Archive for the ‘牧師説教’ Category

Tweet ヨヘネ6: 1-21 主イエスキリストの恵みと平安が、メッセージを聞く人々の心の中に豊かに与えられますように! ごはんを食べる前に、祈る方は多いと思う。祈るだけではなく、祈った後「いただきます。」という方どのくらいおられるだろうか? あるいは祈りの中に「いただきます。」という言葉が入っている方も多いのではないかと想像する。   日本人は、なぜ「いただきます」というようになったのだろうか? 最近、流行している映画で「和食ドリーム」の中では「日本の場合は、森羅万象(しんらばんしょう)のものすべてに神が宿っているという発想なんですね」というくだりがある。 たとえば、日本人は桜が満開の時に花見を楽しむが、その「さくら」という言葉の本来意味するところは、すべての花に神が宿っている、そういう意味があるということは、かつてある小学校の校長先生から学んだ。 また、どんな食べ物の中にも、神がやどっている。 それを料理して食べるということに、たいへんな畏敬の念をはらい、そして、感謝して料理し、食べるという考えが元々はあったのだと思う。 さて、本日の福音書、5000人の給食の話。先週与えられていた福音書では、弟子たちを休ませる計画で、ガリラヤ湖を船で渡って人里はなれたところまできた。 すると、まるで羊飼いのいない羊たちのような人々が5000人も、先回りしてそこにいた。 休みを返上して、イエスは、その5000人にを食べさせることにする。 弟子のフィリポには、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買ってきたら良いか?」と質問する。 ちょっと意地悪な質問にも思えてしまう、というのはパンを買いに行くとしたって、人里はなれたところに来てしまっているから。  実は、この質問に対する答えは、買いに行かなくたって、イエス自身が実はパンなのだということを、暗示していたのかと思う。 今日の福音書ではなく、来週の福音書箇所になるが「私は命のパン」と述べる箇所が出てくる。 フィリポは「イエス自身がパンである」などとは思いにも及ばないので、質問に対して、「そんなことはとても無理です。とんでもなくお金がかかります。」ということを述べている。 さらに、アンデレは「ここに5個のパンと、二匹の魚を持っている少年がいますが、とてもこれだけでは間に合わないでしょうね。」と述べる。  ここで、イエスは弟子たちに、落ち着けといわんばかりに、「人々を座らせなさい。」と言う。そして、パンをとりあげて、神に感謝の祈りを唱える。 そしてパンを座っている人々に分け与えた。 さらに、魚も同じように、分け与えた。 すると人々は満腹し、さらに、残ったパンくずを集めたら、12のかご一杯になったという。 たいへんなことが起こったわけだが、ある牧師は、イエスの行なった最大の奇跡なんだということを、述べておられた。 またある牧師は、この聖書箇所の説教では、実は奇跡なんかではなく、人々もともとは、ポケットの中に、すこしずつだったが、パンを持っていたのだ。 それをみんなが出し合って、食べあったら、おなか一杯になった。そんな説明をしてくれた牧師もいる。 私は、それぞれに、意味のある説教だったし、どちらが正解で、どちらかが正しくない、などと批判するつもりは毛頭ない。 それは聖霊が語りかけるなかで、牧師は話をしているから、批判するなんていうことは、ある意味、聖霊の働きを冒涜することになってしまう。 イエスは、どんな罪でも赦されるが、聖霊を冒涜することだけは赦されない、と言われている箇所がある。  今日の聖書箇所を通じて、今日はあらたに、イエスは、わたしたちに新しいことを、教えられているように思う。 それは、奇跡とか奇跡ではないということを、イエスは問題にしておらず、この事実をただ、2000年前の過去の事とはせず、私たちの現代の日常に、密接に関係したことで、イエスは大切なことを、私たちに教えてくださっていると思う。 冒頭に話した、「いただきます。」という言葉、よくよく考えてみると、私たちの食べ物、実はみなかつて生きていたもの。 肉、魚、卵、パン、ご飯、野菜、等など。 パンで首をかしげる方もいるかもしれないが、もともとは小麦で、生きた植物、その穂をあつめて、脱穀粉砕して小麦粉にしている。それにイースト菌がまざりパンになる。 それは、神からいただいた命、神の命が、実はすべての食材にやどっているのだと思う。だから、食事をいただくときに、イエスが、5000人の給食の際に、感謝の祈りをとなえたように、感謝の心を神に捧げることの大切さがある。  そして、イエスは今日の箇所で、「わけあたえる。」ということをされている。 これは、私たちが、食事をする中で、神の命を分かち会うことの大切さを述べている。 もちろん一人暮らしで、一人で食事をすることが多いという方もいて、「普段、わたしはわかちあって食べていない。」と言う方もいるのはわかる。 しかし、店で買ってきた、食材は、実は、同じ食材が、分けられて店にならんでいる。 だから、一人暮らしをしていても、食べているのは、だれかと分け合って、自分の食卓の前に並んでいるもの。 だから分ち合っていると考えることもできる。 さて、本日のメッセージ、ポイントは二つ。いただきます、というときに、神が与えてくださった命を感謝していただくということ、さらに、その命を私たち人類は、わかちあっていただきます。なにを食べるにしても、この2点、感謝し、わかちあって、いただきます。 そういう心をもって、食事をいただこう。 アーメン 牧師:安達均 The Heart of “Itadakimasu” John 6:1-21 May the Grace and Peace of Jesus Christ, our Lord and Savior be with you all! Most Japanese people say “Itadakimasu” before they eat. What does it mean? Why did Japanese culture start saying “Itadakimasu” before you eat. Literally, it means, “Let’s eat” but I think it has much more deeper meanings. Several months ago, a movie called “Washoku Dream” which means “Japanese Food Dream” was released. Although I saw only the preview so far, it says, “In Japan, there is a way of thinking that in everything, God is dwelling in the whole of creation.” The cherry blossom is called Sakura in Japanese, which originally meant, God is dwelling in every part of small flowers. Whatever you cook, in every ingredient there used to be or is still life that God created. In every ingredient, Japanese culture considers God is dwelling within it. When people cook and when we eat, Japanese ought to say thank you, oh Lord. Let’s dive into today’s Gospel story. It is the famous story “Feeding the Five Thousand.” According to the Gospel text last week, Jesus wanted the disciples be at a remote place and rest a while. Actually, they crossed the Galilee and came to a place far from town. However, the crowd followed along the lakeshore and came to the place even before the disciples arrived. They were like sheep…

Tweet マルコ 6:30-34, 53-56 主イエスキリストの恵みと平安が、人々の心の中に豊かに与えられますように! バケーションとは、vacate 、「空ける」という意味の動詞が、名詞になったもの。 つまり、家の用事をすっかりやめて、自分たちは家から出て空にして、離れたところに行って、休息するということだと思う。 みなさん、バケーションをしっかりとっておられるだろうか?  家を空けてどこかに行くというと、交通費やホテルなどお金もかかるし、そんなことは私や、私の家族はできない、と思う方もいると思う。 ただ家を空けるなら、テントを持って出て、近くでキャンプという手もあるかもしれない。 私の父はそれが好きだったが、母には不評で、結局料理を作ったりしなければならず、母への負担は大きく休息にならないということだった。 昨年の修養会の講師として来ていただいたキム牧師が日刊サンに載せておられる三味一体の記事の一部を紹介したい。キム牧師夫妻は、思いっきって、4歳のお嬢さんと1歳の双子のボーイズをつれ、家族5人で、家を空け、数週間の日本行きバケーションを5月に強行された。 それは、子供たちを幼稚園や保育園にあずけて、仕事をしている親にとって、その預ける時間無しに、子供たちの世話をし続けるわけで、かえってたいへんな日々だったようだ。 そして、よく考えると、幼稚園や保育園には、月謝を払っているのに、3人がやってこないで済む、幼稚園や保育園への先生たちへのちょっとしたバケーションであったと振り返る。(笑)バケーションで休息するつもりが、休息にはならなかったということはよくおきる事のように思う。  今日の福音書は、派遣した弟子たちが帰ってきて、たくさんの人々のために悪霊を追い出し、癒すことができた弟子たちを、イエスがねぎらう場面からはじまっている。疲れている弟子たちにイエスは「人里はなれたところで、しばらく休むが良い」と言われている。  イエスは、弟子たちにもうしばらくいろいろな家の人たちのところに入って行くのはやめて、バケーションをとりなさいということを勧めている。 そして、弟子たちは、船に乗ってガリラヤ湖の別の湖岸の本当に人里離れたところにいく。 ところが、群集が押し寄せてきてしまう。 大勢の人々が、先回りしていた。 そして休息どころではなくなってしまう。  福音書拝読では、35節から52節までを飛ばしているので、間になにが書いてあるか、簡単に述べたい。要は、5切れのパンと2匹のさかなを、奇跡的に、5000人以上もの人々にイエスと弟子たちが分け与えるという大仕事をした。その後は、こんどこそ休息の方向に向かえるかと思うが、その途中で、イエスと離れ離れになる弟子たちは船の上で怖がる。そこにはイエスが湖の上を歩くという奇跡が描写されている。 その後は、また、伝道と病を癒すための活動がひっきりなしに続く様子が、さきほど読んだ聖書の後半の内容だ。このように見てくると、いったい弟子たちの休息はどこにいってしまったのかと思う。イエスが人里離れたところに行って、しばらく休め、と言われ、たしかに、弟子たちは人里離れたところまでは移動した。 しかし、しばらく休めという、そのしばらくという意味はどういうことだったのだろうか?  病気にある人々を奇跡的に癒すことができるイエスとその弟子たちのことを知った大勢の群集が押し寄せてくることは、イエスもわかっていたのではないだろうか。  イエスは、たとえそういうことになるとわかっていても、弟子たちをねぎらうことの大切さをわかっていたように思う。 あわせて、精神的にも肉体的にも疲労困憊にある、さらに集まった群集への配慮も続けなければならないことは、重々、承知で、イエスと弟子たちで行なう奇跡はさらに続いたのだろう。  さて、今日の福音書から、父なる神と主イエスキリストから、現代に生きる私たちに語られていることはなんなのだろうか? 日本人が大好きな聖句ナンバーワンとも言われている、マタイ11章28節には「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という言葉があるが、それと似たことをイエス様は今日の聖書箇所でも言ってくださっているのだと思う。 今に生きる現代人、なんの仕事をしていようが、仕事をしていなくても、現代に生きる人で疲れていない人はいないのだと思う。 しかし、どんな忙しさ、疲れがあろうが、一時、仕事を休めて、泊りがけではなくても、家を空にして、教会にやってくることにどれだけ安らぎをえられるか、気付いているか気付いていないかに関係なく、主のなぐさめ癒しが与えられている。  私は、神学校時代に、キャンパスミニストリーをしつつ、日曜には教会の礼拝で説教もしていた多忙な牧師から、はっと、学ばされたことがある。 彼女は、平日多忙な上に、日曜の説教準備、そして実際に説教で御言葉を語り、礼拝のためのその他の準備も、たくさんのことしていた。しかし、礼拝中も多忙そうに思える彼女でも、礼拝中はくつろげるということを言っていた。 それは、主なるイエスが慰めてくださるから。礼拝中は、日頃のわずらいごと、悩みなどから、自分の心を解放し、心を空にして、ただ、神の聖霊が入ってくるのを待つ。そして、礼拝中に心が聖霊でみたされることがおこる。そこに、最高の休み、Vacationがおこるのだと思う。  そして、今、その主が与えてくださるVacationの最中に、たとえ自分ではそんなに神に認めてもらえるような人間だとは思わず罪の告白をする自分たちに、主イエスから先週はよく仕えてくれた。そして、よく日曜にもどってきてくれた。いま、私はあなたをなぐさめる。 そして、しばらく休みなさい。と言ってくださっているイエスの声が聞こえていないだろうか。  アーメン  安達均 “Come Away and Rest a While” Mark 6:30-34, 53-56 May the Grace and Peace of Jesus Christ be poured into the hearts of the people in this sanctuary! I heard that the root word of the word, “VACATION.” is the verb, “VACATE” meaning to leave a place or position. In other words, stop your daily routine, including your job and vacate your home, and stay somewhere else, hence the vacation. Are you really taking a vacation while on vacation, though? Some people say that they cannot afford a vacation because if they leave their home and go somewhere, transportation and hotel stays are too costly. Some other people may say just do something less costly like going to a campsite, near your home, with a tent and supplies and go camping. Some really thrifty people say, if no campsites are nearby, you can camp in your backyard. When I was growing up, my father actually liked going camping. However, my mother did not enjoy it since, in addition to taking care of the household, she had to prepare all the meals and organize everything for the trip. For her, it was several days of more work and little or no rest. Pastor Kim (speaker at last year’s retreat) and his wife decided to take a few weeks of vacation in May. They truly vacated their home and went to Japan with their four year…

Tweet マルコ5:21-43 主イエスの恵みと平安が豊かに与えられるように!  6月3日から8日まで、結婚30年ということもあり、妻と私は休暇をいただきボストンを旅行した。 休暇といっても、やはり日曜朝どこで礼拝を捧げるか、教会を探した。 4日の木曜の朝、場所を確認するため最初の候補だったハーバード大学近くにある、University Lutheran Churchに出向いた。  すると今年第二次世界大戦終了から70年にあたり、世界ではじめて原爆投下となってしまった日本時間8月6日午前8時16分、東海岸時間で8月5日午後7時15分に向けて、5月28日から、毎晩7時から7時15分まで、70日間の祈り会が持たれているという張り紙を見つけた。 広島の原爆というと、いろいろなことを思い浮かべる。 私は、今日ここで、原爆が良かったとか悪かったとかを話すつもりは毛頭ない。 ただ、2歳で被爆して、12歳で白血病で亡くなった佐々木貞子さんの話をしたい。 彼女はそれまで育ててくれた両親、家族、友人たちとの別れが来ることはわかっていた。しかし、語り継がれた話を信じて、希望を決して捨てなかった。折り紙で千羽鶴を折れば、翼が与えられ、飛ぶことができ、永遠の命が与えられると。   本日与えられた福音書では、メッセンジャーから会堂長とイエス、そして弟子たちに、12歳の娘がもう亡くなったというニュースが届く。 もう亡くなったのだから、イエスにわざわざ来てもらうことは無いとまで言われてしまう。  しかし、イエスと会堂長、イエスの弟子たちは、急いで、会堂長の家に出向く。 そして、イエスは会堂長に、「恐れることはない、信仰を持ちなさい。」 と語っていた。  ここで、イエスの言う「信仰」とは何だろか。 先ほど読んだ福音書の中で、出血の止まらない女性が、この人に触れば救われると思い、必死でイエスに触ろうとする様子が描写されていた。そこに、真の信仰が著されていたように思う。  イエスは、「あなたの信仰があなたを救った」と言われる。 信仰とは、あきらめや不安を乗り越えて、絶対なる神に信頼を置く事と言える。 信仰は信じることだが、信じるという頭の中の働きだけではなく、信仰の結果として行動に顕われると思う。  そして、イエスは、娘が亡くなり、近隣の者たちが泣き騒いでいるなか、娘の両親と3人の弟子だけを連れて、娘のいるところに入っていく。 神から絶大な信頼を受けたイエスが、「タリタ クミ」、「少女よ立ち上がりなさい」というと、確かに12歳の少女は立ち上がって歩き出す。 それはイエスだけが奇跡を起こしたわけではなく、父親、母親、さらには3人の弟子たちの信仰もあって、奇跡が起こった。  くしくも同じ12歳だった佐々木貞子、私が調べた限り、彼女がクリスチャンになっただとか、キリスト教の神を信じたという記録は何もない。 しかし、私には、彼女の思い、祈り、彼女の信仰は、絶対なる神、この世の救い主、イエスに届いていたと思う。  そして、神はそれに答え、「タリタクミ」という言葉をなげかけ、折鶴を折り、祈り続けた彼女は世界中を羽ばたいているように思えてならない。 佐々木貞子は、世界中の人々の心に、生きているのだと思う。 西海岸だけでも、少なくともシアトルとサンタバーバラに佐々木貞子の碑が立てられている。 さて、今、あまりにも、多くの戦いが起こっている現実がある。 国家レベルの戦争もあれば、テロリストとの戦い、また、先週は本当に言葉に言い表しようのない教会での銃撃事件が起こってしまった。 繰り返し起こる銃撃事件、繰り返されるテロ、繰り返される戦争を現実に見る中で、私たちは、主イエスから「立ち上がりなさい」と呼びかけられていることを感じる。 私たちは、あきらめることなく、不安を乗り越えて、主なる神、主イエスキリストに絶対的な信頼を置き、祈り願う。 真の信仰が求められているのではないだろうか。   University Lutheran Church での70日間の祈りの行動に感化され、カール牧師と教会のスタッフで、”40 Days of Peace”という小冊子を用意した。今年の終戦記念日を迎える前、40日間、さまざまな困難にある社会また、世界平和に向け、祈り考えていきたい。 7月7日にはじめれば終戦記念日の8月15日に終了する。  8月16日の日曜日の平和主日礼拝では、主イエスから平和を実現する人々となるように呼びかけられていることを覚え、礼拝の時を持ちたい。  祈りをもって、今日のメッセージを終了したい。 慈しみ深い神よ。 さまざまな問題をかかえる社会状況のなかで、主に祈ります。 どうか、ひたむきな信仰を持つことができますよに!  アーメン 安達均 “Talitha Koum, Little Girl, Get Up!” Mark 5:35-42 May the Lord’s Grace and Peace be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary! In early June, Satoko and I took a vacation to Boston for our 30th anniversary. Even though we were on vacation, we still looked for a place to worship on Sunday June 7th. At first, we chose University Lutheran Church near Harvard University. On Thursday morning, my wife and I were walking there to verify its location. While walking, we found a poster saying that they pray for peace every night from May 28th through August 5th between 7:00 p.m. and 7:16 p.m. Since this year is the 70th anniversary of the end of World War II, they decided to pray for 70 days from May 28th until 7:16 p.m. Eastern time on August 5th which is the time when the first Atomic Bomb was dropped on Hiroshima at 8:15 a.m. (Japan time) on August 6th. If we think about that incident, various images will come to mind, but I want to make sure that this message doesn’t discuss whether it was right or wrong. Instead, I want to focus on a girl who, at 2 years old, experienced the radioactive effects of the bomb because she was 1 mile away from the ground zero. Because of her exposure,…

Tweet マルコ4:35-41 主イエスの恵みと平安が、ここに集まった会衆の上に、さまざまな理由で礼拝に来られずにいる人々の上にも豊かに注がれますように! イエス様の目から見れば、このように行動したら良いということはわかるけど、回りの人々の目が気になり、とてもそんなことはできない、と思うことがあるだろうか。  たとえば、この人を教会に誘ったら、こんな人は誘わないで欲しいと言われてしまうのではないかとか。しかし、そういうことは決してあってはない。   さきほど読んだ福音書の内容に入っていくが、どのように聞かれただろうか? イエスさまはすばらしい、どんな怖いことがあっても、だいじょうぶ。イエス様が波を沈めてくださる。台風が来ようが、火山爆発があろうが、地震が来ようがだいじょうぶ、イエス様がなんとかしてくださる。ということなのだろうか。 実は、今日与えられていた聖書箇所は、サウスカロライナ州チャールストンで起こってしまった銃撃事件と多いに関係があるのだと思う。  今日の福音書は、与えられた聖書箇所のイエスの言葉とともに、福音書記者マルコが意図したことや、弟子たちの気持ちも想像してみる必要を感じる。それは、今日の聖書箇所の前後にどんなことが書いてあるかにも気を配って、今日の箇所を考えると良いのだと思う。 今日読んでいるマルコ4章35節以前は、種蒔きをする人のたとえ、灯火や秤のたとえ、からし種とたとえといった、すべてたとえ話で来ていることに注意したい。 一連のイエスのたとえは終わり、イエスが「むこう岸に渡ろう。」と、イエスが語られる言葉ではじまっている。さて向こう岸とはどこだろうか?  それは5章のはじめを読むとわかるのだが、向こう岸でも、さらに内陸に入っていったゲラサ人が住む地域をイエスは目指していた。それは、ユダヤ人ではなく、異邦人の地域。 弟子たちにとっては、文化も違うし、考え方も違っていて、いわば外国だった。 弟子たちにとっては、「なんで、そんなところに行くのですか、イエスよ?」 という気持ちがあってもおかしくない。 弟子たちは、キリストの世界宣教などまだわかっておらず、ユダヤ人のわたしたちだけで、楽しく過ごして、ユダヤ人たちだけが、病気が癒されたり、おなかがすいたときには、おなか一杯食べてれば良いのだ、なんて思っていたのではないだろうか。だからイエスから異邦人の地に行こうという指示に、弟子たちの心は穏やかではなかったのだと思う。  このように読んでいくと、このガリラヤ湖が大荒れで、激しい突風がおこって、船が水浸しになってしまう光景は、いわば、弟子たちの心を表す、たとえのようにも思えてくる。 イエスは、「黙れ、静まれ」と風に向かって叱られる。その様子は、弟子たちが、「私たちのよく知らない異邦人の町なんかにいくのはやめましょうよ」と言いたくなるような、おだやかでない弟子たちの心境に対して、自分よがりの文化に、叱っているのではないだろうか。 そして、今日の福音書箇所の最後のイエスの言葉は、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と言われている。 これから文化や方言も異なり、また悪霊にとりつかれてしまっている人々に解放をもたらする異邦人伝道に対し、イエスは弟子たちに私を信じて、勇気を持ってついてきて、いっしょに宣教の業に励むように導いているのではないだろうか。 今日の福音書箇所は、チャールストンでの銃撃事件で、大きな動揺を覚えるアメリカ福音ルーテル教会の牧師や信徒たち、またどこの宗派であろうが、バイブルスタディの真っ最中であのような事件がおこって心境おだやかではないキリスト者の心境を、嵐にたとえて語っているように思えてくる。 事件のおこったマザーエマニュエル教会でアフリカ系アメリカ人の方々9人が亡くなったが、二人の牧師は、サウスカロライナ、コロンビアにあるルーテル神学大学で学んだ方たちだった。さらに残念に思うのは、銃撃犯の21歳のデュランルーフは、アメリカ福音ルーテル教会のヨーロッパ系アメリカ人の会員だった。 イエスキリストの伝道ということを考える時、いろいろ悩むことがある私たちである。キリストの教えはすばらしいのだが、キリスト教といえども宗教であり、社会では、「宗教は友達を失くすのよ。」なんていわれたりしてしまう。伝道することが恐ろしくなってしまう私たちの存在がある。 そのような社会に、イエスは「黙れ、静まれ」と言ってくださる。そして異なる文化、考え方の方々の中に入っていき、対話するように導いているのだはないだろうか。 あのような事件が起こる現代の世の中にあって、そこに躊躇がある私たちに、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」という言葉を、新たに投げかけてくださり、私たちは、祈り、常に隣につきそってくださっている主イエスを覚えて、今週も主に従う生活を歩もう。 (日本語説教は、サウスカロライナの銃撃事件により、当日礼拝の直前に、内容をかなり追加・削除した。下記英語訳は、追加・削除前のものであること、了承いただきたい。)   アーメン 安達均 “Why Are You Afraid? Do You Still Have No Faith?” Mark 4: 35-41 May the Grace and Peace of Jesus Christ be poured into the hearts of the people in this sanctuary! There are times, when we know this is God’s will and we act without hesitation. However, there are times when people around us may not agree it’s the correct action and we are unable to act decisively. For example, if I invite this person, I might be taken advantage of. Regardless, all are welcome to church, this is our calling. And consequently, all people are invited to welcome others to church, too. Let’s talk about the Gospel text. What did you learn about Jesus? Jesus is powerful; he calms you when you’re fearful. He even calms stormy weather. I believe we should focus on Mark’s intentions and the disciples’ feelings about what occurred. It is almost always helpful to read what was written before Scripture and after Scripture to better give context. Before the scripture, Chapter 4 is all about parables. Parables of the scattering seed, parable of the lamp, and mustard seed. At the end of Chapter 4, in today’s Gospel, Jesus began with the words, “Let’s cross to the other side of the lake.” What is on the other side of the lake? If you read Chapter 5, you will know what’s there. Jesus was heading not only…

Tweet マルコ 4: 26-34, 第二コリント 5:6-17   聖霊の力によって、キリストの愛が人々の心の中に染み渡るように! 「悟りの境地に達する」という言葉がある。 本来、仏教の言葉だと思う。 この言葉をどんな風に、捉えているだろうか?  仏像を見たことがあると思うが、いろいろなものがあるが、美術品として本当に美しいものもあるが、仏陀がとっている姿勢がまさに、悟りの境地に達している姿勢なのではないかと私は想像している。 では、仏教もキリスト教も宗教なのでから、イエス様だって、同じように悟りの境地に達していると思われるだろうか? そして、キリスト教徒として究めれば、キリスト教徒も悟りの境地に達するといえるのではないかと、世間では思われているかもしれない。 さて、みなさんの中には、キリスト教徒として、人生が長い方もおられる。 どうだろうか、自分は悟りの境地に達していると、思われる方いるだろうか?  与えられた福音書の言葉と、さらに、第二日課で与えられた言葉を通して、キリスト教徒も仏陀と同じように悟りの境地に達するようなことがあるのかどうか、考えてみたい。 福音書の中で、イエスが、「神の国のたとえ話」として、ちっぽけな種がとてつもなく大きな木になるという話をしている。 からし種のような小さな種でも、主の御力によって、とてつもなく大きな木へと成長し、さらには、その木の上に、鳥の巣さえ出来てしまうような木に成長するという話。これはあくまでたとえであり、実際に、イエス様がいわんとしていることは、種から大きな木が成長するということではない。  イエスがいわんとしていることは、先週の福音書箇所だったマルコ3章には、イエスは気が狂った人と、思われ、まるで価値の無い人間だとすら思われてしまったが、そのような状況を覆す必要をイエスは感じていたのではないだろうか?   気がくるっていて、社会的にはまるで価値が無いとされてしまうような存在、もっとさかのぼるなら、エルサレムの馬小屋で生まれたような小さな赤ちゃんから、実はとてつもないおおきな神の国に変わっていくということをイエスは述べたかったと考えてはどうだろうか。 彼の生き様自体に、とてつもない価値があることを人々に知らせる必要があったのだと思う。 そして、自分優先ではなく、神優先、神の栄光のために生きていこうとすることがどれだけ価値があることかをイエスは示したかったのではないだろうか。  そしてイエスの死と復活、昇天後も、そして現代もその神の国を形成していくのは、聖霊に導かれてキリストを信じるようになった者たち。 成長しつづける巨木の一本一本の枝を成す存在になっていくということが云えるのではないだろうか?  本日の第二日課、コリント信徒への手紙の二、5章17節には、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」という言葉があった。 その神の国を形成する人類、一人一人も、イエスとつながって、成長する木の枝となり、いつも恵みを受け続けて、常に新しくされるということがおこっているのだと思う。 さて、このように考えてきたところで、説教の最初の質問、「キリスト者が悟りの境地に達するか?」という質問にもどりたいと思う。 キリスト者が常に新しくされるというのは、一つの悟りかもしれない。 しかし、悟りに境地に達して、そこに留まるということではないのだと思う。 キリストの教会につながるという事は、私は5つのポイントがあることを述べてきている。 復習すると、1)聖書の御言葉を読む、2)主に祈る、3)礼拝を休まないようにして、礼拝でも、社会のためにも奉仕する。 4)家族、友人、知人を誘って御国の伝道に協力する。5)いただいている恵みに応答して、恵みの一部を捧げる。 キリスト者は、このような生活を営む中で、キリストの体である教会に遭遇する中で、さまざまな状況に遭遇し、そこに聖霊の働きがあって、さらに神を褒め称えたくなるような新たなる発見をするし、自分も新しくされていくという経験を繰り返す。 6月3日から8日まで、さと子と私は休暇をいただいた。とくに留守を守ってくださった皆さんに感謝したい。休暇をとってボストンを旅行するといってもやはり日曜朝はどこで礼拝を捧げるか、教会を探していた。 4日の朝、最初の候補だったハーバード大学近くにある、University Lutheran Churchに出向いた。 すると今年第二次世界大戦終了から70年にあたり、世界ではじめて原爆投下となってしまった日本時間8月6日午前8時16分、東海岸時間で8月5日午後7時16分に向けて、5月28日から、毎晩7時から7時16分まで、祈り会が持たれているという張り紙を見つけた。 私たちは、6月6日の夜の祈り会に参加した。参加者は私たちを含めてわずかに6名に過ぎないが、その小さな群れで祈る中で、広島や長崎で亡くなった方々の痛み、さらには十字架上のキリストの痛みにも感じた。しかし、アメリカの方々が広島、長崎の犠牲者も覚えて祈ってくださっていることへの感謝と同時に、神の御国にも通じるものを感じ、十字架に架けられ殺され、葬られても復活するイエスによる喜びさえ覚えた。 そして、喜びを覚えるだけではなく、聖霊の力とともに、この祈りの輪を広げる行動をしたいという気持ちでいっぱいになった。 小さな祈り会であったが、神の働きについて、新たな視点を得たように思う。  私たちキリスト者は、悟るということはあるのだと思う。 しかし、悟りの境地に達して、とどまっているということではない。 キリスト者としての生活を歩む中で、なにげなく見逃してしまいそうで、こんなもの何にもならない、と思われてしまいそうなちっぽけな種のようなもの中に、とてつもなく大きな神の御国を見る。 そして、聖霊の働きの中でおこる悟りに応じて、私たちは新しくされ、私たちは新たな可能性に向けて世に遣わされる。  アーメン 安達均 “Achieving a State of Perfect Enlightenment?” Mark 4: 26-34, 2 Corinthians 5:6-17 May the Holy Spirit be poured into the hearts of the people in this sanctuary! There is a phrase in Buddhism, in Japanese it’s “Satori no Kyochi ni tassuru,”which means “Achieving a state of perfect enlightenment.” I believe most of you have seen statutes of Buddha. Buddha is often depicted sitting calmly and many people see them as examples of serene beauty and I agree that some statutes are very beautiful. I think Buddha statues symbolize the state of perfect enlightenment. So do you think there’s a similar concept in Christianity? Do you think that Jesus Christ is like Buddha sitting calmly because he achieved a state of perfect enlightenment? Do you think that Christians can also achieve a state of perfect enlightenment? Since some of you lived as Christians for many years, what do you think? Do you think that you have achieved a state of perfect enlightenment or is it a process? Based on the Gospel text, Mark Chapter 4, together with the second reading, II Corinthians Chapter 5, let’s think about the image of Christians sitting very calmly while achieving a state of perfect enlightenment. In the Gospel, Jesus talks about a parable describing how even the smallest seed may become a very big plant. It represents the fact that something as great and…

Tweet 聖霊降臨後第2主日聖餐礼拝の説教は、今日の福音書、マルコ3章の20−30節より、カール先生がメッセージをくださいました。 “ Is Jesus Out of His Mind? “ 「イエスの気が狂った?」 Mark 3:20-30 マルコ福音書3章20−30節 2015年6月7日聖霊降臨後第2主日聖餐礼拝説教 E. Carl Zimmermann 牧師   イエスは、彼が行った多くの奇跡や、語ったお話しで、大変な人気を集めた。 しかし、彼の家族はイエスの気が変になったと思った。 そして、宗教指導者たちは、イエスの事を、執拗に人々を騒がせている困った奴だと思っていた。 彼らにとってイエスは脅威であった。なぜなら自分たちユダヤ人の伝統や風習、信じて行っている事柄を否定されていると思ったからである。 更に、彼らの中にはイエスの人望やカリスマ性を快く思わない者もいた。 宗教指導者たち(律法学者)にとって、あまりにも不愉快であったので、彼らはイエスに対して不信をいだき、イエスが宣教開始直後から、イエスを無き者にしようと陰謀を企んだ。 律法学者たちは、イエスがサタンに取り憑かれているか、またはサタンの手下だと思った。 ある訳によれば、“サタン(魔王)”は“Beelzebub(ベルゼル)”と呼ばれ、それは“Lord of the Flies(蠅の王)”という意味だ。 ベルゼブルは古代フェニキア人の異教の神だった。 彼は死と汚物の神だった。彼は常に人間の汚物に関わっていたので、“蠅の神”という名がつけられたのだろう。 イエスの伝道の最初から、ベルゼブルはキリストの最大の敵だった。 そして暗黒の世の中では、ベルゼブルは凄まじく威力のある存在だった。 彼は、憎しみや狭い心、怒りや嫉妬によって人々の生活を惨めにしていた。 ベルゼブルはさらに全力で、イエスと神を冒涜した。 彼は悪行高い、偽りに満ちた醜い神だった。彼の使命は人々の人生を台無しにし、心痛と悲しみをもたらすことだった。 それに対してイエスの使命はどうだっただろう: 「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に 解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、..」 (ルカ4:18) イエスとベルゼブルの違いが一目で解るだろう。一人は死をもたらし、他の一人は命をもたらす。 サタンは私たちを傷つけようとする; イエスは私たちを常に癒してくださる。 悪魔は偽る;イエスは真実のみを語る。 ベルゼブルは私たちを惑わす;イエスは私たちをより優れた者へと導く。 悪者は私たちを失望させる;イエスは私たちにエネルギーを与える。 そして彼らの違いの最終的決定打はこれだ: ベルゼブルの力は一時的なもの;イエスの力は永遠に在るもの! イエスが十字架を克服した時、サタンも克服したのだ。 聖パウロは、私たちがこのことを常に心に止めているようにと、コリントの信徒への手紙にこのように書いている。 『「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。私たちの主イエスキリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう。』 私たちの死を乗り越えた勝利は、サタンからのものではなく、イエスの十字架の勝利によるものであることに注目したい。 確かに、現在の世の中にも悪魔の働きは続いている。キリストの十字架によって傷ついてはいるが、彼は戦い続け私たちの人生に影響を与え続ける。 私たちは、ひたすら彼の悪行に立ち向かわなければならない。しかし、キリストが再び来られる時、サタンは完全に征服され、永久に消滅される。 その日がくるまで、私たちはイエスに従おう。 彼は決して気が狂ったのではない。 彼は決して自分を失ったのでもない。 彼は決して悪霊に取り憑かれたのではない。 そうではなくて、 彼は神の独り子である。 彼は主の主、彼は王の中の王 彼は私たちの羊飼い、リーダー、先生、友、そして私たちをいつも導いてくれる方。 彼こそが、道であり、真理であり、生命である、その事が何よりも大切な事実なのである。     要約: 芙美Liang       Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet ヨハネ3:1-17 三位一体なる主の恵みと平安が人々の心に豊かに浸み込むように! 今日は、スクリーンに現われた絵を見て欲しい。 何に見えるだろうか? 「あひる」に見える方? うさぎに見える方?  このような絵を見た経験はあると思う。 見方によってはあひるだし、見方よってはうさぎ。 これは、あひるの頭が50%描かれているのではなく、うさぎの頭が50%描かれているわけではない。 あえていうなら、あひるの頭が100%描かれているし、うさぎの頭が100%描かれている。 三位一体主日に与えられた福音書の最後には、ヨハネ3:16、:「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という有名な箇所が出てくる。 よく車のステッカーに、「John3:16」と貼ってあるのを見ることもある。 ヨハネ3:16だけを読んでも、聖書の結論ともいえる、「主われを愛す」がよく現われている。しかし、なぜこの言葉が三位一体主日に読まれているのだろうか。  この言葉がイエスが語られた背景をもうすこし注意深く読むことによって、イエスキリストがどういう方であるかがわかってくるように思う。  ヨハネ3章は、「イエスが神のもとから来た”教師”である」ことはわかるというファリサイ人の議員ニコデモが、イエスの元にきて、イエスと会話をしている。 イエスは「はっきりいっておく」という重要なことを語るぞ、という前置きのあと、「人はあらたに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と話す。 そこで、ニコデモは「この世に一度生まれたものが、母親の胎内に入ってあらたに生まれるなんていうことができるのか?」と質問し、イエスの話す意味はわからずにいる。 そこで、イエスは、二回目の、「はっきりいっておく」という言葉を述べたあと、「だれでも水と霊をもって、新たに生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と語る。 それでも「どうしてそんなことがありえるのか」と質問するニコデモに、3回目の「はっきりいっておく」という言葉を述べて、神がこの世のすべての人々を愛しており、神から送られた自分自身が十字架にかかり、捧げ物となることを示唆する。 そして、この自分が神から送られた超本人であり、十字架にかかる自分を信じる世界中の人々が、一人も滅びることなく永遠の命を得られるように、している。 現代、イエスは神なる救い主としてみるより、イエスは人間の一人にしか過ぎないと見る人々が増えている。 とくに現代は、イエスは「神が送った預言者の一人に過ぎない」、あるいは、「教師」に過ぎないというイスラム教勢力が圧倒的に伸びている現実がある。 イエスは過去の教師では終わっておらず、また過去に生きたただの預言者ではないのだが。。。  数十年後には、イスラム教徒はキリスト教徒を上回るともいわれる。 このような状況の中で、今日あたえられているヨハネ3章のイエスの言葉は、現代の世界中のキリスト教徒にも、また世界中の「イエスは預言者」あるいはただの人間の教師だったとする人々に、「もう一度、真剣にイエスのことを見るように」と言われているようだ。 現代を生きる、キリスト教徒にもイスラム教徒々に対しても、イエスをどう見るかによって人生が大きく変わりますよ、といわれているように感じる。 神の一人子が、十字架にかかって葬られたが、復活した、そして聖霊としてこの世に存在されている。そのイエスをもう一度、見上げるようにと言われているように思える。 私自身の反省もあるが、今までの三位一体主日に「三位一体」は、むずかしいから、説教では、三位一体の話を置き去りにしてしまう傾向があったことはいなめない。 だからこそ、今日の箇所から三位一体について、話すように聖霊が働き、今日の礼拝で私たちは三位一体なるお方に少しでも近づくように導かれている。 一昨年の修養会で私は、神を太陽に例える話をした。とくに打ち合わせをしたわけではなかったが、昨年の修養会でキム先生も、話されたことで、少々復習したい。 三位一体を簡単に話すなら、父なる神は、地球から遠くに存在している太陽みたいなもの。 地球から遠いといっても、しっかりと、光となって、太陽光は地球に届いている。 その太陽光がイエスキリスト。 神から放たれて地球に生まれたイエス様である。 そして、その光はこの地球上を覆っていて、熱となって、暖かくしてくださっている。 その熱こそ聖なる霊。聖なる霊が地球を覆うという状況は、イザヤの預言で、聖なる万軍の主、主の栄光がこの地を覆うという状況とも似ている。 太陽、光、熱はわたしたちがまさに見ることもでき感じることもできるもの。 そこに、父、子、聖霊なる三位一体なる主を見出すことができるのではないだろうか。  太陽は太陽ひとつで100%の太陽。 しかし、太陽から光となって100パーセントの光にもなるし、それが熱として存在するとき、100%熱だ。 33%が太陽で、光が33パーセントで、33%が熱ではない。同じように、イエス様は100%神であり、100%人間であり、100%聖霊で、300パーセントなる御方ともいえるのではないだろうか。このような三位一体なるお方について、私たちは世の人々とシェアするように導かれているのではないだろうか。よ人類がイエスをどう見るかによって、私たちの世界は大きく変わるのだと思う。アーメン 安達均 “Your Life Depends on How You Look at Things” John 3:1-17 May the Lord, Holy Trinity, pour the grace and peace into hearts of the people in this world! Please look at the screen. What is pictured? Do you see a rabbit’s head or do you see a duck’s head? Many of you are probably familiar with this type of image. You can see the duck’s head and the rabbit’s head at the same time. This drawing is not 50% a duck’s head and not 50% a rabbit’s head. Both heads are perceived 100% respectively. The Gospel text today includes John 3:16. It reads, “For God so loved the world that he gave his only Son, so that everyone who believes in him may not perish but may have eternal life.” This is one of most famous verses in the Bible. Many of you have seen “John 3:16” stickers on cars. The reason the verse is so popular is that a central tenet of the Bible is expressed in it: God so loves the world. God loves each one of us. However, why was this text chosen for the Holy Trinity text? I believe that understanding the contextual background of John 3:16’s text leads us to a better understanding of who Jesus is. In other words, reading the verses before 3:16 helps us better understand Jesus’ character. Chapter 3 begins with the description of…

Tweet ヨハネ 15:26-27, 16:4-15 主の慈しみ深い愛が、集まった会衆の上に豊かに注がれますように! 復活節をどのように過ごされただろうか? 4月5日がイースターだった。 多くの方々がこの礼拝堂に集まり、またイースターの祝会をしたのを覚えているだろうか?  それからまるまる7週間が過ぎ、今日で復活節は終わり、今、聖霊降臨を祝う時。 それぞれ、どんな気持ちでこの礼拝の時を迎えられただろうか?  いろいろな方々がいると思う。 家族も自分も健康良好、経済的にも今は安定している、良いイースターを経験したと振り返る方もいると思う。あるいは、自分は病気になる、あるいは事故にあった、怪我をした、あるいは家族がピンチに追い込まれている等々の状況にある方もおられると思う。 は「神も仏も無い。」という本が結構、日本で売れているようだ。 自分の人生まっさかさま、「神も仏も無い」といいたくなってしまう感覚はわからないでもないが、本当に「神はいないのだろうか。」  聖霊降臨日にあたって、さきほど使徒言行録2章を読んだ。 聖霊降臨の場面だ。 聖霊降臨というできごとが起きる前、弟子たちはどんな気持ちだったのだろうか。 それこそ、イエスの十字架の死は大ショックだった。 しかし、イエスは復活して、40日間、弟子たちに顕われてくださって、弟子たちを赦しかろうじて弟子たちの気持ちはつながっていた。 復活後40日目には、天に上っていってしまって、またリーダーがいなくなってしまうわけで、途方にくれるような状況になりかねなかった。 ただ、イエスは昇天前には「あなたがたの上に聖霊が下ると、あなた方は力を受ける。そして、地の果てに到るまで、わたしの証人となる。」 証人とは、イエスが神であるという証人になるという意味でとらえてよいと思う。  そして、今日使徒言行録2章で読んだように、聖霊降臨が起こり、信じられないようなことが起こる。異なる言語を話せるようになって、違う地域から集まってきた人々が通じ合えるようなことがおこる。 しかし、この聖霊が降りてきた事で、弟子たちはさらにどういう働きをするようになるのだろか?実際問題、彼らも迫害にあってたいへんなことになってしまう。 しかし 神の言葉に頼って、教会ができて、喜びををもって主イエスの福音を伝えることができた。そもそも聖霊って何者なのだろうか?   この聖霊が弟子たちにどう働くかを、より深く考える上では、イエスが十字架に架かる前に、語っていたことを振り返る必要があるのだと思う。 与えられたヨハネ福音書。 聖木曜日の晩にイエスは長い説教と祈りの言葉を述べる中で、弟子たちに聖霊が送られる約束をのべている。 さきほど読んだが、その中で、イエスは、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」 となっていたが、ギリシャ語から直訳するなら、「聖霊があなたがたを真理そのものに導く」と考えることができる。 ただ、イエスは聖霊という言葉は使わずに、「真理の霊」という言葉で聖霊のことを語っていたのは、とても重要。  真理の霊っていったいなんだろうか? 霊はよくいわれることだが、ヘブライ語やギリシャ語では、空気の流れ、風、息。 ただ、日本語で「真理」という言葉、英語だったら、”Truth”だが、イエスが伝えたかった言葉と同じ意味でわたしたちが理解できるか、ちょっと難しいものがあるのだと思う。  ヘブライ語では、「エメト」という言葉が使われていて、私たちは「アーメン」という言葉をよく使っているが、その意味は「その通り確かなことです。」という意味。 エメトとアーメンはもともと同じ言葉だそうで、エメトは確かに頼ることができるという意味。このような語源から考えてきて、真理の霊とは、本当に確かで本質なる神の息吹という意味。   お葬式などで読まれる有名な聖書箇所、ヨハネ14章6節には、イエス自身が、「私は道であり真理であり、命である。」といわれている。 真理とはイエスであるといえる。 イエスの語られていた、真理の霊があなたがたを真理を悟らせる、真理に導くというのは、聖霊によって、イエスの弟子たちが、イエスご自身に近づけるということ。 この地球にいるイエスの弟子たち、クリスチャンに、今も主なる神は、本当に頼ることのできる確かな神の息吹を送ってくださっている。 そして、その息吹は、イエスの弟子たちを、今日も真理なるイエスに近づけてくださっている。 イエスは徹底的に自分を低くし、自分を空にして、すべてを父なる神に捧げられた。そのようなイエスに、好むと好まざるに関係なく、近づいている。 復活節の過去、7週間、どんなだったかということを振り返る時、この世的には、いろいろたいへんなことがおこったということがあるかもしれない。 しかし、そのような中で、聖霊は確かに、一人一人に働いており、私たちを真理なるお方へと近づけている。 そこには、どんな苦しいことがあっても、真理なるたしかに頼ることができるものがそこにあり、喜び、希望を抱ける。 決してその苦しみが無駄になるわけではなく、すべてが良きにされる時がくる。 今日からは聖霊降臨後の季節が続く。11月の終わりまで、約6ヶ月もの間。 さらに次の6ヶ月を思うと、いろいろ不安を抱く方も多いと思う。 しかし、どんなことがあろうが、聖霊の力を信じているだけで、それで十分なのである。 主イエスの愛をいっぱいに受けて、聖霊の力により、主を愛し、隣人を愛する人に創られて、本当の喜びあふれる人生を歩んでいこう。  聖霊の働きにより、イエスの喜びと愛が集まった会衆の心の中にゆたかに注がれますように!アーメン 安達均 What is the Spirit of Truth? John 15:26-27, 16:4-15 May the Gracious Love of our Lord be poured into the people in this sanctuary! How was your Easter season? Do many of you, that attended Easter Sunday worship and luncheon, still remember what the sanctuary looked like? And how have you been since then? 7 weeks have passed since Easter and today we are celebrating Pentecost. How do you feel today, when reflecting upon the last 7 weeks? Each situation is different. Some might be very thankful for their good health and financial stability, and feel that it was a good Easter season. But I am sure there are people who became sick, had accidents, were injured, or are facing financial difficulties. If you’re included in the later group, your Easter didn’t go as well as hoped. In Japan, there is a book called “Kami mo Hotoke mo Nai” which means there is no God and no Buddha. Even though I am a pastor, I understand that we, as human beings, sometimes want to say these words. On this Pentecost Sunday, we read Acts Chapter 2. The scene in which the Holy Spirit came down like doves came down as tongues of fire, and came down as strong wind. However, let’s reflect upon how the disciples were feeling before Pentecost. Right before Easter, they could not prevent Jesus’ crucifixion and they were…

Tweet ヨハネ17:6-19 聖霊の働きにより、イエスの喜びと愛が集まった会衆の心の中にゆたかに注がれますように! 洗礼を受けて、クリスチャンになるということは、天国に行く列車の切符を手にすることなんです。 という方がいる。そのような比喩は、たしかにそういう面はあると思う。しかし、二点ほど付け加えないと思うことがある。 第一点は、洗濯してなくなったりしないように、切符は紙ではできていないこと。洗礼をうけ、聖なるものとされ、キリストの十字架のしるしを受けることそのものが、切符である。   第二点目は、これから説教でお話することすべてが第二点目ということになってくる。 洗礼を受けた者は、ただ列車に乗って何もせずに天国に行くわけではない。じゃ、どんな列車なのだろうか?  1970年代、私はまだ日本で中学生だったが、日本でも大ヒットしたディスコでよくかかった The O’ Jaysというソウル3人組が歌ったLove Train という曲があるが、最初の1分程度だけでもそれをちょっと見ていただけたらと思う。 踊りたくなってしまうかもしらないが、どうぞおけがのないように。 今ご覧いただいたビデオに出ていた、列車が走っているイメージと子供たちのイメージがオーバーラップしていたのが、とても面白いと思った。 そして、この説教がどういう方向に話が展開するのか、もうわかってしまった方もいるかもしれないが、この列車のことはまた説教の後半で話したい。そして、与えられた福音書の内容に入っていきたい。ヨハネ17章はイエスの長い祈りで、苦しみを受ける前日の晩、弟子の一人に裏切られ、他の弟子たちからも見放される前に、弟子たちのために祈った祈り。その祈りは確実に聞かれ、当時の弟子たちにとっては現実のものとなり、現在の弟子たちにも現実になりつづけている。 イエスの17章の祈りには、6点もしくはそれ以上の要点があると思う。 しかし、私は、11節から16節の中のポイント、3点だけにしぼって、お話ししたい。 その第一番目のポイントは、イエスが十字架刑に架かる前に、弟子たちが、守られるようにとにかく祈ったところ。そしてすべての弟子たちが神とともにひとつになるようにと祈られたこと。  ヨハネ福音書は90年代に記載されたというのが世界中の一般的な見方だが、当時すでにキリスト教徒たちはたいへんな迫害にあっていた。そのような時代背景の中で、福音書記者ヨハネは、イエスが激しく祈られたことを強調しているようにも見える。イエスの祈りはすさまじい。たとえ、弟子たちが迫害され殺されてしまうようなことがあったとしても、イエス自身が父なる神によって守られ父なる神と一体で、永遠の命を得ていたように、弟子たちも一体となり、神から守られ永遠の命にあることを祈られたのだと思う。 第二番目のポイントは、弟子たちがイエスの喜びで満たされるようにと祈っている。その喜びとは、たとえ翌日十字架刑にかかろうが、イエスに喜びが満ちていること。それは、新幹線でグリーン車の切符を手にするような喜びとは全く種類の異なる喜び。 イエスが父なる神と一体で、父から喜びを与えられているように、弟子たちも一体で同じ喜びで満たされるように祈っている。そして、弟子たちとは、当時イエスといっしょにいた弟子たちだけではなく、後の弟子たちをも含めて、つまり私たちも含めて、喜びで満たされるようイエスは祈ってくださった。  最後のポイントは、世に遣わされる弟子たちを聖なるものとしてくださいと祈られたこと。イエスは翌日には、十字架にかかる、そして3日後には、復活して40日間は弟子たちの間に姿を現されたが、復活後40日目、天に昇っていかれる。そのように、父なる神と一体なる聖なるイエスは、この世にいなくなる。しかし、その聖なるイエスが存在し続けるがごとくに、弟子たちも、聖なるものとしてくださるように、そして世に派遣されるように祈られた。派遣されるということは、隣人たちへ仕えるようにと祈られた。  さて、キリスト教徒、イエスの弟子になるとはどういう意味か今一度振り返りたい。洗礼を受けて、聖なるものとなり、国籍は天にあるものとされる。それは、天国行きの切符が保証されるともいえる。かといって、なにもせずに天国に行けるということではない。 イエスが当時の弟子たちにまた将来の弟子たちに祈られたように、私たちは皆、世に遣わされ、人々に仕える僕とされていく。  この列車の比喩は、受動的な列車ではなく、むしろ積極的な列車である。 キリスト教徒たちは、列車に乗っているというより、むしろ列車そのものがキリスト教徒たちというべきなのだと思う。 この列車の比喩は、マルティンルターの馬車の比喩を思い出される。ルターいわく、あなたがたは、キリスト者の生活は馬に引かれたワゴンにのって、その馬を操るようなものだと思っているかもしれない。 しかし、実際は、キリストが馬を操り、私たちは馬だと。神が方向性を定め、私たちが、愛をもって、自分を捨てて人に尽くすように仕向けている。 私はCCN、カウンセルのミーティングに出たり、また、最近ではストラテジックプランにMeaningful Program and Ministry の会議にも出たりしているが、教会のため、世のため人のために尽くしている方々を見るにつけ、どれほど私も喜びで満たされるか。また今、この毎週の礼拝そのものが、神の喜びと愛で満たされイエスが私たち一人一人に仕えてくださっているように、私たちが礼拝に出ていること事態が、人々に仕えあっていることを示している。  これはイスラエルからしてみれば、地の果てとも思えるようなハンティントンビーチで、また世界中の各地で、おこっている。それはもともと2000年前に、弟子たちが守られ、喜びで満たされ、聖なるものとされ、人々に仕える者となって世に派遣されるようにと、イエスが祈られたことが、現実のものとなっている。このように聖霊が、私たちを世の人々のために仕える者となるようにしてくださっている。  May We Live for Others John 17: 11-19 May the Holy Spirit, Joy, and Love come to the hearts of the people gathered in this sanctuary! There are people who say, “To be a Christian is something like getting a train ticket to heaven.” It might be true, but I would like to add two more things to that metaphor. Number 1: That ticket isn’t made of paper so you cannot lose it by putting it in the washing machine. The ticket is like an e-ticket, being baptized, sanctified, and marked with the cross of Jesus Christ is the ticket, so you do not need to show your driver’s license or passport to claim it. The second point I would like to talk about is actually the content of the rest of my sermon. These people, baptized people marked with the cross of Jesus Christ, are not just boarding a train that goes to heaven. So what kind of train are we talking about? In the early 1970s, during my middle school years, there was a great hit song called “Love Train,” sung by R&B group The O’ Jays. I would like to show a little bit of a YouTube video for that song. Some people might want to dance, please feel free to do so in your seat. HERE: SHOW THE YOUTUBE VIDEO I think the images we…

Tweet ヨハネ 15:9-17 主の恵みと平安が豊かに注がれますように! 2011年に日本で大人気番組となった「まるものおきて」というドラマがある。アメリカでもここ数ヶ月にわたって放送されていた。  若い夫婦に、男女の双子が生まれるが、あまりの育児のたいへんさに、母親は精神が病み、育児ができなくなってしまう。父親はシングルファーザーとして、双子を育て始めるが、がんになり、急逝してしまう。 父親の学生野球部時代の親友、護がシングルファーザーとなることを決意し、双子を引き取る。もちろん、たいへんなことだった。護は、血のつながっていない子供たちに、俺たちは家族だと説き、子供たちは、なぜか護を「まるも」と呼ぶようになる。 毎回のドラマでは、護が二人の子供との間で「まるもの掟ノート」を作り、多難な中にも、喜びあふれる家族生活が描かれる。毎週のドラマの中で、掟が一つづつ、綴られる。ある回では護と娘の関係が悪くなり、話もしなくなってしまうようなことが起こる。しかし、護は、「好きでも嫌いでも家族」という掟を作る。  さて、まるもの掟の話は、今日の説教の最後にまた話すとして、与えられた福音書、イエスの掟の話に入る。イエスは、「互いに愛し合いなさい。これは私の掟」と今日の福音書箇所の中盤で述べ、最後は「互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」と言う。  命令とまで言われてしまうと、「愛する」ということは、命令されて、「愛する」ことなのだろうか? と疑問を持つこともいるかもしれない。あるいは、「互いに愛するように」ということは、相手も自分を愛するし、自分も相手を愛すること。となると、相手が愛してくれているかどうかわからない、いやむしろ私のことを嫌っているのに、「互いに」と言われても、困りますという方もいるのではないだろうか?   このように考えると、イエスの言われた掟や命令は、すんなり受け取ることができずに、むしろ質問をしたくなるという方が居ると思う。これらの質問を考えるにあたって、与えられた福音書箇所の中では、イエスが「わたしがあなたがたを愛してきたように」という言葉を繰り返し述べた上で、この「互いに愛し合いなさい」という掟を述べられていることに注目したい。 イエスが弟子たちを愛する愛し方はすごいのだ。今日の福音書箇所は、明日十字架にかかるという前の晩、つまり聖木曜日に語った言葉。そして、その後には、一人の弟子たちからは裏切られ、ほかの弟子たちからも見放されて十字架にて死に葬られる。 しかし、父なる神は、徹底的に愛する子イエスを墓からよみがえらせ、子イエスは、そんなにひどいことがあったのに、友なる弟子たちの前に現われ、いっさい咎めることなく、「あなたがたに平和があるように」といって、弟子たちを赦される。 この十字架の死と復活を通して示されたイエスの弟子たちへの愛は、たとえ弟子たちが、人間としては欠けることの多い者たちであろうが、無条件に愛してくださる本当に慈しみ深い愛だ。その愛が示されたことは、互いに愛し合いなさいとは、命令というより、キリスト者同志がおのずと互いに愛さざるを得なくなるような、不思議な働きかけに思えてくる。  また、キリスト者同志が互いに愛し合うように導かれているのはもちろんだが、キリスト者を嫌う方、避ける方、無関心な方、あるいは極端な話、非難し攻撃する方もいるのが現実だ。イエスはヨハネ福音書の13章の中でも、「互いに愛し合いなさい。」ということを述べているが、その35節では、「互いに愛し合うならば、あなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」という言葉があった。 そこには、互いに愛しあうキリスト者の存在が、最初は12人しかいなかった弟子たちが、全人類に対して、「互いに愛し合う」存在になっていく働きかけがあるように思う。 それは、わたしたちの力ではない、わたしたちの想像もつかないような、聖霊の働きかけが、ただよっているように思う。  今日のポイントは、まず、神が、そして子なるイエスが、弟子失格とも思われてもしかたがないような弟子たちをも、愛してくださっていることをわかること。 そして、その愛が、現代のキリスト者にも、脈々とつながっていることを感じることが大切なのだと思う。 そして、互いに愛し合うという行為は、キリスト者同志という枠を超えて、互いに欠けの多い家族の間でも、また、いがみ合ってしまうことの多い国々や人種や文化を超えて、互いに愛し合うということに導いているのではないだろうか。 「まもるの掟」に出てきた、護が書いた「好きでも嫌いでも家族」という掟、たしかにそうなのだと思う。 それは、まもると双子の子供たちの家族という単位で、その掟はかかれたが、実はもっともっと大きな、神が創造された地球という単位で、そこに存在する自然、資源、食料を共有する地球単位の家族の意味にもとらえることができる。 今日は母の日で、最初スーッと通りすぎてしまったが、まるもの掟のドラマでは、双子を生んだが子育てができなくなってしまった母親がドラマには登場していた。 私は、母の日を迎えるたびに、どうしても、このドラマにちょっとだけ登場するような子どもを生んだが、子育てができない。 あるいは、子供が欲しくても、さまざまな事情で生むことができていない女性のことも覚える。 どんな境遇にあろうが、そのまっただなかに、イエスがおられ、よりそってくださっている、そして、イエスが愛してくださっている。今日の母の日は、決して子供のいる母ばかりではなく、全女性に対する神からの愛・赦しがあり、また互いに愛するようにという励ましがある。 ちなみに教会で花を用意させていただいた。赤いチューリップの花言葉は、愛の告白であり真理の愛、またトルコキキョウは、優美、希望、感謝などがあるという。赤いチューリップと紫トルコキキョウを受け取っていただき、赤は、主イエスから私たち人間への熱烈な無条件の愛を覚え、紫のトルコキキョウからは、人々からの感謝・愛が注がれていることをしっかり覚えていただければ思う。 アーメン 安達均  “We Are Family Together Whether You Like It or Not” John 15:9-17 May the Grace and Peace of Jesus Christ be poured into your hearts! There is a Japanese TV drama called “Marumo No Okite” meaning “Marumo’s Law” which became very popular in 2011. Since this was broadcast in the US recently, you might have seen it. Twin babies were born to a young couple. However, the mother became emotionally unstable and could not continue raising the babies and left the family. Her spouse became a single father and tried very hard to raise the children, but, he was diagnosed with terminal cancer and suddenly passed away. Then his best friend and teammate from their college baseball team, “Mamoru” decided to be their adoptive father and gained custody of the twins. Of course this was not an easy thing to do. Mamoru taught them that they are family even though he was not their biological father. The children, Kaoru and Yuki, called Mamoru “Marumo” because they couldn’t pronounce his name. They started their sometimes rocky but ultimately loving, unique family life together. The program was a weekly drama and every week, Mamoru wrote one law in his notebook named “Marumo No Okite.” One of the laws in an episode was “We Are Family Together Whether You Like It or Not.” I will get back to Marumo’s Law at the end of this…