安が会衆の上に豊かに注がれますように、神の小羊、主イエス・キリストの御名によって! 本日の福音書箇所、「神の小羊」という言葉が二回出てきている。 なぜ洗礼者ヨハネはイエスのことを「神の小羊」と言うのだろうか? 英語ではLamb of Godで、Lamb of God Lutheran Church という教会もあったりする。 Lambと言われるとなんとなくぴんとくる方もいるのではないかと思う。羊肉のこと。羊の運命は、殺されて食べられてしまうもの。  殺されて食べられてしまう小羊、Lambとその血は、旧約聖書の中では、エジプトで400年奴隷生活を送ったイスラエルの民が、エジプトからイスラエルに戻ることができるようになることと密接に関係している。  出エジプト記12章にその記述があるが、小羊を屠って、羊を食べる家族の門の両側の柱に屠った羊の血を塗っておくことによって、竜巻のような強風がその家を過越し、守られ、その結果イスラエルの民はエジプトでの奴隷生活から解放され、イスラエルへの旅路へと向かうことができる。  今日の福音書箇所の特に後半部分に注目していきたい。 ヨハネの二人の弟子が、「神の小羊」と言ったヨハネの言葉を聴き、そしてイエスに従っていく。  後ろからついてくる二人を見て、「何を求めているのか」と質問をするイエス。それに対して、二人の弟子は、どう答えてよいかわからなかったのか、あるいは好奇心からか、あるいは自分がこれからどこに行くか心配になったのか、「先生どこに泊まっているのですか?」という質問をする。 イエスは、「来なさい、そうすればわかる。」と言われ、二人の弟子はついて行き、その晩は、イエスの所に泊まる。二人の弟子のうちの一人はアンデレだった。アンデレは、後の弟子のリーダ、また、カトリック教会の土台といわれるシモンペトロの兄弟。  翌日は、アンデレは、自分の兄さんのペトロに会って、たった一晩イエスといっしょにいただけだったが、「私は油注がれた者、メサイア、救い主に会った。」と告白する。 そして、ペトロをイエスのところに連れていく。  この話、いったい、現代を生きる私たちに、神なるイエスは何を語っているのだろうか? わからないことばかり。 いったい泊まったところはどんなところだったのだろうか?  アンデレは何を持って、イエスはメサイアだと言い切れるのだろうか? アンデレといっしょにいた弟子はだれだったのか。 その弟子も、イエスはメサイアだということに納得したのだろうか?  ペトロはなぜアンデレの言うことを信じてイエスに会いに行ったのか。 それとも、信じられなかったけど、好奇心からメサイアに会いに行こうとしたのか。ペトロがどう思ったにしろ、はっきりしているのは、とにかく、アンデレはお兄さんのペトロをイエスのところへ連れていった。  実は、現代の教会で行われていることも、わからないことだらけのような面がある。しかし、人々は教会に来て、神秘的な神の働きを感じ、そのなかで、人々が人々を教会に連れてきて、そして、世界で20億人もの人々がキリスト教の信者になっているという事実がある。 それは、礼拝の中で、自分で自覚するかどうかにかかわらず、礼拝に集まる人々は、聖餐式において、救い主イエスに出会っている。 聖餐式の設定の言葉は、イエスキ・リストが語られた言葉をいろいろな言葉に訳して行われているが、その中で、 これは私の体である。 また、この杯は、私の血による新しい契約ということをイエスが語られ、そのイエスの体と血をいただくことで、私たちの罪が赦されるということをイエスは話してくださった。  私の長男が中学生の時の作文でも書いていたことがあったか、なんで、パン(ウェファー)がイエスキリストの体で、なんでぶどうジュースがイエス・キリストの血なのかわからない。 しかし、イエスがそう言われたからそうだとしか言いようが無い。  でも、エジプトからイスラエルの人々がLambの肉と血で解放されたように、イエスの体と血をいただいたとき、信仰によって、私たちが普段の生活で重荷に思っていることや、失敗したなと思うことなどの束縛から解放されるということが、礼拝の中で起こっている。 毎週の神の小羊との出会いを経験した私たちは、その意味やなぜそうなのかということはわからなくても、アンデレが感銘を受け、自分の兄に、救い主に会いに行こうと誘ったように、現代においても、よくわからなくても、友人たちを誘って、救い主イエスに会いに行くという事が起こっている。  “Let’s Go To See The Messiah” John 1:29-41 May Grace and Peace be poured into your hearts in the name of the Lamb of God, our savior and Lord! In the Gospel text I read a short time ago, the phrase “Lamb of God” appeared twice. Why did the Baptist John call Jesus the “Lamb of God”? We see “Lamb of God Lutheran Church.” Why is the church called the “Lamb of God”? What is a Lamb? A lamb is a four-legged, grass-eating, herd animal used for wool and meat, right? In order for lamb to be eaten and provide nutrition, it must be slaughtered. The lamb is a useful animal and a vivid Biblical symbol. The meat and blood of lamb is closely related to the story when Israelites were freed from Egyptian enslavement and journeyed back to the land of Israel. This is written in Exodus Chapter 12, God told Moses and Aaron that they should slaughter lamb and burn the meat to eat and put its blood on both poles of the gate where Israelites live, so that a tornado-like wind will pass over the Israelites’ houses. Then they can start to leave Egypt to journey back to Israel. Now, let’s put aside the story of the lamb and focus on the latter half of today’s Gospel text. The two disciples of John listened…