Tweet 「すばらしいあなた」 ルカ19: 1-10 聖霊の息吹がこの礼拝堂に吹き込み、主イエス・キリストの恵みと平安がわたしたちの心に豊かに注がれますように! 自分は経済的には困ってないが、世の中には何もできていない。あるいは、かえって迷惑をかけてしまっているのではないだろか。などと思い悩み、劣等感に苛まれ、気落ちするような経験はあっただろうか? 人間が気落ちする原因には、大きくわけて四つのケースがあるようだ。一つ目は、肉体的なこと。二つ目は能力的なこと。三つ目は社会的地位それには家庭環境なども含まれる。四つ目は、性格。みなさん、これら四つのことについて、ご自分では、どんな風に思われるだろうか。もし何かで悩まれていることがあったら、今日の礼拝において、変化が訪れ、そして、悩んでいる状況から解放へと導かれるように祈る。 聖書に書かれたザアカイの状況を見ていきたい。ザアカイはお金こそ持っていたようだが、これら四つの観点からして、最悪、かなりの劣等感を持って生きていたのではないだろうか。 まず、背は低かった。肉体的劣等感。肉体的な劣等感に伴って、能力的な劣等感、すなわち周囲の人がふつうにできることでも、彼にはできないと思ってしまっていたのではないだろうか。そして、ユダヤ人でありながら、ローマの回し者のような徴税人、売国奴とも呼ばれてしまうような社会的地位についていた。その地位にも問題があるばかりではなく、まわりの徴税人たちには定められた額よりもっと大きな額を集めさせ、自分のポケットに入れていた様子が伺える。それも道理に反していることはわかっていても、意図的にやっていたようだ。性格的にも問題があった。 そのような環境にあったザアカイだったが、彼が住んでいたエリコという町に、イエスがたまたま通られることになった。 ザアカイは、イエスをひと目みたいと思った。 といっても大勢の人が道に集まっていて、背の低いザアカイからは見ることができない。 かといって、大勢の人の前に出ていくほどでもない。ザアカイは、そっと、遠くから見るだけでも良いと思ったのではないだろうか。 しかし、背が低いザアカイは、台の上に乗るなり高いところに自分の身をおくしかない。イエスが歩いていく通りの先に、イチジク桑の木を見つけ、それに上ることにした。イチジク桑ってどんな木だがご存知だろうか。枝別れがいっぱいあり登りやすい、しかも、葉っぱがおいしげっていて、木に上っている人がいたとしても、葉っぱに隠れているように見え、気づかれにくい。つまり、自分が隠れているような感じのところから、ちょっとだけ通りすぎるイエスを見れればいいとでも思っていた。 しかし、イエスがそのイチジクの桑の近くに来ると、ザアカイを見つけるどころか、名前を呼ぶ。「ザアカイ」 イエスは彼を知っていた。 ザアカイはびっくり仰天。 そればかりではない、「降りてきなさい。」と言われる。一瞬、「イエスに叱られる」と思ったかもしれない。 しかし、すぐに次に出た言葉は、ザアカイを叱るわけではなく、「私は今日、あなたの家に泊まりたい。」と言われる。ますます、ザアカイはびっくりするが、喜びで満たされる。そして、イエスを迎え、食事をした。 そしてザアカイは回心し、財産の半分はまずしい人に施します。 また、だましとった分は4倍にして返します。とまで言う。そして、イエスは、「今日この家に救いが訪れた。ザアカイもアブラハムの子、神の子供の一人なのだから。」 この話、私たちには、いったいどういう意味を持っているのだろうか? ついつい、私たち自身が気落ちしてしまうような場合でも、イエスは、わたしたちの気持ちをよくご存知で、一人一人を名前で呼んでくださっていることに気がつくようにと、神は教えてくださっている。 ザアカイが、イエスをひと目見るための行動を起こしたように、神なるイエスは、私たちをいつもイエスの近くに来るように招かれていて、現代にあっては、毎日曜日に、礼拝に招いてくださっている。さらに、招いているばかりではなく、聖霊となっておひとりおひとりのところにも、つきそってくださっている。 そして、食事の時もいっしょにいてくださる。イエスがいつもいっしょにいる食事中に、ひとりひとりが、今も変えられて、喜んで、イエスさまの御心に従った行動をとるように導いてくださっている。それは、だれもが、神に造られた者だから。 昨年のはじめ、三日間のある研修会に参加していた。ホームレスの方々のためのミニストリーが活発な教会で行なわれた。不安を抱え、次の人生のステップをどう歩めるのかと思われているホームレスの方々のために多くの仕え人と必要な物資が用意されていた。その中で、ボランティアをしていたアフリカ系アメリカ人が、すばらしい話をしてくれた。 彼は、実は、数年前から数ヶ月前までホームレスだった。昔は、ハネウェルという大きな会社のエンジニアとして働きよい生活をしていたが、職を失い、いつのまにかホームレスになっていたという。教会に導かれ、紹介されたシェルターで生活している期間に、たとえ自分は神から離れたような生活をしていたとしても、神がいつも自分を愛し、そばにいてくださり、彼を変えていってくれたことを話してくれた。現在は、また自立して生計を立てられるようになり、しかも、そのルーテル教会のメンバーとなり、ホームレスミニストリーを支える大切なボランティアの一人となっていた。 神が造られたものに、失敗などはない。自分がいくら能力不足や肉体的な劣等感などで悩み、いじけて神から隠れて生きようとしたとしても、実は、神はそばによりそってきてくださって、神がたいへんな愛、恵みを注いでくださっている。肉体的なあるいは精神的な社会的ハンディと思えるようなことがあったとしても、あなたにはすばらしいものが与えられており、良いことをできる力が備わっている。イエスは、「あなたは私が創ったすばらしい子である。」と言ってくださっている。 “How Wonderful You Are” Luke 19: 1-10 May the Holy Spirit be breathed into this sanctuary and the Grace and Peace of our Lord be poured into each one of our hearts! Amen Were there any moments when you felt like you were not contributing anything to your neighbors, instead you felt as though you’re a burden to society? You worry about yourself, maybe you have a complex, or are depressed. Have you ever had such an experience? Or are you having these kinds of feelings now? There are several common reasons why most people worry. Including, but not limited to physical appearance, abilities, social status, or your reputation. What did you or do you worry about? I hope and pray that this morning’s service will transform you and free you from your anxiety; especially, if you are worrying about something in your life. Let’s dive into the story of Zacchaeus, the tax collector. Even though, he was rich, if we think about the four reasons that I mentioned physical appearance, abilities, social status, and reputation, Zacchaeus probably thought that he was most unworthy. Firstly, physically he was a short guy. Second, since he was short, he might think that he could not do things as well as other people could do them. He was rich because he was the chief tax collector, but he was despised and seen as chief betrayer in the Jewish community since he…
Tweet ヨハネ 8: 31-36 イエス・キリストの恵み、福音が集まりました会衆の上に豊かに沁みわたりますように! この世の中、「私の生活、こんな予定ではなかった。」と思われている方、たくさんいる。 そのような方々がぜひ、ルーテル教会に来られたら良いなと思う。しかし、「私は、ルーテル教会に何年も通って来たが、今の生活、こんなになる予定ではなかった。」と思われているかもしれない。もし、そんな方がいたら、本日の礼拝で、真のキリストの福音を再発見され、人生が新しくされるように願い祈る。 人生を道路に走っている車に譬えたい。この世の人生の終着点まで、どんな違反もおかさず、道にも迷うことなく運転できる方はいるだろうか? ほとんどの人は、車をこすったり、なんからの交通違反を犯し、道にも迷いここに来るはずではなかったという場所に来てしまう経験をする。だれ一人として完璧なドライバーではありえない。 マルチン・ルターは、そのような話を16世紀だったので、自動車ではなく、人生を馬車に譬えて話をした。 ルターの論点は、だれひとりとして、馬車を完璧に操ることはできず、失敗なり人生の過ちを犯すということ。 言葉をかえれば、人生で罪を犯さないものはいないということをはっきり述べた。イエス・キリストが今日の福音書で「罪の奴隷」という言葉をつかっているが、すべての人間が罪の奴隷のような存在であるとした。 そして、マルチンルターはキリストの信仰においては、人間が馬車を操っている譬えそのものが違っているとする。馬車を操っているのは、人間ではなく、他の方が操ってくださっていて、操っていると思っている人間は、実は馬車そのものだと指摘した。 現代風に言うなら、私たちの人生において、私たち自身が自動車を運転しているのではなく、人間は自動車そのものなのだと指摘した。 それでは、いったい誰が、自動車を運転しているのだろうか? それは、イエス・キリスト、神の子が運転してくださっている。イエス・キリストが運転しているということに気がつくとき、人生が大きく転換をする。私たちは、恐れをいだかなくなる。 たとえ、私たちが意図していたところに来ていなかったとしても、信仰において信頼のおけるイエスという神のみ子、救い主が運転してくださっているという確信の上にたち、悩んだり、困ったりすることから解放される。こんな人生になってどうしようと悩み、出口の無い人生を歩んでいるような束縛感からの解放がおこる。 人生において、とかく私たちは自動車を正しく運転して目的地に行けると思いがちだ。あるいは、信仰生活をしているといっても、私たちがこれこれこういう正しい行いをしたから、救われると考えがちだ。 しかし、運転者はイエスキリストだ。また正しい行いをするといっても、罪の奴隷である人間なのである。 しかし、イエスが運転してくださっているという信仰によって、自動車は正しい道を進む。 たとえ、私たちが、行き止まりの道に来てしまったと思っても、神なる救い主イエスが、私たちの束縛されている状況から解放し、イエスの信仰によって、人生をまったく新たに創造してくださる。 たとえ、私たちが、不幸せな状況や、とてつもなくストレスが溜まるような生活を営んでいたとしても、神は、キリストの十字架の死と復活の信仰を通して、新しいエネルギーを与えて救い出してくださる。 信仰によって、救われる話は、聖書にちりばめられており、さきほど聞いた本日の第二日課もその話だった。 現代においても、イエスの信仰を通して、聖霊が私たちを罪の奴隷から解放してくださっている。 信仰の歩みをはじめたところ、これまでの多くの不満や悩みから、いっきに解放が訪れたという経験をされた方々もおられると思う。 それは、イエスが使徒たちに教えたこと。そして、とくに、パウロによって新訳聖書の使徒書に書かれた。また、初代教父たちによっても、さまざまな書に綴られた。とくに、4-5 世紀の神学者、アウグスティヌスによっても書かれていた。 しかし、カトリック教会の歴史の中で、15世紀ごろまでの間に、ついつい、真の信仰はどこかに置き去りになりがちで、自分たちの行い、つまり自分たちが正しい運転をして救われるという面が出てきてしまっていた。実はマルチン・ルターもカトリック教会の司祭になったとき、最初は、自分の修行によって救われると考えた。16世紀初頭、マルチン・ルターは、聖書を読む中で福音を再発見した。 本日の宗教改革記念の礼拝において、聖書の教えを通し、今日洗礼を受けられた陽子さんをはじめ、ここにお集まりのすべての方々で、宗教改革であきらかになった真の信仰を再確認しよう。私たちは、人生の運転手ではなく、真に運転してくださっているのは主イエス・キリストであり、その方に従う信仰のみによって、私たちは正しい道、義なる人生へと導びかれる。アーメン Rediscovery of the Gospel 2013 10 27 John 8: 31-36 Pr. H. Adachi May the Grace and Peace of Jesus Christ be richly poured into this sanctuary! There are many people in this world who think that “My life should not be like this.” I hope and pray that they come to a Lutheran Church and feel reenergized about life. Or some of you might believe, “I have been attending a Lutheran Church for many years, I, too, feel like my life is not where it should be.” If you feel that way, I pray and believe that today, during this worship service, you’ll rediscover the true faith of Christ and you may be changed by the Grace of our Lord. Let us metaphorically compare our lives to driving automobiles on roads. At the end of our earthly lives, could we honestly say that we never received a ticket or never became lost while driving somewhere? Everyone makes mistakes and loses one’s way (at some point) and has ended up somewhere they did not intend to be…no one is a perfect driver. A similar analogy was made by the Reformer Martin Luther in early 16th century although he used the example of a carriage horse since there were no cars at that time. The point is that no one may perfectly drive or control either a car or a carriage horse. In other…
Tweet 気を落とさずに祈り続ける ルカ 18: 1-8 主イエスキリストの恵みと平安が集まりました会衆の上に豊かに注がれますように。! 牧師になるための教育の一環で、チャプレンとして病院勤務をしていた。 癌病棟に配属され、病室を回っていた。ある病室に入ろうとしたとき、患者の家族に入って行くのを阻止された。 患者の娘さんだとわかったが、彼女いわく、縁起が悪いので入ってこないで欲しいとのこと。 つまり、私の存在は、亡くなってから葬儀をしたりするための人間であり、まだ来て欲しくないとのことだった。 キリスト教では、この世の命が肉体的には終わろうが、永遠の命が与えられており、希望がある。永遠に神とともに生きることができる。 だから、私のチャプレンとしての存在は、臨終後のためだけにあるのではなく、永遠の命への希望を持っていただくためにあることを語りたかった。 しかし、病院は公共の場であり、さまざまな宗教の方がおられ、宗教者の役割や、死後のことについて様々な考え方があり、それぞれ尊重する必要があった。 そして、私は彼女の考え方を聞き、がっかりしたものの、「わかりました。もしお母さんが私に入って来て欲しくないということなら、私は病室には入りません。ただあなたのお母様のことを祈りに覚えます。」と言い、その場は引き下がり、次の病室へと向かった。 今日の聖書の話、かなりユニークな譬え話だと思う。イエスは弟子たちに、気を落とさずに祈ることの大切さを教えるために、本当に突拍子もない譬え話をしている。夫を亡くした女性と不当な裁判官が出てくる。裁判官は人を人ともおもわず、また神をも畏れない人間だった。 そのような人が担当の裁判官になってしまった未亡人。しかし、彼女はしつこく、裁判官を訪問し、裁いてもらうようにお願いする。結果、裁判官は彼女の言うなりになってしまう。 ここで、不当な裁判官とやもめの関係が、主なる神と弟子たちの関係にあたる。 イエスは本当に大切さを教えるために、それは突拍子もない譬え話をすることがある。今日の譬え話は一つの例にすぎない。 不正をするマネージャーが神からほめられるという譬え話もあったりする。 そのような譬え話に、しばしば、私たちは混乱してしまうもとである。しかし、そのような話は記憶に残る。弟子たちに本当に祈りの大切さを覚えてもらうために、イエスは主なる神の考えとしては、ちょっと常識で考えにくい話をしたように思う。 譬えに出てきている不当な裁判官に出会ったら、普通だったらあきらめてしまいそうないやな裁判官だ。にもかかわらず、つまり裁判官にとりあってもらえそうにんないのに、未亡人はあきらめずに、裁判官に裁いてもらうように何度もしつこく迫る。この譬え話では、いってみれば、やもめが弟子たちであり、不当な裁判官が、私たちの主、神、を顕しており、何度も言うようだが、ほんとうに突拍子もない話。ここでイエスが教えたいことのポイントは、祈りが聞いてもらえそうにないように感じてしまう、どうしようもないと思えるような場合でも、あきらめずに祈ること。 9.11の当日、がれきの山の下敷きになってしまった二人の警察官がいた。 みなさんの中にWorld Trade Centerという映画を見た方もいるかもしれないが、それは実話に基づいている話。 瓦礫の下敷きになっている中で、身動きはとれず、真っ暗で、どうにもならない状況に置かれる。 しかし、二人は会話することができた。そして、主の祈りを唱える。結果、二人は見つけ出され助け出される。どうにもならない状況は、身動きがとれなくなった時だけではなく、人生のいろいろな場面で訪れることがある。 しかし、希望を持って祈る、どんな状況にあろうが、失望せずに祈り、神との関係を継続することが大切。 冒頭に話した、病院での出来事、私はその患者さんの部屋から引き下がった。 しかし、その患者の娘さんには、「お母さんのことを祈る。」ということを告げた。 実は、その翌日、その病室の前を通りかかったとき、ドアが開いていて、娘さんが出てきて話しかけてきた。「母があなたに会いたがっているので、入っていっしょに祈ってください。」 その前日、彼女たちのことを祈ることによって、聖霊が働き、母と娘に心境の変化を及ぼしてくださったと思い感謝した。 がっかりしたようなことがあっても、本日のたとえ話のしつこい未亡人ように、気を落とさずに、祈ろう。 祈りは、どこにいても、なにかをやりながらも、逆に何もできない身動きがとれないときも祈ることはでき、神と対話する最高の手段。祈りによる神との関係を保つ生活をしよう。アーメン Don’t Be Discouraged; Continue Praying Luke 18: 1-8 May the Grace and Peace of Jesus Christ be richly poured into this sanctuary! While I was in training for clinical pastoral care at a hospital, I was visiting patient’s rooms one by one where most of them were cancer patients. As I was entering a patient’s room, saying I am a chaplain, that patient’s daughter stopped me and brought me outside of the room. According to her, my presence was ill-omened for her mother. In other words, her family thought that religious people’s primary function is to prepare for funerals and officiate burial services after patients died. Therefore, she did not want me to come into the room. My belief in Jesus Christ is that no matter how patients died physically, God gives people eternal life with Christ in heaven and because of this there is hope. Therefore, I wanted to explain that my presence is for the hope of one’s eternal life, living with God, and is not only for dealing with issues after physical death. However, the hospital is a public place and chaplains serve not only Christians but people of other faiths as well. People have different perspectives on religion and chaplains must be mindful of that fact. Therefore, I did not defend myself to her and I just said, “I understand, if she does not want me to come in, that is fine….
Tweet あの人は誰だ? ルカ 10: 25-37 主イエスキリストの恵みと平安が、あなたによって集められた会衆の上に豊かに注がれますように! この礼拝堂で福音書を拝読し聞くとき、ひりひりと心が痛むほどに、主に感謝する必要を感じている。 といっても、今という時代を振り返ると不安な事ばかり。政府の一部運営停止、天文学的な数字で増え続けている米国債務、17兆ドル。医療保険制度改革。これら三つだけでも、心配事はもうたくさんと言いたい。まだ私たちのコミュニティに特有の問題や、LCRの中で命に関わる病にかかっている方々の話をするには、いたっていない。 また、教会に勤めるものとして、世の中はますます非宗教的な場となっていて、神もイエス・キリストも、無視しているような社会になってきている。 それにしても、私はなぜひりひりと心が痛むほどに主に感謝する必要を感じているのか? それは、イエス・キリストが語った有名なたとえ話を今一度この礼拝堂で聞くことができるから。 たとえどのような困難で悩める時代にあろうが、神は私たちによく知られたたとえ話を話してくださり、神の愛と慈しみによって、私たちは奇跡的に癒され、困難の中にあっても信仰深い生活を送ることができる。 7月のメッセージで、聖書は二つのものに例えられるという話をした。 一つは窓、もう一つは鏡。その時この礼拝堂にはおられなかった方々もいるので、今一度簡単に説明したい。 聖書を窓として読む時は、数千年前に起こったことを、窓を通して見るようなもの。 しかし、その窓が鏡のようになってくる。 それは、私たち自身が、聖書の中で描かれている様子の中に見えてくる。言い換えると、聖書の中のことが、まるで鏡のように、現実の中に起こっていることを反映しているように見えること。 本日与えられた福音書の中で、イエスは、良きサマリア人のたとえ話を、ある律法の専門家に話している。そのたとえ話には、半殺しになった人、司祭、レビ人、サマリア人、宿屋、そしてロバがでてきている。この話が鏡のように現代を反映してきているように思えないだろうか? その鏡の中で皆さんはどこに映っているだろうか? ルカによれば、イエスは、「隣人を愛さねばならない。」ということはしっかりわきまえていたものの、隣人とはだれかということがあまりよくわかっていない法律の専門家に、このたとえ話をする中で、司祭やレビ人のようにではなく、サマリア人のように行動するように教えているようだ。 しかし、今一度質問したいが、現在この世の中で起っていることを鑑みる中で、皆さんはこのたとえ話という鏡の中で、どこに映ってるだろうか? 私は、みなさんが、法律家や司祭やレビ人のようには思えない。イエス・キリストがあたかも皆さんがサマリア人のように振舞っていないとして非難しているようには全然思えない。むしろ、イエスは皆さんにたいへんな憐れみをいだき、皆さんの心に触れ癒してくださっているように見えてくる。 過去、一、二世紀位を振り返るとき、地球環境にしても世界経済にしても、劇的な変化が起こっていると思う。そのような時代に生まれた私たちは、次々に時代が変わる世の中に生きるしかなく、本当に多くの人々が次は何か次は何かと疲れきっているようにもみえる。 ある意味、聖書の鏡の中で、私たちが強盗に会い、滅多打ちにされて、あたかも半殺しにあってしまった人のように思える。そのような状況の中で、サマリア人のような人が顕われあなたに寄り添ってくれる。 サマリア人はユダヤ人から嫌われて排除される境遇にあったが、このたとえ話に出ているサマリア人は、半殺しにあってしまった人を憐れみ、心配し、そして宿屋に運ぶ。 同じように、現代のそのサマリア人は、非宗教的な世の中にあって社会からは無視されてしまっているようだが、そのお方は私たち一人一人を憐れみ、愛してくださり、そして一人一人をこの礼拝堂へと運んでくださってきている。 いったいそのお方はだれだろう? この聖書の鏡に映っているそのお方は誰だろう? そのお方は猛烈にこの世を愛し、そして一人一人を聖なる場、聖霊の満つる宿に連れて来てくださる。 お一人お一人、自分で車を運転してあるいは自転車に乗って、あるいは歩いてこの礼拝堂に来られたと思う。 しかし、いったい誰が、その車や自転車を提供してくださったのだろうか。 あるいは、車のガソリンは誰が提供してくれているのか。あるいは自転車や歩いて来た方でも、いったい誰がそのエネルギーを下さったのだろうか?私たちは、いったいどなたに感謝を捧げるべきだろうか? すべてを創り、提供してくださっている方がいる。 物理的なことばかりでなく、もっとも重要なこととして、霊的で聖なるお方が、私たちをたとえ半殺しにあっているような日々の生活の中でも、前へ進むことを可能にしてくださっている。 神の子、イエス・キリストは、2000年前にこの世に来られ、ユダヤ教の指導者、ローマの政治家、さらにユダヤ人も異邦人も、皆いっしょになって、イエスを十字架に架けて殺してしまった。 イエスに従っていた弟子たちはなんら反対できず、その場から逃げ出してしまっていた。 にもかかわらず、神はイエスを三日後には復活させ、なんら人々を非難することなく赦し、そして、キリストにある平和をくださっている。今の世の中においても、我慢強く、神なるイエスが、実は私たちに神の平和をくださり、神の言葉を下さり、そして、イエスの体と血によって永遠の命を与えてくださっている。 地球環境も世界経済も急激に変化していて、近代世界はあたかも袋小路のようにも見える。 そのような困難に直面している世の中にあっても、イエス・キリストが、その子供である私たちをお世話くださり、奇跡のストリーやたとえ話、生きた御言葉を語ってくださり、 私たちに復活かつ永遠の命を与えてくださっている。 私たちの主イエス・キリストを賛美し、そのイエスに永遠の感謝を捧げよう。 アーメン Who is That Guy? Luke 10: 25-37 May the Grace and Peace of Jesus Christ be with you all! Listening to the Gospel in this sanctuary, I feel that we are in sore need of thanksgiving. However, when we look around the world, there are plenty of things that are worrisome. The government shutdown, the astronomical sum of US debt, upwards of 17 trillion dollars, and steadily growing, which may lead the world into financial crisis, as well as the continued debate over the Affordable Healthcare Act are just three (of many) things that cause Americans concern. And we haven’t even talked about the challenges in your particular community or the many families of our congregation. As staff working for the Christian church, the world is becoming more and more secular, putting God, and Jesus Christ, aside. Why do I say that we are in sore need of thanksgiving? That is because this month we are listening to famous stories of miracles and parables that Jesus shared with people. Even in the midst of a challenging and worrisome world, God gives us these familiar instructive stories, and through God’s love and grace, we are miraculously healed and we’re able to continue living faithful lives despite challenges in this world. When I preached in July, some of you might remember, I talked about two metaphors regarding the Bible. One was “Bible as a…
Tweet ルカ 17:5-10 主イエス・キリストの恵みと平安が会衆の上に豊かに注がれますように! 特に私はクリスチャンではありませんとおっしゃる方、たくさんおられる。クリスチャンになるということはどういうことなのか? 私は科学を信じているので、聖書に書いてあることは信じられず、キリスト教も信じられませんと言われる方がいる。そのように考える方は、クリスチャンになるという事は、すべては神が創られたものと片付けてしまい、宇宙学、量子力学、細胞学などの世界も、探求が止まってしまうのではないかと勘違いされている面がある。 宇宙の研究でも、量子力学の研究でも、クリスチャンが多くの研究を行っており、とてつもない大発見をして、理論や定理に気がついている。神を信じて、すべて神にゆだねているのだから、聖書の内容を信じよく読んでいる以外には、何もしていないように思われかねない信仰者が、なぜ、そんなに科学界で大きな貢献をしているのだろうか? ある意味、今日の聖書の箇所を読んでいくと、そのような疑問に答えられる面が出てくるのだと思う。 本日の箇所、使徒たちとイエスキリストとの会話だ。 使徒たちが、イエスに、「私たちの信仰を増してください。」というお願いをしているところから始まっている。その箇所の少し前を読むと、イエスが使徒たちに、なんども赦すように教えている。 使徒たちは、ほとんど永遠に赦すなどということはとてもできない状況にも遭遇したのではないかと思う。それでもイエスが赦しなさいと言うので、使徒たちは、信仰を増すことによって、徹底的に赦せるようになるのではないかと思い、イエスに「私達の信仰を増してください。」とお願いしたように思われる。 「信仰を増してください。」というお願いについて、イエスは信仰の大きさや量を測る話をするのではなく、からし種というもっとも小さい物の一つを引き合いに出す。さらに、もっとも大きいものの一つとして桑の木も用いて話す。 地上に根をはっている大きな桑の木が小さなからしダネのようなものによって海に動かされ根をはるという話をする。 からし種は小さいものの象徴で、それが信仰で、桑の木が地上から海の中に動いていってしまうことは大きなものの象徴であり、それは人間が考えられる事や行いをはるかに超えている話。 それにしてもイエスはどうしてこんな話をしているのだろうか? キリスト教の信仰者になる、あるいは洗礼を受けるということは、ルーテル教会では、牧師が十戒、信仰告白、主の祈り、罪の告白、洗礼と聖餐について学び、洗礼を受けるように進めている。 しかし、だからといって試験をするわけでもなく、また作文を書いて、神について、このように知的に考えているから、あなたはクリスチャンです、と牧師が洗礼をほどこすわけではない。 信仰者になるという事は、自然とか宇宙の存在と、聖書に書かれた神の存在を、きっぱりと分けて考えるような考え方の問題ではなく、むしろ、どのようなことに出くわそうが神なるイエス・キリストを信じ、完全に主にゆだねて生きるという、生き方の問題。 神なるイエス・キリスト、聖霊でもあるキリストを信頼して生きるということは、実体のないものが最初に天と地を創造され、植物や動物もすべてを創造したということ信じることであり、21世紀に信仰者になるということはいってみれば、実体のないものに賭けて生きていくギャンブルのようなものかもしれない。 信仰に生きるということは、主がすべて司ってくださるという点において、私は理知的に考えられるような存在ではないし、いつも正しく考えて正しい行動をす人間でもなく、よく過ちをおかしてしまう人間であることを認めて生きること。 そのような欠点や過ちにも関わらず、イエスキリストの御心により、私たちの人生は大きく改善していく面がある。 それゆえ、キリスト信仰者は、神に仕え、あくまで謙虚に神からいただいた才能や恵みを、神の栄光を顕すために用いる。 そして、それはまた、私達が生きる世界についての理解をも深めることになっていく。 クリスチャンの謙虚な生き様のなかに、父なる神が働いてくださり、主イエスが入ってこられ、主は洗礼と聖餐、さらに、神の御言葉も伴って、クリスチャンを義なるもの、聖なるものとさえしてくださる。 その結果、神は信仰者たちに偉大な行動をとるように、偉大なことに気がつくようにと導かれる。 それは、神が赦してくださるということと人々を赦すということも偉大なことだが、多くの困難の中、不幸の中におられる方々に奉仕するように導かれるし、とてつもない複雑な現象に気がつくようにも導かれることもある。 たとえば、コペルニクスは15世紀まで信じられていた天動説ではなく地動説を説いたことで有名だが、彼はローマカトリック教会での重職を担っていた信仰者だった。私は、信仰に生きるなかで、神がコペルニクスにとても重要な概念である地動説を導いたと思う。 イエスの信仰のゆえに、つまり神にゆだねる生き方をする中で、主なる神がクリスチャンの中に働いてくださり、たいへんな事に気がついたり、あるいは、世の偉業を成し遂げるということが起こる、それはあたかもほんの小さなからしダネが、大きな桑の木を動かしてしまうイメージだ。 しかし、どのような偉業を成し遂げても、「主なる神が働いてくださって、私はしなければならないことをしただけです。」というイエスの言葉にあったへりくだった言葉を述べるようになるのではないだろうか。 キリスト教の信仰は、科学的な探求とか発見と排他的な関係にあるものではない。私は、神が私たちに科学的な解明する力をも与えてくださっていることに感謝すべきだと思う。 神が私達に与えてくださっている信仰にも科学にも感謝し、主なるイエスキリストを賛美したい。アーメン。 Not “Why?” but “How?” Luke 17:5-10 May the Grace and Peace of Jesus Christ be poured into the people gathered here! There are many Japanese people who say “I am not a Christian.” However, what do you mean “Christian”? Sometimes, we hear, “Since I believe in science, that is why I do not believe the Bible and I’m not a Christian.” People who think that way might have a perception that if you become Christian, you’re supposed to believe that “everything is created by God and you automatically ignore or disbelieve scientific discoveries like quantum theory, astrophysics, and cellular research. However, in the world there are many scientists who are Christians and they have made important discoveries and proven many scientific principles. Christians have entrusted everything to God…and for non-believers, it seems like Christians do nothing other than just believe in the Bible and disbelieve modern science. If this were the case, why have Christians made significant contributions to science? In a sense, I believe that the Gospel scripture today answers that question, although it may be difficult for many of us to reconcile. The scripture today is the conversation between Jesus and his apostles. The apostles asked Jesus to, “Increase our faith.” A paragraph before today’s text, Jesus guided them to forgive and forgive and forgive…that is a difficult thing to do in most cases. “Therefore, the apostles recognized that following Jesus was difficult…
Tweet 「今をどう生きるか」 ルカ 16: 19-31 主イエスキリストの恵みと平安が皆様方の上に豊かにありますように! アーメン 先週の秋分の日、日本ではお墓参りに行く習慣がある。この復活ルーテル教会では、召天者記念礼拝が行われた。皆様のご協力もあり、またもっとも重要なこととして聖霊の助けにより、天国にいる方々との交わりの時が持てた。 礼拝を終えたあと、食事の時を持ち、故人の思い出を分ち合う機会が与えられた。 そして、月曜から日頃の生活に戻ったが、どのような一週間だっただろうか。 故人を思い出すことが、なにかみなさんの一週間に変化を与えただろうか? 私は、40代で亡くなった友人のことを思い出していた。 膵臓癌になった彼が、なぜ自分がすい臓がんにならなければならないか等ということを質問するより、現実に迫ったこの世の死期を前に、家族や友人との交わりに感謝し、信仰を持ち、この世の生活を全うしたことを思い出した。 そして、私を牧師に導いたともいってもよい彼の言葉を思い出した。彼の今の天国での幸福を確信するとともに、神が彼を通して与えた伝道という使命を今一度思い出し、新たに、牧師としての仕事に取り込む思いのする一週間となった。 さて、今週与えられている聖書、大金持ちとラザロのたとえ話。 大金持ちとラザロが死後、天国に行きどのような状況になるかの話。 大金持ちは、この世では贅沢三昧をしていた。もう一方で、貧乏人ラザロは、見るも無残な生活を送っていた。 ホームレスであることはもちろん、犬にできものをなめられる、それは貧困中のなかの貧困という生活を送っていた。大金持の食卓から落ちてくる食べものを食べれないものかと思って生きていた。 そのラザロが死んだが、葬式をしてくれる者もいなかったのだろう。ところが、彼は天使に連れられて、天国で上座にいるアブラハムの隣に座る。一方、大金持ちもやはり死に、贅沢な葬式が行われたと思われるが、天国に行くとどうだろう。アブラハムやラザロのいるとても気持ちの良いところの手前に深い割れ目があって、そこを渡ることができず、炎の中で苦しみもだえている。とても天国と呼べるところではない。その割れ目は自分の力では越えることはできず、いろいろなお願いをするものの、この世で贅沢三昧をしたことで、炎の中で苦しみもだ続けるしかない。アブラハムからは、お前はなんでも手に入れいたいものを入手できたが、ラザロは何も持たなかったと諭される。 イエスはなぜ、こんな話をしているのだろうか。 また、いったい誰に向かってこんな話をしているのかよく考えてみたい。 話の前後関係からいって、イエスのたとえ話は、お金に固執してしまう、ファリサイ派というグループの人々に向かって話している。ある意味、ファリサイ派の人々は大金持ちと共通した面があり、お金に固執していた。モーセや預言者たちの言葉を読んではいるものの、実際にはそれらの話に基づいた行動をしていない生活をしていたと思われる。もし、信仰をもってそれらの言葉を読んでいたとすれば、貧しい人々や寄留者たちと食物を分かち合っていたのだろうが、大金持ちと同じように、貧乏人と分かち合うということはしていなかった。 たとえば、ミレーの絵画になっている申命記の落ち穂拾いの話は有名だし、イザヤ書の58章の6節7節には、「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。」とある。 第一日課にあったアモス書もいってみれば、社会正義に関する話。 つまり、イエスはこの大金持ちとラザロのたとえ話をする中で、旧約聖書の言葉を読むものの、実生活ではお金に執着してしまい、当時のイスラエル社会で困難の中にある人々を見下していたようなファリサイ派の人々に、もともと神がモーセや預言者たちを通じて、どう行動するように言っていたかに気づいてもらうため、イエスは話しているのだと思う。 では、このたとえ話は私たちに何を語っているのだろうか? このたとえ話は、大金持ちと、貧乏人ラザロの死後の世界のたとえ話だが、この話は、私たちの死後の世界の問題というより、私達が、いまどう生きるかをするどく問われているように思う。 私たちは、神なるイエスが、どのようなことに一生懸命であるかよく覚えておく必要がある。そしてイエスが私達を愛し、私達もそれに気づくという関係の中で、イエスが私たちを徹底的に赦すイエスの信仰によって、私達も聖書に書かれていた神の行いに導かれる。 3週間前の9月8日は、オレンジカウンティのELCAの教会がホームレスや困窮の中にある方々の食料を集める事を行なった。 私達が寄付するだけではなく、スーパーマーケットの前に立ち、できる方には寄付を呼びかけ、たいへんな量の食料が寄付された。 しかし、困難の中にある方々に奉仕するのは、一日限りで終わってはならない。 今一度、私達教会に集うものは、イエス・キリストの体の一部となって奉仕活動をするように導かれている。 イエス・キリストは、宣教することと、病気や貧困の中にある方々に憐れみをいだき奉仕することに本当に熱心な方だった。 キリスト教徒はイエスの信仰によって、イエス・キリストが我々に行動して欲しいことをするようになる。 今週与えられた譬え話、イエス・キリストの英知が、わたしたちの今週の生き方を変え、この世の中がさらにキリストの御国へと近づきますように。 アーメン How Do We Live Now? Luke 16: 19-31 May the Grace and Peace of Jesus Christ be with you all! Amen. Last Sunday was the Autumnal Equinox. In Japan, during autumn, it is customary for people to visit cemeteries to remember loved ones. Therefore, in this Japanese ministry, we do a special Memorial Service on a Sunday around the Autumnal Equinox. I believe that it was a great service to remember our loved ones. In addition to the service, it was great to have lunch together and share stories of our loved ones with each other. Then on Monday we returned to our normal weekday schedule, but how was last week for you? Did remembering a loved one change the way you lived last week? For me, I was thinking about my friend who passed away 16 years ago due to pancreatic cancer. Before he was diagnosed with cancer, he was not a Christian but then he accepted Christ as his savior. While he was fighting cancer, rather than ask God why he got cancer, he thought about how to better live with his family, friends, and most importantly with God faithfully. It is not an exaggeration to say the way he lived changed my life. What he said to me several weeks before he passed away changed the course of my life from a corporate employee to becoming an ordained pastor….
Tweet マルコ2:1-5 主イエス・キリストの恵みと平安がお集まりの会衆に豊かに注がれますように! 天国にいくことができるのは、キリスト教信仰のある方だけなのだろうか? 聖書を読んでいると、たしかに、そのように読めるところはある。アメリカにいるクリスチャンに聖書で一番好きな箇所はと聞くと、ヨハネ福音書3章16節と答える方が多い。そこには,「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とある。神の独り子であるイエス・キリストを信じる者が、永遠の命を得られるとある。 では、信じていない者は、どうなってしまうのか? 日本では、1%もクリスチャンはいない。では99%の方々はどうなってしまうのか? イエス・キリストの愛を何も伝えられないまま、亡くなる方や、洗礼を受けるまでにいたらずに、亡くなる方々はたくさんいる。それは、私たちの友人や親戚でも。 さきほど読んだ聖書の箇所、中風と書いてあるが、たぶんストロークに襲われ、動けなくなってしまった方だと思う。病状はくわしく書かれていないが、意識もまったく無かったのではないだろうか。ストロークを起こす前は、とくに信仰心があったというわけでもなく、暮らしていた方だったのだろう。しかし、イエスに望みをおく信仰者の友人たちが、必死になって、担架に乗せてイエスのところに連れてきた。 イエスがある家で説教していたので、たいへんな人だかりで、担架を運び込むスペースなどありはしない。そこで、屋根に上がり、屋根の一部を開けて、担架ごと、屋根からつるしたまま、その人をイエスのところに降ろした。 すると、イエスは、その友人たちの信仰を見て、その担架に寝ている人の罪を赦し、救われる。この話で鍵となっているのは、担架でその人を運んできた人々の信仰。担架に乗っていた癒された本人の信仰ではなく、友人たちの信仰により、神なるイエスは、その担架にいる人を救われる。 今日私たちは、先に亡くなった多くの友や親戚のことを覚えている。もちろん、キリスト教の信仰をもって亡くなった方々もたくさんおられ、残された家族も、はっきり故人は天国に行っていると確信できる。しかし、洗礼を受けるまでにはいたらずに亡くなった方々や、仏教や日本神道の信仰を持たれていた方々もいる。信仰にはほとんど無縁で生きていた方々だっている。しかし、私たちには彼等が天国におられないとは聖書の言葉からしても断定できない。そのような裁きは神のみができることで私たちの仕事ではない。むしろ、先にこの世の命を終えられた方々の友人や親戚の人々の信仰により、私たちは、イエス・キリストが、今日私たちの心に覚えるすべての方々を、信仰や文化の違いの壁を超えて、すべて天国に招き、今も永遠の命を与えくださっていると信じることができる。アーメン。 A Friend’s Faith Mark 2: 1-5 May the Grace and Peace of our Lord, Jesus Christ, be poured into this assembly! Are the people who are promised eternal life in heaven, only Christians who believe in Jesus as son of God? There are scriptures that seem to strongly suggest this. It is said that Christians in the United States like this Bible verse most, John 3:16, which reads, “For God loved the world so much that he gave his one and only Son, so that everyone who believes in him will not perish but have eternal life.” Everyone, but who believes in Christ, son of God, will have eternal life… So we wonder, what will happen to those who do not believe in Christ? In Japan, the number of Christians is only 1% or even less for the whole native Japanese population. What will happen to the 99% of Japanese after they pass away? There are plenty of people who were not told about Christ and they passed away. Or there are many who even though they were told about Christianity a bit, were not baptized and then passed away, including some of our friends and relatives. The scripture, I read a short time ago, about the paralyzed man on the mat; he probably suffered a stroke and could not move any portion of his body and was unconscious. Before he suffered his stroke, he was not living a faithful life. However, his friends or relatives who…
Tweet “百人に一人か100%か?” ルカ 15: 1-10 主イエス・キリストの恵みと平安が皆様方に豊かにあるように! 「罪人」という言葉を聴いた時、この言葉をどのように捉えているだろうか? キリスト教ではよく使われる言葉だが、その意味は、よく理解されておらず、日常の会話であまり使われる言葉でもない。 キリスト教で使われている「罪人」という言葉の背景をよく理解していない方々と話した時に、「犯罪人」の意味で理解されていることがある。 したがって、「私は罪人ではありません。」と言われたりする方々に出会う。そのような時、「犯罪者ではないことはわかりますが、何か知らないうちにある方のことを傷つけた経験はないだろうか?」あるいは「何か自分がしていることは神を喜ばすものではないと思われたことはないだろうか?」と質問する。するとたいてい「罪人」という言葉の意味についての会話は先に進まない。 本日の福音書は「見失った羊」と「無くした銀貨」のたとえ話。イエスは神を羊飼いにたとえてよく話されたし、また、旧約聖書にも神を羊飼いにたとえている箇所は出てくる。 したがって、そのたとえはわかるが、それにしても、この世で百匹の羊を持っている人が、一匹いなくなったところで、その一匹を必死になって探して、見つかったら友人や近所の人々に言いふらして大喜びするだろうか? 二番目のたとえ話では、イエスは、神をコインを必死になって探している女性にたとえているが、それにしても、たとえば1000ドル持っていた人が、100ドル札を無くして、その100ドル札が見つかった時、近所の人々や友人たちに話すほどに喜ぶだろうか? 今日の福音書箇所ではないが、イエスはこれらのたとえ話の後、有名な放蕩息子のたとえ話をしている。イエスは神を、二人の息子のうち一人が放蕩の限りを尽くしてしまう父親にたとえている。それにしても、放蕩息子が帰って来たからといって、息子のために最高の羊を屠って、近所の人々や友人たちを呼んで大パーティをするだろうか? むしろ、現代の父親であれば、放蕩の限りを尽くした息子が帰ったとしても、静かに自分の家だけで喜ぶか、あるいは場合によっては、喜ぶどころか、その逆の場合もあるのではないかと思う。 つまり、これらの三つの話が、この世の話だとすれば、羊飼いも、銀貨を探す女も、放蕩息子の父親も、異なる反応を示すのでないだろうか。 この三つのたとえ話、99人は特に悔い改める必要が無いとイエスは話したが、次の無くした銀貨のたとえでは、残りの9人について悔い改め云々の話はしていない。 そして、放蕩息子の話では、父の喜びのパーティに賛成できなかった兄をたしなめており、兄の方だって、悔い改めるべきことがある。 さてこのような話の中に、あなた自身が登場するとすると、だれに当たるだろうか。 すくなくとも今日教会にこられている方々は、迷った羊でも、無くなった銀貨でも、放蕩息子ではなく、正しい方々のように思う。 しかし、本当にそうだろうか? たとえ、正しいとされる方々でも、実は、人生で大きな迷いに遭遇することもあるのだ思う。 ここで、イエスはこれらのたとえ話をいったいだれに話しているか、振り返ってみたい。 ファリサイ人や律法学者たちの会食に招かれたイエスは、罪人とされる徴税人などと食事を共にしはじめ、宗教指導者たちは、怒りをあらわにして、イエスに文句を言い始める。つまり、イエスの意見とは異なるファリサイ派や律法学者たちは、なぜイエスは罪人と食事をするのか困惑した。 そしてイエスは、自分たちは罪人ではないと思っているファリサイ人や律法学者たちに向かって話し始めている。 こられの三つのたとえ話では、迷う人の確率は、最初は1%だか、二つめの話では、10%、そして放蕩息子の話では、弟も兄も悔い改めが必要だったわけで、迷い子は、100パーセントともいえる。 だから、イエスは、あたかも正しいと思っていたファリサイ人や律法学者たちも、迷子になっている事に気がつくように導いておられるように思う。 さて、もう一度、皆さん今日の福音書の中で、いったいだれに相当するか考えて欲しい。 いつも教会に来ていて、信仰深く、義しい人であっても、同時に日ごろの生活を振り返ると迷いの中にあるということが多々あるのだと思う。 たとえば、お子さんのためにできる限りの教育を受けさせたが、親が期待していた状況とはまったく異なる状態にあるお子さんをお持ちの方々もいるだろう。 あるいは、ご自身が何らかの社会組織でキャリアを積まれたが、自分の目指していた事とはまったく違う仕事をしているという方もいると思う。 あるいは、とても熱心なクリスチャンだが、自分の友人や家族に信仰について分かち合っても、自分がクリスチャンになってもらいたいと思っている方は一向にクリスチャンになる気配が無いという方々もいると思う。教会は、自分の行動や話した事が、いったい神を喜ばせるものだったかどうかわからず、迷いの中にある方々でいっぱいなのが現実だと思う。 そのような私たちの中で、神は一生懸命、私たちを探している。今日の福音書は、私たちは罪人かそうでないかという事がポイントではない。実は私たち全員が何かと迷ってしまう。私たち全員が罪人だ。その私たちを、神は捜し求めてくださっている。 人類全員の捜索をいったいだれができるだろうか。人間にはだれもできないが、神はそれをなさる。神の慈しみと恵みと愛を持って、発見するまで探し続けてくださっている。 礼拝のはじめに、この礼拝堂で、罪の告白をした皆様方のことを、神はたいへんな喜び、恵みを持って赦してくださり、自分で気がつく気がつかないにかかわらず、私たちを新しく創り変えてくださっている。 そして神の祝福が新たに与えられたことを覚え、新しい一週間を送られますように。 アーメン “One Out of One Hundred or 100%?” Luke 15: 1-10 May the Grace and Peace of Jesus Christ be with you all! What perceptions do you have when you hear the word “sinner?” The word, “sinner,” often used in Christianity, is not well understood and not really used in everyday conversation. Especially, when I talk with Japanese people who do not have any Christian background, the word “sinner” is often understood as “a criminal.” Therefore, I often hear from them “I am not a sinner.” Then I answer to him or her, “OK, I understand that you are not a criminal, but have you ever done or said something that hurt someone, even without knowing at the time that your actions hurt them?” Or “Have you ever thought that what you were thinking or doing does not please God?” Then, the conversation about sinners usually does not go any further. The Gospel scripture today are the parables of the “Lost Sheep” and “Lost Coin.” Jesus uses the shepherd representing God in the first parable. The image of the shepherd is often used in the Old Testament as well as in the New Testament. However, in this world, if you find one lost sheep out of the hundred you have, do you really share this news with your friends and neighbors? In the second parable, Jesus uses the woman who looks for the lost…
Tweet 主が喜ばれるパーティ ルカ14:1, 7-14 主の恵みと福音が集まりました会衆の上に豊かにありますように! さて、今日はイエスの語られたパーティの話。何かのパーティに招かれたとして、どこに座りたいか? あなたが、食事会を催すことにしたとして、だれを招きたいか? 私は、実は、苦いしかも恥ずかしい経験がある。しかし、そのぶざまな体験を通して、神は私に語りかけていたと思う。 神学校のある教授の引退披露パーティがモントレーパークであった。 私は、当時インターンだったが、その披露宴に出席することになった。中華料理屋で行なわれたが、私は会場に入ってすぐドア近くのテーブルに座った。すると数分後、引退する教授が来られ、私の座っていたテーブルのすぐ隣のテーブルに座られた。そして、他の教授と思われる方々やシカゴから来られた方々がその教授のテーブルと私のテーブルに座り始めた。 入り口に近い席が、通常末席というのが日本の常識だが、そんなことは通用しない。 そして、まだ教授をよく知る方々でスピーチ予定の方々が私の座ったテーブルに座るとのことで、主催者の方から他のテーブルに行って欲しいと言われ、奥の方のテーブルに移動した。まさにイエスの語られていた恥ずかしい経験をすることになった。しかし、私に言わせれば上座なる奥の方の席について、となりに座った方は、シカゴから来られた牧師で、しかも、足も胴体も不自由な方。 私は始めてその方とお会いしたが、とても不思議な経験だった。彼の育った教会が、今は周辺にアフリカから移民してきた貧困層の方々が住むようになり、アフリカからの移民の方々を招いている教会になっているという話しを聞きとても有意義な会話となった。 引退披露バーティでの一連の出来事は、このルカ福音書の14章に書かれていることと、何かダブルで共通していると思った。 本日の福音書では、イエスは結婚披露宴に招かれたら末席に座るように、昼食会や夕食会を開く場合は、兄弟や、親戚、あるいは近所の金持ちを呼ぶのではなく、貧しい方や体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招くようにと言われる。なぜなら、彼等からはお返しを受けないので幸せであり、義なる者が復活するときその報いを受けるから。 それにしても、このたとえ話、イエスは当時の人々、さらに、現代を生きる私たちに何を語っているのだろうか?この数ヶ月間読んできているルカ福音書には、ひとつの一貫したテーマがある。それはイエスが神の国はどういうところかを教えてくださっている。今日の福音書では、神の国の状況を宴会や食事会にたとえて話しておられる。あなたは神の国の宴会に招かれているのであり、また同じような宴会を主催して、その神の国の良き知らせをシェアするように教えられているように思う。神の国にあっては、全員が徹底的にへりくだっており、謙虚であり、どんな体の不自由さも差別されることなく、金持ちも貧乏もなく、人種差別もなく、主のもとに全員が同じ扱いを受ける。神の国では、貧しい方や体の不自由な方々がじゃま者扱いされることはなく、むしろ、彼らが正しいとされる。 そして、イエスはそのような神の国がこの世においても実現するようにと教えておられる。そして、私たちが真に楽しい宴会、そこにイエスもいっしょに座ってくださる喜び溢れる宴会を催す、つまり社会作りをするように導いておられる。 この世において、日本人は日本人だけの社会とか、あるいは、裕福な人々は裕福な人々だけでコミュニティを形成しようとする傾向がある。そのような社会的な風潮があっても、イエスは、私たちに、だれかがだれかよりも価値が高いなどということが無いような社会になるように、徹底的に謙虚に生きるように導いておられる。 先週ある記事を読んでいて、たいへんに残念に思ったことがある。最近日本では、考え方が同じではない外国人は出ていってくれ、と考える方々が多くなっているという話を聞いた。日本は古い歴史にさかのぼると、そもそも、他民族国家なのだと思う。 しかし、鎖国などの時代を経て、いつのまにか単一民族のような印象を受け、そして、また自然と他民族であることに気づく時代が近づいており、いってみれば神が喜ばれる社会になっていくのではないかと私が期待していたが、どうもそれを歓迎していない動き、風潮があるようだ。そのような風潮は究極的に喜ばしい社会形成になるのだろうか。ぎすぎすした社会、国際関係になってしまうのではないだろうか。 そもそも、そのような風潮を見て、イエスはどう思われるだろうか。 神の国においてだけではなく、この世においても、へりくだって生きること、そして、文化の異なる人々も、貧しい人々も、あるいは体の不自由な方々も、神が創造してくださった同じ人間として、いっしょに生活する。そのような行動こそが、最もいつくしみあふれるイエスが主催してくださる宴会の席に着くことであり、そこに真の主イエスの喜びがあり、私たちも大きな喜びが与えられることになる。アーメン Party that the Lord Enjoys Luke 14:1,7-14 May the Grace and Peace of Christ be with you all! The theme of today’s message is the party that Jesus discussed. When you are invited to a party, where are you going to sit? When you host a party, whom are you going to invite? I had a bit of a bitter and shameful experience at a party…however, from that awkward experience; I felt that God was speaking to me. Five or six years ago, a theology professor’s retirement party was held in Monterrey Park and I happened to be there. During this time I was just an intern. It was held at a Chinese restaurant, in their banquet hall, I entered the venue and sat at a table near the entrance. Then the professor came a few minutes later and sat next to the table where I was seated. Then several other VIPs arrived and started sitting at either his table or my table. Although, I thought that the table I was sitting at would be far from the main guest table, this was not the case. Later on, a few more people arrived (i.e. guest speakers) and I was asked to change my seat by a pastor who coordinated the party…it was a shameful social experience as Jesus discussed in his parable. I moved to a different table and the person seated next to me was a pastor who came from Chicago. He is a…
Tweet 神の行い:束縛から解放 ルカ 13:10-17 キリストの恵みと平安が豊かにありますように。 自分はなにかに束縛されてしまっていると思うことあるだろうか? 歴史的な事実として、イスラエルの民はエジプトで奴隷となっていたが、それがひとつの大きな聖書に書かれた束縛のイメージだ。 こんな母親がいた。子供にむかって、「私はあんたたちの奴隷じゃないんだから、少なくともパンツくらい自分で洗いなさい。」と言い、子供は自分でパンツを風呂に入ったときに必ず洗うようにさせていた。かと思うと、子供の奴隷になってしまうお母様方が多いと聞く。自分の理想とする子供になって欲しいがため、とにかく勉強して、良い大学に入り、良いところに就職できるようにと、何から何までやってしまう。結果、母親は奴隷のように子供に束縛されてしまう。 あるいは、何かが欲しくてしょうがなくなり、高級ブランド品とか、高級車とかに束縛されてしまう。こういう話がある。猿を捕まえるための道具で、箱がある。箱には穴が開いていて、中には、さるの欲しそうな食べ物がひもでぶら下がっている。猿がその箱のところに来て、これはしめたと思い、中の食べ物をつかむ。 ところが、それを取り出そうにも、しっかりひもにくくりつけられてぶら下がっているから、簡単には取り出せない。離してしまえば良いのに、欲しくてしょうがないので、つかんだままその場にいる。そうしている間に、猿は箱の近くで捕らえられてしまう。 いくつかの束縛のタイプを話したが、今日の福音書に入っていきたい。この話、束縛されてしまっているのは、だれだろうか。もちろん、18年間、病の霊に苦しみ、腰の曲がってしまっていた女性。しかし、その女性だけではないと思う。 だれが、束縛されているだろう。 イエスの行いを見て憤慨して横柄なことを言い出した会堂長はどうだろうか? 会堂長はユダヤ教の規定に、がんじがらめになっていた。 当時ユダヤ教のしきたりでは、安息日には会堂に集まって詩編を歌い、リーダの話しを聞いた。また第二(月)日と第五(木)日では、聖書(トーラ)を読み、律法について学ぶ日として、人々は集まっていた。 聖書には、実に多くの安息日の規定がある。ユダヤ教のしきたりでは、安息日には基本的に何もせずに、シナゴーグ(会堂)に出向くだけ。現代でも、オーソドックスなユダヤ教の方々は、土曜日に車に乗らずに、シナゴーグには歩いていく。また歩くにしても、歩いてよい距離の上限は決まっていたりする。 会堂長は、18年も腰がまがったままでいた女性が癒されたのに、イエスが安息日に癒したため、自分の理解していた安息日の規定と彼の知識に従って、人々に向かって「安息日は癒してもらう日ではない。他の6日の間に来るように。」と述べる。 自分の理解した律法に束縛されていた会堂長に対して、イエスは18年も束縛されていた女性だったのだから、たとえ安息日であっても解放するのが筋だと説明する。福音書には、反対者たちが皆恥じ入ったとあるが、実は、その女性が癒されたあと、イエスの会堂長に話したことは、彼らにとっても大きな解放の言葉だったのはないかと思う。ある意味、さきほど、猿が必死に、その箱の中の食べ物を離すことができずにいる所に、ぱっと、別にその餌を食べることが一番大切なことではないんだよと気づかせ、ぱっと手をそこから離すことができるようにしてあげるようなイエスの行いと言葉がある。 この21世紀を生きる現代にあって、いろいろなことに縛られてしまっている私たち、その結果一番大切なことを忘れてしまい、私たちを創造してくださった神との関係をおろそかにして生活している現代人に、聖書に描かれたイエスの行為と言葉は大きな意味を持っている。 様々なことに縛られてしまう私たちは、規定でがんじがらめになってしまっていた会堂長に、はっと、本当の神の愛を見せた上、会堂長の行き過ぎた安息日の解釈にイエスの投げかけた言葉には、私たちも多いに学ぶ面がある。 私たちの生活で、イエスというお方である神以外に、さまざまな神々を自分で作ってしまうところがある。 お客様は神様ですと南春夫さんは言われた。芸人にとっても、どんなビジネスをするにも、もちろん、お客様は大切だ。しかし、本当の神ではない。家族はもちろん大切で、子供に自分の最高の愛を示そうとすることはすばらしいことだが、子供を神としてしまい、自分を創造された神様とすり代えてはならない。私は聖書を読むことが大切だとよく話すが、それは聖書が神様で、聖書を読むことが一番大切ということではなく、聖書の中に書かれた、イエス・キリストの行為、話された言葉を読み、イエス・キリストという方を知りそのお方と関係を持つことが一番大切であり、そしてイエスの生き様を振り返り、できる限りイエスの教えに従った生き方をすることが私たちの使命。 いろいろ間違った考えや行動、つまり神ではないものを神のように思ってしまう現代人であるにも関わらず、十字架に架かって殺されてまでも、復活して徹底的な愛をもって、人間を赦される神。イエスは、色々な事に束縛されてしまっている現代人を解放するために、聖書に書かれたストーリーやイエスの言葉が働いて、現在も多くの方々を解放している。 そのような主なる神、イエス・キリストをますます讃え、イエスの愛に満ちた新たな一週間を送ろう。アーメン。 ”God’s Action: From Captivity to Release” 2013 8 25 Luke 13:10-17 Pr. Hitoshi Adachi Grace and Peace to you in the name of our Jesus Christ! Have you ever felt that you were captive to something? As a historical fact, Israelites were slaves in Egypt, which is a biblical image of captivity. While we were raising our children, my wife often said, “I am not a slave of yours. I cannot do all of your laundry. Why do not you wash your underwear at least?” Shin, the honest first born son, followed what she said. Sometimes I hear stories that there are mothers who are captives of their children. They want their children to be an ideal adult, meaning going to a prestigious college and earning a good income, so some mothers do everything in order for them to focus on their studies, like they are slaves to their children. Or there are people who would like to own something, i.e. brand-name goods, such as expensive jewelry or an expensive car. There are people who are captives to luxury brand items. I am sorry to use this analogy, but I will use it since humans are close monkeys. There is a trap to catch a monkey, a sturdy box that has a hole that a monkey can put his hand into the box. In that box, there is an apple hanging firmly tied to the top of the box by a…