Archive for the ‘牧師説教’ Category

Tweet マルコによる福音書1章29-39節 「名声への道、それとも十字架への道」  “Way of Celebrity or Way  of the Cross” 私たちの父なる神と主イエスキリストより恵みと平安が、あなた方の上にあるように。アーメン。 今日の福音書の中に幾つかの場面が書かれています。最初の場面はイエス様が彼の弟子として選んだペテロとアンドレの家にペテロの奥さんのお母さんを尋ねた場面です。イエス様は病気で寝ていたペテロの姑 の手を取り、起こし上げたその時、彼女は病気から癒されたのです。 次の場面はその夜、イエス様がまだカペナウムに滞在していた時、町中の病気の人たちがペテロとアンドレの家に、病気の者、悪霊に取り付かれていた者を連れてきた場面です。イエス様はさまざまの病(やまい)を患(わずら)っている多くの人々を癒し、また多くの悪霊を追い出した場面です。 第3番目の場面はイエス様は、朝早くまだ暗いうちに、寂しいところに行かれ、そこで祈っていた場面です。イエス様は一人でいる時と天の父なる神様と会話の時間がほしかったのでしょう。しかしながら、その静かな時もイエス様を追ってきたペテロによって破られたのです。ペテロは言いました。「イエス様、わたしはあなたがどこにいられるか探しておりました。みんながあなたを探しています。イエス様、あなたの人気は素晴らしいものです。このガリラヤであなたが私たちのうちにいることは私たちの誇りです。どうかカペナウムにお戻りください。皆さんがイエス様あなたを愛し、賞賛されています。どうかここカペナウムで素晴らしい奇跡の働きをなさってください」。 聖書には直接、はっきりと書いてありせんが、私は、イエス様は荒野で悪霊に試みられた時、一人で静かな所に行き、神様の御心を求めて祈ることにより、父なる神様の救いの計画、すべてのひとのための救いの計画を把握していたと信じます。悪魔はいつもイエス様に自分の名声、自分の徳というものを与えてイエス様を自分の見方にしようと思っていたのでが、イエス様は、その裏工作はまさに神様の愛の精神に反するものとして悪魔、悪霊を退けたのです。 皆さん、アメリカでの生活の長い人の中でPhil Donahue さんを覚えている方いますか? この人は1980,90年代にテレビで毎日20年も生放送のreality show のホストとして知られた人です。彼は自分の自叙伝を出しました。その中にある一つの話を紹介しましょう。Phil Donahueがまだ若いテレビのリポーターであった時、ある炭鉱で大きな事故が起こり、そこに送られて、現場の状況、心配で泣いている、祈っている家族とインタビューをしました。坑道の中の人との連絡が取れません。時間がたつにつれてますます家族の心配の思いが大きくなり、精神的、体力的にも疲れ果てた家族の人たちが続く中で、誰かが一つの讃美歌を歌いだしました。「慈しみ深き、友なるイエスよ、われらの弱きを知りてあわれむ、悩み、悲しみに沈めるときも,祈りに答えて、慰めたまわん」。そこにいた人たちも声をあわせて歌いだしたのです。歌がおわり、ひとりの牧師さんが、進み出、 “let us pray” と言って祈り始めました。「私たちに希望をください。あなたがすべての心の重荷を持つ私たちの祈りを聞いてくださることを知っています」。Donahue さんは、この讃美歌と祈りがこれまでに感じられたことのないほどの力を与えてくれ、神様は本当にいるんだ。私たちは神様によって守られているんだ。と言う今までになかった心の安らぎを感じたと本の中に書いています。 彼はテレビ・カメラにこの牧師さんお祈りと慈しみ深き友なるイエスの賛美歌が録画ていると思っていたのですが、実は、あまりの寒さにテレビ・カメラは frozen されてしまっていたのです。そこで、Phil Donahue さん、マイクロホンを持ってこの牧師さんのところに行き、「もう一度牧師さんが祈ったその言葉を言ってください。それをテ-プレコーダーにいれたいので」と頼んだのですが、それはできませんと牧師さんに断わられたのです。Donahue さんは言いました。「私はテレビのリポーターですよ。全国で260ものテレビ局と提携しているCBSのリポーターです。全国中で、この生中継が報道されているんですよ。あなたの祈りがアメリカ中の人々に伝わります。どうかもう一度、あなたの祈られた言葉をリピートしてください」牧師さんはそれでもNo との返事です。どうしてこの牧師は頑固なんだろう思ったわけですが、 考えてみれば、イエス様も頑固とは言わないにしろ、ペテロに「カペナウムに行きましょう。そこではイエス様、あなたは私たちの英雄であり、みんなはあなたをしたっていきますよ」。と言われて、“No, no, no,と叫んだのではないでしょうか。  イエス様の言葉はこう答えました.「私はひとたちの人気に誘われてカペナウムまでいくことはしない。それ以上にまだ多くの人たちに神様の福音をすべての人に語る義務がある。そのために私は父なる神様から送られたのですから」。 イエス様は、すでに父なる神様から、この世に送られたその目的をわきまえていたのです。それは、すべての人たちの罪をイエス様自身が担って、十字架にかかり、その死と復活によってのみ、もう一度言います。その死と復活によってのみ、すべて悔改める者を、罪から赦され、神様を信じる者に永遠の命を約束したことです。しかし神様は私たちにこの神様の約束を受け入れるか、受け入れないかの決断を私たちの自由な意志に任せたのです。父なる神から示された目的は、世界のすべての人たちに神様の救いの約束を宣べ伝えることです。 これは少し今日の説教から脱線するかもしれませんが、いつも説教の中で話したこともないようなことを皆さんにお話したいのです。 私は神様が、私たちを操り人形のように造られたのではなく、一人ひとりに自分の意思、自分の確信、Conviction で生きることを求められていると信じます。それは私にとって、聖書を読み、神様の私たち一人ひとりに下さっている愛を感じることです。 私はクルスチャンの家庭に生まれたことを感謝します。それはイエス様、神様という方の話しを教会の中で、聖書の中で読む機会を与えられていたからです。キリスト教の教えがどのようなものであるかは小さいときには分かりませんでしたが、聖書はむずかしいと言うより、聖書は神様のLove letter のように感じていました。ですから、神様は私にとって身近にいる、慰めの存在であったのです。悪いことをして神様から怒られるだろうと何回も思ったことはありましたが、神様から赦してもられることも知っていました。今でもそのように私の神様に対しての信仰は非常に単純なのです。 はっきりいって、私がどうして神様を信じることができるのか時々不思議に思えることがあるのです。しかし信仰と言うものを良く考えてみますと、信仰は私たちが作る、起こすものではなく、信仰自身も神様が私たちに下さったギフト、賜物です。つまり、私たちが神様を信じることもできる信仰も神様からいただいたギフトなのです。 さて今日の福音書の戻ります。「イエス様は朝早く、まだ暗いうちに人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」。と書いてあります。 宗教改革を始めたマルチン・ルターは毎日の祈りの時を大切にされた人です。宗教改革の後、カトリッツク教会から破門されたルターは、カトリック教会の善行による義認、つまり、良き行いをすることで人は救われると言う教えを全面的に否定したのです。 人は神様に対して、どんな良い行いをすることによって救われるのではなく、私たちの罪を認め、神様にご免なさい、いつも罪と汚れに満ちた私ですが、あなたの恩恵により私たちを赦し、あなたについていける、あなたの教えを守ることができる私たちにしてくださいと祈るのです。これは私たちの日曜ごとに礼拝の中で行われる神様への罪の告白と、神様からの罪の許しを受けることです。 マルチン・ルターは朝早く起き、一日の初めを3時間にも渡って神様に祈ることではじめたのです。それは祈りの中で、神様と会話の時を持ったと言ってもいいでしょう。イエス様自身も、時間をかけて、静かなところで父なる天の神様と一生懸命祈ったように、マルチン・ルターも同じように神様の御心が分かるように祈ったことを模範にして、私たちも祈りの時を今まで以上に大切にしなければなりません。 神様は私たちの心にあることはすべてご存知なのですが、私たちの心の中にある一つ一つの思いを神様に告白することが大切です。そして神様に、どうか私、私たちが、神様の御心にかなう、毎日の生活ができますようにと祈るのです。私たちが真剣になって祈ることは神様が必ず聞いてくださいます。 昨年3月に起こった東日本大地震と津波の災害のあとすぐ、日本福音ルーテル教会は震災復旧を目指しての働きに入りました。 去年の11月の日語伝道23年目のお祝いの礼拝の中でメッセージを下さった、立野先生と二年ぶりに私たちの教会を尋ねて下さった伊藤先生は昨年の三月におこった東日本地震と津波の災害地である仙台で、「ルーテル教会救援隣人」の名のもとに、災害を受けた人たちに少しでも、一緒になって復興を目指す仕事を始めたのです。この一緒になってというこの言葉は、大切な言葉です。悲しみに、苦しみに、心も、体も疲れきっている隣人を自分の兄弟姉妹として助け合うことです。共に泣くのです。今あなたの苦しみを私も一緒に背負っていきましょうとお互いを助け合うのです。 何故こんな悲惨なことが起きたのでしょうという問いに答えはありません。しかし大切なのは、そこで悲しみに浸っている人たち、私たちの隣人と一緒にいてあげることです。物を分け与えることも大切ですが、人間として一番大切なのは、一緒にいてあげることです。私たちの祈りに災害にあった人たちのために祈ることです。 イエス様のガリラヤ湖の湖畔にあるカペナウムの町で始まった伝道はこれから3年間に渡ってのイエス様の人々たちに対しての愛と思いやり、心と体の癒し、そして神様の救いについての教えの働きです。 それが今ここ、アメリカと言う地で、また、世界のあらゆる国で2千年以上続けられているのです。どうかこれからも、私たち一人ひとりが、イエス様の心を私たちの心として受け取り、神様の愛を言葉と、行動によって人々に分かちあえるよう祈りましょう。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マルコによる福音書1:21-28「イエス様の権威」     “Authority of Jesus” 私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平安が、あなた方の上にあるように。アーメン。 イエス様は生まれがベツレヘムですが、育ったところはナザレと言う田舎です。大人になりガリラヤ地方のヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受け、40日間に亘って荒野でサタンの誘惑を受けましたが、それに打ち勝ち、その後ガリラヤで神様の福音を語り始めました。またガリラヤ湖の湖畔で漁師をしていた4人を弟子として福音の伝道の働きにはいったのです。安息日にはカペナウムの町にあるユダヤ人の会堂で、聖書の内容と神様の福音について教え始めたのです。 さて皆さんの中で、イエス様はユダヤ人のラビ、英語で言うRabbi だったのですかと言う質問が来るかもしれません。ラビは聖書をよく勉強した、また会堂で説教もしていたでしょう。イエス様は勿論子供の時から両親に連れられてユダヤ人の会堂に行っていたはずです。しかし、ユダヤ人の会堂で話をするのはラビだけではなく、一般の男たちもそのような討論をすることができたのです。 神の国の伝道を始め、人々はイエス様の教えに権威があることに驚いたと福音書には書いてあります。いつもの会堂司や、ラビの説教と違い、何か心に訴えられるようなイエス様の教え、また汚れた霊に取り付かれた男からその悪霊を取り去ったイエス様の評判が、ガリラヤ地方の隅々まで広まったのです。 1960年代に私は東京で、Billy Grahamのクルセードに行った事があります。それまでこの人の名前を聞いただけで、彼がどのような牧師さんであるかは知りませんでした。話し始める通訳の人の言葉より彼の力ある声と神様の聖霊に満たされたメッセージに心を奪われました。メッセージの後、Billy Grahamは、イエス様を受け入れる心を持つ方は前に出てくるように勧め、私も何か涙を流して前の方に行き、日本語と英語が一冊になっている新約聖書をもらいました。この人は本当に神様の聖霊に満ちていると感激したのです。皆さんのうちにも誰か、権威を感じさせられる人柄に出会い、この人はすごいと思ったことがあるでしょう。 カペナウムに住む人たちはイエス様の権威のある神様からのメッセージを聞いてびっくりしたのではないでしょうか? また悪霊に取り付かれている人たちはイエス様に出会うことを嫌っていたのです。と言うのはイエス様は悪霊を追い出すことができたからです。私がこれは本当だと思ったことは、悪霊自信が神様を恐れているからです。暗闇、暗いところに存在するものは、神様の愛、お互いを大切に助け合う生活、喜びを分かち合う生活などを嫌うのです。 福音書のマルコによるとイエス様はただ単に言葉による権威を持っていただけではなく、 行動による権威をもっていました。それは旧約聖書の創世記の中に出てくる創造主である権威を持った神様の言葉と行動です。 旧約聖書の創世記1章1-3節にこう書いてあります。 初めに,神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の表にあり、神の霊が、水の表を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして光があった。神様が語ることで光があり、また語ることによってそれが実現したのです。また主なる神は土の塵で人を形作り、その鼻に息を吹き入れたのです。これも神様でしかできない権威ある言葉と行動です。 しかし神様の造られた私たち人間の中でも、権威に満ちていたひとたちもいます。私は神学校の4年間のうち3年間をペンシルベニア州のGettysburg という南北戦争の激戦地で過ごしたのです。神学校はまさに激戦地のど真ん中にあります。5万人もの兵隊さんが3日間の戦いで命を失い、その土地は人間の血で赤く染まったのです。 その時の大統領がリンカーンでした。彼は南北戦争の終わったその年の11月にワシントンからGettysburg に戻り彼の演説の内最も有名なGettysburg Address と言うものを祈りをこめて語ったのです。その一部を聞いてください。 Four score and seven years ago our fathers brought forth on this continent, a new nation, conceived in Liberty, and dedicated to the proposition that all men are created equal. Now we are engaged in a great civil war, testing whether that nation, or any nation so conceived and so dedicated, can long endure. We are met on a great battle-field of that war. We have come to dedicate a portion of that field, as a final resting place for those who here gave their lives that that nation might live. It is altogether fitting and proper that we should do this. But, in a larger sense, we can not dedicate — we can not consecrate — we can not hallow — this ground. The brave men, living and dead, who struggled here, have consecrated it, far above our poor power to add or detract. The world will little note, nor long remember what we say here, but it can never forget what they did here. It is for us the living, rather, to be dedicated here to the unfinished work which they who fought here have thus far so nobly advanced. It is rather for us to be here dedicated to the great task remaining before us — that from these honored dead we take increased devotion to that cause for which they gave the last full measure of devotion — that…

Tweet マタイによる福音書1章14-20節 「イエス様に従う」 “Following Jesus ” 私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように。アーメン。 年は1915年、28名の男たちは氷山の上に体をより寄せながら立っていました。逆登って一年前、彼らは南極点に行きたつ目的をもってロンドンを出たのです。しかし今それがかなわないことが分かって、いやそれ以上にこれからどのようにして350マイルはなれた離れた所にあるベース・キャンプに戻り着くかの心配事に心を悩まされていたのです。彼らの船であるEnduranceは、すでに9ヶ月に渡って氷の中に閉じ込められて、そこから抜け出すことも出来なくなっていたのです。そればかりか、氷の力によってEnduranceは押し潰されつつあったのです。 男たちはもう一度Enduranceに戻ってこれからの困難な旅路に必要な物を持ってきたのです。それらは、シャベル、ピッケル、ハンマー、ロープ、テント、ブランケット、そして25フィートの長さの3隻のボートです。彼らの隊長であるErnest Shackelton は、たった一つの抜け道は350マイルにわたる氷と雪の中をPaulet Island と言う海の水が凍っていない所に行き着けなければならないと皆に言い聞かせたのです。そして必要意外なものは一切持って言ってはいけないと命令しました。Shackelton は自分のポケットから一握りの金貨と金張りの懐中時計を取り出し、それを雪の中に投げ捨てたのです。彼に従って皆自分の持っていた物をそこに残したまま何週間もの死にもの狂いで歩き続け、奇跡的にも28人全員の命が救われたのです。 今日の福音書は、イエス様がガリラヤ湖の湖畔で漁師をしていたペテロとアンドレに「私についてきなさい」と声をかけた話です。この二人の兄弟は網もお父さんも残してイエス様について行ったのです。またその後、船と網を洗っていたヤコブとヨハネもイエス様の『私に従ってきなさい』と言う言葉によってイエス様について行くようになったのです。凍えるような寒さの中で自分の持ち物をすべて捨て命を救ってくれると信じた、南極探検隊も、イエス様というリーダーに弟子たちが従ってきたのは、命の救いを約束された方を信頼することができたからではないでしょうか? 全てをうしろに残してリーダーについてきたのです。命への道を見出したのです。人の一生というものはただ飲み食いするだけではなく、人生とは何か。何かを目的に生きてゆくことが必要なのです。命、永遠の命をあなたに与えたい。受け取ってほしいと言う神様の恵みの中で、私たちはその救いを受けるよう、イエス様から一方的に与えられているのです。ですからすべてを後ろに残して命の救いの道を求めるのです。 いま少し前Shackleton の仲間は一人も残らず救われたと言いましたが、実はShackelton の南極探検の75年前1840年にイギリスのSir John Franklin と言う北極探検隊の140人の一行は北極ですべて戻らない人たちとなったのです。それが何故かと言うと、かれらのPriority が間違っていたからです。彼らは蒸気エンジンを持つ二隻の帆船でこの探検を試みたのですが、2年かかるだろうと思われるこのプロジェクトにそれに必要な燃料の石炭の量を船に積まなかったのです。その代わり、その場所を, 1,200冊の本、オルガン、エレガントなtable wearつまり、銀の食器、(それも一人ひとりの名前が刻まれているもの)などに気を配っていたのです。氷の中で立ち往生の後、探検隊の全員は船を捨て、助けを求めたのですが、厳しい寒さの中で全員が凍死してしまったのです。後に見つかった探検隊のポケットには、自分の名が刻まれた銀のフォーク、スプーン、ナイフなどが見つかったのです。自分の命がさらわれると言うその時まで,それらのものを見放すことができなかったのです。 さて一昔前の話ですが、あるキリスト教の求道者の人が私にこう質問しました。”先生、イエス様についてゆくとは私の持っているものをすべて見放さなければならないのですか? そういう風に言われる事もあるでしょう。皆さんが御存知のSound of Music の話はマリアと言う若い女性が修道院に入る条件として、質素な生活、神様への祈りの時を毎朝、毎晩持つこと、そういう生活をできる人もいれば、神様を自分は愛するが、修道士のような生活はできませんと言う人たち、それは私も含めて、が殆どでしょう。 しかし私たちの生活の中で、神様から愛されていることを信じ、それゆえ、お互いを大切にして生きるということは、イエス様に従うキリスト者の生活の中で実行しなければなりません。人生で一番大切なのは、イエス様を人の中に見出すことです。イエス様は私たち一人ひとりの心の中に住んでいるということも知ってください。 今日の福音書によると、イエス様から『私に従ってきなさい』と言われたシモン・ペテロ、アンドレ、ヤコブとヨハネは網を捨てて、また家族をも残してイエス様についていったのです。イエス様に従うとはイエス様が私たちに示してくださった道を歩むことです。イエス様の十字架は私たちの十字架であり、イエス様の御心は私たちの御心となり、イエス様の命も私たちの命となることです。 これは難しすぎてできないと言われるかもしませんが、それを私たちの生活の中で試みるところに主なるイエス様は一緒にいてくださるのです。神様の聖霊に守られて私たちの生活ができるようになるのです。 考えてみてください。私たちの人生は短く、その命もか弱いものです。しかしイエス様は、手を差し伸べて私たちにイエス様についてゆくよう呼んでくださっているのです。私たちが躓いて転びそうな時、私たちを神様の腕の中に受け取ってくださります。私たちの心と体が滅びそうになった時、それに打ち勝つ力を与えてくださいます。そして私たちに平安と希望を私たちの人生の末期に神様の身許に連れて行ってくださる喜びを与えてくださるのです。イエス様の他にこのような力、信仰、希望を与えてくださる方はだれもいません。 イラクでの戦争が始まって以来、アメリカはすでに1trillion dollar  を使ったと聞きました。アメリカの兵隊さんたちはもう帰って来た訳ですが、この戦争の結末がどのように展開されるかは未来の歴史家によって書かれるでしょうが、多くの命が奪われた、父のいない、家族のない孤児たちが沢山、沢山います。 それは日本の65年前の出来事と同じではないでしょうか。今こそ私たちが望むのは未来についての希望です。神様どうか私たちの国、世界、をあなたの愛によって導いてください、お互いを愛する精神を私たちの心の中に植えつけてください。あなたの光をもって私たちの人生の道を照らしてください。私たちの人生があなたの御心にかなうよう、主イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。     Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet ヨハネによる福音書1章43-51節 「来てご覧なさい」”Come and See” 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が、あなた方にあるように。アーメン みなさんの中で、死海文書、或は死海写本という名前を聞いたことのある方、いらっしゃいますか? これは1930年の半ばに、発見された旧約聖書の写本です。迷子になった羊を探していた羊飼いが、イスラエルの死海北西のクムランと言う町の洞窟で壺に入っていた、850巻の写本です。この写本が今の私たちの旧約聖書に素晴らしい貢献をしているのです。 同じように偉大なるものは考えられない処から来るのです。今日の福音書にこう書いてあります。「ナザレの土地から、何の良い者が出ようか」。そういったのはナタナエルという男で、イエス様に呼ばれた12弟子の一人です。ナタナエルという弟子の名前はイエス様の12弟子の中で皆さんにあまり知られていません。しかし彼の別名はほかの福音書に出てくるバルトロマイであろうと言われています。 さて質問ですが、何故ナタナエルはナザレの土地から、何の良い者が出ようかといったのでしょうか? これはユダヤ人の歴史の中でナザレと言う土地について旧約聖書の中に一言も書かれていないからです。また、ナザレはイエス様の時代にはローマ帝国の駐屯軍がいたところでユダヤ人はこの外国人の多くいた、特に兵隊のいた場所を嫌っていたからです。預言者の書いたものに中にはメサイアをガリラヤの土地と結びつけた文章もありません。ましてナザレの町から今までに名を知られるようになった人は一人も出てこなかったのです。 そこで、ナタナエルはフィリポの後についていった時、メシヤ、救い主と呼ばれる人と出会うなど思ってもいなかったのです。ですからイエス様に初めて出会い、イエス様から自分のことを「見なさい。ナタナエルはまことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と言われてびっくりしたのです。何で私のことをこの人は知っていられるのだろうかと疑問に思ったに違いありません。同じようにイエス様は私たちの口に出さない、ただ心の中で思っていることもすべてご存知なんです。神様から隠れて何かをしようとしてもそれも神様はすべてご存知なのです。そんな神様はいやだよ、ごめんだよと人は言うかもしれない。しかし私たちの心で思っていることさえ知っている神様は私たちを罰するために来たのではないのです。もう一度言います。神様は私たちを罰するために来たのではないのです。では何のため神様は私たちの元に来たのですか? 神様が私たちのところに来てくださったのは、私たちがイエス様を通して教えてくださった神様の愛を知ることです。それは私たちを赦すためです。私たちが実行する訳ではないのですが、心、頭の中で出てくる暗闇の中でするようなこと、暗闇の中で企むこともイエス様はご存知なのです。イエス様について行く私たちは、神様から逃げられないのです。それは神様から罰せられると言うより、神様は私たちを神様の愛によって素直な、心の清い、お互いを尊重する、お互いを大切にする人間として私たちを導いてくださっているのです。本当は愛される者でない私たちを愛する神様がイエス様です。イエス様の愛に触れて本当の愛の心がわかるようになるのです。 ところで、今日の福音の中でナタナエルとイエス様の何か謎のような会話があります。48節に、ナタナエルが、「どうして私を知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「私はあなたがフィリポから話しかけられる前に、イチジクの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「イチジクの木の下にあなたがいるのを見たといったので信じるのか? もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」 ユダヤ人にとってイチジクの木は霊と実りのシンボルです。そして、イエス様が「私はあなたがイチジクの木の下にいるのを見た』といった意味は「あなたは神様の御心を受け入れる方である」と言うことなのです。それは喜びも悲しみも、疑問に思うことも、失敗もすべて神様にお話してください。そうすることにより神様はある形で、私たちに神様の御心を表してくださいます。ナタナエルはイエス様がどんな人か始めはわかりませんでした。しかしそれは今イエス様に関心を持つ、イエス様の教え、私たちへの約束とはどのようにしたら分かるようになるのだろうと考える私たちの姿ではないでしょうか? 私たちの周りには沢山の教え、宗教があります。それぞれが、私の宗教が神様から与えられた一番の教えだと言うのはわかりますが、西洋の宗教と言われているキリスト教は日本人の心を受け継いできた私たちにとって受け入れにくいものではないかと言う質問を多く受けます。 しかし聖書をよく読んでいくとキリスト教は別に西洋の思想の中から出てきたのでないことがわかります。それ以上にキリスト教はヨハネによる福音書の14章6節に書かれているように私は道であり、真理であり、命であると言われた、その言い方に私たち日本の文明を受け継いだものに近親間を持つ言い方ではないでしょうか? 日本の文化にはたくさんの精神的文化の道があります。お花を活ける花道、お茶の道である茶道、文字に心を表す書道、侍の精神の武士道、その一つ一つは精神を統一して、絶対なるものへの探求、そこで究極の悟りを受ける。私は同じようにキリスト教も悟りの道、しかし『神は愛なり』を言葉だけでなく、口先だけでなく、私たちの生き方を他者との中で実行するのだと信じています。それがいつも実行されていないと言う反省を私はしながら、神様の許しをいただいて生きていくのです。 聖書を読んでみると、イエス様の弟子たちも同じような生き方をしていることに気がつきます。 ナタナエルはイエス様に出会ったことにより人生が変わったのです。イエス様のことををほかのの誰かから聞いたからではなく、実際にイエス様から見えないイエス様の愛と聖霊に触れる生活を持つようになることで彼の人生も変わったのだと私は信じます。 今日の福音書のテキストはEvangelism, 福音の伝道のテキストとして良く使われます。Evangelism と言う言葉はギリシャ語のユウバンゲリオンという言葉から来ています。それは英語でGood News であり、よき訪れの言葉、それが福音です。 イエス様を受け入れた、また、福音を私たちの生きる中でのテキストとして人生を暮らせるように私たちは望むのです。キリストに従う生き方をするものは、言葉と行動も変わってくるのです。どうかイエス様の愛が私たちの心の中で生きる力と思いやりとなり、毎日の生活ができるように神様に祈りましょう。アーメン。                 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet     マルコによる福音書1章4-11節 『水と命』”Water and Life” 私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように。アーメン。 私たちはのどが渇いている時冷たい水ほどおいしいものはありません。水は生命の源です。私たちの住む地球も70%が水で覆われています。私たちの体も80%が水だと聞いています。もし水、あるいは飲み物なしで人間は5日も経てば命が脅かされます。 水はその他にも私たちにお風呂またシャワーを与えて、洗濯も水なしではできません。水はまたダムのせき止められた水の力で電力を与えてくれます。料理も水なしではできません。夏の暑いさなかにプールに飛び込むことは楽しいことです。その他に冬でも、雨は雪となり、その雪でスキーなり、スノー・ボードのスポーツもできるのです。しかし水には恐ろしい力もあります。2004年の12月26日にインドネシア沖で起こつた地震と津波は5千マイルも離れたインド、スリランカ、またタイで28万人もの命を奪ったのです。2005年の8月29日に、アメリカではハリケーン・カタリナによる大きな災害がニュー・オリンズとその近郊を襲ったのは皆さんも知っているとおりです。 しかし世界中で、一番大きな災害と言えば、昨年の3月11日に東日本を襲った、千年に一回のマグニチュウ度9.0の大地震、津波、そしてその結果崩壊された福島第一原子力発電所です。今でも何回も何回も沿岸を襲った50メートル、60メートルの高さの津波、この破壊力のすごさはビデオで見ても恐ろしく、また、悲しくなります。 私たちにとって、水は身近にあります。ここにも水の入った洗礼式に使うBaptism Font と言うものがあります。洗礼を受けた皆さんは、この中に入った水を頭に注がれて洗礼を受けたことを覚えているでしょう。あるいは全身水の中に入って洗礼を受けた方もいるはずです。実際、私も1952年の4月11日のイースターに両親と教会員に見守れる中、小児洗礼を受けました。勿論それを覚えてはいませんが、その洗礼式は川島先生と言う戦争中は戦争反対運動のため投獄されていた初代の牧師先生と戦後日本に最初送られたオラフ・ハンセンというアメリカの宣教師によって授かりました。 日本人は水が身近にあるので水の必要性をあまり感じませんが、その反対に、ユダヤ人、パレスチナに住む人たちにとって水の確保は真剣な問題です。イスラエルは地理上、砂漠地帯です。ヨルダン川、ガリラヤ湖が水を提供しているのですが、雨が少なく、地下水も深く掘らなければ出てきません。イエス様の時代、女性の大切な仕事と言えば、朝早く町の井戸に行ってバケツにいっぱい水を汲んで来ることでした。その水で、料理をし、洗濯をし、行水をし、残りの水を自分の畑にある野菜に注いだのです。今では水の確保のためユダヤ人は地中海の海水を真水にするその技術では世界一だと聞いています。 今日の福音書の記事はイエス様自身が洗礼を受けるためにヨルダン川に来た記事です。多分、イエス様はべタニアと言う町に滞在していたでしょう、それは友達のラザロとその姉妹、マルタとマリアの家があって、そこに泊まっていたのかもしれません。ベタニアからヨルダン川までは1マイルぐらいの距離です。ヨハネはそのヨルダン川のほとりで「神の国の到来は近い。悔改めて洗礼を受けよ」と叫びながら人々に洗礼を授けていたのです。 らくだの衣を着て、イナゴと蜂蜜を食事としていたこのヨハネは一般の人から見れば仙人のような存在だったでしょう。しかしイエス様にとってヨハネは彼のまたいとこ、と言うのは、ヨハネのお母さんであるエリザベトとイエス様のお母さんであるマリア様は従姉妹どうしてあったからです。ヨハネもイエス様もお互いの事をお母さんたちから聞いていたと思います。また毎年エルサレムで行われる過ぎ越しの祭りにすべてのユダヤ人が参加するように義務付けられていたので、イエス様の家族はエリザベスの家族を訪れていたかもしれない。 ですから推測ですが、私はヨハネとイエス様は彼らの小さいときからお互いを知っていたと思います。ヨハネの神様から示された役目はイエス様こそ救い主であること、イエス様はご自身の神様の教えを人々に知らせるそのはじめにヨハネより洗礼を受けることを父なる神様から命じられていたと思います。 この時代、ユダヤ人にとって洗礼を言う儀式は特になかったのですが、水に罪を洗い流されて清いものとなるというと意味での洗礼、そしてそこで神の子として世に送る出されるキリスト教での洗礼はそれを預けたヨハネとそれを受けたイエス様で始まったのです。 マルコ、それは、マルコによる福音書を書いた人ですが、彼の頭の中に、何か大切なことが起こる時、天が開き、そこから人々に示す大事なことが顕されるとの予告が神様から知らされると信じていたのです。そしてその通り、イエス様が洗礼を受けたとき、天が開き、炎と鳩に象徴される聖霊がイエス様に下ったのです。神様の聖霊を受けたイエス様はすぐにサタンからの誘惑と戦うために荒野に導かれたのです。 さて、最後にクリスチャンとして受ける洗礼について、まだ分かるまで待つべきかと考えている方、迷っている方もいると思います。クリスチャンになると私たちの日本の先祖との関係はどうなるのでしょうかと心配する方もいるでしょう。 この質問に一言で言うならクリスチャンになるということは、自分の罪を知るようになる、しかし、その罪を赦してくださるイエス様という神様が私たちと何時も、一緒にいてくださる、勇気を与えてくださる、一緒に泣いてくださる、喜んでくださる、目には見えないかもしれませんが、その神さまがどんな時にも一緒にいてくださることを知るようになるということです。その時から、誰も独りぼっちになることがなくなるのです。でも分っていただけるでしょうか。最後まで、私たちは神様に見守られて生きる人生を持つことになります。 教会はクリスチャンだけの集まりではありません。初めは皆求道者の集まりです。しかし、その中で何時か、ある時、聖霊の働きによって私はイエス様に従うものになりたいと言う思いになるのです。イエス様を、わが主、わが神、と告白できるのもイエスの聖霊が私たちの心の中に入って来てくださるからです。 はっきり言って牧師としての一番の喜びは、神様の恵みと愛を皆さんと語り合う時です。この説教を書きながら、あなた方一人、一人のこと、特に求道者の皆さんのことを祈りの中に覚えているのです。アーメン。   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet ルカによる福音書2章21-40節 「名前は人を表す」  “What’s in the name” 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン。 まず最初に、平成24年の元旦を迎えておめでとうございます。西暦では2012年ですね。昨年は東日本で起こった地震、津波、原子力発電所の事故、世界のあらゆる国で問題になっている経済問題、アラブ・スプリング、そしてアメリカでは今年の末に、オバマ大統領がまたもう一期、大統領に再選されるか、あるいは新しい大統領が選ばれるかの大きなニュースが続くでしょう。又、メキシコのマヤ文明によって何千年も前に作られたマヤ・カレンダーによると今年の10月に、世界を襲う災害が起こると言われています。しかしながら考えてみると、そのようなことは毎年のように言われてきたのではないでしょうか? 今年はどんな年になるでしょうか? 大切なことは私たちの生活の中で一日、一日、神様に与えられた人生を感謝して、お互いを助け合って生きることです。 今日与えられた新約聖書の日課は主に、シメオンとアンナという年取ったいわば預言者と呼ばれる人たちと赤ちゃんであるイエス様が両親に連れられて神殿に宮参りに来た時の記事です。しかし、この記事の初めにある21節に「8日が過ぎ、割礼を施す時となったので、受胎の前に御使いが告げたとおり、幼子をイエスと名づけた」。と言うただ1節だけの言葉があります。生まれた赤ちゃんに名前をつけることは、その人の人生の始めにあたって、とても大切なことです。与えられた名前は一生私たちに与えられたギフトであり、その名前が私たちの人生の道を整えるとも言われています。私ごとですが、私の両親は私の生まれる前すでに男の子なら『豊』と言う名前にすると決めていたと聞きました。それには理由があります。私の従姉妹(いとこ)、母の姉は私の生まれる6ヶ月前に娘を産んで「めぐみ」と名づけました。私の両親は、この二つの名をくっつけて『恵み豊かに』と言う聖書の中に良く出てくる言葉を考えていたのです。 名前は人を表すといわれています。そして、苗字は家柄を表すも言われています。その典型的な小説は皆さんも御存知のシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」です。ロミオの家族は有名なモンテギュウ、ジュリエットの家族はこれまた有名なキュプレットという家族ですが、両家ともお互いを敵のようにみなしていたわけです。小説の内容は皆さんの知っているとおり、ロメオとジュリエットは恋に落ち、結婚を夢見たのですが、敵対心の強い両家がそれを赦すことはないとあきらめ、ひそかに結婚をしました。しかし、その後、自殺と言う悲しい事件を起こしてしまったのです。これは日本で言えば、源氏と平家の争いのようなものではないでしょうか。自分を自分の名前から引き離すことはできないのです。このことを英語では  “Your name is your Identity”と言います。   さてこの中に覚えている方、どのくらいいるかわかりませんが、1970年代の後半、ちょうどそれは私が、ペンシルベニアの神学校にいた時、多くの人たちがCBラジオにこり始めました。その流行に遅れまいと私もCB ラジオを始め、まず最初に7フィートの高さのアンテナを私の愛車、Ford Pinto に取り付け自分の名をYou-talk-a lot と言うハンドル・ネイムでしばらくやり始めました。しかし知らない人とくだらないことをしゃべるのがいやになってやめました。 私たちの名前は私たちのいろいろなことを表すのは本当です。しかし名前だけではなく、名前と私たちが一緒になって現されるのです。私の息子アンドリュウは私の一番好きなイエス様の弟子で、アンドリュウの名前は、彼の生まれる前から用意しておきました。彼は気立ての優しい子です。自分の意見は述べますが、それでもいつも自分の意見をほかの人の意見を聞かずに通そうということはしません。口数も少ないほうで、誰にもいつも親切です。息子をそのように表現する私は親馬鹿かもしれませんが、自分の息子に教えられることも多いのです。このアンドリュウの性格は本当にイエス様の弟子のアンドリュウの性格に良く似ているのです。 マルチン・ルターは言いました。「人が良いReputation を受けることは人生の一つの大切なBlessing である」と。ユダヤ人の赤ちゃんは生まれて8日目に割礼、Circumcision を受けるのが決まりでした。ユダヤ人にとって、割礼は宗教的に、民族的にも大切な儀式であり、神様から恵みをいただいたことを祝う時でもありました。 このルカによる福音書にはその時、イエスと言う名前が与えられたと書いていますが、イエスと言う名前の意味は、マタイによる福音書の中に、次のように書かれています。「見よおとめが身ごもって男の子を生むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう。これは、「神我らと共にいます」と言う意味である。イエス様にはいろいろなタイトルが与えられています。それは、「平和の君」、「救い主」「キリスト」、「神の子羊」、「ダビデ王の枝」、「人の子」、「言葉」、「命のパン」、「ぶどうの枝」、「ドア」、「門」。その 他にもイエス様には沢山のタイトルがあるでしょう。 神様とイエス様は父と子という関係で表されていますが、聖霊も含めてこの3つのタイトルは切り離すことができません。この広い世界、宇宙の中で、父は創造主であり、子はイエス様という人として、聖霊は私たちの心を神様に向ける力として、私たちの心、思いの中にいつもいらっしゃるのです。 これは昔のヨーロッパの習慣ですが、二人の人が契約を結ぶとき、サインだけではなく、お互いが針で指を刺し、そこで出てきた血で印を押すのです。これはイエス様が私たちの罪を赦すにあたって十字架にかかって流された血による私たちへの契約と同じです。イエス様の流された血によって私たちは清められているのです。真心をこめて私たちの罪を告白し、イエス様に罪の赦しを求める時、イエス様は私たちと共にいて、私たちを清めてくださるのです。又、イエス様のみ名によって、私たちへの神様のすべての約束が与えられているのです。それは、永遠の命、救い、赦してあり、神様から与えられた平安と明日と云う日に向かっての希望です。 これは今世界中で心配されている経済の問題、宗教と宗教の衝突、人種差別などですが、私たち人類はお互いを自分たちの兄弟、姉妹として認めない限り本当の世界の平和は与えられないのです。神様は平和をすぐに力でくださると言うより、私たちに知恵と人々への思いやりの精神を確立することによって本当の平和を約束してくださるのです。 皆さんの良く知っている名前に、Albert Schweitzer (アルベルト・シュワイツアー)と言う人がいますが、イエス様のことを書いた短いDevotion  を最後に紹介しましょう。 「イエス様は誰からも知られていない人として私たちの中に入ってきたのです。そして出会った人たちに言いました。『私に従ってきなさい』イエス様は私たち一人ひとりに私たちの時にあってしなければならない行いを、あたえられていのです。そのしなければならないことは私たちがイエス様の弟子となり、私たちの隣人に愛を持ってかかわってゆくことです。 その中にイエス様自身が私たちと共にいます。飢饉の中で、戦争の中で、すべての苦しみの中で。悲しみの時、嘆きの時、イエス様の名前を唱えなさい。イエス様の名前を信じなさい、神様のみ名によって救いの時、やすらぎの時、許しの時、そして喜びで涙を流す時も来るのですよ」と。 この新しい年を迎え、イエス様を愛する私たちが、お互いを信頼し、お互いを助け合い、お互いを理解しあい、お互いに素晴らしい人間関係を築いて生きてゆくことができるように祈ります。アーメン。   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet  「客室と宿屋の違い」 “Guestroom vs Inn”    私たちの父なる神、および主イエス・キリストから、恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。  ただ今読みましたルカによる福音書は毎年クリスマスに読まれるイエス様の誕生の話です。この話を皆さんは何回聞いた事があるでしょうか?その内容を覚えていますか?ローマ帝国の皇帝、アウグストから人口調査をせよとの勅令がイエス様の生まれた年に出ました。人口調査の目的は、どこにどれだけの人がローマ帝国に住んでいるかを調べ、その調査に従って国民から税金を取るという制度を作るためでした。  イエス様が生まれた時イスラエルは一つの独立国ではなく、ローマ帝国の植民地でした。ヘロデと言うイスラエルの王様もいましたが、この人はローマ帝国の操り人形のような王様で、ユダヤ人はこの王様を嫌っていたのです。このような政治的圧力の下でイエス様が人間の世界に赤ちゃんとして生まれて来たわけです。  羊飼いたちが夜野宿をしながら羊の群れの番をしていた時、天使が現れて言いました。「今日ダビデの町に、あなた方の救い主がお生まれになった。あなた方は、幼子が布にくるまって飼い葉桶の中に寝かしてあるのを見るであろう」と。羊飼いたちが急いで行って見ると、マリアとヨセフ、そして飼い葉桶の中に幼子を見つけたのです。 赤ちゃんがもうすぐ生まれて来るというのに宿屋に空き部屋がない、宿屋の主人から「お客さんでいっぱいだ。ほかの所に行け」と言われてしまったヨセフとマリヤは、馬小屋で夜を過ごさなければならなかったのです。  宿屋とは古めかしい言葉ですが、今風に言うならホテル、それもモーテルのような所だったのでしょう。それにしてもこの主人にはやさしさや、人に親切に対応する心が少しも感じられません。現代の私たちが考えれば、この人は意地悪な主人だしまうかも知れません。  ある教会で行われたクリスマスの劇で宿屋の主人役をした9歳の男の子は宿屋の部屋を探していたヨセフとマリアにこう言いました。「空き部屋はもうない、ほら見てごらん、そこのサインに“No Vacancy”って出ているじゃないか。」ヨセフとマリアは悲しそうにその場面を出て行き始めたとき、宿屋の主人役を演じた男の子はこの二人を可哀想に思ったのか、台詞にはない次のような事を言い出したのです。「ちょいと待てお二人さん、ここから2ブロック行った所にいいモーテルがあるよ。そこには、ケーブルテレビ、HBO、Hot Tubもあるよ」と。ページェントの舞台裏で働いていた人達は、これを聞いていて、なんというクリスマス・ページェントになってしまったかと嘆いたわけですが、この9歳の男の子が演じた宿屋の主人の言った言葉には、深い意味が隠されていたのです。それが何かという事を、今皆さんに考えてもらいたいと思います。  ヨセフとマリヤがベツレヘムに来た理由はローマ帝国の行った人口調査の為で、ユダヤ人の全てが、自分の生まれた町に帰ることを命じられていたからです。考えて見て下さい、それは特定の人だけではなく、自分の生まれた町に住む以外の者は全て、自分の生まれ故郷に戻り、そこで人口調査を受けなければならなかったのです。これは不合理なことかも知れませんが、ローマ帝国はこのような命令を下すことによって初めてそれぞれの地域の人口を調査する事ができたのです。 ヨセフとマリアだけが遠いところから来たのではなく、どこの町の中も自分の故郷に戻ってきた人たちで一杯だったはずです。  ところで、この聖書の箇所を注解書を用いて読んでいた時、新しい発見をしたのです。それは聖書の中に書かれているInn と言う言葉は、新約聖書のオリジナルのギリシャ語では「カタルマ」で、その意味はゲスト・ルームなのです。それは宿屋とはまた違った意味を持つ言葉なのです。  皆さんの良く知っている、Good Samaritan の話の中で強盗に会って半分死にかけていた人を最後に連れて行った所は、もちろん宿屋、ホテルです。しかしその言葉はギリシャ語で、「パンドケヨ」と言う言葉であり、「カタルマ」ではないことを皆さんに知っていただきたいと思います。ですからルカのこの福音書の中でヨセフとマリアが探していた宿屋はなかったけれど夜寒いときに馬や、ロバを寒さから守る為に入れていた所が提供されたのです。それはゲストには適していない所かもしれませんが、それでもある意味では体を楽にすることのできた「ゲスト・ルーム」だったのです。  又、これは中近東の人たちの習慣ですが、お客さんが訪問した時、そのお客さんにホテルや、モーテルに泊まって下さいとは言いません。どんな小さい家の中でも、ありとあらゆるもてなしをして、寝る場所も整えてあげるのです。それは、中近東の人たちの習慣だけではなく、私たちも経験する「もてなし」ではないでしょうか。 私の家族はクリスマスの後、家内の実家に1週間に渡って行きますが、それは私の家族だけでなく、家内の7人の兄弟姉妹そしてその家族全体、23人が一つの屋根の下で過ごすという事です。二つのゲスト・ルームで寝られるのはせいぜい6人、その他の人達は応接間のソファー、リクライニング・チェアー、殆どの人がカーペットの上で寝袋に入って寝るのです。お金がもったいないからホテルに行かないのではなく、そこで皆と食べて、飲んで、踊って、笑って、一緒に楽しみたいからなのです。  イエス様も生まれた時、沢山の仲間が周りにいました。羊飼いたち、天使、動物たち、それは家族ではないかも知れませんが、イエス様が皆さんに祝福されてこの世に来た事を語っているのではないでしょうか。  神様が赤ちゃんの姿でこの世に来たのです。その赤ちゃんが、私たちと同じような生活をし、人間としての喜び、悲しみ、辛さも私たちと同じように経験したからこそ、私たちの心の奥底まで全て理解できるのです。その神様が今ここにあなたと共にいらっしゃいます。あなた方にお互いを愛し合いなさい、助け合いなさい、お互いを大切にして生きなさい。そして、イエス様に従う全ての者に永遠の命が約束されているのです。 メリー・クリスマス!イエス様がいつもあなたと共にいますように、お祈りいたします。アーメン。             Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マルコによる福音書1章1-8節 「イエス様と洗礼者ヨハネとの関係」 “Relationship between Jesus and John the Baptist” 父なる神と私たちの主なるキリスト・イエスから、恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン。 皆さんのうちに、イエス様が子供のころどんな生活をしていたか考えたことがありましたか? イエス様の誕生の記事はマタイとルカに福音書の中に出てきますが、ルカによる福音書2章の中で、イエス様が12歳のとき、エルサレムからガリラヤに帰る途中、両親と別れて、宮の中で、教師たちの真ん中に座って彼らの話を聞いたり質問したりしていたと言う記事が書かれています。その次にイエス様のことを書いているのは恐らくイエス様が、30歳ごろになった時、洗礼を受けるためにヨルダン川で洗礼を洗礼者ヨハネから受けるときです。 イエス様自身が人間であり、神様であるのですから、大工のヨセフを「お父さん」と呼んだに違いありません。ヨセフと一緒に、大工さんの仕事もしたでしょう。兄弟、姉妹もいたのです。そのことはマタイの福音書の14章55-56節に書いてあります。それを読んでみましょう。「この人は(イエスは)大工の子ではないか? 母は、マリアと言い、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。またその姉妹たちもみな、私たちと一緒にいるではないか」。今回このことをはじめて聞いた人もいるでしょう。しかし、マリアとヨセフが何人かの子供たちをイエス様の他に持っていたのもおかしくない事実ではないでしょうか。それにしても男の兄弟の名前が聖書に出ているのにイエス様の姉妹の名の出ていないのは残念です。それに何人の姉妹、その人たちの名前もわたしたちは知ることができたらと思うんですが。 ところで、皆さんの中で洗礼者ヨハネとイエス様が従兄弟と言うより、はとこの関係であることをご存知ですか? と言うのは、マリアさんには親戚の女性、それもマリアさんよりずっと年上のエリザベトという人がいました。エリザベトは年をとった、不妊の女でしたが、神様は彼女の願いをかなえてくださりその妊娠6ヶ月にマリア様はいとこのエリザベトを尋ねにいったのです。この二人が神様の計画、それも自分たちの子供が、神様の計画された素晴らしいことを果たすものになると知り、心が動揺したと共に、神様に恵みとして与えられたこれから生まれてくる赤ちゃんを想像して神様に感謝したはずです。 聖書には書いてありませんが、洗礼者ヨハネとイエス様は年がたった3ヶ月違うだけです。もしかしたら、この二人、親戚付き合いの中でヨハネとイエス様は心が深くつながれていたでしょう。ヨハネは自分が神様に使われるものとわきまえていました。その大切な行いは洗礼を求めてやってきたイエス様にも、それを授けたことです。 私も牧師として多くの人に洗礼を授けました。生まれたばかりの赤ちゃんから85歳の18人の孫を持つおばあちゃん、その洗礼の式の中であなたは神様の子供ですよと宣言したとき、喜びで涙が止まらない人達はそこで神様に心の中で触れることができたのです。 私たちのルーテル教会では毎年同じ福音書の日課を与えられています。皆さんに知って欲しいことは、カトリック教会、メソジスト教会、長老派、毎週同じ聖書の日課を与えていただいているのです。これはもう20年ほど前から行われている共通点です。教会自体が、もっとお互いの共通点を認め合うようになったからです。 ところでクリスマスも近づき一番皆さんが関心を持っているのは、馬小屋で生まれたイエス様とそれにまつわる話です。皆さんが想像している馬小屋の飼い葉おけに眠っているイエス様の話は4つの福音書でマタイとルカだけに出てきます。マルコによる福音書にはクリスマスの記事がありません。マタイによる福音書だけには遠い国からイエス様に捧げるギフトを持ってきた3人の博士の話がありますが、神様の救い主が生まれたと天使が羊飼いに語っている記事を書いたのはルカによる福音書だけです。ヨハネによる福音書にはクリスマスの話はありませんが、「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言葉に命があった。すべての人を照らすまことの光があって、世に来た」と言う形でイエス様の到来を述べているのです」。 今日の福音書はマタイによる「救い主の出現」の記事です。それも洗礼者ヨハネによる罪から逃れるために受けるべき洗礼の薦めです。私たち人間はどんなに清い生活をしようと思ってもそれを守ることができないのです。なぜなら私たちは罪人だからです。私たちの罪は自分の行ないによって取り消すことができないからです。洗礼を受けるのは、神様によって私たちの罪を赦していただくことです。人生で一回の洗礼ですべての罪がなくなるとは魔法のようですねと誰かから言われたことがありました。しかし洗礼は魔法ではありません。私たちの罪はいつも続きます。しかし洗礼によって神様、イエス様にあなたは「私の子供」とのしるしをいただくのです。そのしるしは私たち一人ひとりの心の中に刻まれたイエス様の宣言です。その宣言とは「あなたは私にとって掛け替えのない大切な命です。私は今から先ずっとあなたを見捨てません」と言う神様の約束なのです。 私は神様から愛されているとの確信があります。しかし私は自分が罪人である、時には、何か神様から喜ばない行動をしている、また私の口から出る言葉によって誰かが傷つけられる、そんな人生を繰り返しているのです。ですからこそイエス様に祈るのです。「私はあなたのように人との付き合いの中であなたの愛を示すことができる人間になりたいのですが、それがいつもできないのです。お許しください。あなたの力と愛の精神を私に与えてください」。このような私たちを愛してくださる神様、イエス様に感謝します。イエス様なしに私たちは人生を一日も過ごすことはできません。 私たちの周りには、また親戚、友達の中に神様と言う方をあまり意識して生活をしている人たちが沢山いらっしゃるでしょう。宗教は毎日の生活にはあまり関係のないこと、それが必要なのは、冠婚葬祭のときだけ、自分がしっかりしているなら、誰になにを頼むこともないと思っている人たちがアメリカ人の中にもたくさんいます。しかしわたしたちが宗教を必要と思うその裏には宗教はただ自分のことばかりでなく、私たちの隣人とどのようにかかわってゆくかと言う課題に大きな影響を与えてくれるのです。自分を愛するように他人を愛することがキリストに従う私たちには求められているのです。 どうかこのアドベントのシーズン、バプテスマのヨハネが呼びかけているように私たちの生き方を省み、神様に喜ばれる人生を送ることができるように祈ります。アーメン。         Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 「嘆きから希望に」   “Desperation to Hope” イザヤ書64章1-9節 神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなた方にますます豊かに与えられるように。アーメン。 今日から教会は4週間にわたってアドベントのシーズンに入ります。今日の説教は3つの話でアドベントのシーズンとはどういうものかを皆さんに話したいと思います。 まず最初に、ソーレン・キルケゴールと言うデンマークの牧師さんで、神学者である人の書いた話を紹介しましょう。 あるヨーロッパの国の王子様は、年頃になり、自分の后、将来のQueenになる人を探し始めました。ある日、父であるKing から頼まれた田舎、それも貧しい町を訪れていた途中に 美しい小作人の娘を見つけ、一目惚れしたのです。しかし、ここに問題があります。どのようにこの娘さんをPrincessとして迎え入れるかと言うことです。もちろん、この娘さんに無理やり奥さんになってくださいと言うことも出来るかもしれませんが、それはよろしくない。王子様の勲章のついた正装でこの娘さんのところに言ってこの娘さんの両親と娘さん自身に跪づいて結婚して下さいと言っては、娘さんは慌てふためくでしょう。ではどうしたらいいか。そこで考えた結果、王子様は、自分の服を脱ぎ捨てて、小作人の服をまとい、この村に入り、そこに住んで、まったく小作人となって娘さんと知り合いになる。そして自然と同じ村の人間となってはじめて、むすめさんに自分の愛を打ち明けるという形をとったのです。時間をとってお互いに信頼できる関係になって始めて王子様はこの娘さんに、求婚したのです。 これと同じように、イエス様は神様によって一人の人間としてこの世に送られました。お母さんのマリアさんは普通の人間です。成人になったイエス様も普通の人間として生活してきたのですが、時が来て、神様の御心がイエス様を通して語られたのです。  二つ目の話は、二人の子供、それは6歳の男の子と4歳の女の子がある土曜の夜に両親に連れられておじいちゃんとおばあちゃんの家にやってきた話です。夕食が終って子供たちはベットに寝かされ、お母さんがそうっと子供たちに言いました。「お母さんとお父はこれから、スーパー・マーケットに行ってきます。ちゃんとねんねしてちょうだいね」と。 子供たちはお母さんとお父さんにキスしてお休みなさいと言って目をつむったわけですが、両親の車のドアが閉まる音と車の走り出す音をはっきり聞いたのです。子供たちが次にお父さん、お母さんとの連絡があったのは、それから11年たってのことでした。二人の子供に宛てた手紙の中に、両親はこう書いたのです。「ごめんなさい、お母さんとお父さんはこの11年にいろいろ苦労をしました。職もな、貯金もない、パートの支払いもできないで、行くところもなく、あなたたちのめんどうをみることができなくなってしまったのです。夜は公園のベンチで寝て、食べ物は、ごみ籠の中をあさったのです。わびしくて、自殺しようかと何回も思いました。でもね、その度に、あなたたちの顔が目の前に現れたのです。いつか人生の生き方を取り戻してあなたたちを迎え入れることを信じています。こんな悪いお父さんとお母さんを赦してはもられないだろうけれど、また一家、一緒に住めるその時が来ることを祈ります」と。 さて皆さんから「岸野先生、今日から待ちに待った待降節、アドベントのシーズンに入る、そしてクリスマスと続くのに、そんな時に、どうしてこんな悲しい話をするんですか?」と言われてしまうでしょう。しかし、この話をした理由は同じような歴史をユダヤ人はイエス様の到来する紀元前7百年も前に経験してきたからです。 それは何かというと、イスラエルの国がユダとイスラエルと言う二つの国に分かれた後、アッシリアと言う国によってユダヤ人は外国に捕虜として連れられていかれたのです。ユダヤ人が自分たちの土地、財産、将来の夢もすべて奪われて奴隷として自分の住み慣れた土地から追い出されたわけです。この後バビロンと言う国もユダヤの地を治めるようになり、続いてローマ帝国がイエス様の時代にはイスラエルの人たちの土地を占領したのです。 皆さんは旧約聖書の中で出てくる預言者といわれる人たちの事を聞いたことがあると思います。17人もの預言者がユダヤ人はいつも神様に忠実でありなさい、神様の戒めを守りなさい、同じユダヤ人同士の戦い、分裂をなしてはいけないととの忠告をしていたにもかかわらず、神様の御心に反する行動に走っていった時、預言者たちはユダヤ人に、暗闇の時代が長い、長い時間続く、しかし哀れみ深い神様はいつの日にか、ユダヤ人だけでない、すべての人類を救う救い主を送ってくださるとの予言をしてきたのです。預言者イザヤは聖書の中で出てくる17人の預言者たちの中で、救い主は苦難の僕の形で到来し、すべてこの救い主に従うものは、ユダヤ人を超えた、すべての人類に神様の愛を示すと述べ伝えたのです。 今日の第一の旧約聖書の日課イザヤ書64章は捕虜として捕らわれていたユダヤ人たちが何世代の後、先祖のユダヤの土地に戻ってきた時に見たこと、感じたことを預言者イザヤによって書かれた言葉です。その一部をもう一度聞いてください。 「喜んで正しいことを行い、あなたの道に従って、あなたを心に留める者を、あなたは迎えてくださいます。あなたは憤られました。私たちが罪を犯したからです.しかし、あなたの御業よって私たちはとこしえに救われます。主よ、あなたは我らの父。私たちは粘土、あなたは陶工。私たちは皆、あなたの御手の技。どうか主が、激しく怒られることなく、いつまでも悪に心を留められることなく、あなたの民である私たちすべてに目を留めてくださるように」。 ユダヤ人が、外国での捕虜、奴隷の生活から開放されて、イスラエルの地に戻ってきたのですが、すべてのこと、すべてのものが混乱状態です。エルサレムは荒れ果て、神殿も破壊され、彼らの住むところもない。捕虜を逃れてこの地に残った少数のユダヤ人は、外国人と結婚して、その子供たちは誰が本当の神様であるかも知りません。イザヤの話す言葉は捕虜から帰ってきた者の大きな泣きごと、また神様に私たちを見捨てないでくださいと言う願いです。 これは最も捕虜として暮らしていたユダヤ人に限ってのことではありません。心の嘆き、心の苦しみは、今現在、私たち一人ひとりも経験しているはずです。そこに神様の私たちへの愛を感じたいのです。神様に抱かれたいのです。それなのに、神様が近くにいてくださって、私たちを見守ってくれていると言う思いになれないのです。 はっきり言ってそれは紀元前7世紀に書かれた預言者イザヤの時代だけでなく、現在今、私たちの経験していることではないでしょうか?経済の問題で、多くの人たちが解雇通知を受け、失業によるある程度のお金は約束されていると言っても、それにも限りがあります。クリスマスはプレゼントの交換の時などと言いますが、そんなお金を使う余裕もないと感じている人達は今時沢山いるはずです。さて、ここで今日の3回目の話を聞いてください。 Maryland州のBaltimore の新聞、Baltimore Sunが何年か前に次の話を載せました。それを紹介しましょう。フィリップは無職の松葉杖に頼って歩く40歳の男で、住んでいた家の家賃が払えなくなり、今では、ボルチモアの市が建てた仮の宿に寝泊りしています。彼には奥さんと4人の子供たちがいたのです。彼は新聞のリポーターとしてこの貧民街をクリスマスに訪れていた人にこう言いました。「クリスマスの朝、子供たちが、順番に、サンタから贈られたプレゼントを目を丸くしてサンタさんありがとうと、はしゃいでいた姿を思い出すと、それがなんと幸福の時であったか思い出すのです。その幸福な思いをこの世から離れる前に、もう一度感じることができたら、どんなに素晴らしい事だろう」と。一人ぼっちで生活するのは淋しいことです。切ないことです。涙が出てきて止まらないほど悲しいことです。 私もこのクリスマスの時に母と一緒にいてあげたい気持ちでいっぱいです。私の母は、東京老人ホームと言うルーテル教会の経営している処に入ってもう4年過ぎます。一年ほど前までは自分の部屋に電話があったので、週に何回か電話で話をしました。しかしこのごろは電話の使い方もわからなくなってこちらから電話をしてももう電話に出ないようになったのです。ですから母が昼ご飯を食べるような時を見計らってホームの事務所に電話をし、その携帯電話を母のところまで持っていってもらってやっと話ができるのです。 「お母さん、豊ですよ。元気にしてますか?」「誰ですか?」「息子の豊ですよ。ゆうちゃんですよ」。「ええ、ゆうちゃんなの?今どこにいるの?」「アメリカからですよ」「あんたに会いたい。お父さんね、どこかに行っちゃったよ。どこにいるんだろうね。」私の父は去年の6月に亡くなったのですが、母は父のお葬式にも出ていたのにその覚えがないんです、これがこのごろの電話の会話でそれ以上長く続きません。「また電話するからね、元気でいてね。 私は日本から離れ、アメリカで生活するようになって今年で37年目です。その間両親は私と私の家族をフィラデルフィア、ダラス、そしてリバーサイドにも3年に一回訪れてくれたのですが、母はもう飛行機の旅はできません。ですから私が年に1,2回母を訪ねるのです。私の日本の家族は、毎年クリスマス・イブの礼拝を心待ちにしていました。その日にはお赤飯もありました。宣教師の家族は大きなケーキを焼いて持ってきたのです。礼拝の時も、食事の後も何曲ものクリスマス・キャロルを歌ったのは最高でした。 私の家族は毎年、クリスマスの後の一週間、ペンシルベニアの家内ナンシーの実家で過ごします。ナンシーの兄弟、姉妹の7人とその奥さん、旦那さん、孫たちもアメリカ中から集合するので全部で24人の集まりです。それは楽しい時でありますが、義父がこの6月に亡くなったのです。ナンシーは今年はなんだか物悲しい時になるのではと言ってます。私たち一人ひとり、アドベント、クリスマスに関する思い出、それは素晴らしい、あるいはその反対に物悲しいものかもしれません。憶えて欲しいことは、神様、イエス様が、私たちと共にいてくださることです。一緒に祝う時も、悲しみに沈むときも神様がいつも私たちと共にいることです。私たちを励まし、私たちに希望を与えてくださるのです。 そのことを覚えて、これからのアドベント、神様に祝福されたクリスマス・シーズンを迎えましょう。どうか、主イエス様があなたの毎日に恵みを与えてくださるよう祈ります。アーメン。       Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マタイによる福音書25章:14-30節 「神様の関心と利息」“Gods’ Interest” 私たちの父なる神、および主イエス・キリストから、恵みと平安があなた方にあるように。アーメン。 皆さんの中で、1999年の終わりに世界中の人々が、心配していたことがありましたが、それが何だったか覚えていますか? 世紀の変わり目にはいつもノーストロ・ダムというような人が、世界の終わりを予告していた。それはY2Kと呼ばれていた問題で、Year 2000、省略して Y2k、つまり、1999年の終わりと2000年の境に、コンピユーターの機能が、おかしくなり、世界中でいろいろな問題が出てくるとの予告です。思い出しましたか? 核弾頭を積んだロケットが発射される。電気も止まる。電話も通じなくなるかもしれないと世界中がパニック状態になると大騒ぎしたのです。 しかし新年2000年を迎えて、コンピユーターは今まで通りに働いていた。恐れていた問題は何も起こらなかったのです。どうも私たち人間は不安を感じると、心が動揺して今までやってきたこともできなくなるのです。それと同時に不安になると人間はどうもお金にしがみつくようになるのです。3年前、オバマ大統領が就任されたとき、アメリカの経済は、それは世界の経済も含めて、メルトダウンの状態でした。1929年に起こった大不況と同じものが、私たちの経済を襲った、そこで多くの人達は自分のためていた貯金をすべておろし、また株に投資していた人たちもそれを現金に戻し、それをベットのマットレスの下に隠したのです。 さて11月に入り、毎年この時に来年の企業の予算が発表されます.教会でも同じで来年の予算をこの時に組むのです。 ところで、今日の福音書の譬話はイエス様のお金についての話です。神学校で福音書の授業を受けていた時, 先生からイエス様が話された福音書の言葉の中で、お金については3番目に多く出るトピックスですと聞いたことがあります。イエス様はお金の話の中で、私たちの神様への忠実さを話しているのです。お金というものそれ自体は悪いものではありませんが、私たちはお金が人の心を奪うことを知っています。それはお金、財産、というものが私たちの心の中で一番大切なものとなるとき、神様を私たちの心のはしっこに追い払うような思いになるからです。 イエス様のタラントという言葉で話された今日の話し、それでイエス様は何を言うとされているのか考えて見ましょう。この譬話は主人が長い旅に出る前に,3人の召使いにそれぞれの能力に応じて、自分のお金を預けてそれを管理しなさいと命じたのです。はじめに呼び出された召使は5タラントのお金を預かされました。ところでタラントというお金の価値はいくらぐらいのものであったか、見当がつきますか?この一タラントという金額は、働き手の1年間に与えられる金額です。一時間に受け取る金額が10ドルとし、一週間40時間働くとしたら、一週間で400ドル、そして400ドル掛ける52週間では$20,800ドル。そんな大金を預かされたのです。後の二人はその3倍、5倍のお金を預かされてそれを有効に使って増やしなさいというのが主人の希望したことです。 さて主人が出かけた後、5タラントを預かった召使はそれを上手くインベスト(投資)してそれを2倍に増やしたのです。同じように、2タラントを預かった召使はそれを2倍に増やしました。主人が帰ってきてこの二人を褒めたのは当然です。しかし1タラントを預かった召使は、帰ってきた主人にこう言ったのです。「ご主人様、私はあなたが、蒔かないところから刈り、散らさないところから集める、厳しい人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり、行って,あなたにタラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください。ここにあなたのお金があります。」この主人ががっかりしたというより、怒った気持ちはわかります。どのような仕事をするに当て、私たちは一生懸命努力をすることによって報酬を受けるのです。そのために犠牲を払うこともあります。英語ではこれを “No pain, No gain”と言います。三番目の召使の間違いというより、失敗ごとは、心の中の不安にまどわされて、自分は預かったお金をもっと大きくすることを考えれば考えるほど自分にはそんなことができないと思うようになってしまったことです。ですから彼がしたことは英語で言う “Play it safe” です。土を掘って、そこにお金を隠しておこう。そうすることによって、私はお金を増やすことはないが、お金が減ることもない。これは熱い水でもない、冷たい水でもない、生ぬるいお風呂に入ってこれが一番な幸せと言っているようなものです。 この譬話は恵みあふれる,慈悲深い神様のことを語っているのです。しかしまた、召使、または僕としての私たちの神様に対しての感謝を私たちの言葉と行動によってあらわすことを求められているのです。先に使われたお金、それはタレントンと言いますが、その言葉を聴いてタレントンとはもしかして英語で言うタレントと関係があるのではないかと思った方もいらっしゃるでしょう。全くその通りで,タレントンは重さを測る秤に使われた金属の重みです。それがお金の価値の言葉として使われるようになったのです。私たちが良く耳にするタレントとかタレントさんは何か才能を持った、価値のある者、才能のある人と使われるようになったのです。私たちに何かの才能があったとしたら、それは神様が私たちに下さったギフトです。そのギフトを一生懸命使う、それを神様は私たちに望んでいるのです。 皆さんは神様からいただいたタレントが自分にとって何であるか知っていますか? 私たちは、自分のタレントをみいだし、それが神様からのギフトであることを知るところに喜びを感じることができます。私には何のタレントもないという人がいるかもしれませんが、そんなことはありません。神様は私たち一人ひとりに特別なギフトをくださっているのです。それを知り、それを使うことは大切です。自分でそのギフトとは何であるか分からないという人は自分に親しい人に直接私のギフトとは何でしょうと聞いてみるのはいいことです。誰でも神様からいただいた素晴らしいギフトをいただいているのです。その素晴らしいギフトを人と人の生き方の中で実行するよう私たちはイエス様から命じられているのです。 インドのカルカッタで、人から見放されたような人に施し、人間の屑とも言われていた人たちに神様の哀れみと心の憂いを捧げてきたマザー・テレサが毎晩、床に入る前に唱えた祈りを紹介しましょう。 それは、「今日わたしはイエス様に何をしたでしょうか?」 “What did I do to Jesus today?”「今日私はイエス様のために何をしたでしょうか?」 “What did I do for Jesus today?” そして、「今日私はイエス様と共に何をしたでしょうか?」 “What did I do with Jesus today?” マザー・テレサは続けてこう言いました。「両手を広げてこの私の手は今日、どのようにイエス様を賛美することができたでしょうか?」と。 イエス様に従う私たちは神様からいただいたギフトを持って、神様を賛美するのです。 もう15年前ですが、映画で大ヒットした  “Sister Act” というComedy の主人公であるWhoopi Goldberg という黒人の女優さんがカトリック教会のシスターとして登場しました。教会のミサはいつも、グレゴリア・チャントという厳かな音楽で行われていましたが、それを歌うSisterたちも何か礼拝が、形だけで、活気がないと感じるようになり、Rock’n Roll のような形で歌い、踊りだしたのです。何か活気のない、萎びた礼拝が、神様の聖霊によって踊り出るような形になったのです。 別に私たちの礼拝が、踊りだすような形にならなければならないというのではありませんが、礼拝の中で私たちは、神様の聖霊と触れ合うことができるようになりたいのです。また、聖霊のギフトによって私たちの生活と心が清くなり、また、私たちの一人ひとりの生活の中で神様の愛がにじみ出るような者となれるように祈るのです。 またマザー・テレサに戻りますが、誰かがマザー・テレサにこう質問しました。「あなたのなさった仕事の成功の秘密は何でしょうか?」しばらく首を傾げて考えていたマザー・テレサはこう答えました。「私は、イエス様が私たちのすることを成功したとか、しなかったと言ったことはありません。イエス様は、愛による他人に対しての約束、誓い、真実さを私たちの人と人の付き合いの中で実行しなさいと言われているのです」と。 神様が私たちに「お互いを愛し合いなさい」と言われた時、私たちは思いも、言葉も、行いも、すべての誠実さをもって、自分のありがままの姿で、隣人に関係を持つことができますか?  それができるような人間になりなさいとイエス様は言われているのですが、自分だけの力ではそれができないのです。神様の愛が私たち一人ひとりの心に入ってくることによって、私たちはこの自分を超えた力によりお互いを愛することができるのです。 今日の説教の話はイエス様に忠実でありなさいと言われてもっともですが、私が思うに今日の福音書の話は実はイエス様自身が旅に出た話として受け取ることは出来ないでしょか?その旅とはイエス様の復活の後、天に上げら、そこから私たちのことを見守っているのです。イエス様はいつかまた、私たちのもとに来てくださる。その時私たちはイエス様に忠実な生活をしているでしょうか?そのように考えると、私たちは神様からいただいたギフトを使って多くの人に神様の福音を分ち合うことを命じられているのです。 神様は、私たち一人ひとりに何かのタレントを与えてくださっているのです。そのみなさんのタレントは何でしょうか? 人の接待の上手な人、料理、お花、歌の先生、人の悩み事、相談事に乗ってくれる人、いつも電話で、「あなたどうしてますか?お手伝いでもしてあげられることありますか」と人の面倒を見ることをいつも気にすることができる人、お金の管理、年金、貯蓄などの問題を一緒に考えてくれる人、コンピュターに強い人,いつも笑顔で私たちを迎えてくれる人、私たちの体、病気についてアドバイスできる人、実際に私はその人たちを思い出しながら皆さんが持っている美徳、Spiritual gifts、それは神様からいただいたあなた方の素晴らしさを考えるのです。 私たちの人生は神様からいただいた聖霊によって、お互いが、お互いを大切にして生きることるにより神様の国をこの地上で実行することができるのです。アーメン。                   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace