Tweet “私の愛する子” マタイ 3:13-17 洗礼を受けられた主イエス・キリストの恵みと平安が豊かに与えられますように! 皆さんの中で、洗礼を受けたために、自分ははっきりこう変わったという自覚を持っている方いるだろうか? 洗礼を受けたからといって自分では特に何か変わったという感覚を持たない方と持つ方がいると思う。あまり変わったと思われない方は、もし自分が洗礼を受けていなかったら、今の自分はどうなっていただろうか?という質問をしてみると良いと思う。 私は、もし洗礼を受けていなかったら、もちろんここに立っていなかったと思うし、妻とも結婚していなかったと思う。 すると子供たちも生まれてこなかったことになる。私たちの子供たちは3人とも、この復活ルーテル教会で17年前にいっしょに洗礼を受けたが、洗礼を受けて数週間してからとても面白い経験をした。 というのは、ゆき子の友人の母親が、彼女はクリスチャンではなかったが、「ゆきちゃんは、洗礼を受けたから全然違う。」と冗談ではなく、本気でそう語っておられた。聖霊の働きが、ゆき子だけではなく、その友人のお母様にまで働いているのを感じた。その家族は数年後に日本に帰ったが、お嬢さんはキリスト教の中学高校へと進学した。また、ゆき子が洗礼を受けた年に、日本語学校で担任をしていた先生が、今日、洗礼を受けたということも起こっている。 さて、今日の聖書の箇所、イエス・キリストの洗礼の場面である。 12月末にクリスマスを祝ったが、イエスの降誕のことを書いているのは、マタイ福音書とルカ福音書だけで、主イエス・キリストの洗礼の記述は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネすべての福音書にあり、とても私たちに意味があることだと思う。 そもそも、主イエス・キリストはなぜ洗礼を受けたのだろうか? 罪が赦されるのが洗礼ならば、罪のないキリストは洗礼を受ける必要が無かったように思う。その質問に対して、私は理論的に、 主イエス・キリストはこういう理由で、こうだから洗礼者ヨハネから洗礼を受けたというような説明はできない。 しかし、次のようなことは言えるのではないだろうか。。。 主イエス・キリストは、罪びとである私たち人類に対して、とてつもなく深い関係を持っておられるということ。 また、実際にイエスが洗礼を受けた後、短期的、中期的、また長期的に、何が起こったかということを見ることが大切だと思う。短期的には、聖霊が下って「これは私の愛する子」という言葉が聞こえてくる。それは、神がイエスを自分の愛する子として語られ、イエスの宣教が本格的にはじまり、イエスに追従する使徒たちが出現していく。 さらに、イエスが洗礼を受けたことは、直後に起こったことだけでなく、中期的というのが何年か明確ではないが、だいたい3年後の出来事、ペンテコステの出来事とも関係している。 イエスの洗礼のシーンとペンテコステでのシーンは似ており、ともに聖霊の働き。 そして、ペンテコステにおいて使徒たちが、伝道へと遣わされていく。 そして、2000年後の、私たちの洗礼とも密接に関係していると思う。同じ聖霊が私たち人間の上に働いて、実に不思議な働きをするということが言える。 イエスの洗礼の時に起こった事は、なかなか私たちには説明がつかない。 それと同じように、私たちの洗礼で起こっていることも、私の娘の話でわかるように説明がつかないようなことが起こる。 あるいは、何が起こっているのかよくわからないが、後から考えると、それが聖霊の働きだったのではないかというようなことがたくさん起こっている。 小教理問答書の中で、信仰告白についてマルチン・ルターは、その第三項、「私たちは聖霊を信じます。。。。」ということについて、それはどういう意味なのかを質問している。 その答として、とてもパワフルな言葉が書かれていると思う。それは、「私たちは、キリストというお方を、自分の知性とか能力によって信じれるようになることではない。しかし、聖霊は福音を通して、わたしを召し、その賜物をもってわたしを照らし、まことの信仰のうちにきよめ、支えてくださいました。」 主イエスが洗礼を受けて、聖霊が強力に働いた。 そして主イエスが聖霊とともに宣教活動がはじまった。またペンテコステにおいて、使徒たちが宣教に遣わされるようになった。そして、私たちの洗礼において、強い聖霊が働き、とてつもない聖霊の助け、恵みをいただきながら、私たちが、なんらかの形で世の中に派遣されるということが毎週起こっている。洗礼後に賜る想像を絶するような恵み、助けに感謝し、その恵みを生かして今週も主を賛美して世に仕える日々を送ろう。 アーメン “My Dearly Loved Child” Matthew 3:13-17 May God’s Grace and Peace be with you in the name of our baptized Lord, Jesus Christ! Do you truly feel changed since you were baptized? I think there are people who strongly feel that their lives have been transformed after baptism. However, there are also many people who do not feel that way. For those of you, who did not feel changed, it might be good to ask a question, if you were not baptized, how would your life be now? In my case, my baptism occurred when I was very young, I still remember that I was baptized in a Russian Orthodox Church, but I did not feel transformed at all at the time. However, when I ask the question, if I was not baptized, obviously I would not be where I am now. My life would be a quite different. I do not think I would’ve married my wife…and all of our children would not have been born. All of our children were baptized at the same time at Resurrection Lutheran Church at the age of 10, 8, and 6. We had a very interesting experience right after their baptisms. My daughter was playing at one of her Japanese friend’s house. The mother of that friend said seriously “Yuki is so different since her baptism.” Although she was not baptized and did not know about Christianity well, she was…
January 13th, 2014
2014年1月12日主の洗礼日(顕現1)主日聖餐礼拝説教 「私の愛する子」“My Dearly Loved Child” 牧師 安達均
No Comments, 牧師説教, by admin1.January 5th, 2014
2014年1月5日顕現主日聖餐礼拝説教「恵みの上に更に恵み」“Grace upon Grace” 牧師 安達 均
No Comments, 牧師説教, by admin1.Tweet 「恵みの上に更に恵み」 ヨハネ1:10-18 主の年、2014年、あけましておめでとうございます。日本では1月のはじめは初詣真っ盛りで、いろいろな神社やお寺に、多くの参拝客が訪れ、お賽銭をいれ、それぞれ健康や財政良好などを祈願する。 さらに、神社でもお寺でもおみくじが売られている。復活ルーテル教会でも、このお正月におみくじを引いたとしたら、どうなるか思い浮かべた。別に各個人におみくじを引いてもらうのではなく、復活ルーテル日本語部全体にいただくおみくじです。 そして、こんなおみくじが当たったように思う。「大福大吉」。というのは、2013年の間に、こんなに洗礼準備クラスを行なうとは思ってもみなかった。そして、10月以降、来週までの受洗者4名の最初の文字を並べると大、福、大、そして吉で、大福大吉となる。 10月末からわずか3ヶ月の間に4人の大人の洗礼があるのは、たぶん25年の日本語部の歴史の中で初めてだと思うので、ただの大吉ではなく、大福のついた大吉なのだと思う。 本日与えられている聖書は、ヨハネ1章10節から読んだ。 ちょっと質問。 ヨハネ1章1節はなんだっただろうか? 「はじめに言葉があった。 言葉は神と共にあった。 言葉は神であった。」 2014年の初めの礼拝にあたり、聖書の中で「はじめ」とは何だったのかということを考えるように神は私たちを導いておられるように思う。2014年と数えているが、イエス・キリストが生まれた年の翌年を紀元元年としている。 今日読んだヨハネ福音書の箇所は、1節の「言葉は神であった。」という内容からして、言(ことば)を神におきかえても良い。すると14節の「言は肉となって私たちの間に宿られた。」という箇所は、「神は肉となって私たちの間に宿られた。」となる。 神が肉体となって私たちの中に存在したということは、イエス・キリストがこの世に現れたということ、つまりイエス・キリストの顕現をヨハネ流に著している。 そこには、馬小屋もなければ、羊飼いたちもいなくし、また博士たちも登場して来ないが、ヨハネの深遠なる顕現そして信仰とも言える表現がある。 ヨハネ福音書は顕現だけで終わっていない。 わたしたちは、「神の独り子としての栄光を、イエスに見て、その方が恵みと真理に満ちていた。」と続く。洗礼者ヨハネも「わたしの後に来る方が私よりすぐれている、と言ったのは、このイエスのことだ。」と声を張り上げたとも書かれている。 さらに、16節の言葉は、そのイエス・キリストが、満ち溢れる豊かさから、恵みの上に更なる恵みを受けた。とヨハネは伝えている。 この恵みの上に恵みを受けるということの内容はどういうことなのか? 12節と13節には、言(ことば)つまり神なるイエスを信じるものに、神の子となる資格与えたとあり、また、その神なるイエスを信じる人になるというのは、決して、自分の欲求、自分がクリスチャンになりたいという欲によって生まれるのではなく、神によって信じるものになったということが書かれている。 今日の聖書の箇所を通して、神は私たちに何を語っているのだろうか。 とくに洗礼を受けキリストの信仰者としての歩みを続けていく者が、毎月のように与えられている中、とても、神は重要なことを教えてくださっているように思う。 洗礼を受ける者が誕生しているのは、決して洗礼を受ける者や、教会員たちのエゴとか欲求によって生まれているのではなく、実は全部、神によって、神の意志による洗礼によって信仰者誕生が起こっているということではないだろうか。 つまり、復活ルーテルでこの3ヶ月に4人の洗礼者が生まれたからといって、復活ルーテルにいる仲間たちがすごいとか、人間的な欲求の成果では全然ないということを肝に命じたいと思う。 つまり、復活ルーテル教会にいる私たち、とくに、リーダがうぬぼれてはいけない。 すべては、はじめから存在してくださっている神が源となって、恵みの上に更なる恵みをくださり、洗礼を受ける者が連続的に現れている。教会でさまざまな活動をしていることは、その究極的なリーダは牧師や教会のリーダではなく、イエスキリストだ。そのイエ・スキリストというお方から、事実、恵みの上に更なる恵みをいただいていることに畏れ敬い、信仰の歩みを続けてまいりたい。 主の年2014年の最初の礼拝で与えられた御言葉、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」は今年のテーマ聖句として、毎週の週報等に登場する。そこに目が止まったら、その意味を吟味しよう。世の中で遭遇するさまざまな出来事に対し、洗礼を受けた方が、礼拝に出て御言葉に触れ、聖餐に与る生活をしていると、さまざまな出来事に対する感じ方が変わって来る。 主なる神、イエス・キリストは、主の御意志によって、礼拝で与えられる御言葉、洗礼、聖餐を通して、恵みの上に更なる恵みをくださる。 アーメン。 “Grace upon Grace” John 1:10-18 Pr. H. Adachi May the Lord’s Grace and Peace be with you in the name of the Father, Son, and the Holy Spirit! Anno Domini 2014, Happy New Year! In Japan, probably many people are still visiting shrines and temples during the beginning of this new year. It is a very popular custom that people put some coins into offertory boxes and pray for things like prosperity or good health. They also buy written fortunes. These fortunes are sold at shrines and are similar to fortune cookie fortunes. These fortunes can range from “middle of the road” fortunes to “lucky” and “very lucky” fortunes. I just thought that if Resurrection Lutheran Church bought a fortune, what would it be? I think as a congregation we received “Great Fortune and Great Luck.” During 2013, I did not think that I would hold as many Baptism Preparation Classes as I did. In the beginning, I started one for Yoko Ono, then I invited Ken Fukuyama to join in early summer. In fall, I started one for Satoyo Oi, and in late fall, I started one for Ryuko Yoshida. Ms. Yoshida will be baptized next week, but if we take the first letters of the students’ last names in Kanji, it means Great-Fortune-Great-Luck. From the end of October until the middle of January, during these three months, three adults are baptized. This is…
Tweet マタイ2:13-23 主イエス・キリストの恵みと平安が会衆一同の上に豊かに注がれますように! アーメン あなたの家庭生活はいかがなものだろうか? 正直なところ、あまり聞かれたくないという方、たくさんおられるのが現実ではないだろうか? 特にアメリカに住んでいると、家族のだれかが、ドラッグ、アルコール、セックス等々の中毒などでトラブルになった過去にあるのではないだろうか? 最近の日本の芸能ニュースで、あるカップルが16年前に子供ができてしまったので結婚したが、数年後に離婚、父親が長男をほとんど育てていた。しかし、父親と長男のDNA鑑定をしたら、その長男は自分の子供ではないということがわかったという。 さあ、どうしましょう。その子の、本当の父親はだれなのか、週刊誌はさわぐ。いろいろ傷の深い問題になってくるが、そのような家族の方々こそ教会に来られ、イエスとの関係を持てたら良いと思う。 本日は、ヨセフとマリア、そして、おさな子イエスの家族について考えたい。イエスの誕生の話でも、ヨセフは最初はマリアが妊娠した時、本当の父親はだれなんだという質問をしたことだろう。 それでも、聖霊によって妊娠したという天の御告げを、信じて、マリアとヨセフは信仰生活に入る。ヨセフとマリアとイエスの家族のことを聖家族と呼んだりするが、かといって、なにごとも順調な家族というわけではまったくない。妊娠がわかった時も出産の時も、生活は波乱万丈。 イエスは、ヨセフとマリアがナザレから旅行している最中、ベツレヘムで生まれてしまう。それも宿屋がいっぱいだったため馬小屋で生まれ、馬のえさをいれる飼い葉おけに寝かされる。 すると、エルサレムで神の子が生まれたという知らせを聞いたヘロデ王は自分の権力がどうにかなってしまうのではないかと恐れ、ベツレヘムにいる2歳以下の子供をすべて殺すようにという命令を出した。 そのような状況になって行く中、ヨセフには天のお告げがあって、マリアと幼子イエスを連れて、エジプトへと逃げる。飛行機も自動車もない時代の旅。エジプトのどこに非難したかは書かれていないが、仮にカイロあたりだとして、現代、車に乗っていっても10時間位かかる。当時のことなので、何日もかかって旅をしたに違いない。 そして、幼子の命を狙っていたヘロデが死んだ後、ヨセフにはやはり主の天使が現れて、イスラエルに戻るようにとのお告げがあり、結局、イスラエルのナザレに戻ることになる。 イエスの誕生にいたるまでの過程も、週刊誌ネタのようなところもあるし、誕生した場所は、悲劇的な場所での出産だった。また、幼子イエスの命が狙われたため、エジプトへの難民家族生活にも強いられた。 ナザレに戻るまでの生活だけでもそれはそれは、たいへんな生活を味わう家族だった。 イエスの降誕、クリスマスを祝ったばかりだが、降誕のときだけでなく、イエスが生まれてからの日々のヨセフ一家のたいへんさを通して、神は私たちに、いったい何を語っておられるのだろうか? 今日の聖書の箇所で、預言者を通して言われていたことが実現したという箇所が3箇所出てきている。 ヘロデ王がベツレヘム周辺の赤ちゃんたちを殺してしまう話は、エレミヤの預言に書かれていた。エジプトからイエスが戻ることができたことは、ホセア書に「わたしは、エジプトから私の子を呼び出した。」という預言があった。また、ナザレに住むことになったことに関しても、旧約聖書の士師記やイザヤ書にも関連する預言が確かにあった。 このようなことから、新約聖書でイエスが救い主として誕生すること、また、降誕後のごたごたも、ほとんど旧約聖書に預言されていたということで、だからイエスはこの世の救い主なのだということを、私たちは今日学んでいるのだろうか? 確かに、聖書の研究家や、牧師たちが、旧約聖書と新約聖書がいかに密接に関連しているかということを知的に調べ、だからイエスが救い主だと信じれるようになることは大切だとは思う。 しかし、旧約聖書で言われていたことが、新約聖書で実現したということ以上に、聖書の中で起こっていること、特にイエスの生き様が、現代の私たちの実生活にどれだけ救いになっているかということを実感し心にしみ入ってくる事の方が大切だと思う。 神の子イエスは、いってみれば、恥ずかしくてしょうがないと思うような婚約カップルの中に来て下さった。あるいは、慣れない土地で出産をせざるを得ない女性にも来てくださった。あるいは病院には到達できずに途中で出産してしまうような母親にもイエスは現れる。また、子供をかかえた難民家族にもイエスの愛は届いている。 聖家族、ヨセフ一家は様々な困難に直面した。現代の家族もとんでもない困難に直面する中、キリスト信仰によって、ヨセフ一家が受けた神の恵みと同じ恵みを戴ける。それはイエスの存在であり、その存在を信仰の歩みの中で確認し、イエスに在る希望を持って私たちは困難の中でも歩むことができる。 アーメン。 “A Family is Full of Ups and Downs” Matthew 2:13-23 Pr. Hitoshi Adachi May the Lord’s Grace and Peace be with you in this sanctuary! Amen. How is your family life? To be honest, there are many people who do not want to be asked in detail about his or her family. Especially in the United States, it is a reality that many fathers and mothers do not want to be asked about their private lives due to their own behavior or their children’s behavior like drug issues, sex addiction, and so on. I read an article about a famous actor in Japan, although he divorced his former spouse 8 years ago, he was raising his first son believing that the child was his son. The child is now 16 years old and the father and son did a DNA test to see if that child is his son or not. The outcome was 0% possibility as the biological father. So what does this mean? Who is his real biological father? Of course, tabloid entertainment news/magazines are reporting this news here and there and deepening their wounds. It is my hope that they come to church and have a relationship with Jesus. From the Gospel Text today, I would like to talk about the family of Joseph and Mary. Mary was pregnant due to the Holy Spirit according to the Bible. In this world, there…
December 26th, 2013
2013年12月24日クリスマス・イヴ燭火礼拝説教”A Happy Ending” E. Carl Zimmermann 牧師
No Comments, 牧師説教, by admin1.Tweet “ハッピーエンド” この教会のメンバーなら私がどんなに風変わりなセンスの持ち主であるかご存知だと思います。例えば、映画鑑賞専門家は、“Raging Bull”、“カサブランカ”、“風と共に去りぬ”を三大映画と評価していますが、私の好みはどちらかというと、 “Brazing Saddles”,“Fargo”, “The Life of Brian”で、もう一つ加えるなら、Chevy Chase の “The Griswald Family Christmas”です。コメデイアンのChevy Chaseは主人公のClark Griswaldを演じます。彼は変わり者の親戚や隣人に囲まれているにも関わらず、クリスマスを特別素晴らしい時にしようと頑張ります。彼は、これでもか、これでもかと言うように失敗ばかり繰り返しますが、最後はめでたくハッピーエンドとなります。クリスマスを盗んだグリンチも最後には改心しますし、トナカイのルドルフもサンタを助けて大働きをします。有名なディキンズの小説に出て来る、年老いて憎しみに満ちたスクルージでさえも、最後には心を改めるのです。これらの素晴らしいお話は、ただハッピーエンドで心を暖めてくれるだけではなく、もしかしたら、こんな世の中でも希望が持てるかもしれないと私たちに思わせてくれます。そう解ってはいても、ハッピーエンドはいくら私達が楽観的でも、日々の希望の無い絶望的な現実をみるとただの幻想にしか思えないのです。考えてみて下さい。1日として人が射殺されたニュースや、盗み、飢餓、貧困、治療不可能な病気や不正行為を耳にしない日があるでしょうか?こんな状態の何処にハッピーエンドがあると言えるのでしょうか? 俳優のWoody Allenが言うように、この世は絶望かまたは絶滅に向かっているのでしょうか?こんな状況から、どうすれば幸せな思いや希望や喜びを持てるというのでしょう。それでも、どこか奥深い所で、全ての支離滅裂な現実に反して、人生にはそれら腐敗や詐欺や暴力以外の何かが、それがほんの少しの何かであっても、きっと在るに違いないと私達は信じたいのです。神様が私たちに手を差し伸べて下さる時、ただの幻覚や夢ではなくて何か、小さくても必ずハッピーエンドが訪れるのではないでしょうか。それと同じように、クリスマスのお話の一部分は、私たちが完全に希望を失ってはいないという事を語っているのです。 イエスの母マリアをちょっと考えてみて下さい。彼女はただ普通のテイーンエイジャーで王女さまでも貴族や高貴な家柄でもありません。彼女は他の娘と何の変わりも無い少女でした。 だからこそドラマテイックなのです。何の前触れも予告も無く、突然天使のガブリエルが訪れ、マリヤに、あなたは身ごもって神の子を生む、と告げた時、彼女がどれ程ショックだったか私たちにも解ります。でもここで彼女は天使に幾つか質問しますが、その後で、「そうなりますように」と素直に受け入れているのです。殆どの女性がそんな事を言われたら心臓麻痺でも起こしてしまいそうなのに、彼女は「おことば通り、この身になりますように」と答えたのです。多分マリアのどこか奥深い所で、神様のご計画が最後には悲劇に終わる事はないと信じていたからこそ、「お言葉通りになるように」と、素直に神様に自分を委ね、選ばれた器として神様に仕え従う事が出来たのでしょう。彼女は、神様が自分の人生に関わって下さる時、そこには勝利と幸せに満ちた素晴らしい終わりが在る事を知っていたのです。 今宵、私たち一人一人が問う事は、キリストの聖誕が、私たちの中に希望と喜びをもたらす事を信じるかどうか、なのです。マリアのように勇気をもって大胆に、キリストに従えば、スクルージやグリズウオルドの世界だけではなく、私たち全てにハッピーエンドが訪れると信じられますか? 家族や友達に囲まれて楽しく食事をしたり、プレゼントの交換をしたりする今夜は、とても「静かな夜(聖しこの夜・Silent Night))の イメージではないかもしれません。でも知っておいて下さい、神の天使があなたの上を舞いながら耳元でこう囁いているのです: 「見よ、私はあなた方に良き知らせを伝えに来た。」そしてこの良き知らせとは: キリストの誕生と共に約束されたハッピーエンドなのです。 皆様、それぞれに祝福に満ちたクリスマスをお迎えください。アーメン。 ”A Happy Ending” Members of this congregation know that I have a peculiar, quirky sense of humor. For instance, while the experts name Raging Bull, Casablanca and Gone With the Wind as three of the greatest movies ever produced but I’d rather watch Blazing Saddles, Fargo and The Life of Brian. Allow me to add one more: “The Griswald Family Christmas.” You know the one-Chevy Chase plays Clark Griswald who tries to make Christmas special even though he’s surrounded by wacky relatives and odd neighbors. The movie is one mis-adventure after another and Christmas appears to be headed for a complete meltdown, but in the end, it has a happy ending and our faith in family is once again restored. Many seasonal films end like that. The Grinch who did his level best to steal Christmas finally came around and Rudolph helped Santa save the day. Even old, bitter Scourge had a change of heart in Dicken’s holiday classic. These wonderful stories with happy endings tug at our heart strings but they do more than that… They help us believe that maybe, just maybe, there is hope for this frail and fragile world of ours. And yet, believing in happy endings seems something of a pipe dream…..Even the most optimistic of us can’t deny or escape the constant barrage of hopelessness and despair that confronts us every day….
Tweet 「ひとりじゃないの」 マタイ 1: 18-25 ここに集まった会衆の上に、また、この礼拝を覚えながらもこの場所に集えない兄弟姉妹にも、主イエス・キリストの恵みと平安が豊かにあるように! アーメン 1970年代に日本の国民的スーパーアイドルとなった天地真理さんという歌手を知っている方おられると思う。 数々のヒット曲、水色の恋、小さな恋、ひとりじゃないの、虹をわたって、若葉のささやき、等々、のヒット曲が生まれた。最大のヒット曲は何だったかご存知だろうか? ウィキペディアなどで検索してみたが、「ひとりじゃないの」が最大のヒットだそうだ。私はかってから、たった2-3分の歌なのに、それが世間の注目を集める背後には、主イエスが働いているような思いがしてならない。 カンという歌手の「愛は勝つ」、子門真人の「およげたい焼きくん」なども、讃美歌として歌われるわけではないが、私は主イエスキリストとの関係を無視しないわけにはいかないようなストーリがあると思っている。今日は、本日の福音書と関係のある「ひとりじゃないの」ということに焦点を当ててお話したい。 第四アドベントの聖日に与えられている聖書の箇所、さきほど読んだ通りである。 聖母マリアの妊娠の話は、ルカ福音書ではマリアに焦点があたっているが、マタイ福音書では男性のヨセフに焦点があたっている。 ここにおられる方々は女性が多いが、ちょっと無理な話かもしれないが、仮に婚約中の男性の気持ちになってほしい。そして、婚約相手が、自分に身におぼえがないのに妊娠したとしよう。どんな気持ちになるだろうか? 今日、不思議なことに、というか意味のある偶然だというべきか、礼拝の後、婚約式をされるカップルがおられる。今日の福音書箇所は、聖書の中で、著しく意味深いヨセフとマリアの婚約に関わる話だ。とにかく、婚約中に婚約相手の女性が別の男性と関係を持ったとしか考えられず、妊娠してしまうなんて、ただごとではない、冗談じゃないという話だ。ヨセフの場合は、ひそかに縁を切ろうと心を決める。 どうしようもない状況のヨセフに、天の使いの言葉、「恐れないでマリアを迎えるように。」「おなかの子は聖霊に宿ったのだ。」「マリアは男の子を生み、イエスと名づけるように。」そして「神の民を罪から救う。」が与えられる。そして、マタイが伝えていることは、それは、もともとイザヤ7章14節で預言していた「乙女が身ごもって男の子を生ヨセフは信仰深いユダヤ教徒だったので、このイザヤの言葉はよく覚えていただろうし、天使の言葉を信じることができたのだろう。 それにしても、新約聖書を見る限り、イエスが生まれてから一度も、「インマヌエル」と呼ばれているのはどこにも書かれていない。 いったいこの話、現代に生きる我々とどういう関係があるのだろうか? 私はイエス時代にだれもイエスのことをインマヌエルと呼ばなかったとしても、インマヌエル、「神が共に私たちと居る」という意味のその言葉は、その言葉通り、過去もそうであるし、現在もそうだし、将来に渡って、真実なのだ。 マタイ福音書は28章まであるが、その最後はイエスの言葉で終わっている、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」となっている。 つまり、わたしたちひとりひとりは、ひとりぼっちだと思ってしまうこともあるが、けっして「ひとりじゃないの」ということをイエスの存在から気がつこう。 いろいろな人生がある。長年の結婚生活をするなかでも、離れ離れに生活している夫婦がいたりする。そのような時代を通って行けるのは、たとえ離れていても、神なる主イエスキリストがずっと共にいてくださるという共通の信仰があるカップルは多くの神の恵みに気づいて生きることができるとおもう。 聖書の中に描かれている多くのイメージの中に神が花婿で、私たち人間は男性女性にかかわらず、全人類が花嫁のようなところがある。 そして、花婿がずっと花嫁を愛し続けてくださっている。たとえ花嫁がどっかそっぽを向いてしまうようなことがあったとしても、ときには、花婿の気持ちを理解できないことが起こるようなことがあったとしても、永遠に花婿は花嫁を、愛し続けてくださっている。 その花婿がイエスとして、この世に現れてくださり、インマヌエル、私たちとともにいてくださる。わたしたち一人一人は、決して、ひとりじゃない。アーメン。 “Not Me Alone”- “Hitorijanaino” Matthew 1: 18-25 May God’s Grace and Peace be with you in this sanctuary! We welcome congregants, visitors and those that wished they were here (but illness or obligation prevent them from attending). Amen. In the 1970s, there was a pop superstar named Mari Amachi. Her songs became very popular and many of them ranked No. 1 on the hit charts at that time. Do you know which one was most popular? I googled and researched a bit. Then I found that “Not Me Alone,” which means you are not alone, was the best-selling song among her many hits… Over the years, even in Japan, I wonder how some songs become so popular regardless of who sings them. I am a strong believer that God, Jesus Christ, is working behind these songs. There were songs like “Love Wins” sung by Kan and “Swim On, Taiyaki!” by Masato Simon. I believe those songs, too, are Biblical and I believe Jesus is in those songs, although they are not really sung in church as hymns or praise songs. In today’s message, I would like to talk about “Not Me Alone” which is closely related to the Gospel text today. On this fourth Advent Sunday, the Gospel text is from Matthew Chapter 1. Regarding Mary pregnancy, if you read Luke, the focus is more on Mary rather than Joseph. However, in Matthew, the focus is really Joseph, the guy who was engaged…
Tweet マタイ 11:2-11 主イエス・キリストの恵みと平安が豊かに注がれますように! お母さんが洗礼を受けるのを見ていた男の子が、なぜ洗礼の時、お水をかけたの?という質問をした。それはとても良い質問で小学校1年生の彼に、「ごはん食べるまえに手を洗うでしょう。それと似ていて、神さま、イエスさまを信じて生きていこうとする時に、その前に、水できれいにしてもらうみたいなもんだよ。」と答えた。すると、「神さまを信じて生きていくというのは、見えないものを信じることでしょ。できるのかな?」 と彼の質問は続いた。そこで、「すばらしい質問だね! そうなんだよ、信仰とは見えないけど神様を信じて生きることなんだよ。」と答えると、それ以上は質問は続かなかった。 今日のメッセージでは、あえて、ひとつ付け加えたい。信仰とは、まさに見えないものを信じて生きていくことだが、単に見えない神様だけを信じて生きて行くことと、主なる救い主イエス様も信じて生きて行くということは、決定的な違いがある。 この違いは、キリスト信仰の根本にかかわる問題で、主なるイエスを信じることに、キリスト教のすばらしさ、主の神秘性、秘密の業があるからだ。秘密の業については、さらに説教の後半で述べたい。 与えられた福音書、本日アドベント第三週は、第二週に続き、洗礼者ヨハネに関係している。先週の福音書箇所では、ヨハネはイエスの宣教開始前に、洗礼者ヨハネの元に集まってくる人々に、頼りにならないものとか、真の神ではない人に向かうのではなく、私の後につづいてこられる方、イエス様に向かって歩むようにと人々を導いた。 ヨハネの元に集まった多くの人々は、イエスに追従しはじめた。 しかし、イエスの宣教がはじまっても、ヨハネの弟子のままでいる人々もいた。 ヨハネはそのような人々に対し、イエスのところに行って、「あなたは救い主としてこの世に来られた張本人なのでしょうか?あるいは、本当の救い主が来るまで、もっと待たなければならないのでしょうか?」という質問をさせた。 ヨハネは、イエスは救い主であるということはわかっていたものの、イエスは神として怒りと裁きを顕されるような方だと思っていた節があった。 ところが実際はヨハネが想像していたイエスとは違い、あまりにも恵みに満ちた方であった。 それで、いまだにヨハネに追従してくる弟子たちに、このような質問をさせたように思う。 その質問に対してイエスはまず、「ヨハネの所に戻って見聞きしていることを話すように」と話した後で、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」と話した。 マタイの11章より前あるいは後の章も読めばわかるが、それらは、実際にイエスが行なっていた業であり、しかもイザヤがすでにイエスの降誕前の紀元前600年ごろに、神の言葉として語っていたことだった。 そこには、イエスが神として、また救い主として顕われたことの証拠があったといっても良い。 すなわち、ヨハネの弟子たちが質問したことに対して、「私は救い主です。」という答えを返したともいえる。 つまり、2000年前、救い主イエスはすでに顕われたということ。 このヨハネの弟子たちの質問とイエスの回答は、いったい現代を生きる私たちにどういう意味を持っているのか。さらに、待降節と称して主の降誕を思い、また再臨を待つ時期にあるなかで、われわれに、神は何を語りかけているのだろうか? 現代の私たち、イエス様の存在を2000年前のように、見ることはできない。しかし、聖霊として、わたしたちの周りに、いまだに存在してくださっている。 そればかりではなく、イエスはもっとも小さいものにしてくれたことはわたしにしてくれたことなのだという言葉も残している。 もっとも顕著なことは、イエス自身が、「このパンはわたしの体である。」といわれたこと、「この杯は、罪の赦しのために私が流す血による新しい契約だ。」とも言われた。 だから、聖餐式でいただくパンとぶどう酒に、イエスの存在を信じて、わたしたちは、聖餐式に預かっている。 このアドベントの時期にあって、いろいろな困難に出会うわたしたちの人生にあって、その真っ只中にいてくださる主イエスの存在を確認しよう。 それはとても神秘的なことで、よくは見えない存在。 しかし、パンとぶどう酒のなかに、あるいは、世の中のもっとも小さい兄弟姉妹のなかに、存在してくださって、私たちを強め、そして永遠の命に導く存在だ。 そのイエスの存在により、自分の置かれている状況がよく見えなかったのに見えるようになったり、人生の歩みに挫折していたのがまた歩めるようになったり、体調が悪く心も死んでいたようになっていたのに身も心も健やかになったり、本を読んでもよくわからなかったのが聖書の御言葉がどんどん読めるようになる等ということが、現在もたくさん起こっている。 皆さんの中にそのような体験をした方々がたくさんいるはず。 このアドベントの季節、今一度、人類が神から頂いた最高のプレゼントである神の子、イエス様の存在に気づき、その大きな恵みに与り、将来に向けて、新たに夢と希望を持って歩み出せますように。アーメン。 “Jesus’ Presence” Matthew 11:2-11 Pr. H. Adachi May the Grace and Peace upon us in the name of our Savior and Lord, Jesus Christ! A six year old child asked me a question, “When my mother was baptized, why you put water on her head?” Actually, this was a very good question, and I answered to him, “Before you eat dinner, do you wash your hand to clean? Correct? The Holy Baptism is something similar, before you start the faithful life, which is to follow Jesus Christ believing in God, you had better be washed spiritually by the water.” Then he asked the next question. “Believing in God is to believe something that cannot be seen. Can I do? I wonder…” Then I said to him, “What a wonderful question you asked! Yes, the faith is to believe in God that is not seen.” Then he did not ask any further question. Here in this message, I would like to add that, there is a substantial difference between to believe in only God and to believe in Christ as our Lord and Savior. The latter belief has a fundamental mysterious aspect which cannot be seen as well as cannot comprehend. I will talk more about this aspect toward the end of the message. The Gospel text on this third advent, we continue reading the text that is related to John the Baptist. Last week, we learned…
Tweet マタイ3:1-12 主イエスキリストの恵みと平安が集まった会衆の上に豊かに注がれるように! 12月1日をもって、日本では道路交通法が改正されて、自転車通行の人々も必ず車と同じ左側通行をしなければならなくなった。そのニュースを見ていたら、多くの警察官やボランティアの方々が、あちこちに立ち、右側通行をしていた自転車がいたら、「そっちではないですよ、こっちですよ。」と誘導していた光景が放映されていた。 私はその光景を見たあと、今週の聖書箇所を新たに読んだ。そして、誘導していた方々のイメージが洗礼者ヨハネのイメージへと変わっていった。何を言いたいかというと、 洗礼者ヨハネも信仰という道において間違った側を歩いている人を、そっち側ではないですよ、こっちですよ。と言って導いたような所がある。 アドベントに入って、第二週目と第三週目は、毎年洗礼者ヨハネについて書いてある福音書を読むが、今年はマタイ3章が与えられていて、当時のヨハネの様子を思い浮かべて、主なる神、聖霊は、この礼拝堂に集まった私たちに、何を語ろうとしているのか考えてみたい? 与えられた福音書を見ると、洗礼者ヨハネは荒れ野に住み、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていたとある。 その服装からして、800年前の預言者、エリヤを再現しているようでもある。 神の言葉を聴き、預かり、その時代の人々に神の言葉を伝える預言者の存在が何人もいた。神の言葉を預かるという点では、アブラハムから始まって、モーセもそうであろうし、エリヤ、エレミア、イザヤ、エゼキエル、等々さらに、旧約聖書の終わりの方には、十二人の預言書がある。マラキが旧約聖書の最後で、紀元前5世紀の預言者。そして、紀元前4世紀ごろには、ユダヤ教の世界では、聖書がほぼ完成して、生身の預言者が現れる時代ではなく、紙(巻物)に残された聖書を読むことで神の言葉を聴く時代になっていったと思われる。 そのような時代に、洗礼者ヨハネが現れた。しかも、荒れ野に現れた。イザヤ書で預言されていたような形で、800年前のエリヤのような格好で。それは、ひょっとして救い主かと思ってイスラエル、ユダ、ヨルダン川一帯から多くの人々が洗礼に訪れた。 ヨハネの言葉のメッセージは、「悔い改めよ、神の国は近づいた」という言葉で始まっている。 ちなみに、イエスの宣教もまったく同じ言葉ではじまっている。 悔い改めという言葉が今日の聖書の箇所で三度も使われているが、悔い改めのギリシャ語はメタノイヤという言葉。それは心を変えること。 日本語で回心という言葉があるが、心がどこか違う方向に向いてしまっているところを、回転させてしっかり神に向けるということかと思う。そして、ヨハネ自身が、決して自分の方向ではなく、後に来られるイエス・キリストの方にしっかり向きなさいということを示した。 生きた預言者不在の時代が500年近く続いている中で、突然生ける神の言葉を語り、洗礼を授けるヨハネが現れたかと思うと、続けざまに、もっとすごい方が現れて、聖霊と火で洗礼を授けられるようになる。そしてそのお方の方向を向くようにとヨハネは指示したと言える。 この話、わたしたちの人生とどう関係しているのだろうか? 冒頭に自転車を例に出したが、自転車で道路を走るとき、歩行者と同じように右側を走ったらよいのか、あるいは車と同じで左側が良いのか、迷う人はたくさんいる。 この世に生まれたすべての人間の人生の途上においても、迷うことが多く、どっち側を歩いてよいのかわからない。あるいはどっちの方向に向かえばよいか迷う。何万もの宗教はあるし、この世には、お金や地位、いろいろ惑わされてしまうものが存在する。 しかし、この礼拝堂にいる皆さんのほとんどは既に、父と子と聖霊の御名による洗礼を受けている。洗礼は、回心の印。心をイエスに向けたというか、聖霊が働いて、おひとりおひとりの心が、イエスに向くように変えられたといっても良い。それは本当にすばらしい神から賜物だ。ぜひ、そのことを今一度、思い出して欲しい。 私たちの周囲には洗礼を受けておられない方々もたくさんいるが、回心して心をイエスに向けて信仰の道を歩む、洗礼へとすべての人は招かれている。それは、主イエスが、教会とそこに集うクリスチャンを通して導いている。 今日のヨハネの言葉だけを読むと、イエスというお方は、神の怒りと裁きをもたらす方というイメージは否めない。私はヨハネ自身も、その時点では、本当にイエスがどのような方であるかはよくわかっていなかったと思う。ものすごい方ということだけを神の言葉から察知して、悔い改めにふさわしい実を結べ、とか、殻を消えることのない火で焼き払われるなどという言葉をそのまま語っていたのだろう。 実際の神なるイエスは、どういう方か、イエスの洗礼は、死ぬべき罪人が復活するような徹底的な赦しであり、神からの豊かな恵みである。なので、私たちは洗礼を通して、神の赦しと恵みに浸る経験をした。今年の待降節、過去に洗礼を受けたことに感謝し、また新たに主イエスの方向に向かって歩みだそう。そして、周囲の洗礼を受けていない方々をも、世の中の様々なアイドルに惑わされることなく、聖なる主イエス・キリストの方へと導こう。 アーメン “Sign of Conversion” 2013 12 08 LCR Matthew 3:1-12 Pr. Hitoshi Adachi May Grace and Peace be upon you in the name of our savior, Jesus Christ! Amen. In Japan a revised traffic law went into effect as of December 1st, from now on all bicycles need to run on the left side of the street (same as cars). While I was watching the news, there were many police officers and volunteers standing on the street, guiding many bikes towards the left side of the street. After I saw that news, I read the Gospel text again. Then the images of police officers and volunteers were changed to John the Baptist in my mind’s eye. What I want to say here is that John the Baptist, was guiding people who were walking on the wrong side of the road of faith to come towards the correct side by repenting and listening to Jesus. Entering the season of Advent, the second and the third Sundays, we read the Gospel text relating to John the Baptist. Let’s reflect upon what he did 2000 years ago, and think about what the Lord, our God, the Holy Spirit is trying to say to us in this sanctuary now. According to the Gospel text given, John wore clothing of camel’s hair with a leather belt around his waist, and his food was locusts and wild honey. This image was like Elijah, one of God’s…
Tweet 「もうすでに、だけどまだ」 マタイ24:33-44 主イエスキリストの恵みと平安が集まった会衆の上に豊かに注がれるように! 若いころ、本当にテニスを真剣にやった。社会人になってからも会社の中のテニス部員として活動した。ある大会では会社のテニス部が準優勝したりもした。 そのような上位の成績を残したときは、自分はとてもこの相手には勝てそうもない実力でも、どういう風の吹き回しか、自分がまったく異なる別人のようなプレーができてしまうことがあったと思う。とくにだれかが見ていると。。。 まるで二重人格者ともいうべきか、同じ自分の中が、まるで、二人の自分がいる。 一人はテニスのうまい人間と、もう一人は凡人が存在しているような。 似たような経験をお持ちの方はいるのではないかと思う。かたや自信に満ち溢れているかと思うと、また自分には自信が持てないというか自分を否定する時もある。 ローマ13:14には、キリストを身にまとうようにとパウロは薦めているが、なにか関係があるような気がする。 さて、本日からはアドベント。2000年前にイエスがこの世に来られたということを思うだけでなく、主イエス・キリストが、世の終わりに栄光のうちに再臨されることを備え待つ季節でもある。イエス・キリストはもうすでに来られたけど、まだ再臨されていない時代、「もうすでに、だけどまだ」と短く表現することもあるが、私たちはそのような時代に生きていることを思う季節。このアドベントとは、いったい私たちの実生活にどのように関係しているのだろうか? 本日の福音書の箇所では、イエスの再臨の日時はだれも知らないと、イエス自身が語っている。その時は、ノアの時代にノアとその家族以外の人々がなにも備えのないうちに、突然大洪水に襲われてしまったようなものだ。あるいは、二人の男が畑仕事をしていれば、一人が突然連れ去られ、一人は残るだとか、二人の女が臼をひいていれば、一人が突然連れ去られ、もう一人は残ると。そして目をさましているようにとイエスは忠告している。いったい、イエスは何をおっしゃりたいのだろう? 私の家の裏庭を畑にたとえるわけでもないが、私の家では、もう子供たち育ってしまい、私自身が外に出て一人で畑仕事というか、裏庭に植わっているレモン、アボガド、グアバなどの世話をしていることがある。 二人の男のイメージが沸いてこない。 そこで、はっと気づいたのだが、イエスの言う二人の男というのは、一人の人間なのに、テニスをするとき、ほとんど完璧にテニスをできる自分があると同時に、また凡人の自分があるように、一人の人間でも、キリストの愛の心を持つ部分と、キリストの愛に反する部分があって、愛に反する部分は消えて行くという事をおっしゃりたいのではないかと思う。 つまり、キリストの愛を着ていない人が消えるとかそういうことではなく、わたしたちの中の愛を着ていない部分、つまりキリストの愛を否定してしまうような罪が消え、私たちをキリストの愛を完全に着るような人間になるということをおっしゃりたいのではないかと思う。ヨハネの手紙一の三章二節には、「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」 私たち、一人一人は、洗礼を受けて、すでにイエス・キリストを身に着けているが、かといって、イエスの再臨の時に起こるという完全にキリストを身に着けるということは起こっていない、ある意味中途半端な時代にいる。 そのような時代にあって、イエスは、目を覚ましていなさい。備えていなさいと言われる。それにしても、目を覚まし、備えているということはどういう意味か、今日の聖書の箇所、マタイ24:33-44からはよくわからない。 マタイ福音書には、24章45節から25章の終わりまでに、4つのたとえ話が加えられている。一つ目は、「主人が帰ってきたときに忠実にしている僕の話。」二つ目は、「ともし火と一緒に、つぼに油を入れて待っている乙女たちの話。」そして、三つ目は「預かったタラントを用いて、ほかのタラントをもうける話。」 そして、四つ目のたとえ話をもって、目を覚ましていることの明快な答えが語られているように思う。 マタイ25章31節から46節のたとえ話で、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と最後の審判の時、王なるイエスが語っている。 目を覚まして備えるとは、「助けを必要としている人に手をさしのべること、キリストの愛を持って生きること。」それは、「出会う一人一人の中に、キリストを見出すこと、苦しみや困難の中にある人との出会いの中に、キリストに出会うこと。」ともいえる。 クリスマス待降節、アドベントの時期、イエス・キリストが思いもしなかったような姿で、私たちに接してくださる。そのキリストに私たちが気づくことができるように、そして私たちが完全にイエス・キリストを身につけることができるように。 アーメン。 “Already, But Not Yet” 2013 12 01 Matthew 24:33-44 Pr. Hitoshi Adachi May Grace and Peace be upon you in the name of our savior, Jesus Christ! Amen. When I was younger, I played tennis very seriously and often worked out. I belonged to a team and attended regional competitions. One year our team was among the finalists. While I was on this championship team, I played as a singles player and sometimes, I felt very strange because I won against opponents whom I thought that I could not defeat. I was especially anxious when a certain someone was watching me (even though I wasn’t engaged to her at the time). I do not know how I can explain it, but it’s something like dual personality. Within me, there were two different persons. Have you had a similar experience? Sometimes you’re very confident but at other times you’re filled with self-doubt. In Romans 13:14, St. Paul suggests to us that we put on Christ. I believe the experience I shared with you is related to putting on Christ. When you act according to God’s wishes, you’re living positively and with confidence. Today is the beginning of the Advent. It is the season during which we reflect upon the fact that Jesus Christ came on earth 2000 years ago and he was God incarnate. Not only that though, it is also the season to remember that Jesus Christ will gloriously…
November 24th, 2013
2013年11月24日聖霊降臨後最終主日説教「苦しみのどん底から楽園に」”From the Depths of Despair to the Heights of Paradise”牧師 安達均
No Comments, 牧師説教, by admin1.Tweet ルカ 23:33-43 主イエス・キリストの恵みと平安が集まりました会衆の上に豊かに注がれますように。アーメン 東日本大震災では、あの津波のために、生と死の瀬戸際を体験し、自分はぎりぎりで助かったが、肉親が波にさらわれた経験をされた方々がいる。 そのような方々どれほど悩み、苦しんでおられるか、復活ルーテル教会に来られた立野先生の説教を聴き、われわれにも伝わってくる。 礼拝のためにすばらしい作曲を毎週し続けたヨハン セバスチャン バッハは1歳になるまでに二人の兄姉が亡くなり、6歳の時にもう一人兄を亡くし、9歳の時に母親が亡くなり、10歳にして父親とも死別している。当時としては珍しくなかったのかもしれないが、子供ながらに悲しみのどん底を体験した。 そのような体験は、バッハの信仰成長と彼の音楽に関する才能に大きな影響を与えたことは間違いないと思う。今日の礼拝の始まる時に聞いた前奏曲はバッハの作曲でイエスが十字架に向かう時を表現している。わたしたちは、そのバッハの音楽を聴く中に、言葉では表すことのできないイエスの御苦しみを感じ、またその音楽が自分たちの死に対する思いや備えにも影響してくると思う。 私たち、この世で生きている者として、この礼拝に集められているが、先に天国に行った聖人たちもこの礼拝に加わっていることを覚えていて欲しい。また、わたしたちにも、この世の死が訪れるということも忘れてはならない。今日、キリスト教の暦では今年度の最終主日にあたり、「王であるキリスト」という主日の礼拝が与えられている。 この礼拝は、この世の死と言う、いわばどん底と思えるような時が、主イエスキリストの信仰により、大逆転することを覚える礼拝ともいえる。 与えられた聖書箇所、残虐な光景が描写されており、もしその場にいたとすれば目を背けたくなる場面である。同じ人間が、どうしてこんなにも残酷になれるのか、首をかしげるような人間の行動がある。 兵士たちに十字架に釘付けにされ身動きができなくなったイエスを民衆が見つめるなか、議員と呼ばれる人々が、「他人を救ったのだから、自分を救ってみろ。」だとか、兵士たちは吸いぶどう酒を突きつけながら「ユダヤ人の王なら自分を救ってみろ。」という言葉が投げかけられ続ける。 また罪人の一人は、「天国も地獄も無い。どうせ私は十字架で死んでおわりだ。」という気持ちだったのだろう。そして、投げやりに「もし救い主なら自分を救って、わたしたちも救ってみるが良い。」という言葉を投げかける。 イエスは絶望といえる状況だったが、神と対話し、人々への愛と慈しみをあらわされる。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」といわれる。 そこには、この世的には絶対絶命の状況でも、イエスは父なる神への信仰をあらわされると同時に、自分を十字架につける人々への赦し、愛を示される。 もう一人の罪人は、イエスキリストが何も悪いことをしていないのに、十字架につけられるということを述べ、あなたが御国においでになるときに、私を思い出してくださいという。 すなわち、イエスへの信仰告白をしているといっても良い。その信仰に対して、イエスは、今自分といっしょに十字架上で死んでいく罪人に向かって、現在形の言葉を使って、次のように語る。「あなたは今日、わたしといっしょに楽園にいる。」 この、「あなたは今日、わたしといっしょに楽園にいる。」という言葉は、2000年前の罪人だけではなく、私たちもこの言葉は聴いている。いったいどんな意味があるのだろうか。 冒頭に述べたように、私たちは、肉親、知人の死を経験し、そして私たち自身もこの世の死を体験する時が必ずくる。 それは、何歳の時かはわからないし、バッハの家族やバッハ自身もそうであったように病による死かもしれないし、東日本大震災とか、フィリピンの台風のような自然災害かもしれないし、とんでもない事故とかテロとか戦争によって殺されてしまうことが起こるかもしれない。 しかし、この世の死がどのような形で訪れようが、その時に、救い主イエスという主なる神が、いっしょにいてくださることを覚えているように、そのようにイエスが教えてくださっているように思える。 洗礼を授かり、定期的に聖餐にも授かっている私たちは、どのようなこの世の死を迎えようが、十字架の死をもって死を滅ぼされたイエスといっしょに、楽園にいることができる。その楽園とは、「死」が入り込む余地がない園。 どんな困難や苦難にも打ち勝ち大逆転が起こり、楽園にいる。キリストの信仰により、つまり、父と子と聖霊の御名によって、水と言葉による洗礼を通ってきた者は、キリストとともに今、楽園にいる。 アーメン。 ”From the Depths of Despair to the Heights of Paradise” Luke 23:33-43 May the Lord give us your grace and peace in the name of our savior, Jesus Christ! During the 2011 Tohoku Earthquake and Tsunami, there are people who experienced the tenuous border between life and death. Especially people who experienced the deaths of their families only because they were a few inches within the safe zone and their families were just a few inches outside the safe zone; survivors are still feeling that they are in the depths of despair. Pastor Tateno came here to share such stories and we learned about their heart-wrenching (yet hopeful) experiences. Johann Sebastian Bach’s older brother and sister died when he was just 1 year old. When he was 6 years old, another brother died. Then, at the age of 9, his mother died and, at the age of 10, his father died. Although an early death might not have been very rare at that time, I feel that Bach experienced more hardship than most when he was very young. I believe that these experiences, during his formative years, greatly impacted his faith development and his abilities to make wonderful worship music. And through his music, I believe that God is also impacting our awareness about and attitude toward death. Through Bach’s music, we reevaluate how we feel about death. All of us are invited to…
November 10th, 2013
2013年11月10日宣教開始25周年記念(聖霊降臨後第25)礼拝説教「半分ペンテコステ」”One Half of Pentecost”立野泰博牧師
No Comments, 牧師説教, by admin1.Tweet 半分ペンテコステ ルカ9章1-6 日本福音ルーテル大江教会牧師 立野泰博 「教会に青年が来ない」という悩みを聞いもう20年になります。毎年その言葉を聞きながら、「それはあたりまえ」だと思います。だからといって青年伝道をあきらめているわけではありません。いまのルーテル教会は、青年たちとの共感能力がかけていると思うからです。いったい若い人たちは何を考えているのか。何を求めているのかを知りたいと願っていました。 ある日の午前9時頃、私は東京の渋谷にいました。駅前では、右翼が沖縄基地問題を怒鳴り声で叫び、目の前では基地の地位協定反対の署名活動が行われ、両者はなじりあっていたのです。しかし、その中を何万とも言える青年たち、高校生たちが無関心に通り過ぎていきました。いろいろな若者がいました。茶髪、コスプレ、ミニスカートの高校生。いったい、この人達はどこへいくのだろうと考えていました。この青年たちは教会に興味はないだろうなと思ってしまいました。ところがその情景の中、駅前の大型スクリーンで「hello,again」(my little lover)という曲が映し出された時、なんだか安心したのです。 その歌詞には次ぎのような言葉があります。「自分の限界が どこまでかを 知るために 僕は生きている訳じゃない」。続けて「だけど 新しい扉を開け 海に出れば 波の彼方に ちゃんと《果て》を感じられる」と。きっと若者の中には求めている何かがあるのだと思うのです。「果て」が何かを感じている。感じているから何かに抵抗しながらいきているのかもしれないと。その「果て」に絶対者である神様を求めている。それに共感できない私たち教会がある。だとすると、どこかで共感するところを見いだせば共に歩めると期待できます。どこで共感するかを探しているのです。 さきほどの曲の最後のフレーズには、「君は少し泣いた?あの時見えなかった」とあります。きっと若者と呼ばれる本人たちも、共感すること、人の痛みに気づくことの難しさを感じているのでしょう。私は東日本大震災の救援活動の中にいましたので、多くの青年たちに出会いました。茶髪の子だって、ミニスカートの高校生だって、痛みに共感して被災地にまってきたのです。そこで、いいようのない苦しみに叫び声をあげていました。寄り添うことの痛みを共に感じました。そこから眺めたいまのルーテル教会はどうだろうか。その問いがあったから現場に戻ってきたのです。 東日本大震災救援のため2013年3月中旬に宮城県に入りました。多くの被災者に出会い、共に多くの涙を流し、笑い、共に耐えてきました。その原点になる出来事を思い出します。おばあさんが写っている写真がありました。彼女は津波から十日後、破壊され瓦礫に埋もれた小学校の前に座っておられました。横には赤いランドセルが二つ。津波に流されたお孫さんを捜しにきて、ランドセルを見つけたといいます。このおばあさんに対して何ができるだろう。何を語るか。なにもできない。おばあさんの痛み苦しみを担うこともできない。しかし、私たちは神様から派遣されてここにきている。イエス様は「何も持って行ってはならない」と言われた。いまの自分は何も持ってない。だからこそ寄り添うことしかできない。それもひとつのイエス様の身の置き方だと思いました。 ルカ9章1~6節までのテーマは「派遣」です。イエス様は十二人の弟子を呼び集め、イエス様と同じように「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった」その上で派遣されたのです。 弟子たちは、何のために「派遣」されたのか。もちろん悪霊を追い払い、病気をいやすため。また宣教してイエス様の弟子を増やすためです。しかし、それが本当の目的だったのでしょうか。イエス様は十二人を「遣わすにあたり」という言葉があります。具体的には何も持って行くなと言われています。「派遣」とは何か。それは、「素手のままで出かけ、神様の働きを示す」ことです。イエス様の御心のままに派遣され、イエス様からいただくみ言葉の力によって働くことです。そこにイエス様の存在を見いだすことなのです。何も持ってないからこそ、イエス様のみを見いだすことができるのです。 東日本大震災救援活動の中で一番衝撃的だった被災者の言葉は「もう許してください」という言葉でした。ある時、強い余震がありました。結構大きな余震でした。そのとき私はボランティアセンターの受付にいました。その時は津波警報が出ました。津波警報がでた時、雰囲気が一変しました。みんな大慌てで避難をはじめました。一人の女性は机の脚につかまってブルブルと震えておられました。そして、叫ばれました。「もう許して下さい!」と。普段であれば「助けて下さい」と叫ばれたはずです。しかし、彼女が「もう許してください!」と叫んだ理由はわかっていました。被災のときのことをお聞きしていましたかた。 あの日、彼女は子どもが熱を出したので市民病院にいてインフルエンザの治療していました。五年生と二年生でした。そこに、地震が来て津波警報がでたが病院の屋上にいたら助かると思ったそうです。ところが看護師さん達が「ここじゃ助からないから逃げろ」と叫んでいた。病院の高さは20メートル位あるのですけど。実際津波はそれを超えたそうです。大急ぎで車に乗り、山へ向かったのです。ところが途中で渋滞にはまったので車を捨て。娘を前と後ろに抱えて、山に駆け登っていったそうです。2キロはあるでしょうか。その時に津波がすぐそばに来ていました。必死になって山を駆け上がり、途中までで力尽きたそうです。その時に後ろを振り返った。黒い波と、瓦礫と叫び声とが一緒に押し寄せてきた。これでは津波にのみ込まれる。自分の命はいいけど、子どもの命は守らなければいけない。子どもの命が危ないと感じ、さらに力を振り絞ってあと五m登って助かったそうです。 その時に後ろを振り返ったそうです。何十人もの人達が流されていくのが見えたそうです。「助けて」と絶叫しながら流されていく。その中には親族も、友達も、顔見知りの人たちがいたのです。何もできずに座りこんでいたとき、二階だけの家が燃えながら流されていたのです。家の中が見え、自分と同じくらいの母親と子どもが抱き合って震えながら流されていったそうです。実はそれは娘の同級生の親子でした。彼女はその人たちになにもできなかった。自分はその人たちを見捨てた。震えながら見ているだけしかできなかった。 僕らはそれを見捨てたとは思わないです。けれど彼女にしてみれば、何もできなかったことが彼女の心の中にあり、毎日その夢を見るのだそうです。もう2年半もたつのに、今でもその夢を毎日みるといいます。子どもとお母さんが燃えながら流されていく夢を見る。そういう苦しさの中に生きている人が余震の中で「もう許して下さい!」と叫んだのです その叫びに応えることができるのは神様しかいないということを知っています。神様は必ず許してくださる。すでに許しておられる。でも彼女にそれをどう伝えたらいいのだろう。キリスト者として私は何を伝えるべきなのか。信仰者として、また牧師としての私の課題です。許しを与えるのは神様しかいない。私はもう自分を許してあげていいと思います。けけど、彼女にとってはそうではない。「もう許して下さい」って言葉に、ルーテル教会救援はどう寄り添っていくかを考えなければいけない。それは彼女だけではないのです。苦しみ、痛みを持ちながら叫び生きていくことに、どう寄り添っていくか。しかし、そこにはイエス・キリストがおられる。イエス様がきっとその人たちに寄り添っておられるそのことを伝えるために私たちを派遣してくださっているのです。イエス様が被災者のとなりに寄り添っておられる。だから私たちもそこに寄り添い続けていくのです。 先週も伊藤文雄牧師と被災地巡礼と祈りの旅にいってきました。「もう許してください」と叫んだ彼女とも再開しました。彼女はいま自分の残った家の1階を改装して、シルバーカフェを開く計画を立てていました。津波で家族を流され一人ぼっちになったおじいさんおばあさんが一緒に食事ができるカフェを考えているのです。少しのお金をいただいて、毎日みんなで食事をして一つの家族となるコミュニティーをつくろうとしています。彼女は「私も先生たちボランティアに寄り添っていただきました。それがどんなに生きる力になってきたか。今度は私がもっと苦しみ痛む人に寄り添うことができればと思って」と。寄り添っていただいたぶん、自分が自立して寄り添うのだと。痛み苦しみを経験した彼女だからできる寄り添いがあるのです。 LCR日本語部は宣教25周年を迎えました。心からお祝いします。これまでも多くの人たちがここに集い、ともに痛み苦しみと寄り添ってこられたことでしょう。皆さんにしかわからない痛みもあったことでしょう。しかし、イエス様は皆さんに寄り添い聖霊を注いでくださいました。 ペンテコステが50なら、この日本語部に聖霊が注がれて半分ペンテコステです。ですからまだまだあと25年は聖霊が降り注がれ、守られ、生かされ、大きなペンテコステまで導かれることでしょう。まだ半分。これから祝福された半分がはじまります。イエス様は今日もかたわら寄り添っていてくださいます。私たちの歩みは、イエス様によって祝福され、聖霊を注がれ、さらに前へすすんでいきます。大江教会も共に交わりを深めながら、お互いに寄り添って成長する教会となりますように。アーメン。 Japanese Ministry 25th Anniversary Commemorative Service One Half of Pentecost Rev. Yasuhiro Tateno – Japan Evangelical Lutheran Church – Ooe Church, Kumamoto, Japan “Young people do not come to church.” It has been 20 years since I began hearing this comment. Whenever I hear this comment, I say to myself, “Unfortunately, this is the norm (these days).” It is not that I have given up entirely on evangelizing the youth. I acknowledge the fact that today’s Lutheran church has mostly failed to capture young people’s interest. I very much wish to know what today’s youth are thinking about or wanting. One day at about 9 am I was in Shibuya, Tokyo, in front of train station I saw some Right Wing group was protesting against the presence of Okinawa’s American Military Base, yelling and screaming their disapproval. There was another political party whose members were also collecting signatures opposing the Military Base but for different reasons. These two opposing groups were rebuking each other, even though their goal seemed the same. While this was happening, there were millions of young men and women, some with wildly-dyed hair, some dressed in miniskirt and some dressed in outlandish yet fashionable costumes, each passed by the protest but paid no attention to the two bickering groups. I was wondering where these young people were heading, and whether any of them had any interest in coming to church. Then…