Archive for the ‘牧師説教’ Category

Tweet マタイによる福音書15章21-28節 「すべての者よ,私の元に来なさい。」 “Come to me all of you” 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなた方にあります様に。アーメン。 皆さんのうちに動物が好きな人がいると思います。猫、犬、あるいは鳥、金魚、熱帯魚。これらは一般のペットですが、私の友達の中には、アライグマを赤ちゃんのときから子供のように育てた人もいます。私も動物が大好きで、小さいころは、家の中で犬も猫も飼えないことを知ってましたから、裏庭で宿無しの犬、子猫にご飯の残り物をやって自分の子供のように育てたことがあります。ご飯と言っても残り物のライスに味噌汁をかけたようなも。それでも味噌汁の中に入っていた煮干を夢中で食べていた子犬、子猫も大人になってどこかに行ってしまった時まで可愛がって育てました。 アメリカで、“Dog is man’s best friendとよくいわれますが、飼っている犬の費用は相当なものです。何処のスーパー・マーケットに行っても何の種類ものDog food が幾つも並んでいます。中には野牛とか鴨の肉を使ってのdog food もあり、そのマーケットには 犬の洋服、犬の歯磨き粉と歯ブラシ、犬の靴まで売っています。まさに犬様、様です。 今日の福音書の話はイエス様がテイルスとシドンというイスラエルの北の地中海に面したところで出会ったカナンの女との会話です。カナンといわれる所はイスラエル人の土地とほぼ同じです。しかしこのカナン人という人達は、昔アブラハムがバビロンの土地からイスラエルの土地に移る以前に住んでいた民族です。ユダヤ人の力が大きくなるに従ってアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ヨシュア、サムエル、サウル、ダビデ、ソロモンと言うイスラエルのリーダー達はすでにそこに住んでいたカナン人と戦争をして自分たちの国、イスラエルの国土を広げていったのです。 イスラエルの人達は自分たちの民族の血がほかの民族、特にそこに住んでいたいたカナン人と結ばれることを嫌っていたのです。つまりカナン人はユダヤ人にとってはアブラハムの子孫でないと言い張るところに自分たちの優越感、自分たちこそ、神に愛されている民族との優越感を持っていたのです。つまりカナン人をユダヤ人は犬のように考えていたのです。勿論それは何千年前のユダヤ人だけに限りません。日本人も自分たちの民族こそ一番優秀であるとの思いで他の民族を見下した罪があります。 さて福音書の記事に戻ってこのカナン人の女は「主よ、ダビデの子よ、私を哀れんでください。娘が悪霊に取り付かれて苦しんでいます」と言って叫び続けたと書いてあります。カナン人のこの女、ユダヤ人の国の中で、ユダヤ人でないということで見くびられて生活していたのです。 この記事の中にこの娘さんのお父さんは出てきません。お父さんはもう亡くなっていたかもしれない,あるいはどこかに出稼ぎに出ていたのかもしれない。あるいは家族を捨ててどこかに行ってしまったのかもしれない。しかし分かっているのは、このカナン人のお母さんは自分の娘が正常に戻れるよう必死だったことは確かです。自分の子供を愛さないものがいるはずないのです。イエス様の行く先には何時もイエス様の奇跡で精神、体の病気を癒されたいと集まっ人たちで一杯だったでしょう。同様に心の苦しみ、人間として他の人たちから嫌われていることを知ると言うことは実に悲しいことです。 わたしは、次のイエス様のカナンの女に対しての答えにいきどうりを感じました。なぜならイエス様のカナンの女に対しての答えがどうもイエス様らしくない答えだったからです。イエス様は、「私はイスラエルの家の失われた羊以外のものには、使わされていない」と答えたからです。何でそんな薄情な言葉を一生懸命娘の救いを求めているこのお母さんに言うんだろうか?しかしこのお母さん、必死になってイエス様に頼みました。「主よ、私を助けてください」。もしこれに付け加えて言うことがあったなら、私はお母さんの心の中を想像して、イエス様にこう言ったでしょう。「イエス様、あなたは心の奥底からあなたが救い主と信じる私を無視するのですか? あなたにしか私は頼れる方はいないのです。あなたはいつも何千人、何万人もの人からこれをしてくれ、あれをしてくれと頼まれて大変なのは知ってます。しかしこのようなはしための私の祈りを聞いてください。そしてこのお母さんイエス様の前でひざまずき、「主よ、私をお助けください」と切願したのです. このような祈りのお願い事に答えないイエス様は心を動かされたに違いありません。近くにいた人たちの前で、こう言いました。「子供たちのパンを取って子犬に投げてやるのは、よろしくない」と。さてイエス様のこの言葉はいったい何を言おうとしているのでしょうか? 私が思うに、イエス様はユダヤ人に与えられる救いの約束を異邦人に与えるのは良くない。なぜなら神の救いの計画はユダヤ人から始まるのだからと。しかしこのお母さんそれに対して、実に素晴らしい発言をしたのです。「主よ、そのとおりです。でも、子犬もその主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と。英語に tenacityと言う言葉があります。その言葉は,固執、粘り強さ、不屈と言う意味ですが、食いついた犬がそれを離さないように神様の助け、救いをお願いしたのです。イエス様はどれほどこのお母さんがイエス様を信頼していたかはじめから知っていたでしょうか? 知っていたのはイエス様は奇跡のできる人、いやそれ以上に神様から使わされた者、ですから心の底から娘はイエス様によって癒されると信じたのです。イエス様は異邦人のこのお母さんの信仰をほめたのです。それは同時に、ユダヤ人と異邦人と言う隔たりはイエス様にとって無くなっていたはずです。異邦人のお母さんはもはや犬と呼ばれるものではない、この人も神の国の子供なのです。 まさに今日の福音書の話の裏にはイエス様は全世界の人々のために救いをもたらした神様の子、すべての人は神様に愛されるために生まれたとの心の安らぎを約束をなさったのです。「すべての者よ、私の元に来なさい。」“Come to me all of you”はまさにイエス様の私たちにとっての救いへの招待の言葉です。 今日の説教、それは神様の私たちへの深い愛と考えていた時、英語の讃美歌の言葉が私の口に浮かんできました。それはThere’s a wildness in God’s mercy と言う讃美歌で、さてそれが日本語の讃美歌にもあるだろうかと探しました。教会讃美歌という日本ではルーテル教会で歌われているものの中にありました。「神の恵みは海より深く」という讃美歌です。その歌詞は「神の恵みは海より深く、裁きのうちにも哀れみあふる。この世の過ち、その悲しみを、神は知りたもう, 人にまさりて。罪あるものをも受け入れたもう、主イエスの恵みは限りもあらず。主イエスの血しおは我らを癒し、罪あるものをみ国に招く」。 これはインドで長い間宣教師として働いていた人からの話ですが、あるインドの村で一人の年取った女性が宣教師によりイエス様の福音を受け入れクリスチャンとしての信仰告白をしました。村中の人がこの女性に対して「あなたは私たちの祖先からの信仰を捨てて白人の宗教を受け入れるとは許せません」と言ってこの女性を村八分にしたのです。そして続けて言いました。「あんたは村の中で一番醜い女だ」と。この女性それに答えて次のように穏やかに返答したのです。「この醜い私を愛して下さるイエスは何と素晴らしい神様ではありませんか」と。 話はイエス様のもとに着たカナン人の女性に戻ります。イエス様はこの女性に誰が彼女の両親か、この女性が経済的にも、社会的にもどんな地位を持っているのか、何も聞かなかったのです。イエス様はこの哀れんでくださいと言ったこの女性を今のそのままで愛してくださったのです。それは今、今日、明日においても同じです。イエス様の前で、イエス様から受け入れられない人はいないのです。もう一度大きな声で言います。イエス様の前で、イエス様から受け入れられない人はいません。すべての人がイエス様のもとに呼ばれているのです。 私たちは全て何処からか来ました。私たちのあるものは遠いところで放蕩の生活をしていたかもしれない。あるものは近くにいても家族もなく、友達もなく、一人ぼっちの孤独の生活をしてきたようです。又ある者は人に知られたくない罪の虜で毎日が泣き出したら止まらないような私たちであるかもしれない。しかし、これら全ての私たちはイエス様の身許に来るように呼ばれているのです。「私の体と血を受けなさい。私はあなたが許されるために来たのですよ。あなたは私によって命の力と生きる喜びを与えているのですよ。信仰によって生きる喜びを信じなさい」と主イエス・キリストは私たちの呼びかけているのです。アーメン。     Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マタイによる福音書14章22-33節                                                            「恐怖、勇気、信仰」 “Fear, Courage and Faith” 私たちの父である主イエス・キリストから恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。 皆さんに質問があります。神様は私たちのように疲れること、心が痛むこと、悲しみに沈むことがあるんでしょうか? 神様は全能な方、神様にできないことはない。しかし神様が神様であり、同時に人間であるならば、人間の持つ不安も、希望も、心の複雑さを感じていたはずです。イエス様は父なる神に話しかけることを祈りという形でよくなさったのです。 私たちは神様の姿、神様の御心、神様のすべてがわかるものではありませんが、イエス様として私たちの生活の中で私たちにかかわってくださってくれているのです。小さい時に習った子供の讃美歌に「主われを愛す」というものがあります。簡単な讃美歌で、何回か歌っているうちにもう忘れることもない人生を支える信仰告白の歌となります。 「主われを愛す」を一緒に歌ってみてください。「主われを愛す、主は強ければ、我弱くとも、恐れはあらじ、わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、我を愛す」 この歌、讃美歌は、私を不安から守ってくれた歌でもあります。何か怖いことがあった時、夜、停電で、真っ暗になった時、お母さんに叱られた時、何かこの歌が心の中に出てきたのです。 さて、皆さんは怖い時を何度も経験されてきたと思いますが、暗いと言うのは、どうして怖いのでしょう。日本のお墓は昼間はどうっていうことはありませんが、夜にそこへ行くのは大人の私にとっても何か怖いのです。お化けが出る、火の玉が飛んでくる。いまだに遊園地で秋に行われるお化け屋敷は、お金を払ってまで行きたいとは思いません。 もう20年前になりますが、Ghost と言うな映画がHollywoodで大ヒットしたのを覚えていますか?Whoopie  Goldberg が占い師、Patrick Swayze が悪いゴーストをやっけて、いいゴーストとして出てきたこの映画は、お化けのイメージを正義の味方とした私の好きな映画です。 今日の福音書はイエス様の弟子たちがガリラヤ湖で夜、嵐の中でイエス様に出会った話です。すごい嵐で沈没しそうな船にイエス様の弟子たちが乗っていたのです。その暗闇の中にイエス様が海の上を歩いてきたのを見たのです。イエス様がGhostに見えたのですが、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」とイエス様は弟子たちに告げたのです。ペテロは自分の信仰をほかの弟子たちに見てもらいたいばかりに言いました。「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエス様の「来なさい」と言葉を受けて水の上をイエス様に向かって歩き始めたペテロは強い風に気がついて怖くなり、その途端沈みかけたのです。イエス様はすぐに「助けてください」と叫んだペテロに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄いものよ、なぜ疑ったのか」と言われたのです。ペテロが目をイエス様に向けて歩いていたときは水の上を歩けたのですが、イエス様から目を離して荒波を見た時、恐怖に駆られたのです。 しかしこれはペテロの経験だけではありません。私たち、一人ひとりも不安を感じる時がたくさんあります。そんな時、神様にしがみつく時,私たちが心のそこから「神様お願いです、私を助けてください、あなたは私を助けてくださる力がありますと信じるとき、そこにイエス様がいて私に生きる力を与えてくださっていると感じる時,勇気がわきます。その勇気はそして神様への信仰と変わるのです。 私たちは人生で荒波に出会ったことのない人は一人もいません。私の不安の心は海で嵐に飲み込まれこみそうになっていたことがありました。今まで働いていたところから解雇届けを受けた。健康保険もなくなった。それが原因でか、憂鬱症に落ちいった。だれからも、リジェクトされたような気分になって、人と付き合う気分にもなれない。これは誰かのことではなく、私が何年か前に自分で経験したことです。家内とも口げんかするようになった。丁度そんな時、日本から電話で両親が自分たちで生活することが難しくなったと毎日2時間両親の面倒を見てくれていたヘルパーさんから、また教会の友達から、どうか日本に帰ってきて、ご両親の面倒を見てくれるところを探してあげてください、あなたの両親はもうお二人とも痴呆症で二人だけでの生活は無理ですからとの電話もあったのです。 ちょうど、次の牧師の仕事を探していた時ですから、しばらく日本に帰って両親が一緒に住めるグループ・ホームを探し、そこに入ってもらったのです。そこは秩父の山の麓で、温泉があるところでしたから、両親は休暇でそこに来たのだと思ったことでしょう。両親にさよならをしてのホームを出たとき、後髪を引かれるような思いで悲しみにふさいだことを思い出します。 ある意味で、荒れたガリラヤ湖の弟子たちの経験は私たち自身の個人的な危機の時なのです。私たちの不安は小さい船の中で嵐に会った、何もコントロールができず、どうしていいのかわからない。そこで何か自分より大きな力のある人、それは私たちにとって神様ですが、その神様に自分のすべてを委ねるのです。  “Jesus help me for my weak faith”. 何年か前にpsychology today という 雑誌の中で次のような統計を読んだことがあります。40%の私たちの不安と心配事は実際起こることではない。30%の不安は私たちが過去に行ったことによるもので今それにくよくよすることはない。12%の不安はある人の気持ちやフィーリングを間違えて受け取ったことによるもの。10%の不安は個人的な健康に対しての不安で、心配すればするほど悪くなる。しかし私たちの一番の不安は私たちのいつか経験する自分の死についてです。 ペテロはイエス様を信じてガリラヤ湖を歩き出したとき、それが出来ました。不安に駆られたからこそ水の底に落ちる経験をしたのです。しかし私たちもペテロと同じく溺れかかったその時、イエス様から差し出される手にしがみつくことができるのです。 イエス様は、死の暗闇を経験したことで、私たちを不安の暗闇から光のところに引き上げてくださることができるのです。イエス様が暗闇の死から復活された、その神様の救いの力で、私たちを陰府の世界から光の世界へと連れて行ってくださるのです。 この水の上を歩くイエス様は人間の不安、死ぬということの恐ろしさも足で踏みつぶし、その代わり、私たちに生きる勇気と信仰を与えてくださっているのです。人生の嵐の中で“Take heart, it is I, have no fear.” 「しっかりするのだ、私である。恐れることはない」と言われたのです。 マタイの福音書には何回にも亘ってイエス様が弟子たちに、「信仰の薄い者よ」と語っている記事に出会います。マタイはそれを「疑う者」とも呼んでいます。マタイにとって教会とは信仰の薄い、疑い者の集まりですが、この小さな集まりも、みんながイエス様に目を向ける時、何か素晴らしいことができるのです。 ペンシルベニアの小麦畑で働くお百姓さんがある年にすばらしい小麦の収穫の時を迎えました。さて明日トラクターで収穫するぞと言っているさなか, ものすごい嵐、それて大きい雹が一時間に渡って降り続けたのです。小麦は全滅です。嵐の後、まだ小さかった息子さんは荒野になった畑を見つめて泣き始めました。お父さんも悲しいだろう、なんか神様に抗議するようなことを言うんではないかと思っていたその時、お父さん、小さい声で“Rock of Ages”と言う讃美歌を歌いだしたのです。”Rock of Ages, cleft to me, let me hide myself in thee.”日本語でこの讃美歌はこう歌われています。「岩なるイエスよ、守りたまえや、脇よりながる、とうとき血にてわが罪とがを洗い清めよ。」 私の両親は第二次世界大戦の終わる寸前アメリカ空軍の飛行機から落とされた焼夷弾で家を失くしました。命は救われたものの家は全焼、自分たちの思い出の写真もすべて灰となってしまったのです。それは悲しいことです。思い出を奪われてしまう、自分の若い時の写真が一枚もない、悲しいけれど、今ここに私がある、私はまだ神様から見放されてはいないと心に感じたとき、神様の愛を泣きながら感謝したと私の両親はいつも語っていました。イエス様を主と受け取った私たちは、人生の大きな荒波を乗り越える勇気を神様からいただいているのです。 神様、イエス様が私の心の中をすっかり分っていてくださる、慰めの言葉を語ってくださっている。そこで勇気が湧いてきます。希望が生まれます。神様が私と共にいてくださると信じる信仰は人生の中で掛け替えのない宝物です。日曜日に一緒に神様を賛美し、神様に感謝をし、私たちの仲間をお互いに支え合って生きる人生を与えられている私たちは幸福です。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マタイによる福音書14章13-21節 「祈りの時、それは神様と会話する時」“The Time to Talk with God.  That’s the Prayer Time” 今日の福音書は、イエス様の話を聞きたいとイエス様に従ってきた多くの人たちに、5つのパンと2匹の魚を多くに人たちに分け与えた奇跡の話です。ところでこの話の中にどれくらいの人が集まっていたのでしょう。皆さん、もう一度今日の福音書の箇所、それはマタイの14章13節、ページは28ページです。時間を少し上げますから皆さんそのページを開けてください。なんいんとかいてありますか? 5千人でしょうか?本当ですか? では21節を見てください。何とかいてありますか? 「食べた人は、女と子供を別にして、男が5千人ほどであった」と書いてあります。と言うことは、当時のユダヤ人の生活の中で女性と子供は大人の男のような地位がなかったのです。男は家族のために仕事をし、給料を貰って家族を養う者。イエス様の時代には男と女は平等でなかったのです。私の想像ですが、イエス様の話を聞きたいとイエス様の元に来た人たちは女の人、子供も合わせて8千人、9千人位いたのではないでしょうか。そのような数の人たちが食べ物を買いに行ける処もあまりなかったと思います。「腹が減っては戦もできけない」と言う言葉を聴いたことがあります、このイエス様の元に来た人々、疲れて、お腹が空いたと推測します。この福音書には書いてありませんが、ヨハネによる福音書の同じ記事の中では5つのパンと2匹の魚、それはガリラヤ湖名産の燻製の魚を、一少年がイエス様に差し上げたのです。もしかしたらこの少年の両親が、イエス様の偉大なる奇跡の力でこのパンと魚を増やすことができるのではと、少年をイエス様に送ったのでないかと思うのです。さてイエス様はパンと魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちの渡したのです。弟子たちはそのパンを群集に与え、すべての人が食べて満腹した。ついでに福音書は、残ったパンの屑を集めると12の籠いっぱいになったと書いてあります。 この奇跡がどのように行われたのかといろいろ討論されていますが、ある人はこう言います。イエス様の話を聴きに来た人の中には何か食べ物を持っていた人はいただろう。旅をするのに食べ物を持っていない人があろうか。しかし実際食物を持っていなかった人もいただろう。そこでイエス様がお話になる前、5つのパンと2匹の魚を分け与えたのを見た群集は心を動かされて自分たちの持っていたお弁当をおたがいに分かち与えたのではないだろうか。目のまん前で、お父さん、お母さんと小さな息子が指をくわえて私のお弁当を見つめていたらどうしたでしょう。私、またわたし達の多くは、食べ物のない人の前でそれを分けてあげようと言う気持ちになるはずです。それが人間の思いやりの気持ちであったなら、お弁当を持っていた人達は、食べ物を持っていない人に少しでも分け与えたはずです。もっとも,イエス様は奇跡で5つのパンと2匹の魚を人々が受け取るにあたってそれが増えていったと考えてもいいのです。イエス様は5つの大きな瓶の中の水をワインに変えられた方ですから食べ物の奇跡もあって当然です。 これは少し脱線しての話ですが、私が子供のころ家族で、デパートに行き、お腹が空いたときによくデパートにあった食堂で、食券を買って丸い10ほどの席のあるテ-ブルで五目ラーメンとかトンカツ・カレーを食べたのを懐かしく思い出します。そのころは空いたそのテーブルの席に知らない他人の人も入ってきた。皆さんはそんなこと覚えているでしょうか? それが当たり前だったのです。アメリカの生活の中で他人と同じテーブルで食事をするのは少し抵抗がありますが、東洋人はわりにそのことを気にしません。しかしアメリカ人にしろ東洋人にしろ、お腹の空いている人を見て、その人たちに何かしてあげたいという気持ちになるはずです。 2年前にInterim Pastor として働いていたWhittierのSt. Andrew Lutheran Church で、夜教会の会議がある時はお昼を抜きにして4時半ごろSizzlerというレストランにサラダ、クラム・チャウダー、ウイングの食べ放題のところで1時間ほど食べ続けました。そこには常連の人たちがいて、山盛りのサラダとウイングを私と同じように時間をかけて食べていたのです。後でわかったのですが、この人たちの多くは失業者で、一日の一回の食事をこの食べ放題のレストランでお腹が一杯になるまで食べていたのです。それにしても、一人で食事をするのは切ないですね。私は一人でいることが嫌いです。誰かとともにいるということで元気が出てきます。しかしこの人たちはそこに毎日来ることで、ほかの同じ立場にある人たちと知り合いになるのです。 本当に一人ぼっちでいるのは悲しいことです。だからこそ私たち人間は一緒に話すことのできる仲間、お互いの喜びを悲しみを分かち合えることができる人を探しているのです。 こんなことを言って叱られるかもしれませんが、一年前に亡くなった豊子さん、そしてつい最近亡くなった美代子さん、この教会の会員でした。豊子さんは高塚先生の時にもいらしていました。オテロ美代子さんには残念ながら一度も会う機会がありませんでした。電話では何回か話したことはありましたが、「一度お伺いしたいのですが」と聞いたところ、「訪問はお断りします」と何回も言われてしまいました。ほかの人たちの付き合いもあまりなかったと聞いています。美代子さんの亡くなったニースを聞いて、同じ教会の会員の方を知ることができなかった寂しさと悲しみに包まれました。一人ぼっちで人生の最後を過ごすのは悲しいことです。それと反対に 静子 Genewich さんは日本からのお姉さん、妹さん、娘さん、息子さんの家族、そして毎日のように、そこで励ましの言葉も、讃美歌を歌うこともできた。そして人生の最後の呼吸の時まで、誰かに見届けられた静子さんは本当に幸福でした。それは、静子さんだけでなく、静子さんの家族、友だちである、私たちにとっても大切なことだったのです。 同じように、寂しい時、不安の時、心が落ち着かない時、神様に祈ります。そこで神様が私と共にいてくださっていることを信じます。私の祈りはいつも神様との会話です。そして私の神様との会話の中で、いろいろな質問が出てきます。神様はどうもすぐ答えを出してくださらないのですが、そこで神様に私の心の奥からの会話をする時、神様からの答えがすぐに聞けなくとも、何時か神様が答えをくださるだろうと信じます。 もっとも、その祈りの答えが自分の期待していたことでないことを人生の中でよく経験しました。何で神様、わたしに辛い思いをさせるんだろう、何で長い時間にわたっての心の安らぎ下さらないのか。しかし神様のなさることは私たちにとってわからないことが多くても、ひとつ忘れてはならないことは神様は私たちをいつも愛してくださっている方、その愛は真(まこと)であるということです。 私たちの毎日曜日に行う聖餐式はそこで神様と出会うところです。神様、イエス様に、心を謙虚にして、パンと言うイエス様の体、ワインと言うイエス様の血をいただくことによって、私たちの罪は許されているとの神様の約束の確信をいただくのです。もはや私たちは孤独で生きるものではありません。そこに神様、イエス様が私たちと共にいらっしゃるからです。イエス様を思い出して聖餐式を受けなさいとも言いますが、それ以上私たちから離れることのない神様が、人生の山と谷の中で罪に満ちた私たちを永遠に愛し共にいてくださっていることを知るのです。それは私たちの人生がこの世で終わるまで続き、神様はわたし達をその後、神様の国につれて行って下さるのです。 一人ぼっちでいることは人の間で生きる人間にとってとても難しい。この世でたった二人だけでいたとしても、それはアダムとイブの経験ですが、神様のしてはいけないということを破って禁断の実を食べたとき、自分が裸でいるという恥を始めて知ったのです。それは神様に自分の恥、罪を見破られてしまったということです。 しかし神様はイエス様の十字架の死、そこで私たち人類のすべての罪をしょってこの罪人である私たちすべてを許し、天国での永遠の命を約束されているのです。 多くの教会で修養会をどこか週末泊りがけで行うところがあります。この教会の英語部では年に2回、3泊におよぶ泊りがけの聖書を読む修養会で30人の人達たちはそれによって神様を信じる、愛することがわかってきた、と言う発言をよく聞きます。私はそれは大切なこと、泊りがけの修養会とは言わないでも、お互い、一緒に聖書を読むことによって神様の言葉が、私たちの心を開き、神様が私たちの目の前で見えるようになることがあるのです。聖書を読んでいるうちに神様の私たちへの愛が何と素晴らしいものかと感激して泣き出すこともあります。自分の家にいて聖書を読む時、祈る時を守ることは大切で、時には時間を作ってほかのことに気を使うことなく神様との心の交わりをするのは大切なことです。 新約聖書のなかにあるマルタとマリアと言う姉妹の話を皆さんは何回も聞いたことがあるでしょう。イエス様はエルサレムに来る度にこのマルタ、マリア、そしてこの二人の兄弟であるラザロの家を訪れたのです。この二人の姉妹は性格がとても違い、マルタはお客さんの接待で大変です、家を綺麗にし、料理を作る、そこで,イエス様と話をするどころではありません。「ああ、忙しい、忙しい、大変だ。それにしても妹のマリアは私に手伝いもしないでイエス様とお話をしている。私だけが忙しく働いている」との愚痴をこぼしたのです。これについてイエス様は言いました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアはよいほうを選んだのだ。それを取り上げてはならない。」良い方を選んだとは神様と共にいる時、神様と会話の時を持つと言うことです。神様の御心を聞く、そして神様と心を一つにすることです。毎日の生活の中で、忙しい生活を送っている私たちですが、必要なのは今私たちは神様に生かせれて生活をしている。それは自分だけの利益を見るのではなく、お互いを助け合って生きていくことです。その真ん中で神様、イエス様が私たちに下さった言葉、それは “Love one another as I have loved you”.「私があなたを愛したように、あなたもお互いを愛し合いなさい」。これ以上に大切な戒めはありません。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet ローマの信徒への手紙8章26-39 「神様の特別な愛」  “God’s Special Love” わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン。 神様はあなたにとって何でしょう、色々な答えがその質問に対して出てくると思いますが、多くの方は神様は愛であると答えるのではないでしょうか? 神様の愛とは私たちにとって計りがたい素晴らしいものです。そこで、今日与えられたローマの信徒への手紙をもとに神様の愛とはどのようなものであるかを4つの話の中で聞いてください。 その前にもう一度今日のローマの信徒への手紙8章の35節から39節を読んでみましょう。だれが、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう? 艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。私たちたちは、あなたのために一日中死にさらされ,屠られる羊のように見られている」と書いてある通りです。しかし、これら全てのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリス・イエスのよって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。 では一番目の話:これは夢の中での話です。皆さん、あなたが神様の裁判所に被告、accusedとして連れてこられたのです。神様はJudge, 裁判長です。そして、サタン、つまり悪魔はあなたの検察官、accuserで, あなたが実際したか、またはしなかったかの罪について裁判を受けているのです。サタンはあなたの罪を目撃した証人を呼んであなたの罪を摘発しました。それを聞いてあなたの心は沈みます。その通り、自分は悪いことをしたと心の中で認めているからです。それは誰かに暴力の手を出したと言うより、誰かの悪口を言った、誰かを仲間はずれにした。親切にしなかった。口もきかなかった。そんなことですが、神様から見ればこれらはすべては罪です。 またそれ以上に検察官はみんなの前で誰かのとったビデオを見せたのです。そのビデオの中でこのあなたが生活に困っている人に出会った時、どうしようかというシーンが出てきました。そして、そのビデオはどうしてか、あなたが心の中で思っていたことが声として出てしまい裁判長にも陪審員にも聞こえてしまったのです。「困っている人はそれは怠慢な人、他人に頼って生きている乞食当然。私にはぜんぜん関係のない、赤の他人」ああ、どうしよう、恥ずかしい、穴があったらそこに入りたいと思っていたその矢先、裁判長は言いました。「これは本当ですか、あなたは隣人を省みなかったと認めますか?」「はい、そのとうりです。何も返答することはありません。私の罪をお許しください」と頭を深く下げたのです。その時、イエス様が夢で現れて宣言なさったのです。「あなたは私を信頼する者。私はあなたの罪の刑を私の十字架の死によってすでに取り去りました」と。先生、これは変な話ですねと言われてしまうかもしれませんが、ポイントは「神様は私たちを愛するが故にイエス様をこの世に送り、私たちの罪を背負って死んでくださったということです。私たちの罪を自分の上に負って死んでくださったイエス様、それはキリスト教の信仰を持たない人には難しい神様の愛の形です。しかしこの愛があってこそ私たちは今ここにイエス様を慕って生きていけるのです。 二番目の話は、ご主人がアル中の奥さんの話です。この奥さん本当にご主人のことで今迄つらい人生を送ってきたのです。しかしある時ご主人、自分の問題に気が付いて奥さんに今までのことを許してくれ、もうこれからはお酒は飲まない、だからセカンド・チャンスをくださいと泣いて語ったのです。奥さん、どうしたらいいのかわからず,牧師さんを訪ねたのです。「先生、私の家族、私の友達は私が主人をそのまま受け入れるなんて、そんなことだめですよと言っているので牧師さんは答えました。「あなたは、まだご主人を愛していますか?」と。「はい、私は主人を愛しています」と奥さんは大きな声で答えました。 その後、牧師さん、こういうガイダンスを奥さんに与えたのです。「奥さん、あなたに覚えておいてほしい事があります。あなたはご主人のjudge裁判官ではありません。ご主人のJury陪審人でもありません。あなたはあくまでもご主人をを愛する奥さんだと言うことを肝に命じてください」と。「そして奥さん、もうひとつ」と牧師さん続けて言いました。「あなたの広い心と愛ですべてを許すという、あなたの寛大さにあなたのご主人は、今までの自分の惨めさで心を痛めるでしょう。ご主人の心の回復はあなたのUnconditional,無条件の愛によってのみ起こるのです」と。 三つ目の話はBetty Van Dyke さんという人が書いた目の見えない女の子が始めてピエロに出会った時の話です。生まれた時から目が見えなかったこの女の子はピエロと言う人がどんな人か分かるには唯一つのことをしなければならなかったのです。それはピエロに触ることです。 この女の子は両手でピエロの頭を触れ始めたのです。「大きな耳、ボールのような鼻、髪の毛はちょこっとだけ、そしてなんか変な洋服を着ているこの人、なんて変な人なんでしょう」と笑いなら言いました。「なんだか私笑いたくなる、だってピエロさんってとっても変わっているし,声だって普通の人とより子供みたい。ピエロさん、あなたHugしていい?私あなたのお友達になりたいわ」と。この女の子、目でピエロを見えなくても、ピエロさんは子供たちを嬉しくしてくれる人とわかったのです。ピエロさんにHug して “I love you funny person” と言いました。 この話は私たちが受ける神様の愛を語っているのです。私たちは神様の愛というものが100%はっきりわかりません。しかしイエス様との祈りの中、信頼関係の中に時間が経つ内にそれが分かるようになるのです。コリントの信徒への手紙第一の13章12節の言葉を聞いてください。 「私たちは、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには.そのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。わたしは、今は、一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」 本当です。イエス様という神様を通しての愛を今は私たちは完全に分かることが出来ないでしょう。しかしそれが出きるような時がいつか来るのです。今は神様の愛というものを聖書の福音の中、聖餐式と洗礼式、また他の人からの思いやりの中に見出すことができます。ある意味で、私たちは目の見えない女の子がピエロを手で触って「私の前でここにいる人はイエス様です」と言えるかもしれない。しかしそれ以上に、心の中でイエス様と出会う、信仰によってイエス様と顔と顔を合わせて出会う時が来るのです。その時私たちを愛してくださっている神様に愛を持って仕えることが出来るようになるのです。 最後、4っ目の神様の愛とはどのようなものであるかの話はPastor Valbaracht という人による第二次世界大戦後に経験した話です。 私が兵隊としてアジアに送られた時、娘はまだ生まれて3ヶ月目の赤ちゃんでした。戦場で時々送られた写真で娘の大きくなってゆく様子はわかっていたのですが、娘にとってお父さんの私は箪笥の上にあった写真に過ぎなかったのです。もっとも、これがあなたを愛してるパパなのよと家内は娘にいつも言っていたのですが。しかしお父さんは実際そこにはいないのです。3歳の娘さんがどうしてお父さんの愛を感じることができるでしょうか? 何千マイルも離れて生きている私がどのように娘の愛の対象になるでしょうか? わたしのお父さんは私の家から近くわたしの娘をいつも訪ねていたので、娘はおじいちゃんが大好きでした。お爺ちゃんが、お爺ちゃんとお父さんの二人の役目をしていたのです。しかしそのお爺ちゃんも戦争中に病気で亡くなったのです。 戦争が終わり、3年目に私が家に帰ってきた時、どのように私を受け入れてくれるかの不安がありましたが、娘が、私の顔を見て、「パパ?」と言って私の腕の中に飛び込んでくれた時、私は嬉しくて涙が出てとまらなかったのです。パパとママと娘と一緒に長い間抱き合って泣いてしまいました。嬉し泣きです。 同じようにイエス様は両腕を広げて、彼の胸の中に飛び込んできなさい。私はあなたのお父さんです。そこで私の愛をイエス様の子供である私たちに示しましょう、と言われているのです。 今日の説教は神様の特別な愛を4つの話を持って聞いていただきました。神様の愛は私たちに色々な形でも現れるということを知ってください。そして、どうか皆さん、神様と会話の時、祈りの時を持って毎日を過ごしてください。神様は必ず私たちの中に来てくださるのです。アーメン。   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マタイによる福音書13章24-30、36-40節 「雑草と麦」“Weed and Wheat”                                                                                                  私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように。アーメン。 今日の福音書は先週の種蒔きと刈り入れ時の話の続きです。お百姓さんが良い種を畑に蒔きました。しかしその人が眠っている間に、敵が来て麦の中に毒麦の種を蒔いたのです。しばらくすると、麦と毒麦が揃って芽を出しました。毒麦、それは雑草ですが、よく麦と似ている、そこで、畑の仕事を任されていた男は、その毒麦の芽を抜こうとご主人様に申し出たのですが、ご主人は言いました。「一緒に麦と毒麦を収穫の時まで、その儘にしておきなさい。そうしないと、毒麦を取ったつもりで、麦を引き抜いてしまうかもしれない。最後の収穫の時にそれを分けてとりなさい」と。 もし私達が今日の福音書の話しの中にいたとしたら、腐ったりんごはまだ新鮮なりんごから取り除くというように雑草抜きに励んだはずです。しかし、誰か教会に来ている人の中で、この人は教会にくる資格がない、だからその人を追い出そうという動きが出たら、それは教会の中での一番の悲劇です。しかし実際、アメリカのほとんどの教会は50年ほど前まで  “Excommunication” という規定がありました。これは教会員として悪い行為をした人、恥ずかしい行為をした人たちをメンバーの席からはずすという規定です。それはどういうことかと言うと、不道徳な行為をした人、警察に捕まるような悪事を起こした人たちに教会から破門状が出されたのです。5年ほど前、あるアジア人の教会では役員会の会長が、6ヶ月の間教会に出席してはいけないという知らせを受けました。なぜかというと、この人の16歳の娘さんがボーイ・フレンドとの間で赤ちゃんを産んでしまった。それは遺憾であると役員会は会長さんと彼の家族に6ヶ月、教会の行事に参加してはいけないとの通告を出したのです。 これはアメリカの植民地時代によくあったことで、教会はモラルに反したことをする人たちを差別、村八分にする、そういう時代があったのです。モラルを守ろうということは教会としてはっきり言っていいのですが、それを守ることのできなかった人にこそ、神様の赦しと助けをあたえるべきと断言します。人間はみな罪人で、神様の赦しを必要としているのです。クリスチャンと呼ばれる私たちは罪を嫌うのですが、所詮、私たちはみな罪人。ですから、神様の許しと愛を必要なのです。 皆さんの中でアミッシュ、あるいは、メノナイトという昔からの習慣を守って今でも17世紀のような農業生活をしているクリスチャンの人たちのことをご存知ですか? 家内のナンシーの実家はペンシルベニアのこの人たちの住んでいる地域から近いところで、本当にこの人たちの生活を観察してみると昔の世界に戻ったような気がします。まず電気が使えません。家の中で夜の生活はろうそくのみです。自動車も使えません。洗濯機も、冷蔵庫も、電気で動かすものは使えません。畑を耕すのも、動物が鋤を引っ張って行われます。男は成人になると髭を生やさなければなりません。女の人は頭の上にボンネットをいつもかぶり、いつも長いスカートで、ズボンをはくことは禁止されています。彼らはPennsylvania Dutchという特別な言葉を話し子供たちは公立の学校には行きません。自分たちだけの学校があり、読み書き、簡単な算数はそこで習いますが、主な教育は聖書を学ぶことです。 ところで、メノナイトというクリスチャンもPennsylvania Dutch の人たちですが、この人たちは、もう少し文明を取り受けて生活をしているクリスチャンの人たちです。家の中では電気は使えない保守的なメノナイトと普通のアメリカ人のように文明を受け止めて生活する進歩的なメノナイトの人たちもいますがアミッシュとメノナイトはもともと同じ血のつながりのある人たちです。しかしこの二つのグループ、アミッシュとメノナイトがあるひとつの決まりのことで分かれていったという、その背景のうらにShunning という習慣があります。これは英語で、 “Social avoidance” と言い、その意味は自分たちのこの非文化的な生き方を出てアメリカの一般の生活の中に入っていく人たちは、一度外の世界に出たら、もう両親、親戚、つまりアミッシュと言うCommunityにもどることができないと言う決まりです。 つい最近、テレビで、若いアミッシュの青年が、大学にいきたいと言うことで自分の家を出た。そしてGEDの資格を取るために勉強している。しかしやはり自分の家族に会いたいと家の門のところまでいった。そこに家族はいるのはわかっているんですが、彼の家族は出てこないのです。家族にとってこの息子は親も兄弟も捨てたものとみなされているのです。なんと切ない気持ちでなきたくなりましたが、この青年は彼の育った社会を捨てたのです。 アミッシュとメノナイトの一番の違いは一度、家族の者が自分たちの社会から出たらアミッシュは、でた人を戻ってきたいと言っても受け取りません。Forever good bye なのです。メノナイトは自分の子供が家の農業を継いでくれることを望みますが、もし子供が、「私は家を出て都会に言って学校、大学にいきたい。」と言ったとしたら、親は悲しむかもしれませんが、その息子を村八分にすることはしないのです。 なぜこの話を紹介したかと言うと、それは教会と言う私たちの信仰の集まりの中でも長い間、あの人は私たちの仲間、でもほかの人は私たちが付き合うべきではない人たち、と言ってイエス様の元でみんながお互いに一つになって愛し、助け合ってゆくべき教会の中で、私たち、あの人たちと言う、イエス様の今日の話にあるWheatとWeed と言う関係を作ってしまうことがあるからです。 聖書の中で、私たちは驚くほど多くの麦と雑草に似た話を読みます。と言うのは、ユダヤ人の位の高い人たちはいつも自分たちは神様から愛されている、神様の戒めを厳重に守っている麦だと信じているのです。その反対に、体の不自由な人、貧乏人、徴税人、のような者たちは、神様から遠い人たち、神様の恵みから離れている雑草だと言うのです. そのひとつの例をルカによる福音書の18章9節に書かれているもので紹介しましょう。  「自分は正し人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、私は他の人たちのように、奪い取るも者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪びとの私を憐れんでください。」言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 私たちは誰でも神様に愛され、よい実を結ぶ者になりたいのですが、時には反対のこと、人を裁くこと、いや、裁くと言うより、私はほかの人よりもっと神様に愛される人になりたいと思うことがあります。それは意識的ではないかもしれない。しかし、自分のことが一番大切と思う私たちは神様に誰よりも愛されたいと思うことがあるのです。 ところで、キリストに従う私たちは、裁かれると言うことをあまり気にしないでいいのです。「イエス様私を許してください」と心の中でいえる私たちはすでにイエス様に愛されているのです。ですから、大切なのは私たちがよく口にする、お互いを愛すると言うこと、お互いを大切にすること、思いやりを持って人間関係を結ぶことです。 私たちの教会の群れは小さいものですが、小さいながらお互いを助けながらイエス様にすがりついて生きているのです。 最後に言いますが、私たちは神様から雑草とは呼ばれていません。私たちは神様の愛を栄養に、神様の御心を行う事のできるようなものとなる麦の実であるのです。私たちの神様からいただいている役目は、すべての人に神様の愛を分ち合うことです。私たち人間は愛し、愛されるために生まれてきたのですよと皆さんにその福音を言葉と行いによって示すことです。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet      マタイによる福音書13章1-9、18-23節 「わたし達は福音の種を蒔く者」 “We are sowers of the Gospel ” 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が、あなた方にあるように。アーメン。 私が牧師として始めて招聘を受けたPhiladelphiaの教会は1970年以前は白人の Middle Class の Community でしたが、1980年にアメリカの都会の中で公立のhigh schoolの中で人種差別の問題が出てきた時、法律としてInner city と郊外の学校の生徒をバスによって自分の住む地域の学校以外のところに通わせるという試みが行なわれるようになりました。私の教会はOlney High school  という名の知られていた公立の高校のすぐ近くでこの制度が始まった時以来蜂の巣を棒でつつくような問題がcommunity の中で出てきたのです。ごみが道端に多く捨てられるようになったとか、ギャングの縄張り、ドラック問題、つまり治安が急に乱れてきたといわれるようになったのです。人種差別とはアメリカの社会で今も続いて問題になっていますが、1970年代はノーベル平和賞を受け取ったMartin Luther King を多くの白人の人たちはトラブル・メイカーだと思っていたのです。多くの白人の家族は郊外に移ったのもこの頃です。私は人種差別を撤回しようとの運動を続けたMartin Luther  King を尊敬します。社会の中でMinority と呼ばれている人たちの社会的地位、叉同じ神様のもとで、同じ人間としてのわたし達は全ての差別に反対する義務があります。 さて前置きが長くなりましたが、イエス様も当時イスラエルの世界でトラブル・メイカーとお偉方から批判されていたのです。イエス様は安息日に畑で麦を積んだこと、叉安息日に病人を癒したこと、羊が、崖から落ちそうになっている時それが安息日であったら助けないであろうかと言って律法と戒律を守ることが人生で一番大切なことと信じていたユダヤの宗教リーダーを非難したのです。イエス様がユダヤのリーダーの人たちから攻撃され、それに対して彼らこそ偽善者だと答えたのはイエス様が神様から送られた者で、本当に自分は 神様のみ旨を行なうものとの揺るがぬ確信がありました。しかし、彼に従う弟子たちはイエス様を神の子と信じ、自分の命も惜しまずイエス様の教えに従っていこうと思っていた時もあれば、本当にイエス様は私たちに神様の国をこのユダヤの地で実行されるのだろうかと思ったこともあったでしょう。そんなイエス様の弟子たちの心を読み取ってイエス様は種蒔の譬えを話されたのです。この譬えは最もわたしたちにとっても大切なたとえ話です。 イエス様はお百姓さんが畑に種を蒔きに行った話をしました。この時代、畑は小さかった、そこで種を蒔くのも手の拳で一掴みの種をばら撒いて歩いたのです。ある種は道端に落ち、そこの土は硬く根を出すことができず、結局鳥が来て食べられてしまった。叉ある種は土が少しだけかぶっている岩場に落ちた。根が種から出たのはよかったのですが、その根が伸びることができなかったので、結局熱い岩場で枯れてしまったのです。ある種は茨の中に落ちたのです。そこには土も水気もありましたが、せっかく芽を出した種も茨で囲まれ伸びることが出来なかったのです。 しかし、ある種は良い土の上に落ち、そこで30倍、60倍、100倍以上の収穫を上げたのです。この譬えをイエス様はこのように弟子たちに話したのです。始めに硬い道端に落ちた種について。この種は神様の言葉を聞きますが、その神様の言葉の意味が分からない人たちのこと。種は心の固い人たちのところでは育ちません。心の固い人とは、英語で言えば、 “Those they just don’t get it” or those they don’t even try to get it. です。この人たちは聖書というものを聞いたたことはあるが、関心のない者、神様とは私達にはぜんぜん関係がありませんという人たちです。このような人に出合うと心が沈みます。私達のできることはこの人たちが何時かは神様という方に触れる機会があるようにと祈ることです。 薄い土のかぶった岩場に落ちた種は一生懸命根を出そうとしましたが、岩は太陽の熱で熱くなり、切角でた根もdry up してしまいます。このような人は神様の福音を受け取った人なのですが、時間が経つにつれて聖書も、イエス様もけろっと忘れてしまった人たちです。このような人はイエス様に触れたことはあるのです。教会にも来ていました。しかし、長続きしなかったのです。神様の福音は一時だけのものではありません。私達の人生の始めから終わりまで私達を導いてくださる神様の導きと支えです。 茨の中に落ちた種はこれまでイエス様の言葉を聞き、イエス様に従ってきたのですが、何か他のものに心を引かれるようになった。それはお金持ちになるとか、自分が有名になることが、人生の一番大切なゴールと考えるようになった人のようです。私の知っている牧師さんがこう言いました。「私は一日に300ほどの e-mail を受け取ります。それほど私のアドバイスを聞きたい人がいるとは、私はカウンセラーとしての自分の才能を見直しました。」この人に私は心の中で言いました。「よく言うよ、この先生、自惚れるのもいい加減にしろ」と。 最後にイエス様は幾つかの種は良い土の上に落ちたと書いています。そこで30倍、60倍、100倍の実を結ぶのです。とうもろこしの種を考えてください。家内の実家はペンシルベニアの農業の町にあり、今は美味しいとうもろこしのかき入れの時です。とうもろこしはその実が種なのです。一つのとうもろこしは500ほどの種のついた植物です。収穫されたとうもろこしはお店に並びます。それは食事として使われるのですが、一つのとうもろこしの中の500粒の種が叉来年の春、一粒、一粒、土の中に埋められて一つの茎から6個ほどの新しいとうもろこしができるのです。アメリカ全土のとうもろこしの収穫は世界中のおなかの空いている人の何十年に渡ってやしなう食べ物になるほどの量なのです。物も使いようです。 イエス様が弟子達にこの収穫の話しをした理由は二つあります。私達は私達自身の行動によってまだ神様を知らない人たちに、イエス様こそ私達を愛してくださる、救ってくださる神様ですよと語ってください、導いてください。私達一人ひとりの行動の中で、神様についてゆく清い生活を送ることが、まだイエス様のことを知らない人たちへの伝道の道なのです。 一人でも多くの人がイエス様という神様の人格に触れ、神様の愛を受け入れることができるようになる。その愛を他の人に示してゆく人生が送られるようになる。それが私達に与えられたキリスト者としての使命であり、神の子として生きる喜びであるのです。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マタイによる福音書10章40-42節 「心からの歓迎」   “A WELCOME FROM THE HEART” 私たちの主なるイエス・キリストから恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。 聖書の中には驚くほど色々なWelcome、歓迎の話しが沢山あります。それを一つ一つ話すなら、今日の説教の長さが4時間ぐらいかかるでしょう。そこで旧約と新約聖書の中にある5つほどの話を紹介しましょう。 皆さんはリベカと言う若い女性を覚えていますか?この人はアブラハムの息子のイサクの奥さんですが、アブラハムは自分の住んでいたカナンの土地から息子の嫁を探すより、自分の一族のいる、それは遠い、遠い故郷の町に召使を派遣してイサクの花嫁さんを探しに行ったのです。長い旅の後、その町ナホルに着きました。アブラハムは召使が旅に出る前に、こう言いました。「ナホルについたら町の中にある井戸に行き、そこで出会った娘に水を飲ましてくださいと頼みなさい。叉その娘がらくだにも水を飲ませましょうと言ったら、その娘こそイサクの妻となる女です」と。この娘の両親は親族のアブラハムと彼の神様を賛美して、リベカをイサクのお嫁さんとして送り出したのです。この経緯を何も知らなかったイサクはリベカを彼の妻とWelcomeし、彼女をこよなく愛したのです。 もう一つの話しはヤコブの12人の息子のうちの一人ヨセフ、それはヤコブが最も愛していた息子と言われていましたが、嫉妬心の強かった兄弟から見放されてエジプトに奴隷として売られた話しです。このヨセフは苦労しながらも彼の才能を認められ、ユダヤ人でありながらエジプトの王様の下で大切な大臣になりました。イスラエルで飢饉が起こり、ヤコブの息子たちはエジプトに食物を買いに来たのです。ヨセフは昔兄弟に裏切られたことは水に流して、叉お父さんのヤコブをも含めてエジプトの地にWelcome したのです。 新約聖書には有名な放蕩息子の話もあります。息子の次男がお父さんに、「お父さん私にあなたの財産の半分を今くださいと言って、お父さんがどう思ったか知りませんが、息子はその与えられた半分の財産を持って家を出たのです。しかしその財産を使い果たした後、この息子は今まで友達と思っていた人も一人もいない、乞食のような惨めな生活の後、やっとありつけた仕事はユダヤ人の一番嫌っている豚の世話をする仕事でした。賃金もろくにもらえなかったのでしょう。おなかが空いて豚の食べているもので自分のおなかを満たしたのです。友達はいない。お父さんの所に帰りたい。でも親父は俺の事なんか死んだと思っているに違いない。それでもいい。親父の足元で、自分は馬鹿な男でした、あなたの召使として使ってくださいと懺悔しようと考えながらお父さんの所にかえって行ったのです。 ところが皆さんが知っているように、お父さん、この息子はいつか帰って来てくれると毎日、毎日、首を長くして待ち望んでいたのです。ルカによる福音書の11章20節にこう書いてあります。「彼はそこを立ち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走りよって首を抱き、接吻した。」  英語で言うならまさに、Welcome My Son.  Welcome Home です。ところで、この放蕩息子の話は聖書の中で一番私の好きな話しです。私は神様の愛と私の親父の愛を何時も心の中で強く感じていました。叉自分の娘、息子に対しても、家内のナンシーへの愛情と同じく目に見えない強い絆で結ばれているのです。 イエス様は全ての人を受け入れてくださった方です。5千人の人たちが、Mountain side に集まってイエス様から話を聞きたかった時、5つのパンと2匹の魚でおなかのすいている人たち全てに食事を与えたのです。おなかの空いた人に話してもあまり効果はありません。まさにこれも5千人の人たちにとってwelcome dinnerであったはずです。 ところで、イエス様は、罪人といわれている人たち、徴税人、世間から嫌われていた怪しい女と呼ばれる人たち、病気の人たち、目の見えないもの、歩けないもの、ライ病人をWelcome され、一緒に食事をしたのです。 さて皆さん飛行場、Air Port に行かれた時のこと思い出してください。そこでもWelcome, 歓迎の様子をよく見かけます。飛行機から降りて荷物を取り出すところに行くとハイヤーの運転手さん、あるいは旅行のガイドさんが大きな紙に誰かの名前を書いて待っています。そこで自分の名前を見つけてほっとした人はそこでWelcomeの歓迎を受けるのです。つい最近私の乗っていた飛行機にはイラクに何年も兵隊さんで行っていた人たちでいっぱいでした。その人たちは荷物を受取るその場所で、家族との再会、友達と抱き合って、赤ちゃんを抱き上げてWelcome homeの挨拶を受けました。同じ飛行場で、迎えに来ている人が見つからない、いないとなると悲しくなります。  “Welcome” 「よく無事に帰って来てくれた。嬉しい」 は人と人の 心のふれあいです。そこに喜びと愛が感じられるのです。 牧師として32年の中で、私は何十人ものカップルの結婚式を行ないました。結婚式は二人の人間がお互いに誓う人生の約束です。その内容はどういうものかというと、お互いがお互いを受け入れることです。それは英語で言うなら、 “Welcome into my life for the rest of my life.  Welcome to everything that I am, everything that I have, and all that I will be, those things that we don’t even know that are coming our way.  Despite all these、 I welcome you.”と言うことです。 私はここに来て今や1年半になります。時間の経つのって早いですね。あっという間の一年半でした。この教会に私の前に牧師として働いてくださった高塚先生、田中先生、伊藤先生、元日本で宣教師でした、スティンバーグ先生に今ここにあるこの復活教会の日本語部への働きを感謝すると共に今ここに集う一人ひとりの上にも感謝を捧げます。 私たちがこれからも大切にしたいことは、人と人の付き合い、関係を深めることです。その中で、イエス様からいただいた愛を私たちの態度で示して生きたいのです。前にも言いましたが、聖書の中にはすばらしいWelcome,歓迎の話しが沢山あります。私たちの教会は叉、毎週聖餐式を行ないます。イエス様の体と血をパンとぶどう酒の形で受け取ります。多くのプロテスタントの教会では聖餐式を毎週行なう所は余りありません。勿論、カトリック教会、エピスコパル、聖公会の教会では毎週聖餐式はあります。殆どの教会では、洗礼を受けていない人は聖餐にあずかることができないといわれますが、私はその処をこのように考えるのです。聖餐式のホストは 牧師、神父、法王、祭司ではありません。ホストは神様、イエス様自身です。 イエス様をもっと知りたい、イエス様の人格に触れたい、イエス様の愛を知りたい、イエス様の教えについていける人間になりたいと思われている方全てに私は聖餐を受け取って頂きたいのです。聖餐式はマジックではありません。聖餐に預かることで、わたし達はイエス様を私たちの心の中に受け止めるのです、いや、それ以上に、イエス様はあなたの心をご自身の住家とされるのです。 同じようにイエス様を信じますと宣言することはイエス様が私たちの心に入って来てくださることです。イエス様を着るという表現もありますが、それもイエス様を私たちの心にWelcome することです。私はここの教会がこのWelcomeの精神で神様に喜ばれる所、そして多くの人がイエス様の福音を多くの人に聞いていただく所となるよう祈ります。最後に英語で祝福の言葉を聞いてください。 May God bless you in our continual journey and may God bless us all with welcome and with the desire to truly continue to welcome one another from the heart.  Amen.                   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マタイによる福音書28章16-20 「三つ揃いの神様」  “God in Three-piece Suit” 神と私たちの主イエス・キリストを知ることによって、恵みと平安とが、あなた方に豊かに加わるように。アーメン。 Boston, Massachusettsのカトリック教会の大司教であったCardinal Cushing は、Kennedy 一族の友達で、この人はJohn F. Kennedy 大統領とJacky さんのWedding をあげた人です。このCushing 大司教はマスコミと仲がよく、自分の意見を堂々と新聞や雑誌に出した人です。彼についての逸話という本の中でPaddy  McGuireというアイルランド人のプロ・ボクサーについて書いてあるのを紹介しましょう。 Paddy McGuire は或る日、車にはねられ、病院に運ばれました。そこにCardinal  Cushingさんは駆けつけて死にかけているPaddy McGuireにこう質問したのです。 “Paddy, do you believe in God the Father, God the Son, and God the Holy Spirit?” 日本語で言うと、「パデーさん、あなたは父である神様、子である神様、そして聖霊なる神様を信じますか?」片目を少しあけてPaddy さん、こう答えました。「私が死にそうなと時に大司教はなんていうなぞなぞを私に聞くんでしょう」と。 さて今日は教会の暦で三位一体の日です。三位一体とはどういうことですかと、キリスト教について色々な疑問を持っている人たちからよく質問されます。私たち日本からの者は神様が人というのは天皇陛下が、神道の中で生人(いきびと)と呼ばれているので分かるような気もしますが、神様は父であってわたし達は子であるというと意味は分かるようで、なかなか分かりません。聖霊というという言葉は漢字で見ると聖なる霊ですから, 日本人には成仏した魂と考えられるかもしれません。 神様は私たちを罪から救い出すため、それは私たち全ての人たちが起こした罪をイエス様という神様自身が背負って十字架に架かって死んでくださった。しかし神様自身が、私たちのために死ぬとは、どういうことでしょう? そんなに神様は私たちを大切の者と思ってくださっているのでしょうか? はっきり言って私は自分の子どもが大きな病気にかかって苦しんでいるとしたら、この私が自分の子どもの代わりになって、その苦しみを取り去ってあげたい気持ちは多いにあります。子どものために、死んでもいいという心構えも在ります。しかし、キリスト教の神様は、一人だけでない、特定の人のためだけではない、全ての人の罪のために死んで、私たちを救ってくださっているのです。全ての人のために死ぬということは、私たちを黄泉の世界から守ってくださることです。 今日は父の日でもあります。母の日に比べると父の日は下火ですが、聖書の中で言われているように、わたし達は両親に感謝をしなければなりません。わたし達は両親がいたからこそ、いるからこそ、今ここにいるのです。 一年前の6月12日私は日本からの電話で父が亡くなったことを知りました。家内のナンシーもこの6月2日にお父さんを病気で亡くしたのです。ですから今日、父の日はまだ生傷に塩を振り掛けられた想いです。しかし、私たちのお父さんはあなたと共にいることを信じるとき、心の慰めが与えられるのです。 三位一体の話に戻りましょう。三位一体の聖霊とは何でしょう? クリスチャンにとして、それは人生の中で私を導いてくださる力であり、ガイドなのです。人生の中でどうしていいか分からない、どのような生き方をしたらいいのだろうと考えるとき、神様は聖霊という導きと生きる力を与えてくださるのです。私たちの多くは仏教の影響を受けてきたのは当然です。皆さんが好きな日本の作家に遠藤周作さんというカトリックで、「沈黙」という素晴らしい本を書いた人がいます。この人はキリスト教徒ですが、仏教の教えもよく勉強した人です。私が人生の中で、出会ったクリスチャンの中には、世界の宗教をよく勉強している人が多いのです。それはキリスト教がどの様に他の宗教と違うのかを知りたいという思いがあるからでしょう。しかし驚くほどに、キリスト教の熱心な信者の中には、自分と違う宗教を否定するというより、共に人間として、わたし達は何の宗教の信者でいても、此の世でどの様に貢献することができるのか、それを人間としての課題として考えてみたいと思っている人が沢山いるのです。特に私たち同じ人間と言っても、物がある人とない人の差があまりにも多すぎます。私たち今ここアメリカで暮らしている者は世界のうちのトップ10%の生活水準を保っているのです。しかし世界の50%の人口は何時もおなかのすいている人たちです。わたし達はそのような世界の兄弟、姉妹に手を差し伸べる義務があります。イエス様が下さったものを分け与えることはキリストに従う私たちの義務であり喜びです。 さて皆さんから、岸野先生、今日の説教はずいぶん説教の題から脱線しましたねと言われてもっともですが、時には説教の中で今わたしが心の中で思っていることをブレーキをかけずに語らせてください。というのは私の発言もある時は神様がわたしの心の中に聖霊を注いでくれた結果であるからです。 去年の説教の中で、神様の父と子と聖霊という3つの現れ方は、H2Oが氷という固体、水という液体、蒸気という湿けとして現れますが、どの一つも同じH2O だということだと言いました。神様は創造主である父、神様の子であるイエス様は救い主、そして聖霊は、私たちを導く力なのです。 私の家族は食事の時、このような祈りをします。それは、 “God is great, God is good, so we thank Him for this food.  For by his hand we are fed: Thank you Lord, for our daily bread.  これは本当です。私たちの神様は私たちをこよなく愛してくださっているのです。この神様はOmnipotentというラテン語の言葉、それは, All powerful,  Omniscient それはAll knowing、そしてOmnipresent それはAll present という言葉でも表されるのです。  私たちの神様はこの世界、いやそれ以上にこの宇宙を司どる神様です。この宇宙の存在のはじめからいらした神様は砂粒のような私たち一人ひとりを知っています。どんなに小さい私たちであってもわたし達は、神様の愛からはずれることは在りません。私たち一人ひとりは神様の宝物なのです。その宝物であるわたし達は決して神様より見放しされません。叉この神様は私たちのところに赤ちゃんとして来てくださったのです。神様であり、人であるのです。お母さんのマリアさんとお父さんのヨセフさんいに、しっかり抱かれて、キスをされて育ったのです。人間の心をよくつかんで生きてきたのです。一緒に笑い、一緒に泣き、一緒に祝い、一緒に人生の全てを経験したイエス様です。 このイエス様に此の世に生まれたわたし達すべては、愛されてきたのです。愛されているのです。これからもずっと、ずっと愛し続けてくださいます。  このイエス様がいるからこそ、わたし達の人生に失望はありません。私たちの人生はイエス様に愛されたという喜びと希望で満ちているのです。私たちの罪も赦されているのです。わたし達はこのイエス様を信じることで、人生を思い切って生きる、楽しむ、一緒に励まし合い、一緒に助け合うことができるのです。 わたし達は幸福です。教会に来て神様の言葉を聞くことができる、一緒に聖餐に預かることもできる。生きる喜びも、何時か神様のみ許に帰る時も神様ありがとうと言える素直な心が、育つようにこの日を感謝して神様を賛美しましょう。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 「聖霊に満ちた人生」  “Life filled with the Holy Spirit” 私たちの父である神と主イエス・キリストから恵みと平和が、あなた方にあるように。アーメン 皆さんのうちに色々な特技を持っている人がいます。短歌の上手な人、お花、お茶、料理、習字、着物の着付けの専門家もいます。私の特技は水の中にもぐり3分間、息を止めることです。小学校の時から夏の体育のクラスは水泳でしたが、25メーターのプールの底を潜水してゆっくり泳いでいると、そこで生きているのか、溺れているのか心配された先生に何時も叱られました。家内のナンシーも今でもプールの底でじっとしている私を見つけると, “Are you alive or dead.  Stop doing this stupid act” と怒鳴られます。勿論自分で限度は知ってますから一度も気を失ったことはありません。 わたし達は何時も息をしている、空気の中にある酸素を肺に入れることができるから生きていけるのです。赤ちゃんが生まれて最初にすることは自分で息をすることです。お母さんに臍の緒で結ばれていた時は息はしていなかった、しかし生まれてはじめてこれから生きるために息をする。泣くことによってそれが始まり、人生の終わりまでひと時も休むことなく、続くのです。息をするという大切さを考えてみたいのですが、まず今日は聖霊降臨祭、英語ではPentecost と呼ばれる日のことをお話ししましょう。イエス様が十字架に架かってなくなった Good Friday から3日経ってイエス様は復活されました。復活されたイエス様は弟子たちと、またイエス様を慕う人たちと40日間一緒にいたのですが、天に戻り、復活後50日目に神様の聖霊としてイエス様の弟子、イエス様は神様から送られた救い主と信じて集まっていた人たちの上に留まったのです。 その聖霊の現れ方は今日の使徒言行録と福音書の中でとても違う形で来たのです。使徒言行録の記事によると聖霊はイエス様と集まっていた大勢の人たちに激しい風が吹いてくるようなような音、そして炎のような舌が一人ひとりの上にとどまったと書いてあります。その一方、12弟子たちが始めに聖霊を受けたのは、甦ったイエス様がドアの鍵を閉めて不安におののいていた弟子たちの所にすっと入って来て、釘のあとがある手とわき腹を見せた時です。彼らに息を吹きかけて言われたのです。「聖霊を受けなさい」と。 私が新しい教会伝道を始めたテキサス州の南ダラスには聖霊派の教会がたくさんありました。それは英語でPentecostal Church と言われています。 これらの教会は,はじめから終わりまで、礼拝の中で座っているというよりも、立っている、そして両手を高く上げて神様を賛美する、またそこでは、言葉にならない口から出る異言が話されています。そして異言を語りながら礼拝堂の中でまさに踊りだすような人たちもいます。どうしてこのような形で礼拝が行なわれるのかと聞いたところ、それは聖霊が一人ひとりに降りてきたからだといわれました。そこの教会の人たちは、毎週、毎週、聖霊によって踊りだす、異言を語る、それこそが本当の礼拝の形だと言うのです。私はそれがよくないといっているのではありません。教会によって礼拝の仕方は違います。しかし私たちの多くは聖霊を心の中で何か私たちを動かすものと感じる、そこでまた、涙、それも、悲しい涙ではなく、神様、ありがとうという形での涙で現れるのではないでしょうか。 皆さんから岸野先生、あなたは涙もろい人ですねといわれますが、これは聖霊によって私の心が動かされる時に起こるのです。神様の聖霊に触れる時、私は心が和らぎ、涙が出てしまうのです。ですから「先生、皆さんの前で泣かないように」といわれてもそれが守られないのです。 先に聖霊は息という形として現れるといいましたが、息と言う言葉は聖書の中で何回も見い出されます。聖書の一番最初の創世記の2章に神様は土それはヘブル語でアダマによってアダムを形作り、その鼻に息を吹き入れられたと書いてあります。へブル語で息は「ルアーハ」と発音されます。この言葉を皆さん口に出して言ってみてください。「ルアーハ」です。この言葉自身が何かを投げ込むような感じの言葉ではないでしょうか?息は前にも言ったようになくてはならないものでそれはSpirit,聖霊とも訳されるのですから聖書の中で人間とは聖霊を与えられる者と考えてもいいでしょう。 さて、今日の旧約聖書の日課、エゼキエル書37章は有名な枯れた骨の復活の話しです。預言者エゼキエルは、主の霊によって連れ出され、ある谷間の真ん中に降ろされ、そこに骨をいっぱい見出したのです。。主はエゼキエルに言いました。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。私はお前たちの中に霊を吹き込む」。するとお前たちは生き返る。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。この話の中でも、霊と息とが一つになって神様からいただいく命となるのです。 Elton John という有名なイギリス人の歌手を知っていますか?この人はプリンセス。ダイアナのお葬式の時ソロで歌った人ですが、彼は幾つもの素晴らしい歌を自分で作曲し、歌っています。その中に私の大好きな歌、 “Something about the way you look tonight” の歌詞を紹介しましょう。 “I need to tell you how you light up every second on the day.  But in the moon light you just shine like a beacon on the bay.  And I can’t explain, but it’s something about the way you look tonight takes my breath away.”  “Take my breath away” とは日本語でどう訳せるでしょうか? 何か素晴らしい経験をした時、それは富士山の頂上に朝の4時半たどり着いて日の出のご来光を経験した時、自分の子どもが生まれてはじめてその子を腕の中に抱いた時、ボケが進んだお母さんが、私の顔をじっと見つめて、「あんたに会ったことあるよね。でも誰だったけ?ゆうちゃんみたいな顔してるけれど」 それを聞いて嬉しさに泣き出したこともありました。なんと素晴らしいことでしょう。生きていて良かった。神様ありがとうといえる心の感動こそTake my breath away ではないでしょうか?   死んだと思っていたイエス様がイエス様を慕ってきた人たちに現れた、そして私と何時も一緒にいてくださると約束してくださった。叉、決して私たちを見放しませんと約束してくださった。その神様は今ここにいるのです。 ここで今一緒に礼拝をしている皆さん、それは私も含めて、イエス様と呼ばれる神様にしたがって生きることを約束された人たち。まだ全てのことがわかりませんが、私たちを愛してくださる神様のことが少しでもわかるようになりたい。わたしの心の中でイエス様の愛を育てたい。人生もっと他人を大切にして生きてゆけるようにと願っている人たち。それが私たちです。 十字架で死んだイエス様は3日後に甦り、天に昇り、このペンテコステといわれる日に人々に現れました。その後もイエス様は私たちのところに来てくださっているのです。私たちの祈りの中にイエス様はいらっしゃいます。私はこの復活教会にイエス様の聖霊が注がれていると信じます。勿論わたし達は完璧ではありませんが、一人の人が病気の時、気落ちしている時、家族、または友達の中で人間関係に悩む時、どうか心を謙遜にして祈ってください。そこで聖書の中で言われているFruits of Spirit,それは、Love 愛、 Joy 喜び、 Peace 平安、Patience 忍耐、 Kindness 親切さ、 Goodness 善良さ、 Faithfulness 誠実さ、 Gentleness 優しさ、 そして Self-control  自制を私たちの生活の中で実行していけるようイエス様に祈りましょう。 私はこの教会に招聘される前に教会の役員の人に聞かれました。あなたのこの教会でのゴールは何でしょうか?と。それについて私はこう答えました。「この教会が一人ひとりを大切にする所になるよう神様に導かれた教会になることです。」 私たちが他人との関係を神様の霊を持って築く時私たちの救い主、イエス様は神の国を今ここで実現させてくださるのです。アーメン。   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet ヨハネによる福音書14章1-14節 「家」  ” Home “  イエス様はユダによって裏切られた後、他の弟子たちにこれから起こる出来事、それは十字架にかかる道の経過を話されました。それを聞いて弟子たちの心が騒いだのは当然です。ですから今日の福音書はイエス様の「心を騒がせるな」という言葉で始まります。そして続けて言いました。「私の父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなた方のために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなた方をわたしのもとに迎える。こうして、あなた方をわたしのもとに迎える。  この聖書の言葉は皆さんの多くの方は、お葬式の聖書の朗読の中で何回か聴いたことが在ると思います。私もこの聖書のテキストを使って過去多くの故人を偲び、その人たちを神様の所に送り返したのです。天国でわたし達は神様と顔と顔を合わして見ることができるのです。しかし天国が一体どこにあるのかという疑問より、神様の御許に私たちがいつか送られると考えられる時、知る時、私たちの心も落ち着くのではないでしょうか?   イエス様が「私の父の家には住む所がたくさんある」と言われた時、それはただ単にたくさんの家があるというよりも、そこにイエス・キリストを主と信じた信仰者がキリストの家族として住むことのできる所があるということです。家もHouse も建物です。しかし私たちの行く先の天国は召された人々が神様と顔を合わせて暮らしていける神様から約束されている次の世界です。天の国、神様がいつか私たちを呼んでくださる神様のHome です。でも本当にそうなんですか?岸野先生とか他の牧師さんたちはどうしてそういうことがはっきり言えるのですか?とある人たちから言われるかもしれない。しかし私がよく口に出す言葉、それは「信仰とは理屈ではないんです、信仰とは神様の言葉をそのまま素直に受け取ることです。」  少し脱線しますが、人間には、考えることのできる理性があります。それは神様からいただいたギフトです。デカルトという哲学者はこう言いました。“I think, therefore, I am” 「我 考える、そこに私の存在がある。」私は人間の心の奥底からの疑問に対しての追求を否定するわけではありません。どうして神様はこの地球に生き物、特に人間を作られたのか考える時がありますが、その一方私は神様は私たち一人ひとりを愛されている、全ての世界中の人間も神様の愛の対象であると確認しています。其れがクリスチャンであっても、イエス様を知らない人であっても同じです。クリスチャンは「イエス様に私たちの全ての存在をあなたに任せます。私を何時もあなたの愛と慈しみによって導いてください」と宣言する信仰の群れなのです。   私がまだテキサスにいた時、私の教会はHabitat for Humanity という奉仕の団体に入って家を持っていない家族にシンプルな家を無償で建ててあげました。この運動で知られているのは元のカーター大統領ですが、国境を越えてこの素晴らしい博愛の運動は世界中で広まっています。この建てられた家の持ち主となる家族の大人は家が彼らに与えられる前、しばらくの間自分たちの労働を提供しなければならないという決まりもあります。これは英語でSweat Equity といいます。ただ単に家をもらうのではなく、家を造っている人と共に働くのです。汗を流していっしょに労働するのです。Volunteer で働く人の中には学校の先生、会社の社長さん、学生、主婦のおばさんもいました。食事も作ってくれる人もいます。そんな仲間として二週間一緒に働く中で、お互いがお互いを知り合う、お互いがお互いを助け合う、お互いがお互いを尊重しあう心が生まれます。そこに生活の共同体が生まれるのです。Habitat for Humanityの一番の目的は他人を知ることにより自分を知ることです。わたし達は仕えられる人になるのでなく、仕える人になるのです。それが共同体の社会です。私たちの教会もそう言うものにならなければなりません。教会は家という建物ではなく、一人ひとりが神様から赦された、愛された、助け合いのできるHomeです。 映画、またMusical で有名なWizard of Oz をご存知の方ここにいると思います。この主人公はDorothy という女の子です。彼女は 映画の中で言っています。 “When I think of home, I think of a place where there’s love overflowing.” 「私が家を思う時、そこは愛があふれ出てくる所を思うの」と。     先週祈りの中で、病院に入って12日目になる家内ナンシーのお父さんを覚えました。始めは脳卒中と言われていましたが、精密検査の結果今肺と肝臓にステージ4の癌があることがわかりました。2週間前まで教会でパイプオルガンを弾いていたのですが、急に立つ事もできない状態になったのです。キモ・セラピーをはじめましたが、其れが効くかどうか分かりません。しかしそれをしなければあと2ヶ月しか生きられない、キモ・セラピーをやれば4ヶ月から一年間まだ生きられるかもしれないとお医者さんに言われたのです。ナンシーは上から2番目の7人兄弟・姉妹です。この7人が一人一人お父さんと病院での付き添いに交代で来ています。気落ちしているお母さんも同じ心の安らぎを家族で共にいることの中に求めているのです。お父さん元気になってね。お父さんと一緒に好きな讃美歌歌おうね。早く家に帰れるようにご飯もちゃんと食べてね。今年のクリスマスには家族26人みんな集まりましょうねと言っているのですが。同じように私の母は3年ほど前からルーテル教会の老人ホームに住んでいます。母はホームの皆さんから面倒を見ていただいて、叉教会の牧師さん、婦人会の友達、叉ここの教会員だった小山めぐみさんも時々奉仕で、この老人ホームに来てくださっているのです。復活 ルーテル教会でこれから「何でもお世話ネット」 の事をもっと聞くことになるでしょう。自分の住みなれたところで老後をどうしても暮らして生きたいと願っている人たちが沢山います。しかし私たちが願うことは、家族、友達と人生の最後まで付き合いたい。付き合いたいとは、お互いを大切にしながら生きて行きたいと言うことです。 私たちの多くは長く両親から離れてこの国で暮らしてきた人が沢山います。日本の親、兄弟、姉妹ともっと会う機会があったらなと思うことは当然です。しかし90%の今ここにいる私達はアメリカが私たちの国です。私たちのHomeです。趣味のサークル、学校の仲間の付き合い、そしてここ教会の中で、嬉しい時も、悲しい時も、お互いが、お互いに、愛し、愛し合う教会として、神様の愛が私たちの心を満たしてくださる教会、Home として、イエス様がわたしたちの人生の道を整えてくださると信じ生きて行ける私たちでありたいのです。アーメン。                       Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace